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北海道の就学告諭

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Academic year: 2021

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二七   札幌区役所編、一九一一年、復刻一九七三年、名著出版、五六四頁。 二八   北海道庁内務部編、一九一八年八月、八頁。 二九   ﹁五年二月十二日札幌本庁各課係院館諸充達﹂ ﹃札幌区史﹄五六五頁。 三〇   ﹁開拓使公文禄   原稿﹂明治五年   学制之部、北海道立文書館蔵、簿冊番号 5733 。 三一   六頁。なお、井上は、前掲の﹁会庁規則﹂もプリントの五頁に掲載しているが、史料元は﹁会議書類   明治五 壬申年十月   庶務懸﹂ ︵北海道立文書館蔵、簿書 00433 ︶であり、筆者と違う。 三二   原著一八八五年、復刻一九八五年、北海道出版企画センター。 三三   ﹁部下布達達録   記録課回達﹂無号之部   明治八年、北海道立文書館蔵、簿書 01304 。 三四   第二巻通史二、 九一二頁。 三 五   ﹃ 近 代 日 本 黎 明 期 に お け る ﹁ 就 学 告 諭 ﹂ の 研 究 ﹄︵ 四 七 四 頁 ︶ と ﹃ 就 学 告 諭 と 近 代 教 育 の 形 成 │ 就 学 勧 奨 と 学 校創設﹄ ︵第三部資料編︶ 。 三六   北海道立文書館蔵、簿書 01304 。 三七   函館市史編さん室編、通説編第2巻、一九九〇年、一二〇八頁。 三八   第三巻通史二、 九一三頁。 三九   全道編一、 一四五頁。 四〇   通説編第2巻、一二〇八頁。 四一   同上。 四二   前掲﹃就学告諭と近代教育の形成│就学勧奨と学校創設﹄第三章。

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一〇   同上、九一一頁。 一一   同上、九三〇頁。 一二   同上、九七四∼九七五頁。 一三   同上、九四九頁。 一四   第三巻通説二、 一九七一年、九一一頁。 一五   北海道教育研究所編、全道編一、 一九六一年、一四二頁。 一六   この部分は、 ﹃新北海道史﹄ ︵第三巻通説二、 九一一頁︶を参照した。 一七   ﹁開拓使日誌﹂ 、ただし﹃新北海道史﹄第七巻史料一、 一九六九年、九四五頁を使用した。 一八   全道編一、 一四四頁。 一九   民事局﹁明治五年壬申九月ヨリ至十一月   市在諸達留﹂ 、北海道大学図書館北方資料室蔵   道資料 162 。 二〇   井上高聡﹁開拓使の学校教育政策の始動﹂北海道歴史研究者協議会例会発表レジュメ、 二〇一三年七月二十日、 一七頁の注 23。 二一   前掲﹃北海道教育史﹄全道編一、 一四三∼一四四頁。 二二   同上。 二三   前掲﹃新北海道史﹄第三巻通史二、 九一二頁 二四   札幌市教育委員会編、第二巻通史二、 一九九二年、三七八頁。 二五   ﹃北海道教育史﹄全道編一、 一四三∼一四四頁。 二六   第二巻通史二、 三七八頁。

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る。 学 制 布 告 書 の 内 容 と の 一 致 は、 川 村 論 文 に よ れ ば、 ﹁ ① 立 身 昌 業 の た め に は、 身 を 修 め 智 を 開 き 才 芸 を 長 ず る こ と が 必 要 だ ﹂﹁ ⑤ 不 学 だ と、 道 路 に 迷 い、 飢 餓 に 陥 り、 家 を 破 り 身 を 喪 う ﹂﹁ ⑪ 学 ぶ に は 順 序 が 大 切 だ ﹂﹁ ⑱ 学 費 や 衣 食 が 支給されないと学ばないというのは間違いだ﹂の四点であり、筆者も同意する。また就学勧奨の論理としては、六つの 視角を直接用いてるわけではないが、 ﹁外国﹂ではなく他県と比較し、自尊心をくすぶるという説明論理を用いている。 また学問はあくまで﹁旧習を否定﹂したうえで、 ﹁立身出世﹂というメリットのためであることから、 ﹁国家﹂や官に資 金を頼ることはすべきではない、という説明も行なっている。   注 一    就 学 告 諭 研 究 会 の メ ン バ ー に よ っ て 検 討 し、 定 義 づ け を 行 な っ た。 ﹃ 就 学 告 諭 と 近 代 教 育 の 形 成 │ 就 学 勧 奨 と 学校創設﹄東京大学出版会、二〇一六年二月発行予定の第一章にくわしい記述がある。 二    ﹃近代日本黎明期における﹁就学告諭﹂の研究﹄第三章第二節︵東信堂、二〇〇八年、二四〇∼二六八頁︶ 。 三    前掲﹃就学告諭と近代教育の形成│就学勧奨と学校創設﹄第一部第四章。 四    ﹁開拓使事業略記﹂ 、ただし北海道編﹃新北海道史﹄第七巻、史料一、 一九六九年の一三五九頁を使用した。 五    ﹁開拓使事業報告﹂ 、ただし﹃新北海道史﹄第九巻、史料三、 一九八〇年の七七一頁の表を使用した。 六    同上﹃新北海道史﹄一〇二二頁。 七    同上、八〇二∼八〇九頁。 八    同上、八二八∼八二九頁。 九    同上、八八〇∼八八一頁。

