3
鈴鹿山腺黒縁の山村の研究
一愛知川上流地域の研究一
Study of the Mountain Villages at the Western’Footof Suzuka Mountain Range
一一in the Upper District of the Echi River一 ま え が を 近江盆地と樹勢平瞬との間を隔てる鈴鹿山地は,その東側が明瞭な断層を三って急に平野に下るのに対 して,西側は断層がやや不明瞭で,谷が入りこみ,そこにかなりの山村を抱いている。これらの山村はそ の立地の点よりみると大体二つに区別される。一つは犬上郡脇ケ畑から霊仙西方にみられるように,集落 が河谷にそわず,開析された山上部に立地するものであり,他は集落が河谷にそって立地するものであ る。而してこの後者の代表的なものが愛知川上流一帯の山村である。 我々は近江盆地の外廓をかたちづくる山村地域の研究の一道程としてこの地域の調査を試みた。調査は なお継続中であるが,我々は既に昭和29年8月9日一13日,9月9日d2日,10月4日一8日,の三回に 亙って調査を遂行した。ここに報告するのはその調査の一部である。現在のところ,我々は最初の概括的 な調査につづいて各分野毎の個人毎の研究を行っている段階にあって,本報告もそのため多少の重複や齪 齢を免れず,また研究の視点にも異同がみられて不体裁であるが,これらは最後に統一するとして,ここ には一応の中間報告を行うこととした。この調査に際しては永源寺前村長川畠善次氏,山上郵便局長今井 竹次郎氏,政所中学校長西沢信三氏,同小学校長森崎氏,政所の桜木真太郎氏,桜木甚吉氏,君ケ畑金紫 寺住職田附旭昇氏をはじめ,村役場の方々,各部落の区長の方々等に多大の御援助を頂いた。記して滋に 厚:く感謝の意を表する。 なお本研究は昭和29年度文部省科学研究費の補助によって行ったもので,若しこの補助がなかったなら ば本研究は或いは不可能であったかも知れないQ文部省並びに関係各位に深く感謝の意を表する次第であ る。愛知川上流地域に於ける交通路の変遷と回春
小 牧 実 繁
Saneshige Komaki Change of TraMc Routes in the Upper District of the Echi River 等しく地理学の立場から交通路を問題とする場合に 於いても,その視点一一従って問題の重点一の置き方に よって,多様なものが結果されるこ乏は云う迄もな い。ところで一歩進んで対象を我国の山村に限ってみ る時,そこに於ける交通路が如何に山村の近代的変化 に作用したかが重要な問題となるであろう。壮年由地 と之をきざむ急傾斜の谷は我国由地の特長であり,そ れに基く隔絶性は我国の山村を最近迄閉鎖的にしてい たというのが一・reである。この隔絶性を打破して近代 酌な息吹きを山村に吹き込んで行ったのは新しい技術 に裏附けされた交通路の設定であったb従って山村の 交通路をとりあげる場合,山村の変化に大きな影響を 及す重要因子として,交通路をその変化との関連に於 いて把握することが大切である。しかしその前に先ず 現在の交通路がどのような変遷を辿ってきたかを明ら かにすることが順序であろう。本稿の趣旨はこの前提 を明らかにする所にある。 愛知川上流山村地域の交通路は所謂隔絶山村のそれ の場合とは少し趣を異にしている。この地域の交通路 が何時頃から形成されたものか,叉その交通路は,集 落相互間の踏分道が江勢両国の貫通横断路に発達した ものかs或は逆に横断路が先ず存在したことによって 集落が派生しそこに相互聞の交通路がつくられたもの か等交通路の発生に関しては詳らかでない点が多いoしかしながら上古既に若干の集落や交通路が存在して いたであろうことは,政所,蛭谷,君ケ畑を中心に惟喬親 (1) 王の事蹟や伝説が伝えられていること,夏に古くは石 (2) 器や土器がこの山地に発見されることなどによって推 察される。そして中世末には後述するようにこの地の 交通路が重要な江組め横断路になっていたのである。 このようにみていくと隔絶山村の交通路が殆んどの 場合村内生活の為の局部的機能しか営まず,且叉それ が交通路の終末点に当るのに対して,ここでは交通路 が近代迄に既に局部的機能に加えて流通的機能を有 し,閉塞路ではなく横断路であったことが注意される のである。 この二重の性格は比較的早くこの地域の山村として (3) の閉鎖性を解放せしめたし,叉現代の交通路の変化に 二つの意味を与え.ているのである。即ち横断路という 機能からみれば,それは交通路の回春現象を示し,閉 塞路の機能からは交通路の変遷(遷移)現象を導いてい るのである。以下節を分けてこれ等の現象を我国山村 交通路の一般型との関係に於いて眺めて行くことにし よう。 1.村落交通路の変遷 (/)明治初期以前に於ける交通路 一般に交通路の変遷という時,その意味する内容に は同一交通路の質的な変化や場所的移動,更には交通 路そのものの衰微に代る新しい交通路の発達などが含 まれる。同一交通路の路幅が拡張されteり,それに舗装 が行われたりするのは質的な変化で,これはその道路 の価値が時代を経ても依然変化しない場合に於けるそ れの新しい環境への適応を意下する。場所的変化はそ の場合にみられる技術の地形に対する適応と考えられ る。之に対し,交通路そのものの変化は,その有する 価値の変化であり,之を利用する入,交通機関,物資 の量の変化である。従ってそれは競合する交通路の勢 力圏の争奪(piracy)を意味する。