75 ハイ ネにおけるゲーテ
ー『ロマン派』のGoethe−Absdmittを
中心として一
高 木 文 夫 ハインリヒ・ハイネHeinrichHeineの『ロマン派DieRolnantischeSchule.』 は最初1833年春パリの雑誌『ヨーロ ッパ文学 エ’風J和peg如erロi柁』に『ドイツ文学の現状。スター・ル夫人以後のドイツについて姦α亡αC‡“egde∼α加古一
和地ree花Aヱgem8g花e‖伽g旭丘gemαg乃ed印Uisル払血medeSとαどg』という題で 掲載された。同書は早くも同年4月および7月にはドイツ語版が『ドイツの近 代文学史のために 易〝Gescぁわ如eder一花e弘ere花SCゐ∂花e托工加和£αrわかe弘£5Cん− g∽d』という題名でパリのハイデロフ・ウント・カンペ出版社から発行される。 『ロマン派』という題名になったのは1835年にハンブルクのカンペ出版社から 増補改訂されて出版されてからである。 増補改訂される前の全体の構成は現在流布している『ロマン派』の第三巻の 半ばプレンクーノBrentanoとアルニムArnim に関する部分までであった。 ハイネは1833年4月の第一・巻に続く同年7月刊行の第二巻の序文でその執筆計 画について次のように述べている。 「この書物の第一・巻の序文を読めば,第二巻刊行の所以も納得されるであ ろう。第一・巻では一・般的にロマン派の歴史について語った。第二巻では個 別的にロマン派の領袖たちについて述べている。第三巻,第四巻において はその補足としてシュレーゲル伝説圏のその他の英雄について,ついでま たゲーテ時代の末期の悲劇詩人について,そして最後に私自身の時代の作 家について語ることになっている。」 カ 1)Heinrich HEINE:WerkeundBriefein2:ehnB訂nden,hrsg.Ⅴ・HansKauf−mann.BerlinundWeimar19803(初版は1961)以下WuBと略す。
WuB Bd..V S.9この壮大な文学史の執筆は結局のところ中途で計画倒れとなってしまった。殊 にハイネの同時代の作家については書かれないままであった。しかし,彼は,
1833年4月8日ハインリヒ・ラウベHeinrichLaube に宛てた書簡の中で『ド
イツの近代文学史のために』について次のように述べている。 プログラム 「あなたにドイツ文学のための私の綱 領を送ります。(中略)ゲーテ死後の ドイツの読者に文学の決算を送る必要があったのです。今や新しい文学が プログラム 始まっているのでこの小さな本は同時にそれの綱 領でもあるのです。そ して他の誰にもまして私こそが与えねばならなかったのです。」 カ 1833年の4月という時点を考慮すれば,この書簡で言われていることは特に第 一・巻のことであろう。だがここに引用した−・節はかなり意味深長である。「文 プログラム 学の決算」とか,「新しい文学の綱 領」とかの文言は具体的にどのようなこと を意味しているのであろうか。また上述の「序文」では第一・巻の内容は「−・般 的にロマン派の歴史について語った」と述べているが実際に内容を検討してみ れば必ずしもそうではないことが−・目瞭然である。特にこの第一・巻の末尾約三 分の−・はゲ、−テ).W.Goetheに関する記述が多く,Goethe−Abschnitt と呼 ばれているからである。 小論はこのGoethe−Abschnitt と上述のラウベ宛書簡の−・節とを相互に関 連させて,ハイネにとっての両者の意味,とりわけハイネにとってゲ、−テとい う存在は何であるのかに限定して概略的に述べてみようというものである。 1 ハイネがその著作で初めてゲーテに言及するのは処女評論『ロマン主義 Ro_ mα花£娩』(1820年)においてである。ここではゲーテを当時ボン大学でハイネ の師匠であったA.W.シュレーゲルSchlegelと同列に並べ,二人を「わが最大 のロマン主義者」,「最大の造形主義者」と呼んでいる。この評論に見られるゲ l−テ像の特徴はロマン主義ふうにされた(romantisiert)点にある。すなわち, 2)WuB Bd。Ⅶ S.416ハイネにおけるゲーテ 75 この時点ではハイネはゲーテをロマン主義者に加えているのである。しかし, ここで「ロマン主義」と名づけられているものの中味も考慮に入れておかねば ならない。
ト・…・いわば魔法のランプから流れ出し,多彩な色の戯れや奇抜な光であ
やしく心を興奮させ楽しませる錯雑膿職とした形象など,そんなものは断
じて真のロマン主義ではない。何よりもまずロマン的感情が刺激されるようなさまさまの形象も,造形的な文学の形象と同様に明確に,同様に明瞭
な輪郭で描かれることが必要なのだ。」頚
ハイネは「ロマン主義」についてこのように定義し,ゲーーテ『ファウスト助α8亡』 や『ィフィゲーニュ 帥なe花ie叫/−7b払ris』などにこのような特徴があらわ れていると述べる』この評論で特に指摘しておきたいのはすでにこの時にハイ ネが後の「感覚主義(Sensualismus)」と「唯心主義(Spiritualismug)」という二元 論の萌芽である「ロマン主義的(romantisch)」と「造形的(plastisch)」の二元論によって論を組み立てていることである』ハイネはこの二元論に立ち,両者
