離島振興におけるネットワークからノットワーキングへの進化
―薩摩硫黄島における西アフリカのドラムスクールの事例研究―
Evolution from Net-working to Knot-working in a Remote Island Development: A Case Study of an African Drum School in Satsuma-Ioujima
鹿児島大学法文学部 西村 知 (Satoru NISHIMURA) [email protected] 要約 本研究は、西アフリカの太鼓、ジャンベが、鹿児島の硫黄島(薩摩硫黄島)に導入され、地域振興に貢献するに至っ たプロセスを、ノットワーク(固定された中心のない複数の連結点のつながり)という概念を用いて考察し、地域振興 の進化過程を明らかにする。ジャンベは、1994 年、世界的に有名な奏者、ママディ・ケイタ氏によってもたらされ た。日本ツアーを行っていたケイタ氏が、小さな島の子供達にジャンベを教えたいとの希望を出し、硫黄島を含む3島 で構成される三島村が受け入れの意向を示し、選択された。その後、ケイタ氏はジャンベを子供たちに教えるために毎 年、島を訪れた。交流は深まり、1998 年には、三島村の子供たちは、ケイタ氏の出身地である小さな村(バランデュ グ村)を訪れた。当時の役場職員であり、自らジャンベを叩き、子供たちへの教育を行っていた徳田氏はケイタの指導 の下、技術を高め、知識を深め、ケイタの展開する世界的なドラムスクールであるタムタム・マンディンク(TTM) の公式な教員の資格をTTM より取得した。2004 年には、硫黄島で TTM の正式校がアジアで初めて開校され、徳田氏 が校長となった。徳田氏は、行政とは異なる観点から三島村のジャンベに関わりたいとの意向で、役場を退職し、 2014 年には、自らの音楽ヒーリングスクール(サウンド・ヒル)を鹿児島市内に開校し、役場職員とは異なる立場で スクールの校長を務めている。硫黄島のジャンベスクールは、6ケ月の硫黄島の常駐コース参加者により若者を惹きつ けている。また、ジャンベを目玉として、小中学生の離島留学も促進している。ジャンベは島、村のシンボルとして地 域振興に役立っている。 この20 年間のジャンベと三島村(硫黄島)との関わり方は質的に変化していると言える。この変化は、エンゲスト ローム(2010)のノットワーキングという概念を用いて説明することができる。初期は、三島村役場および役場職員とい う固定された中心をもち、島民の理解を得て、ジャンベ(ケイタ氏)の力を借りたネットワークで進んでいた。しか し、現在では、役場、サウンドヒル、ケイタ氏、島民というノット(結び目)が固定した中心性を持たずにジャンベと 村・島の関係性が形成されている。このようなノットワーキングへの離島振興の進化は、新しい地域振興の形であると いえる。この進化への過程をもたらした要因には、いくつかの環境変化が考えられるが、もっとも大きな要因は、離島 振興法の政策転換である。1993 年以降、それまで交通インフラに優先性を置いていた同法が、文化・教育の項目を新 たに導入したのである(Hagino 2015)。三島村は、このような政策転換が始まる前後から、ヨットレース、歌舞伎、そ してジャンベなど様々な文化を導入した島の振興を試みていた。文化コンテンツを受け入れる準備ができていたのであ る。この状況に離島振興法による文化・教育関係の予算が組み込まれたのである。 キーワード:ジャンベ、西アフリカ、硫黄島、ノットワーキング、ネットワーキング
はじめに ジャンベは、マリ、ギニア、セネガルを中心とした西アフリカのバンバラ(Bambara) 族、マリンケ(Malinke)族などの伝統的太鼓である(図 1)。この山羊皮を使った砂時計形の 片面太鼓は、手で叩かれ、非常に高い音を出す(図2)。ケンケニ(kenkeni)、サンバン (sangban)、ドゥンドゥン(dunumba)の大きさの違う三種類の棒で叩かれる牛皮の両面太鼓 が、低音のベースリズムを作り出す(図 3)。一般に、ジャンベは、この片面太鼓そのもの を意味する場合と、この太鼓を中心とした太鼓、ダンスのアンサンブルを意味する場合があ る。西アフリカでは、太鼓だけが演奏されることは珍しく、通常は踊りの伴奏として演奏さ れる。リズムは、演奏される目的や地域によって異なる。かつては、農作業中の農民への応 援(例えばカッサ(kassa))、子供の割礼の儀式における痛みの軽減(例えばソリ(soli))な ど目的があった。そして、それぞれのリズムには決まったダンスがある。ジャンベのリズム のいくつかは、ドン(don)で終わるものがあるがそれは。踊りという意味である。例えば、 ウォロソドン(wolosodon)は奴隷の踊りである。 このジャンベを中心とした太鼓のアンサンブルは、まずは、ヨーロッパやアメリカに伝わ り人気を博した。そして、その波が、日本にも1990 年代中頃より伝わってきた。20 年足ら ずの間にジャンベは着実に日本に定着し、今や単なる民族楽器の一つではなく、グローバル な伝統的打楽器としての地位を形成しつつある。