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  四   おわりに   以上、北海道の三点の就学告諭について、内容分析と学制布告書との対比などを通じた特徴の把握を行なった。   明治初頭の北海道は、開拓が始まったばかりであり、学制そのものも施行しなくてもよい地域とされた。そのような なかで、明治五年以降、三種の就学告諭が、札幌本庁︵明治五年十一月︶ 、根室支庁︵明治七年五月︶ 、函館支庁︵明治 八年三月︶によって出された。本論では、根室支庁の一次資料と函館支庁の原案を紹介することができた。根室支庁の 告諭については、内容においてより丁寧な説明をしていること、これまで﹁書式略﹂とされていた入塾の様式が新たに 発見された。函館支庁の告諭については、若干の文字の異同が明らかになった。   学制布告書との関係については、札幌本庁の告諭は、学制制定の影響を受けていないと思われ、農業に従事する者で あっても、 筆算所で勉強させるために、 筆算所を各村に設立せよという内容である。学制布告書の内容との一致は、 ﹁⑬ 子弟をして学に従事させよ﹂の一点であると判断した。また就学勧奨の論理としては、本論で述べた六つの視角を直接 用いず、農業に就く者であっても勉強をしないと罪科に陥るかもしれないというデメリットの説明方法が用いられてい ることを明らかにした。   根 室 支 庁 の 告 諭 は、 ﹁ 凍 餒 ノ 民 ナ ク 家 ニ 不 学 ノ 子 勿 ラ シ メ ン ﹂ と い っ た 文 言 か ら 学 制 制 定 の 影 響 を あ る 程 度 受 け て い ると思われる。学制布告書の内容との一致は、⑩﹁人は学ばなくてはならない、不学の人がないようにせよ﹂と⑬﹁子 弟をして学に従事させよ﹂に二点であると判断した。また就学勧奨の論理としては、六つの視角を直接用いているわけ ではないが、 ﹁外国﹂に関連して﹁開化ノ域﹂という文言を用い、また、 ﹁勤め﹂を欠いた場合のデメリットの論理を用 いている。さらに、 ﹁旧習の否定﹂に関連して根室の﹁土地ノ習風﹂として﹁遊堕放迭﹂の風をあげている。   函 館 支 庁 の 告 諭 は、 ﹁ 去 ル 壬 申 七 月 学 制 創 定 以 来 ﹂ で 始 ま る こ と で わ か る よ う に、 学 制 制 定 の 影 響 を 大 き く 受 け て い

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  ﹁ 親 ﹂ ↓ ﹁ そ れ を し な い ︵ さ せ な い ︶ の は 誰 々 の 責 任 で す よ ﹂ と い う 義 務 担 当 者 ・ 債 務 者 で あ る 対 象 と し て 親 が 選 ば       れて説明する方法   ﹁ 女 性 ﹂ ↓ ﹁ 何 々 で す ら 、 こ う す る こ と が 必 要 な の で す ﹂ と い う 最 も マ イ ナ ー な 対 象 者 と し て 女 性 が 選 ば れ て 説 明 す        る方法   それでは、この六つの視角 ・ 方法が、札幌本庁、根室支庁、函館支庁の就学告諭にどのように使われているだろうか。   まず、札幌本庁の就学告諭においては、この六つの視角それ自体は使われてはいないと思われる。しかし、農業をや るとしても文字を知らず、筆算を学ばなければ収穫が少なくなり、さらに触達などを読めずに罪科に陥るかもしれない というデメリットを用いた説明を行なっている。続いて根室支庁の就学告諭においては、外国に関連して、新しい世の 中が到来したとして、子弟を﹁開化ノ域﹂に進ませる必要性を説いている。また、勤めることの大事さを説いて、もし 一日勤めを欠くと、 ﹁十日ノ貧困ヲ醸成﹂ するというデメリットの論理を用いている。さらに、 ﹁旧習の否定﹂ に関連して、 根室の ﹁土地ノ習風﹂ として ﹁遊堕放迭﹂ の風をあげている。最後に函館支庁の告諭においては、 まず ﹁外国﹂ ではなく、 ﹁当 所之如キハ日本五︵大︶港ノ一ニシテ他ノ府県の上ニ位シ﹂と他県と比較し、自尊心をくすぶるという説明を用いてい る。また学問はあくまで﹁旧習を否定﹂したうえで、 ﹁立身出世﹂というメリットのためであることから、 ﹁国家﹂や官 に資金を頼ることはすべきではない、という説明も行なっている。ただし、これらが目的・メリットやデメリット、無 意味性へと直接つながっているわけではない。   このようにみてくると、北海道の三点の就学告諭は、就学勧奨の説明を丁寧に行なって就学意欲を高めようという説 得性があまりないと言うことができよう。

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入学せしめ怠惰なき様親々よりも厳重督促致し﹂という部分が同じであると解釈した。意味的には⑤や⑮の内容も含ま れているようであるが、学制布告書のようにはっきりと述べていないと判断した。根室支庁の就学告諭と学制布告書と の一致は、⑩と⑬に二点であると思われる。根室支庁の就学告諭にある﹁凍餒ノ民ナク家ニ不学ノ子勿ラシメント欲ス 其父母タル者ハ子弟ヲシテ学業進達ノ一途ニ勉強セシムヘキナリ﹂という部分が同じであると解釈した。二つの就学告 諭ともに、平均一致数よりは低い数字となった。   ︵三︶就学勧奨の論理   前掲﹃近代日本黎明期における﹁就学告諭﹂の研究﹄においては、第三章で就学勧奨の論理を分析した。就学告諭が どのような論理をつかって、就学を勧奨したかを五つの視角から分析したのである。その五つの視角とは、 ﹁国家﹂ ﹁外 国︵対外危機意識︶ ﹂﹁旧習の否定﹂ ﹁親﹂ ﹁女性﹂である。また﹃就学告諭と近代教育の形成│就学勧奨と学校創設﹄に おいても、筆者が﹁立身出世﹂という視角で就学勧奨の論理を分析した。これら六つの視角は、人に就学させるための 説得論理であるとも言える。六つの視角をそれぞれ述べると次のようになる。   ﹁国家﹂ ﹁立身出世﹂↓﹁何々のために、こうするのですよ﹂という目的・メリットを説明する方法   ﹁外国︵対外危機意識︶ ﹂↓﹁何々しないと、かくかくしかじかになって困りますよ、怒られますよ﹂という脅威・        デメリットを説明する方法   ﹁ 旧 習 の 否 定 ﹂ ↓ ﹁ 何 々 す る こ と は 無 駄 で す 。 そ う し て い る と か く か く し か じ か と い う 状 況 に な り ま す よ ﹂ と い う 無           意味性や未来予測を提示して説明する方法

