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Mooreと直覚主義

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Academic year: 2021

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(1)Moore. 直. と 川. Moore. 仁. 村 and. 主. 覚. lntuistic. 義. 也. Ethics. Jinya KAWAMURA*. SUMMAR Moore・s. Logical Moore's. Ethics,. Positivism position. Movement. since. following. as. is. so. in 1930's. obten and by. Y. by lntuistic Ethics, is criticized called But to make Linguistic Ethics to-day・ in the light of Cambridge understood. be clear, it must the publication of The is written thoughnot. Origin. of Species. by. Darwin・. directly. The. Princlpla. concerned with in 1920's Ethics his Moore's papers of referring elucidate point the in且uence of Bradley and Kant・ period under and his formative own his intuistic dialectic, that is, he assert His method was position by ed however・ Underlying this arguments・ arguments・ criticizing antatgonist's And is a further to Hume・ this own problem lies his pbilosopby, analoguous hereafter. we must study. Ethica,. paper. to. the. 1. ムーア没後一年Analysisにウィズダムの追悼文がのせられている(Jan・. 1959)oム-. ァの仕事ほ他の哲学者たちが世界と科学に関して言表したことがらをとりあげることであ った。しかし彼ほ哲学が分析につきるとは考えなかった1'。ひとがややもすると陥りやす い誤ちは,ある型の陳述の分析あるいは論理的性質を,陳述の真偽にかかわりなく論ずる ことができるということである。ム-アはこのことに関して決して無関心ではありえなか. った。正確な分析をし,不正確な分析の不正確さを明噺にしようとする彼の情熱は,陳述 の不正確な分析は,もしひとがそれをう桝、れるなら,そうした陳述が事実上なされてい るとき,何がなされているかを把えにくくし,陳述されていることがらの真偽を確認でき なくする恐れがあるという危慎から生じているのだと思うとのべ,あるときムーアにマッ クタガ-トの観念論にふれて,マックタガ-トも2本の腕があることを否定しているので ほないでしょうがと問うたとき,ムーアほ問題ほ手や時計などとゴルゴソ,. -ーピィのあ. り方のちがいを認識しうるかどうかにあるのだと答えたという.ムーアが物質ほ感覚から の論理に構成されたものとする見解に反対したのは,この説がまったく論理的であること を認めるとしても,ひとが物質的事物について陳述するようなばあいに適用されるとき二 *哲学教室(°ept.. of Pbilosopby).

(2) 2. 川. 村. 仁. 也. つのちがったことをとりちがえやすくするという点にあった。ムーアは晋遍命題(たとえ ば時間は非実在的であるといった)を問われたるといつもその命題を具体的なものに翻訳 し,もし晋遍命題が真であるなら,翻訳された多くの(具体的)特殊命題がすべて偽になる という証明方法をとっていたといわれる。このようにreductioadabsnrdumによって自 説を根拠づけながらも,ムーアは自己の分析の手技りをつねに恐れていた。ひとほようい に物事を,直視することができない。しばしば物事を歪める。このことほわれわれをさら に現前するものを見ることができないようにしてしまう.まわりのひとが真でないことを 語っているのをきき知った子供が陰謀に加担しはじめるように。虚偽-の誘惑が強いもの であっても,われわれほいぜんとして真理を語りうるひとを認めることができるoム-ア ほそのようなひとであったとウィズダムはいっているoケインズがケンブ.)ッヂ大学に入. 学した年はムーアのPrincipia. Ethicaが出版された年でもあった。. まり,新しい地上-の新しい王国の創設」と,かれはPrincipia Memoires,. 反響を伝えている(Two. pp.. 「ルネッサンスのはじ. Etbicaのひきおこした. 81-86)。そのころケンブ.)ッヂの学生の凱、だ. でほ「君の正確にいわんとしていることは何であるか」が常套語となっていて,答えよう とする当の問題が正確には何であるかを,まずもって発見することによって誤謬をさけよ うとしたといわれる。. 「倫理学においても,他のすべての哲学研究においてと同様,歴史. 