本稿の第一の目的は、西アフリカのジャン ベが、いかにしてグローバルに広がり、ローカルの状況と結びついて、展開しているかを日 本の事例を用いて考察することである。ジャンベという名称自体がこの歴史を物語ってい る。西アフリカでの、この太鼓名の発音は、カタカナ表記すると、「ジンベ」あるいは「ジ ェンベ」に近い。しかし、フランス人の訛った発音「ジャンベ」が日本で定着している。ア ルファベット表記も、djembe が一般的である。これは、英語的な発音だと「ジェムベ」と なるはずである。これはジャンベのグローバル化がフランス文化圏と結びついていること を意味する。言うまでもなく、西アフリカのマリ、ギニア、セネガルなどの国々は、フラン スの植民地であったし、現在も経済、政治、文化の交流は密接であり、これらの国から、フ ランスやベルギーへの移民、海外労働は多く、フランス語を理解できるからである。 第二の目的は、西アフリカからは、地球の裏側にあたる極東にはるばる伝播したジャンベ がもたらすポジティブなエネルギーによる地域再生の可能性を、アジアでは唯一のジャン ベ学校が存在する鹿児島県の三島村の事例を紹介しながら考察することである。ジャンベ は後述するように、1990 年代中頃の世界的に有名なジャンベ奏者のママディ・ケイタの三 島村の子供たちの交流から始まる。しかし、この偶然の出会いが、ひとつのうねりを形成し、 アジアで唯一のジャンベスクール開校、ジャンベ文化の発信地となるまでには、三島村役場、 そして、その中心となった徳田健一郎氏の存在を抜きには語れない。本稿では、グローバル 化したジャンベがローカル=地域に結びつきそれが地域の再生、活性につながる可能性に
ついて議論したい。 図1 ジャンベ文化圏を含む主要国 出所:外務省の地図を筆者加工。 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/africa.html 図 2 ジャンベ 出所:JPC(ジャパン・パーカッション・センター) http://komakimusic.co.jp/e-JPC
図 3 ベース・ドラムの写真 出所:Jun Jun http://www.info-niigata.or.jp/~junjun/dun/bd-23.html 1.ジャンベのナショナル化とグローバル化 西アフリカの限られた地域の音楽文化であったジャンベは、まずは、ギニア国内で、「ナ ショナル化」し、国民のアイデンティティ形成のために用いられた。また、ギニアのアイデ ンティティを世界に発信するための道具として用いられ、ジャンベの「グローバル化」につ ながった。本稿では、この二つのグローバル化の展開過程を、まずは、ギニアにおけるナシ ョナル化=国立バレー団の成立とそのグローバルな展開について議論し、次にIT 技術によ るジャンベ愛好家のグローバルな増加とその後の西アフリカへのスタディー・ツアーとい うグローバルなネットワークの形成について整理する。 1.1 ジャンベのグローバル化第一の波:ナショナリズムとバレー団スタイル ギニア人、フォデバ・ケイタ(FodebaKeita)が総指揮を取り、アフリカバレー団(Les Ballets Africains)という西アフリカの伝統音楽をベースとした音楽と踊りの楽団が 1952 年に結成 され海外の様々な地域の公演をおこなった。ヨーロッパ人が理解しやすいように、ステージ 音楽の形に再編した。また、それまでは、複数の目的や多様な地域のリズムが同時に短時間 に演奏されることはまれであったが、ヨーロッパの観客が楽しめるように、複数の伝統をベ ースにしヨーロッパのステージ音楽、特にバレースタイル(音楽、歌、ダンスがストーリー 性を持った一つの総合芸術として表現されるステージ・パフォーマンス)とミックスするこ とによってショービジネスとしての西アフリカ伝統音楽のモデルが形成された。この「バレ ー団」はヨーロッパで成功を博し、世界中の音楽家、愛好者に影響を与えた。このパワフル な音楽は、ヨーロッパ各国、アメリカの聴衆の度肝を抜いたであろうことは容易に想像でき る。空気を切り裂くようなパワフルな高音のジャンベと腹に響き渡るベースドラム、エネル ギッシュで美しいダンスは、聴衆の常識を超えていたことが容易に想像できる。農作業や儀
