仏教研究にとって、チベット仏教、ことにチベット語仏典が 重要なことは、今さら改めて指摘するまでもないことである。 チベット語仏典は、大きく二つに分類できる。一つは、サン スクリット語、パーリ語、中国語などからチベット語に翻訳さ れた、チベット語翻訳仏典であり、いわゆるチベット大蔵経で ある。チベット大蔵経の特色は、インド以来の大蔵経の分類法 である、経・律・論の﹁三蔵﹂ではなく、カンギュル臼百、 、堕日︶すなわち﹁仏の教えを訳したもの﹂とテンギュル ︵呼冨日、喝員︶すなわち﹁︵仏の教えにかんする︶注釈書を訳 したもの﹂の二部に分類されるところにある。北京版、デルゲ 版、ナルタン版をはじめとする木版印刷本以外に、写本も多く 存在する。 もう一つは、いわゆるチベット語蔵外仏典、あるいはチベッ ト撰述仏典と総称されるものである。これは、チベット語大蔵 経に収められていないもの︵Ⅱ﹁蔵外﹂︶で、外国語から翻訳 されたものではなく、チベット人自身がチベット語で﹁撰述﹂ Ⅱ著作した仏典である。これは、チベット人、さらにはチベッ
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チベット仏教圏におけるブータン
今枝
由 郎 ト文化圏の人々が、七世紀以来今日まで一三世紀余にわたって、 古典チベット語で書き残してきた膨大なものである。典籍数で チベット大蔵経を凌ぐばかりでなく、その内容も、仏教教義は もちろんのこと、歴史、医学、声明、絵図等、チベット文化の あらゆる分野・領域にわたっている。これにも、当然木版印刷 本もあれば、写本もある。 仏教研究史上、チベット語仏典の重要性の認識は、まず最初 のチベット語翻訳仏典にかんしてであった。ことに、サンスク リット原典が散逸して現在に伝わっていない仏典にかんして、 チベット訳仏典が重要視された。それは、漢訳仏典がいわば ﹁意訳﹂であるのと好対照に、チベット訳仏典はむしろ﹁遂語 訳﹂であり、その原典にたいする忠実さは、訳文から原典の推 定・復元を可能ならしめる程であるからである。こうした原典 の推定・復元だけにとどまらず、サンスクリット語、中国語仏 典との比較研究という観点からも、仏典研究にとってチベット 語訳仏典は不可欠なものとなった。こうして、いわゆる﹁梵蔵 漢対照﹂ということが、批判的仏典研究の方法論として確立さ れたといえる。しかしながら、この場合のチベット仏典の認識 は、いってみれば仏教研究の一資料としての補助的なものにと どまっており、チベット仏典・チベット仏教そのものが、研究 対象になることはなかったといえる。 これがチベット仏典の重要さの認識の第一段階であるとすれ ば、第二段階はチベット撰述仏典にかんしてである。チベット 仏教圏は、その地理的・政治的状況から、たえず秘境であり、 53容易に足を踏み入れられる地域ではなかった。それゆえに、チ ベット仏典の重要さが認識されたといっても、実際にチベット 仏教の生きた姿に接することが出来たのはほんの一握りの探検 家だけで、研究者も含めて大半の人にとって、チベットは外か ら垣間見、窺い知るほかなかった。 ところが、一九五九年のダライ・ラマのインド亡命という事 態にいたって、全く新しい状況が出現した。一方で、チベット は以前にもまして入国が難しくなった。しかしその反面、ダラ イ・ラマに続いて、僧侶も含めて数万のチベット人がインドに 亡命したことにより、外部の者にとっては、はじめてチベット 人に直接接することが可能になった。彼ら亡命チベット人は、 想像を絶する困難なヒマラヤ越えの逃亡に際して、膨大な仏 典・仏像・仏画を持ち出した。これは、いかに彼らの信仰心が 篤いものかを何よりも雄弁に物語っている。こうしてインドに 持ち出された仏典のなかには、それまで外部の研究者には、全 く知られていなかった、チベット人自身による著作、すなわち チベット撰述仏典も多く、チベット仏教の伝統の厚み・蓄積の 偉大さがはじめて認識されるようになった。幸いなことに、ア メリカ議会図書館のもF駐C図書収集計画により、これらのチ ベット仏典の多くはインドで影印出版され、それがさらにアメ リカでマイクロフィッシュ出版されている。こうして、世界中 の研究者はこの膨大なチベット仏典を容易に手にすることが可 能になった。 それにもまして重要なことは、直接チベット人学僧・学者に 教えを受けることが出来るようになったことであろう。そうす ることによって、チベット仏教がインド以来の仏教の伝統を受 け継ぎ、その上に立脚してさらに独自の発展を遂げてきたこと が、はっきりと認識されるようになった。その結果、今までの ように、インド仏教あるいは中国仏教の研究のための補助資料 としてのチベット仏典ではなく、チベット仏教そのものの研究 のための第一次資料としての重要性が認識されるようになった。 インド・中国・日本の﹁三国仏教﹂という伝統的な仏教史観を もつ日本では、仏教研究においてもチベヅト仏教の位置付けは まだまだ低いと言わざるを得ない。しかし欧米では、チベット 仏教研究は仏教研究のなかで、一つの完全に独立した地位を獲 得したといえる。