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バ ー と と も に、 そ の 長 さ︵ 文 字 数 ︶、 論 理 的 内 容、 形 式 と い っ た 諸 点 か ら、 民 衆 に 向 け て 告 げ 諭 す 行 為 =﹁ 告 諭 ﹂ と 呼 ぶにふさわしい資料で、学制布告書発令以後に出された告諭から六十一件を選んだのである。北海道からは、函館支庁 の就学告諭が選ばれている。筆者は、学制布告書と各府県の告諭との一致点を把握するという川村が行なった分析方法 を、 北海道の他の二つの就学告諭にもあてはめて検討したいのである。なお、 就学告諭は上記の基準から、 AA 、 A 、 B 、 C という四つに分類された︵川村は、 そのうち AA を選んでいる︶ 。北海道に関しては、 函館支庁のそれが AA で あ り 、 札幌本庁および根室支庁のそれは A と判断された。   まず、学制布告書と函館支庁の就学告諭との関係について、川村は一致するのは四点であると判断した。①について は、学制布告書そのものである﹁人々立身治産昌業﹂をひかれており、また⑤についても﹁遂生之道ニテ夫ノ道路ニ迷 ヒ飢餓ニ陥リ家ヲ破リ身ヲ喪フ﹂とそのままが引用されている。また⑪については、後半部分に﹁自今以後一層注意ヲ 加ヘ其適宜ヲ考ヘ悉旧弊之害アルモノヲ除却シ専ラ学制ノ旨趣ニ基キ順次施設可致候﹂とある。ここは教育内容につい て述べている部分であり、学制で示したとおりの順序を守って行なうようにと指示しているのである。最後の⑱につい ては、たとえば﹁一身上之務ナルヲ以テ費用ハ悉ク民間ニ課シ﹂といった文があり、論全体があくまで自分のために学 問をするのであるから、国家に頼るのは間違っているという流れになっている。   川 村 が 採 用 し た 六 一 件 の 告 諭 に お い て 平 均 一 致 数 は 三 ・ 六 で あ り、 一 致 率 は 二 割 ほ ど で あ る。 し か し 突 出 し た 数 字 が あ る た め、 一 致 数 上 位 三 告 諭︵ 一 致 数 一 五 ︶ と 下 位 三 告 諭︵ 一 致 数 〇 ︶ を 除 い て 平 均 す る と、 一 致 数 は 三 ・ 二 と な る。 これからすると函館の一致数四はやや高いが、ほぼ平均なみであると把握できる。それではこれを、札幌本庁および根 室支庁による就学告諭でみてみるとどうなるであろうか。   札幌本庁の就学告諭と学制布告書との一致は、⑬の一点であると思われる。札幌本庁の就学告諭にある﹁子弟とも共

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   ③学問は日用常行言語書算を初め、士官農工商百工、技芸及び法律政治天文医療に関連する    ④人の営みに学問は不可欠    ⑤不学だと、道路に迷い、飢餓に陥り、家を破り身を喪う    ⑥学校は古くからあるが学び方が悪かった    ⑦武士でまれに学ぶものも学問が立身の財本であることを知らなかった    ⑧従来の学びは詞章記誦の末に趨り、空理虚談に陥り、高尚に見えたが役に立たなかった    ⑨学問が役立たなかったため、文明が行き渡らず、貧乏破産喪家が多かった    ⑩人は学ばなくてはならない、不学の人がないようにせよ    ⑪学ぶには順序が大切だ    ⑫父兄は愛育の情を厚くせよ    ⑬子弟をして学に従事させよ    ⑭男女の別なく小学に従事させよ    ⑮子弟を小学に行かせないのは父兄の越度である    ⑯学問は武士以上の事と考えるのは間違いだ    ⑰﹁国家﹂のために学問するから資金を出せというのは間違いだ    ⑱学費や衣食が支給されないと学ばないというのは間違いだ     また全国各府県で収集された就学告諭のうち、対象となるものを次のように選んだ。すなわち、第二次研究会のメン