の対立を克服しようと努め,さらに引用の一・節に見られるように「造形的なも
の」を重視したのである。ここでのゲーテ評価はその「造形性」ゆえに肯定的
なものであった。その後ハイネはゲッティンゲン大学を経て,ベルリン大学へと移る。彼はベ
ルリンでラpエル・ファルンハーーゲンRahelVarnhagenを中心とするゲーテ崇拝者のサーークルに加わった。ハイネは当時ファルンハーゲンが編集した『同時
代人の証言の中のゲーーテ Goe亡ゐei花de花勿喝花王ssのder・〟f亡ヱeわe花de花』にゲーーテ論を寄稿したが,何らかの事情により掲載されず,原稿も紛失してしまった
ので,この時点でハイネがどのようなゲーテ像を抱いていたかは詳かではない。
3)WuB Bd.ⅣS.178 4)Vgl.奈倉洋子「若きハイネの文学観一処女評論『ロマン主副を軸に−」(「ワイマ ル友の会」研究報告 第1号<1976>)S..82 5)Vgl.Fritz FRIEDLAENDER:HeineundGoethelBerlinundLeipzig1932りS 13fおよびKarlWol董gangBECKER‥KlassikundRomantikimDenkenHein−rich Heines.in:HeinrichHeineStreitbarer Humanistund volksverbun− dener工)icher。.(Heine−Kon董erenzWeimar1972)Weimar1973
しかし,トゥリルゼによれば,それまで無条件賛美に近かったハイネのゲーテ 像にはこの時期にはすでに翳りが見られる』その理由として考えられるのはこ の時期がいわゆる「ブストクーヘン主義(Pustkuchentumllの時代であったこと, および,ハイネが加わったベルリンのゲーテ崇拝者のサ・−クルが陳腐なゲーテ の無条件賛美に堕していたことである。その批判は最初このような「ゲーテ派 主義(Goetheanertum)」に向けられていたが,やがてゲーテ自身に向けられるよ うになる。しかし,1821年12月に出版した『詩集Gαブfc/加』をゲーテに贈る際 添えられた書簡は上のようなゲーテ崇拝の影響がハイネにあることを証明して いる』 1824年,前年末にべルリン大学を退学し,再びゲッティンゲン大学に入学し たハイネは秋になってハルツ地方に旅行する。この時の体験は旅を終えた後は どなくして『ハルツ紀行助rzre£se』(執筆は1824年)に結実する。この旅行の 目的地はゲーテの住むワイマールであった。ワイマールでハイネはゲ・−テに会 う。この時のことは後年『ロマン派』のGoethe一Abschnittでもなつかしそうに 顧しているが,実際には双方に後味の悪い出会いだったようだ。特にハイネに とってはゲ1−テに対する落胆は隠しようがなかった。しかし,この旅行の直後 にハイネが友人や知人に宛てて書いた書簡ではワイマール訪問については何ら 触れていない。彼がその重いロをようやく開くのは翌年になってからである。 「僕が君にゲーテのことを何も書かなかったこと,僕がワイマールでゲー テにどんなふうに話したか,そしてあの人が僕に好意に溢れていてしかも 怨敵無礼なことをたくさん言ったこと,そんなことを君は失くしてしまっ たわけではないよ。あの人はかってみごとに栄えていた建物にすぎず,そ のことだけが僕の関心を引いたのだ。(中略)結局のところ,僕とゲーテは ナトゥーア ニつの性格であって,異質なためにお互いに反発し合うものなのだ。あ 6)Christop TRILSE:DasGoethe−BildHeinrichHeines.Goethe−Jahrbuch NF30.Jg.(1968)S.167
7)Vg・1“FRIEDLAENDER:a,a.0S.16f.及びWuBBd.ⅧS。40。さらにFritzMEN−
DE=HeinrichHeineLChronikseinesLebensundWerkes。Ber1in”19812s.25
を参照せよ。ハイネにおけるゲーテ 77 ライヒト レーベン の人は生来気楽な生活人間Lebensmenschであって,生活の享楽を最高の レーべ:/ ものとし,イデーのための生活やイデーの中での生活を時たま感じ,予感 し,詩の形で口に出すが深く理解したことは決してなかったし,ましてや レーーベン′ 生活することはさらになかった。それにひきかえ僕ときたら,生来夢想家 だから,イデーに熱狂する余りその儀牲になってしまったり,イデーに沈 潜するようにといつも責めたてられているのだ。」 これは友人のモーゼス。モーサ
ーMosesMoser に宛てた書簡(1825年7月1
日付)の−・節だが,ここではハイネとゲーテの相違点が殊更に強調されており, またそのゲーテ批判は憎悪すら感じさせる。ハイネのゲーテに対する反発はす でに明確な形を取り始めているg)ハイネのワイマ・−ル訪問はハイネとゲーテの 関係にとっては−・つの転回点であっ遭)さらにここで注目すべきはまたしても レーーヾン ニ元論である。ハイネは自分の相違点を強調するのに「生活」と「イデー」の対立 レt−ベ)′ という二元論を使用する。すなわち,ゲーテが「生活」を,ハイネが「イデー」を体 現するというものである。だがこのような対立矛盾はハイネ自身が内面に持っていたものだっ遭)『ハルツ紀行』では上述の成立経緯にもかかわらず,ゲーテについて
