土左日記を読みなおす
私は﹃武庫川国文﹄第七八号所努拙稿﹁士左日四船のをさしける翁﹂について←剛国守(船君)像徐定へレ﹂にお い て、﹃士左1﹄に登場する前国守(船君)が作中吾して和歌を不得意とする人物として造形されていること、一村十八日 条に登場する﹁船のをさしける色は船師であり、前国守(船君)とは別人物であること、一月二十一 H条末尾の﹁国よりは じめて﹂以下を前国守(船君)の独内と解する近年よく見られる解釈には従いNことなどを述べた。本高では﹃士王日記﹄ 巻*の州宅の場而につぃて寝副し、女性﹁作者﹂の造形についても言及してみたい。なだ剛稿にひき暁き、﹃士左日記﹄の 、 、 し し 竹者とされている女性を括弧付きで﹁作者﹂と表記し、真の作き告之と区別する。 ﹃土左日記﹄は二月十六Hの帰京の記那をもって閉じられる。このΠ、山崎を出立した前国守のブ丁は、島友という一所で或 る人の饗応を受け、打明のもと桂川を渡り、いよいよ京の街中へとまノを進める。﹁夜ふけて来れば、ところどころも見えず。 京にいりたちてうれし﹂というのが、その折の感慨である。そのあとよく知られた帰宅号面へと続くのであるが、これは誰 の家へ倫宅なのであろうか。 早速、紀貫之邸へ倫宅、という答えが返ってくるかもしれない。実篭手元の文市本や教梨だは、そう腎いてある。し かしな^ら、^^^日町ル^^日記^小^と^される^品群の中でも特に虚^^のはなはだしい^品であることを考慮するならぱ、はじめに
茂実
1 'τ二原
作者紀貰之と作中人物たる前国守とを同一視すべきではないだろう。ひとまずは器を、前国守脚への偏宅、七Nするのが 妥当であるかのようである。しかし本稿は、この前国{寸邸への帰宅という解釈も成り立ち挑いことを、張しようとするもので ある。 では、^、,毛の^^の^^を^^よう。引用は^削叺^、凹^^にょり、子肌^の^を考^して、句^訊点、濁占^を伺し、おどり^を^ こし、仮名表記の一部を漢字表記に改めた。和歌は改行し、一行書きとした。 家にいたりてかどに入るに、打あかけれぱいとよくありさま見ゆ。剛きしよりもまして、いふかひなくぞこぼれやぶれた る。宇小にあづけたりつる人の心もあれたるなりけり。なかがきこそあれ、ひとつ家のやうなれば、のぞみてあづかれるな り。さるはたよりごとに物もたえずえさせたり。こよひ、かかることと、こわだかにものも言はせず。いとはつらくみゅ れど、こころざしはせむとす。さて池めいてくぼまり水つけるところあり。ほとりに松もありき。いつとせむとせの、つち 、 し ちとせやすぎにけむ、かたへはなくなりにけり。いまおひたるぞまじれる。おほかたのみなあれにたれぱ、あはれと ぞひとびと再ふ。おもひいでぬことなく、おもひこひしきがうちに、この家にて生まれしをむなごのもろともにかへらね ぱ、いかがはかなしき。ふなびともみな子たかりてののしる。かかる、つちに、なほかなしきにたへずして、ひそかに心知 に、 むまれしもかへらぬものをわがやどに小松のあるを見るがかなしさ とぞ叉る。なほあかずやあらむ、またかくなむ みし人の松のちとせにみましかばとほくかなしきわかれせましや わすれがたくくちをしきことおほかれど、えつくさず。とまれか、つまれとくやりてむ。 2 し、 ノ\ り け る 歌
不在であった五、六年の冏に、{系も庭も見るかげもなく荒れ果てていたという。きちんと管理されていない空き家が何年も 放置されれば、砥するのはあたりまえの話であるが、この家が誰の家かを考える糸口はここにひそんでいる。 そもそも、国守が一族磐兄のすべてを引き述れて任地へ下向し、京の本宅が空き家になるといった張恕はあり得たのであろ うか。﹃蜻蛉日記﹄にょれば、作者央京原焦一が陸奥守として任地へ下ったのは天暦八年(九五四)十月のことであった。 