山村に於ける交通 路の変遷に於いてドミナソトなものは最:後のものであ (1) り,これには多くの例がみられるが,それは前述の二 つと互に無関係ではあり得ない。然らばこれらの変化 がこの地域に於いては如何に行われたであろうか。 江戸時代,日本の政治の中心が関東に移行し,治安 がよくなり,駅制も整備されてくると,横断路として (2) の八風越や石鱒越の機能は前代程の重要性をもたなく なったようである。大永三年(1523年)伊勢梅戸より 八風峠を近江に越えた連歌師島田宗長は輿を利用し, 「やうやう峠の一州に一泊。あくるあした江州山上の 会下寺一見して麓のたか野といふ里に日たかく一一宿」 (宗長手記)と述べているように,峠の宿屋に宿泊し, 応仁二年(1468年)四月京へ出た尾張商人は担夫百余 (3) 入,兵衛六七十入,台数十頭でここを越えているのであ って,これらから中世末期この道は輿や馬の通行が可 能であり宿屋さえも存在したことが知られるのである が,江戸期になると八風峠の西側山中にある奥片獺の (4) 「茶屋より伊勢迄二里の間は牛馬も雑ぜず」(慶安三 年1650年)という状態に衰え,文筆丈八年(1668年) 註(1)木地師の祖としての惟喬親王の伝説は広く各地に伝えられて居り,t従って伝説の存在は必ずしもこの 地の古さを示すものとは限らない。しかし乍ら全国に散在する本地師がこの地から派生分散したらし いことは民俗学の立場からは日程農認められて居り,それは又江戸期に属する蛭谷大岩家の記録や明 治五年の戸籍簿によっても推測されるのである。(人口の項参照) (2)愛知川が山地から出る谷口にある山上部落の元八幡神社の境内から石剣1ケが発掘きれて居り,その 反対側の谷口却ち三重県員弁郡石榑村からは末期縄文式土器(5ケ所)初期縄交土器(3ケ所)が発掘さ れているG(藤岡謙二郎:先史地理学朝倉書店新地理学講座第7巻p.42)。叉場所はやや南に下る か同じく鈴鹿山申の滋賀県甲賀郡山内村山女原に於いても弥生式末期の土器(昭和29年3月小牧,小 林調査)がみられる。勿論これだけでもって先史時代に於ける鈴鹿山地の横断交通を云々することは 出来ぬにしてもその可能性は考えられるQ (3)所謂閉鎖的な自給自足的生活を行う原始山村の姿がこの地域では比較的早く失われたことは千葉氏の 論稿にもみられるのであるが,その一因にこの交通路の性格を考えたいQ (千葉徳爾:原始山村の変 貌過程地評23の11。1950) (1)木内信蔵:桂川谷地域の調査概報(東京大学地理学研究No 1.1950 p.48)滋賀県下の他の事例を求 めると以前大溝より入部谷越によって物資の交流を行っていた朽木村は安曇より安曇川にそう自動車 路の建設によって流動方向を之に転換した。又上草野村岡谷は長く東草野村町槻に釜る麹こよって甲 聖職はじめこの谷の集落の物資交流の基点であったが伊吹村よりする自動車路の開設によって戴頭さ れその機能を失いつつある。 (2)1“wn春」の項参照、 (3) 愛智郡志 巻2
(4) /1 o
〈5) t/ ft これは井伊家がその領国の境を瞥戒する意図を含めて移住させたものちしぐ現在の地籍図にもその痕 跡は認められる。従って直接交通とは関係がないが交通が頻繁であればこの様な事態も起らなかった であろうと考えられる。愛知川上流地域に於ける交通路の変遜と回春 (小牧) 5 井伊藩は黄和田の民家五戸を街道にそう片瀬に移住せ しめたが90年を経た宝麿十一年(1758年)には清助なる (5) ものただ一戸になったとの事で,奥片瀬の茶屋の存在 も此の頃になると.疑問とされる有様で,かくしてこの 地域の交通路はその重点を村民生存活動の為のものに 置きかえられて行った。 山村は本来食糧隼産に恵まれず自給自足をなし難い 傾向をもつが,この地域は,既にふれたように,いち早 く原始山村の域を脱した。現今この地域は焼畑の記憶 を欠いて居り,千葉氏が指標とされるトチの代用食も 此の地域では知られず,原始山村の姿はここでは窺い (6) 得ない。そして既に中世末期に銘茶として知られた政
C7) . (S)
所茶の栽培が行われ,更に炭商売が営まれ,割木,ささ (q. ) 板,ふき板,おか板等の板木も出され,かくてここは商 晶経済の渦中に入っている。それ故江戸期から明治初 〃臼#コゼ
1 !”げ 大峰村 ’馨壷原 v N=一一 t.N ?N..}㌧へ
× , } 鰍峠 写32照 spt’@’N. x 鴨川珂 畠野A
t’s’一’/ \ 鹸 ぬよ 和谷 “黛 鞠
期にかけては平野村との生活物資の交換を除外しては この地域の生活は成立し得なかったであろうし,従っ て之を媒介する交通路がこの地の住民の生活体の重要 な細胞をなしていたであろう事が知られるのである。 この地域に入る交通路は,居住空間をなす主要谷が 山系の:方向に平行に存在する関係から,周囲からの流 入型,中心よりの放射型をなしている。即ち北方大滝 村より犬上川を湖って二二及び君ケ畑に至るもの,西 :方角井村から角井峠を経,大萩をよぎって蛭谷,箕川 に入るもの,山上村より愛知川本流を回り政所に達す るもの,東方三重県より分水嶺を越えて西入するもの (治田越,石剣越,入風越)がそれである。計7箇の これらの道路はそれぞれ固有の存在価値をもち培養圏 を有していたQ(第一図参照) 三重県境からの治田越は三重県の治田新町から茨川 鴨、、tf. Y kx
曳く弩諌
虻識野ζ・
/ 琴、 ノ n一斎”一’J一’1’一瓢 伽蓋’齢田
轟、裂 蒙朋
イkD 説 \ 、噛ノ\!
