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オーストロ・マルクス主義と
オットー・バウアーの経済学
柴 田 信 也
1 オーストロ・マルクス主ee Austromarxismusにたいする根強い知的関心の 存続は何に依るのであろうか6オーストロ・マルクス主義という呼称あるいは 概念が生成してすでに一世紀が経過しようとしている今日なお,これをめぐる 研究成果が相次ぎ跡を絶たない。改めて言うまでもなく,austro一とは,① Austrianが他の語と接続する時の形であり,②australまたはAustralianの 場合にも同様に用いられる。ここでは勿論①の意味に限定されるが,マルクス ないしはマルクス主義との因縁浅からぬ国々の中で,ひとりオーストリアだけ がマルクス(主義)と結びついたAustromarxismusなる独自のカテゴリーを成 立せしめ,これが世界的に流布するに至ったのは,たしかに異例なことである 言わざるをえない。しかもこの場合,オーストリアとマルクス(主義)とを結 1) 合させている契機が何であるのかは決して最初から自明なわけではない。 そもそもオーストロ・マルクス主義という言葉でさしあたり何を,あるいは それを代表する者として誰を想起すればいいのであろうか。だが,すでにここ で道は分岐する。例えば,米国のFriends of Austrian Labor, inc.が,1948年 から49年にかけて,ニューヨークで「オーストロ・マルクス主義一その歴史 的意義とその代表者たち一」なる連続講演会を開催している。その時のパン フレットによると,「その代表者たち」としては,以下のような人々が列記され 1) Alfred Pfabigan “Die austromarxistische Denkweise”, in : Raimund L6w, Siegfried Mattl, Alfred Pfabigan “Der Austromartismus/Eine Autopsie”, isp−Verlag, Frankfurt / M, 1986, S. 10246 荒木廼夫教授退官記念論文集(第300号) ている。1.Otto Bauer,2. Rudolf Hilferding,3. Friedrich Adler,4. Karl Kautsky, 5. Karl Renner, 6. Max Adler, 7. Gustav Eckstein 主催者名でこの講演会のパンフレットに付され解説文によると,「この7人, すなわち一流の科学者,政治家,自然および社会研究者,文筆家,能弁家,教 師たちは,オーストロ・マルクス主義として知られ,また今日に至るまでオー ストリアの労働運動のもつ政治的力,実際的政策および思想的声望に寄与して 2) きている,かの方針を共に創り上げてきた人たちである。」 ここには個々人としてはそれぞれに名の通った人物が勢揃いしているが,さ てかれらを共通に括っているものは何かを改めて問い直してみると,この解説 文にはどこかで釈然としない思いが残るのである。経済学の分野に限定して言 えば,ここで直ちに生ずる素朴な疑問は,カウツキーとヒルファーディングが, とりわけ前者がオーストロ・マルクス主義の代表者とされていることの当否で ある。カウツキーは,1854年プラハに生まれ,ウィーン大学に学び,1875年か らは社会民主党の活動にも携わったものの,オーストリアの社会主義・労働運 3> 動の現状には当初から物足りなさを感じていたのである。80年代,かれは,チ ューりッヒ,ウィーン,ロンドンの間を遣話しつつ,1890年以降はドイツに渡 っている。かれがウィーンに戻るのは1924年,すでに古希を迎えた国際的なマ ルクス主義の長老としてであり,爾後第一線から身を引いて,1938年にナチス の手を逃れてアムステルダムへの亡命を余儀なくされるまでは,執筆を中心と した静かな余生を送っていたのである。またヒルファーデ4ングは,1877年に ウ/一一ンに生まれ,ウ4一ン大学で医学を学びつつ,カール・レンナーやマッ クス・アードラーと共に社会主義的学生運動に加わったとはいえ,つとにドイ ツ社会民主党(SPD)との関わりが深く,1907年にはドイツに移住,そこを 主要な活動の場にしたことは周知に属する。 2)Die Wiener Stadt−und Landesbibliothek所蔵パンフレット。 3) Brief Kautskys an Engels vom 6. Sept. 1882 ; Grary P. Steenson ”Karl Kautsfey 1584 T1938 Mantsm in the Classical Years”, University of Pittsburgh Press, 1978, pp. 35T 42等参照。