礼などの特別なシチュエーションに置かれない限り、あるいはダンスや歌で参加しない限 り、短調なリズムが長時間に繰り返され、ともすれば、聴衆を退屈させてしまいかねない「伝 統音楽」が、決められた時間内に、多様な刺激的なパフォーマンスが展開されるショー化す ることによって西アフリカの文化やジャンベ文化を理解しないものにとっても楽しめるス タイルが作られた。「バレー団スタイル」の創造は、ジャンベの歴史にとって非常に重要で あった。表1は、村で叩かれるジャンベとバレー団スタイルのジャンベとの違いについて Cherry(1996)等を参考にしてまとめたものである。 フォデバのバレー団に目をつけたのは、1958 年に独立したギニアの初代大統領、セク・ トゥーレ(Sekou Toure)であった。彼は、このバレー団を、音楽家の育成、資金的サポー トをおこなうために国立化した。日本などとは異なり、西アフリカの国境は、いわゆるアフ リカ分割つまり、1880 年代から第一次世界大戦前の 1912 年までにかけてのヨーロッパの 帝国主義列強によって激しく争われたアフリカ諸地域の支配権争奪と植民地化の過程によ って形成された。同一の言語、風習、経済などが基盤とはなっていない。つまり、同一の部 族が、複数の国に股がって存在しており、一つの国に複数の部族が存在する。この状況はヨ ーロッパに共通するともいえるが、ヨーロッパの場合は民主主義の発展を通じて異なる民 族が暴力的な争いを避け、合意形成をおこなうシステムを形成してきた。もちろん、英国や セルビアなどの例を考えると、完璧であるとはいえないが。いずれにせよ、セク・トゥーレ は、強烈なアイデンティティと帰属意識を持つ複数の部族を一つにまとめるために音楽の 力を用いた。ギニア内のマリンケ族、フーラ(Fula)族、スース(Susu)族など主にニジェー ル川沿いに発展した部族の、沢山の様々なオケージョンに用いられるリズムを編集して「ギ ニア人」が誇ることのできる「国民音楽」を形成しようとした。そのベースになったのが、 前述の、アフリカバレー団である。また、セク・トゥーレは、この音楽を「国民のプライド」 とするためにグローバルにアピールした。つまり、世界公演を行なったのである。この公演 で、主なジャンベ奏者が、注目され欧米のプロダクションとの契約につながることもあった。 その中でも、ラジ・カマラ(Ladji Camara)の存在は重要である(図 4)。ギニアのシギリ出 身の彼は、1950 年後半より、アメリカにジャンベの奏法だけでなくその文化を伝えた。ア メリカに伝統的なジャンベを伝えたパイオニアである。ハリウッドの映画会社や主要なレ コード会社とも契約をおこなった。1971 年には、ニューヨークのブロンクスに太鼓とダン スの教室、ラジ・カマラ アフリカン ダンス スタジオ(the Ladji Camara African Dance Studio)を開くなど、多くのアメリカ人にジャンベの文化と奏法を指導した。晩年は、2003 年に西アフリカ、セネガルに居住し、80 才で亡くなった。セネガル出身の彼の妻、アミナ タ(Aminata)は、ヘアースタイリストとして西アフリカの文化の普及に貢献した。この夫 婦は、西アフリカ文化の展開の歴史において非常に重要であったといえる。セク・トゥーレ は、ラジ・カマラのような村の伝統音楽で職業的な音楽家として経験を積んだミュージシャ ンをバレー団に参加させるだけでなく、全国の村から、ジャンベの腕の立つ子供や若者をリ クルートし、英才教育をおこない、次世代のジャンベ叩きを再生産した。従来の、地域で職
業的ジャンベ叩きが、小規模に指導するという文化の継承が、大掛かりな、しかも、近代的 な学校のような継承スタイルを取るようになった。また、ジャンベ叩きは、伝統的には、村 の行事に呼ばれて、ほんの少しの報酬や食事を受けて生活する貧しい人々であったが、ママ ディ・ケイタ(Mamady Keita)らの若い世代は、国家のアイデンティティを形成するスタ ーとなった(図 5)。このような、伝統音楽の奏者が、貧しく、村では尊敬を得ていない状 況から、国民的なスターになるという例は、青森県出身の三味線奏者、高橋竹山にもあては まる。交通、情報伝達の近代化、市場システムの展開(音楽のビジネス化)が、ローカルな 貧しい職業音楽家をナショナル、あるいは、グローバルなスターに変容させていくのである。 もちろん、村から選ばれた若者のほんの一部のみが、バレー団の主要メンバーとなることが できたのではあるが。しかし、このような、公演スタイルがグローバル化し、継承スタイル がナショナル化した伝統音楽が、国家に手厚く保護され、成長するという時代は長くは続か なかった。セク・トゥーレが、1984 年に死亡すると、軍が政権を奪取したのである。この 間、大統領の出身部族のマリンケ族を優遇し、他の部族を冷遇、抑圧したため、多くの国民 が不満を抱えていた。ジャンベへの国策として手厚い保護はおこなわれなくなる。国立バレ ー団に所属する音楽家は、路頭に迷った。しかし、そのうち、有名で力のあるジャンベ奏者 は海外に活動の拠点を模索した。そのなかでも、前述のママディ・ケイタはヨーロッパで注 目された。彼は、演奏活動とともにワークショップスタイルでヨーロッパの人々にジャンベ の演奏を教えた。彼の指導方法が、ヨーロッパ人に比較的、抵抗なく受け入れられたのは、 国立バレー団における近代的な教育スタイル、公演スタイル、その文化に育っていないもの でもわかりやすく多部族のリズムを学ぶという指導方法が関連しているものと考えられる。 このワークショップスタイルは、ヨーロッパ、アメリカを中心に広がっていった。ジャンベ の人気は、世界的なワールド・ミュージックブームとも同調して展開する。特に1982 年か らヨーロッパで始まった、世界音楽とダンスのフェスティアバル、ウォーマッド(WOMAD) は、世界中での伝統音楽のファン層の拡大、CD やその他の伝統音楽ブームに火をつけた。 表1 村のジャンベとバレー団ジャンベの相違 出所:Cherry(1996)を参考に作成。