ノ . 、 、 \\ 、 、 、 ,fiy一”””’一一yiiI/Et‘ど》
tst...XN) =’ノ重
㍉ ’s” 、 縣
一◎ぞ
s“.. 1
ボ∴舞
、、 舳 t}眠∼ノ
’ 第1図愛知川上流地域の交通路 太い実Wtltトラック路 数字は完成し花年を示す A紅葉橘 B越漢橋 C漢勢橘 註(6)千葉徳爾「前掲論文」 (7)永源寺四刹の一つ退蔵寺(雑居瀬)の開山,越漢秀格がはじめて植えたと伝えられている。 (8)蛭谷大岩文書}こ丹羽長秀が元亀二年(1571)政所七ケ畑に炭商萱を安堵した記事がある。 (9)晴代はやや下るが慶長19年(1614)のすみ,わbき,元和元年(1615)の茶の運上は次の如く定められて いる。 すみ わりき 茶 すみ わりき 茶 すみ わりき 茶 九融融 2荷 60把 1041斤 黄和田10荷 50把 770斤 政 所10荷 110把 1650斤三川3〃 20〃148〃 蛭谷2〃 20〃115〃 君ケ細2” 2」”銅”
に達するもので,犀川と三重を結ぶ紐帯をなしている。 この道は更に茨川から君ケ畑をへて政所に至るもので あるが,前述のように横断路としての機能が衰えた江 戸から明治にかけてはあまり利用されなかったようで (le) あるQ現在政所,蓼畑附近に住む50以上の入々には現 (11) にi茨川を知らぬ者が多いといわれるが,それほどに早 川と政所附近は交渉が薄かったQ行政的には茨川はこ れと同じ村に入っているものの生活圏からは完全にと 言ってよい位三重県に属し,現在に於いても茨川は政 所と同一村内にありながらその郵便物は遙かに南方草 津線を迂回してここまでに三日聞を要するし,又主食 (tL)) の配給も新聞の配達も三重側に関係している。 大滝村及び角井村よりする道路は御池川にそう窪 川,尉面,君ケ畑の集落を主に培養した。箕川,皇民 より大滝村に至るすぼしら越及び君ケ畑からの山越は 距離の点で有利であり,物資の運搬が坂の抵抗性によ って減じられる難点はあるが,江戸時代相当に利用さ れたようである。現に君ケ畑では生活必需品の一つで ある醤油を現在に至る迄も大滝村から購入している者 (1:3) があるのはその名残りであろう○ この道路が利用されたについては他に二つの理由が 考えられる○一つは政治的ファクターとも云うべきも のであり他の一つは徒歩交通を主とする時代の.環境で a4) ある。この谷一帯は江戸時代彦根藩の所領であった。 それ故彦根との交通連絡・はしばしば行われたらしく, 庄屋の往復は未だに語り伝えられている。彦根の行政 圏に属する集落がその申心地に深い関係を持つのは蓋 し当然で,単に政治的のみならず経済的にもその関係 (1,5) は深かった。この場合申心への最短距離が犬上川を経 由するものであった事がこの道を利用せしめた大きな 要因であったろう。更に徒歩交通を主とする時代,山 地の住民が,その生活環境の類似性によって,平地よ りも山地に親近感を抱いたことは当然であろう。君ケ 畑から大滝村大君ケ畑,醒ケ井村榑ケ畑に至る一帯は 等しく木地師の住んだ地帯で,その間には古くから交 通があったと思われる。その上,江戸時代この道は彦 (1の 根への途中で所謂山街道に入り,関ケ原に出,美濃, 信濃に至る捷路であった。申都山岳地方は後述するよ (17) うに木地師の多く分国した所で,通婚圏や茶の商圏が そこにひろがっていた為大滝村への道はこれら多くの 国々への道でもあったのである。このような関係を北 方からの道は有していた○ 前述のように耕地の少い,食糧自給度の低いこの谷 の並々は隣接の平野村と密接なつながりをもっことが 不可欠的に必要であった。この点から,角井村よりする 山道の重要性が生れてきている。大滝村への道が同質 的な地域へのそれであったのに対して,この道は異質 的な生活地域である角井・西小椋等の村々へ最も近い 道である。鈴鹿山地の西縁を限る断層崖下の小扇状地 より,やや急な開析された断層崖面を上ればあとは準 平原的な緩傾面で,逆駕する犬上川の上流にそって容 易に大萩に達し更に蛭谷・箕川の谷に下ることが出来 る。しかも前記の平野村が江戸時代同じ彦根適期であ った関係から政治的な摩擦も少く物資の流動が行われ たようである。そのあらわれとして角井から君ケ畑に 至る間に既に江戸時代危いながらも牛馬の通行が可能 であった事が知られる。即ち霜ケ畑金龍寺所蔵文政七 年(1824)の道一件留書には,「蛭谷村より出村江之道筋百 済寺郷村々より牛馬通行仕来申候然ル所当九月rLXb右 村之人馬当村ヘー向参り不感村方産物材木板労茶点心 不弁理=相藩候……」とあり,当時牛馬が材木・板・ 茶を百済寺へ搬出していたことを示している。 平野と山地の這々の生活圏的な一体関係は明治迄も つづけられた。ききとりによると当時は平野の村々か ら生活物資を売込みに来て炭等を購入して帰ったとい われるQ勿論単に一方的ではなく双面的につながりが 続けられたとみるのが妥当であろう。 之に対し愛知川本流を測る肉上からの道路は蓼畑・ 狂鳶尾につながりをもった。政所・九丁壮・黄和田は 政治的には北方に属し,経済的にはこの道に依存する という中間型を示していた。既にみたように,この八 風街道は江戸申期以後輿の通行は不可能で,これらの 註(10)四川の通学圏が蛭谷に及んだからその間の交通や,茨川の寺は君ケ畑金竜寺が兼ねたので住職の往 復,三重より君ケ畑に至るものの交通などが行われたと思われる。 (11)学制が整備されて茨川に分校が出来た(大正3年)ので若い人の方が接触の機会を多くもった。 (12)無集配区域に属し新聞も郵便も所用で治田新町(こ二里八丁)に出たものが持ち帰る。 (13)この場含,後述するように商品は山.ヒを経由する。 (14)愛知川左岸の蓼畑・杜葉尾は山上藩(稲垣氏)に属した。 (15)その関係は人口の流出にもうかがわれる。人口の項参照 (16)鈴鹿山地の西麓を南北に走るもので東麓伊勢の巡見街道と相灼する。中仙道柏原より芹川,[:MEの河 内一泊甲良一義川一束押立一角井一山上一桜谷一日野に至るもので日野道ともよぶ。 (17)明治五年の戸籍簿によると信濃103戸,美濃78戸,三河20戸,遠江88戸,越前22戸がみられる。こ の中には通律の事例もみられ,又君ケ畑古考の話によれば茶壷を馬背につけて信州まで茶を売りに出 #といわ’#しるo
愛知川上流地域に於ける交通路の変遷と回春 (小牧) 7 部落の人々は主としてセタ(背板)により炭・茶・割木 ・板などを谷口集落である山上に運び,ここで生活必 (IR) 需品にかえた。現在ここに残っている多くの荷送状や 受取状は如実にそれを物語っているQ ところで当時の道路はどのように地形との関係を示 していたであろうか。山上から開申に入る愛知川は相 谷,佐目に小埋門谷をつくり,所々漫や急流をなし, 誉田して政所に達する。しかも一度回春して下方侵蝕 を行い,埋骨谷を段丘にし,上流の幼年谷では懸崖を 示している。この谷を利用する八風街道は江戸時代山 上一相谷一.鴨居瀬一小代一中畑(政所)一黄和田一町 葉尾を逓っていた。古くは,この川によりさえぎられ て道路は両岸に二本存在していたらしく,現今に於い ても左岸の山上より熊原一相谷一佐目一萱尾一兄畑に 至るものと,右岸の高野より九平瀬一小代一政所に至 るものとが追跡出来る。これ等の道は段丘面を利用し ているものの,その発達は塵かであり,多くは川にそ って山腹を通る山道となっている。 この二本が当初存在して後に前述の八風街道に一本 化したものか,或は逆に藩政時代この川を境に領国が 分れた為に副道が派生したものか両者の関係を明らか にする資料を今は持ちあわさないが,しかし両岸の道 が比較的高所を通っている点よりみると,これらは古 くからあったのではないかと考えられる。とにかく入 風街道を少しく注意すると,これが両岸の道の長所を とってコン.u“ネーションになっているのに気がつく。 即ち山上一相谷聞ではやや不利な攻撃斜面が,割合に 川が広巾くなった谷口の川のこ回の渡渉をさけて用い られ,相谷一佐目一小代の間では,佐目の段丘の利はあ るものの,相谷一佐目の攻撃斜面と佐目一萱尾の攻撃 斜面が敬遠され,相谷一九居瀬一小代一政所と対岸の 細長い段丘が用いられ,愛知がけと称する八風街道の 本筋となった。小代一政下間が川の左岸に設けられた のは両岸の地形がここではほぼ同様な幼年谷のそれで あり,たまたま小代のつづきが左岸である所から無理 に本流横断の不利を求めなかった為であろうQかくし てこの径路によると,本流の横断は謹に一回に止り,洪 水の被害を最小限にさけつつ有利に河谷形を利用し得 るのである。明治になって,現在のように高野の滑走斜 面が利用されるに至り,道路は九居瀬迄滑走翁面の段 丘上を求めて高野一相谷閉居瀬と交互に川を横断す ることになったのである。.又上流中畑から黄和田を経 て粒葉尾に至る道も黄和田の筆写伏地を利用し本流を 出来るだけ上流で横断しようとしたものであるっ中畑 から御池川を古川に湖る道洛も川の両岸にあったが, ここでは領国の中心彦根側に近い右岸が本道として重 視され,対岸に渡る政所の高橋は井伊家の御用橋とし て保護された。このように,多くの河谷地形にみられる (19) 山稜交通の河谷への転移はこの地では余り顕著ではな いが,河谷に於ける小さな変化が注目されるのである。 1:工葉尾より三重県に至る八風越及び石榑越は,治田 越が茨川に対してもつ程の,直接生活に関する重要性 を有しなかったようである。伊勢から時々入る魚やそ (20) の他の商品の関係を除けば,後述するように,この道 は横断路として利用された。しかし明治の初年,ごく 短い期間ではあったが,郵便が三重県田光からこの地 に配達されたのをみると,伊勢からの商圏の侵入も相 i当あったことがうかがわれる。 以上にみたように,明治初期までの村内交通跨は, ほぼ江戸時代を通じて変化はなく,小規模ながら一つ の集申・放射型を示し,それぞれ固有の,或は重複す る勢力圏を有していたのである。 (ロ)交通路の変遷過程 しばしば述べたように,この地域は比較的早くから 商品経済の中に入りこんだ。この村の勝産である茶を はじめ炭・板・蚕等は資本主義の発展に伴って盛衰を みたであろうし,これ等生産財の輸送は最近は江戸時 代に比し増加したこと’と思われる。この聞の事情は生 業の項でふれられるであろうが,然し何れにしても従 来の交通路を改善せしめるだけの村自身の力の蓄積は みられなかった。むしろ交通路の貧弱さそのものは生 (21) 産財’の価値を制約し,逆に交通路改善の為の経済的余 力を生ぜしめるのを抑制した位であった。 それでは交通路の変遷は何によってもたらされたで あろうか。