上みちあふれている難問と見解の不一致ほひじょうに単純な原田によるものであるように 思う。つまり,答えようとする問題が何であるかをあらかじめ正確に発見しないでおいて 答えようとすることによるのである」丑'ウィズダムの追悼文ほムーアの哲学が,それ以降 のエイヤーなどにはじまる情緒主義与',価値の情緒理論,あるいは倫理学を言語学へ還元 する現代の風潮への警告をふくめていると思われるが,こうした考え方はかなり一般化し てきているように思われる。. 「倫理学を倫理言語の分析としてとりあつかう結果の一つと. して,主題の倭少化があげられる.. ・・-倫理学において,主題は世界についてわれわれが 記述したり,学んだりするのに用いるカテゴリーにあるのでほなく,世界へのわれわれの impact,他者への関係,情況と生活-のわれわれの態度がむしろ問題なのである。たしか に,倫理学の領域においてもカテゴ1). -を用いたり,記述したりしなければならないでは. あろう.しかしわれわれほいぜんとして倫理的主体として,たとえ,まれにしかなかった ことでほあるが,存在しなければならないのだ」4)oムーアがあらためて検討されねばなら ないゆえんである。. 「形而上学協会」(「危機のヴィクトワァ王 ム-アについては,その思想史的背景として, 朝精神, 1869-1880」)5)あるいはブルームスペソ・グリーとの関係をあきらかにした「種 まき」等にもふれなければならないが,ここでは他の棟会にゆずって,ムーアの思想を明 らかにすることに力点をおくことにLようo 2 The. Encyclopaedia. of Philosophy7)はPrincipia. Ethica,. Rufutation. of Idealism. の出版された1903年を鄭こしてムーアの哲学を二つに区分している。前半(形成期)の数.

(3) Moore. 3. と直覚主義. 年に発表された論文ほ数もすくなく,ブラッドリ,カントの影響下にあって,ムーア固有 の哲学とはいいにくい。. "In. What. Sense,. if Any,. Do. Past. Future. and. Time. Exist?". (1897)においてム-アはブラッドリーに同調し,ブラッド1)-の方法と原則に依拠して時. 間の存在を否定し,そして,そこから結論されるものが常識に反するとき,かれは常識の 虚偽を主張しているoその翌年ムーアはカントの倫理学研究を学位論文としてケンブ')ッ ヂ大学のフェローとなるのだが,この年の論文"Freedom"においてほカントの影響をつ よくうけいる。かれはカントの超越論的記述と綜合的必然的真理論にもっとも同調したが, 一面,カントの批判的制限,かれによれば心理学的偏見には批判的であったoたとえばか れは主張する。カントは自由を心理的概念である意志によって考えようとした点ではまち がっているのであって,自由はむしろ超越論的自由の概念によって理解され,説明されな ければならないと8,。心理主義的立場を否定したこのようなムーアのカント解釈は"The Nature. of Judgement". (1889)において,さらに鮮明になるoすなわち心理的行為とそ. の対象とはまったく別箇の存在とされ,そしてブラッドリーの実在は心理的行為ときりは realismとなる。ムーアの思 なされた対象の究極面において考えられるというabsolute 想展開のこうした変貌はのちにかれ自らによって無視され,また多くのムーア研究者から も顧みられなくなってしまうのであるが,たんにイギリス思想史のみならずヨーロッパ思 想史上のClimate. of. たんにいえば(1). "I tbinkof. opinionの枠のなかでじゅうぶんな顧慮が払われるべきであろう9'o J.0・ネルソソがいうように,かん それほともかくとして,ム-ア固有の哲学とは何か. X"という陳述はa.心理的行為とb・この行為と関係し. ながら,しかも行為とほ別箇の対象,という2つの面を記述するものだという原則に立つ ことが第一点である。それと同時に(2)哲学者たちの混乱した記述をあたかも実験研究 者のごとく,細かく分離し,観察するといういわば哲学における実験的方法にあるといえ よう。. 後年(1920?)ムーアがライセスター哲学会でおこなった通俗講演があるoムーアほ哲学 的知識を前提としないで「倫理学とは何か」. The. Nature. of Moral. PbilosophylO'につ. いて語っている。通俗であり平易であるがために難解でもあるこの講演でムーアほ次のよ うなことをいっている。. ふつうひとが倫理学を学ぶとき,倫理学が討議し正解を求めようとする問題とほ何かと いうことをたずねていいるのだ.倫理学bl;.とりあつかう観念ideasは多様であるが,とく に基本的と思われる2つの観念をとりあげるoいうまでもないことだが倫理学とは哲学の なかで倫理に関する部門である。そしてわれわれは通常倫理とは何かについてほぼ知って goodandevilと区別される.悪 いると考えているo moral good and evilはphysical 徳を非難することほ資質の悪さを非難することとはちがうからである.このようにphysicalなものと区別されるわけだが,別な面からすると,道徳的義務moral 法的義務1egal. obligation. obligationは. とも区別される.道徳の領域は法の領域よりはるかに広いと. いうのは常識である。そして倫理学の大きな部分がこのような常識的な意味での道徳を対 象とするものではあるが,倫理学がそれだ桝こつきるというものではない.倫理学の他の.