オーストロ・マルクス主義とオットー・バウアーの経済学 47 つまり,SPDの理論家,活動家としてより活躍の目ざましかったこの両者 に,敢えてオーストロ・マルクス主義者の代表者という名称を冠する理由は, かれらがハプスブルグ帝国に生まれ育ち,その首都の大学で学び,30才前後に 祖国を離れるまではオーストリアの労働運動に関与したことが,その後の同運 動の発展に寄与した,という趣旨であろうか。端的に言えば,かれらの出自の 地理的条件が規定的なのだろうか。 だが,仮にそうだとすると,ハイソフェルト大会を指導し,穏健派と急進派 とに分裂していた社会民主(労働)党を統一し,その後の同党の基礎を据えた 立て役者,ヴィクトール・アードラーViktor(Victor)Adlerこそ「かの方針を 共に創り上げてきた人たち」に加えられて然るべきであろう。かれはカウツキ ーとほぼ同世代で,同じプラハの生まれではあるが,その生涯の殆ど全てをウ ィーンにあって労働運動と党活動に捧げ人物として知られる。理論的というよ りはむしろ実践的関心に傾斜していたかれの「マルクス主義」的要素について は,たしかに問題を残すが,少なくとも労働運動に関わるヴィクトール・アー ドラーの「オーストリア的」要素の濃度はカウツキーの比ではない。 そこで特殊オーストリア的なるものに光を当てようとするならば,オースト ロ・マルクス主義の代表者の群像も趣を異にすることになろう。例えば,W. M. Johnstonが列挙する代表的「オーストロ・マルクス主i義者」とは,ヴィクトー ル・アードラー,オットー・バウアー,カール・レンナーおよびマックス・ア ードラーの4人である。ただし,そこでのヴィクトール・アードラーの扱い方 は,正当にも,他の3人の本来的オーストロ・マルクス主義者と一応区別され, むしろかれらを輩出せしめた諸条件を整備した先達としての位置付けを与えて 4) いる。これは,先に触れたハイソフェルト大会が1888/9年,エンゲルス編『資 本論』第三部の出版が1894年であること等を想起すれば,かれがマルクス主義 者と呼ばれるには世代的に見てもやはり無理があるだろうからである。とはい 4) William M. Johnston “The Austn’an Mind An lntellectual and Social History 1848 −1938”,The Regents of the University of CaIifornia,1972;『ウィーン精神』井上修一, 岩切正介,林部圭一訳,みすず書房,1986年,第一部第6章参照。
48 荒木僧階教授退官記念論文集(第300号) え,ヴィクトール・アードラーは最晩年のエンゲルスが最も繁く手紙を書いた 相手の一人であり,1889年末から95年の死の直前まで,アードラーに宛てた手 紙は27通にも達している。 ところで,そのオーストロ・マルクシズムの中心人物と誰もが認めるオット ー・バウアーは,追悼文「マックス・アードラー」論の中で,有名な次の一節 を書き残している。 「当時ウィーンの社会主義的学生運動の中から,若いマルクス主義学派が 生まれたが,その最も卓越した代表者は90年代末においてはMax Adler, Karl RennerそれにRudolf Hilferdingであった。彼らに少し遅れてGustav Eckstein, Friedrich Adlerそれに私がその仲間に加わった。この若いマルク ス主義学派は,アカデミックな土壌の上に,かの年代のアカデミックな世界 の諸思潮との議論の中から生まれたものだったので,Kautsky, Mehring, Lafargue, Plechanowといった年とったマルクス主義者世代よりももっと 時代の諸思潮に近かったのである。アメリカ人マルクス主義者Boudinは,こ の若いウィーンのマルクス主義者の学派を最:初に『オーストロ・マルクス主 義者たち』と呼んだのだった。言うまでもなく後に戦争と革命が当時の『オ ーストロ・マルクス主義』学派という知的共同体を吹き飛ばしてしまったの ではあるが。1914年および1918年以来RennerとHilferdingはMax Adler 5) とは別の途を歩んだ。」 このバウアーの見解は,オーストロ・マルクス主義の枠組みを設定する場合 の,一つの古典的基準となっている。例えば,オーストリアにおける労働運動 史の専門家Wolfgang Maderthanerは,ごく最近の著作においても,このバウ アー説をほぼ文字通りに踏襲しているのであるが,ただVictor Adler, Enge1− bert Pernerstorfer, Wilhelm Ellenbogenをオーストv・マルクス主義の創設 6)
期世代,Max Adler以下をその第二世代とみなしている。冒頭に掲げた
