ハンカ、、リーにおける経済改革の
推移とそのウ、、イジョン
石 津 英 雄
1 まえがき1
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年に新しい経済メカニズムがハンガリーで導入されてから,今年で 20 年目を迎えることになる。その聞に漸進的な政治的自由化と意義深い経済改革 が実施されてきた。とはいうものの,その道は必ずしも平坦なものではなかっ た。フェヶ宇によると,これは三つの時期に区分される。すなわち,黄金の時 代(
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年),幻想の時代0973-78
年),現実主義の時代(
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)がこ れにあたる。 新経済メカニズムが導入されたあとの5
年聞は,経済は順調に発展をとげ, 顕在的失業もインフレもなく,また国際収支も均衡状態にあったから,文字通 り黄金の時代といってもよい。もっとも新経済メカニズムは多くの経済問題を 未解決のままとしたが,他方,個人や協同組合や小企業の創造的エネルギーを 解放した。特に農業は大いに繁栄し,不足状態にある財貨やサービスの増大は 所得水準と生活水準の改善に大きく貢献した。物価水準の上昇は軽徴であった が,雇用の増大に伴って労働力不足が大都市や工業中心地においてあらわれ始 めた。経済成果にはみるべきものがあったにもかかわらず,経済改革の本来的 な理念は部分的にしか実現しなかった。6
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年の新経済メカニズムは,しばしば包括的な改革といわれているが,その (l) マ ー ラ ー(26)p..298.ガ ラ シ イ と シ ィ ラ グ キ ー(21)pp203-204.ただし両論では多少時期 区分に差がある。-26- 第60巻 第1号 26 実は計画化と制御の方法において大きな変化をみたが,もうひとつの側面であ る組織一一程統的な集権的計画経済の制度的な機構一ーについては,手を触れ るところがなかった。このことが改革のやり方に厳しい制約を課したことは確 かであった。
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年にかけて割合に簡単に改革が停止し,若干の分野では 形式はともあれ実際には改革は逆もどりした。経済管理の部分的な再集中化が みられたのである。 経済改革の後退をもたらした大きい原因のひとつは,7
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年秋の第l
次石油危 機の発生とそれへの対応で司あった。エネルギーおよび原材料価格の暴騰,交易 条件の大幅な悪化,西側諸国への輸出困難の増大が起こったにもかかわらず, 政策立案者はこのショックが一過性のものにすぎず,ハンガリー経済をそれか ら隔離させることができ,そのためにとるべき最善の政策的対応は経済成長率 を加速させることであると判断した。投資と貿易は,世界市場から離れてコメ コン諸国との協力に向けられるべきものとされ,経済改革過程も停止され,あ る分野では逆もどりも止むなしとされたのである。このことが党指導部の勢力 関係にも波及し,保守派は改革派の失政(所得差別化政策,投資過熱化の問題 など)を糾弾し,ニエノレシュやフォッグらの改革派幹部の解任や降格人事 (75 年〉を行い,自派勢力の回復を図った。ハンガリー経済の温室経済化と保守派 の支配は,経済改革の後退を余儀なくさせた。にもかかわらず,6
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年改革の基 本路線は保持された。7
3
年以降経済政策は保守派の担うところとなったが,改 革派の基本構想に対置しうるドクトリンを持ち合わせていなかった。その間の 状況は平泉論あこよって明確に示されている。保守派の狙いは, (1)価格に対す る統制の強化, (2)労農間および各階層内部の所得格差の縮小, (3)中央指導機関 の企業に対する指導力の強化,(4)党機関の経済指導点検活動の強化におかれた。 しかし,ハンガリー経済は外からの経済ショックを完全に遮断することはで きなかったし,今日もそうである。貿易依存度の高いハンガリーは,エネルギー や原材料の大部分を海外から輸入しなくてはならず,たとえそれがコメコン諸 (2) 平泉C9J 参照。27 ハンガリーにおける経済改革の推移とそのヴィジョン -27-国からの輸入であっても,その取得費用は世界市場価格に結びついていたし, また輸入量のより多くの部分を世界市場で交換性通貨で手当しなくてはならな くなった。ソ連による価格政策の改訂と輸出量の制限に加えて,特に 76年以降 における西側先進諸国からの輸入価格の反落がハンガリーの対外収支を急速に 悪化させ,累積債務を増大させることになった。第1次石油危機後の対外借入 れによる高度成長維持政策は1978年まで続けられた。この政策は明らかに失敗 であった。 経済改革が再び前進するのは78年からである。この年に再び改革派が党指導 部において優位に立つこととなった。 73-78年におけるハンガリーの高度成長 維持戦略は,西側市場における輸入障害と新興工業国の対外競争力の向上に よって袋小路へと追い込まれた。改革派は,過去10年間の改革過程を総括して, 68年の改革構想の有効性を再確認し,その方針を強化することを明らかにし た。幻想の時代は終わり,現実主義の時代 i実績主義の強イヒ」が始まった。 1979年以降ハンガリーは改革の第2段階を迎えた。新経済メカニズムへのダ メージを修復すると同時に, 1980年代後半における一層の前進にとっての新し い基礎を創出することとなった。特に84年には85年-87年にかけて実施され るべき新しい改革方針が党と政府の指導部によって採択されたのである。平泉 氏は, i1979年に開始されたハンガリー経済改革の新たな高揚(改革第2段階〉 は,その後改革第1段階 0968-71年〉の積み残し諸課題を解決しつつ急激な 展開をとげ, 85年にはついに68年経済改革構想をも(むろんこれを内包しつ つ〉質的に乗り超える第3段階に到達した」と指摘され,そのメルクマールを 「かなり広範囲な国有セクター(中小規模国営企業,および大規模国営企業の 一部〉への労働者自主管理システムの全面的もしくは部分的導入に求め」てお られる。 時に曲折はあったものの,ハンガリーは1956年以降いかにも息の長い経済改 革の道のりを歩んできた。ここでみられる最も印象深いことのひとつは,伝統 (3) 平泉04J 27ページ。
-.28 第60巻 第1号 28 的な集権的計闘経済制度を効率的に作動するメカニズムに転換するのは, どれ だけ技術的に面倒で、あり,かっ政治的に閤難であるかということである。もと もと経済改革は,コルナイも指摘するように r一撃的な行動ではなく長い過程 である。」ハンガリーは,伝統的なソ連型の集権的計画経済と効率的に作動する 規制された市場経済の中間点にある。またハンガリーの経験はひとり同国のみ のものではなく,その成功と失敗を注意深く学びとろうとする動きがみられる。 中国はその代表例であるし, まだ改革が実施に移されていない東欧諸国でも, 遠大な変革の提唱者はしばしばノ、ンガリーに言及している。その点からみてハ ンガリーの改革は世界的な関連をもっlつのモテールとみるべきであろう。 西側で流布している見解によると,ハンガリー経済は「市場社会主義」シス テムになっているか,あるいはそれに限りなく接近しているとされる。たとえ ばグレコリとスチュアートは,ハンガリーの新経済メカニズムがランゲの市場 社会主義モデルにきわめて類似しているとみているが, このような解釈は明白 に誤りである。ハンカ、リーの改革派のヴィジョンはこれと違ったものである。