図 4 ラジ・カマラ 図 5 ママディ・ケイタ
出所:著者所蔵 出所:Tam Tam Mandingue USA
右が、ママディ・ケイタ、左はファマドゥ・コナテ。 2 グローバル化の第2の波:ヴァーチャルと本場志向 ジャンベは、欧米で、ママディ・ケイタのワークショップのおかげで、聴く音楽から、演 奏する音楽としての性格を帯びるようになってきた。ジャンベもベースドラムも本当にグ ルーブ感をつかんでマスターすることは至難である。しかし、基本的な奏法は、三つの音(高 音、中音、低音)の組み合わせと、一定のリズムの繰り返しであり、さほど複雑ではない。 ピアノやギターなどと比較すると老若男女を問わずとっつきやすい楽器であるといえる。 音楽経験者のない者も、楽譜を読めないものも演奏することができる。そもそも、西アフリ カの伝統的なジャンベ奏者は楽譜を用いない。このような、「入りやすい楽器」というジャ ンベの性格が、この楽器のグローバルな人気の原因の一つである。実際、子供たちや障害者 への音楽教育でも用いられている。 さらに、ママディ・ケイタの名前を世界中に知らしめたのは、彼の伝記的映画「ジャンベ フォラ-聖なる帰郷」(1991)である。この映画は、ベルギーに住むママディ・ケイタが、国 立音楽団に入団するために子供の時に離れたギニアのバランディグ村に長い年月が経った 後に帰郷した際に、記録したドキュメンタリー映画である。この映画は、前述のような、音 楽とナショナリズムやグローバリズムを考える上で重要であるが、それよりなにより、ママ ディ・ケイタやその先輩ジャンベ叩きであるファマドゥ・コナテ(Famadou Konate)(図
6)らの奏でる音楽とギニアの村の美しい姿がすばらしい。この映画は、ヨーロッパ、アメ リカで公開され話題になった後、1993 年に日本でも公開された。アフリカ音楽、民族音楽 好きの人たちに強いインパクトを与えた。そして、ママディ・ケイタが、彼のバンド、セワ カン(Sewakan)を引き連れて日本公演をおこなうこととなった。ここで、鹿児島県として、 いや、日本のジャンベの歴史にとって非常に重要なことが起きた。ママディ・ケイタはただ ジャンベを演奏するだけではなく、自分が育ったような小さな村の子供たちとジャンベの 指導を通じて交流を持ちたいとの希望を出した。そして、鹿児島県鹿児島郡の三つの離島か らなる三島村が選ばれた。ママディ・ケイタは、島の人々や自然を大変気に入り、その後、 毎年、日本ツアーを行い、必ず、三島村を訪れ、子供たちを中心にジャンベの指導を行なっ た。また、ジャンベの練習には、三島村役場の職員の若者も参加し、ママディ・ケイタが不 在の時にも、指導できる体制が作られた。この若者なかで、音楽的センス、人柄の良さでマ マディ・ケイタが特別の信頼を置くようになったのが、徳田健一郎氏である。彼は、多くの 難解なリズムの、ジャンベ、ベースドラム・パートを習得した。三島村の子供達は、1999 年 1月には、ママディ・ケイタの故郷、ギニア共和国、バラングドゥ村も訪れた。徳田氏は、 ジャンベ演奏のレベルを上げるために、ママディ・ケイタのヨーロッパのジャンベ学校やア フリカに行き、さらにジャンベの奏法、文化への理解を深めた。 ママディ・ケイタの日本全国でのジャンベのツアー、ワークショップは、日本のジャンベ 愛好家を増やしていった。また、中には、西アフリカからジャンベ・プレーヤーとして来日 し、東京を中心に、コンサートやワークショップを行うものも現れてきた。セネガル出身の ラティール・シー(Latyr Sy)やギニア人のユール・ジャバテ(Youl Diabate)などである。 彼らは、定期的に日本人をメンバーに入れてジャンベのバンドを形成した。ライブ活動で力 をつけた日本人の中には、自らワークショップを行うものも出てきた。ユールのバンド、ワ ラバ(WARA.BA)で活躍した寺崎卓也氏などである。彼は、ワークショップを行い、ジャ ンベの奏法や文化を教えるとともに、インターネットのジャンベに関するウェブ・ページを 1998 年に立ち上げた。これは、ワークショップを受けることのできない人々への普及活動 に貢献した。このようなインターネットを通じたジャンベ文化の普及はすでにヨーロッパ やアメリカで始まっていた。特に、アメリカをベースとした ML(メーリングリスト)、 Djembe-L は、世界中にメンバーを有し、ジャンベの文化、リズム、アフリカ人以外の者の ジャンベへの関わり方などが真剣に議論されるフォーラムとして有名である。西アフリカ からのプレーヤーの日本への移住、インターネット上のジャンベ・ページの増加は確実に世 界中にジャンベ愛好者の数を増やしていった。ジャンベは、伝統を特に意識しないで自由に 叩く打楽器としての展開も見せた。魅力ある形状、他の打楽器にはない高音・低音を叩き分 けることのできる機能性など様々な理由でジャンベは広く知られるようになった。アメリ カの打楽器製造会社のレモ社は、プラスチック製のジャンベを製造しヒット製品となった。 この商品は、伝統的ジャンベにこだわる者、そうでない者の両者に広く受け入れられている。 ジャンベ製造のための大木の伐採を抑制する役割を果たしているとも言える。