5) Otto Bauer“Mtzx Adler Ein Beitrag zur Geschichte des ‘A ustromaixismus”: in : “Der KamPf’, vierter Jahrgang, Nummer 8, 1937 6) W. Maderthaner “Die Sozialdemokratie”, in: “Handbuch des Politischen Systems /オーストロ・マルクス主義とオットー・バウァーの経済学 49 Friends of Austrian Labor, Inc.の撰んだ7人の代表者も,結局はバウアー説 を基本的に採用したものであることは一目瞭然であろう。 しかし,オーストロ・マルクス主義を外部から観察する者にとっては,この ような,いわば当事者内部での自己申告には,先のJohnstonと同様,一言異論 を差し挟まないわけにはいかないようである。M. E. Blumは言う。 「歴史家のなかには,ドイツ=オーストリア人であるRudolf Hilferding, Gustav EcksteinおよびKarl Kautskyをオーストロ・マルクス主義者のな かに含めてきた人もある。(なるほど)1904年から1918年目での間にEckstein とHilferdingは,オーストロ・マルクス主義者たちの共同の努力の成果であ る,『マルクス研究』Marx−Studienシリーズの内部で出版した。(だが)かれ ら両人は1900年以降の大半の歳月を,ドイツ社会民主党の指導的な理論的機 関誌である“Neue Zeit”の創設者であるKautskyと一緒に仕事をしながら ベルリンで過ごしたのである。オーストリア社会民主党とドイツ社会民主党 との間には,政策的な考え方に共通するところもあるが,その相違は残ると しなければならない。私の狙いは,オーストリアとオーストリア社会民主党 の行動および思想の規範がオーストロ・マルクス主義者の政治的個性に母体 的基盤としてどのように作用したかを検証することにあるので,これら(3 7} 人)の人たちを除外した。」(括弧内引用者) その上で,Blumはオーストロ・マルクス主義者として,カール・レンナー, オットー・バウアー,マックス・アードラー,フリードリッヒ・アードラーの 4人に限定して考察を加えている。 さて,オーストロ・マルクス主義の代表者をめぐる議論の,以上の簡単な概 観がすでに自ずと事態の核心に触れているように思われる。すなわち,一方で は,オーストロ・マルクス主義が19世紀から20世紀への転換期のオーストリア X Osterreichs / Erste Ropublik 1918−1933”, Manzsche Verlags一 und Universitatsbuch− handlung, Wien, 1995 7)Mark E. Blum“The∠4ustro−Ma7xists 1890一エ9エ8 A Psychobiegraphicα1 Study”, The University Press of Kentucky, 1985, p. 214
50 荒木廼夫教授退官記念論文集(第300号) という特定の時期と地域に生成の基盤をもちながら,そこに蜀踏することなく, その理念の普遍性を外に向かって主張する指向性と,他方では,それが依然と して帝国解体期のオーストリアに特有な条件や規範に規定され,したがって時 間的・空間的特殊性を色濃く帯びた現実との関連においてのみ生成しえたとす る,いわば内に向かう指向性との,逆方向の力の交叉という事態がそれである。 そしてまさにこの普遍性と特殊性との絶妙なバランスの上にのみオーストロ・ マルクス主義は成立しえているということなのである。普遍性と特殊性との統 一などと,マルクス経済学にとってはやや常套句的表現を用いたが,ここでの 普遍性とは科学性というほどの意味である。無論特殊性としてのAustrianと は,時空的局所性を伴ったオーストリア的なるもの以外ではありえない。とす れば,次のような言い方も許されるであろう。普遍性としてのマルクス主義と 特殊性としてのオーストリア的事情との統一が,文字通り絶妙にバランスを保 った状態こそが一つの独自性となり,それが他に例を見ない「オーストW・マ ルクス主義」という実体と概念とを生み出すことになったのである,と。そし て,如上の意味における普遍性と特殊性との統一の構造を解明することこそが オーストロ・マルクス主義をめぐる関心事である,と考えられるのである。 とはいえ,その構造の多面的総体への接近は,多くの分野にわたる研究成果 の総合という作業を必要とするであろうが,さらにここにはひとつの厄介な事 情が介在する。それは,オーストロ・マルクス主義概念内容の歴史的転変とい う事情である。オットー・バウアーが上に引用した箇所の直ぐ後でいみじくも 述べているように,「ヒルファーディングは経済学者で,レンナーは国家・法律 学の理論家であったとすれば,マックス・アードラーは哲学者」であって,元 来,そうした独立の専門家たちのモザイク状の全体がオーストロ・マルクス主 義と呼ばれたのである。つまり,かれらは必ずしも厳密な意味では同じような 8) 考えや意見の人々の集団“school of thought”ではない。にもかかわらず多種 多様な思想家であるかれち共にを括り,囲いこむ外枠になったものが歴史的経 過の中で別個のものに変わっていくのである。それは,上にみたように,発生 8) ibid,, p. 19