L
かし,改革派といっても単ーではない。われわれの関心はこれを明らかにす ると同時に,改革過程の推移をみながら,経済システムの性格について検討し てみたい。 2. 68年改革とその問題点 経済システムは,一般的にいうと,(
1
)
計画化の方法,(
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)
その規制メカニズム, (3)経済諸機関の組織からなる。 68年の経済的分権化にあたってハンガリーで は,計画化の方法が変更され,新しい規制メカニズムが導入された。しかし, この改革過程では経済諸機関の古い組織は温存されたままであった。その意味 で新経済メカニズムは,統一された,内的に首尾一貫した改革モデ、ルとはいえ なかった。 新経済メカニズムの主要な特徴は,まず第1
に計画化の方法にあったが,そ (4) コノレナイ(23)p1689.29 ハンガりーにおける経済改革の推移とそのヴィジョン -29-れはユーゴスラビアのように,中央の計画化を放棄したのではなく,その範囲 を縮小し,その手段を変更したことである。中央はもはやマグロおよびミクロ の意志決定を全面的に計画するのではなく,もっぱらマクロの計画に集中する のである。といってもミクロの領域における直接的な計画化が完全に消滅する のではなく,それはインフラへの投資,優先度の高い生産セクターへの大規模 投資,国防産業の行政的規制, コメコン貿易義務の達成,基礎的消費財のよう な重要生産物の供給責任に限定されたのである。マグロ経済的目標を達成する ために,中央機関は,自分らが経済パラメータを設定したり,あるいはそれに 影響を及ぼすことによって規制される市場メカニズムに主として依拠するので あり,その点で中央計画とは,経済政策の広範囲な目標の設定とその達成に必 要な手段の精巧な完成を意味するものである。計画はオ}プンな性格をもち, 予見できない内外の諸条件の変化に柔軟に対応すベく諸目標はある広がりをも つものとして設定され,その遂行過程で修正されうるものとみなされている。 計画の遂行はもはや計画指令によるのではなく,経済的なレギュレーターに よるものとされ, しかも企業は上位機関と協議しながら自らの計画を国民経済 計画とレギュレーターとに関連させて立案を行う。その履行は強制的ではなL。、 法制上では企業はもはやその計画を上からの命令によって変更はしない。 新経済メカニズムの第2の特徴は,計画遂行の手段,つまり経済的レギュレー ターを積極的に活用することにあった。価格,為替レート,課税,補助金,賃 金設定のルール,利子率,信用および関税等の経済的パラメータの操作を通じ て中央は自らの政策の諸目標を実現するのである。ただ過渡期にあっては標準 的規制,つまりレギュレーターの一律の適用を即時的に適用せず,
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-10
年に わたって漸進的になすべきものとされた。し、し、かえると,その聞は部門や企業 毎に分化させる率を用い,企業活動を誘導するのである。すなわち,その適用 は上位機関と企業の取引の対象とされるのである。しかし, この点にこそ問題 が残されていた。「政府の統一的レギュレーターにより規制された市場におい て,企業が利潤最大化動機にもとづき r社会主義的企業家精神」を発揮する」 (5) 西村C7J 306ページ。-30ー 第60巻 第1号 30 とし、う改革の中心的内容が, こうして発足当初から骨抜きにされたのである。 企業による経常的な生産決定はいっそう弾力的になされ, しかも利潤を最大 化するように求められたが,他方では多くの分野で統制が残されていた。価格 メカエズムがしかるべく機能せず,供給に対する価格の反作用が欠如していて は,利潤動機も弱体化してしまう。また企業によって実施される投資をみると, その独自の資金源である発展フォンドの創設と補充には部門毎に規制が加えら れ,さらにもうひとつの銀行信用の供与は,対象を特定する中央のガイドライ ンによって制約されていた。中央機関はこの規制を通して企業投資の水準とそ の方向を決定する。西村氏は,市場メカニズムの不十分な作動を規定する基本 的条件として,
r
l
国家経済管理機構の構造,2
経済システムに対する国民 の価値観, 3 両者の結果としての国家と企業との直接的依存関係の形成」を 指摘した後で,引き続き結論として 2つの重要な問題の存在を明らかにして いる。すなわち,その第1
は r社会の諸種の利害の担い手であるために利潤最 大化に一義的関心をもつことができない国家機関が,国家的所有の代表者とし て国有企業を支配する場合には,オートノミーを与えられた固有企業が利潤最 大化にもとづき企業家的行動を展開するという改革構想は実現困難になる」と し,また第2点として「あまりに広くかっ厳格に解釈された「経済生活の安定 性」が経済政策の目標として追及されると,経済的レギュレーターの統一的操 作が不可能になり,それ自体が国家機関と企業との聞の交渉対象に転化される」 ことをあげて,これが後に国家的所有の再検討と実績主義の強化を導いたこと を明確にされている。 西村氏の指摘された論点以外に,なぜハンガリーではレギュレーターが十全 に市場決定に直ちにゆだねられなかったかについて2つの基本点な論点があ る。マーラーも指摘するように,6
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年当初のハンガリーでは有効に作動する市 場メカニズムにとって不可欠な産業組織と競争諸条件が欠如していた。圏内市 場で多くの生産者が独占的な売り手や買い手であったり,国際収支にゆとりが (6) 西村(7J 305ベージ。31 ハンガリーにおける経済改革の推移とそのヴィジョン -31-なくて意味のある輸入競争を許すことができなければ,価格や賃金などを自由 な市場の作用にゆだねることはできなし、。これが最も重要な理由であった。第
2
の理由は,過去2
0
年間の不均衡な経済発展,恋意的な価格,賃金,課税およ び補助金の諸政策が経済にあらゆる種類の不均衡ー一一ある部門における過剰な 生産能力と他の部門における過少ないし旧式の生産能力,生産物やサービスの 多くの不足と若干の余剰,生産物価格と生産要素価格との聞の怒意的な関係 ーーを生み出していたことである。レギコレーターが直ちに市場の決定にゆだ ねられていたとすれば,インフレと失業とを伴う法外な経済的混乱は避けられ ない。これは社会政策からして許されないことである。経済的破壊を弱めるた めには,経済的レギュレーターが管理され,そのインパクトが抑制されなくて はならなかった。ここに「規制された市場」の現実の姿が存在していた。 以上みたように,経済的レギュレーターが機能できるかどうか,またどのよ うにそれが機能できるかは,その国の経済諸機関とその構造とに密接に結びつ いている。産業組織,中央の経済官僚機構,銀行制度および外国貿易制度の変 革は,改革派の望むところであったが,かれらは政治的に強力で、はなかったこ とから,それを十分に実現することができなかった。しかし,他に2つの意義 ある処置が講ぜ、られたが,それは十分に包括的とはいえなかった。そのひとつ は大規模農業生産者には非農業活動に従事することが認められたこと,もうひ とつは若干の生産者に直接的な外国貿易取引の権利が供与され,自由貿易国と の聞での共同経営協定が認められたのである。しかし,世界で最高度に集中化 している産業組織の改革はもとより,部門工業省や銀行制度にも手が加えられ なかった。このように,諸制度の改革は見送りになったが,にもかかわらず,1