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は文部省布達第四十二号が出されて、第八大区制が第七大区制に変更されている。これらの動きと北海道・根室支庁が 全く関係なかったとは考えられない。第二に、根室支庁の就学告諭に見られる文言である。前述したように﹁村ニ凍餒 ノ民ナク家ニ不学ノ子勿ラシメント欲ス﹂の部分は、学制布告書の﹁必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん 事を期す﹂と関係性があると筆者は考える。第三に、内塾規則の内容である。これまた前述したように、これには近代 的な要素がある程度見られると筆者は判断する。   最後に、函館支庁の就学告諭である。これについては先行研究においても、 ﹁学制の一部施行についての告諭であり﹂ としているように、学制の影響下にある告諭である。明治八年三月発令という時期、そしてその内容からも、このこと は間違いないであろう。   ︵二︶学制布告書の内容との関係   よって学制との関係は、札幌本庁の就学告諭はおそらく﹁なし﹂ 、根室支庁のそれはある程度関係﹁あり﹂ 、函館支庁 のそれとは非常に関係﹁あり﹂と考えた。以下では、さらに学制布告書の内容と関連づけて論を進めたい。筆者と就学 告 諭 研 究 会 で 一 緒 で あ っ た 川 村 肇 は、 二 冊 目 の 著 作 の 第 一 部 第 三 章 で﹁ 学 制 布 告 書 と 就 学 告 諭 の 論 理 ﹂ 四 二 を 執 筆 し て いる。川村論文の目的は、学制布告書と各府県で出された就学告諭の論理の異同を調査することによって、その論点形 成と論理遷移を明らかにしようとするものである。まず川村は、学制布告書の内容を以下の十八項目にまとめている。    ①立身昌業のためには、身を修め智を開き才芸を長ずることが必要だ    ②身を修め智を開き才芸を長ずるには学問が必要だ

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導・監督させたが、学務世話係の場合はそれほど強い拘束力は無く、むしろ奨励や世話という啓発的な意味合いを持っ たものだった 四一 ﹂とある。   三   学制︵学制布告書︶などとの関係   ︵一︶学制との関係   以上のようなまとめから、三点の就学告諭と学制との関係について、先行研究では次のように指摘していたことが明 らかになった。ここでは一つずつの告諭についてまとめつつ、筆者の考えを述べる。   まず札幌本庁の就学告諭については、学制の趣旨を踏まえたものであるとするものと、そうではないとする先行研究 があった。筆者は学制の趣旨を踏まえたものではないと理解する。なぜなら、この立場に立つ先行研究が指摘している ように、明治五年十月に出された会庁規則とおそらく十一月十二日に出された布達の二つをうけて、十一月十八日に札 幌 本 庁 の 就 学 告 諭 が 出 さ れ た と 考 え ら れ る か ら で あ る。 そ の 際 の キ ー ワ ー ド は﹁ 筆 算 指 南 所 ﹂﹁ 筆 算 教 師 ﹂ で あ る。 会 庁規則には﹁筆算指南所ヲ設ケ村民ノ子弟ヲ御教育﹂するようにしたいとある。また、十一月十二日の布達にも﹁当札 幌部下﹂にはいまだ﹁筆算等修行ノ場所﹂がないとする。それをうけて、本庁の就学告諭は﹁今各村エ筆算教師﹂をお いて﹁広く教化﹂を図りたいとするのである。   続いて、根室支庁の就学告諭について先行研究は、直接学制とは関係なく、郷学・寺子屋式教育の促進を主目的とし ているとする。しかし筆者は、学制の影響はあると考える。その理由は三つある。第一に根室支庁の就学告諭が明治七 年五月に発布されたという事実である。 学制は明治五年八月に発布されたわけで、 少 な く と も 一 年 九 ヶ 月 の 期 間 が あ る 。 いくら根室支庁が辺境にあるとしても学制に目をふれていなかったとは考えにくい。前述したように、明治六年四月に

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  ・﹁ 官 ﹂ に お い て も 教 育 の 方 法 や﹁ 其 宜 ﹂ を﹁ 得 ざ る ﹂ 者 が あ っ た。 こ れ か ら は 一 層 注 意 を 加 え て、 旧 弊 の 害 あ る も のを除去して、学制が示す順序に従って行なっていかなければならない。   ・小学校の建築の費用の一切を﹁民間ニ課﹂すことは難しいので、人々が﹁協同﹂して﹁分限﹂に応じて醵金しなく ては、他府県の人民に恥となる。官に依存するのを当然と考えてはならない。   ・以上のように﹁人民一層奮発ノ気﹂を起こすことが必要である。   先 行 研 究 で あ る﹃ 函 館 市 史 ﹄ に よ れ ば、 明 治 八 年 三 月 と い う 時 期 に 函 館 支 庁 が 告 諭 を 出 し た 点 に つ い て、 ﹁ 学 校︵ 会 所 学 校 の こ と ⋮ 大 矢 注 ︶ を 開 設 す る こ と に な っ た 函 館 支 庁 の 次 の 課 題 は 児 童 の 就 学 奨 励 で あ っ た 三 七 ﹂ と 記 し て い る。 ま た、 学 制 と の 関 係 に つ い て は、 ﹃ 新 北 海 道 史 ﹄ は﹁ こ れ は 前 記 の 本 庁・ 根 室 支 庁 の 告 諭 と は 異 な り﹃ 学 制 ﹄ の 一 部 施 行についての告諭と考えるべきであろう﹂とする。続けてその理由として﹁同月に小学教則を定め、翌四月に函館に官 立小学校が設置されて会所学校と称したが、これは本道における普通小学校の最初であった 三八 ﹂を挙げている。   この告諭の内容について﹃北海道教育史﹄は、 ﹁﹃学則﹄の精神を説明し、函館港の日本における位置を強調し、学校 不振の恥をそそぐために、 官民一体となって奨学にはげむべき決意のほどをさとしている 三九 ﹂としている。 ﹃函館市史﹄ も同様であり、 ﹁﹃各府県の人民に恥じざる様﹄心掛けることと、常に他府県を意識させ開港場のプライドを煽るような 形 で 区 民 へ 説 諭 し た 四 〇 ﹂ と し て い る。 た し か に、 前 記 二 点 の 就 学 告 諭 と は 違 い、 拠 出 金 に つ い て ま で 言 及 し て い る 点 が 目 に 付 く。 な お、 ﹃ 函 館 市 史 ﹄ に よ れ ば﹁ 区 民 の 就 学 を 奨 励・ 説 諭 し、 学 校 新 設 に 尽 力 す る な ど、 区 内 の 学 事 を 世 話 す る﹃ 学 務 世 話 係 ﹄ が 置 か れ、 八 年 三 月 戸 長 の 白 鳥 衡 平・ 杉 浦 嘉 七・ 井 口 嘉 八 郎 の 三 名 が 任 命 さ れ た。 ﹃ 学 制 ﹄ で は 土 地の名望家を選んで教育行政の単位である中学区に一二、 三人の学区取締を置き、各取締に二、 三〇の小学区を分担、指