それは等しく資本主義の進展によるもので はあってもこの山村には無縁の発電所の設置によって であった。そして日本の発電所は当初に於いては多く 水路式を採用したから単に発電所だけではなくそれよ り上流の販入口まで発電の工事が及んだが,交通路の 発達は発電所建設用資材の運搬路の整備によって導か れたのであり,この谷の場合は,明治44年3月近江水 註(18)愛翫紙入史料の項をみると当時の原文を多く見出すことが出来る。 (19)例えば十津川についての二子博士の報告(地理学昭15.10.11.12.) (20)太物,古物,菓子などが僅かながらあげられる。 (21)路巾が狭く橋が貧弱であったので例えば二間ものであれば非常に価値のあるものでもやむを得ず一 間毎に切らなければ運搬出来なかった。又丸太で出すよりも製晶にした方が運搬には都合がよいが 逆に襲品にする為には乾燥などに時聞がかかり資金の回転はおそくなってくる()
力電気が萱尾に発電所を設けたのがそのはじまりであ った。その結果,それまでさけられていた相谷東方の 攻撃斜面が削られ,直接佐目に至る道路の拡張が行 われ,資材運搬のために,はじめて馬車が入るように なった。ここに於いて九居瀬側の旧道と佐目を通る新 道とは互に競合開係をもち(大正2年萱尾一小代聞の 越漢橋完成)政所より上流の銘々はこの両道を利用し た。そしてこの競合は政治的にも発展し,側れを県道 とするかは発電所の位置の場合と同様両岸の争いの的 となったのである。この争いは結局彫目側に有利に落 着き,前代に於いては障碍であった九国瀬新田及び鍛 冶屋対岸の攻撃斜面が近代的資本と技術の堪入によっ て克服されるに至った。この前後から両交通路の交点 にあたる相谷には炭問屋,運送問屋などが出来,従来 山上迄セタで運ばれた物資がここに集められここより (22) 軽運車・馬車によって下流に出されはじめた。我々は そこに谷口集落としての村の機能が交通路の改修によ ダ つて上流に移動して行く姿を見るのである。次いで大 正五・六年頃には中畑にも運送問屋が出来て軽外車が 通い,如来堂・政所・君ケ畑に米屋が出来た。 次の道路の改修は黄和田発電所の設置(大正十一年 六月)に伴ったQこの際,黙り下りの多かった旧八風 街道が如何に整備されたかは改修計画図によってもう かがわれる。更に大正十二年(1923)には山上一高野間 の紅葉橋,申畑一千軒間の湊i勢橋が竣工し,河川の障 碍が克服され一応現在の道路系が完成されたQ而して 之により自動車の運行が谷口附近では可能となり,相 谷には昭和四年頃トラックが,次いで昭和八年頃バス (23) が入り,その交通集落的機能は一層の進展をみせた。 小代から政所迄の道路整備は九黒瀬側の旧八風街道と. 共に昭和耳標ー十三年頃行われ,戦争と相侯ってこの 谷の材木伐採は益々進められたQ昭和初年樹林欝蒼と して昼間に於いてすら一人で通るのは気層悪かったと いわれる九居瀬附近の森林は戦時の伐採により今は殆 んどなくなっている。 こうして山上一政暫間は戦争頃迄に現在の体制が整 ったが政所より上流はどうであったろうか。 先に大正五・六年頃中畑に軽導車が入ったと述べた が,その頃から上流地域の交通路に変化があらわれた。 先ず蓼畑一紅葉尾聞では大1E初期黄和田対岸の崖道が 克服され柾葉尾分校への通学道路が出来た。これが大 正六年八風街道として認められ,従来の如く黄和田を 経由せず短縮されることになった。如来堂附近で本流 C2A) を渡るこの道は当初板が川に渡されただけであり出水 毎に流失したが,前記の漢勢橋が出来て安定した。そ の頃政所一二川一葦谷聞では御池川の左岸に車道がつ くられ,大正十二年には馬車が箕川迄通じた。これに よって従来大萩一角果房に依存していた箕川・蛭谷・君 ケ畑の物資は中畑の運送屋の存在にも便宜を得,政所 から山上の方に動くようになったQ即ち交通路の争奪 現象が始つたのである。角井よりの道も大正十三年頃 には大萩迄歩運車を通じたが,大萩一蛭谷閻は従来の ままであったのである。下国一撃ケ畑間には昭和十六 年になり現在の林道が完成された。しかし:本格的な変 化は我国の多くの山村に於けると同様戦後に始つた。 戦時から戦後にかけてのM木の需要に応ずる奥地林伐 出の必要は林道(この場合はトラック路)の開設を促 (L?5) 進させたが,この地域ではそれは茨川林道の建設とな ってあらわれたQその結果昭和二十二年には柱葉尾蓬 トラックが達し,以後川を湖って本年春には野川の手 前約1kmに及んだ。そして之に応じて御池川の谷も 昭和二十七年には母川の入口迄トラックが通行し得る に至った。更に本年夏には日曜祭日に限ってではある (:76) がパスが政所迄入り,全日開通の日も近い将来にある。 以上のような交通路の変遷を眺めると,第一に交通 路の質的変化では歩径(Fusspfad)一:車馬道一自動車 道の変化に応ずる幼年谷壁の路幅拡張と渡渉点に於け る板橋一木橋一鉄橋への技術的進歩が注意され,第工 に場所的移動では,急傾斜の攻撃斜面の克服に基く小 規模な横の移動がみられるQ上下の移動は,下方侵蝕 が復活し段丘のみられるこの川に於いては余り見られ ない。しかし小扇状地をなす三和田では当初扇頂山麓 附近を通過した道が扇裾に下った例があるQ第三に物 資の輸送手段ではセター軽運軍(荷車)一一牛馬車一オー ト三輪一トラックの系列が道路の改良に従って順次上 流へ移行した点が注意される○現在の段階は殆んど極 目(22)二十年前この谷を調査しながら三重県治田新町に抜けた時には直接その様子を見聞することができ た。