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年にかけて経済成長,国際収支,生活水準の改善という点でみるべき 成果をあげえた。その要因は,ハンガリーの対外経済環境が恵まれていたこと と,新経済メカニズムの好ましいインパクトが作用したからである。しかし, 同時にこの期間に未解決のままになった問題も多かった。それらを列記すると, (1)競争の不十分さ, (2)価格体系の諸欠陥, (3) 賃金決定システムの不満足, (4) 投資効率問題の未解決, (5)利潤動機の弱さ, (6)コメコン貿易メカニズムの不満-32- 第60巻 第1号 32 足な統合があげられる。
3
制 改革の停滞0973-78
年〉1
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年の終わりに始まった内外の政治と経済の進展が,経済改革の原則は形 式的には放棄されなかったけれども,新しい経済メカニズムの履行を縮減しよ うとする動きとなってあらわれた。この反撃は党と国家の官僚によって指導さ れ,その地位が相対的に悪化していた大規模工業企業によって支持された。多 くの大企業は,かれらの投資計画,生産物の質やアソートメント,企業家精神 の基本的な弱さをさらけだすことによってその収益を低下させた。他方,多く の中小規模の企業や農業生産者は,経済改革によって与えられた機会を有利に 活用してその立場を強化した。より多くの雇用とよりよき所得機会が大企業か らの相当数の人びとを吸引したことに経営者は憤激し,また労働者は所得格差 の増大に不満を抱くことになった。このような事情で政治問題化した保守派の 反撃は,1
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年に始まり7
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年の終わりまで継続した。小規模の生産者や農業に おける企業者的活動は一連の新しい規制策によって制限を受けることになっ た。また次の数年間に多くの成功した中小規模の企業,なかでも機械部門では1
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年の分権化の方向を逆転するかのように5
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の大企業に統合された。 自由な政治的雰囲気は後退し,7
4
年にはニエルシュとフェヘルが政治局員のポ ストを失った。 これに追い討ちをかけたのが,第1次石油危機の発生による石油価格の暴騰 にもとづく交易条件の悪化と,それに続いて起こった西側諸国の景気後退で あった。保守派は,これらの対外経済ショックを遮断すベく次第に介入をまし, 圏内の生産者価格の構造を世界市場価格から大きく隔離した。数量的規制が増 大し,企業ベースで不労所得に課税が課せられる一方,ますます大企業は補助 金をあてにするようになった。生産者はコストを意識する誘因をもたなし、から, 資源・エネルギー集約的な生産パターンは変化しなかった。また消費者が世界 市場価格の変化に消費ノミターンを調整する動機をもつことのないように,圏内 生産者価格の上昇は十分には消費者価格に転嫁されなかった。33 ハンガリーにおける経済改革の推移とそのヴィジョン -33-保守派は,ここで自らの力を強めるために成長加速化を押し進める政策を継 続した。圏内投資と輸入をハイベースで膨張させることは,世界の新しい動向 と交易条件の悪化のもとではいつまでも持続できないことであった。こうした システム全体の不効率と政策の誤りは,巨額の対外借入れによってまかなわれ, やがて 1982年の国際収支危機を迎えることになった。その聞の具体的状況の推 移を次にみることにする。 4 石油危機と国際収支問題の発生 1974年以降ハンガリー経済に不利となるような国際分業の諸条件に激変が 生じた。これは第4 - 1表の示す通りであった。 70年代における価格の動向は
2
つの主要な要因によって特徴づけられる。ひとつは金価格の通貨価値からの 議離であり,もうひとつは石油価格の生産物価値からの需離であった。数字の 示すように,世界市場価格水準は3.5倍となったのに,原油価格と金価格の上 昇はそれぞれ10倍と 20倍であった。こうした価格関係の変化はノ、ンガリー経 済の国際分業上の諸条件を大きくそこなうことになった。交易条件は20%も悪 化したが, これはノ、ンガリ一国民所得の 10%の損失に相当した。 このような不利な過程はこれで終わりとなったわけではなし、。 1979-80年の 第4ーl表 価 格 の 変 化 項目 1970 1974 1979 1980 米ドノレの価値 世界市場価格水準基準 1. 00 050 038o
28 通貨パスケグト基準 1 00 085o
70o
77 金 価 格 1オンス(ドノレ〕 35 200 200 700 原 池 価 格 1パーレノレ(ドノレ〉 3 12 16 30 世界市場価格水準の変化 100 199 259 353 世界市場価格水準の変除化 100 185 237 260 ( 石油) 交易条件 100 190 157 208 出所 チ コ シ ・ ナ ジ(20)p.77. (7) マーラーC26J 参照。-34- 第60巻 第1号 34 第2次原油価格の暴騰が,さらにハンガリーの交易条件の悪化を導き所得の減 少をもたらした。コメコンにおける契約価格は75年以降それ以前の5ヶ年の移 動平均価格を考慮に入れて毎年変更されることになった。このことがハンガ リーの立場をいっそう悪くさせることになった。 交易条件の悪化は,生活水準を所与とすると,投資の削減を導くことになる から,相対価格の変化は構造問題を表面化させる。そのひとつはエネルギー構 造の計画的な転換で町あった。それにもまして重要な政策論争は,経済の対外バ ランスが成長の加速化か,それとも減速によって回復されるかをめぐ、って提起 された。
1976-80
年の第5
次5
ヶ年計画では,成長の加速化によって国際収支 の赤字が克服されるし,それが得策であるとされた。この保守派の意図は非現 実的であった。結果的には計画以上に大幅な対外借入れの増加がもたらされた。 ハンガリーでは国民所得を1%
増やすと,非ルーフツレ地域からの輸入は 13%
増えるが,年成長率が3-4%
を超える場合には,その値は2%
以上になる。 この数字が示すように,ハンガリーでは成長率を加速化させると,非ノレーブル 地域からの輸入は加速度的に増えるが,輸出はそれに追いつくことができない のである。こうした事実にもかかわらず,ハンガりーにとって問題なのは,追 加的なエネルギー・資源の輸入に関連した特殊な条件なのである。 ハンガリーは,石油必要量の20%
を閣内で調達し,残りの80%
をソ連からの 輸入に頼っている。時にはごく少量を世界市場からも輸入している。問題はコ メコン諸国から輸入する原材料と燃料の輸入は2