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サル様可心懸候新創ノ際資金不足ヲ生スル分ハ官ニ於テ助力可致候得共之ヲ以テ決シテ当然ト心得ヘカラス前文之 旨趣潜心細読シテ篤ト相弁ヘ人民一層奮発之気ヲ起シ候様可致候仍之壬申第二百十四号御布告更ニ注釈ヲ加ヘ再右 相添此旨相達候条管内不洩様戸々懇切ニ説諭可致事    明治八年三月四日          開拓中判官      杉浦   誠    本紙ハ音訓傍注ヲ加フ    ︹以下、別紙に壬申第二百十四号の太政官布告﹁学制布告書﹂が続く︺   ﹁ 日 誌 ﹂ と の 違 い は ほ と ん ど な い と 言 っ て よ い 。 敢 え て 言 え ば 、 案 で は ﹁ 五 港 ﹂ と な っ て い た も の が ﹁ 五 大 港 ﹂ と な り、他県との比較を強調している点である。   函館支庁による就学告諭の具体的な内容は以下の通りである。   ・学制をうけて、他府県の学校設立の盛況を説明。   ・ 学 制 の 内 容︵ ﹁ 人 々 立 身 治 産 昌 業 遂 生 ノ 道 ニ テ ⋮﹂ ︶ を う け て、 ﹁ 官 ﹂ の 力 に 頼 る こ と な く﹁ 民 ﹂ の 力 に よ っ て 学 校 を設立すべきということ︵学校設立資金について詳しく記してある︶ 。   ・ところが、 ﹁当所﹂では学業不振が続いており、学費を献納するものも少なく、 ﹁官﹂の力に頼ってばかりいる。   ・ 当所は﹁日本五︵大︶港ノ一ニシテ他ノ各縣ノ上ニ位置﹂するのであるから、この有様は恥となる。将来の﹁大成﹂ は不可能である。

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布     無号管内説諭案          去ル壬申七月学制御創定以来全国之学事皆此制ニ拠ラサルナク各府県之如キ駸々トシテ進ミ今日小学設立之盛ナル 一県ニ五百余所ニ及フモノアリ是皆人民ノ人トシテ一日モ学ナカルヘカラサルヲ知ル所以ニシテ又学費納金ノ夥シ         拾        人民 キ一県ニ六七万ヨリ其最多キハ殆ト五百万円ニ至ルモノアリ是皆協同之心ヲ以テ其義務ヲ履ムモノニシテ固ヨリ当 然ノ道ナリ全体学業之義ハ御布告ニも有之通リ人々立身治産昌業遂生之道ニテ夫ノ道路ニ迷ヒ飢餓ニ陥リ家ヲ破リ 身ヲ喪フノ患ヲ防クノ為ナレハ全ク吾カ一身上之務ナルヲ以テ費用ハ悉ク民間ニ課シ政府之務只其為学ノ方向ヲ誤 ラシメサルニ在ルノミ然ルニ当今之事情未タ茲ニ至ラス而シテ人民ノ智ヲ開クコト極メテ急ナルヲ以テ府県ニ於テ         古 モ官□学費ニ充若干之金額ヲ給付スルアリト雖固学区之力足ラサルヲ助救スル迄ノ事ニ候得ハ官ノ助ケヲ以テ自今 ノ当然ト心得ヘカラス将当地之人民従来学事ニ心掛ケ厚カラス故ヲ以テ学費ヲ献納スルモノ学校ノ不振ヲ憤ルモノ      掃        偶 地ヲ拂テ無之只従前ノ弊風ニ依著シ教育之事ハ官ニ依頼スルノミ遇師家ニ少年ヲ集メ筆算等之業ヲ授ルアリト雖概 皆旧染ニ泥ミ往々汚俗ニ陥リ将来之大成万不可期然ルニ当所之如キハ日本五港ノ一ニシテ他ノ府県ノ上ニ位シ如斯 寥々トシテ有志ノ者無之ハ実ニ各県ノ官民ニ対シ恥ヘキノ至ナラスヤ官ニ於テモ従前教育之方法或ハ其宜ヲ得サル モノアリ既往ハ暫束閣ニ付シ自今以後一層注意ヲ加ヘ其適宜ヲ考ヘ悉旧弊之害アルモノヲ除却シ専ラ学制ノ旨趣ニ 基キ順次施設可致候然ル処差向小学ノ設立書器ノ購求ニ付テハ許多ノ金額ヲ要スル事ニ候得者之ヲ一切民間ニ課シ カタク候得共人々協同ノ心ヲ以テ其義務ヲ履ミ各自貧富之分限ニ応シ金員ノ多寡ヲ不論醵金致シ各府県ノ人民ニ恥