触れた箇所はどく僅かにすぎ・衷2)それも私信で見せたような激しさではない。それ
どころか『ハルツ紀行』と同じように『旅の絵点eiseわig滋r・』のシリーズに加えられた 『北海第3部〃ordsee.βr如eAわとei∼α喝』(1827年)ではゲーテは偉大な作家と して称えられている。 「このゲーーテの功績は後世に至ってはじめて認められるだろう。何故なら 我々は(中略)ゲーーテがその作品においてどんなに健康であり,分裂がな く,造形的であるかをしかに見てとることができないのだ。(中略)後世に なれば,あの造形的な直観,感情,思惟能力のほかにも我々が全然気がつ 8)WuB Bd‖ⅦS…198 9)8)の書簡に先立つChristiani宛書簡(1825年5月26日付)もはぼ同じような論調で ある。Vg・1WuBBd.,ⅧS、191f 1(か VglFRIEDLAENDER:a.a.0‥S.21 11)FRIEDLAENDER:a‖a.0.S.24 12)Vg・1JostI血MDはその『ハルツ紀行』論の副題を「ゲーテへの不快」として「ハイ ネvsゲーテ」の観点から分析している。Jost馳RMAND:DieHarzreise.Unmutge− genGoethehinJH∴Der frilheHeine.Munchen1976かない多くの美点がゲーテに見い出されるであろう。」13)
このゲーテ評価の申で目につくのは「造形的(plastisch)」な点がその対象のひと つになっていることである。この点は『ロマン主義』の中でもゲーテの長所と して指摘された。ハイネのゲーテ評価の方向が大筋では変わっていないことが わかる。私信に表わされた否定的なゲーテ像,公刊物に現われる沈黙と肯定的 なゲーーテ俊一この矛盾はハイネの内心でその両方の評価が互いに格闘し,ハ イネ自身はそのはさまで揺れ動いていたことから生じたのであろう㌘) この時期は−・方で新しいゲーテ反対派(Goethe−Opposition)の時代でもあった。 ゲーテの作品の「背徳性」を非難した保守派の「ブストク・−ヘン主義」に対し, 新しいゲーテ反対派は彼の「非政治性」や「無関心主義(Indifferentismus)」を攻 撃する。その代表者は)L/・一トヴィヒ・ベルネLudwigBUrne,ヴォルフガング・メンツェルWolfgangMenzelや青年ドイツ派JungesDeutschlandであり,直
接的な政治性を求める急進的立場からの非難だった。当時のハイネは彼らの影 響下にある。しかし,彼は1827年11月28日メンツェルの『ドイツ文学加比丘5Cゐe エ加r■α如〝■』第二部を読んだ直後ファルンハーゲン・フォン・エンゼVarnhagen vonEnseさこ宛てた書簡で次のように述べている。 「メンツェルの文学についての本にはどりっばなことがたくさんあります。 ゲ、−テについての箇所は苦痛なしには読むことができませんでした。私は 決してそんなものは書きたくはありません。親愛なるファルンハーゲン, あなたは何を考えていらっしゃるのですか。私が,この私がゲーテに反対 するようなことを書くなんて,空の星が私に敵意を抱いているからといっ て,たったそれだけで星を鬼火だなどと断言してもいいというのでしょう か。本当に偉大な人々に反対して言うことはたとえ本当のことが言えたと しても大体が愚かなことです。それどころかゲ・−テの思考方法に対する反 対,つまりドイツの民族的(national)な偏狭固牌と浅薄な敬度主義は私にと っては最も運命的なことです。従って私はやはり偉大な異教徒のもとで我 13)WuB Bd.,ⅢS.97f. 14)¶モILSE:a。.aい0…S.168f.ハイネにおけるゲーテ 79 慢せねばなりません。(中略)私も不満に思う者の一人であるとはいえ,反
逆者に移行することは決してありません。」15)
妻のラ・−エルとともにベルリンのゲーテ崇拝者サークルの中心人物であるファ ルンハーゲン・フォ・ン・エンゼに宛てた書簡の−一節であるが故に幾分控え目で はあるがそれでもゲーテに対する不満が噴き出している。ゲーテの偉大さには 敬服するものの不満は抑えきれない。ここには上述の新しいゲーテ反対派の影 響が見られる。そのゲーテ反対派の中でハイネがまず影響を受けたのがメンツェル である。メンツェルは当時はまだ偽装していたが,30年代以降その本性が明るみに 出て,ハイネから手ひどい批判を受けることになる。そのようなメンツェルがとも かくもー噂的にハイネに影響を与えたのはゲーテの「非政治性」や「生活享楽」などを 非難したからである。しかし,上に引用した一節などに見られるようにハイネはや がてメンツェルを拒絶す−るようになる。この後ハイネに影響を与えたゲーテ反対派 はベルネである。ベルネのゲーテ批判ではその攻撃目標はゲ・−テの静観主義,貴族 主義無関心主義そ・して唯美主義だった。メンツェルとは違いベルネはゲーテの芸術を評価はしたが,「大理石のように冷たい(marm。r女alt)」と評した誓)ベルネは結