つの部分に分かれている点で ある。その大部分は国家聞の貿易協定にもとづく清算勘定取引(振替ルーフeル〉 で行われるが,それは割当制である。残りの部分は特別協定によって規制され る。石油の特別協定の場合には,交換性通貨によって世界市場価格が支払われ る。しかし,このことは直ちにノ、ード・カレンシによる支払いを意味するもの ではない。コメコン諸国がノ、ード・カレンシーによってのみ世界市場で入手で きるような商品を相互に引渡すことによって通常は決済される。この場合には, (8) マ ー ラ ー(26J pp. 289 -303.および世界銀行(28Jpp19-29参照。35 ハ ン ガ リ ー に お け る 経 済 改 革 の 推 移 と そ の ヴ ィ ジ ョ ン -35-第4-2表 原 油 価 格 〔トノレ/パーレノレ) 費(ハン用ガリ価ー生産格) コ メ コ ン 基 準 世 価 界 平 均格 年 次 輸 入 価 格 (サウジアラビ
m
J
原 油 価 格 1976 362 725 116 12 5 77 3 67 9 15 12 5 134 78 3 98 119 12 9 13 8 79 4 24 14 2 174 19 6 80 5 15 152 282 304 81(1) 5 18 18 1 32 0 330 出所 チコ、ン・ナジ[20]p,82 免換性をもっ商品が双方にとって交換の対象となる。 ハンガリーが清算勘定で購入する石油は一見すると有利にみえる。第4-2
表が示すように,第1次および第2次石油危機に続く時期には,世界市場価格 に比べると, コメコンの輸入価格は割安であり, これがハンガリー経済に一方 的な利益をもたらしたかにみえる。 しかし,事実は必ずしも有利とはいえない のである。その理由は,ハンガリーが輸出する農産品や加工食品の価格も協定 によって相対的に安くされているからである。それらの価格は西側諸国相互間 で取引される市場価格よりも相当に低く固定されており, しかも価格差以上に 部品供給等〉は2
つの市場であまり にも大きな差をもっている。重要な原材料や最先端技術については世界市場か アフターサービス 取引の各項目(品質, らの輸入が広く必要とされても, ハンガリーの生産構造は社会主義市場の需要 こうした貿易構造は,開放度の高いハンガ にまず第1
に適合させられている。 リー経済にとって一義的に有利とはいえない。 さきに示したように, 70年代におけるハンガリーの交易条件は20%悪化し た。その内訳をみると,非社会主義国とでは145%
であったのに,社会主義国 間ではほぼ20%となっている。このように,ハンガリー貿易は社会主義諸国と の間で著しい交易条件の悪化をみたが,貿易収支の赤字の割合は非社会主義と の取引において増大した。第4-3
衰の示すように,社会主義諸国との交易条 件とルーフ守ル決済取引との差は相対的に小さいのに,非社会主義諸国との交易-36- 第60巻 第l号 36 第4-3表 1970年代のハンガリー交易条件の変化 取 ヲ│ 関 係 決 済 関 係 社会主義 非 義社 会 ルーフノレ 諸 国 主 国 先 進 国 途 上 国 ルーブノレ 通以外貨の 言十 交易cl条98件0/の70変〕化 80 1 85 5 94 1 49 8 79 8 80 7 80 4 1980年の低下率 -19 9 -14 5 -5 9 50 2 20 2 -19 3 -19 6 出戸斤 ケーベj ユとオフヲート[24Jp9L 条件とルーブル以外の決済取引のそれは大きし、。特に注意すべきことは,ルー ブル以外の通貨で決済される取引数字のなかには,ハンガリーとコメコン諸国 との取ヲ│で交換性通貨で決済される部分が含まれていることである。石油やそ の他の燃料および材料から主としてなるハンガリーの輸入は,通常現行の世界 市場価格で取引されるものである。なぜ、この分野で交易条件の悪化が特に意味 をもつかの原因はここにある。 ハンガリーが経験した交易条件の悪化は,発展途上国と社会主義国とで大き く,社会主義国の中で、は特にソ連が大きくなっている。これに比べると,西側 先進諸国との交易条件の悪化は相対的に小さい。これはハンガリーの輸出入の 全体的な商品構造が価格関係の重大な逆転を正当化しない, とし、う事実によっ て説明されるものである。いい方を変えると,所与の貿易商品構成とコメコン 諸国の価格決定方式のもとでは,
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年以前よりもより急速に価格が引きあげ られており,そのため社会主義諸国との交易条件は大きく悪化せざるをえなし、。 西側諸国との交易条件は第1次石油ショックに続く 2年間に悪化をみたが,そ の後は僅かながら改善をみたのに,社会主義諸国との交易条件の悪化の過程は 幾分遅れて始まったが,多かれ少なかれ継続している点が目立つ。 交易条件の悪化は輸出入数量にどのような変化をもたらしたであろうか。当 然のこととして,より厳しい条件によって蒙った損失を補填すべき努力が社会 主義諸国への輸出増大へと集中したのであるが,地方,ハンガリーのそこから の輸入は抑制された。過去10年聞をとってみると,社会主義国からの輸入は年 平均55%増大したが,これらの国ぐにへの輸出は85%ずつ増加している。輸37 ハンガリーにおける経済改革の推移とそのヴィジョン -37-出も輸入も
1
0
年間均等に伸びたのではなし、。76-
例年聞には輸出入とも前年 期に比べて大きく後退した。輸入は,84%
から27%
へ,また輸出は1
16%
か ら54%
へとそれぞれ大幅に減少した。輸出/輸入の増加比率をみると,1
0
年 間の前半期のL38
は後半期には2引Oへとシフトした。 第4-4
表からみてわかるように,1
9
6
0
年代にハンガリーの社会主義諸国か らの輸入は大きく増大した。1961-65
年には年率83%
,1966-70
年には過去2
0
年のピークである年率印刷9%
にも達した。他方,6
0
年代前半期には輸出量は 輸入量よりも32%
も早く増加した。しかし,その後半期には輸入量は輸出量よ りも25%
以上も高い率できわめて大きく伸び、た。この期聞はハンガリーにとっ て稀しく有利であった。過去2
0
年聞をみると,ハンガリーの社会主義諸国から の輸入は, ソ連の輸入量増加と発展との聞で著しい相関関係をもつことがわか る。1966-70
年の期間はソ連経済の最も成功した時期!であった。国民所得の成 長はその前の計画期間よりも加速した。経済成長はいっそう調和的となった。 これにたいして7
0
年代の1
0
年間,特にその後半期は次第に成長鈍化に見舞わ れ,経済的緊張を累増した。ハンガリーの社会主義諸国からの輸入においてソ 連からの輸入が決定的役割を果たしたことは驚くべきことではなし、。社会主義 諸国からの輸入の減退は,ハンガリーの西側諸国との貿易において収支問題が 発生した時と一致している。このことは,ハンガリーの政策努力とは独立に, あるいは反対に起こったのである。その理由はコメコン諸国の経済発展の客観 的な諸要因のうちに見出される。つまり経済成長の全般的な後退,増大する内 外の諸困難から,ハンガリーへの貨物の発送が計画通りに運ばなかったのであ る。このため社会主義諸国からの輸入は,西側諸国との貿易収支問題の緩和に 役立たなかったばかりか,直接間接に西側からの輸入の追加的需要をも招いた のである。 収支の改善を目指すハンガリーの政策努力は,西側からの輸入の増大を過大 なものとして統制したことにある。その結果は,6
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年代の成長率に比べて7
0
年 代には西側からのノ、ンガリーの輸入量の増大は大きく後退したことに示されて いる。輸入増大の転換点は1972-73