貫之の士佐赴任は延長八年(九三0^であり、両者の冏に社会の常識が大きく変化するほど年月はへだたっていないし、どち ら原甜への赴任という点で共通しているから、参考とするに足りるだろう。﹃蜻蛉Π記﹄の引用は新編日本古典文学全渠(ト 学館)にょる。 いまはとて、みな出で一^つ日になりて、ゆく人も^きあ^ぬまであり。とまる人はたまいて一^纛ふかたなく^^しきに、^時 たがひぬる﹂七言ふまでも、え出でやらず。かたへなる硯に、文をおし蝶﹂きてうち入れて、またほろほろとうち泣きて出 でぬ。しばしは見む心もなし。 ^ゆく人^は倫密^、^とまる人^は^^である。^密^.^^国き置いた^^には、^^の^^{一^にあてた和^^したためらーており、 その﹂孜訪れた兼家が、倫寧の﹁門出のところ﹂に返歌を届けさせたという話が続く。このあと作名は、このまま実家^京の倫 {齢)にいて夫兼家を通わせることとなるのである。あとの器にょれば、、倉十年(九五六)四打ごろまでは作者の姉もこ 3
の屋敷に住み、夫を通わせていたことが知られる。それだけではない。天徳元年(九五七^七月、相抄のころ兼家から衣肝 の仕立を依頼されて激怒する作者にとりなしの芸暴をのべる﹁古代の人﹂は母親に述いないかこれは倫寧の陸奥、勺在任耳の 出来那であるから、倫寧の姿は夫の任地に同行せず、京の屋敷驫と祠居していたという小・添判明するのであるなお後年 のことであるが、作者の妹がその夫菅1冴任地(点国、荏国)に同朽せず、京の屋敷に容していたことは﹃更級Π 司乢^にょってょく知られた^{^である。 いわゆゑ詣階級に属する小築貝族が、ようやく地力長一呂に任命される年齢ともなれぱ、その如かすでに成人して麥秀に大 を通わせている、あるいは{条で夫と同居しているといったいきさつは、ごくありふれた話であったに洪ない。倫半として は、娘二人に婿を通わせているからには、赴任後も彼らの結婚4、活のために京の屋敷を卸杓することは止孤の油、務でもあっ たろう。そうなれぱ無Υ嬰としては、述い夫の任地に同行し工身するよりゞ示の屋敷に残って、ω火婦の後見でもしなが ら気楽に過ごそ、つと老えたとしても不m叢はない。 主人が地力官に任命された家族や一族墜儿の中には、夫を通わせている娘とか地方生活を厭う琴女のほかにも、さまざまな ^由から、、王人と共に^地^下向しない人々か少なくなかったのではないだろ、つか。たとえば、長旅に^えられない幼児、や老 人、﹂^^、^尿で配^^を見つけたい^一^や^たち、^での^呂^えを醐^のU^捌かりにしたい田^^など。こういった人々か^呆の 屋敷に住み続けるとなれぱ、■呪住の女房や乳母、下働きの男女、敬儒担当の侍、牛車担当の牛価童など、多くの人同牙必要 となるし、彼らを束ねる留{蔦役も欠かせまい。蓄えた財貨や父祖伝来の{場などの邸竝も、京の屋努人々の重要な任務で (注2︺ あったろう。 以上は私的な側而から見た京屋敷の役劃Cあるか、公的な側而も見逃せまい。国勺の京屋敷はヰ央政駒と地方の国﹂附との 中継基地としての役割か期待されていたのではないだろうか。いわば、国府の京村出張所ともいうべき撚此であるたとえば、 小央政府から地力の国府へ漢柘された公文書は、それが重要か尿愆を要するものであれぱ、担当部局の衣人にょって辿接国 4
府へ届けられることがあったかもしれないが、漂巾は国守の古僅敷にもたらされ、国守側の人刷にょって国府へ届けられたの (■3) ではないか。その際には、私的な手紙や物品などもついでに運搬されたであろう。逆に、国府から公用で上京した使者の、都 における足掛かりとしては、鼎寸の古禽敷しか考えられないのではないだろうか。国﹂府から中央政﹂府へ四貝納物の染枯場とし ても、六食敷は利用されることがあったかもしれない 0 国守が京の屋敷を空き家にして任地へ下向することなど、ありえなかったのではなかろうか。