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「理論」と「論理」 : 「論理」の特徴づけについて

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(1)

「理論」 と「論理」

―― 「論理 」 の特徴 づ けについて一―

田 畑 博 敏 (昭和58年5月20日受理) 「論 理 」 とは何 か? 「論理

Jと

は何 か?「論理的 に正 しい

Jと

語 る と き

,わ

れわ れ はいかな る意味 の正 しさを主張 し よ うとするの か ? まず思 い浮 かぶ こ とは,「論理 的 に正 しい」と語 る ときの「論理 Jな る言葉 に は,ある種 の「必然性 」・ 「 強 制 力Jの意味 が暗 に籠 め られ てい るとい うこ とであ る。 ただ し

,そ

の「論理Jに籠 め られ た「必 然性 」 は

,物

理 法則 や政治権 力 の もつ強制力 とは異質の ものの ように思われ る。 それ は何 か次 の よ うな もの で あ ろ う。一一 われわれ は言葉 によって,全く自由 に物 事 を考 え,空想 す る こ とが で きる。 た とえば

,現

実 に は (つま り物理的 には

)困

難 で も

,宇

宙船 で銀河 系 を脱 出す る こ とを考 え 。空 想 で きる し

,実

行 は しな くとも贋 札 を大 量 に印刷 して大儲 けす る こ とを夢 み る こ とはで きる。 しか し 私 は

,今

こ こで

,宇

宙旅 行 を思 い描 くと同時 に思 い描 か ない とい う こ とはで きな い。 宇宙旅 行 を思 い描 くと同時 に思 い描 いていない私の姿 な ど

,空

想 す る こ とす らで きない。論理 的 に で きないの で あ る。 今

,私

は こ うして言葉 を語 ってい る (正確 には書 き連 ね てい る

)が ,同

じ言葉 を語 る と同時 に語 らな い とい う ことはで きない。論理 的 にで きないので あ る。 この点で,「 論理」の もつ必 然性 。 強制 力 は完璧 であ る。 どんなに もが いて も

,こ

の 「論理 」 の強制力 か らだけは免 れ ない。丁度

,孫

悟 空 が如意棒 を振 って一 瞬間 に何万 キ ロ も飛 べ る と嫌 いた に もか かわ らず

,実

際 には釈 迦 の 手 の平 を這 い廻 って いたにす ぎなか ったよ うに、 いかにわれわれ が空想 の 自由・精神 の 自由 を称揚 した と して も

,所

詮 われわ れ は「論 理

Jの

法網 に把 え られ た昆虫 にす ぎない。一一 「論理的 に正 しい

Jと

語 る ときの 「論理」 の意味 に籠 め られ る必然性・ 強制 力 とは

,以

上 の よ う な ものであ ろ う。しか し当然 なが ら

,以

上 の見方 には別 の観点 か らの反論 が あろ う。一一 確 か に「論 理 」 にはある種の必 然性・ 強制力が あ る。 われわれ は矛盾 した こ とは為 しえない し

,矛

盾 した こと を語 る こ ともで きない。 しか し

,そ

もそ も矛盾 とは何 か

?矛

盾 が生 じるの は言葉 の上 の こ とだ けで はないの か

?今

こ こで

,私

が宇宙旅行 を空想 す る とす る。私 は まさに空想 して い るの で あ つて

,空

想 して い な い私 な ど存在 しない。「空想 していない私」が空想 され るの はただ言葉 の上 でだ けで あ る。

(2)

そ して「空想 して いる私

Jと

「 空想 していな い私

Jと

を同時 に空想 で きるの は

,た

だ言葉 にお いて のみであ る。 つ ま り

,矛

盾 が生 じるの は言葉 においてのみであ る。世界 はあ る通 りにあ る。世 界 に は何 の矛盾 もな い。われわれ はた だ

,120億

年 前 の宇 宙開 間の ビ ッグ・バ ン以後 の宇宙進化 の一駒 を 現 にある通 りに生 きそ して死 ぬの である。 そ こに何 の矛盾 もない。 ……。だ とす ると,「論理 」は「世 界 に矛盾 はあ りえない」 とい うしご く当た り前 の こ とを主 張す るにす ぎない。 しか し当た り前 の こ とを こ とさ らに「論理 的」だ と騒 ぐ必要 はない。矛盾が生 じるのが言葉 の上 の ことだ けだ とした ら、 矛盾 の生 じるよ うな空虚 なお しゃべ りはやめて正確 に間違 いな く世界 の姿 を把 えて語 りさえすれば, 「論理」 は必要 で はない。 当 た り前の ことしか語 らない「論理 」 は

,本

来無 用 の長物 なの で あ る。 われわ れが時 として言葉 の使用 を誤 まる故 に仕方 な く用意 してお く道具

,知

識 の博物 館 の片隅 に埃 をかぶ って眠 って いる道具

,そ

れ が「論理

Jで

あ る。十 以上の二 つの論理観

,す

なわ ち① `必然性 。強制力 としての論理〃という論理観 と

,②

`無用の 長物(当た り前 の ことしか語 らないもの という意味で)と しての論理″という論理観 も

,

ともに「論 理Jのある側面 は把 えている といえよう。 しか し,「論理Jの全体像 を十分 に把握で きているか と言 えば

,そ

うは言 い難 いであろう。 より有意義かつ生産的な論理観 を得 るためには

,わ

れわれ は どの ような形で「論理」 を特徴づけるべ きであろうか ?そ こで

,改

めて「論理 とは何か?」 とい う問い が立て られねばな らない。 ここで私 は

,常

識的な

,あ

るいは標準的 と呼び うる大 まかな論理観 を設定 し

,そ

れ を更に洗練 し 精密化する作業 を進 めることを通 して

,そ

の論理観 の もつ有効性 を検討 してみたい。 そのことによ って「論理」の よ りよい特徴づけに少 しで も近づ きたい。 さて

,そ

の大 まかな標準的論理観 とは, 次のような ものである: 「〈論理〉(logた

)と

は最 も普遍的・下般的理論であるが

,通

常の 〈理論〉 (theOry)と は峻別 され る」 この論理観の根底 には,「理論」が特殊 な領域で成 り立 つ特殊 な法則 (の集 まり

)で

あるのに対 し て,「論理」はあらゆる領域で成 り立つ普遍的な法則 (の集 まり

)で

あるとい う考 え方があって

,そ

れに基づいて「論理」と「理論」を峻別 しようとするもの と見 ることがで きる。問題 は,`いかに し て〃その峻別がなされ

,そ

してその `意義〃は何 であるか

,と

い うことである。 そこで まず

,意

味 論的 (モデル論的

)な

接近法 を検討 し

,次

に構文論的 (証明論的

)な

接近法 に移 ることか ら始 めた い。

2

意味論 的 (モデル論 的

)特

徴 づ け 意 味論 的 (モデル論 的

)に

「論 理」 を特徴 づけよ うとす る と

,そ

れ は以下 の ような形 にな る:

(3)

「理論Jと「論理

J 25

「(通常の

)理

論 (theOry)ん ゞある特定の構造・解釈で真であ る文の集合であるのに対 して

,論

理 (10giC)は あ らゆる構造・解釈で真である文の集合 一一― その意味で最 も一般的 な理論 である。」 クワインによれば (Quine[1970]),「論理」は文法 と真理 に