年に起きたが,それは世界経済の変化への-38- 第60巻 第1号 38 調整で、はなかった。 1974年には西側からの輸入量の増加率は最大となり,交易 条件は最大の悪化を示している。
72-73
年の輸入制限は投資循環の下降に伴う ものにすぎなかった。ハンガリーでは加速と減速の過程は,世界の出来事より も国内経済要因,特に投資活動に依存するところが大であった。厳しい国際収 支問題の圧力のもとで,西側からの輸入の年平均増加は,前の 10年の率よりも5
分の2
以下に後退した。この増加の削減は,たとえ社会主義諸国からの輸入 量の増加可能性が減らなかったとしてもより有意義でありえた。ハンガリーの 意図に反して,西側からの輸入が引続き増加したとしても,前の数年よりも適 度に圏内経済成長が持続されえたことが明らかになっている。 このような事態が, 1970年代の後半期に西側と社会主義諸国との輸入量の相 対的な成長率が大きく変った, とし、う事実に大きく寄与したのである。前半期 における西側からの輸入の年成長は49%,つまり社会主義諸国からの輸入成 長率(84%)の半分を少し超える大きさであったのに, 1976-80年には西側の 輸入成長率 (55%)は社会主義のそれ (27%)を超えた。 79-80年に行われ た政策手段の効果を除外して 76-78年をとってみると,西側からの輸入量は年 平均率 122%という社会主義諸国からの輸入よりも数倍も早く増加したので ある。 この極端に高い成長率は,疑いもなく誤った経済政策と密接に関連していた。 こうした輸入需要は2つの理由で増加した。その第lは,伝統的に主として社 会主義諸国から輸入されていたある種の商品がもはや同地域か与十分な量だけノ 輸入できず,その差はコメコンの諸国以外から購入されなくてはならなかった。 ハンガリー経済の減速,原材料およびエネノレギー使用の合理化,原材料の園内 生産の強力な開発,あるいは生産と消費の漸進的な再編が原材料やエネルギー 需要の緩和に寄与している時ですら,社会主義諸国からの輸入の低下,特にあ る種の資材についての輸入がゼロ成長となり, これが西側からの輸入増に圧力 を加えるることになった。第2
には, コメコン諸国からの輸入に対する制約の 増大は伝統的な,基本的な商品に限られなかった。高品質素材や高度技術機械 類等の種々の輸入財に対する国内生産と消費の需要は当然に増加するのである39 ハ ン ガ リ ー に お け る 経 済 改 革 の 推 移 と そ の ヴ ィ ジ ョ ン -39-が,これらは社会主義諸国からの輸入によってますます充足できないこと,こ うした理由によってコメコン諸国以外からの輸入が増大したので司ある。ハンガ リーが西側から近代的な機械や設備だけではなく,中間財(加工資材,部品, 半完成品〉の大部分を購入しているのは,よく知られた事実で町ある。その理由 は,ひとつには中間財の専門化がコメコン諸国聞の協力において最弱点である こと,もうひとつには工業製品の取引は完成品の相互発送を特徴とすることに ある。コメコン諸国からの輸入の後退は,現行の協力体制と相まってこの古い 問題を悪化させることになる。これに
2
つの特徴の組合せ, コメコン諸国から の輸入制約,購入の頼りなさと発送の不規則さ,生産物の質と選択の不十分な こと,また他方ではそれらの国への輸出が大部分最終生産物であること,こう した事情が西側からの輸入ーを社会主義国への輸出へと大規模に転換することを 伴うのである。ここにノ、ンガリーの国際分業における独自性がある。 これらの過程をすべて考慮に入れると,7
0
年代後半において社会主義諸国へ の輸出成長率が輸入のそれを超えたことを十分に評価できるのである。そして またこのことがハンガリーの西側に対する債務の増大を招〈ことにもなった。 社会主義諸国間での貿易の発展に対する主要な障害一財貨の不足ーが同様に 、ードカレンシーにたいして販売できる商品にも影響を及ぼす。第4-4表と 第4-5表とを対比すると,輸出面に著しい差異がみられる。 1971-75年には ハンガリーのループ、ル外の決済による輸出成長率(
94%)
は,非社会主義国へ 第4-4表 ハ ン ガ リ ー の 貿 易 量 の 年 平 均 成 長 率 0961-80) (単位パーセント) 輸 入 車命 出 年 次 社諸会主義国 非義社諸会主国 計 社諸会主義国 非義社諮会主問 計 1961-65 83 134 9 5 1LO 12.2 1L3 1966-70 109 13 1 1L6 87 10 9 93 1971ー75 8 4 4 9 7 3 116 3 9 66 1976-80 2 7 55 39 54 90 70 出所 ケーベシュとオブラート (24Jp.92..-40-年 次 1971一75 1976-80 第60巻 第l号 40 ハンガリー貿易の決済関係(年平均成長率) 決 済 │ 輸 出 決 済 非ノレーブノレ通貨│ ノレー ブノレ
I
?ドルーブノレ通貨 4..4 4.7 108 5 4 9 4 8 4 出所 ケーベシュとオブラート(24)p,97. の輸出量の増加率(39%)
よりも相当に高い。これは共同市場による牛肉輸入 禁止によって生じた西側への輸出の損失がドル決済によるコメコン諸国への輸 出によって補填されたことにもとづくものであった。しかし,1976-80
年には ドル決済による社会主義への輸出がその聞における収支の改善に相当の役割を 演じたが,ルーブル外の通貨決済による輸出(8ι%)
は非社会主義への輸出(
9
0%)
よりも幾分低い率で増加した。 以上の実態から明らかなことは,平泉氏も指摘されているように r東西両市 場がハンガリー経済にとって,品目構成からみて相互に代替困難な分業関係を 構成している」ことである。そして「エネルギー・資源の調達,農産物,機械 類は東側市場にその主要部分を依存ど;また西側市場を主要供給源とするもの には高品質素材(半製品,部品),高度技術機械類があり,それぞれを別の市場 に求めることには限界がある。こうした市場特性をもっハンガリー経済が,1
9
7
8
年まで高度成長維持戦略を採用したのであるから,西側からの輸入が急速に増 加し,貿易赤字の急増を導くことは不可避であった。こうした経済運営をいつ までも続けることはできない。幻想から醒めて現実主義の政策へと転換するこ とは必然的であった。しかし新しい政策はあまりにも遅れ,かっ活力が十分で なかったこと,東欧諸国や世界市場における予見できなかった経済の後退のた め,ハンガリーは1981-83
年に重大な国際収支危機に直面することとなった。 国際経済環境が不確定であればあるほど,経済を早く転換さ!せることがし、っそ う重要であった。こうして中断していた改革過程への復帰は,厳しい環境の中 (2) 平泉Cl2J 263ページ。-41-で開始された。
1
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年からの第2
次経済改革については,すでに多くの人に よって論及されている。詳細はそれらの論文に譲るとして, み指摘することにする。1
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年にハンガリーは緊縮政策に転換した。長期間経験した交易条件の悪化 とそれに伴う実質所得の損失を回復することが第一義とされ, (1)対外均衡の回 復と強化, (2)生活水準の維持を主要目標とする第6次5ヶ年計画が策定された この目標を達成するためには,生産構造を抜本的に変更し,企業活 動を一層効率的にすることが必要とれさた。資源、に対するより大きい統制が企 業に与えられ,意思決定における自律性を増大することが求められ,ハンガリー 経済が世界市場の変化によりよく反応するように,圏内価格と世界市場価格と ここでは基本点の l i l i -ハンガリーにおける経済改革の推移とそのヴィジョン 41 のである。 の連けいを強めることとなった。新しい改革のパッケージは1