﹃士左日記﹄作小の前国守に限っ て、牙屋敷を空き家にして任地へ下向したのである、といった設定は、ψ畔の実偕に茗しく反するものであり、受け入れら 、 し れない。京の家を空き家にして、一家をあげて地方へ下向するというのは、国守の縁者、あるいは下僚といったささやかな家 、 V 族にこそふさわしいのではないか。^上、^H司'^結末部に^かれているのは、そのよう六,家族の帰宅であり、女^^作者﹂は、 この家族の言貝であると老えられよう。﹁作者﹂がこの{武の中でどのよう空剪にあるのかは後でぢぇることにするが、少 なくともここで再えることは、批tの場而の﹁いとはつらくみゅれど、ここるざしはせむとす﹂とある記述などから、彼女が 工永の密途否一定の発二椛を持?剪にあるとされているらしいことである。 ^ー^、日町ル^、吐和米部に拙かれた荒廃した家^前国守邸ではありえないことは、^中の二月十四日条の^けふ、くるま京^と りにやる^、翌十五以条の^けふ、くるまゐてきたり^という司ル述にょっても一^^けられよう。山崎から陸路墨昂するために 必要な屯を取りに、前国守は京に人をやったのである。ちなみに、﹁とりにやる﹂の主誓﹁作者﹂ではなく、﹁作者﹂は前国 {^集川の中のおもだった石貝として、架剛の吐^六十名である前国守四^為を^とりにやる^と記述したということになっている。 ところで、前国守は^昂のどこに中を・^りにやったのであろうか。^くるま、京^とりにやる^とい、フ^述は、^則国守^一^有 5 二
している車を京の自邸に取りにやったと解するのが最も県一ではなかろうか。すると、仮に京の前国守邸が、帰宅の場而に揣 かれているような荒廃ぶりであったとするならば、その邸に五、六年も放置されていた車は、はたして使い物になるであろう 牛はどうするのか、<永計な心配もしてしまう。空き家の車{佰りから引き出したボロ車を、どこかで偕用した牛に牽かせて か。 やって来たのが十五日の露﹁くるまゐてきたり﹂なのであろうか。どうも述うように思うのである。 先に推測した通り、国守の京屋敷は公私にわたって機能しているというのが当時の常識であって、助里寸家族や主だった使用 人のための牛中は^^か爺休されており、^馬も飼養されていたのであろう。そのような^A会吊^を北旦京として^くるま、京 へとりにやる﹂﹁くるまゐてきたり﹂とい、フ記袈なされているのではないかと考えられる。 さて、以上のべてきたように、﹃光U記﹄巻末部倫宅倫而が、前国守邸へ倫宅ではなく、﹁作者﹂たちτ家の家への 帰宅であるならば、この日、二河十六Hにおける一行の動^は、どのように説明できるであろうか。タ刻、^^^^二永を^己 む前国守一行は山崎を出立し、島坂で或る人の饗応を受け、打が出るころ桂川を誓た。このあたりまでは前国守の一行が分 散する理由は考えられない。全貝が祠じ京都を目指しているはずであるし、渡河するには多人数の協力が必要とされるであろ 、つ力らだ 京の街に入ると、当然ながら前国守とその家族は、使用人たちと共に一路自邸をめざすであろう。ところが、前国守一行の 中にあってグレードの局い人々、たとえば前則寸ブ家と近しい親啄あるいは前国守に重用されている家臣とその家族などは 白宅への直行を許されることがあったのではなかろうか。そして、﹁作者﹂はそのような一'家の人である、ということになっ ているのではないか。﹁作名﹂が前国{茶団の中にあってグレード倫い位置にあったことは、十二打ニト五、二十六両日に 叉、止﹂ おける新国{寸にょる送別の{旻に、彼女も招待されていることからも知られよう。 もつとも、このようないきさつを相茶しなくても、戸打は全員、ひとまず前国{寸邸まで同行し、そこで解散となって、それ から人々は自宅へ向かったと和楚されていると考えても一向にさしつかえはない。そのあたりの細かい芽穉は記述するには及 6 、