ワークショップやジャンベのホームページは、「本物志向」の愛好者を増加させた。そし て、彼らの中には、ジャンベ文化の中心の西アフリカのギニア、マリ、または、伝統的なジ ャンベ叩きの移住者の多いセネガルへ、ジャンベの修業に行くものも現れた。西アフリカの 低経済開発状況ゆえ、物価水準は低く、欧米、日本の高所得国の旅行者は、容易に長期滞在 が可能となった。また、航空券価格の低下も、アフリカ旅行者増加の追い風となった。そし て、これらの国々では、アフリカ人でジャンベのスタディー・ツアーを企画するものも増え た。日本では、前述のユール、ラティール、福岡のアリュン・ジョフ、最近では、鹿児島の アリ・トラオレ(Aly Traore)などがこのようなツアーを企画している。ジャンベの文化や ジャンベが叩かれる自然環境でジャンベを習うといった贅沢が可能となったのである。こ のようにしてジャンベを勉強した世界の人々の中には、アフリカ人太鼓奏者と共同で、教則 本、CD、DVD などを作り販売した。中でも、ファマドゥ・コナテ著(Konate and Ott (1997)) やママディ・ケイタ著(Keita(2005))は有名で、これらの教則本は数カ国の言葉で訳され ている。ジャンベ文化的背景の詳細な説明、楽譜で表現されたリズムは、わかりやすく世界 中のジャンベ愛好家によって愛用されている。 図 6 ファマドゥ・コナテ 出所:ファマドゥ・コナテ ウェブ・ページ http://www.famoudoukonate.com/willkommen.html 最近の興味深い現象は、ジャンベサークルの増加である。気軽にインターネットやワーク ショップでジャンベの勉強ができること、また、多くの愛好家が西アフリカやヨーロッパに 修行に出かけるようになったために、伝統的なジャンベのアマチュアバンド、サークルがた くさんできるようになったことである。九州では、福岡のバンド、フォリカン(Folikan) や熊本のジャンベサークルが有名である。1999 年に活動を始めたフォリカンは、ジャンベ の伝統的な奏法や、ヨーロッパ文化との接触で生まれたバレースタイルなどをきっちりと
習得した上で、ジャンベを用いて、独自のアレンジを加えて、ステージ表現する努力を行っ ている。すでにオリジナルCD を出している実力のあるグループである。このバンドの中心 的なメンバーであるヒロキ氏は、ママディ・ケイタ氏に師事し、アフリカでの修行を行って いる。熊本のジャンベサークルは、村本大氏が中心的な存在である。ジャンベやアフリカの 民芸品を扱うショップ、Wasa Wasa を経営する彼は、熊本に積極的に、ジャンベ教師を呼 び、ワークショップライブによってジャンベ愛好家を着実に増やしてきている。彼は、1999 年に熊本で開かれた国体の開会式で、「熊本ジャンベクラブ」のメンバー100 人以上を率い てジャンベの演奏を行い、全国的にも注目された。 この他に、注目すべきことは、楽器としてのジャンベが西アフリカの環境に与える影響を 危惧する意識の高い人々が現れてきていることである。ジャンベの木は、大きな木を使って 作られる。しかも、ジャンベが叩かれる西アフリカの多くは乾燥地帯である。サハラ砂漠に 隣接しているのである。このような地域での無計画な大木の伐採は、土壌の保水力の低下な どの環境に与える悪影響が考えられる。このような現実を人々に知らせ、植林運動などを行 っているNPO として、鹿児島のダンカダンカ(Danka Danka)がある。アフリカの人々 が自分たちの力で木を再生する「しくみ」を 西アフリカのセネガルで模索している。むや みに、ジャンベを買わない、買った太鼓は大切にする、自分が買っているジャンベの生産に おける環境を理解することは重要である。西アフリカ製のジャンベを販売するショップは ネットで沢山ある。新潟県のジュンジュン(Jun Jun)や埼玉県ニンバ トレーディング (NimbaTrading)は 1990 年代末に営業を開始した老舗である。楽器としてのジャンベの 需要が高まるにつれて、ジャンベの生産環境、つまり、自然環境に与える影響を認識するこ とは重要になるであろう。これは、フェアートレードの考え方と共通する。ジャンベ販売者 とジャンベ生産者、ジャンベ演奏者がネットワークを作ることも重要であろう。環境への負 荷、生産者のフェアーな報酬を考慮してジャンベ価格を高水準に設定することも可能であ ろう。売上の一部を植林などのプロジェクトに充てるというのもいい考えであろう。 3. 地域の文化再生とジャンベ:グローバル化とローカル化の融合 西アフリカで生まれ、欧米で広まり、日本に伝わったジャンベ文化の波は、離島にアフリ カ音楽の学校が2003 年に創設され、現在まで多くの卒業生を輩出するといった一見、困難 なプロジェクトも十分に実現可能にしている。ジャンベの文化をゆっくりと豊かな自然を 楽しみながら習得したいという人々の欲求は十分に市場の需要として成り立っているので ある。 最後に、西アフリカの各部族が継承し育んできた文化が、ナショナル化、グローバル化の ルートを通り、地球の裏側の日本のしかも伝統文化を残しながらも過疎、高齢化の危機にあ る鹿児島の離島に根付き、さらには、ここから全国、アジアへとナショナルにジャンベ文化 を展開しようとしている現状の持つ意味を、筆者なりに整理してみたい。このような力強い、