,従

って世界 に関わっている。 しか も「論理」が前提 し・ 想定 する世界 は

,わ

れわれの棲むこの理実の世界 に限定 されるわ けではな く

むしろさまざまの可能な世界であると考えられる

)そ

こでわれわれは最初から

,あ

る抽象的な

「もの

J の集 ま りとそれ らの「 もの」 の間 の関係 を一組 に した「構造

Jを

「世 界」 とみ なす こ とにす る。 そ して世 界 としての構造 と言語 (文法

)と

の関連 にお いて「論理 」 を特徴 づ け る ことを試 み よ う。 こ の よ うな形 での 「論理 」 の特 徴 づ けを明確 に提 出 したのが

,意

味論 的 (モデル論 的

)な

特徴 づ けで あ る。 意 味論 (―モ デル論

)で

,世

界 としての構造 が順 序四 つ組 朗一 〈

A,(RI},{島 },(CK}〉

iεl j εJ kεK と

,こ

れに付随する二 つの関数え,μ

(14N十

,

4N+,N十_(1, 2, 3…

})と して与 えられ るpこ こで

,Aは

きわめて一般的に考 えられた「 もの

Jあ

るいは「対象

Jの

空でない集 ま り (集) であって

,要

するに世界の中にあるものの領域 を指す。(R「 }│ま

A上

の関係の(空であ りうる)集合,

Iは 各関係RIの添字 1の集合で,えは各関係に項数を配分 する関数である。 また{島 }は

A上

の関数

の(空であ りうる

)集

,Jは

各関数 馬の添字 jの集合で,μ は各関数 に項数 を配分する関数である。

(Ck)は Aの

特異要素の(空であ りうる)集合で

,Kは

各特異要素 Ckの 添字kの集合である。 この 構造 ワ(は

,世

界 にはまず「 もの(一対象)」 があってその間に種々の関係が成 り立 ち

,対

(=関

数) があ り

,特

異な役割 をする「 もの」が存在する

,

という通常の (特に数学の

)理

論が想定する「世 界」の

,集

合の言葉 (もちろん

,こ

こで特定 の集合論が前提 されている訳で はない

)に

よる表現で ある といえる。群・環・体・ ブール代数・ ベ ク トル空間な ど数学の多 くの分野が

,

この ような構造 の例 となっている) さて世界 としての構造が与 えられ ると

,次

にその構造 を描写するための言語 とその言語の文法が 必要である。まずアル ファベ ッ トにあたる各種 の記号 を用意す る。すなわ ち

,個

体変項

vO, vi,…

,

Vn,―

・,個体定項Ck(kε

K),述

語記号Ri(iε I),関数記号fj(jε

J),論

理定項 ¬

,A,v,→

, 量化記号

V,

,及

び括弧

(,),で

ある。 これ らの記号の有限列の うち,「 もの (―対象)」 を表示 する項 (term)と

,原

子文及 び一般の文 (開放文 も閉鎖文 も両方含 める

)と

が次のように定義 され る: 《項

(tem)の

定義》 (i/固体変頂

,個

体定項 は頂 である。 徹

)tl,…

, tμ

(j)が

項 な らば fj(tl,…・

, t胸

))も頂である。 仙0上の(1),伍)の仕方でつ くられ る記号列のみが項である。

(4)

《原子文の定義》 RIを 我ぅ項述語記号,tl,中0,tえ(Dを項 とするとき

,RI(tl,い

,,tえ(D)の形の記号列がかつそれの み が 原 子 文 で あ る。 《文 (開放文及び閉鎖文

)の

定義》 (i)原子文 は文である。 ( )φ

が文ならば

,¬

φ,(φA ψ),(φ vψ ),(φ→ψ),V viφ,ヨ Vi φも文である。 いう上の(:光 伍)の仕方でつ くられ る記号列のみが文である。 こうして

,世

界すなわち「構造」 と

,そ

れ を記述 する「言語

Jが

与 えられ ると

,最

後 に残 るの は, 言語が どの ように世界 に対応 し世界 を記述するのか というその仕方を明確 に示す こと

,す

なわち言 語の「解釈」である。 まず タルスキーに倣って

(Tarski[1935]),構

造?(の対 象領域

A中

の無限個

の要素か らなる列

a一

(aO,al,・・・〉を考 えるよ)この無限列aに よって個体項 と関数頂

(両方含 めて

tで示す

)の

外延 (指示対象)ん ゞ与 えられる:

2(

tの

外延

t[a]の

決定》

?(

(i)t一VJのとき

,t[a]一

af(aど

ε

A)

?I

伍)t一Cたの とき

,t[a]一

cた (Cた

cA)

?( 2(

債うt一 fす

(tl,…

,t約

)の

とき

,t[a]一

fす

(tl[a],…

,tぷ

a])

同時 に

,述

語記号・ 関数記 号 はそれ ぞれ

A上

の(集合論 的対応物 としての)関 係・ 関数 として解釈 さ れ る。 そ して文 (原子文及 び複合文

)の

充足 (satiSfaction)に よる真理条件 が与 え られ る:

《充足による文の真理条件》

(“朗憶φ

"は

“無限列

aは

構造?rに

Rげ

て文φを充足する?I

"と

読む。)

(i)?Itt R,(ti,… ・, tえ(ど

))⇔

ti[a],…

・, tλ(ぅ[a]〉 εR丁

(1)?I拷 ¬φ⇔ ヮモ佑φでない

tilワI践 (φ

)<浄?(脂φかつ2(倍ψ

tvl?(倍 (φvψ)駕〉朗渚φまたは,I憾 ″

(v)ワ (憾 (φ→ψ

)⇔

91賭φでないか または9(信ψ 骨)2(借 VVどφ⇔

beAな

るすべての

bに

つ き?(借(D/すφ)

(ただ し

,a(b/i)は

もとの列

a_(a。

,al,…

・〉の

i+1番

目の要素aFを

bで

置 き換 え

て得 られる列 〈a。,al,・・・,ar l,b,aF■1,…・〉を表す)

,0馴

]v,φ

⇔ある

Aに

つき朗情濃

)

この とき

,論

理定頂の “意味

"も

事実上 (古典的・真理関数的な もの として

)与

えられてい る。最

(5)

「理論」 と「論理」

27

(i)文φがモ デル 馴で真 ⇔ 文φが構造?とで真 ⇔ 構造 瓢は文φのモデルである ⇔ 9(倖φ ⇔ すべての無限列aにつ き朗店φ 徹)文φが普遍的に真 ⇔ 文 φがすべてのモデル (一構造

)で

真 ⇔ か くして,《構造》つ まり世界 とす《言語》と

,言

語の世界 に関する 《解釈》とが得 られ る と,「モ デルでの真」(―「構造での真」

)と

いう概念 によって,「理論」 と「論理」 はこう区別 され る: まず「理論」 は次の ように定義できる, 「理論」とはある特定のモデル(一構造)馴でのすべての列

aで

充足 され る文の集合(φ :朗 Fφ}, 換言すれば

,理

論 とは特定の構造 。解釈で真である文の集合 である。」 これ に対 して「論理」 は一―, 「論理 とはあらゆるモデル (一構造

)?(で

のすべての列

aで

充足 される文の集合 (φ :卜φ

),換

言すれば

,論

理 とはすべての構造・解釈で真である文の集合

,普

遍的に真である文の集合 である。」 と定義 され る。 このようにモデル論 は,「論理」を きわめて普遍的。一般的な真理 として特徴づけることによって, 領域的・特殊的真理であ る諸「理論」か ら 「論理」 を鮮やかに区別することに成功 した。歴史的に 見 て も,「論 理

J―

「最 も一般的理論」―「最 も普遍的な真理Jと いう「論理」の特徴 づけは古 くか ら あった。すでにア リス トテレスは 『分析論後書』(42αう″ια rbs″″ぁ紹

)で,あ

らゆる学 に共通 な

原理一あらゆる理論が前提とする最も一般的原理

ο

んα

ι

ψχα

r)に

ついて語っている伊またフレ

ーゲも『算術の基本法則』

(Gttη

を盗ι

力ι

ttγ

4妨

力%"力 )の 序論で

,「

論理」の法則は最も一般的

な法則であって

,真

理を求めるいかなる思考も「論理」の法則に従わざるをえないと述べている。

ところで「論理」の もつ「普遍性」は

,そ

れ 自身が普遍的真理であるとい うことに とどまらない。 理論 はその基礎である「論理」 にいわば支え られ る。 つま り

,具

体的に理論 を展開 させ るその「展 開の させ方」の普遍性 という場面 に「論理」が関与 して くることによって

,理

論 は「論理」 に支 え られ るのである。実際

,理

論の定理が公理系か ら導出 されるとき

,定

理 は「論理的に」即 ち「普遍 的 に

J公

理か ら帰結す るものであらね ばならない。従 って

,こ

の「論理的帰結」 とい う形で

,理

論 展開の普遍性が晴命理」によって確保 されるのである。しかも,この「論理的帰結」(10giCal consequence) あるいは「論理的合意」(logiCal implicationlの 概念は

,タ

ルスキーが示 したようにPす ぐれて意 味論的概念 として現われる。た とえば非ユークリッド幾何学の諸定理が公理系の「論理的帰結

Jで

あると語 るとき

,そ

れは畢党

,公

理を充足するすべてのモデルで必ずその定理 も充足 されるという

(6)