(小牧実繁「愛知川上流の心々」地理論叢第三輯昭和9年303頁) (23)当時相谷には運送屋(兼材木問屋),炭問屋,米屋,醤油製造販売店などがあり原始的ながらも相谷 は都市的色彩を帯びていた○(小牧「前掲」参照)そのことは人口流出の場合にもうかがわれる○(人 口の項)なほ当時この部落の人々は相当交通運搬業(大八車,馬車ひき)に従事したが自動車の登場 に伴って運転手に転化し,現在30名余の運転手がトラックに乗っているという。(運送屋から転じて タクシー経螢をしている川島氏による) (24)その名残りは現在も蓼畑一黄和田間の渡河点にみられるQ (25)滋賀県では朽木村,杉野村八草越,東銀野村などにみられるQ (26)略稼許可申請中。日曜・祭日1輕行レたのは嚢知川上施の鮎つりのtζめであった。お盆に耀行きれた。
愛知川上流地域に於ける交通路の変遷と回春 (小牧) 9 限に達し,交通機関としてはトラック・オート三輪が (:iD 主であり,車はここ数年に減少し,我々の調査期間中 僅かに蛭谷一.君ケ二間にみられるにすぎなかった。第 四に之等を綜合してあらわれる交通路の争奪は明治期 にみられた放射・集中型の交通型に署しい変化を及し ている。即ち愛知川本流よりする自動車の進入は,物 の輸送に於いて,前にふれた角井道を圧迫し,之を箕川 で載頭したばかりでなく,大滝道や三重よりの道路の 機能を奪った。例えば大滝より君ケ畑に醤油を入れる 場合,それは山上に廻されてそこから君ケ畑にはこば れるし,三重からの肴其他の商晶も鈴鹿を迂回して山 上を経由している。三重からの行商人は単身八風乃至 は石博を越え,予め送っておいた商品を受販る状況で 易る。又角井道もこのような事情から現在では途中一 隠自転車をかつがねば通れない位になってしまった。 茨川は現在のところ治田越によって三重県に依存して いるが,部落の南1kmに達した林道の開通によって (:?s) ここ一・二年の聞に政所の方に向きをかえるであろう。 こうして施設の完全な輸送手段(ここではトラック輸 送)が交通を自己に吸引し,側縁の集落に対してもそ の交通の方向を或る一定の限界迄決定するという所謂 輸送の方向原則(das Richtungsgesetz)はこの谷に もあらわれている。その結果交通型は村落交通に限る (29) 時,一本の交通路による嶽入型を瀕すに至っているQ 同様な傾向は四国祖谷地方に於いてもみられる所であ (:1の り,山村のある時期に於ける一般型を示すものであろ う。 2.横断交通路の回嶽 交通路の回春とは,一一rcその存在価値を失い衰微し たものが再び新しい意義を帯びその勢力を回復するこ とを意味するが,当地域に於いてはそれが横断路とし ての交通路にみられようとしているのである。 我国に於いては道路交通は明治中期以降の鉄道の発 達によって漸次その重要性を失い,主要道路は鉄道に かわられ,鉄道終点からの未端交通として血管的役割 を主に演ずるようになった。ところが大IE中期頃より (1) 昭和初頭にかけて拾頭してきた自動車交通は近距離交 通に於いて鉄道と競争し更にその勢力を中距離交通に C2) も及すに至った。鉄道や軌道は固定資本の投下が大で あるのに対して,大なる資本の投下を必要とせず原価 償却の早い自動車は地形の制約に対する抵抗性が強く その分布は比較的普遍的である。この為昭和以後, 特に戦後に於ける自動車交通の発達は特に著しく,従 って交通に対する外的障碍(aussern Widersttinde)の 諸条件は鉄道に対するそれより徒歩交通のそれに近く (r.) なったQそしてこのような傾向は近年漸くこの山村地 域にも到来したQ即ち八日市一四日市を結ぶ自動車路 の設定にそれが見られる。 ここで往時に於けるこの地域の交通路の横断路とし ての機能を顧みることにしよう。 この地の八風越が早くから横断路として:重要性を有 していた事は既に元久二年目1205)伊賀・伊勢の平氏反 C4) 乱に際し鈴鹿峠と共に八風峠が固められたのによって 註(27)最近3年間の荷車の減少傾向は次の通りである(永源寺村役場資料) 高野 佐目 萱尾口居瀬二二 昭27 昭28 昭29 昭27 昭28 昭29 山上 22 7 6 和南 14 3 2
200
;柱葉尾黄和田政所000
300
511
相谷 13 10 11 三川 o o o311
000
422
四谷看ケ畑物川000
311
000
000﹂†942
言622