ローカル、ナショナル、グローバル、そして、場所を超えてローカル、ナショナル、グロー バルへという拡大するループを可能にした要因は二つ考えられる。ひとつは、間違いなく、 ジャンベの持つ音楽的パワーである。もう一つは、このループを支える天賦の才を持った 人々である。西アフリカのニジェール川沿いのいくつもの部族は、労働、大人への成長、人 付き合いなどの日常の生活に密接した喜び・苦しみについて、喜びはさらに増幅させ、苦し み・悲しみは緩和させていくためにジャンベのリズム、奏法を発展させてきた。そして、こ のような根本的なジャンベと人々との関わり方は、時代が変わっても、継承されてきている のである。まさに、地に深く根付いたルーツ・ミュージックである。この音楽が、国境、世 代を超えて受け入れられるのはこのようなパワーがあるからである。 ジャンベが、ルーツのエネルギーを保持しながら、グローバルに展開している理由のもう ひとつの重要な要件は、人である。この昔の人々の生活と密接したリズムの本質を体、心か ら本当に理解することは、非アフリカ的、近代的な生活を送る我々には容易ではない。そこ で、奏法だけではなく、ジャンベ、リズムの歴史、文化を保存し、教育する機関が重要とな るのであろう。農耕の近代化や儀礼の変化のような社会経済変容に伴い消えてしまう可能 性のあるジャンベ文化の諸側面は、それを心と体で理解できる者が継承せざるをえない。ま た、テキストや映像、動画などで記録する必要もあるであろう。ママディ・ケイタ氏が中心 地となり創設し、世界的に展開するジャンベの学校、タムタム・マンディングなどはこのよ うな作業においても大きく貢献している。ルーツ・ミュージックのエネルギーは、それが生 まれた場所の人々が「昔」のやり方で保存するという形では、根を貼り続けることができな いのである。ママディ・ケイタは、子供の時に、ジャンベが上手ということで家族と引き離 され、生まれ故郷の文化とは切り離された場所で、しかも習得方法、表現方法も、従来のス タイルでジャンベと関わってきた。しかし、幼少の時の村での演奏経験、ジャンベの近代的 な教育、保持の両面を深く理解できるママディ・ケイタのような奏者がこのルーツ・ミュー ジックのさらなるグローバルな展開を可能にするのである。このようなスタンスは、日本人 が伝統的なルーツ・ミュージックとしてのジャンベと関わる上でも重要である。徳田健一郎 氏は、ギニア人ではなく、日本人である。極端な「伝統原理主義者」は、ママディ・ケイタ のジャンベはヨーロッパ的であるとか、伝統的ジャンベは、特定の部族のしかもジャンベ叩 きの家系にしか叩くべきではない、といった誤った考えを持っている。もちろん、「伝統」 に関して議論することは非常に重要である。しかし、ジャンベの「伝統」はそのような表面 的なことではなく、人々の喜怒哀楽に共鳴するパワーである。この「伝統」をジャンベの長 い歴史を理解しながら、奏法もしっかりマスターし、さらに、現代の我々にこの「伝統」を 伝えていくことが重要である。ママディ・ケイタも徳田健一郎もこの誰にも簡単にできない プロジェクトに挑戦し、結果を出してきているのである。徳田氏は、三島村の子供にジャン ベを教える意義は、西アフリカの「伝統的」ジャンベの格好良さを理解してもらうことを通 じて、三島村の「伝統的」音楽や文化の素晴らしさを再認識してもらうことだと語る。筆者 はこのプロジェクトが成功すると信じている。図7が示すように、ジャンベのうねりは、三
島村をアジアのジャンベ文化のハブとする可能性は非常に大きく、それは村民、特に若者の プライドにつながるであろう。このことは、ルーツ・ミュージックのエネルギーを理解する ことであり、村民自らが培ってきた文化を再認識することである。西アフリカのルーツと三 島村のルーツが重なり合うことによって村の文化や経済の活性化のためのエネルギーが生 まれるであろう。 図 7 三島村におけるジャンベの展開 4.離島振興におけるネットワークからノットワーキングへの進化 三島村硫黄島とジャンベの関係性を考察する場合、硫黄島の歴史を理解する必要がある。 以下は、三島村HP を参考にして、硫黄島の社会経済変化について整理する。図 8 は、1960 年から2008 年までの人口の推移を表したものである。