(4) 4. 川. 村. 仁. 也. 部分はムーアによると非道徳的概念にかかわるといわれるoこうしてム-アは(1)道徳的 概念をまずとりあげる.道徳的義務観念idea. of. moralobligationあるいほidea.,i dutyをとりあげて考えてみるに,あることをなさねばならないということは,そのこと ●. をしないのほ悪いということであるo. ●. ●. ●. ●. ■. ●. ●. todoはwrongnottodoと等値であっ て,いずれがより基本的であるともいえない11'。ムーアほ道徳的概念のもっとも基礎的な ものである義務,当為・悪の概念をこのように規定し,これらの概念を明確にするために, ought. 道徳法則をとりあげる.道徳法則とほモ-ゼの十戒のように,ある行為をすること,ある いは他の行為をさけることはつねに悪いといった主張である○十戒には禁止命令が多いが ここでほとわないl引o禁止にしても勧奨にしても義務にかかわるものであるという点では 等しいからであるoムーアが重視するのほ異った視点からの区分であった.ムーアは十戒 のうちで行為actionsに関するものと感情feelingsに関するものとを分けている。. 「あな. たは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻,しもべ,ほしため,午,ろば,またす べて隣人のものをむさぼってほならない」。. 「この種の法則と,行為に関する法則を区別す. ることがなぜ重要かというのほ,感情は一般にわれわれの意志の直接コントロール下にな いのに対して,行為ほそうでないからである」18)。むさぼることを私は防ぐことはできな. いが・盗むことを防く.tことほできる。このような意味で感情に関する法則と行為に関する 法則とほ同一のレベルにあるとはいえないといわれるoもし私が盗むまいと意志するなら, ここからただちに私は盗まないのだが,むさぼるまいと意志しても,むさぼるという感情 が生じないことにはならない.まさにこの区別こそrealなものだとムーアほ主張するo. カソトほ周知のように「べし」は「しうる」を含立するといった。. (逆にいえば「しえな. い」は「すべきでない」を含立する)これほ行為に関する法則とはなりても感情に関する 法則ではありえない。われわれが「べし」とか義務とかいうコトバを用いるとき,いまの べたような二つのちがった意味において用いているのであるo. 「べし」ほ第八戒のように それが「しうる」を含立するように用いられるばあいと,第十戒のようにそうでないばあ いとがあるo. ト方の法則ほ,ある行為をなしたりなさなかったりすることがつねに現実. 的に義務であると主菜し,したがってその行為をするかしないかはつねに主体agentの 意志の力にあると主張し,これに反して他方の法則ほ,つねに主体の意志の力にあるかど ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. うかにほふれずに,もしそれが主体の力の範囲内にあるなら義務であろうと主張する」14,. (傍点はムーア) of duty,後者をideal ムーアほ前者をrules rulesとよび,外面的で行為に関する 義務の法則(旧約の精神)と内面的で感情に関する理想の法則(新約の精神)とに区別す. るo道徳的義務というとき,二つの相異る概念がふくまれていることを忘れてほならな いとかれほいうoところで倫理学は上述の道徳的概念でないものをも対象としてきた。 (2)アリストテレスほ「ニコマコス倫理学」でおよそわれわれのあらゆる行動を蔽うとこ ろの目的としての善antbropinienon. agatonから出発する。この善ほアリストテレスに よれば,富などと異って,それ自体において善でなければならず,また自己充足的でなけ. ればならない。さらにかれは善をすぐれたものとし,徳より広義に解釈し,また状態でほ.