9
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0
年1
月1
日に 施行された。新しい価格体系,工業部門省の改革,新しい経済的レギュレーター の適用と政府の直接介入の削減は,1
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3
-
7
4
年に中断された改革過程への復帰 を示すものであった。 ハンガリーの経済管理制度における計画化の役割の変化は,意思決定におけ る企業の自律性を高めることになっていたが,第6
次5
ヶ年計画では,意思決 定の管轄範囲の明確な区分を部門工業者と企業の聞に設けた。部門工業者によ る企業決定への直接的,操作的介入を排除するため, に統合され,価格設定や売買責任は,価格資材庁に移譲された。これは垂直的 な監督回路を断ち,企業の意思決定への介入範囲を縮小する措置で、あった。 た賃金等級設定のより大きい発議権が再び企業に供与された。この変化に対応 して労働省は労働庁に格下げされた。こうした機構改革の外,鉱工業の大規模 な垂直的トラストが解体され,数百の新しい企業が競争促進のために創設され3
つの部門工業者は1
つ ま た。 機構改革は第1
次経済改革の積残した課題であった。7
9
年から始まった第2
次経済改革は,経済規制諸手段の改善を超えて, r(l)企業の自主性強化と中央管 門脇[0,斉藤[6J,西村[7J,平泉[l1J,とCl3Jと[14Jを参照。 ( 10)OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-42ー 第60巻 第l号 42 理(オペレーショナノレなそれを含む〉の同時強化,
(
2
)
プランニング・システム の一層の改善, (3)経済管理組織の近代化, (4)企業経営者の活性化と企業家精神 の高揚, (5)上・下級企業内管理者の権限強化,など経営管理システムを構成す るすべての要素の同時的改善を提起した。」ここに改革の積極性をみることが できる。5
時 国家規制と企業行動 第2
次経済改革の中心的内容については,すでに多くの人によって詳細に論 じられているので,ここでは国家による規制の変更が企業の行動にいかなる影 響を及ぼしたか,特に労働不足状態が続くハンガリーでこれがどのように推移 したかを検討する。 周知のように,6
8
年改革は投資と利潤収入とを結びつけることによって,企 業が利潤志向的となることを狙いとしていた。投資については,企業と中央機 関との聞に区分がなされた。企業はその利潤のある部分を投資に向けることが 認められ,投資が効率的であればあるほど,投資のために留保される利潤部分 はいっそう大きくなる。企業の賃金水準の引きあげは専ら企業利潤に依存すべ きであって,その一部は基本賃金を補充するために用いられる。こうした方策 は,従業員に企業業績向上への関心を養い,かれらをして収益の低い企業から より能率の高い,より飛躍をとげる企業へ移動させることを期待するもので あった。 こうした改革の論理は,当然のこととして労働市場でのより大きい自律性を 必要とする。このため自由な職業転換を妨げる法制は廃止され,企業の人員配 置に対する中央の決定は放棄され,独立した企業の賃金政策の形成は,個別賃 金決定のため奨励フォンドを利用することによって可能とされる。その結果, 労働市場の需給メカニズムが自由に労働配分を行い,収入格差を決定すること ( 11) 平泉C14J 31ベージ。 ( 12) ガ ラ シ イ と シ ィ ラ yキー(21), pp 203-219参 照 。 力 ラ シ イ と シ ィ ラ ッ キ ー(22J,同書に 収論されている論文pp122-132,参照。43 ハンガリーにおける経済改革の推移とそのヴィジョン -43ー ヵ:で、きるようUこなる。 改革の趣旨は第
2
経済(
S
e
c
o
n
dEconomy)
を拡大することであった。改革後 でさえも国営企業と協同組合は垂直的に組織されていたから,かれらはコスト に対し鈍感であり利潤志向的で、なかった。これに対して,第2
経済を発展させ 拡張することは,慢性的に消費財やサービスの不足を減らし,正規の労働時間 外に補助収入をうることを国営企業の従業員に可能にする点ですぐれていた。 職業変更の自由と第2経済の成長は労働者の立場を改善した。こうしてハン ガリーでは複数の仕事をもつことが普及した。労働市場の自由化と労働不足の 発生は企業聞での労働獲得競争を蟻烈なものとし, 1968-69年に労働離職率は 74%だけ増加した。このことは企業をして労働市場状態を改善する別個の方策 をとらしめることとなった。中央統制の下では相対的に不利な立場にあった協 同組合や中小規模の国営企業は,賃金を引きあげ労働市場状態を改善するため, 市場の融通性を利用して利、潤の増大をはかった。この戦略は一時的なものにす ぎなかったが,それでも大規模企業に比べて相対的に力を得たことは確かであ る。 68年の改革後一時的にせよ,大規模企業の力が弱まったのは,それらが市場 状態へうまく適応する能力を欠如していたからである。過度集権化の遺産と官 僚的な管理統制の融通のなさが,その主たる原因であった。にもかかわらず, 大規模企業は前向きに対応しようとはせず,逆に上位機関への陳情活動や補助 金獲得などによって問題解決を企図したので、ある。68年改革では補助金は本来 は緊急の手段とみなされ,公共サービスに使用を限定されていたのである。こ のような制限があったが,実際には,大企業の圧力に押されて賃金補助金が急 速に増大していった。結果的には68年の 125百万フォリントから 70年の 600 百万フォリントへと5
倍近くも増加した。 もちろん,企業はこうした手段に訴えるだけではなく,内部労働配置(
i
n
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-r
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)
,賃金決定,訓練のシステムを活用して企業内労働市場を 確立したのである。この制度は資本主義経済のもとで広く重視されているが, ハンガリーの大企業も主力労働者の移動を減らし,低い職層への労働需要を制-44ー 第60巻 第 1号 44 限しようと努めたのである。これは他企業の競争を防ぐ障壁になる。社会主義 における内部労働市場は資本主義のそれとは異なる
2
つの特徴をもっ。ガラ シィとシィラッキーが指摘するように iそのひとつは企業固有の労働者の技能 を大きく格上げすること,もうひとつは略式の行為である。」 社会主義経済で企業固有の技能が必要とされるのは,企業固有の技術のため だけではなく,経済組織の方法から生れる頻繁な物資の不足もまた影響してい る。周知のように社会主義経済では,資材,部品,道具類等は慢性的に不足し ており,これに起因する生産問題の処理はしばしば労働者にゆだねられる。企 業固有の技能が大いに尊重される理由はここにある。7
0