局のところシュトゥルム・ウント・ドゥラング(SturmundDrang)期の若きゲーテ の革命性ほ理解したが,その後のゲ⊥テの発展はわからずじまいだった。このよう なベルネの影響下からハイネはやがて離れてゆく。 この時期のハイネの芸術観は次に引用するファルンハーゲン・フォン・エン ゼ宛書簡によく言い表わされている。これがまたこの時期のハイネによるゲー テ芸術に対する見方でもある。 「時代はまだ同じものであるかのようです。シラー=ゲ・−テのクセーニェ ン合戦(Ⅹenien−Kampf)はジャガイモ合戦にすぎなかったのです。芸術の 時代(Kunstperiode)でした。生活の見かけ(Schein),つまり芸術に向けられ ていたのであって,生活そのものに向けられていたのではありません。今 や生活の最高の利害かつ問題なのです。革命が文学に入って釆ます。戦い 15)WuB Bd。ⅧS,289f. ユ6)T如L,SE:a.a.0いはもっとまじめなものになります。」(1830年2月4日付)17)
よく引用される有名な一一・節だが,ハイネはこの頓には「生活そのものに向けられた」「新しい文学・芸術」の出現を要求するようになる。同時に彼はゲーテ
の時代を「芸術の時代」と呼び,さらにその終焉を予言する。
「芸術時代の終焉とともにゲーーテ主義も終わりを告げる,というのはあい
かわらず私の確固たる考えです。私たちの美的に構成(馳thetisieren)し,哲
学的思索に耽ける(philosophieren)芸術意義の時代だけがゲーテの登場に都 合が良かったのです。熱狂と行為の時代は彼を必要とするのが不可能なのです。」(1830年2月28日付ファルンハーゲン・フォン・エンゼ宛書簡)18)
「芸術の時代」という用語,および「芸術の時代の終焉」というテーゼはハイ
ネがこの時初めて言ったことではない。すでに書評『メンツェルの「ドイツ文学」,,βiedeぴねCゐeエ如和£比r“UO几Ⅳ0始α喝〟e花Zeヱ』(1828年5月)でこのテー
ゼを使用している慧)「ゲーテ的芸術時代の終乳の宣言は同時に「新しい文学」 を予言するものだった。この時期のハイネのゲーテ評価はその批判の矛先はこ れまでのようにゲーテの生活態度にではなく,ゲーテの芸術およびゲーテ的世 界に向けられる。この時期がハイネのゲーテ評価が最も否定的な時期であった。社会や時代も確実に動いていく。1830年夏北海に浮かぶヘルゴラント島に静
養するハイネのもとにパリの七月革命の報せが届く。革命への彼の熱狂ぶりは
後年『ベルネ覚え書エ㍑血な月びme.g£花e加花ゐ8Cゐ巧/t』(1840年)第二巻に収
められる「ヘルゴラントだより勤王q/占α以β助ggo∼α花d」によく窺える。翌年5月
ハイネは革命の地パリへ移る。移住後の初仕事は新聞連載記事『1831年パリの
絵画展覧会Gemα協ααSβ亡eZヱ㍑喝i乃劫r王台Jβ∂J』(1831年10月27日∼11月16日) であった。この−・連の記事は後にひとつにまとめられて『フランスの画家ダ和か Z∂s£5Cゐe肋∼e再という題で『サロン伽「蝕ヱoJも』第一魔(1834年)に収録される。 ハイネはその中の「ドゥラロシュβegαrOC九e」の項で来るべき新しい時代の新し い芸術について次のように述べている。 17)WuB Bd”ⅦS.356 18)WuB Bd。ⅧS小362 19)WuB Bd.ⅣS小236ハイネにおけるゲーテ 81 「現在の芸術は亡びねばならぬ。なぜならその原則は死に絶えた古い体制, 神聖ロ・−マ帝国という過去に未だ根さしているからだ。だからこの過去の すペての枯れた残り樺のように現在の芸術は現在と最も面白くない矛盾に 陥っているのだ。芸術にとって肩書なのはこの矛盾であってこの時代の動 き自体ではない。それどころか逆にこの時代の動きはまさに最も粗野な戦 争や党派の嵐の中で芸術が最もみことに花開いたかってのアテネやフィレ
ンツェのように芸術にとって好都合なのである。」20)
ハイネにとっては新しい芸術は新しい時代に即応し,適合したものでなくては ならなかった。ハイネには遅くとも七月革命の頃には伝統的な「芸術理念」が 無力であることがわかっていた。「芸術の時代」の詩人たちは荒れ狂う時代を嘆 き,自分たちの芸術の才能がそのために破滅してしまうことを悲しむが,ハイ ネはダンテを例に引きながら彼らを非難する。ダンテは追放された時や戦争の苦難の時でも「彼の才能の没落を嘆いたりはせず,自由の没落を嘆いた」2りの
である。芸術というものは芸術家が社会から孤立することによるのではなく, 芸術家の社会での力強い活動によって成立し,その正しさが確証される。それ にひきかえ「芸術の時代」の詩人たちは芸術を日常の政治から切り離すことに よって岬彼らはこうして芸術を「純粋」なものとして保持できると考えてい る¶本来創造的な要素である社会への働きかけを放棄して−いるのだ。「時代」 一あるいは社会と置きかえてもよかろうーと直接的に関わり合うこと,こ れが芸術にとって不可欠なのである。ハイネは社会的現実との批判的対決のた めに芸術が社会や時代と関わりを持っており,しかもその社会や時代が時とと もに変化して「新しい時代」になっている以上それにふさわしい「新しい芸術」 が必然である。ハイネはl ̄新しい芸術」を要求する「新しい時代」を「ここま で(中略)最も自己陶酔した主観性,世界から束縛を解かれた個人性,神から 解放された個性がその生活享楽すべてとともに有効となるかも知れない時代」2勾20)WuB BdⅣSh343