(5) 5. Mooreと直覚主義. なく活動であるという.たんなる. mental. excellence. でほなく. active. exercise. of. mental. exce11enceであると15)。ムーアほアリストテレスの見解には混乱があるという。 というのはgoodというときひとはしばしばそれ自体においてではなく用いているのであ 「その本質 るから。いいかえれば本質的価値ではなく相対的価値で考えているのである。. 的価値のみを考えて高く評価するのはそこから帰結する他のgoodを考慮にいれるからな のである」1¢)。本質的価値はある時期にわたっての物の具体的状態である。しかし同時に いえることは改善かならずしも道徳的改善でほないということである。こうして問題は (1)に遡行する. (1)の問題はいいかえれば義務と本質的価値の「客観性」にかかわる問題 といえようoあるいは換言すれば,絶対的義務,善といったものがあるのかどうか,それ ともそれは人間の感情,欲求に相関的なものではないのか。もしある行為が義務であると われわれが判断するとき,われわれの考えているすべてのことが,そうしたさいのわれわ れのもつであろう感情を意味しているとするなら,倫理学はたんに心理学的観念にかかわ るものにすぎなくなるであろうoそして倫理学は心理学の一部門となる.しかしまた反対・、 に数の概念は心理学的観念でないとするなら倫理学ほ心理学の一部門ということにはなら ないであろう。ムーアほ独断はさけなければならないといいながら, 「義務」, 「善」を多 くの哲学者は心理学観念をあらわすものと断定しているが,これらの概念によってあらわ されるものが何であるかについてほ意見の一致がなく,そしてまさにそのことが反論の有 力な根拠となるという.ある行為が悪いと私が判断するとき私の判断しているのほ,私の うちにある種の感情を現実的にではないが懐向性として刺激しようとするものにすぎない というのがウェスタ-マークの立場であるo. もし道徳的判断がこのように行為への感情を-. 刺激する可能性,傾向性として主観的に理解されるなら,道徳問題についての見解の相異 というものほおこらない。しかも逆に同一のことがらに関して現実にほ道徳問題をめぐっ てさまざまな対立がある。このことは,われわれが義務について語るとき,義務のわれわ れに対する関係について陳述しているのではないということを意味しているo 「倫理学とは何か」でのべられているムーアの見解は心理主義を拒否することによって アリストテレスの善を客観的,本質的な面でとらえようとするものであった。しかしここ で注意しなければならないのは客観的と本質的ほ同義でほないということである17)0 3. 当為,義務,あるいは善,悪,あるいほ美醜等の価値に関して,当該の物へのある種の. 心理的態度とする主観主義の立場とそれを否定する客観主義の立場がある。ムーアは客観 的であることと本質的であることとを区別し「ある種の価値が本質的であるという命題か ら,必然的にそれが客観的であると帰結されるが,連は真でない」という18)。というのは 進化論などによると,たとえばAのタイプの人間がBのタイプの人間より. (なぜなら進化のコースはAのタイプを増加させ,. better. である. Bのタイプを減少させ、るから)といわ. れるときbetterほよりよく適応しているということであるから主観主義的立場であると ほいえないであろう。それにもかかわらず「Aが現時点でBより適応しているとしても,.