年代初期の全般的な労 働不足とエリート労働者を失うとし、う大きいリスクがあらわれたこと,そして このことが企業闇有の技能を重視することに結びついた。 要するに, 68年の改革によって聞かれた企業間競争は, 2つの異なる対応形 態を生みだした。中小規模企業は市場、への適合によって改革路線に応じたが, その一方,大企業は補助金の獲得と,内部労働市場の確立によって競争に応じ たのである。 第1
次改革直後の状況は,以上の指摘にとどまらなかった。そこには標準的 規制の頼りなさ,価格メカニズムの作動と市場競争を妨げる企業の利潤志向性 の弱さ,改革に伴う社会的緊張等から起こるさまざまな困難が存在していた。 こうした諸問題は69年にいち早く持ちあがった。なかでも生産物の受渡しにつ いての企業聞の協力は低下し,これが国際協定で決められた輸出義務の達成を 園難にした。自由価格, したがってコストは急速に上昇し,これが固定価格で 輸出品を生産する企業を特に圧迫した。投資過剰への歯止めはきかず,70-71
年に粗蓄積率は急上昇した。また標準的規制は赤字企業の状態を解決するのに 適切でないことがはっきりした。補助金と課税の改革が引き延ばされ,過度集 中的な生産組織の改組が遅らされたこと,これらはいずれも価格メカニズムの 作用と市場競争の発展を妨げた。 ( 13) ガラシイとシイラクキー(21), p206.45 ハンガリーにおける経済改革の推移とそのヴィジョン -45-改革の不完全さは賃金規制にもみられた。企業は,エリート従業員の引き止 め策としてより多く支払うため,主に低賃金従業員をできるだけ多く雇用する ことに努めた。このような事情から,賃金規制はすでに逼迫状況にあった労働 市場での競争を激化させたのである。 賃金統制,利潤分配の不均等な機会と収入格差とが社会的緊張を引き起こし, それが標準的規制に反対する行動を正当化することになった。改革路線への批 判は大企業の経営者の利益と一致した。集権的経済管理への復帰は, 71年には 大企業にとって有利となるように賃金規制を修正する形であらわれた。明らか にこのことは,問題を解決するどころか,反対に利潤志向をいっそう弱めるこ とになった。中央による賃金補助金は合法化,拡大化され, 71年にはその 75% は大企業に支給されたので、ある。
6
8
年改革がもたらした様々な困難が,標準的規制の不履行をもたらし,結局 は改革過程を中断することになった。改革失敗の主因は,いうまでもなく,垂 直的に組織された経済管理機構の中にあり,それが企業レベルでの自律性と柔 軟性の出現を妨げた。改革後も経済は政府と部門工業省の双方によって規制さ れており,その手段として金融上および法制上の統制と価格規制とが用いられ た。企業の中央管理への統合の度合に応じて,企業の行動様式には差が生まれ た。大企業は自らの地位を改善するために標準的規制を犠牲にして国家の直接 介入を求め,市場への適応をはかるよりも国家による補助金と選好に従った。 標準的規制と市場メカニズムの作動にもとづいて国民経済を効率的に運用しよ うとする当初の改革構想は,企業間での利害対立によってその実現を阻まれる に至った。 72年に再集権化の動きが本格化した。この過程は国の対外経済関係が悪化す るにつれ顕著となった。石油危機の発生によって世界経済が停滞し,ハンガリー の交易条件が次第に悪化したのに,企業の成長志向はいっこうに減少しなかっ た。企業の資源渇望と楽観的期待とが過剰投資を呼び,それが貿易収支を犠牲 とする投資循環を生じた。そして遂に7
0
年代の末期にハンガリーの対外債務は ピークに達し,高度成長維持戦略は破綻をみるに至った。-46- 第60巻 第1号 46
7
0
年代における企業への国家の直接介入は,そもそもゲームのルールを無視 するものであった。中央の経済管理に統合される度合に応じて,企業の成否の いかんが決まるようでは,経済は対外環境の変化に適応はできるものではない。 改革路線に忠実であろうと,企業が自律性をもてばもっほど,その立場は逆に いっそう木安となった。6
8
年改革の主要な弱点はここにあった。 再集権化のもとで大企業が再び力をえた。脅威にさらされていたかれらの労 働市場状態は小企業を統合することによって改善された。1
9
7
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-
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8
年には企業 数は,国営工業において101%
,協同組合工業において136%
それぞれ減少し た。企業の規模別構成は大きく変化し,生産集中化は進んだ。 投資循環が労働市場での周期的変動を引き起こすのに応じて,労働に対する 超過需要も変化した。全般的な労働不足とその周期的な増大は労働市場への統 制強化を招いた。当然そこでは大企業が有利に扱われた。国家が採択した主要 な方策は次のようであった。 (1) 企業による労働需要の削減。第1は労働者補充の制限と管理・事務用員 の凍結であり,第2
は用員削減による賃金支払額の規制であった。 (2) 企業内における労働力利用の改善。労働規律の強化,常習的欠勤の削減, 病欠支給の制限等による労働時間喪失の抑制措置。超過勤務時間の上限緩 和。工場内訓練計画の促進措置。 (3) 賃金競争制限策。賃金格差縮小のための新しい賃率体系の導入。退職者 に対する賃金制裁規約による離職率の削減と年間2
回以上の自由な職種変 更の制限等の具体的措置。(
4
)
行政手段による企業間労働配分。ある種の学卒者に対する職業の強制的 監督。ある種の労働者と企業に対する労働の強制的監督の導入。(
5
)
労働市場における大企業の地位の改善。第2
経済と小企業とへの反対 キャンベーン。地方当局による小規模農業に対する課税水準の引き上げ。 私的工業活動への認可制限。不当利潤と不労所得に反対の公的布告。 (j14カ ラ シ イ と シ ィ ラ グ キ ー[21), pp 212-213"47 ハンガ、リーにおける経済改革の推移とそのヴィジョン -47ー 以上の諸措置は実際には多くの要因によって失敗に帰した。労働管理の再集 権化は唯一の重大な効果をもたらした。企業統合は労働の超過需要を削減する 一時的な効果しかなかった。しかし企業の内部労働市場の強化を促した。各種 の工場内訓練コースを設けて,企業は投資循環の上昇・下降両面に応じた労働 力の利用(超過勤務〉と訓練参加を実施したのである。これが新たな成果とい えるものである。
1973-78
年における再集権化と高度成長維持政策の結果,ハンガリー経済は7
0
年代の終りから8
0
年代の初めにかけて著しい苦境に立つこととなった。あ らゆる指標は明らかに停滞状態を示していた。経済成長は停止し,投資率は低 下し,生活水準は足踏み状態におかれ,対外債務は増大した。経済危機の打開 は不可避となった。経済政策は生活水準を切りさげたり,失業を増やすことな く,巨額の対外債務を削減することを目標とした。この目標を達成するには容 易に調和させることのできない手段を用いざるをえなかった。一方では経済統 制(輸出促進,輸入および企業投資基金の制限〉の強化を引き続き実施しなが ら,他方では経済の柔軟性を高めなくてはならなかった。その第1段として価 格および通貨改革,つまりフォリントの単一為替レートの導入と輸出入価格の 世界市場価格への調整策が導入された。経済の独占的,集中的な組織構造を改 めるため,若干の大企業はいくつかの小企業に解体させられた。1980-83
年に かけておの国営大企業は整理されて,3
3
2
の小企業が創設された。 経済の停滞は完全雇用をおびやかすことになる。社会的緊張の増加を回避す るために,政府は再訓練を実施する中央基金を設けた。同時に国営企業による 労働需要を削減することを認め,完全雇用の解釈を改めることになった。8