ことが意図 され ているのである。 この「論理的帰結

Jの

意味論的規定 において も

,モ

デル論 は適切 な方法 を提供 している。 それ によれば,《仮定 となる文の集合 「 (公理系の場合 は公理の集合

)か

ら 文φが論理的に帰結 する"(「卜φ

)と

いう概念 は次の ように定義で きる: 「 卜φ⇔Fの 中のすべての文 ψを充足 させるすべての構造 朗のすべての無限列aにつき,φが駅にお いて

aに

よって充足 され る。 ⇔ ③91 ③

ainet(③

ψε 「 (朗 信ψ

)⇒

瓢協φ) ⇔ 「 のすべての文 を充足するすべてのモデル と列 の対 〈Щ, a〉 によってφは充足 され る。 そうして実際には

,Fの

有限個の文ψ

l,先

″か らφは「論理的に帰結する」のであるか ら(コ ンパ ク ト性

),

“論理的に帰結す る

"と

いうことは

,条

件文(ψl八 め

A…

Aち

)→ φの普遍的真理性 に還元 され る。 こうして「論理」は理論 に対 して

,理

論の展開の させ方の普遍性 (従って必然性

)を

,「論理的帰 結」の概念 を通 じて保証する。がまた同時 に

,無

限 に多 くの「帰結」を理論 に対 して賦与 (あるい は予測

)す

ることによって

,未

知の豊富な情報 のいわば間接的提供者 となる。それ故

,こ

の「論理 的帰結」の概念 こそ,「論理」 を不毛な「無用の長物」

(1節

参照

)に

終わ らせず

,む

しろ多様 なる 諸帰結 をもたらす豊穣の女神たらしめるもの一一 その意味で,理論 に対する「論理」の存在理由(rattOn d'Otre)を 与 えるもの といえる。

3

構文論的 (証明論的

)特

徴 づけ 前節で見 たように

,モ

デル論では「論理」 は「すべての構造・解釈で真 である文の集合」 という 意味で

,最

も一般的な理論 として特徴づけられた。 しか も

,

この特徴づけは歴史的に も由緒正 しい ものであって

,そ

れ を受継いだモデル論 が きわめて巧妙にその考 え方 を発展 させて「理論」 と「論 理」との対 照を鮮やかに描 いてみせたのであった。 ところが

,

このような形での特徴づけ―一 つ ま り「論理」一最 も一般的理論一普遍的真理 という特徴づけ―― は,「論理

Jの

もつある重要な側面, すなわ ち理論 を展開 させ る「 メタ原理」(展開の実践原理

)と

いう側面 を

,往

々 にして看過 させ る。 この「 メタ原理」 という側面 は

,実

際 には

,理

論 を展開 させ るとき文か ら文への移 り行 きのパ ター ン

,つ

まり推論規則 として現われ る。ただ し

,理

論 の定理が公理や仮設か ら「論理的に帰結」す る もの として導出 された として も

,そ

の「論理的帰結」(logiCal consequence)の 概念は

,理

論展開の 現場 においては,記 述 の対象 としてではな く

,前

提 され・使用 され る原理 として(その意味で実践原 理・メタ原理 として)現われるにすぎない。であるから,たとえばフレーゲは『概念文字』(&憲 妨 織諺γ″) S13全 推論の規則 は文 と文 との繋が りの形式(一メタ原理)であるから彼の概念文字(Begrrttschri■) によっては表現 できない と述べている。 この述べ方か らもわかるように

,フ

レーゲは「論理」 を普

(7)

「理論Jと 「論理

J 29

遍的 真理 とみ な し,そ の よ うな真理 を組織 的 に導 出で きる公理体 系 をつ くった171ので あつて,「論理 」 の 「 メタ原理 」 としての側面 を摘 出 してみせ た訳 で はなか った。 か くして

,最

も一般 的理論

=普

遍 的真理 (の集 合

)一

「論理 」 とい う図式が出来上 が り

,

この ような観 点か らのみ「論理」 を特徴 づ け るや り方が支酉己的 とな った。 このフレーゲの「論理

Jを

F真理」とみる見方 を

,ダ

メッ トはフレーゲの「後退」(retrOgrade) として批判 している

Vダ

メッ トによれば,“この点に関 しては(そしてこの点 に関 してのみ

),論

理 に 対 するフレーゲの新 しいアプローチは後退であった"。 ⑪しか もこの「後退

Jは

論理 と哲学の両方に 関わっているとダメッ トは言 う一―よ0論理 に関する後退 とはこうである。元来論理学 に要求 される ことは

,推

論の形式

,す

なわ ち文か ら文への移 り行 きのパ ターンを研究す ることである。文か ら文 への移 り行 きの どのよ うなパター ンが妥 当な推論規則 として容認 され るか を示 し

,そ

れ らのパ ター ンを組織立てること

,

これが論理学の仕事 である。 ところが

,フ

レーゲが論理的真理の公理体系 を 創 った171こ とによって,「論理」があたか も公理化 された「理論」であるかのような誤解 を生み出 し て しまった。他方

,哲

学 に関する後退 とはこうである。必然的真理・ 分析 的真理 としての論理的真 理 を考 えることによって

,必

然的・ 分析的真理 対

,偶

然的真理 とい う真理の種分 け

,ひ

いては分 析的意味 対

,経

験的意味 という意味の種分 けという (フレーゲ自身の考 え方か らはそれた

)考

え 方 に道 を開 き

,の

ちの分析哲学への甚大な影響 を準備することになった。 哲学に関す る「後退」 は ともか くとして も

,論

理 に関する「後退」 とい うダメッ トの批判 は

,確

かに正鵠 を射 ている。論理的真理 を公理 として要請 し,それ らか ら別の論理的真理 を定理 として導出 してい くという形 での公理体 系 を創 るや り方は

,ラ

ッセルや ヒルベル トにも受 け継がれ

,そ

の後の 論理学研究の常套手段 となっていることは周知のことである。 このや り方では

,推

論規則 は可能な 限 り少数 に制限 され

,論

理的真理か ら新 しい論理的真理 を紡 ぎ出す ことに最大の関心が払われる。 しか し他面,「メタ原理」とい う論理の側面 は見過 ごされがちにな り

,偏

った論理観が支配的 となる。 彼の数々の偉大 な業績 にもかかわ らず後世への影響 を考慮すれば

,フ

レーゲの

,論

理的真理の公理 体系 という仕方での「論理」の提示が持 つ「一面性」に

;わ

れわれ も注 目せ ざるをえない。事実, 真理 としての「論理」 と

,推

論のパターンとして現 に (いわば生の形 で

)働

く「論理」 との “落差" は大 きい と言わねばな らない。 た とえば,「デ ィレンマ」と呼ばれる推論形式 を考 えてみよう。これを論理的真理の形で考 えると,

((AVB)A(A→ C)A(B→

C))→

C

という トー トロジー となる。この ようにディレンマを論理的真理 として考 えることは,「Aまたは

B

かつ

Aな

らば

Cか

Bな

らば

Cな

らば

,Cで

ある

Jと

いう具合 に

,た

んに推論の枠組 を外部か ら平 板 に描写す ることに外 な らない。 しか し

,わ

れわれが現にデ ィレンマによつて推論す る場合

,そ

の 推論内部 には

,

トー トロジー として平板 になされた描写では顕在化で きないある種の “内的構造" があるのである。実際

,わ

れわれは次のようにディレンマの推論 を行 う筈である:

(8)

「 “Aま た は

B"が

前提 され てい るか ら,“

AVB"と

置 くi。 “

A"か

B"か

の いずれ かが成 り立 つ 筈 だか ら

,仮

りに

Aと

して み る。 す る とAと い う仮定 か ら

Cが

論理 的 に導 かれ た。 また

,仮

りに Bと置 い て も同様 に

Cが

論理 的 に導 かれ た。以上 の ことか ら,“

AVB"に

(“

A"や

B"に

で はな しに

)依

存 して

,Cが

結論 として導 出 され て くる。」 この デ ィレンマを自然演繹体 系 で書 くと次の よ うに な る:

A〕

B〕

AVB C C

C

注意 すべ き重要な点 は

,推

論「デ ィレンマ」が持 つ「依存関係」 という “内的構造

"で

ある。デ ィ レンマ全体の結論である (水平線の下の

)Cは

,“

AvB"(あ

るいはもしあれ ば “

AVB"自

身が 依存する もの ども:「)に,そして

Aか

Cを

,Bか

Cを

導出 した際に依存 していた

A,B以

外の も の

,に

依存 しているだけであって

,Aそ

の ものや

Bそ

の ものには依存 していない。確かに

,水

平線 より上の

Cが

推論 の途中の段階で

A及

Bか

ら導出 されるときは

,仮

定された

Aや

B(あ

るいはも しあればこれ らが依存する もの ども:△

,0)に

依存 して

Cは

導出 されるが

,デ

ィレンマの結論

Cが

水平線 の下で導出 されて来 るとき,も はや

A,Bへ

の依存関係 は除去 されている。(これ を表現する ため

,自

然演繹体系ではか ぎ括弧 [,],で

A,Bを

囲んで

[A],[B]と

書 く。

)こ

の「依存関係の存 続」

,「

依存関係の除去」 という内的構造 は, Sequel■ z計算の形でより明瞭に表現 される。すなわち

Sequenz計

算ではディレンマは次のように表現 され る: 「 卜

AVB

, A卜

C O, B卜

C

,△

,0卜

C

(“ 「 卜

AVB"は

“Fに 依存 して

AVBが

導出 された

"と

読む。他 も同様。

)こ

れ を見れ ば

,水

平線 上 (つま り推論の途 中の段階で

)の

二つの

Cが

,各

々Aと

Bに

依存 しているのに対 し

,水

平線下の (つまリディレンマの結論 の

)Cは

Aに

Bに

も依存 していないことが

,一

目瞭然 とわかる。か く して

,

トー トロジー

((AVB)A(A→ C)A(B→

C)}→

Cで

は表現不可能 な

,推

論 に内在 し ている「依存関係」という構造が

,上

のSequenz計算の式でははっきりと眼 に見 える形で表現で きて いる。 歴史的に見れば,「依存関係」とい う推論の内的構造 を(プラヴィッツのい うに1り 証明の内包的特 徴づけ として明確に示 したのは

,ゲ

ンツェンの

NK(自

然演繹体系)と LK(Seqtlellz計算)の論理 体系であった解ゲンツェンによって

,文

か ら文への移 り行 きその もの 一一 つ まり「メ タ原理Jと し てのいわば現場の「論理」が

,初

めて明確 に定式化 されたのである。ゲンツェンの

NK(自

然演繹 体系:naturlicher Kalkdl)は フレーゲの体系の ような論理的真理の公理体系ではな くて

,推

論規則 の体系である。 しか もこの推論規則 は

,論

理定項の「導入」及 び「除去」 という

,二

つの対称 的な 働 きをする規則に分類 され る。 そ して推論の各段階での導入 と除去の規則適用 に際 しては

,被

導出

(9)

「理論」 と「論理

J 31

式の仮定への「依存関係」の持続 と解消 とが常 に確認 されていな くてはならない。 つ ま り

,関

心 は 推論の内的構造 (内的関係

)に

集中 し

,そ

の内的構造のダイナ ミズムによって推論が実行 され

,

し か もその推論の動 きが式の導出を通 して表現 され るのである。従 って

,仮

定か らの演繹が どうして 正 しいのか というその演繹の正当性の根拠 も

,仮

定 をすべて真 とするモデルに対 して常 に結論 も真 となるという (タル スキー流の意味論的「論理的帰結

Jの

概念 による

)演

繹の外か らの特徴づけに よって与 えられる訳ではない。 そうではな くて

,仮

定 に

,そ

してそれのみに依存 して実際 に導出 さ れた というその演繹遂行の事実によって与 えられるのである。すなわち,妥当な推論(valid inference) の妥 当性の根拠 は

,意

味論的な外か らのモデルによってではな く

,仮

定への「依存」 によって演繹 された という事実によって与 えられるのである。 ここで注意すべ き点 は

,こ

の仮定への「依存」の 関係 は,「真・偽」 の概念 と異なって、推論 に内在する内的関係 (内的構造

)で

あるとい うことであ る。 この「依存」の関係 は

,Sequenz計

算 において(既述の ように)はっきり眼に見 える形 で表現 さ れ る。元来Sequenz計 算は

,任

意の「証明」に対 してそれ と同値 なよ り簡便 な形 (標準形

)の

証明が 存在 することを主張するゲ ンツェンの基本定理 (カ ッ ト消去定理

)の

証明 を容易 にす るためにゲン ツェン自身が導入 したものであった。そ してその基本定理 は自然数論等

,数

学の理論 の無矛盾性証 明に応用 された。 この ことは「証明

Jに

ついての論理的研究 (―「証明論」)んゞ,「数学 の基礎づ け」 といういわば「論理」の外の目的に利用 された事例であるといえるよ9だが同時に与 われわれ に とっ て重要な ことは,「証明論」が推論規則の体系 として,「論理」の もつ理論展開の「 メタ原理

Jと

ての側面 を

,そ

れ 自体 として研究の対象 とし得た こと (いわゆるgelteral proof theory(10),そ れに

よって「論理的帰結J(logiCal cOnsequence)の概念 に関す る認識内容 を豊かにした ことである。 要約 すれ ば

,ゲ

ンツェン以後の「証明論」が,「論理」の特徴づけ とそれに関連す る哲学的探究に 寄与 した ことに

,少

な くとも次の二つがある と思われる: ①「論理的帰結」の概念 に

,認

識論的内容を与えたこと。 ②タルスキー流の意味論 とは別の意味論 (内在的意味論

)を

示唆 しえたこと。 ①で述べ られたことは以下のことである。 一一一 モデル論的な「論理的帰結」の特徴づけによって は,「いかに」結論が前提から導出されるか

,

という答えを具体的に与 えることはできない。すなわ ち

,前

提が真 となるすべてのモデルで結論が真 となるという外からの特徴づけが得 られるだけであ って

,与

えられた前提をどのように変形・操作 していけば結論に辿 り着 くのかという

,そ

の導出の 過程についての具体的情報はモデル論的特徴づけからは与 えられないのである。いってみれば

,モ

デル論的な特徴づけによっては前提の真 というin―putと結論の真 というout―putが与えられるだけで, 導 出の過程その ものはブラック・ ボックスの中に隠されたままであるよ° これに対 し証明論的アプ ローチでは,「除去」の規則によって前提から結論の構成要素に到達 し

,そ

の後「導入」によって結

論 に導 くという過程が具体的に与えられる。 この意味で

,証

明論 によって「論理的帰結」の概念の, つまりは「メタ原理」 としての「論理Jの 特徴づけの

,認

識内容が豊かにされたのである。次に

,②

(10)

の内実は こうである。一一証明論では

,論

理定項や量化子の「意味」 は真理関数等のモデルによっ てではな く,「導入」の規則 によって内在的に与 えられる。推論 とい うゲーム を遂行することその こ との内において,「そ して」や「 または」の意味が与 えられ る。 しか も

,異

なる論理定項 に与 え られ る内在的意味は

,そ

れ を支配 する「導入」 と「除去

Jの

規則の相違 によって互いに完全に独立 して いる。そ こでは

,真

理関数的な同値概念 による論理定項の「意味」の相互通約性 は存在 しない。 こ の意味で

,モ

デル論的な意味論 とは別の

,い

わば内在的意味論(り の可能性 が示唆 されるのであ る。

4

演繹の正当化 前節では

,意

味論的 (モデル論的

)特

徴づけにおいては十分把 えきれなかった「論理」の理論展 開の「メタ原理」 という側面 が

,ゲ

ンツェン以後 の証明論 によって初 めて十分 に把握・ 表現 される ようになった ことが示 された。 しか し

,話

はそれで済む訳で はない。 とい うのは

,そ

もそもいかな る理 由でこのメタ原理一推論規則 の体系が正 当 と認 め られ るのか とい う問題

,即

ち演繹 の正 当化 (juStfiCation Of deduction)の 問題がなお残 るか らである。無論

,厳

密に「証明論」の立場 に踏 み止 まるとすれば,「正 当化」の問題 は内在的な問題

,従

って敢 えて取 りあげられることのない非主 題的な問題で しかあ り得 ないであろう。なぜなら証明論 の立場では

,あ

る規則の体 系内で演繹 を実 行 してみせること

,当

の文 (結論

)が

い くつかの他の文 (仮定 。前提

)か

ら定められた有限個のパ ター ンの連鎖・ 組合せによって導出されること

,そ

の ことをもって「論理的 に帰結すること

Jの

究 極の根拠 とみなすか らである。別 の言い方 をすれば

,証

明論 は「メタ原理」 とい う「論理」 の側面 を守 ろうとするのである。「 メタJである限 り

,そ

の原理 は無条件 に前提 され

,使

用 され るのであっ て

,実

践その ものに内在するギ リギ リの最後の足場 なのである。 その足場 によって証明・推論が実 践 (遂行

)さ

れ るのであって

,足

場その ものを見た りそれに言及 した りすることはできない。足場 その ものを見よ うとする限 り

,見

られた足場・ 主題化 された足場 は実践の原理 ではな くなる。われ われは別の足場 に移 って もとの足場 を見ているのである。 しか しそれに もかかわ らず

