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(2) ジャズ 楽 器 としてのバンジョー (3) ジャズ 楽 器 としての 打 楽 器 第 2 節 東 京 ジアツバンド 小 括 第 4 章 大 正 後 期 から 昭 和 初 期 における 娯 楽 文 化 への 影 響 はじめに 第 1 節 映 画 における ジャズ (1) 外 国 映 画 におけ

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題目:近代日本における「ジャズ」の定着過程-「モダン」の象徴に至るまで- 著者 青木 学 目次 内容 序章 歴史学としての「ジャズ」研究 第1 節 問題の所在 第2 節 先行研究の整理 第3 節 課題の設定と定義 第4 節 時期設定と構成 第1 章 外国人演劇、音楽会、外国映画における「ジャズ」 はじめに 第1 節 外国人の演劇、音楽会における演目 (1) ジュリアン・エルティンジ一座 (2) カリフォルニア大学グリークラブ (3) 黒人合唱団による音楽会 第2 節 外国映画における「ジャズ」流入 (1) 外国映画と「ジャズ」 (2) 模擬音楽としての「ジャズ」 小括 第2 章 大正後期における社交ダンスと「ジャズ」 はじめに 第1 節 第一次大戦後のダンス流行 (1) 社交ダンスの流行 (2) 社交ダンス流行と「ジャズ」演奏 第2 節 雑誌、新聞に見られる「ジャズ」の紹介 小括 第3 章 大正後期における「ジャズ」の認識-「ジャズ」楽器を中心に- はじめに 第1 節「ジャズ」楽器としてのサクソホン(サックス)、バンジョー、打楽器 (1) 「ジャズ」楽器としてのサックス 1

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(2) 「ジャズ」楽器としてのバンジョー (3) 「ジャズ」楽器としての打楽器 第2 節 東京ジアツバンド 小括 第4 章 大正後期から昭和初期における娯楽文化への影響 はじめに 第1 節 映画における「ジャズ」 (1) 外国映画における「ジャズ」の描写 (2) 日本映画における「ジャズ」の描写 (3) 休憩奏楽における「ジャズ」 (4) 番組としての「ジャズ」 第2 節「歌劇」における「ジャズ」 (1) 浅草オペラのボードビルにおける「ジャズ」 (2) 宝塚少女歌劇(宝塚)における「ジャズ」-雑誌『歌劇』を中心に- (3) 松旭斉天勝一座における「ジャズ」 第3 節 新聞、雑誌の小説に見られる「ジャズ」 (1) 新聞小説に見られる「ジャズ」 (2) 婦人雑誌の小説に見られる「ジャズ」 (3) 探偵小説における「ジャズ」-雑誌『新青年』を中心に- 第4 節 ラジオにおける「ジャズ」-新聞を中心に- (1) 音楽番組おける「ジャズ」放送-「ジャズ」放送の解説傾向と評価- (2) 音楽番組以外に見られる「ジャズ」 (3) 大礼記念番組における「ジャズ」 小括 第5 章 昭和初期における「ジャズ」の利用 はじめに 第1 節 出囃子、演目における「ジャズ」利用 第2 節 建築、絵画、広告における「ジャズ」利用 (1) 芸術作品における表現としての「ジャズ」利用 (2) 建築における表現としての「ジャズ」利用 (3) デザイン、広告における表現としての「ジャズ」利用 小括 終章 2