オーストロ・マルクス主義とオットー・バウアーの経済学 51 史的には,ウィーンの大学で学び,マルクス主義的思潮に共鳴した若者たちを 中心とする,学術的な議論仲間のサークル的共同体であったとすれば,後には かれらの多くが所属した社会民主(労働)党という政治的集団へと変転する。 後者の事情は,オーストロ・マルクス主義と社会民主(労働)党とのある種の 融合状態をもたらし,同党の1926年「リンツ綱領」das Linzer Programmが, 「オーストロ・マルクス主義の心と頭脳」である,という認識が広がるように 9) なる。この綱領を起草したのが,他ならぬオットー・バウアーであるが,あら ゆる分野に精通した博覧強記,それらを体系化する能力,党内における指導力 等からして,かれを措いて同綱領の起草は不可能だったであろう。その意味で 10) 同綱領は「オットー一■バウアーの遺言(遺産)Vermachtnis」である,と表現さ れたりもするが,党内左派(マックス・アードラーら)と右派(カール・レン ナーら)両派の対立を超えて採択されたものである。 ’ この間の事情を,1927年11月3日号の“Arbeiter Zeitung”誌上に掲載され 11) た署名の無い論説「オーストロ・マルクス主義」が明快に解説している。それ によれば,「オーストロ・マルクス主義」とは,当初は,若手の学問的思想集団 に付与された名称であり,かれらの特徴は,1)カントやマッハの考え方から 出発し,2)経済学のいわゆるオーストリア学派との対決を考え,3)オース トリアを揺り動かした民族問題をマルクス主義歴史観との関連で考察しようと した,等にあった。したがってそれは,元来,世代的にも風土的にも極めて限 定的に用いられたものである。この意味での棒心ストP・マルクス主義はその 後の歴史的激動のうちに解体する。しかるにその後,政敵が誹諺中傷の意味を 込めてオーストりア社会民主党の人々をオーストロ・マルキストと呼ぶように 9)W. Maderthaner前掲論文参照。 10) Josef Hindels “Dtzs Linzer Programm /Ein Vemade’chtnis Otto Bauers” 11)この論文は早くからバウアーの手になるものと目されていたものである。“Otto Bauer Werleausgabe”, Europaverlagでは, Band 7に“A rbeiter Zeitzang”に掲載されたBauer の論文をまとめて編集しているが,そこにはこの論文は収められていない。その代わりに, Band 8の冒頭に,「序に代えて」という項目のもとにこれ.が加えられ.ている。なお,本論文 にはっとに田川恒夫氏による邦訳(「アウストロ・マルクス主義について」,季刊『社会思 想』3−2,1973年,所収。)がある。
52 荒木廼夫教授退官記念論文集(第300号) なると,逆に党内でもこの用語を積極的に採用しようという気運が生じ,「リン ツ綱領」の理論的立場を「オーストロ・マルクス主義」と表現するようになっ てきている。この意味でのオーストロ・マルクス主義の特徴は,1)ヴィクト ール・アードラーが急進派と穏健派を単一の党に統一したという建党以来の伝 統に則り,労働者階級のあらゆる階層をまとめて激動期にも党の統一を保持し ていること,2)それによって,分裂した場合にそれぞれに一面化される恐れ のある,一方における日常的な現実政策と,他方における究極的目標としての 革命への意志とが総合され,統一されていること,これである。要するに,第 二の,今日的意味でのオーストロ・マルクス主義とは,労働運動統一の思想に 他ならない,というのが同論説の主旨である。 とすると,昨今の多くの文献に,オーストロ・マルクス主義のいわばキィー ・ワードとして頻出する「理論と実践」の統一,あるいは「改良主義とボルシ ェヴィズムの狭間」,「カウツキー主義とレーニン主義の狭間」を行く「第三の 途」等は,結局のところ,オーストリア社会民主(労働)党と一体化したオー ストロ・マルクス主義の意味に限定したうえで,如上の論説の主旨を言い換え たもの,あるいはその具体的展開過程の内実に即して表現したもの,というこ 12) とができる。しかし,オーストロ・マルクス主義の二つの実体は明確に区別さ れるべきであり,本来混同は許されない。しかるに実際には,ある論者は世紀 転換期のアカデミックなサークルを念頭に置いて,また,他の論者は大戦間期 のオーストリア社会民主党を念頭に置いて,はたまた同一の論者が双方を区別 することなく一緒くたにオーストロ・マルクス主義を論じていたりするわけで ある。小論で紹介した,オーストロ・マルクス主義の代表者の理解に係る混乱 も,その辺の曖昧さにも一因があるように思われるのである。 オーストロ・マルクス主義についての以上のよな一般的認識を踏まえたうえ で,以下にオットー・バウアーの経済学に関して若干の考察を試みたい。 12) Norbert Leser “Zwischen Reformismzas und Bolschewismus”, Wien,1968 ; Wolfgang Maderthaner前掲論文等。