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と ﹁学制序文﹂ の ﹁必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す﹂ とをどのように考えるかが問題となる。 これについては後述する。   ︵三︶函館支庁の就学告諭   最後に、明治八年三月五日に発令された函館市庁による就学告諭である。道内で最も発展していたと考えられる函館 が 最 も 遅 く 告 諭 を 出 し て い る。 就 学 告 諭 研 究 会 に よ る 二 冊 の 著 作 三 五 に は、 ﹁ 函 館 支 庁 日 誌   明 治 八 年 自 一 号 至 三 号 ﹂ の 史料が掲載されているが、 ここでは新たに発掘した ﹁部下布達達録   記録課﹂ ︵無号之部   明治八年 三六 ︶ の案を掲載する。 そ こ に 訂 正 が 入 っ て い る も の が そ の ま ま、 ﹁ 日 誌 ﹂ に 掲 載 さ れ た も の に な っ て い る わ け で は な い の で、 途 中 段 階 の 案 と 考えられる。    史料五        三日検印済   本紙学務係へ廻       中   制官   杉浦         民事課   有竹    □□□        学務係   昆野         庶務課   原   ??   ??        井深

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  ・﹁礼譲﹂を基本として、勉強すること。   ・午前五時から八時まで﹁訓導﹂を受けること。秋分より春分までは午前六時から。   ・出席した順にしたがって﹁句読﹂を行い、午前八時より﹁散帰﹂して食事をする。   ・午 前 九 時 か ら 十 二 時 ま で 習 字 を 行 い 、 午 前 一 時 半 よ り 三 時 ま で 習 得 し た 書 籍 の 復 唱 を し 、 教 官 の 点 検 な ど を う け る 。 三時より四時三十分まで算術を行う。算術の方法は別途示す。   ・一月のうち、十一日と二十一日は午前中に試験を行う。六日と二十六日の午前中の一時間は講義を行い、生徒以外 の聴聞も受け付ける。   ・出席中に﹁争組合﹂などがあった場合、読了した書籍がたとえ二十巻あったとしても復唱する罰を与える。   ・生徒は三等にわけ、五十人以上であれば、 ﹁三級ノ内ヘ甲乙の番号ヲ措テ序次ヲ踏﹂ます。   ・一と六の日を﹁休課﹂とする。ただし、六日・十一日・二十一日・二十六日は前項のように勉強をする。   内塾規則が付されているという点について問題となるのは、この内塾規則がどのような特色をもっているかという点 である。郷学・寺子屋的なものなのか、それともより近代的なものなのかという点である。規則をみてみると、従来の 寺子屋方式を採用しているように見受けられるが、文明開化や学制の影響をうけて、それを普遍・拡大する方式をとっ ているのではないかと思われる。 ﹁読み﹂ ﹁算術﹂といった基礎的なものをベースにするのは当時の状況をふまえたもの で あ る と い え る 。 よ っ て 、 筆 者 は 単 に 郷 学 ・ 寺 子 屋 的 な も の で は な く 、 あ る 程 度 近 代 的 な 要 素 を 含 み 持 つ も の と 理 解 す る 。   学 制 と の 関 係 に つ い て は、 ﹃ 新 北 海 道 史 ﹄ に お い て は﹁ 直 接﹃ 学 制 ﹄ と は 関 係 が な く、 郷 学・ 寺 子 屋 式 教 育 の 促 進 を 主 目 的 と し た も の と 考 え ら れ る 三 四 ﹂ と し て い る 。 た だ し ﹁ 村 ニ 凍 餒 ノ 民 ナ ク 家 ニ 不 学 ノ 子 勿 ラ シ メ ン ト 欲 ス ﹂ の 部 分

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  ま ず、 ﹃ 事 業 報 告 附 録 ﹄ と﹁ 人 民 布 達 書 ﹂ と の 違 い は、 送 り 仮 名 な ど の 形 式 的 な 点 を 除 く と、 大 き く 以 下 の 三 点 に ま と め ら れ る。 第 一 点 は、 前 者 に 比 べ て 後 者 の 方 が 内 容 が 豊 富 で あ る と い う 点 で あ る。 た と え ば、 前 者 で は﹁ 遊 惰 ノ 族 ﹂ と の み 記 さ れ て い る も の が、 後 者 で は﹁ 遊 惰 ノ 眠 食 ヲ 事 ト シ 聊 遷 善 ノ 序 次 ヲ 不 知 ル 族 ﹂ と 具 体 的 に な っ て い る。 ま た、 後者には﹁漸次遊堕放迭ノ修弊ヲ去リ﹂のあとに、 ﹁開闢以来未曾有ノ良世ニ準ヒ﹂という文言が付け加えられている。 さらに父母が子弟を学校に行かせるという部分で﹁目下一朝ノ為メニ空シク手約ヲ加与スルヲ止メ﹂という文言も付け 加えられている。第二点はこの﹁人民布達書﹂の方には、この布達原案を作成した人物が七等出仕の折田平内であると 記 さ れ て い る 点 で あ る。 そ し て 第 三 点 は、 こ れ ま で 内 塾 規 則 の 方 で﹁ 書 式 略 ﹂ と さ れ て い た 入 学 願 書 の ひ な 形 が、 ﹁ 人 民布達書﹂には記されている点である。それと関連して第二則も若干文言が変わっている。さらに第八則も﹁人民布達 書﹂の方が文言が丁寧になっている。以上、一言で言えば、原案である﹁人民布達書﹂の方が内容が丁寧であり、それ をコンパクトにしたのが﹁事業報告附録﹂に掲載されている告諭ということできる。   根室支庁による就学告諭および内塾規則の内容は以下の通りである。   ・一日勤めなければ十日の貧困をもたらすと、 ﹁勤むる﹂ことの重要性を示す。   ・ 根 室﹁ 創 業 ﹂ 以 来、 ﹁ 人 民 ﹂ が 増 加 し﹁ 学 齢 子 弟 ﹂ も 少 な く な い が、 土 地 の 風 習 に そ ま っ て﹁ 怠 惰 ﹂ に な っ て い る 場合もある。よってここに更に﹁義塾﹂を設けることとする。   ・年 齢 に 関 係 な く ﹁ 学 業 ﹂ に つ い て 、 怠 惰 の 風 習 を 取 り 去 り 、﹁ 村 ニ 凍 餒 ノ 民 ナ ク 家 ニ 不 学 ノ 子 勿 ラ シ メ ン ﹂ こ と を 欲する。   ・親は永住寄留を問わず、 ﹁厚く教諭を加え﹂ 、﹁開化の域に進む﹂ことを心掛けること。   ︵内塾規則︶