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第1 節 各章のまとめと総括 第2 節 近代日本における「ジャズ」定着の意義 第3 節 本論文の意義と今後の課題 図版 参考文献 本文要約 序章 明治期、「西欧文化を国策として導入」1するため、文部省により音楽の科目が置かれ、唱 歌教育が施行された。唱歌には和洋折衷という作曲方針から西洋音楽が取り入れられ、国 の政策により、日本人は幼いころから西洋音楽にも触れることになる。 このように、西洋音楽は教育によって根付いた音楽であるが、流入された「ジャズ」が 学校の音楽教育として取り上げられることは基本的にはなかった。しかし、昭和戦前期に おいて「モダン」を象徴する音楽となり、様々な文化に影響を与える音楽となる。 では、どのような過程を経て、学校で学ぶ事のなかった外来の大衆音楽が、昭和戦前期 において大きな影響力を持つ音楽になることができたのか。 こうした問題の検討は日本の音楽史の展開のみならず、日本における西洋文化が定着す るまでの一つのあり方を示すことができる。また、流入してきた西洋文化の役割を見出す ことで、新たな近代日本社会の様相を捉えることも可能であると考えられる。 従来の日本の戦前「ジャズ」史研究を辿ってみると、内田晃一『日本のジャズ史:戦前 戦後』(スイング・ジャーナル社 1976 年)、瀬川昌久『舶来音楽芸能史-ジャズで踊って』 (清流出版 2005 年)、毛利眞人『ニッポン・スイングタイム』(講談社 2010 年)などが 挙げられる。これらの先行研究に共通する特徴として指摘できるのは、演奏者、楽曲、歌 い手等を中心にした構成という点である。「ジャズ」は音楽である以上、作品や発信する側 が存在しなければ成立しないため、その点で、先行研究は日本の「ジャズ」の歴史を知る 上で大きな功績を残したといえる。しかし、作品や発信者のみに焦点を置いた一方通行の 研究だけでは、日本において「ジャズ」がどう認識され、人々に広がり、定着したかその プロセスまでは断片的にしか解からないと指摘することができ、本当の意味で日本におけ る「ジャズ」の受容が明らかになっているとは言いがたい。 日本の歴史において「ジャズ」が定着する意味を歴史的変遷を追って考察し、史実から これまでにない近代日本の歴史像を明らかにするためには、歴史学からの観点も必要と考 えられる。本論文ではこれらの問題を意識し、当時発行された雑誌、新聞、書籍等の一次 史料を論拠として検討し、近代日本において「ジャズ」がどのような音楽として認識され、 1 中村理平『洋楽導入者の軌跡 日本近代洋楽史序説』(刀水書房 1993)5 頁。 3

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人々に定着していったのかを明らかにした。 現代における「ジャズ」の重要な定義の要素に、「「アドリブ」もしくは「インプロヴィ ゼーション」と呼ばれる」即興演奏2やシンコペーションのリズム3「リズム・セクション (楽団の中で、非旋律的な要素を受け持つ演奏者のグループ)」4などが挙げられる。 しかし、1926 年に出版された『コンサイス英和辞典』における「Jazz」の項目では、「弱 声部ノ位置ニ強声部アル切分法ニヨレル音楽又之ニツルル舞踊」5とあり、定義に即興演奏 は入っておらず、リズムについてのみ述べられている点で、やはり現代の「ジャズ」の定 義とは異なると指摘できる。その点を考慮すると、当時日本において何を「ジャズ」とし ていたかを探るのも本論文の重要な論点となる。従って、現代の定義で検討せず、史料の 文脈に書かれた「ジャズ」という言葉に重きを置き、戦前日本における「ジャズ」の様相 を検討する。 また、「現代風」「新しい」という意味を持つ「モダン」も「ジャズ」と同様に、何が「現 代風」であり「新しい」のか、その内容はそれぞれの時期によって変化すると考えられる。 よって、「モダン」にも戦前の「モダン」が存在すると考え、本論文では「モダン」として 表記することにした。 本論文では、1920 から 1931 年までを対象として扱うことにし、1920-1922 年を流入期、 以降1931 年までを定着期と区分した。さらに、定着期には 2 つの段階があると考え、1923 -1928 年を認知段階と 1928-1931 年を普及段階として分割した。 時期の設定理由については、国内における外国人の「ジャズ」演奏が1920 年から確認し はじめることができ、同時期から1922 年までには社交ダンスの流行も確認できる。また、 その流行に伴い、新聞、雑誌等では「ジャズ」という言葉も紙面に表れはじめる。従って、 日本において1920-1922 年は「ジャズ」が流入、紹介された時期と判断し、流入期とした。 1923 年頃からは流入期(1920-1922 年)の動向が、当時の人気娯楽であった映画、「歌 劇、新聞や雑誌の小説などの国内の作品内にも「ジャズ」が反映される様になり、その時 期が1923-1928 年と考えた。 1928 年で区切りをつけた理由としては、「ジャズ」ソングである「私の青空」の大ヒット や、同年の昭和天皇即位の大礼記念のラジオ番組において「ジャズ」が放送されているこ とから、時代を象徴する音楽であったことが確認できる。従って、認知が全国区であった と判断し、1923-1928 年を認知段階とした。 認知された「ジャズ」を扱う文化が普及することで、「ジャズ」は様々な意味を含むよう 2 相倉久人『ジャズの歴史』(新潮社 2007 年)11 頁。 3 同じ高さの弱部と強部が結ばれ、弱部が強部となり、強部が弱部となって強弱の位置が変 わること。出典は『新音楽辞典 楽語』(平凡社 1983 年)293 頁。 4 フランク・ティロー 中嶋恒雄訳『ジャズの歴史 その誕生からフリージャズまで』(音楽 之友社 1993 年)80 頁。 5 三省堂『コンサイス英和辞典』(三省堂 1926 年)379 頁。 4