,哲

学者たち とともにわれわれは

,な

ぜそれ らの「メタ原理

Jが

正 当なのかを敢 えて (蛮勇

?)問

うことに意義 がある と考える。なぜなら,「世界 との合致

Jあ

るいは「真偽概念

Jに

依存せず演繹の正当化 を「パ ター ンに従 う

Jと

いういわば内在的意味論 に拠 ってのみ主張する証明論の立場 はそれ として首尾一 貫 してはいる ものの

,あ

る種の自己閉塞 に依拠 している面があることは否定 できないか らであ る。 「論理

Jは

単 なる文法ではな く

,世

界 との関わ りを常 に意識 する文法だか らであるよつ ここでわれわれ は,「論理的帰結」が本来 そこで生 い育 った意味論的 (モデル論的

)特

徴づけに再 び戻 ることになる。 というの も

,

もともと「論理的帰結」の概念 は

,

これ これの仮定が成 り立 てば (真であれば

),結

論 も必ず成 り立 つ (真であ る)と いう意味論的 (モデル論的

)な

文脈 の中で語 ら

(11)

「理論」 と「論理

J 33

れ る概念 だか らで ある

(2節

参 照)。 従 って

,前

提 の もつ真理性 が結論 に伝達 され る とい う真理の維 持・伝達性 (しか も

,そ

こで考 え られ て いる真理性 は特定 の構造一 モ デルでの真理性 には無 関係の, あ らゆ るモ デルでの真理性 であ る),すなわ ち健全性 を もって

,演

繹 の正 当性 の必 要条件 と考 え る こ とが 自然 に出 て くる!働つ ま り, 「仮 定の集合Fか ら定 め られ た推論規則 に よって導出 された文

Aは

,す べ て仮 定 (の集 合

)Fか

ら(意 味論 的 に

)論

理 的 に帰結 す る」: ③

A:「

A

⇒ F tt A とい うこ と (健 全′性soundness)が

,演

繹 の正 当性 の根拠 と して要求 され る。 この こ とによって真 な る文か ら偽 なる文が推論 され る ことが防 がれ

,推

論 規則 の非妥 当性 が反例 モ デルを創 る ことで示 さ れ る ことの根拠 が与 え られ る。 そ して この健全性 は同時 に

,推

論規 則 の体 系が無 予盾 で あ るこ とを も保証 す る。(なぜ な ら,「卜

A,F卜

Aの

とき健 全′性に よってF tt A,F卜¬Aと な るが

,こ

れ は “¬

"の

意味か ら生 じえない。)こ こでわれわれ は,「 論理 的帰結

Jの

意 味論 的概念 に戻 る ことによっ て,「 論理

Jを

「 真理

Jと

見 る見 方 に も戻 る こ とに注意 しよ う。 とい うの は

,仮

定Fか らの文

Aの

演 繹 で実際 に使 われ る仮 定 は有限個 であ り

,そ

の有限個 の仮定

Cl, C2,“

,Cヵ

か ら

Aが

(意味論 的 に

)論

理 的に帰結 す る とい うこ とは

,条

件文

(CIAC2A…

AC″

)→

Aが

普遍 的 に真 (すべ てのモ デルで真

)で

あ る こ とに外 な らなか ったか らであ る。 つ ま り

,文

か ら文 への真理性 伝 達 の普遍性 と い う文相互の関係 が

,一

つ の文 の普遍 的真理性 に帰着 され て いるか らで あ る。 この こ とを

,こ

こで 確認 してお きた い。

ところで

,演

繹 の正 当化 の可 能性 を疑 問視 す る多 くの哲学 的議論 の 中で

,特

に この意味論的 な演 繹 の正 当化 (健全性 の証 明

)に

反対 する趣 旨の議論 の例 をハ ー クが提 出 して いるよ9ハ ー クの例 は,

Modtls Ponelas(即 ちAと

A→

Bとい う二 つの前提 か ら結論

Bを

導 く推 論規則)を意味論 的 に正 当化 しよ うとする議論 の戯 画化 で あ る。 ハー クによれ ば,

Al“ A"が

真 ,“

A→

B"が

真 と仮 定 せ よ。 “→

"の

真理 表 に よって

,も

し “

A"が

真 で “

A→

B"

が真 な らば

,そ

の とき “

B"も

また真 で ある。 それ故 ,“

B"も

また真 でな けれ ばな らない。 とい う議論 は

,こ

の議論 自身 が正 当化 しよ うとす る

,A, A→ B,

B

とい う形式 の推論 に依拠 してい る。即 ち

Alは

次 の ように書 き改 め られ る:

ArC(“ A"が

真 で あ りかつ “

A→

B"が

)と

仮 定 せ よ。 もし

Cな

らば その とき

D(も

し “

A"

が真 であ りかつ “

A→

B"が

真 な らば,“

B"は

)で

あ る。 それ故

, D(“

B"も

また真

)で

あ る。

ハ ー クは

,従

って

,Alの

形 でのMOdus Ponensの正 当化 は

,一

種 の循環 に陥 ってい る と見 なす。こ のハ ー クの議論 の持 つ巧 み さ 。小気味 よさに もかかわ らず

,こ

の よ うな考 えは言語 レヴェルの混 同 に基 づ くものであ り

,な

に よ りも健全性証明 の大局的 な意義 を見失 ってい る もの と筆者 には思われ る。 まず

,①

Alを

Al′の形 で把 え直 す こ とは

,構

文論 的 な「規則」 を外 か ら特徴 づ け よ うとす る

(12)

意味論的な特徴づけの意図を無視 して

,再

び構文論的な場面 に逆 もど りさせ るものである。② その ことによって

,今

どういう立場 で自らが構文論的「規則」 に対 峙 しているか とい う

,当

然払われる べ き「視点」(あるいは「足場」)についての留意が一際払われていない。われわれはMOdtls Ponens をはじめとする様々 の推論規則 を

,理

論展開の「メタ原理」 とみなす。 しか し

,そ

れ らの原理の正 当化 を志す限 り

,そ

れ ら原理 自体 が考察の主題対 象 とな り

,そ

れ らについての議論が存在すること になる。 その とき

,こ

の議論 その ものの推論原理 は新たな「メタ原理

J(三

階の「メタ原理」

)と

し て前提 され使用 され る筈であって

,こ

れ を今対象 となっている原理 と同 レヴェルに置 くことはナン センスで しかない。上のハークの議論 はこのナ ンセ ンスを利用 して成 り立 つのである。そして何よ りも

,健

全性証明の意義が,「規則の真理性伝達」という論理的帰結の本来的要求 を

,個

々の規則に ではな く全体 としての規則の体系 に保証するという所 にあることを

,こ

の議論 は忘れている。 無論

,健

全性 は「演繹の正当化」が成立するための必要条件 であって十分条件ではない。なるほ ど健全性定理 によって真理か ら虚偽 を導 く推論規則 は排除 され るにしろ