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乙ノ番号ヲ措テ序次ヲ踏マシムヘシ 第 十 三 則   一、 一 六 ノ 日 ヲ 以 テ 休 課 ヲ 与 フ ヘ シ 但 シ 六 日十一日二十一日二十六日ノ四日前顕 規則ニ準テ課ヲ勉ムヘシ ヲ措テ序次ヲ踏マシムヘシ 第 十 三 則   一 六 ノ 日 ヲ 以 テ 休 課 ヲ 与 フ 但 六 日 十 一 日 二十一日二十六日ノ四日前顕規則ニ準テ課 ヲ勉ムヘシ       ︵書式略︶ 入学願書    何ノ誰     当何歳 右ハ私嫡男ノ処入校儀業 □致度奏存候為何卒御聞 届被成下度尤御規則ハ屹 度為相守可申此段御執達 奏願候已上    □ー 何ノ誰    ーー 戸長御印      用紙半紙 若シ本人次男ナ ラハ次男ハ被□ 又父無之者ハ 親戚より願出ヘシ

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第八則    午後一時三十分ヨリ三時迄習得ル所ノ書籍 ヲ復読シテ教官ニ点検ヲ乞イ若復習ヲ詐リ 未タ復習セサル時ハ教官其是非ヲ正シテ更 ニ之ヲ復習セシム 第九則    午後三時ヨリ同ク四時三十分ニ至ノ間算術 課ヲ可授但算術ハ追テ方法ヲ設テ後施スヘ シ 第十則    出席中口争組合等致業ヲ懈ル者ハ読了シ書 籍仮令二十巻アルモ更ニ復読ノ罰課ヲ与フ ヘシ 第十一則   一ヶ月内六日二十六日両日ヲ以午前十時ヨ リ十一時ニ至ノ間ヲ以講義シ各生徒並他聴 聞ヲ乞者アラハ之ヲ許スヘシ 第 十 二 則   授 業 生 徒 上 級 中 級 下 級 三 等 ニ 分 ツ 若 生 徒 五十人以上ニ充タハ三級ノ内ヘ甲乙ノ番号 第八則    一、午後一時三十分ヨリ三時迄習ヒ得ル所 ノ書籍ヲ繰復シテ教授官ニ之ヲ齎シ点 検ヲ乞フ若シ習復ヲ詐リ未タ習復セサ ル丶□ヲ以テ乞フ時ハ教官其是非ヲ叩 正シテ更ニ之ヲ復習セシム 第九則    一、午後三時ヨリ同シク四時三十分ニ至ル ノ間算術ノ課ヲ受クヘシ 但シ算術ハ追テ方法ヲ設ケテ後チ施 スヘシ 第十則    一、出席中口争組合等致シ本業懈タル者ハ 読去リシ書籍仮令二十巻アルモ更ニ復 読ノ罰課ヲ与フヘシ 第 十 一 則   一、 一 ヶ 月 ノ 内 六 日 二 十 六 日 両 日 ヲ 以 テ 午 前十時ヨリ十一時ニ至ルノ間ヲ以テ講 義シ各生徒並ニ他聴聞ヲ乞フ者アラハ 之ヲ許シテ聞カシムヘシ 第十二則   一、受業生徒上級中級下級三等ニ分ツ若シ 生徒五十人已上ニ充タハ三級ノ内ヘ甲

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内塾規則 第一則    礼譲ヲ本トシテ各課業ヲ勉強セサル可ラス 第二則    各入門ヲ乞者ハ別紙書式ノ通認メ戸長之ヲ 教官ニ出テ許可ヲ乞ヘシ 第三則    生徒午前五時出席シテ八時ニ至迄訓導ヲ可 受但秋分ヨリ春分迄ハ六時出席タルヘシ 第四則    出席ノ先後ニ随テ句読ヲ授ヘシ 第五則    午前八時散帰シテ喫飯ヲ為サシム 第六則    午前九時出席シテ十二時ニ至迄習字ニ就カ シム 第七則    一ヶ月ノ内十一日二十一日ノ両日午前九時 ヨリ十二時ニ至ノ間ヲ以各生徒ノ課業ヲ試 験シ其巧拙ニ依テ黜陟スヘシ 内塾規則 第一則    一、礼譲ヲ元トシテ各課業ヲ勉強セサルヘ カラス 第二則    一、各入門ヲ乞フ者ハ別紙図式ノ通リ書認 メ之ヲ戸長ニ出シ戸長之ヲ教授官ニ出 タシテ許可ヲ乞フヘシ 第三則    一、生徒午前五時出席シテ八時ニ至ル迄訓 導ヲ受クヘシ 但シ秋分ヨリ春分迄ハ六時出席タル ヘシ 第四則    一、出席ノ先後ニ随テ句読ヲ受クヘシ 第五則    一、午前八時散帰シテ喫飯ヲ為サシム 第六則    一、午前九時出席シテ十二時ニ至ル迄習時 ノ学ニ付カシム 第 七 則    一、 一 ヶ 月 ノ 内 十 一 日 二 十 一 日 ノ 両 日 午 前 九時ヨリ十二時ニ至ルノ間ヲ以テ各生 徒ノ課業ヲ試験シ其巧拙ニ依テ黜陟ヲ 正フスヘシ