21)WuB Bd。ⅣS343 22)WuB Bd.ⅣS.343だと理解した。従って彼は主観性に書きを置く新しい文学が来るべき新しい時 代にふさわしいと考えた。ハイネにとってはゲーテおよびゲ1−テ派の文学は冷 たい客観性や「死んだ仮象の存在(Scheinwesen)」による「古い芸術)であ・つた のだ。 2 ここまでハイネの処女評論『ロマン主義』から『フランスの画家』に至るま での著作や書簡に見られるゲーテ評価を断片的に追って釆た。その中に見られ るゲーテ像は無条件賛美から拒絶まで振幅が大きく,その批判の対象もゲーテ の生活態度から芸術までヴァラエティー一に富み,その内容も矛盾に満ちている。 大筋で見ればハイネのゲーテ評価は肯定的なものから年月を経るにつれ次第に 否定的な内容になっている。それは『フランスの画家』になると「芸術時代の 終焉.jのテーゼに見られるように頂点に達している。しかし,ゲーテを全面的 に否定したわけではないことは上に見たとおりであり,つねにゲーーテのもつ−・ 面が拒否されたのだ。ハイネのゲーテ評価にはいつもハイネが置かれた時代の 状況が背景にあって影響を及ばしている。 否定的な方向に進む−・方のハイネのゲーテ評価にとって一・大転機となったの は1832年3月のゲーテの死であった。このできどとはハイネの思索に新しい方 向づけを与え,その後ハイネのゲーテ評価は否定的要素を保持したままで再び 肯定的な傾向を持つようになる㌘ 『トドイツ近代文学史のために』(『ロマン漁』)はこのような状況を背景とし てゲーテの死の翌年に書かれた。執筆時期の点でも「ゲーテ死後のドイツの読 者」に送る「文学の決算」であったわけである。一方で『ロマン派』第一・巻の 中のGoetheTAbschnittではゲーテをめぐるさまざまな文学状況が述べられて いるがこれはいわばそれまでゲーテ崇拝派からゲーテ反対派へと進展してきた ハイネのゲーテ対決のひとつの「決算」でもある。つまりハイネはGoethe−A♭ schnitt で自らそれまでの歴史を振り返り,整理,分析することで,特にゲー 23)Vg・l。FRIEDLAENDER,TkILSE ua
ハイネにおけるゲーテ 83 テとの対決を「決算」して自らが進むべき方向を見い出すことになる。Goethe− Abschnittによってそれまで揺れ動いていたハイネのゲーーテに対する態度も 理解可能になるのである。ハイネは否定的な態度であったとは言え,それまで のゲーテとの対決で多くのことを得たのだった。 さて,Goethe−Abschnittにおけるゲーテ像は彼を取り巻くいくつかの文学 潮流との対比で描写される。まずその−・番手はシュレーゲル兄第を代表とする ドイツ・ロマン派である。ゲーテは最初ドイツ・ロマン派とは対立関係にはな かった。それどころか両者はお互いに相手から恩恵すら被っていたのである。 つまり,ロマン派の側からは自らの流派のためにゲ・−テを利用しようとしてい た。反対にゲーーテの側からは「彼の名声の大部分を両シュレーゲルに負うてい
た。彼らはゲーテの作品の研究の気運を作り,それを促進した」2りのである。し
かし,まずお互いの宗教観が違うなどゲーテとドイツ・ロマン派はお互いに対 立すべき点があった。シュレーゲル兄弟はカトリックを旗印としていたし,ゲ ーテは「偉大なる異教徒」と呼ばれた汎神論者であったし,それ以前にプロテ スタント国家の宰相だったので,ましてやシュレーゲル兄弟の「カトリック的 陰謀」を目のあたりにしては体の内に「古い異教の神々の怒り」を感じないわ けにはいかなかった。シュレーゲル兄弟の兄の方アウグスト・ヴィルヘルムは かってハイネの師であったが,ここではハイネはゲーテに肩入れする。だが完 全に一徹するわけではない芝可 ドイツ・ロマン派は,一言で言い表わすことができるとすれば「中世の詩歌, 絵画,建築のうちに,つまり芸術と生活にあらわれていた中世の詩の復活にはかならなかった。」2りそしてこれは「キリストの血から咲き出た受難の花」であ
るがそのキリスト教と言うのがドイツ・ロマン派の場合は福音派ではなく,ロ ーマ・カトリックだった。ドイツ・ロマン派は元来それに先行する文学潮流であ る,レッソングG..E.LessingやヘルダーHer・derに代表される,「フランスの似 24)WuB Bd.V S.43 25)Vg1.7kILSE:aa,.0.S.174及びRainer RosENBERG・T,itpraturverha’1tnisse 2 imdeutschenVorm謀rz.Berlin1976s97 26)WuB Bd.V Sい14l而非ギリシア主義の模倣を極めて力強く粉砕したが,他ならぬギリシア古代の
真の芸術作品を指示することによって,いわば新種の馬鹿げた模倣を援助」2り