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になり、それが文章表現の場で利用され(例:建築ジャズ、ジャズ的構図など)、「ジャズ」 は1 つの文化現象として確立したといえる。 また、1931 年に出版された『超モダン用語辞典』に「ジャズ」の項目が掲載されている 点や、トーキー映画第1 号である五所平之助監督作品『マダムと女房』の内容に「ジャズ」 を扱っている点から、1931 年には「ジャズ」が「モダン」な音楽として定着していたと考 えられる。従って、1928-1931 年までの期間を普及段階とし、この段階をもって大衆文化 として「ジャズ」が日本に定着したと考えた。 第1 章 外国人演劇、音楽会、外国映画における「ジャズ」 第1 章では、1920 年以降に日本で開かれた外国人による演劇、音楽会から「ジャズ」の 流入があったことを明らかにした。1920 年に来日公演を行ったジュリアン・エルティンジ 一座では、「オーケストラに合せて綱渡りをしながら踊る」6という光景や「半裸体の美人の 踊りを見、ジヤツズ、ミユージツクを聴」7けたことから、海外のヴァラエティ一座の演目 による「ジャズ」流入があったといえる。 また、大学による招聘ではあったが、同年に外国人による「ジャズ」演奏を含む演奏会 も行われており、カリフォルニア大学グリークラブにおいては確認できるだけでも、東京、 横浜、大阪、名古屋での公演が行われていた。さらに、同時期には黒人合唱団による音楽 会も行われており(「ジャズ」の曲目が確認できるのは1922 年)、こうした外国人による公 演は限定的ではあるにしても「ジャズ」の普及に貢献したといえる。 同時期日本で公開された外国映画におけるダンスの場面においても、「ジャズ」バンドに よる演奏場面があったことも確認でき、映像からの流入も指摘できる。また、西洋映画専 門常設館における外国喜劇映画のオノマトペを出す楽隊が、「ジヤツズ・バンド(模擬音楽)」8 といわれていた。しかし、映画館におけるオノマトペが「ジヤツズ・バンド(模擬音楽)」と いう認識が浸透しなかったことを考慮すると、オノマトペ=「ジヤツズ・バンド(模擬音楽)」 はこの時期特有のものであったと考えられ、「ジャズ」に対する認識が統一されていないと いう点は、「ジャズ」が流入しはじめの音楽ということが指摘できる。 第2 章 大正後期における社交ダンスと「ジャズ」 第2 章では、1920 年から 1922 年までの社交ダンスに焦点をあて、社交ダンスの流行か ら「ジャズ」の流入を検討した。これまでの先行研究では、日本の「ジャズ」史において、 重要な位置付けがなされている花月園を中心に取り上げてきたが、本論文では、花月園以 外で見られた「ジャズ」演奏に焦点をあてることで、外国人「ジャズ」バンドの存在や軍 楽隊による「ジャズ」演奏もあったことを明らかにした。 6 東健而「ブロードウエー気分」(『花形』1920 年 8 月号)91 頁。 7 同上 96 頁。 8 帰山教正「所謂映画劇と新派悲劇」(『活動画報』1921 年 9 月号)41 頁。 5