ぱないと﹁作者﹂は判断したということになっているのであろう。いずれにしても、結末部の荒廃した屋誓前国守邸ではな <、﹁作者﹂ブ家の家であることを鰯岫しておきた 0 し ところで、右の簸加意則提とするならぱ、﹃克日記﹄作小でしぱしぱ言及される亡き女児をめぐる従来倫性、再検討 ^、ざるをえないだろう。帰宅の^而の^この{永にて生まれしをんなごのもろともにか^らねば、いか^はかなしき^とい、フ記 述にょって、士佐国で亡くなった女児は﹁作者﹂工永の子供であって、前国{寸の子ではないことは明らかではないか。そうい えば、作中、前国守(船君)が亡き女児の父親であるとはどこにも亭れていないし、亡き女児の母親奇国守嬰であると も書かれてはいない。そもそも前国守の妻の存在すら、作中に明記されてはいないのである。われわれは前国守(船君)の一 家ではなく、^^^^の工永に目を向けてみなけれぱならないのではないか。 ﹁作名﹂のマ家が作中はじめてクローズアップされるのは十二月二十七日条である。冒頭の﹁廿七日、大津より浦戸をさし てこぎいづ﹂は、前国{藁団の動静を伝える通常の記"が、このあと﹁作名﹂一家に焦占讐叔られる。 7 かくある、つちに、京にて生まれたりしをむなご、国にてにはかにうせにしかぱ、このごろのいでたちいそぎをみれど、な にごともいはず。突かへるに、をむなごのなきのみぞかなしび恋ふる。あるひとびともえたへず。このあひだに、ある
ひと忠きていだせ凧
みやこへとおもふをもののかなしきはかへらぬひとのあれぱなりけり またあるときには Ξあるものとわすれつつなほなきひとをいづらととふぞかなしかりける といひけるあひだに、かこの崎といふところに ﹁かくあるうち﹂とは、前国守一行が出火張備(﹁いでたちいそぎ﹂)にいそしんでき而問をさすが、尋お喜ぴに沸き立つ 周囲とは異なり、この一家の人々は女児を失った悲しみのためにひっそりと沈み込んでいる(﹁なにごともいはず﹂)のである。 船小の様子を共体的に思い拙いてみるならば、前国守(船君^のブ家をはじめ、いくつかの家族やグループが、船室のあちこ ちに陣取っており、﹁作者﹂一条卜Πめた一隅のみ、やけに静かなのである。﹁あるひとびと﹂とは、﹁作者﹂工永のそぱ距、 を占め、その恋しみを知る人々なのであろう。.一首の歌は家傍誰かの作で、この二首は﹁作名﹂とその家族にょって共有さ れたのである。^^目きていだせる^という、沈黙の中での^のやりとりは、この家^の沈み込んだ雰囲ル丸をよくあらわしてい るといぇよう。﹁かくあるうちに﹂で始まった﹁作老﹂一家のクローズアップは﹁といひけるあひだに﹂で打ち切られ、﹁かこ の岫といふところに﹂以下、一行の動師を伝える恕巾の叙述に一民っている。 次に﹁作名﹂丁家に象1が当てられるのは一打1 一日条である。六羊から虫海へ向かう航海中にさしかかった羽根という所 の名を朋いて﹁わかきわらは﹂が幼い一言を述べ、それをきつかけに﹁をんなわらは﹂が歌を馨。この﹁わかきわらは﹂の かわいい三県亡き女児を相超させ、一家はふたたびクローズアップされる。 この羽根といふところ問ふわらはのついでにぞ、またむかしへびとをおもひいでて、いづれのときにかわするる。けふは まして母のかなしがらるることは。くだりしときの数はたらねば、ふるうたに、数はたらねどかへるべらなる、といふこ とをおもひいでて、人のよめる よのなかにおもひやれども子をこふるおもひにまさるおもひなきかな 8