してしまった擬古典主義的な啓蒙主義に対抗して成立した。ドイツ・ロマン派 は「過去の芸術作品を批判し,未来の芸術作品のための処方箋を書くことから 始まり」,「この二つの方向においてシュレーゲルの流派は美的批評のために大 きな功績を立てた」が,「芸術上の欠陥や欠点の暴露という点では両シュレーゲ ル氏は昔のレッシングの模倣者」2りにすぎなかった。ハイネから見れば,彼ら はケタタマしい割には内実に乏しいのである。ドイツ・ロマン派の領袖たるシ ュレーゲル兄弟は芸術上の根本原則の提起や基盤となる哲学体系もレッソング 以上に欠けていた。しかし彼らは確固とした理論の代わりに「過去の最良の芸 術作品を範例として称揚」した。彼らがそのために模範とすべき作品として挙げたのが主として「中世のキリスト教的カトリック的な芸術作品」2りだった。そ
して,このような中世芸術というのが精神による物質の克服を示したものであ り,このような克服が芸術作品の全課題であることさえもしばしばあった。ハ イネはこのような性格をもったドイツ・ロマン派がドイツでどうして力を持つ に至ったかも探っている。彼はその理由として当時のドイツの政治状態を指摘 する。当時のドイツはナポレオン支配のさなかで「ドイツが戦争と外国による 支配によって陥ってしまった惨澹たる状態よりもさらにドイツ人たちにこのう えもなく耐え難い悲しみを与えたのはナポレオンの足元に這いっくばっている打ち負かされた君主たちの痛ましい姿であった。」30)ナポレオンによる支配はそ
れまでの封建ドイツを土台から覆えしてしまった。君主たちは「ドイツ人たち に協同の精神を呼び起こそうと努めた」。そこで生じたのが愛国心の昂揚であり, 「ドイツの国民性」,「ドイツ人の共通の祖国」,「キリスト教的ゲルマン的種族 の結合」,「ドイツの統一・」31)が語られた。ドイツ・ロマン派の伸長はこのような 27)WuB Bd..V S.27 28)WuBBd。VS..28f 29)WuB Bd.V S.29 30)WuB Bd‖V S…32 31)\Vul∋BdV Sい32ハイネにおけるゲーテ 85 時流に乗ったものたった。しかし,ハイネにはドイツ・ロマン派などの費える 愛国心は偏狭で「完璧な田舎者根性」によるものでレッシング,ヘルダー,シ ラー,ゲーテ,ジャン ・パウルJean Paulなどに代表されるヒューマニズム 人類融和の精神,汎世界主義に対抗するものにすぎなかった。ハイネのロマン
派批判の詳細については別稿に譲るが,ハイネから見れぼ上述のロマン派の芸
術観は反動的な世界観に立つもので,自らのめざす「新しい文学」の形成のと
っかかりをロマン派に見い出すことはできなかった。フリードリヒ・シュレーゲルは「逆向きの予言者」であり,「現在は彼にとってはいとわしいものであり,
未来は彼を不安にした。彼の啓示的な予言者の眼は彼の愛した過去にのみ浸透
した」32)のである。ハイネとロマン派,そしてゲーテとロマン派−この三者
の関係でほハイネはロマン派との対決においてゲーテを味方として必要とした。3り
しかし,この選択はハイネ自らがゲーテ派の一層になるという結果には至らな
かった。 ドイツ・ロマン派はレソシング,ヘルダ・−を代表とする古典主義的傾向に対
する反動として生じたが,「あらゆる行きすぎのすぐ後を追ってくるあの反動が
起こらずにはすまなかった。」3りドイツ・ロマン派も自らに対して起こった反動
のために消滅へ・の道を辿るが,それに最終的決定的な一押しを加えたのが他な
らぬシュレーゲル兄弟が自らのために利用しようとしていたゲーテであった。 ゲーテは自分の雑誌『芸術と古代について払er肋花S£α花dA加勅m』に掲載 した友人ハインリヒ・マイヤーHeinrichMeyerの論文『キリスト教的・愛国的 ・新ドイツ芸術についてⅣeαde払£scぁーregなi馳−pα亡rわ£iβCんe助花ざ亡』(1817)によって,いわば「ドイツ文学における彼のブリュメールの十八日」を行い,
シュレーゲル兄弟らドイツ.。マン派を放遂してしまった三申その後ゲーテはド
イツ文学において「独裁政治」を樹立したのである。このようなドイツ文学におけるゲーテの「独裁政治」に対し,さまざまなゲ
32)WuB Bd.V S.63およびVgl。BECKER.a。a.0 33)′恥ILSE:a.a.0小 34)WuB Bd…V S…34 35)WuB Bd。V S42ーテ反対派が出現した。ハイネ自身もそのような反対派に加わっていたことは すでに1で見たとおりである。彼は『ロマン派』のGoethe−Abschnittでこの ようなさまざまなゲーテ反対派について略述し,批評し,いわばそれまでの各 ゲーテ反対派の活動に対し,自分の立場からひとつの「決算」を行なっている。 Goethe−Abschnittで取り上げられているゲーテ反対派は保守派と急進派に大 別される。保守派の代表がブストクーヘンPustkuchenであり,急進派はメン ツェルやベルネ,青年ドイツ派に代表される。保守派のゲーテ批判はゲーテ作 品の登場人物の「道徳性」に対して為されるものである。彼らは芸術作品の価 値を何よりもまず「道徳性」という尺度で測ろうとする。そのために彼らがゲ ーテに対抗して持ち出してくるのがシラーである。