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こうした流行に伴い、雑誌や新聞で「ジャズ」も取り上げられることになったが、一般 的に社交ダンスには「男と女と抱き合ふやうな醜態」9というイメージがつきまとっており、 伴奏音楽である「ジャズ」にもその印象が反映され、「低級」や「騒がしい」音楽という認 識が形成されたといえる。ただし、「ジャズ」を享受しているのは基本的に若い世代であり、 「低級」や「騒がしい」認識を持って非難しているのは、それ以外の世代であったことが わかった。 第3 章 大正後期における「ジャズ」の認識-「ジャズ」楽器を中心に- 第 3 章では、当時の「ジャズ」楽器に着目し、楽器の持つイメージから「ジャズ」の認 識について検討し、ここでは、「ジャズ」楽器の雛形とされたサクソホン(以下、サックス)、 バンジョー、打楽器を中心にとりあげ、それらは、従来のオーケストラではあまり見られ ない楽器で、「面白い」音のする楽器として捉えられていたことがわかった10 バンジョー、打楽器においては音だけではなく、リズムを補強する楽器でもあることか ら11「ジャズ」の特色がリズムであることも改めて確認することができる。そうした点を ふまえると、これら「ジャズ」楽器が「ジャズ」と判断するにあたり、大きな判断材料で あったと考えられる。また、「東京ジアツバンド」の存在も明らかにし12、バンドメンバー のイーストレーキはマンドリンの指導者であったことから、外国人のマンドリン指導者か らの「ジャズ」流入も検討した。 第4 章 大正後期から昭和初期における娯楽文化への影響 第 4 章では、当時の人気娯楽である映画、「歌劇」、新聞や雑誌の小説、ラジオなどを取 り上げ、多面的に「ジャズ」の認知について検討した。大正末期になるにつれ、日本映画 や日本人作家による小説でも、作品内での「ジャズ」バンドによる演奏場面が確認できる ようになり13、日本の作品への「ジャズ」の反映が顕著に表れはじめる。 宝塚少女歌劇(以下、宝塚)や浅草オペラの演目における「ジャズ」は流入期とも重な っており、宝塚が前述のカリフォルニア大学グリークラブによる「ジャズ」の演奏を見学 していたことをふまえても、海外の新しいものを作品に取り入れようとする様子が窺える。 9 「投書 婦人から ダンスに困る娘を持つ親」(『都新聞』1922 年 3 月 8 日付)9 面。 10 例えば、山田耕作は1922 年に出版された著書『作曲者の言葉』において、サックスを 「新しい楽器の一つとしてかなり面白いもの」としている。 11 『東京日日新聞』1920 年 8 月 7 日付 6 面の記事、「グリー・クラブの誇り ジヤズバン ド 軽快で芸術味の豊かなる強いリズムのシヤス音楽」では、「ジヤズのジヤズたる所以 は実に此のバンジヨーと打撃楽器の力強いリズムとにある」とある。 12 音楽雑誌『音楽界』1920 年 7 月号では「楽界時報 東京ジアツバンド」の記事が確認で きる。 13 映画では 1926 年 10 月 1 日に封切りされた『悲しき犠牲』や小説では 1924 年から 1925 年まで『大阪朝日新聞』、『女性』に連載された谷崎潤一郎の「痴人の愛」がそれにあた る。 6

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同時期における宝塚や浅草オペラの演目での「ジャズ」はその表れと指摘できる14 1925 年に奇術師松旭斎天勝がアメリカから連れてきた「ジャズ」バンドは、先行研究で もしばしばとりあげられてきたが、ここでは絶大な人気を誇っていた天勝に注目し、天勝 による「ジャズ」流入を意義づけた。しかし、それらの演目内容には女性が「裸踊り」を 行なう「卑俗」な演目も含まれており、そうした演目もまた「低級」と呼ばれる一つの原 因であったといえる。放送開始直後のラジオでは「低級」と呼ばれていた「ジャズ」が放 送されていたが、その理由として上記でふれた娯楽などを通し、すでに若い世代を中心に 「ジャズ」が普及していたと考えられる。それゆえ、天皇即位の大礼番組における児童歌 劇で「ジャズ」が放送されるに至ったと考察できる 15。また、同日の『読売新聞』の見出 しでは「ジャズ」を使用した表現も見られ 16、時代を象徴する音楽であったことが確認で きるため、幅広い世代での認知が指摘できる。 第5 章 昭和初期における「ジャズ」の利用 第5 章では、幅広い層に認知された「ジャズ」の様々な文化への利用を明らかにした。「ジ ャズ」の流行に伴い、落語家柳家金語楼が出囃子として披露した「落語ジヤズ」17などに見 られるように、寄席演芸の民衆娯楽にも「ジャズ」の利用が確認でき、より一層の普及が されたといえる。 それにより、「ジャズ」を使った表現も散見されるようになり、ここでは美術、建築、広 告などから利用における表現を検討した。1929 年 10 月号の『主婦之友』における「着物 カタログ 主婦之友伊勢崎銘仙」では、「品番(17)」の着物に「ジャズ」の商品名が付けら れ181930 年 3 月号の『新建築』では、京都南座の造りに表れた賑かさを「建築に於ける ジャヅ」19と表現している。こうした利用は、「ジャズ」のイメージを社会で共有できてい るからこそ成立するものであり、1931 年には「ジャズ」が日本の大衆文化として定着した ことを示しているといえる。 終章 以上の検討をふまえ、終章では、「ジャズ」がなぜ「モダン」の象徴になったのかを考察 14 例えば、1923 年 8 月号『歌劇』の読者投稿欄では「竹内先生の作曲に一寸ヂヤズの臭ひ をさしてあるのが耳についた」とあり、公演において「ジャズ」風にアレンジされた曲 があったことが確認できる。 15 放送された歌劇は「國の光」という題名で、作詞は多田不二、作曲は堀内敬三、演奏は JOAK オーケストラが担当している。 16『読売新聞』1928 年 11 月 10 日付朝刊 2 面の見出しには、「高鳴る胸押へて待つ喜び爆発 の瞬間!歓喜のジヤヅいよ〳〵急調に湧くゆうべの大礼都」とある。 17 『東京朝日新聞』1929 年 3 月 20 日付夕刊(19 日発行)2 面では「金語樓の珍案 落語 ジヤズ」記事が確認できる。 18「着物カタログ主婦之伊勢崎銘仙」『主婦之友』1929 年 10 月号)85 頁。 19「京都南座を見る」『新建築』1930 年 3 月号)26 頁。 7