,健

全な (つまり真理か ら は真理 しか導かない

)規

則がすべて確保 されているとの保証 はどこにもない。従 ってた とえば

,次

のような事態が起 こりうる。 ある文

Bが

あって

,こ

の文 はい くつかの仮定 「 か ら (意味論的に

)論

理的 に帰結 する

(FFB)洵

,推

論 によって導出 され ることがない(「井B)。 つま り

,天

才 (あるい は神)の直観 によってかまたは推論 とは独立の仕方で

Bが

「 か ら(意味論的に

)論

理的 に帰結するこ とは理解 され るが

,有

限回のステ ップを連ねた演繹 という形で導かれは しない

,

もし導 こうとすれ ば無限個の仮定かまたは無限回のステ ップが必要である。 こういう文

Bが

あるか もしれない。 とこ ろが

,こ

ういう文があ りえないことを主張す るのが

,(意

味論的)完全性定理 である。すなわち

,完

全性定理 は次の ことを主張する: 「仮定 の集合Fか ら(意味論的に)論 理的に帰結するすべての文

Aは

,定

められた推論規則 によって rから (有限回のステップで

)導

出 され る」:

OA:「

A⇒

F卜

A

健全性 と完全性 とが ともに証明 され ることによって

,演

繹体系 としての「論理」が十全・ 完全で あることが保証 された ことになる。 なぜな らこの ことによって

,仮

定か ら論理的 に帰結する文 のす べてが

,か

つそれ らのみが仮定 か ら実際 に演繹 され うるのであるか ら。あるいはこうも言いうる: 演繹 はあ らゆる論理的真理 を網羅 している

,

と。 なぜ なら

,既

述のように

,仮

定か ら演繹 され ると き実際に使われる仮定 は有限個 の

Cl,C2, ・ ,C打

であ り

,Cl,C2,中

,C2か

ら論理的に

Aが

結するの は条件文

(CIA C2A… Ac″ )→

Aが

普遍的に真であるとき

,か

つその ときのみであ るか

ら。

健全性 と完全性 とが ともに証明 され ることによって

,演

繹の正当化 は完成 され るといえる子°とい

うの は

,た

とえば以下のようなことが言えるか らである。今

,証

明論的な立場 に立 ち

,(公

理が あれ

(13)

「理論」 と「論理 」

35

ΣlとΣ2とは互 いに構文論的に同値

,即

ちΣ2の原始規則 はすべてΣlの派生規則 とな り

,そ

して逆 にΣl の原始規則 はすべてΣ2の派生規則 となるとしよう。いま,ΣlがΣ2よ り使い易 い (つま り証明がや り やすい

)と

しよう。 もちろん「使い易 さ」の客観的尺度 を定義す ることは困難であろうが

,た

とえ ば原始規則 の数やその複雑 さ (一含 まれる論理定項・量化子の数

)や

演繹 に要する式の行数の平均 値 な どによって

,経

験的に定め られた と想定 しよう。(あるいは

,ゲ

ンツェンの主要定理 に登場する まわ り道のない証明に還元可能か否か

,つ

まりCut freeか否か を尺度 にしてもよい。)こ の とき使 い 易 さとい うことだけで,Σ とを優先 して採用する根拠が与 えられた といえるだ ろうか? (i)も しもΣlもΣ2も

,不

完全かあるいは完全か否かが不明であれば,Σlを採用す る根拠 はほ とん ど無 い。Σlに完全性 の保証が無 けれ ば,ただ使 い易 さのみを理 由にΣlを採 ることに は,“教育 的配慮"(例 えば論理学の テキス トにどち らを採用す るか等

)の

場合 を除 けば

,何

の意義 もない。 仙)も しΣIが不完全 (あるいは完全か否か不明

)で

Σ2が完全であれば,Σ2を採 るべ きである。(“教育 的

"に

,た

とえ使 いに くくて もΣ2を採用すべ きである。) は 'も しもΣlもΣ2も ともに完全(あるいは

lは完全でΣ2は不完全か または不明)であれば

,こ

の と き初 めて,“使 い易 い"Σlを採用する理由が得 られ る。

完全性の保証があってこそ初めて

,“

使い易さ

Tと

いうことが「採用」の理由の一部に生かされて

くる。完全性のない論理体系

(一

演繹体系

)の

使い易さ

"は

空虚である

Vl)な

ぜなら

,手

持ちの道

具がいかに使 い易 くて も,金然歯が立 たない(つまりその道具 だけでは証明で きない)「論理的帰結」 が現われたならば

,手

も足 も出ないか らである。徹)の場合のように

,完

全であればた とえ使 いに く くて もそれを採用すべ きである とい うの はそ こか ら出て来 る。理論展開の「メタ原理」 としての推 論規則体系の採用は

,い

うなれば証明 というゲームの実践原理の選択の問題である。外 で もない こ の道

,こ

の推論 (の連鎖

)に

よって結論 に到 るように勧奨 (あるいは命令

)で

きるのは

,完

全性 の 保証があって こそであ る。すなわち

,こ

の特定 のや り方での推論 の連鎖を連ね るな らば

,い

かなる 「論理的帰結

Jに

も到達で きるとい う保証が あって初めて

,外

で もないこの推論規則 の体系 (一証 明 システム

)に

拠 って証明することに固執す ることの根拠が与 えられるのである。 さらに また

,こ

ういうことが言える。

3節

で考察 された

,フ

レーゲ・ ラッセル流の論理的真理の 公理体系 とゲンツェン流の推論規則の体系 との間にあった(論理の「メタ原理」という側面の把握・ 表現可能性 に関する)「落差

J―

一 つまリゲ ンツェン流の フレーゲ流に対す る優位 ― が,健全性 と 完全性の確保 によって,ある意味で緩 められ ることになる。 というのは,ゲンツェン流の体系 に関 し て演繹の正当化 を健全性 と完全性の確保 として把 えるとき

,

この とき文 (Cェ

A C2A… AC″

A)

の普遍的真理性 というものが関与 して くるか らである。 つ まり

,普

遍的「真理」 として「論理」 を 特徴づける見方が関与 して くるか らである。従 って

,意

味論的 (モデル論的

)な

「論理

Jの

特徴づ けと

,構

文論的 (証明論的

)な

特徴づけ とは,「論理」の完全性 とい う観点か らは相補的 な面 をもつ と見 るべ きである。“メタ

"の

原理 として「論理」を特徴づけるときは構文論的な特徴づけが要請 さ

(14)

,推

論規則 の妥 当性 さらに演 繹体系 の正 当化 とい う形 で

,メ

タ原理 の根拠 をよ り高 い立場 で聞 い 直す とき

,再

び意味論 的特徴 づけが必 要 とな る。 いわ ば

,一

方 は「 メ タ」の立場 に止 まる「論理 」 を特徴 づ ける仕方であ り

,他

方 は主題 化 され対 象化 され,その正 当性 の根拠 が尋ね られ る ときの「論 理」 を特徴 づけ る仕方 であ る。

5

これ までの総括 と検討 さてここで,こ れ までの議論 を振 り返 って問題点 を整理 してみよう。われわれ は最初大 まかな「論 理」 の特徴づけ―― 「論理 とは最 も普遍的・ 一般的理論であるが

,通

常の理論 とは峻別 され る」― 一か ら出発 し

(1節 ),こ

れ をまず意味論的 (モデル論的

)な

特徴づけ として精密化 した

(2節

)。 意味論的特徴づけによると,「論理」は次の ように特徴づけ られた:「論理 とはあらゆるモデル (一 構造

)Mで

のすべての列

aで

充足 され る文の集合

,換

言すれば

,論

理 とはすべての構造・ 解釈で真 である文の集合

,普

遍的に真 である文の集合である。」この特徴づけは,あ らゆる構造で成 り立 つ「普 遍的真理」 として「論理」 を「理論」か ら鮮やかに区別することに成功 した。 しか し

,

この特徴づ けは理論展開の「 メタ原理」 という「論理

Jの

側面 を十分 に把握・ 表現 し得ない という観点か ら, ゲンツェンの証明論による推論規則 としての論理 (構文論的特徴づけ

)に

よって補われねばな らな いことが示 された

(3節

)。 ところが

,推

論規則の体系全体 の根拠づけの問題

,す

なわち演繹の正 当 化の問題 の場面で

,再

び意味論的特徴づけが効力 を持 つことが示 された

(4節

)。 これ らの議論 に依 って

,意

味論的に特徴づけ られ る「論理

Jが,普

遍的・論理的真理 として文の 集合 とい う形態 を とるいわば外 か ら主題的・対象的 に見 られた論理 であるのに対 し

,他

方構文論的 に特徴づけられ る「論理」 は

,メ

タの原理 として推論規則 とい う形態 をとる現に前提 され使用 され るいわば「生 きた

J論

理であることが明 らか となった。無論

,こ

れ ら二 つの特徴づけに対応 して二 つの異 なる「論理」がある訳 ではな く

,二

つの異 なった接近法に応 じて異 なった姿で現われた同一 の「論理」が ぁる と考 えるべ きである。 しか もこれ ら二 つの特徴づけは相反するもので はな く