オーストロ・マルクス主義とオットー・バウアーの経済学 53 II オットー・バウアーには経済学プロパーのまとまった著作としては,『国民経 13) 済学入門』がある。この本は,バウアーの没後20年近く経ってから,数奇な経 過をたどって世に出ることになったものである。というのは,社会民主党と労 働組合の幹部養成の目的で,1926年から30年まで開校された「ウィーン労働者 大学校」Wiener Arbeiter−Hochschuleの教師として,バウアーがNational− Okonomieという科目名で行なった講義を,1927/28学年度および29/30学年度 の受講生のうち複数の者が速記しており,本書はそれを素材として編纂したも のだからである。しかも,バウアーの講義は,いわゆる書取方式ではなく,受 講者の反応をみながら表情や口調を変え,時には受講生との質疑応答をはさみ つつ,自在に語りかけたものなのである。かれは「書くように話す」才能をも っていたといわれるが,話言葉の速記録がほぼそのままで一冊の専門書たりう るのは驚くべきことである。ただし,そこには不可避的に開講年度(1927/28年 度のWinkler版と1929/30年度のButtinger版)間での講義内容の相違,変更点 をどう調整するかという問題が伏在し,本書では前者の学年度の講義録を基本 とし,後者におけるこれとの主な相違点を本文の後に一括掲載する編集方針を 採っている。その編集・発刊についても,当初は自らも経済学者であるバウア ーの妻H61bne Bauerがこれを独自に計画していたもののようであるが,彼女 もまた志し半ばで没したため,オーストリア社会民主党の依頼をうけて,カー ル・カウツキ・一の息子であるベネディクト カウツキー Benedikt Kautsky が編集の労をとったものである。本書は,その後,『オットー・バウアー著作 集』,第4巻に収められている。本書(Winkler版)の大まかな構成(目次)は 以下の通りである。 第1編市場論 1.費用価格,2.市場価格,3.カルテルとトラスト,4.関税と市場価格, 13) Otto Bauer “Einfa’hrung in die Volkswirtschaftslehre”, Verlag der Wienner Volks− buchhandlung, 1956
54 荒木工夫教授退官記念論文集(第300号) 5.投機,6.労賃,7.労働強度と労働時間,8.資本利子と企業者利得, 9.利潤率,10.商業,11.賃金率の均等化,12.資本主義的農業経営の地代, 13.自営農業の地代,14.建築地地代,15.鉱山地代,16.第1編の結び 第II編労働論 1.単純商品生産,2.資本主義的商品生産,3.資本主義社会における価値 と価格,4.資本の蓄積,5.景気(循環),6.貨幣,7.租税,8.帝国主 義,9.資本主義社会から社会主義社会への移行,10.国民経済学の歴史 この目次を一瞥して気がつく本書の特色の一つは,本論が大きく二分され, 「市場論」と「労働論」の二編から構成されている点である。 「市場論」では,さらに二つのテーマが取り扱われ,その前半では市場にあ る個別商品の価格が具体的にどのような要因に規定されるか,その後半では資 本主義社会の三大階級の収入形態,労賃,利潤(利子と企業者利得),地代がそ れぞれ具体的な市場でどのように決まるか,が述べられる。 「労働論」では,資本主義社会の本質論を静態的,および動態的に展開する ことがテーマをなし,とくに後者では,景気循環論と帝国主義論を媒介にした 社会主義への移行論に力点が置かれている。 B.カウツキーによれば,バウアーは講義(本書)でマルクスの『資本論』を 出発点に据えながらも,自分の独自の考え方から,例えば「資本の流通過程」 には立ち入らなかったし,逆に,マルクスが立ち入らなかった①市場の諸現象, ②自由主義的な資本主義の枠外の問題,関税,独占および類する諸問題,国家 による貨幣制度への介入等を詳論している,という。しかし,カウツee 一にと っても,その意味は結局のところ,バウアーの叙述の道筋がマルクスの場合と 逆に,諸現象から本質へという形式をとっていることの根拠如何という点にあ り,「後書き」の大半をその解釈に充てている。その論点は,マルクスの叙述プ ランの変更説を含め,多岐にわたってはいるが,要は1918年以降の資本主義の 現実が,資本の側でも労働の側でも,マルクスの時代のそれとは大きく変化し た,ということに尽きる。かれはまた,その中段で,マルクスにもバウアーと 同じ考え方をしている箇所があるとして,例の「経済学の方法」の箇所を引用