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し、「ジャズ」の特色であるリズムから日本社会の新たな様相を捉える。 昭和初期において、「ジャズ」がなぜ「モダン」の象徴になったのか考察すると、「モダ ン」という言葉の意味を考えた時、「新しい」と解釈されることが多いと指摘できる。しか し、一方で、それらが登場した社会背景に目を向けてみると、1929 年に日刊東京新聞社か ら出版された、『百貨店をどうみるか』の「流行する今の合理化」という項において、「日 本には、今猫も杓子も合理化ばやり」20とされているように「合理化」の流行があったこと がわかる。つまり、「モダン」な文化はこうした「合理化」の流行の中から現れた文化であ ったことが指摘できる。社会全体が「合理化」を求めた時期であったゆえ、「モダン」は「新 しい」と解釈でき、その一方で、「合理的」という捉え方もできると考えられる。 「ジャズ」もまた、あらゆる点で「合理的」な側面を持つ音楽であることが史料から読み 取ることができ、本論文では、編成の「合理的」側面、流行音楽としての「合理的」側面、 音楽的性質の「合理的」側面を指摘した。 まず、楽団編成の「合理的」側面については、音楽評論家鹽入亀輔が著書『ジヤズ音楽』 において、 ジヤズバンドの編成は普通のオーケストラと非常に異るものである。オーケストラに あつて、高音部から低音部までの音を充実させる為めには多数の人数を要するが、ジ ヤズバンドにあつては最大のものでも二十名内外、普通は十名以下で、総ての音を充 実させることが出来る。その点非常にジヤズバンドはその編成において合理的である21 としており、「ジャズ」の楽団編成において「合理的」な面が確認できる。 次に、流行音楽としての「合理的」側面は、1930 年に四六書院から出版された『芸妓通』 で、「ジヤズやダンスを売り物にしなくてはやつていけない」22というように、売り上げを 伸ばすために「ジャズ」を取り入れることがこの時期の必要条件であったと指摘できる。 つまり、流行音楽である「ジャズ」を利用することで効率よい集客を示すと考えられる。 そして、音楽的性質の「合理的」側面は、小松平五郎が雑誌『新青年』1929 年 5 月号に 寄稿した「大衆音楽の方向」において、「ジヤズの持つ独特のリヅムや特異の芳香を一寸失 敬して一躍現代作曲家の大家になつた作曲家も居るのであります」23としているように、「ジ ャズ」のもつ「独特のリヅムや特異の芳香」を用いることで、流行音楽である「ジャズ」 になり、大量生産が可能であることを示唆している。 このように、同時期の「ジャズ」には「合理的」な側面が見られ、この「ジャズ」のも つ合理性こそが「ジャズ」が「モダン」の象徴として位置づけられた所以であったと考え られる。 また、アメリカを意識した合理化はアメリカニズムとして表れ、同時期にはアメリカニ 20 桝本卯平『百貨店をどうみるか』(日刊東京新聞社 1929 年)55 頁。 21 鹽入亀輔『ジヤズ音楽』(敬文館 1929 年)144 頁。 22 花園歌子『芸妓通』(四六書院 1930 年)37 頁。 23 小松平五郎「大衆音楽の方向」(『新青年』1930 年 5 月号)126 頁。 8