といひつつなむ。 ^いづれのときにかわするる^とは、女児を亡くしたブ家に限られた思いであり、ここでマ家に焦点^缺^られたこと^わかる。^母 のかなしがらるることは﹂とあって、亡き女児の母§荻語が使用されている(ただしここに限られる)ことからは、﹁作者﹂ が亡き女児の母の妹、あるいは義妹(亡き女児の父の妹)といった関係にあることが示唆されているようである。これまでに も述、、^てきたように、^作^^^{永族の中で、あるいは前国守集団の中でもグレードの高い位超にあることから老えて、^女 が亡き女児の乳母である今まり丁家の使用人である)とは考えられない。陛家族の一員にょって詠まれ、しぱらく彼ら一 ・家のことぐさとなったのである(﹁いひつつなむ﹂)。 二月四日、船は泉州のある^碧き^に停泊中である^、^このとまりの浜には、くさぐさのうるはしき目<、石などおほかり^ ということを知らされて、あるいは実^に綺脆な貝や石を見^られて、LL^児工永の恋しみは^北^する。 かかれば、ただむかしの人をのみ恋ひつ?船なる人のよめる よするなみうちもよせなむわが恋ふるひとわすれがひおりてひろはむ といへ ある人のたへずして、船のこころやりにょめる 、 わすれがひひろひしもせじしらたまを恋ふるをだにもかたみとおもはむ となむい^る。をんなごのためには^をさなくなりぬ、、^し。たまなら^もありけむを、と人いはむや。されども、^し子 かほよかりき、といふゃ、つもあり。なほおなじところに日をふることナ遅きて、ある女のよめる歌 ^かかれば﹂を指標として﹁作者﹂マ家がクローズアップされる。三首の歌は、一方は忘れ貝を拾おうと歌い、他方は逆に拾 9 れ ば
うまいと^う。この^↑^に吐刑ちたやりとり^^親をさなくなり兎、^し^と^^^^にょって、^される。^作者﹂は女児の厩^ ではないだけに、悲しみの中にあっても最小限の客観性を紲持しているのである。﹁たまならずもありけむを、と人いはむや﹂ とは、^^^^^この一家の二貝としての立^から、他^の眼を音^している。^なほおなじところに^以下、焦点は工永をは なれて通常の記述に一灰り、船旅のはかどらないことを映く一行の思いが、^ある女﹂の歌にょって代弁される。 次の二例では、亡き女児の工永というよりも、母その人がクローズアップされている。まずは二月五日の条で、船は住吉に さしかかり、﹁ある人﹂が﹁すみのえの松﹂を詠んで老いを咲いたところ、繁脚﹁すみのえ﹂倫発されて、母は﹁わすれ草﹂ ナ匝想する。 ここにむかしへ人の母、ひと日かたときもわすれねぱよめる すみのえにふねさしよせよわすれぐさしるしありやとつみてゅくべく となむ。うつたへにわすれなむとにはあらで、恋しきここちしぱしやすめて、またもこふるちからにせむとなるべし。か くいひてながめつつくるあひだに ﹁ここに﹂を指標として亡き女児の業クローズアップされ、﹁かくいひて﹂から祭は通常の船旅のそれへと戻る。歌は二月 四日条の﹁よするなみ1﹂に類似する。 二月九日条では、^人みな船のとまるところに、子をいだきつつぉりのりす^という光"京に触^北されて、母^一、献^する。 これを見て、昔の子の母、かなしきにたへずして なかりしもありつつかへる人の子をありしもなくてくるがかなしさ
-10-といひてぞなきける。父もこれをききて、いかがあらむ。か、つや、つのことも歌も、このむとてあるにもあら、ざるべし。も ろこしもここも、おもふことにたへぬときのわ、ざとか。 母の^は^ただごと歌^めいてはいる^、それでも^思ふことにた^ぬ時^の古^^のこもった^は人の心を^つことがあると 作者貧之^は読者に教尓しようとしているかのようである。ところで、ここは亡き女児の父の存在が明記されている唯一の 場面であるが、それが前国守(船君)その人であるとは読み取れない。亡き女児の父親にふさわしい若い男を想像しておけば いと思うのである。 い 以上取り上げた五例のうち、あとの二例は、船客の一人として亡き女児の母が取り上げられたにすぎないと見なせるかもし れない。しかし先の三例においては、﹁作者﹂や亡き女児の母などにょって構成される一家の存在に焦点が当てられ、クロ ズアップされていると読み取ることができるのであり、それは巻末の﹁作者﹂工永の保{揚面と同様の、{謬の愽昂であると 言えよう。 巻末部の、和歌のやりとりを再掲しよう。 かかるうちに、なほかなしさにた^^して、ひそかに、^しれる人とい^りける^ むまれしもかへらぬものをわがやどに小松のあるを見るがかなしさ とぞいへる。なほあかずやあらむ、またかくなむ 見し人の松のちとせに見ましかばとほくかなしきわかれせましや 忘れがたく、くちをしきことおほかれど、えつくさず。とまれかうまれ、とくやりてむ。 、