(6) 6. 川. 仁. 村. 也. 他の事態においてほ,あるいほ異った自然法別のもとではBがAより適応しうるかも知れ ないo」19・20)のであれば客観性かならずしも本質性でほないとムーアはいうoふつう客観性 として解されているのはだから本質性あるいは本質的なものとの関係において客観的なも のなのであろう。混同をさけるためには自然主義的もしくほ実証主義的とよぶのが適切で ある。このような立場に対してこそ主観主義的立場からの反論が可能なのである。自然主 義的に解された「客観的」なものに対して主観主義的立場ほそこに「有害な虚偽」を感じ とるのであろうoたんに虚偽であると感ずるのみでなく迷信に近い誤謬を看取するのであ るo価値についての係争点は,したがって主観的一客観的ではなく本質的一非本質的の問 題である。価値が本質的であるというのはどういうことであろうか。 C・D・ブロードはム-アの「本質的価値の概念」を手がかりとして,シルプ編纂の「ム -アの哲学」にみられる後期のかれの倫理学を解明しようとしている2I).しかしここでほ Ethica の直覚主義倫理学への一側面を明らかにしようとするのである Main からふれない。 Problems 1953年に出版されたSome of P血ilosopbyほ1910むしろPrincipja. Philosophical 11年ロンドンのモー1)一大学で行なわれた講演をまとめたものであり, Studiesは1903年から20年にかけて発表された論文を選択して編輯されている。とこ. ろがいわゆる形成期の諸論文,たとえば Baldwin. の. Dictionary. Mind,. Proceedings. of Aristotelian. Society,. of Philosophy. and Psychologyに寄稿されたものほ,ムーア 自らきわめて未熟なものとして省かれている。パスモアほ簡潔にそれを次のごとく要約し ている2皇).. (1)ムーアの初期でもっとも重要なのほ「判断とは何か」(Mind,. これはブラッド1)-の「論理学の諸原理」. 1899)で,. (1883)の影響をつよくうけているo. ブラッド. リーは判断を観念の意味するものについてとしたり,観念が判断の構成要素であるとして いるが前者が正しいとムーアは考える。判断はわれわれの観念に関するものでほなく,観 念が指示するもの(ブラッド1)-の晋追的意味,Jム-アの概念)に関するものでなければ ならないoそして概念は心理的事実でもなければ・む理的事実の一部分でもないo概念ほわ れわれが思考するとき,われわれの対象として考えるものでほあるが,もしそれがわれわ れの思考と独立して存在するのでなければ,思考すべき何物もないということになってし まう。ムーアのいう概念とほプラトンのイデアのごときものであった。同時にプレソタノ,マンノンクのように思考の対象の客観性,独立性を主張するものである。ひとはここ にブラッド1). -の晋追的意味が思考対象の客観性,独立性としてとられていることを銘記. せねばならないであろう。それと同時にブラッドリーの反心理主義をくみとることもでき. るであろうoそうした点ではイギリス経験論とほいちぢるしく異っている.命題はこのよ うな概念の関係であるからムーアにおいてほ物,複合概念,命題ほ同一のものの異った名 称にすぎない。ここからかれはさらに真理論を構成していく。ふつう命題ほそれが実在と 対応するとき真であるといわれる。そのさい裏なる命題とそれが表現する実在とが対置さ れるo. ところがムーアにおいては真なる命題と実在とほ同一なのである。 「命題は(心理 学的意味での) beliefや語の形成を記述するのではなくbeliefの対象を記述する。命題 がたんに対応するのみと想定される実在とまったく異ならないことほ明白である。. 『私は.