之に対し自転車はWa 27の1093台から昭29の1277台,リヤカーは昭27の310台から昭29の348台に 増加している。 (28)現在も炭,木の皮,材木等は新しい林道から出されつつある。 (29)先の集中・分散型と共にこの名称については滝本氏の論文にヒントを得たが意味は異っている(滝本 貞一「近畿の交通型について」地理論叢第六輯昭和十年167頁) (30)福井好行「東祖谷山村に於ける交通路の変遷」(人交地理3巻3号昭和26年) (1)自動車数は大正四年から十四年迄の十年間に票用車873台から18562台に,荷積用は24台から7884台 に飛躍した。又自動車交通の発達に刺激されて道路法が公布されたのは大正八年であった。(富永祐 治:交通に於ける資本主義の発展,1953年岩波書店24頁及209頁) (2)清水馨八郎=東京中心のトラヅク輸送の現状と限界(自評25の7) (3)自動車の登禁力や転回力は汽車に比し遙かにすぐれて居り従来存在した多くの道路が自動車道路に かわっているQ例えば信州では木曽山脈を横断して伊那から名古屋ヘバスを通じているがこれは一L 古の東山道の道路系に類似しているっこの様な事例は全国各地にみられる所でありその極端なのは 乗鞍登山バスの例であろう。 (4)吾妻鏡 元久二年三月筆も知られるが,ともかく中世末期には一般に鈴鹿山地 の山路が横断路として重要視されていたようである。 その理由は根本的にはこの山地の地理的位置が当時の 社会政治状勢の下に大きな意義を有していたことにあ るであろう。その経済的なあらわれが近江商人の旺盛 な商業活動に基く江勢両国の物資の移動であり,政治 的なあらわれが当時の社会不安と戦国諸侯の争乱の聞 に演じられたこの道の聞道的役割である。先ずこの地 域の交通路の地理的位置をみると,鈴鹿山地は近江・ 伊勢を劃する一大地塁であり,叉近江盆地を形成する 周壁の一環として存在する。一般に周囲を山にかこま れた盆地は周辺の異質的な地域との接触を可能な限り 求めようとする結果,山地の障碍度の如何にもよるが,
多くの場鰍出型の交醗を形成す謂雛山地を越
える多くの交通路は本来このような盆地の対外交通路 体系の一一部としての性格をもち,北方関ケ原の盤路か ら順次南方に五二越(500 rn)・鞍掛越(791 m)・治田 越(760m)・石樽越(689皿)・入風峠(938m)・千草: 越(800m)・湯山越(890 m)・安楽越・鈴鹿越と並列 しているQ(第二図参照)このうち関ケ原(中山道)と鈴 鹿峠(東海道)を除くと,多くは高い峠を有し,鈴鹿山系 (c}) とほぼ直角に走ると思われる断層線にそう谷を湖り峠 を越えた後三重県側の断層崖をきざむ谷に降りている が,これらの交通路はそれぞれ固有の存在理由をもち つつ互に競合の関係にある。その場合これに大ぎく作 用する要素は距離性と坂の傾斜度や高度であろうが, この中湖東と伊勢の津・四日市を結ぶ最も有利な交通 路が千草越と八風越であった。而して更に注意すべき は京都より尾張・三河への道は中山道・東海道何れをと (7) るよりも八風・千草を利した方が近かったことである。 寳巴 3胡 筆= 王膨革
∋虚 根 ■, 3 ’脚 .、 、 4 0 、 多ノr
・・酋 tC 山, ’ ・●o「gqじ。 N.慧
6野. Nx
緊緊
象・L 緬 ,龍 一ノ 六垣 r’N .一.J xN
N N馨
x bN“N x N ’ t 危古屋豪
! 義 ’8 ご ,・礁9 ノへ’愚
伊勢蓼
ご’
6.σ一
第2図 ①五気弱②鞍掛峠③治田峠④石榑峠⑤八風峠⑥根平峠 ⑦湯111越⑧安楽峠⑨鈴鹿峠斜線は永源寺村 50000α/1 註(5)滋賀県の場合湖西に4,湖北に5,湖東・湖南に記述のものの他5の峠がかぞえられる。山形盆地な どはその好例であろう。 (6)辻村太郎:日本地形誌 昭22古今書院38頁 (7)日本里程総覧(吉田平編明治16年)によって計算すれば,東海道による場合,草津一口田間は31里19 丁,中山道による場合24里33町であるに対し,八風街道を利用すれば約21里半となるQ愛知川上流地域に於ける交通路の変返と回春 (小牧) 11 このような地理的位置は’経済上近江商人の利用する 所となった。この交通路は単に江勢両国の最短距離に あたるばかりではなく,一方には内陸,他方には臨海 と異った地域を結びつけて居り,それらの物質の運搬 に絶好であった。近江商人が商業交通路として之を利 (g) 用した事情については既に述べたことがあるのでここ では省略するが,何れにしても前述の如き多くの交通 路の存在は近江商人の活動を除外しては理解できない であろう。又,政治的・軍事的関係からみると,由来こ の山道は東海道・中山道に対し間道的存在であった○ 例えば足利時代後半近江は六角・京極両家が相対峙し て争うところとなったが,長享二年(1488)京極政高は 同族高清と松尾に戦って敗れ,政所谷に入りこの道を (9) 三重の梅戸に逃れてそこに暫くかくれている。又織田 信長もその全国制覇の前,密かに上京した際帰途をこ (10) の道にとり,一日にして清洲迄帰ったと伝えられる。 伊勢・尾張への距離が近かったことは聞道としての価 値を更に高めたであろう。それが戦乱の世となり,主 要道がしばしば閉鎖されたり,多数の関所が設けられ たりするようになると,それらの支障を受けない間道 は益々有用性を発揮したと思われる○特に信長の全国 制覇により尾張・京都間の関係が密になればなる程こ の道の利用も盛んとなったとみられるのである。一般 (lb 入や尾張・三河の商人などの通行もこのよ5な事情 の下に行われたのであろう。 中世横断路としての八風街道の役割は以上の如くで あったが,この地域には更に治田越・恥曝越が存在し た。治田越は前節にもみた如く御池川を攣り君ケ畑よ り年輩を経,治田新町に至るものであり,石樽越は八風 越と柾葉尾上流の片瀬で分れ更に川を湖って古語録橋 より卸し石縛峠をへて石榑村に至るものである。前者 は警世,峠附近に鉱山があり,茨川はその鉱山集落とし て発達したと伝えられる所からみれば,鉱石の運搬路 としての機能を有していたと考え.