硫黄島では、1868 年より 1964 年ま では、硫黄鉱山が存在し、島の重要な産業として島民の雇用、所得を生みだしていた。人口 は、1960 年時点で、604 人であったが、2016 年 2 月現在 124 人と大幅に減少した。鉱山 の閉山以降、激しい人口減少に陥り、1970 年の島の人口は、186 人となった。高度経済成 長期の1973 年から 1983 年には、主にヨット愛好家をターゲットにしてヤマハがリゾート ホテルを建設した。また、観光客のアクセスを容易にするために島内に空港を建設した。こ の間、鉱山ほどでないが島の経済は活性化し人口もまずかであるが増加し、」208 人となっ た。鉱山、リゾートホテルの閉鎖は、島の経済を存続させるために新たな変革を迫られるこ ととなった。そこで三島村が取った戦略は、スポーツを含めた「文化」の離島振興策であっ た。 1990 年には、鹿児島市内と三島村をルートとするヨットレースが始まった。現在まで毎 年夏、盛大なレースが開催されており、三島村、硫黄島はヨット愛好家にとって有名な地名 となっている。1994 年には、前述の三島村、硫黄島とジャンベとの交流が始まる。1999 年 には三島村の子供たちがギニアもバランデュグ村を訪れた。2004 年には、三島村によりマ
マディ・ケイタが認めた国際ジャンベスクールが開校される。そして、2014 年には、ジャ ンベスクールは、徳田健一郎氏が三島村役場を退職し、立ち上げたサウンドヒルという音楽 スクールとのコラボレーションという形で運営されるようになった。世界のジャンベ愛好 家に’Mishim’はよく知られている。ママディ・ケイタが村に対する愛情・敬意を表す歌詞を 作り、それを伝統的リズムであるジョレ(djole)などにのせて世界中で演奏しているからで ある。ヨット、ジャンベの他にも、歌舞伎の島としても硫黄島は有名である。この島は俊寛 の流刑の地としても有名であるが、1996 年、三島村の企画によって、俊寛を題材とした歌 舞伎が屋外で上演され全国で注目された。2011 年にも同様の歌舞伎が上演された。 このような、村、島主体の離島振興のパラダイムシフトが可能になった背景には離島振興 法の政策転換がある。萩野(2015)が指摘するように、離島振興法は、1993 年より文化や教 育が優先項目に位置づけられ、これらの項目への予算配分が増額された。三島村はこの制度 変化に見事に対応したのである。硫黄島は、ヨットレース、ジャンベ、歌舞伎と様々なアイ コン(島を特徴づけるシンボル)を持つが、実質的な離島振興の機能としてはジャンベが最 も影響力がある。三島村では三島への小中学生の国内留学生制度(「しおかぜ留学生」制度) を行っているが、「ジャンベが学べる村・島として」人気がある。また、ジャンベスクール にも、半年間の滞在型の留学生制度がある。この制度によりジャンベを学ぶ若者たちが島に 常駐している。ジャンベは人口減少を食い止め、小中学生や青年を村、島に呼び込み島の平 均年齢を引き下げているのである。実際、硫黄島の人口は、平成16 年 122 人、平成 18 年 124 人、平成 28 年と下げ止まりしている(硫黄島HP)。 ではこのような三島村硫黄島の主導のジャンベという文化を用いた離島振興へのパラダ イムシフトがなぜ可能となったのであろうか。この変化は進化経済学で用いられる、主体、 制度、帰結のループという社会経済変化に関する図式(西部忠・吉田雅明編 2010)を用い て整理することができる。硫黄島の島民は、150 年近く前より、外部資本により島経済が開 発されており、島民が島外の人々や資本と結びつくことによって島の経済が活性化するこ とを経験的に学んできた。1980 年代以降、硫黄鉱山やレジャー産業資本などの外部要因(資 本)に依存した島の経済構築が困難となった以降、「自前」での離島振興を三島村は強いら れるようになった。そして文化が利用された。なぜ、文化であったかというと離島振興帆の 制度変化があったからだ。そして、ジャンベというグローバル化した文化(伝統音楽)が選 択されたことも重要な要因である。このように、主体=島民は制度変化=離島振興法を用い て、社会経済における帰結=人口減少・高齢化の遅滞化を可能にしたのである。 さらに注目すべきことは、ジャンベと三島村硫黄島との関係が進化していることである。 ジャンベスクール開校当初は、三島村が中心となりそこで働く役場職員、特に徳田氏がプラ ンニング、マネジメントに関わり、ママディ・ケイタの国際ジャンベスクール(Tam Tam Mandinque)が島に学校を作ると言う形で、固定的な中心をもつネットワークであった。 それが、徳田氏が役場を退職し独立系音楽学校を作り外部からジャンベスクールを支えて いる。三島役場が中心的な存在であることに変わりはないが、依然と比較すると三島村、サ