(7) 7. Mooreと直覚主義. 存在する』ほ『私の存在』といかなる点においても異ならない」o. し/. LL,i:-ルドゥィソ「暫. 学・心理学辞典」)それでは実在と区別できない真理とは何であるのかoムーアはいうo真 理とはある命題に所属し,ある命題には所属しない単純で,分解不可能な・直覚的性質で あると。知るとは命題を自覚することであり,概念の領域外にでることほできないo世界 ほ永遠不動の概念から構成されている。そして命題は概念を相互に関係づけるものであり, 異なる命題とはこのような概念関係を述語するものであり,同時に事実であり,実在であ るといわれるo. (2)一方「事実に訴えることほ無益であり,私はつねに論理のルールを遵. 守してきた」とムーアほいう.ラッセルはム-アの初期の理論がかれにとってもムーアに とってもじつはブラッドリの絶対者から解放されて現象の領域に転移するきっかけをつく ってくれたと述懐しているo(自伝)パスモアはラッセルの世界はますます痩地になり論理 的になっていったがムーアはけっして日常世界の実在-の信念を失わなかったというoそ してIdealism. へひかれることのなかった後の世代がウィトゲソシタインの「日常用語. ●. 法」に同調してムーアを批判するのほあたらないのではないかoなぜならム-アほ日常用 ●. ●. ●. ●. 語法でほなく日常信念を擁護しようとしたのだからと至当にものべているo. 「(ブラッドリ. ーの世界から解放されて)かつて痩せて論理的であった世界は忽然として豊かに,多様で, (ラッセル)になったがこの楽園にも蛇がいた。それは1910-11年命題と事. 堅固な楽園」. 実の同一をめぐってひきおこされた論争であった. 4. principiaEtbicaをパスモアの所論にそってよんでいくことほ重要なことであると思わ れる。ムーアほ同書の第一章,倫理学の主題において倫理学ほしばしば徳,義務,当為, 善悪の諸概念に共通でしかもこれらのものに固有なものは何であるかとか行為の問題をと りあつかってきたが,ここでほより広義にとって,善とほ何かの一般理論としたいとのべ, 倫理学は決疑論とちがい,むしろその前提をなすものであるとして,善の定義をしているo. 「もし善とは何かと問われるなら私はこう答える。善とほ善であると。善とはどのように 定義しうるかと問われるなら,それは定義できないものであるというのが私の答えのすべ (1)いかなる種類のものがそれ自身のために存在せねばならぬか, てである」∑3'。ム-アはL (1)ほ証明不可能' (2)いかなる種類の行動をなさねばならぬかの2種類の問題を区別し, (2)は可能であるとし,. (1)のものをシジウィックに従って直覚主義とよんだ。. 「しかし. わたしはふつうの意味での直覚主義者ではないことを銘記してほしい。ほんとうの直覚主 義者は(2)の証明不可能なことまで主張するのであるがわたしは(1)の命題ほ直覚だとい うが(2)の命橿はそうではないと主張するのである」丑4'といっているように十全の意味で の直覚主義者ではない。. (1)と(2)は峻別されねばならない。ところでこの峻別がなされ. るためには善が単純で定義できないものであることを示さねばならない。自然主義的誤謬 Naturalistic Fal1acyの論議がなされる.自然主義的誤謬というのは善をたとえば快だと か,より進化しているとかいった他の性質と同一視することをいうo. これは善を善でない. ところのある性質であるとすることであるoムーアの所論は定義できないものを定義する.

(8) 8. 川. 仁. 村. 也. ことと非自然的なものを自然的なもので定義することのつに分れている.いまW.ウォー ノックによって考えてみよう丑5'oウォ-ノックほ善とは何かに3つの意味があるというo (1)特定の答えを要求するもの(よいレストランとは何か), (2)ある種のものほよい という形成での一般的な回答を求めるもの(慈善的行為はよい),. (3)善とほ何か.これは 定義を求めている。そして(3)こそ倫理学の中心課題だというのがムーアの見解なのであ る。ところがかれが定義というとき,ふだんひとびとがどんな使い方をしているかという ことをいってほいない。善という語を用いるとき,それによってあらわされるもの,概念 をかれは問うているのである。定義とは,したがってこの概念の分析である。そしてこの 分析が不可能であるとかれほ主張する。ムーアは「善」は(a)単純な,分析不可能な性質 を記述するか(b)複合の分析可能な性質を記述するか(c)あるいほ何も記述しないかの いずれかであって(b),. (c)が不可能だから(a)であるという.ムーアほ善をこうして単. 純な,分析不可能な,それゆえかれによれば定義不可能なものとした.それほさらに非自 然的性質として,善を自然的性質として,善を自然的性質と同一現する見解をすべて自然 Principia. 主義的誤謬を犯すものと考えた.. Ethica. 以降,論争の相手を論破するのに流. 行語となったこのコトバはじつは推論の誤りにあるのではないのである28).. 「自然主義的. 誤謬とはたんに善という性質ほほかの性質のようでほない-とくにその存在は日常の観 察,経験によって発見されるといったものではないということを大胆に表明したものにす ぎない.