-11-これ発に引いた1二河二十七日条や三月四U条における、﹁作者﹂房永の和腎唱和と語て類似していることは明らかだ ろう。これら'例において大きな特徴と言えるのは、歌の作者が里ルされていないということで、家族の誰かにょって詠まれ た歌が家族全員にょって共有され、くりかえし唱和され、ついにはもとの作者か誰であったかなどどうでもよくなっている様 相が一牙び上がる。﹁ひそかに心しれる人といへりける歌﹂の﹁と﹂(﹁の﹂でも﹁に﹂でもない)にも、そのことは明らかに 、 し ^^^^よう。 ^^^^^亡き^児の両親と同じ,家族の一員であり、家^の小で一定の発言机を村する女^であったこと、また、前国守^船 君)集団の中にあってもグレードの高い位置にある女竺あったとされていることを述べてきたのであるが、この女性か作者 ^貰之^にょってどのように、^^されているか、U'取ル佼に小ノしぎぇておきたい。 私は前稿において、二月五Π条の、住吉の沖合を航行小、風波のために鄭船しそうになった時、住吉明訓に鏡を夫中って難を (1、ι 逃れたエピソードを取り上げ、次のように述へた。 この場而で^^^^は、件古明杣に^して、ずいぶん綱当たりな文而を迎ねている。住吉の袖は絢杣であるから^一旭唐使 ^には^吉の御か祭られていたことか一入^求法^礼行記^に同ルえる^、その^^に触れるような文言は、航海四、^^土に 買任のある男たちにとってはタブーであろうか、この女性﹁作名﹂は、そんなことにはお構いなしで、﹁住の江、わすれ背十、 芹の姫松﹂といった集口の和歌的イメージが傷つけられたことに、ひたすら欠望している。そういう人物として女性﹁作 、 し 者﹂蝶形されているということなのである。 四
-12-賀之は土佐国か、品路尋小する一団の禁署であるから、一団の生命則産を守急<任を担っており、しかもその財産のおおむ ねは、次の役職に就くまでの周、一族懸お生活を支える重要物資であったにちがいない。かくして貰之の心労は並大抵のも のではなかったであろうか、河參仮、落ち着きを取り戻した賀之か旅での経験を振り返った時、一団の中の、月分とは立場を 異にする人々は、あの旅をどのように経験したのかについて、想いを致すことがあったのではないか。 単Zと全く立場を異にする人物、それは女性にほかならない。多少なりとも航海の一女全に責任をもち、力をつくすこともで きる男性たちとは界<なり、御仏の架畭と男たち倫動にすべてを委ねる一力で、安<途航の賀任を一切免除されている女竺 そか、買之とは大きく異なった、帯と祝点とをもって旅を峡瑞したはずである。一女性を﹁作者﹂とする仮名品を望が構 想するに至った理由も、このあたりにあったのではな 0 日秀﹁作者﹂としては、文筆に秀で、和歌に三壽をも礁明な女性が設定されるのがψ犀であろうし、{際そのように 一牙取れる。しかも彼女は、身内の女児が亡くなっ究tみの渦中にあっても、ぎりぎりの客観性を保持している。そのよう な^^^^^、王^をあらわにしているの^、^に・^リ^げた一^河^日久^の^^口沖のエピソードであったといぇよう。 航海の系に女任を持たない女性﹁作者﹂の主観がよくあらわされているのは、梶取に対する評価である。たとえば一月三 ︹よ6) ト日の久水。河のない深夜阿波国土佐の泊^^徳易県児門市鳴円町士佐泊^を出港した^は、鳴門河咳を渡り、^明け前に沼 島沖を通過し、涙紛妙を渡り、多奈川沖を迪過して、証芋呆州倫に達している。