られる。八風峠とこ のこ者を比較すれば,治田越が鴛ケ畑一二川間と茨川 一治田新町間に夫々峠(720 mと760m)を有し上下の 変動が大であるのに対し,石榑越は峠もやや低く一つ のピークを極として東西に連続的に下る。八風越は峠 が938mの高度(この山地では最高)を示し「九里皆坂 (1・2) 也。一段之坂也」(言継卿記)で石榑越に比しやや急で ある。即ち坂の傾糾や峠の高度からは石樽越が最もよ い道で,次いで八風・治田の順である○しかし石傳は 入風に比し,三重の中央部に対してはやや廻り道とな るので,地形的には不利でも八風が主に利用されたと (lr.) 考えられる。(第三図参照) 江戸から明治にかけてのこれ等の道は中世程には利 用されなかったであろうが,それでも若干の横断交通 がみられた。明治36年に於ける山上留日野屋の宿泊者 C14) 名簿には三重県人の京詣り,永源寺詣りがみられ,そ の他江州人の伊勢詣り,永源寺1曽の三重托鉢等が注意 されるのであるが,利用者の行動範囲は前代程大規模 ではなく,地方的な横断交通への縮少化傾向を看取し 得る。それが更に鉄道交通の時代となると,横断交通 (1,一)) 量は著しい減少を示すに至った。 近江・伊勢問を大規模に流動した人及び物資の動き にはこのようにして終止符が打たれんばかりとなった が,戦後自動車の発達はヒの道路を回春せしめようと している。即ち戦後林の道開設によってこ地域に入っ た自動箪路は前述の如く殆んど茨川に達しようとして いるが,それを利用する木材の搬出は多くが中部及び 三重方面に向けられている。この場合その輸送はトラ ックによる安土駅迄の搬出(そこから鉄道輸送)ばか りでなく,直接名古屋,或は南方の鈴鹿を迂回して四 日市に至るものも少くない。又この山地で生産される 註(8)小牧実繁,村松寛:江勢交通路と近江商人(地理と経済創刊号昭11年)参照。 (9)越智郡志 巻二 (10)神幸遺志稿 下巻 (11)永緑三年十月三河商人が信長の軍兵に中仙道を塞がれ京都への木棉荷を千草越で運ぼうとして没収 されたり,天文九年八風越相谷関附近で木棉荷没収の事があったりしたのは三河商人の通行を物語る し(El吉神社永緑三年十月十六日及び同年十一月九日付文書)応仁二年僧横川が八風越をしてきた尾 張商人に従って京都に行った(愛智同志巻2)などは尾張商人の通行を示している。 (12)神崎郡志稿 下巻 (13)この点については現在の所詳らかでない。今後の研究にまちたい。八風越が主であったことは相谷 をはじめ後に新関の設置をみている所から推察される。 〔14)同年非商業者で三璽より来て日野屋}こ宿泊したものは32名に及ぶ。(当時山上には少くとも二脅の宿 屋があったと思過れる)三重県側の鉄道の便宜が得られる迄は鈴鹿東麓の人々はこの峠をこえて八幡 まで歩きそこから京都へ汽車で出たことが伝えられている。又近江側では関西鉄道が出来るまでは 伊勢詣でに峠をこえたが,それ以後は徒歩で大原市場に出て汽車を利用したといわれている⊃ (15)例えば蓼畑の宿屋に於ける大田4年(宿泊件数342)と昭和16年(同499fDを上ヒ較すれば∫通則より きたものは前者が42件であるのに対し後者は38ヂ1である。之をみると全宿泊件数。)増加にもかかわ らず山越は減少して居り,後者の中10件はこの地の木材H騰のためであるから実際は更iC少くなつ ている事がうかがわれる。
1eoo
500一leoo
soo
星巨警自i1:昌さ25酵ノ
沿田越
(君ケ畑一高調一治田新町)1鞭
7ao
eoa 7bo、“。 蕾
穏瓢∵
700
oo 70 oo 60 oo 50 oo 40 Do 后榑偉鴛 ノ @@鵜
@
@瞬
@
σ。Z5
5残 r/ 綴が .∼吻8000 9000
一f“t, 200 :’:iS’St〈60 彗、 び も へ残〆ぐ㌶
ζ一監 1000 500 olooo 2eoo 30Do
ノ八風越 :t;;(if−1
(柾葉尾一田光) 4004000 5000 600D 7000 8000 9000
!認、
翻初
、〆論\卯。
鞭妙
咋翫蝿藩一之・.
300 24a
O 1000 2000 3000 4000 5000 6000 bOOO 8000 9000
第3図江勢横断道路の比較
愛知川上流塊域に於ける交通路の変遷と回春 (小牧) 13 炭は入力によって八風・石榑を近江・伊勢両方面に出 されている。このような事情は或程度横断路を必要と する理由をこの地域自体の中から作り上げているとい えよう。しかし更に大きい理由は,湖東平野と名古屋 工業地帯(四日市・桑名を含めて)の直接連絡を求め ようとする要求が自動車輸送の発達に伴って切実とな ってきた所に考えられる。’かくして中世にみられた横 断路の機能がトラヅク輸送のヅェールの下に現に復活 しようとしているのである。 この場合㌧自動車路を何処に求めるかが問題三なる が,彦根一五僧一桑名線と入臼市一石榑一四日市線が 現在互に競合し,結局双方共実現されることとなった。 ここにも中世末所謂由越衆(石塔。野々川・小幡沓懸) と呼ばれる蒲生・神崎の商人と犬上・愛知の市座商人 の対伊勢交通に関する争いやその勢力圏と同様の事態 をみる事が出来るのであって,往時の八風が石博に変 (16) つたのは八風峠の地形的制約によるのである。 この石榑越は,県の調査によると,五僧越に比し,