ウンドヒル、ママディ・ケイタとジャンベ国際スクールがそれぞれある程度独立した形で協 調体制を作るように変化している。この社会的連携は、エンゲストローム(2008)の言葉を 使うとノットワーキングと表現することができる。中心性を持たない複数のノット(結び目) が、状況に合わせて結びついたり離れたりして特定の行動目標を達成していくということ である。このことはそれぞれの主体がある程度のリスクを負担するということも意味する。 三島村硫黄島のジャンベを用いた離島振興は外部要因、制度をうまく利用しながら島民や 島出身者が地域問題を解決する新しい形であるといえる。 出所: 三島村 HP 参考資料 <参考文献> エンゲストローム、ユーリア(2008)『ノットワーキング―結び合う人間活動の創造へ―』新曜社. 勝俣誠 (1991)「現代アフリカ入門」岩波書店. 西部忠・吉田雅明編(2010)『進化経済学 基礎』日本経済評論社.
Charry, Eric (1996) A Guide to the Jembe. Percussive Notes 34 (2).
Hagino, Makoto(2015)A Perspective of the Infrastructure on Remote Islands : hardware to software and across it (Abstract for the Future of Island Infrastructure: From Hard to Culture: 2nd Kagoshima University Regional
0 100 200 300 400 500 600 700 1960 1965 1970 1975 1980 1985 1990 1995 1999 2001 2016
図8 硫黄島の人口
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Konate, Famadou and Ott. Thomas (1997) Rythmen und Lieder sus Guinea, Institute fur Didaktik popularer Musik. ( http://echarry.web.wesleyan.edu/jembearticle/article.html ) <インターネット・ホームページおよびブログ> アリ・トラオレ ウェブページ http://alytraore.com/ タムタム・マンディング・ジャパン(鹿児島県三島村) http://www.ttmjp.net/ ファマドゥ・コナテ ウェブサイト http://www.famoudoukonate.com/ フォリカンのウェブページ http://folikan.com/main.html ママディ・ケイタについてhttp://www.ttmusa.org/index.php?option=com_content&view=article&id=45&Itemid=52 ラティール・シー ウェブサイト http://latyrsydiaspora.com/ レモ社ウェブページ(プラスチック製ジャンベ)http://www.remo.com/portal/products/6/28/djembe.html 熊本ジャンベクラブ ウェブページ http://www.wassawassa.net/page_djembeclub/djembeclub.html 高橋竹山 オフィシャル・サイト http://chikuzan.org/profile.html
寺崎卓也 ウェブ・ページ http://www.alles.or.jp/~moumba/menu.htmDanka Danka (NPO 法人)
http://www.dankadanka.org/
三島村HP http://mishimamura.com/
Djembe History and Origin http://www.african-music-safari.com/djembe-history.htm
Djembe-L(米国を拠点とするジャンベ関連 ML)http://home.acceleration.net/clark/djembeLring/djembeL.html
Jun Jun (ジャンベ販売)http://www.info-niigata.or.jp/~junjun/index.html
Nimba Trading (ジャンベ販売)http://nimba.co.jp/
The African Music Encyclopedia (ラジ・カマラ) http://africanmusic.org/artists/ladji.html
WARA,BA ブログ(ユール・ジャバテ関連)http://uruma.ap.teacup.com/waraba/
WOMAD ウェブページ http://www.womad.org/
参考 DVD
「ジャンベフォラ-聖なる帰郷」(1991) アメリカ・フランス、シネカノン配給(日本).
参考 CD
Folikan (2007) Anya Fo.
Ladji Camara (1993) Africa/New York, Lyrichord Discs Inc. Mamady Keita (1998) Afo, Fonti Musicali.