0
年 代以前には完全雇用とは労働能力をもっ者を国有セクターに雇用することと解 釈されていた。その概念に変更が加えられた。いまやそれは第2
経済や家計に おける活動を含む,社会的に有用な活動への雇用と広義に解されるに至った。 顕在的失業の回避が最優先の政策となった。強制的な職業監督は取りやめとな り,労働監督局は需給をマッチするための情報センターに姿を変えた。 経済が停滞状態にあるとはいっても,ハンガリーのように労働が全般的に不-48- 第60巻 第1号 48 第5-1表 国民所得,雇用,生活水準(年平均成長率〕 肉 体 労 働 者 と ホ ワ イ ト カ ラ ー 伎 民 年 次 従 生 事 者産 賃名目平金均 価 消 費 格者 1質人当り l人当り 国民所得 実 質 賃 金 実 所 得 消 費 1968-71 5 7 1 6 4 5 1 0 3 5 60 5 1 1972-78 5..8
o
2 6 6 3 6 3 0 38 3 7 1979-84o
8o
2 6 7 74 -0 7o
7o
9 出所 ガラシィとシィラyキー(21Jp,204 足しているところでは,失業はさほど脅威とは感じられなし、。企業は労働者を 解雇するどころか,逆にその増員計画さえもっていた。こうした逆説的な状況 は継続的な労働の超過需要と関連している。労働コストが雇用水準に影響を及 ぼさない社会主義のもとでは,経済の停滞は顕在的な失業という形態をとるよ りも,価格が貨幣賃金よりも上昇して実質賃金の低下とし、う形態であらわれる。 現実にハンガリーでは,経済の停滞はインフレの加速化を伴っている。国家機 関はいつで、も名目賃金の引き上げを首尾よい物質的刺戟の条件とみなす。しか し,ハンガリーのように消費財供給の不足がみられるところでは,住民の購買 力の低下と相入れなくなる。現実はそのことを明示している。 経済の柔軟性を高め,実質賃金低下の生活水準に及ぼす影響を避けるために は,思い切った方策が必要となる。8
0
年代にハンガリ}が採用したその方策と は,第2
経済を自由化するさまざまな手段であった。この政策を実施すること によってえられる有益な効果として,次のようなことが考えられる。(1)国有セ クターでの潜在失業を吸収し,稼取機会を拡げて賃金低下を甘受すること。(
2
)
住民の未利用資金を生産とサービスに投入し,財貨およびサービスの不足を緩 和すること。(
3
)
柔軟性をもっ小企業の創設は,固有セグターの活動を補完する か,またはそれと協力するかして経済発展に資すること。 ところで7
0
年代には不安定な地位にあった私的セクターは,8
0
年代にはさ まざまの形態で合法化された。それらを以下に列記する。 ( ] 日 ガ ラ シ イ と シ ィ ラ グ キ ー(21J, pp 216-217.49 ハンガリーにおける経済改革の推移とそのヴィジョン -49ー (1) 許可書発行の自由化。以前には地方協議会が地域における小売商の必要 数をみて決定を行ったが,新しい規制ではその権限は失われた。出願者の 事情が規制をみたせば,許可書を交付することが義務づけられた。
(
2
)
小売商が機械・設備を購入することが容易になった。さらに投資および 近代化のコストを納税額から控除することが認められた。(
3
)
私的企業が新規分野、ヘ参加することが認められたこと。具体的には旅客 および貨物輸送が認められ, されに必要な車輔の購入が可能となった。(
4
)
許可書は年金生活者と固有セクター従業員にも公布されたこと。 以上のような措置は,国有の建物を私人にリースすることによっていっそう 効果的となった。これは主に小規模の食品販売庖とレストランとに適用された。 そしてこの場合には親類に加えて6-10
人の従業員を雇用することが認めら れた。1
9
8
3
年には小庖舗は8
,0
5
7
あり,レストランの5
分のl
はリースされて し、た。 これに続く自由化は新しい形態の小事業の創(義で、あった。これは経済共同体CGMK)
と企業経済労働共同体CVGMK)
と称せられるものであり,前者 は私人がパートナーシッブ契約をむすんで設立される私的な経営体であるの に,後者は私営の経済共同体のうちで,同一企業の勤労者と年金生活者だけか ら組織され,企業の資産を用いてその活動に対して企業が責任を負うものをい う。GMK
は,メンバーの共同所有または共同利用の手段によって経営をする か,国営企業の手段をリースないしレンタノレで借りうけることもできる。VG
M K
が特に普及しており,1
9
8
2
年の参加者数は2
9
,3
3
1
人であり,1
年後にはそ の数は9
7
,2
0
0
人にもなっている。この場合には,参加者は正規の労働時間外に 財貨を生産しサービスの提供を行うのであって,その限りでは国営企業の従業 員ではなく,あくまでもパートナーとして活動するのである。 こうした経済労働共同体の創設は労働市場に重大な変化をもたらした。賃金 は企業の労働者と経営者の間でオープンに取引されるのであるから,両者はと ( I6) 門脇C
2
J
とC
3J
およびオーレリC
27J参照。-50- 第60巻 第l号 50 もに大きい利益をうる。パートナーシップによる出来高払いの収入は国家に よって規制される企業の賃金基金から支払われるのではなく, この特別労働へ の支払いは国家の賃金規制を犯すことなく増やすことができる。しかもこの支 払いは同一労働を行う従業員収入よりも高し、。従業員の時間当たり収入は29 フォリントなのに,パートナーシップ協定による場合は72フォリントも稼ぎ, 通常の残業手当よりも 22%も高い。こうした条件のもとでは,国営企業内で超 過勤務よりも企業経済労働共同体の仕事が増大するのは当然で、ある。 これはまた企業内部の労働市場の構造を強化することになった。エリート労 働者はこの制度によって特別収入を手にすることができるから,経営者はもは やその離職を心配しなくてすむようになった。このような新しい措置がなけれ ば,経済の停滞とともに公式の賃金購買力と生活水準の低下は避けられない。 しかし,いまや大多数の労働者にとっては補助収入を稼得する機会が開かれて いるのであるから,前述の事態に直面せずにすむ。このことは,顕在的な失業 と消費財の重大な不足という社会的緊張をも緩和することになる。このように 固有セクターの停滞を我慢しうるものとして労働者に認めさせる上で第
2
経済 の自由化は有意義であった。 それでは第2
経済は合法化にふさわしい地位をえたのであろうか。現実には それほど大きい資本が第2経済には流入しなかったし,第2経済に主たる仕事 をもっ参加者数も大きく増加しなかった。第2経済は性格的にみて企業家的で はなかったし,その参加者も第1
経済(国営経済〉から移動しなかった。あく までも国有セクターの労働者にとっての補助収入の源泉として主に機能した。 国は第2経済を合法化したものの,それに対してはアンビバレントな立場に あった。あくまでも第2経済は補助的ないし補完的な役割を担うにすぎない。 だから,この分野の生産者は望ましいものであっても第2経済の所得水準が第 1経済のそれよりも高いことは望ましくない。こうした観点、から,第2経済を 自由化したさいにも,個人ないし家族の努力にもとづく小規模事業が,むしろ 有給労働者と高い資本投資を用いる事業より推奨されたのである。企業経済労 働共同体 (VGMK)が広く普及している理由もここにあるようである。51 ハンガリーにおける経済改革の推移とそのヴィジョン -51ー では第