オーストロ・マルクス主義とオットー・バウアーの経済学 55 しているのであるが,バウアーの二十構成がマルクスのいわゆる「下向法」,「上 向法」とも対応するという理解は論外であろう。 問題はバウアー自身がどう考えていたかである。扱っている項目の配列から 判断すれば,かれもおそらく,「市場論」=現象論,「労働論」=本質論として 区別し,前者を主としてマルクスの「資本の総過程」,後者を「資本の生産過程」 に対応させて全体を構想していた,と推測可能である。事実,かれは現象論→ 本質論という順序にした理由は,「日常生活の諸経験に結び付けるということ が,教育的根拠から目的に適っていると考えたから」(S.129)だというのであ る。だがその場合,理解しやすいということの質が干われざるをえないであろ う。現象論の内部でのある項目から他の項目への移行の困難もさることながら, 現象論から本質論への移行が論理的には不可能であり,両者は終始二元論のま まに留まり,この二層の状態を解消できないからである。マルクスの場合には, 両者を円環状の全体として統一的に認識することを目指して『資本論』を三部 構成とし,両者の媒介環として「資本の流通過程」を位置付けた,と考えられ る。バウアーの場合,「資本の流通過程」がすっぽりと欠落するのは,かれの現 象→本質なる構成からして,流通過程論がその媒介干たりえないからであり, むしろ流通過程論の一部は現象論に組み入れられることになる。言うまでもな く,本質と現象,抽象と具体の問題はヘーゲル哲学の根本課題のひとつである が,かれはギムナジウムの哲学の授業に関する意見書の中で,「教育的」観点か らしても,日常生活の身近な経験から説き始めて本質に至ることの困難性を強 14) 干し,生徒に視覚と聴覚を捨て去ることを求めている。バウアーが,ヘーゲル →マルクスの系譜を受容する文献にとっては当然の道筋とされてきた,単純か の コ ら具体へ,「労働論」から「市場論」への方向を,意識的に逆転したことは,単 に教育的配慮といった便宜上の理由では済まないであろう。それは,認識に至 る方法論上のかれなりの確信に基づいたもの,と考えるのが自然であろう。例 えば,バウアー自身,自分たちの共通の出発点であったと述べているマッハ 14)Franz Wiedmann“Hegel”, Rowohlt Taschenbuch Verlag, 1965, SS.39−40(中埜肇・ 加藤耀子訳『ヘーゲル』,理想社,1982,52頁および54頁)
56 荒木麺夫教授退官記念論文集(第300号) Ernst Machには,徹底した反形而上学的立場から,認識できる世界を現象界に 限定し,諸科学の目標はそれを正確に記述することにあり,諸現象の背後にあ るものを扱うべきではない,とする考えがある。マッハの認識論がバウアーの 経済学にどの程度の影響を与えたか否かは別個に検討する必要があるが,ここ でさしあたり関心を惹くのは,マックス・アードラーがカントとマルクスの総: 合を目指したように,世紀転換期のオーストロ・マルクス主義者たちの共通の 哲学的基盤が,マッハやカントであってヘーゲルではなかったこと,そしてそ こヘマルクスを接合する試みがなされたことが,バウアーの二編構成のような, ある種の方法論的異端性(独自性)を生み出しているのではないか,というこ とである。 ところで,バウアーの第1編「市場論」は,『資本論』第三部と対応する関係 にあるとは言ったものの,それは形式的類似性からであり,内容面で言えば, 『資本論』第三部とはほとんど共通性をもたない。というのは,マルクスにあ っては,第三部で扱われる諸範疇が,日常の表象的な観念でありながら,同時 に本質的な諸関連の展開・総合としての内容を併せもった概念であるのにたい し,バウアーにあっては,「日常生活の諸経験」に基づく無媒介な諸規定だから である。そこでは,個別的商品に即した「販売価格=費用価格+利潤」という いわば常識から出発するために,生産コストを規定する要因としての「固定資 本と流動資本」から説き起こすことになり,次いで,「目次」に見られように, カルテルやトラストによる独占価格,さては関税,投機までが商品の具体的な 販売価格を決める要因として考察される。そのさいバウアーがとりわけ力説し てやまないのは,需要という契機を組み込むことの必要性である。かれは,① 企業の相異なる生産条件に応じた相異なる市場価格,②それぞれの市場価格で 可能な総:供給量,③市場価格の高低に対応して変化する総需要量,を一覧表に して,需給関係それぞれのの変化がどのように市場価格を規定するかを具体的 な数字を用いて例示している。さらに,需要の弾力性,国家による価格統制, 市場価格機構を通じての企業淘汰,等について述べた後,上記の需給表を用い て,カルテル価格,保護関税下での市場価格等の決まり方をも「需給の法則」