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ズムについて言及した多くの著書が出版される 24。それら著書の中で、アメリカニズムが 述べられる際、「ジャズ」はその代名詞として語られた25 当時から、アメリカは「自由主義」国家とされ、自由の国として知られていおり、「ジャ ズ」がアメリカの代名詞として当てはめられたその理由において、単に流行している音楽 という理由以上に、「ジャズ」という音楽の持つ自由さがアメリカのイメージと重なってい ることが指摘できる。 音楽評論家である堀内敬三は、音楽雑誌『音楽界』1923 年 6 月号に寄稿した「ジヤズバ ンド一斑」において、シンコペーションを「自由な奔放なリズム」26と紹介しているように、 「ジャズ」の自由さは「即興」だけでなく、リズムであるシンコペーションにも表れてい たことがわかる。従って、これら特色から「ジャズ」には自由というイメージが想起され たと考えられる。こうした自由というイメージから「ジャズ」はアメリカやアメリカニズ ム、そして、その思想でもある「自由主義」の表象としても記されることになる。 後の戦時下において宮田東峰27が音楽雑誌『国民の音楽』に載せた「米英的音楽の性質」 では、「実にジャズ音楽は阿片的毒素の内に咲いた自由主義の花」28として「ジャズ」を排 撃しているように、「ジャズ」は「自由主義」の表象と見られていた。また、同記事におい て、「ジャズ」を「米英の阿片的自由主義精神」29ともしており、「ジャズ」が「自由主義」 的な精神の表れを示していることもわかる。 ここでいう「自由主義」的な精神とは「国家意識を喪失」30した「自分勝手の自由な振舞 い」31を指し、「ジャズ」の奔放さは「自分勝手の自由な振舞い」であり、「個人の幸福を目 的」32とした精神と重ねられたのである。 雑誌『主婦之友』の編集者である石川武美は、1930 年 5 月号の『主婦之友』における 「編集日誌」において 三月十日(月)奉天会戦の廿五周年記念日で市は賑った。〔中略〕国運を賭して戦った あのときの国民的緊張は今の日本には無いかも知れぬ。〔中略〕一家の衰亡が家人の慢 心から始まるやうに一国の衰運も亦同じことだ。わが身ひとつの利欲のほか家も国も 24 その主なものに、金子馬治『欧州思想大観』(東京堂 1930 年)、室伏高信『全日本に呼 びかける』(田舎社 1930 年)など。 25 例えば、『工業評論』1931 年 8 月号に寄稿された木村重治の「アメリカニズムの解剖」 では、「今日世界の到るところに「米国式」-「アメリカニズム」と云う言葉を聞く、〔中 略〕ジレットの安全剃刀からヂャズバンドに至るまで、アメリカニズムを表してゐる」 とある。 26 堀内敬三「ジヤズバンド一斑」(『音楽界』1923 年 6 月号)8 頁。 27 1898-1986。ハーモニカ奏者であり『国民の音楽』の編集顧問。 28 宮田東峰「米英的音楽の性質」(『国民の音楽』1943 年 3 月号)12 頁。 29 同上同頁。 30 国民精神文化研究所『国民精神文化類輯第七輯』(国民精神文化研究所 1935 年)49 頁。 31 竹井十郎『日本の憲法政治とは』(南方情勢社 1937 年)5 頁。 32 同上同頁。 9

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忘れてしまつてゐる人はないだからうか。ジャズの国になりつゝある日本のために大 きい不安がある。互に覚醒せねばならぬ33 と言及している。「ジャズの国」を文脈に沿って考えれば、個人より国家を尊重する人間が 集まる国、すなわち「自由主義」的な国家と解釈することができる。 「ジャズの国になりつゝ」とされていることからも、この時期はまだ萌芽といった方が 適当と考えられ、従って、近代日本において「ジャズ」の定着は「自由主義」的な精神が 一般社会に定着しはじめたことを意味しているといえる。 従って、この時期の日本社会には合理化の流行と「自由主義」的精神の萌芽が存在した。 これらはそれぞれ独立したものと考えられがちであるが、合理性の追求は自由の獲得へと つながる。つまり、「モダン」の追求が「自由主義」的な精神の萌芽につながったと考えら れ、同時期に見られた合理化の流行と「自由主義」的な精神は表裏一体の関係性であると いえる。「モダン」は合理化を、合理化は「自由主義」を、「自由主義」はアメリカをイメ ージさせ、全てにあてはまる「ジャズ」はその象徴として相応しいものであったと結論づ けられる。 33 石川武美「編集日誌」(『主婦之友』1930 年 5 月号)402 頁。 10

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