,相

補的な もの と見 るべ きである。そ していずれの特徴 づけにおいて も,「論理Jは通常の理論 とは峻別 され る一―意味論的特徴づけではそれの普遍性 によって

,ま

た構文論的特徴づけではそれが メタの 原理である ということによって一― ということを

,こ

こで確認 してお こう。 ところで,以上 の議論 を通 じてわれわれが暗黙 に前提 していた ことが い くつかある。 それは,いわ ゆる古典二値 の前提の上に立 って議論 を進 め

,し

か もその中で「世界」 としてある限定 された形で の「構造」 を採用 した ことである。 ここで

,こ

れ らの前提 を改めて検討 してみよう。 そこで まず, この節では古典二値 という前提内部 に話 を限 り(I拷 その中での「前提」 を問題 とし

,次

節で古典二 値 という前提 その ものを検討することにしたいtl)。

(15)

「理論」 と「論理」

97

(I)まず

,古

典二値論理 に話 を限定することにして

,意

味論的な「論理」の特徴 づけの中に存す る 「前提

Jな

いし問題点 を探 ってみよう。 竹)われわれは「 もの」の領域 とそれ らの間の集合論的関係 。関数か ら成 る組 を構造 と定義 し

,

こ の構造 を「世界」 と見立て

,世

界 を記述するある特殊 な文の集合 (記述す る構造一世界が どのよう なものであろうとも常 に真 となる文の集合

)を

「論理」 とみな した。 この とき

,こ

の「論理」 は結 局 の ところ第

1階

の述語計算の定理 (の集合

)と

なる。 ところで

,

この一階の述語計算 には (意味 論的

)完

全性が成 り立つ とい う著 しい特徴がある。完全性 の成立 は

, 4節

での議論の ように「演繹 の正当化」の成立 に決定的位置 を占めるが

,そ

の ことは「論理」 の意味論的特徴づけにおいても同 様 である。論理定項 と量化子以外の非論理的文字 を解釈 した とき

,す

べての構造 に無関係 に真 とし て生 き残 る文一一階の述語計算の定理 (それが「論理」であった

!)に

対 してのみ完全性が成立す るのであってΥ劾ある特殊な解釈を最初から負わされた述語記号や関数記号 を含む「理論」には

,一

般 に完全性の保証 はない。 つ まり,「論理

J(一

一階の述語計算の定理

)は

完全であるが

,理

論 は不 完全である。 ところが

,こ

こに奇妙な ことがある:一階の述語計算 は代数的には完備 ブール代数で あるY3)理論 とは峻別された筈の論理が

,な

ぜ理論 と対応するのか

?不

完全である筈の理論(ブール代数)がなぜ 完全なる論理 (述語計算)と 対応するのか ?こ れは,理論 と論理の峻別 を無意味な ものにす るのか? これにはこうい う答が可能であろう。対応があるとい うことはその まま同一であることを意味 し ない。代数 としての側面が論理 にあるとして も

,そ

のことが「論理」の独 自性 を破 ることにはなら ない。「論理」の持 つ意味論的な諸概念

,

とくに「真」「偽」の概念が代数 との対応において「1」 「0」 あるいは全体 クラス と空 クラスという「値」 に対応す るとい うことは

,代

数化によって世界 との繋が りとい う論理独 自の観点が欠落す ることを端的に示す もの といえる。先述の ように

,も

と もと意味論的完全性 を問題 にするときの「論理Jは 文の集合 として

,い

わば外か ら対象化 された「論 理」であった。従 って,無論,完全性 の議論 はメタの レヴェルにある。 メタの レヴェルの議論 もゲーデ ル化?'によって算術 に写像で きる。しか し

,写

像 されずメタの議 論 その もの として働 くとき,そ こ では「論理」が前提 され

,使

用 されている。一一 このことは動かない。従 って

,

ここで もメタ原理 という論理の側面 と

,対

象化 され (写像 によって

)理

論の一部 とされ る普遍的真理 としての論理 と は区別 されねばな らない。 この区別 が一貫 して守 られるな らば

,論

理 と理論の峻別 は維持 され

,意

味 を持 ち続 ける筈である。 lHl次に,「論理」と集合論 のいわゆる線引 き問題 (demarCation problem)に関連 した論点 に移 ろ う。われわれ は「世界」 に登場するものを

,単

に Fもの」 として ごく一般的に定めたにす ぎなかっ た。この とき前提 されていたことは,「もの」が少な くとも一個 は存在する ということ()F空領域nOn empty domainの前提

)だ

けであ り

,こ

の「 もの」がた とえば「集合」である とか,「イ団体」である とか とい うことを,明か らさまに前提 していた訳ではない。 もし,世界 の中の「 もの」のうちに集合

(16)

が含 まれ るとしたら

,集

合 とその元 との間のメンバーシップの関係 を表現す る “ε

"と

いう述語記

号がわれわれの言語の中に必 要 となるだろう。 しか し

,述

語記号 “ε

"に

は勝手 な解釈が許 される

訳ではな く

,従

って “あ らゆる解釈で真

"と

いう基準に耐 えて生 き残 る “ε

"を

含む式 は存在 しな

い。 クワインは

,述

語づけ とメ ンバー シップを混同 しその解釈の枠組 に集合論 を要請するもの とし

,(高

階の論理やタイプ理論 ともども)第二階の述語計算 を採用せず

,は

っきり集合論 を採 ること

を勧めている (Quine[1970]Ch.5)。 クワインによれば,“

Fa"は

aは

(属性 あるいは集合

)F

をもつ」と読んではな らない。 もしそう読みたければ (Fの代わ りにαとい う文字 を用いて

)aε

2

とし,“属性"もやめてはっきり量化可能 な集合 を とるべ きであるという。 クワインは「属性」や「命 題」 などの内包的な「意味」の要素 を排除する一方で

,集

合論 を きっぱ り「論理」以上の「理論」 であると主張する。 さらには一階の述語論理だけが「論理」であ り

,集

合論への移行の途上 にある 三階 (あるいは高階

)の

論理 は「羊の衣 を着た集合論」だ として排斥 しようとす る予9フレーゲやラ ッセルは数学 (実数論 を含む算術

)を

「論理」に還元 しようとしたが

,そ

の「論理」には「集合論J が含 まれていた といえる。 ものの「性質」,「関係」あるいは一般 に「集合」 とい う概念が

,特

殊 な 話題領域・ 特殊 な世界 に限 らず考 えうるあらゆる世界 に登場する概念だ とすると

,そ

のような概念 を「論理的」 とみなす立場 も当然 あ りうる。 その とき問題 になるのは,どの程度,世界 あるいは「 も の」の構造 を言語の構造の中 に組 み込 むか とい うことである。なぜなら,「論理」が文法 と異なる限 り

,な

ん らかの仕方で世界の構造 か らのいわば加圧 を負った形で言語 を考 えざるを得ないか らであ る。 しか しわれわれの立場では

,可

能な限 リニュー トラルに

,世

界の「 もの」を考 えた。われわれ はただ「 もの

Jと

のみ定 め,「もの

Jに

対 するわれわれの直観 に暗黙 に頼 る ことによって,「もの」 と世界の一般性 を確保 しようとした。「論理」を一階の述語計算の定理 とい う形 で導 き出 したの も, 当初か ら集合論 との線引 きを意図 してなされた結果なのではな く