まさに陀坤一胤、珂缶としか言いようの ない^海で、^^の功織はたたえられてしかる、、^きかと思、つ^、^^^^は^かみほとけのめぐみ、かうぶれるににたり^と 轡きつけるだけで、梶取については何の一長もない。 、 し 航海中第一倫所ともいうべき室戸岬越えを果たした一月二十一日の条においても、梶取の判断や操船術への黛貝の嘉水は どこにもなく、^^のなにげない一^一罪来を耳にとめて、^人のほどにあはねば、と^むるなり^などと、いいル丸なことを^言って 、 し いる。航海安全という至上命令を{遜土に果たした梶取に対して、前国守(船君^や主立った男性たちの評価は高かったであろ し、 か
-13-うが、﹁作者﹂にかかればこの通りなのである。そういぇば、先にとりあげた二月五日の住吉沖の一件についても、梶取の適 切な助言にょって難船を免れたという見方もできるであろうが、﹁作者﹂はそのようには発墾きない人物として造形されて いるのであり、女性の魂ともいうべき傍喪失を、ひたすら﹁くちをし﹂がっているのである。 一方、二g四日の条では^^・^、けふ、か^くものけしきはなはだあし、と一^西ひて、^いださ^なりぬ。しかれども、ひね もすになみか^たた^。この^^は、Πもえはから^かたゐなりけり^と^まれ口をたたいている。^^の功ル^には々^、づこう ともしない﹁作名﹂であるが、そのわずかな判断ミスをあげつらって﹁Πもえはからぬかたゐなりけり﹂とまで言い放つ倣慢 さ。こ倫でこそ好天の一日であったが、もし船出していれば、ひょつとすると梶取の希掻り、行く先では風波に肱批して いたかもしれないと想像することもない。安全延飢に賀任をもたず、したがって梶取に対しては嫌亜蔵しか見えてこない﹁作 名﹂の帯があらわである。このあたりに、作者貫之にょっ五形された女性﹁作者﹂像の語が明らかに見て取れると思う のである。 本猯では、﹃士左Π記﹂巻末倫宅の場而が、従来一牙れているような勺"之邸へ倫宅ではなく'則国守(船君)邸への 帰宅でもなく、﹁作者﹂一家の家への帰宅であることを示した。そのように考えるならぱ、作中しぱしば一菩及される亡き女 児は、﹁この家にて生まれしをんなご﹂とあるからには、この家の夫婦の子供であり、前国守(船君^の子供ではないし、ま して貫之の子供ではありえない。﹁作者﹂はこの家の火婦のいずれかの妹で、、謬の中で一定の発一易を有する人物と私は推 定したが、もちろん作者貫之が﹁作者﹂の立場をどこまで具体的に想定していたかはわからない。 品に﹁をとこもすなる日記といふものを、をんなもしてみむとてするなり﹂と宣§れている通り、﹃土左R記﹄は一女
おわりに
-14-傍1として創作された作品である。﹁作者﹂が時たま静文の知識を披歴したりすることをもつて、﹁女性仮託﹂の構灣 破綻と評されることがあるが、それは﹁作者﹂が漢詩文にも関心をもつ進取的な女性として造形されているとぢぇるべきなの であって、墜枇ではない。そもそも﹁女性仮託﹂とい、つ、﹃士左日記﹄研究においてしばしば使用される言梨は、﹃士左日記﹄ 、 し は勺"之宗日記であり'とは仮にわか身を女性に託して作品を執筆したのであるという可字以来の森的な考え方に拠っ ていよ、つ。^かに^士^日^^の^^^貫之であることに疑いはなく、貰之の{夫^験^^口叩に反映しているであろうことも、 容易に想像できる。しかし、﹃士左日記﹄は貫之にょって創作されたフィクションであり、﹁作者﹂とされている女性は買之に よって創造されたキャラクターであると考える本曾立場からすれぱ、﹁女性仮託﹂という見力には同開できない。﹃士左日記﹄ 女性を主人公とし、その女性のH記という形式で書かれた物語であると考えた は 0 い 、●﹂↓ ι (1)徳原茂.