それならどのようにして見つけることができるのか,直覚によってというのであ る」27).ムーアのPrincipiaが及ぼした影響についてはケインズをほじめとしてさまざま に記されている丑8).善を直覚に求めたムーアほ初期エドワード王朝の不覇の個人主義の表 明であった。(ケインズ)それはある意味ではきわめてアナーキーであるとともにある意味 「善とは何かの問題は理性,経験,権威,いな,思想. でほいちぢるしく保守的でもあるo. にさえかかわりなしに各人の直覚にゆだねられた。しかしムーアは,部分的にほ,われわ れの行為の結果が何であるかを決定することの困難さを誇張したことにもよるが,かれが すすめる正しい行為とは何かについてひどくべスミスチィクで,お年くのばあいそのひと の社会への密着に止ってしまっている」29)o 直覚主義倫理学はプリチャード,ロスによってさらに徹底されるが,. 1930年代論理実 証主義の運動のなかで倫理的命題は擬命題であるとかあるいぼ情緒主義へと移行していく。 goodほgoodsでもあるのであるから,もし倫理学が主観主義の袋小路におちこまない ようにするためには,. goodsの生産主体としての労働をふくめた社会存在論の形でとらえ なおされねばならないように思われる.A-アほPrincipiaの廉にかきしるしている. is what. Everything. it is, and. not. another. thing.. (Bishop. ムーアのばあいnatural-non-naturalの対立となっていたo 姓. 1) 2) 3). Cf・. Some. Main. Principia. Etbica,. Language,. Truth. Problems. of. Pbilosopby,. Preface. and. Logic,. 1936.. 1953,. p.. 204.. Butler)同一律の原則ほ.

(9) 9. Mooreと直覚主義 4). 班. Warnock,. Ethics. 5) 6) 7) 8) 9). A. W.. The. 10) ll). L.. Brown,. Woolf,. 1900,. 1960. Society,. Metaphysical. Sowing,I. Encyclopaedia ibid.. Since. 1961. Philosophy. of. 1947.. I-VIII.. ed.. by. Edwards. 1967.. Ⅴ, p. 372.. Cf.B. Russell, Portraits from Memory, 1956, 1885-91,A-アが12才から18才ころに かけてのかれの信仰上の回心. ultra-evangelism に転向したかれがしだいに,いかなる種類 の信仰心にも冷淡さを示すようになり, 18才のとき,恥美派の詩人だった長兄Thoma昏Sturge Encyclo・ Moore に説得されて"complete agnoticism''の立場に移行したといわれている ibid. paedia, Philosophical ibid.,. p.. Studies,. chap. X,. 1922.. 313. 1955,. 12)十戒の禁止命令については小塩力「聖書入門J Studies, p. 316. 13) Philosophical ibid., 320. p. 14) 15) ibid., p. 325. 16). ibid.,. 17). The. 18). Pbilosopbieal. p.. ibid., p.. 256.. 20). ibid.,. p.. 260.. 21) 22) 23). C.D.. Broad,. 24). ibid.,. 25). M.. 26). W.. Value of lntrinsic Studies, p. 255.. G. E.. J. Passmore, Principia. A. Intr.,. p.. Frakena,. Moore's. Hudred. Ethica,. Warnock, E.. 28-29ページ参照.. 327.. Conception. ・19). p.. G. ∫.Varnook, Two. Memoires,. G.J.. Warnook,. (Philosophical. Latest Years. of. Published. Studies,. View. Philosophy,. Ethics,. on. chap.. chap.. ⅤⅠⅠⅠ).. Mind,. Oct.. 1961.. 9.. 6.. X. Etbico The. 村,古田「現代の哲学」 27) 28) 29). P.. since 1900, Naturalistic 1967,. Contemporary My ibid.,. Early p.. p.. Fallacy. 13.. (in Readings. 114ぺ-ジ. Moral Belief.. 8.. 1960,. Philosophy,. 1967.. in. Ethical. Theory,. 1952).川.

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