,ま

た特定 の「集合論

Jを

仮定 し ている訳で もない。 もちろん

,た

とえば

ZFの

ような集合論が一階の述語計算の定式化 によって記 述で きる として も

,三

階 (あるいは高階

)の

論理 を「論理」 とみなすか とい う点 については

,尚

問 題が残 る。 しか し

,今

はそれを十分 に扱 う余裕 はない。いずれにしろ

,世

界 の構造 をどれほど言語 に反映 させた形で「論理」 を考 えるかについては選択の余地が存すること

,わ

れわれはひ とまず中 立的な立場 を採 ったこと

,を

ここで確認 してお くに止める。

6

残 される問題 tD最後に “古典二値

"と

い う前提 その ものを問題 としてみよう。われわれがそのことを知 ってい るか否か

,知

りうる手段 を持 つか否か ということ (認識

)と

は独立 に

,真

・ 偽 を語 ることの有意味 な文 についてすべてそのような文の真理値 は決定 されている筈だ とみなすのが

,古

典二値論理の立

(17)

「理論」 と「論理

J 39

場である。 しかも

,真

・偽いずれか一方のみを取 るのであって

,そ

の中間の値 はない という原理,

いわゆるprindple of bivttenceを古典論理 は採用す る。 これに対 して

,古

典論理の論理法則だけで

は不十分であって古典論理 に新 しい語彙 を加 えて もっと多 くの論理法則 を打 ち建て ようとする古典

論理の「拡張論理」(ёxteladed iogた )と

,古

典論理の法則 の中には妥当でない ものが あるとす る古

典論理 からの「逸脱論理

j(de

ant 10gic)と が

,考

えられ るま°これ らのいわゆる非古典論理 におい

,わ

れわれの論理観――理論 と論理の峻別十一 が有効 か どうか を検討 してみたい。(ただ し,これ を十分 に扱 うことは今 はできない。暫定的な扱いと見取 り図を描 くに止める。) tD―竹

)ま

ず「拡張論理」の代表 として様相論理 を取 り上 げる。われわれはこれ までの議論 にお いて「論理」を通常の「理論」か ら峻別することを,「論理」の特徴づけの一つの原則 とみな して き た。 ところが「様相論理」の場合

,

クワインの批判1271を 倹 つまで もな く

,そ

もそ も「様相論理」 は 「論理」ではな く「理論」なのではないか とい う印象が在 ることは否めない。 というの も,“□"(「 然に」 を表わす演算子

)の

解釈 は きわめて多様 であって

,そ

れ に応 じて実に多 くの様相論理が成立 しうるか らである。確 かにク リプキらの「可能世界意味論Y°によ り “□

"の

解釈のた めの有用な道 具が与 えられ は した ものの,「可能世界論」という特定の構造でのみ成立す る「理論」であるとい う 批判 の余地が尚残 るか らである。具体 的に言 えば

,次

の ような批判があ りうる:

①「必然」や「可能」は結局

,可

能世界の集合の上に課された量化子であるからち メタの言語では

古典述語論理に還元されてしまう。そして「可能世界の集合」という所で「可能」という概念を用

いることによって

,あ

る種の論点先取を犯している。

② メタ言語 レヴェルでメタ論理 として様相語が働 く文脈 があ りそうにないか ら

,様

相論理 は論理 と はみなせないのではないか。

③「可能世界

Jの

内実が不明瞭である。

これ らの批半」点 は

,

もっ ともとうなず ける点 を多々持つ ことは確かである。 しか し筆者 自身の現 在の考 えを述べるとすれば

,こ

れ らの批半」点 は承知 で尚様相論理 は研究するに値 する もの と思われ る。 そう思わせる理 由は

,な

によ りも様相論理 の持つ応用範囲の広 さと影響カーー それは論理観の 訂正 を迫 るほ どの力であると言 って も過言ではない一― とであ る。「論理」も世界 の構造

,そ

の把 え 方か ら全 く独立である訳 にはいかないことは

,既

に論 じられた。様相論理の「可能世界意味論Jは, 文の「真」「偽」を決定 するときに関与する世界 を一枚岩 の現実世界のみに限 るのではな く

,可

能な

世界をも視野に入れるという世界の把え方を要求する。このような観点から上の①∼③の批判に暫

定的に答 えるとすれば

,次

のように言 えるだろう: ① に対 して :「 論点先取」 とい う批半」は

,古

典述語論理の「意味論

Jに

対 して もあて はまる。 なぜ な ら, 9(渚 (φ

Aの

⇔ 則佑φかつ?(信ψという形で対象言語である “八

"を

メタ言語 “かつ

"で

説明 することの中に同様の論点先取があるか らだ。しか し,この「論点先取」という批判 は言語 レヴェルの 違 いを無視 して初めて主張 しうることである。従ってその点 を押 し進めて行 けば,対象言語 の“□"

(18)

(必然

)を

メ タ言語 での (古 典論理 での

)量

化 子 に還 元 で きる とい う批判 も弱 め られ るので はない か 。 ②に対 して:②の批判 はかな り強力で最 も基本的である。 しか し

,た

とえば “□

"を

文演算子で は な く述語 と見て「・・・は証明可能

Jと

読 むことによって

,証

明論 (特にゲーデルの第二不完全性定理 をめ ぐる議論

)と

連絡がつ くV9すると

,メ

タの推論規則 (メタ論理

)と

まではいかず とも少 な くと もメタの述語 として “□

"に

相当するものが登場する文脈が在 るとはいえる。従 って

,将

来 メタの 論理 として “□

"が

働 く文脈 が皆無だ とは断言 はできないだろう′∫ω ③ に対 して :「 可能世界」の内実が曖昧だ というの は

,こ

れは「論理」 の「意味論」 としてはむ し ろ望 ましい ことである。余 りはっきりと「可能世界」の内容 を特定すれば

,そ

れ こそその ような特 殊な構造 を背負 った議論 を反映するもの として,「論理」ではな く「理論」であるという性格 を特 た せることになるからである。無論,「意味」その ものの説明 として

,あ

るいは「可能世界」その もの の説明 として,「可能世界意味論」が どれほ ど成功 しているかは別問題 である。 以上の答は

,(繰

り返すが

)暫

定的な ものである。(この点 は筆者の以後の課題 としたい。)ただ次 のことは言 える。六十年代以降の急速な様相論理の発展・隆盛・ 1)を よそに

,尚

多 くの批判がある。°D が しか し

,様

相論理が「論理」であるか「理論

Jで

あるか決着 をつけるにはまだ時期尚早 である と 思われる。 なぜなら

,先

述のように様相論理 の発展 によって (論理 を どういう形で特徴づけれ ばよ いか とい うその)論理観 その ものが動揺を余儀な くされているか らである。(たとえば

,直

観主義論 理の場合 と同 じく

,様

相論理 の完全性定理の出現1311によって ,「論理」の特徴づけの際 に大 きな位置 を占めた「完全性」の概念が揺 いでいるのがその好例 であろう。) t⇒―lE7)次に逸脱論理 に移 ろう。真・ 偽以外 に中間 (あるいは不定

)の

値 は真理値 としては認 めな いという原理 (principle of bivalence)を明か らさまに破 り

,第

三のあ るいはそれ以上多 くの真理 値 を認め るのが多値論理である。 また直観主義論理 は

,論

理が理論 (この場合数学

)の

基礎 という 見方を とらず

,む

しろ理論 として直観主義的数学が まずあってそこに働 く「論理」 をとり出 した も のとして論理があるとみなすよつ従って

,と

くに直観主義論理 においては,「論理」の直観主義的数学 遂行の「 メタ原理」 とい う性格が正面 に出ることになる。 この ような逸脱論理 において

,わ

れわれ が提出 した原則 は有効 だろうか。十全 な議論 は今後 に残 されるが

,少

な くとも次の見通 しは立 つ。 すなわち

,逸

脱論理の場合 にも「論理」を「理論」か ら峻別 するという原則 は生 き続 け

,

しか も「理 論の創造原理

Jと

いう新たな局面の中で浮かび上がって くると予想 される。た とえば

,一

種 の多値 論理であるブール価モデルによる集合論のモデル構成1351ゃ 直観主義論理(一完備ハイティング代数) による直観主義的集合論の建設。0などの例 は

,論

理が集合を創 る原理 として働 くことを

,古

典論理 の場合 よリー層明瞭に示す ものである。この場合

,論

理 は新 しい集合の創 り方 を示す ことによって, 新 しい数学―理論 をつ くる「創造原理」となっているよ分すなわち古典論理では

,集

合 との関連 で は,

参照

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