ことに、テロ・武力行為に走らず祖国の独立 運動を続けるダライ・ラマにノーベル平和賞が授与されて以来、 ダライ・ラマに代表されるチベット仏教の生き方、叡智に対す る評価は一段と高まりつつある。 思うに、アジアはその長い歴史を通じて、中国文化圏とイン ド文化圏とに大きく二分される。このアジアの二大文明に挟ま れ、その両者からの影響を受けつつも、どちらにも組み込まれ ることなく、大乗仏教の理念に基づいた独自の崇高な精神文化 を花咲かせたのが、チベット文化圏である。いわばアジアの第 三文明とも言えるであろう。ところが一九世紀後半から今に至 るまで、この文化圏の諸国・諸民族の多くは悲しい変貌を余儀 なくされている。周知のように、一九五九年にはチベットが中 国に併合され、チベットの最高指導者ダライ・ラマがインドに 54
亡命するという事態にまで至っている。チベット文化圏は、今 や風前の灯といえる。 こうした悲劇的な状況の中で、政治的にも独立を死守し、文 化的にも外部からの影響に押し流されることなく今に到ってい る唯一の例外がブータンである。ブータンこそは、いわばチベ ット文化圏最後の砦である。チベット研究、ことにチベット仏 教研究にとってブータンが重要なのは、まさにこの観点からで 圭衲︸フ︵やO 筆者は、幸にして一九七八年秋に皇太后の招待で最初にブー タンを訪れて以来、一九八一年から一九九○年までの一○年間、 ブータン国立図書館顧問として、ブータンの首都ティンプに滞 在する機会に恵まれた。そしてこの間、当時館長であったロポ ン・ペマラ師︵現在は中央ブータンのニマルン寺院管長︶とい う、ブータンのみならず現在のチベット文化圏全体を代表する 高僧から、親しく教示願えたことは、何にもまして得難いこと であった。難解なチベット語文献が、少しでも理解できるよう になったのは、ひとえに師の教示によるところである。 しかし、ブータン・チベット仏教に対する筆者の理解に、く つの深まりをもたらしてくれたのは、何といっても一般民衆の 生きた信仰形態に触れることができたことであった。ブータン は、チベット仏教系の大乗仏教を国教とする唯一の独立国であ るが、それはただ単に制度上のことではなく、仏教は現に人々 の生活の隅々に生きており、あらゆる規範は仏教に立脚してい る。かといって、すべての僧侶が、仏教の、とくに高度に密教 化したチベット仏教の深奥な教義を理解しているわけではけっ してない。ロポン・ペマラ師のような学僧は、まさに例外であ る。一般民衆はといえば、ただ現世利益的なご祈祷、法要にた よっているだけかも知れない。無知な民衆と学問もない僧侶の、 形骸化した宗教形態である、ともいえるであろう。しかし、信 仰が生きている、すなわち人々がそこに安らぎを見出している ことは確かである。 ブータンの村を、そして村祭を見るにつけ、自分の子供時代 を思い出した。筆者は、浄土真宗の家に生まれ育った。他の家 に較べて、ことさら信心が篤い家でもなかったと思うが、父が 毎朝仏壇の前で勤行を務め、子供はその意味など分かるはずも ないまま、その後で正座させられた。﹁念仏王国﹂と称される 尾張の土地柄のせいであろう、寺、そして寺の行事は、日常生 活に深く浸透していた。まず、村で一番大きな建物である本堂 の高い屋根、そしてそれをとりまく木立は、それ自体村の風景 の中心であった。寺の広い境内は、子供にとって最適の遊び場 であったし、寺の行事は、子供にとっては、その宗教的な意味 は全く分からなくても、いってみれば﹁季語﹂として﹁四季の 風物﹂として、一年のサイクルに欠かせないものであった。秋 の﹁ほ−おんこ−﹂︵報恩講︶の前になると、毎晩寺に行かさ れて、一時間程﹁しよ−しんげ﹂︵﹃正信偶﹄︶を習わされた。 くつに行きたくも、習いたくもないのに、まさに行かされ、習 わされたわけである。しかし、普段は夜の外出が許されない子 供にとっては、この期間にかぎって、夜暗くなってから懐中電 R R L J q J
灯を手に、近所の子供と一緒に、外に出かけられることは、そ れだけで浮き足立つことであった。寺への行き帰りには、かく れんぽうが格好の遊びであり、昼間の通学では味わえない何よ りの楽しみであった。そして秋の﹁ほlおんこ’﹂は、村の神 社の春祭とならぶ、大きな﹁祭﹂であった。ブータンの民家で 村祭で、ブータンの子供に、自分の子供時代の二重写しを見出 すような気がしてならなかった。 自分の子供時代から、日本は大きく変わったし、ブータンも けっして今のままではありえないだろう。数十年というギャッ プをおいて、ブータンも日本と同じように、﹁近代化﹂し、大 きく変貌していくことであろう。仏教という一つの共通点を軸 に、仏教が生きているということ、生きた仏教ということを考 える時、ブータンは他人事ではなく、けっして無関心ではいら れない。この意味で、チベット文化圏最後の〃一隅″ブータン は、ただ単に研究の対象ではなく、我々が物を考え、将来を設 計してゆく上で、視野を広げ発想を豊かにしてくれる、かけが えのない源泉でもある。﹁秘境﹂ブータンは、我々が学びうる ものを無限に秘めた処女地でもある。 56