オーストロ・マルクス主義とオットー・バウアーの経済学 57 の適用とその制限から考察するのである。労賃以下の説明も同様である。 バウアーはなぜかくも需要にこだわりをもつのであろうか。一般的に言える ことは,価値論を欠いた価格論としては,価格の大きさの決定要因をまずは需 給に求めざるをえないだろうという事情である。だが,もうひとつの理由は, 「オーストリア学派との対決」という誘因であったと思われる。本書の最後の 章「国民経済学の歴史」で取り扱われている経済学は,「マルクス以前の諸理論 一重商主義,重農主義者,古典学派,俗流経済学一,マルクスとエンゲルス, マルクス以後の国民経済学,講壇社会主義,限界効用学派」である。このうち 「限界効用学派」について,バウアーは,これを「今日ブルジョアジーがもつ 唯一の理論」と位置づけながらも,他方でこうも述べている。「(限界効用理論 以前には)需要が価格に依存するということは,しばしば過小に評価された。 市場価格は需給が一致するところの価格である,という事実も限界効用理論の 基礎上で発見されたものである。マルクスにはこの理論はまだ悔い出せない。 この市場理論は限界効用理論と結びついている。」(S.288)つまり,対決すべき オーストリア学派の業績と考えられる「需要」の分析が,まさにマルクスには 欠けている,という認識である。かくして「対決」を目指した筈のバウアーは, 期せずしてマルクス経済学とオーストリア学派との折衷を図るという役割を果 たす結果になっているわけである。 バウアーの経済学の特徴をもうひとつ挙げれば,それがきわめて現実的,実 践的な問題意識を背景にもち,オーストリアが当面している諸問題に対処すべ き政策を理論的に合理化しようとする一面のあることである。このことは,バ ウアー自身政党の指導者でもあり,本書成立の経緯を想起すれば,理解できな いことではない。こうした傾向の顕著な例を,かれの労賃論,恐慌論,インフ レ仁座に珍い出すことができる。 バウアーによれば,労働組合は労働者の賃上げ要求を闇雲に行うべきではな い。なぜなら,賃上げによって企業が競争力を失って倒産すれば,労働者も失 業の憂き目をみることになるからである。かれは賃金騰貴が費用価格に及ぼす 影響を考察するさい,生産部門を,①世界市場向け商品生産部門と②国内向け
58 荒木麺夫教授退官記念論文集(第300号) 商品生産部門とに分け,それぞれに異なる影響がある,としている。すなわち, 前者の場合には,世界市場における競争戦に勝ち残るためには,その商品の価 格を輸入価格と同一水準に保つことが至上命令となるが,後者の場合には,と りわけ需要の弾力性が小さい場合には,労賃騰貴を消費者に転嫁できる可能性 があるからである。労働側はその辺を見極めたうえで賃金の値上げを要求すべ きであり,とくに①では競争力を保持するためには,企業者側に,生産手段の 改良と労働強度の増大とをも併せて要求すべきである,というのである。リカ ードゥとマルクスとがほぼ同様の理論的処理をした「労賃の変動が生産価格に 及ぼす影響」を想い起こせば,彼我の方法論上の相違は明白であるが,バウア ーは個別資本の現実的な競争戦の観点から,労資の融和策をも考慮しているの である。「ストライキの度毎に,ゼネストを始めるべきだ,と叫んでいるわが共 産主義者たちは,労働組合に有害なことを要求しているのである。」(S,67)とも 述べている。 また第一次大戦から1920年代前半にかけてのオーストリアにとって切実な問 題であったインフレの考察にも一定の紙面が割かれている。その中で,バウア ーは,インフレが国民全体にとって結局は高くつくとしながらも,「インフレー ションには良い側面もあるのであって,そのことは否定できない」(S.・209)とし ている。例えば,戦後の瓦礫の中から経済復興を図らなければならないような 場合には,インフレ政策以外に採りうる方策はない,というのである。オット ー・バウアーをケインズの先駆者とみる評価も生ずる所以である。 最後に,バウアーの社会主義への移行論について一言すべきであろう。移行 論を扱った第II三二9章は,本書の末尾の学説史を別にすれば,理論部分の締 め括りに当たり,分量的にも本書の全章を通じて最も多い回数が割り充てられ ている。また,本書(講義)と相前後して起草したと考えられる,上述の「リ ンツ綱領」にも,ほぼ同一内容の移行論が含まれており,また本論点はすでに 『社会主義への道』で提示されたものであること等からしても,このテーマを 展開するバウアーには面目躍如たるものがある。その概要は以下の如くである。 資本主義はその発展のうちに自ずと社会主義への移行の前提を準備する。資