笑﹁光日、四船のをさしける翁﹂について←出{寸(船裂)像の磁定ヘ1﹂(﹃武ポΠ国文﹄第七八号平成二1六手1珂) (2)このように、国・一寸四於敷の機能について考えてみるならば、国守の妻が夫に同行せず都倫残■合、京●の管里運営のためこあ えて都にとどまるというケースもありうるのであって、必ずしも地力嘩山を厭う退嬰的な心恬にょるものとばかりは言えないのではない か 倫心英や孝樗亥の場合につぃても、このような視点からの冉検製必.ぢあろう。服藤1氏は采成立史の1﹄(平戊三f三月0 校介洪房)第二割第一章﹁摸関期における薪の家と・謬彬Υ三河{隙経相の場介1﹂においてゞ姦の妻がブ家の家政のみならず則 政に塗るまでとりしきつていたことを指抽している。ただし、服藤氏が取り上げているのは長唾一年全 0三九)に没した源経柳の妻の ケースであり、賀之や倫坤とは塒代的にかなりへだたりがあることは血幾しておかなければならない。 (3)﹃紫式塑﹄一八、一九番歌は、越前に沸在中の紫式部と、肥Nへ下向した友人と倫答歌であるが、このやりとりについて、出茗宅糸 式舗染の汀解私﹄(平成二十年十一河利泉上燒)に、次のように述べた。
-15-肥前からの友人の千紙は、主人の任地から詔勺宅へと上京する友人・家の使者に託され京の友人宅、式剖宅を経Ⅱし、式剖宅からキ 人の任地へ十陶する為時家の使名にょって越前の式都のもとへと届けられたのであろう。一八番歌1かれた式都の乎誓、これと は逝のコースをたどって肥前の友人のもとに届けられたにちがいない。一九番歌烈吋に﹁返し、又の年もて来たり﹂とあるように、 応酬に多くの河Hを要したのは、もちろん妃前と越架途くへだたっているせいでもあるが、このように'たま必要あって立てら れる使名に乎紙を託さざるをえないために、愆外と長い村Πを叟する結宋となるのであろう(県.U五二ページ)。 (4)一鳥守、補の送別のおぉける﹁作右﹂については注(1)四糊参吸 ^5^一河一厶Π^水、^吉沖^口の^、仰の^し^は^の^り。 かく而ひてながめつっ来るあひだに、ゆくりなく風ふきて、こげどもこげども、しりへしぞきにしぞきて、ほとほとしくうちはめつべし。 梶取のいはく、この隼口の明杣は、れいの都ぞかし。ほしきものぞおはすらむ、とは今めくものか。さて、ぬさをたてまつりたまへ、と 、Uふにしたがひて、ぬさたいまつる。かくたいまつれれども、もはら風やまで、いやふきに、いやたちに、風波のあやふけれぱ、 枇取またいはく、ぬさにはみ心のいかねば、み船もゆかぬなり。なほうれしとおもひたぶべきものたいまつりたべ、といふ。また吾ふに したがひて、いかがはせむとて、まなこもこそ二っあれ、ただひとつぁる鏡をたいまつる、とて海にうちはめつれぱくちをし。されぱう ちつけに、河は鏡のおもてのごとなりぬれば、ある人のよめる歌 ちはやぶる神の心をあるる海に鏡をいれてかつみつるかな いたく化の汀、忘れ"・、邦の如松などいふ訓にはあらずかし。男もうつらうつら、鏡に杣の、心をこそは見つれ。梶取の、心は杣のみ心なり (6)一打三十Π条の企文は次の通り。 海賊は夜あるきせざなりと削きて、夜小ばかりに船をいだして、阿波のみとをわたる。夜小なれぱ西ひむがしも見え 雨風ふかず 0 0 川H ず。をとこキ﹂むな、からく杣ほとけをいのりて、このみとをわたりぬ。寅卯のときばかりに、ぬしまといふところを過ぎて、たながはと けり -16-し、 方、
いふところをわたる。からく急ぎて、和泉の灘といふところにいたりぬ。けふ、海に波ににたるものなし。袖ほとけの恵みかうぶれるに にたり。けふ、船にのりし日よりかぞふれば、みそかあまりここぬかになりにけり。今は和泉の国に来ぬれば、海賊ものならず。 (7)﹃士九日記﹄の冒頭文について、小松雄氏は薫凹﹃古典再入門﹃士左日記一を入りぐちにして﹄(平成十八年十一月笠鼎院)に おいて、従来の解釈を全亀しておられるが、到底{需できない。同氏説へは稿を改めて批判を加える予定である。 (とくはら・しげみ本学教授) -17ー