即ち,彼らはゲ、−テよりも シラ1−の方がその芸術作品がその道徳性ゆえに優れていると主張する。これに 対しゲーテを擁護する人々は反対派がゲ・−テの作品に要求する道徳性は芸術の 目的ではないと主張する。 「というのは字音そのものにおけると同じく,芸術には何の目的も存在し ないからだ。人間だけが勝手なせんさくをして,『目的と手段』という概念 を宇宙にはめこんだのだ。芸術は世界と同じくそれ自身のために存在して いる。それを判断する人間の見解は絶えず変化するけれども,世界が永久 に同一物であるのと同じく,芸術もその時々の人間の見解からは常に独立 していなければならない。(中略)芸術作品がその時々の道徳の基準によっ て判断されねばならぬとすれば,いつの時代でも過去の芸術作品は不道徳
として異端視されるであろう。」3句
ハイネは勿論保守的なゲーテ反対派を徹底的にやっつけるが,かと言ってその ままゲーテを支持するわけでない。上のようなゲーテ派の芸術観はいわゆる芸 術至上主義と名づけられるもので,芸術を「自立した第二の世界」と見なした が,ハイネはこのような見解には与しない。 「ゲーテ派の人々はそうすることによ)て芸術そのものを最高と宣言し, 何と言っても優位を与えられるべきあの第一・の現実世界の要求からそれる 36)WuB Bd‖V S.46ハイネにおけるゲーテ 87
という誤りを犯すに至ったのである。」叩
当然のことながらハイネには「人間のあらゆる営み,人間の宗教・道徳」など に拠る「第一・の現実世界」の方が芸術創造においても第・山・に看視されるべきも のと映るのである。 もうひとつの急進的ゲーーテ反対派についてはすでに上で若干触れたが,ハイ ネはか)て自分もその影響下にあったこの急進派について批判を交えながら述 べる。急進的ゲー・テ反対派は作家の「政治性」,「現実世界」との関わりという点 からその欠如をゲ・−テの作品や生活態度に指摘し,批判する。興味深いことに 彼らがゲーーテに対抗して引き合いに出すのが上述の保守派と同じシラーーである。 ハイネも「現実世界」およびその置かれた時代との結びつきではシラ・−を高く 評価する。 「彼,フリードリヒ・シラーを彼の時代の精神が生きいきととらえていた。 彼は時代精神と格闘し,これに打ち負かされた。彼は時代精神に従って戦場に赴き,時代精神の旗手となった。」3り
だがハイネの評価はシラーーの方だけには向けられない。 「シラーーのためにゲーテを軽視することはどに愚かしいことはない。ひと びとはシラーーのことを誠意を持って考えたことは決してなかったし,苦か らシラーを称えたのはゲーテをけなすためだった。それともひとびとはシ ラーの提起した,ほめ称えられ,高度に理想化された形象,すなわち美徳 と良俗の聖像は,ゲーテがその作品の中でわれわれに見せてくれる,あの 罪深い小世界の汚れた存在よりもはるかに作り易いものであることを本当に知らなかったのであろうか。」3り
ハイネはここで急進的なゲーーテ反対派を乗り越えようとする。「政治性」や「現 実世界」との関わり合い,あるいは「イデー」を前面に押し立てることからさ らに進んで「芸術性」を芸術作品の中で最婁祝しようという方向である。これ 37)WuBBd..V Sい48 38)WuB Bd.V S.48 39)WuBBd.V S.53はハイネの場合は無論ゲーテ派の主張するような芸術至上主義ではない。その 両方を統合する方法をゲーテに見い出そうとするのである。 これまで左右両派のゲ・−テ反対およびゲーテ支持派のゲーテについての見解 を見てきた。ハイネはこの両派の見解への論評を踏まえてゲーテ自身について語る。 「私の名誉のために今一度述べておかなければならないが私が攻撃したの は決して詩人としてのゲt−テではなく,ただ人間としてのゲーテだけだっ た。私は彼の作品を非難したことば一度もなかった。私はあの批評家たち
のようにゲーテの作品のうちに欠点を見つけることほ決してできなかった。」叩
いささか弁解じみているが真にハイネにとっては芸術家ゲーテ及びゲーテの芸 術が問題なのであった。 「ゲ・−テの最大の功績ははかでもなく,彼の表現する一切のものの完璧に ある。ある箇所は強く,ある箇所は弱いとか,ある部分は詳細に描かれて いるけれどもある部分はスケッチに終っているとかいうことはない。どこ にも難渋の跡や慣習の埋め草や細目への偏愛などは認められない。ゲーテ は彼の小説や戯曲中のどの人物もそれの登場するところではあたかも中心 人物のように扱っている。(中略)すべての偉大な詩人の作品においては副 人物なるものは元来存在していないのである。どの人物もそれぞれの場で中心人物である。」叫
ハイネはゲーテ芸術の完璧さを強調する。そしてこのゲーテ芸術の完璧さは作 品構造の無理の無さから生じる。ハイネにとってはまずこのような芸術性の高 さが重要なことであったのだ。 さらにハイネはそのようなゲーテの芸術創造の源泉として彼の汎神論に注目 する。汎神論者ゲーテは「歴史に没頭し」,「人類の社会的進歩に熱狂し,世界史を 歌う」シラ・−とは異なって「個人的情感のうちに,あるいは芸術のうちに,あるいは自然のうちに沈潜した」讐)またゲニテ・の汎神論では,社会革命を志向するサン・シモニ