オーストロ・マルクス主義とオットー・バウアーの経済学 59 本の集積の進展(→大企業→カルテル・トラスト・コンツェルン→ひと握りの 巨大銀行の支配),それに伴う労働と労働手段の社会=共同化,国民の大多数の プロレタリア化,資本のいよいよ増大する支配等は,労働者にもはや株式所有 者たるに過ぎぬ資本家の不要化と自らの経営当事者能力を自覚させるようにな るからである。その具体的な移行過程は,所有物(財産)の収用という過程と して行われるが,何を収用するかは,一般的には,大企業,銀行,重工業,層 群,鉱山,大土地所有者等ということであるとしても,それぞれの国によって 事情は異なるであろう。いずれにしても小企業,農民,職人等,労働が個人的 になされているような場合の財産を収用してはならない。当面,資本主義的企 業と社会主義的企業が併存していいのである。では収用した生産手段をもって どのように生産を組織していくべきか。しかしこれも統一的な産業組織である 必要はなく,生産部門毎に固有な,また労働する側の成熟度に応じた,合理的 組織を創り出していけばよい。なお,財産収用を抵抗なくスムーズに行うため には,これを有償にすべきである。確定利子つきの証券の形で支払い,課税制 度を併用すべきである,とバウアーは言う。要するに,社会主義への移行は長 期間にわたる徐々たる歩みのうちに漸次的に達成されるものである,これがか れの移行論の第一命題である。 だが,バウアーの移行論にとって生産手段の所有形態に関わる制度的問題に 劣らず重要なことは,社会化された企業が理念に沿った方向で運用され,合理 的に機能し,その優越性を実証することである。そのためには,国家の管理機 構のような官僚制を経済面に持ち込むことを極力警戒し,企業デモクラシーを 実現する必要がある。そのさい鍵になるのは労働者側の意識,在り方の変革で ある。これは単なる決議や指令によって獲得される道理はなく,労働者の教育 を通して,またかれら自身が企業の共同管理という実践を通して身を以て修得 すべきものである。これがバウアーの移行論の第二の命題である。 さらに本書の移行論の特色となっているもうひとつの点は,その前提に国際 的な連携を想定している,ということである。バウアーによれば,ヨーロッパ 大陸のようなところでは,借款問題や孤立的な経済計画化の困難性を考慮した
60 荒木廼夫教授退官記念論文集(第300号) だけでも,一国のみの社会主義化は不可能であり,社会化の国際的な普遍化が 進むなかで各国が相互に連携することによって初めて移行が現実的なものとな るのである。(むしろ大国ロシアが例外なのであり,現に借款等で困難を強いら れている。)しかしそうかといって,諸国が時を決して一斉に社会主義化するわ けのものでもない。とすれば,各国はそれ,それの成熟度に応じて,目標に向け て現在なしうることをなし,それが相互に影響を与えながら全体の機が熟して いくのである。これが第三命題をなす,ということができる。 15) 以上の三点がバウアーの移行論のごく大ざっぱな骨格であるが,今日ソ連, 東欧の崩壊という歴史的現実を踏まえるならば,その洞察力には相応の評価が 与えられて然るべきであろう。政治的デモクラシィーと経済的デモクラシィー との実現,制度的変革に対応する人間主体の変革,国際的な連携と協力,これ らはバウアーの指摘をまつまでもなく,社会主義が本来的に掲げた理念であっ たし,今日なお人類の目指すべき目標たるの意義を失ってはいない。しかし, 真の困難は所与の国際的・国内三二条件のなかで具体的にどのようにその目的 に接近すべきかの選択にあるというべく,この点におけるバウアーの主張の合 理性と首尾一貫性が再評価の対象たりうるということであろう。かれは,資本 主義の起源を遡れば13世紀にも達するが,20世紀の今日に至ってようやくその 頂点を極めたとすれば,社会主義にしても多かれ少なかれ同様の軌跡を辿るも のとみて,漸次的移行の過程で新しい社会秩序の優越性を実証しうるものと考 えたのである。 19世紀末のウィーンでは,ハプスブルグ帝国解体の予兆と社会的逼塞状態の 中から,他に類を見ないほどの大量の創造的エネルギーが奔流となって,とり わけ思想,科学,文学,芸術等の分野を席巻したことは周知の通りである。伝 統を重んずるこの国の風潮を椰回して,伝統とは怠慢の別名である,と喝破す る芸術家も現れるなど,進取の気風があまねく満ち溢れていたのである。オッ トー・バウアーはそうした下克上的な精神的高揚の真っ只中にあって,自らの 15)移行論については,J.ブラウンタールの翻訳書『社会主義への第三の道』(梓出版社, 1990年)に付した訳者上条勇氏の「訳者序論」に詳しい。
オーストロ・マルクス主義とオットー・バウアーの経済学 61 専門分野を特定できないほどに,哲学,歴史学,社会科学一般等にわたる該博 な知識を吸収し,やがて歴史の激動期に政党の指導者として現実政治の舞台で も奔走することになる。かれの経済学は,上に見たように,こうした多様性を 内に抱えた総体としての個が自己を表出するさいの強さと弱さ,創造性と折衷 性とをありのままに露呈している,と考えられるのである。 *本稿では在外研究中の執筆という技術的理由から,邦文文献の検討が極めて不充分だった ことを付記しておく。また黒滝正昭氏には邦文資料等の点で助力を得た。記して謝意を表 するものである。