ズムの影響を受けたハイネの汎神論とは異なって,神はすべての事物に−・様に 40)WuB Bd.V S.53 41)WuB BdいV S,.54 ′12)WllB Bd.V S.49ハイネにおけるゲーテ 89 顕現すると考えられていたためにゲーテは「無関心主義者になり,最高の人類 の利害の代わりに芸術という玩弄物や解剖学や色彩論や植物学や雲の観察に携
ゎる」4りことになった。従ってここからはダイナミックな社会変革の思想は直接
には出てこない。しかし,このような汎神論的世界観はゲーテを単に自然科学 者として導くだけでなく,同時に彼の芸術的方法をも規定するのである。 「彼(=ゲーテ 筆者注)は彼にとって嫌悪すべきものであったキリスト 教的熱狂は不気嫌に拒否し,現代の哲学的熱狂は,それによって自分の安 定した心情から引き離されるのを怖れて,理解しないかあるいは理解しよ うとしなかったので熱狂−・般を全く歴史的にあたえられたものとして処理 されるペき−㌦つの素材として扱った。精神は彼の手にかかると物質になっ た。彼はそれに美しく好ましい形態を与えた。かくして彼は現代文学にお いて最も偉大な芸術家となり,彼の書くものはすべて渾然たる芸術品とな った。」 叫 このような性格の芸術作品が支配的であり,有力であったのがハイネの言う「芸 術の時代(Kunstperiode)」であった。これまでのハイネが抱いていた不満はゲーテの「ことばの不妊性」呵即ち本来「行為はことばの子」であるのに,ゲーテの
詩が自己完結をしてしまって「行為」という子どもを生まないことにある。こ のようなことは「芸術のみによって成り立っているもの」の宿命であった。ハ イネにとってさらに不満に思われたのはゲーテのこのような性質による芸術が 現実のドイツにおいて「青年たちに鎮静的な影響を及ばし,ドイツの政治的再生に逆らう」咽ものであったことを非難する。ハイネはゲーテの芸術性の高さや現
実そのものを見る目には敬服するが,それ以上に現実世界に直接的変革的な関 わりを持たないことが最大の不満であったのだ。 処女評論『ロマン主義』から『’t=マン派』のGoethe−Abschnittに至るまで 43)WuB Bd.V S.49 44)Wu王∋BdV Sい50 45)WuB Bd.V S。50 46)WuB Bd,V S.51 47)「胞11SEいa‖a.0のハイネのゲ・−テ評価の軌跡を辿れば,ハイネが迂余曲折を繰り返し,反発を 重ねながらもゲーテの真の価値−あくまでもハイネを軸としたそれ一に達 した過程とハイネが目標とした「新しい文学」が判ってくる。ゲーテ支持派の 「芸術至上主義」やゲー・テ反対派のもとめる「現実世界」との直接的な−−場 合によっては「政治的」な一関わりを持つ芸術,そしてゲ・−テ自身の芸術, これらを吸収し,「決算」を施しさらに乗り越えて「新しい時代に適応した文学」 プログラム の「綱 領」を作り,宣言すること,これがGoethe,Abschnittの持つ意味で は.なかろうか。その過程でハイネにとってはゲーテが最大の手本であったが, トゥリルゼ流に言えばゲーテの時代は「市民的(bGrger・1ich)な昂揚と啓発の時代」
であり,ハイネの時代は「ブルジョワジ・−の時代」でありチりそのままでお互い
が重なり合うことは不可能だったのである。この後,ハイネは自らの最高傑作 『ドイツ冬物語伽混£sc朋α几d.戯几Ⅳi花とerm古代ゐe7も』(1844年)への道を進んで 行くのであるが,『セマンま風』のGoethe−Abschnittは「新しい文学」の創造とい う点でその道筋の重要な里程票だったのである。 ≪付記 上に引用したハイネの著作のうち邦訳のあるものはそれを利喝させていただ いたが,必要に応して訳語,句読法などを変更したことをお断りしておく。使用した邦 訳は山崎章甫訳『ドイツ岬ロマン派』(未来社刊),井上正蔵訳『ロマン主義』,中村英雄訳 『北海』(以上筑摩書房刊,世界文学大系<旧版>第78巻「ハイネ」所収)。≫引用した以外の主要参考文献
WalterⅥhDEPUHL:Heinrich Heines Verhaltnis zu Goethe.GoetheqJahr・−
buch NF18.Jg.(1956) 4 WalterDIFrZE:JungeSDeutschlandunddeutscheKlassik.Ber・1in1981(初 版は1957) UlrichMACI克‥DerjungeHeineundGoethe.Heine−Jahrbuch1965” FritzMENDE:ZuHeinrichHeinesGoethe−Bild.EtudesgermanlqueS23..Jg. (1968)
Karl−Heinz HAHN:Zwischen Tradition und Moderne,Zu Heinrich Heines
Essay”DieromantischeSchule“in:InternationalerHeine−KongreB 1972.Hamburg1973..
ハイネにおけるデーテ 91
井上正蔵:「ハイネとゲーテー若きハイネのゲーテ観をめぐって−」(『′、イネ序
言鼠』未来社刊所収1967)