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ノ習風ニテ動モスレハ遊惰ノ族モ有之実ニ憫然ノ至ニ 不仍テ今般更ニ義塾ヲ設ケ彼ノ子弟或ハ仮令晩年ノ者 ト雖学ント欲ル者ハ之ヲ許テ学業ニ就シメ漸次遊惰放 送ノ習弊ヲ去リ村ニ凍餒ノ民ナク家ニ不学ノ子勿ラシ メント欲ス其父母タル者ハ子弟ヲシテ学業進達ノ一途 ニ勉強セシムヘキナリ此趣意ヲ領解シ永住寄留ヲ問ハ ス厚ク教諭ヲ加ヘ追々開化ノ域ニ進マン事ヲ心掛ヘシ 弟モ不少ル哉ノ処古来ノ習風ヲ以テ動モスレハ遊惰眠 食ヲ事トシ聊遷善ノ序次ヲ不知ル族モ可有之実ニ憫然 ノ至ニ不堪候依テ今般更ニ義塾ヲ設ケ彼ノ子弟或ハ仮 令晩年ノ者ト雖モ学ハント欲スル所アラハ之ヲ許シテ 学業ニ付シメ漸次遊惰放佚ノ習弊ヲ去リ開闢以来未曾 有ノ良世ニ準ヒ村ニ凍餒ノ民ナク家ニ不学ノ子勿ラシ メント欲ス夫レ能ク父母タルモノハ目下一朝ノ為メニ 空シク手役ヲ加与スルヲ止メ学業進達ノ一途ニ子弟ヲ 制薦セシムヘキナリ尤別紙ニ内塾規則ヲ書シテ以テ下 示ス猶能ク此趣意ヲ領解シ戸々ハ勿論仮令寄留ノ者ト 雖モ厚ク教諭ヲ加イ追々一層開化ノ域ニ進マン事ヲ体 任スヘキ也           明治七年五月三十一日         七等出仕        折田平内

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認した。その上で、十一月︵?︶十二日には市在の者の資生館への通学を許す達しが出され、同時期の十八日に開墾掛 より就学告諭も出されたということである。この点について、 井上高聡前掲﹁開拓使の学校教育政策の始動﹂でも、 ﹁こ の達は開墾掛が管轄下の札幌近在 12ヶ所村に宛てたものであり、 内容も開墾掛が計画し実施する6ヶ所の﹁筆算指南所﹂ へ の 就 学 を 促 す こ と が 目 的 で あ っ た。 従 っ て、 ﹁ 開 墾 局 か ら の 奨 学 告 諭 は、 北 海 道 全 般 の 普 通 教 育 に つ い て の 最 初 の 政 策の表明﹂との﹃北海道教育史﹄全道編一の捉え方は正確ではない﹂としている 三一 。 ︵二︶根室支庁による就学告諭   続いて、明治七年五月三十一日に発令された根室支庁による就学告諭である。二次史料である﹃開拓使事業報告附録   布令類聚   下編三二﹄の目次には学校私塾規則とある。ここでは、二次史料の﹃事業報告付録﹄と一次史料と思われ る﹁ 人 民 布 達 書 三 三 ﹂ の 双 方 を、 内 塾 規 則 も 含 め て 上 下 に 掲 げ る。 さ ら に﹁ 人 民 布 達 書 ﹂ に は 書 式 も あ る の で、 そ れ も 掲げる。 史料四 ﹃事業報告付録﹄ 夫人ハ勤ル事アリテ年ヲ終ル迄飲食ヲ安ンスルヲ得一 日其勤ヲ欠ニ至テハ十日ノ貧困ヲ醸生スト皆是人ノ知 所ニシテ今更陳ルニ足ラス抑当根室創業以来人々御趣 意ヲ奉体シ逐次人民増加学齢子弟モ少カラサル処土地 ﹁人民布達書﹂ 夫レ人ハ勤ムル事アリテ年ヲ終ルマテ飲食ヲ安スルヲ 得一日其勤メヲ欠クニ至テハ十日ノ貧困ヲ醸生スト皆 是レ人ノ知ル処ニシテ今更敢テ 陣 ママ ルニ不足 拂 そもそも 当根室 創業尓来人々御趣意ヲ奉体シ逐次人民増加付テハ其子

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   次官    大判官         開墾掛    三等出任    少判官     七等出任 教養ノ民ニ欠ク可ラサルハ勿論ノ義ニ御座候得共況テ今日ニ至リ都鄙別アリ学校ノ設アレハ当管下各村之移民既ニ 二千有余其子弟タル者未タ其化ヲ蒙ラス駸々乎トシテ土人ノ風習ニ染ミ候仕而巳ナラス教□ハ礼節ヲ知ラス且常々 布達スルノ文ヲ解セス自ラ上下ノ情貫徹セスシテ終ニ家産ヲ破リ流離シテ往々罪禍ニ陥リ候様可相成も難計候間御 草創ノ折柄一々相設ケ候事ニも相及兼候得共最寄三ケ村へ一舎つつ筆算指南所ヲ設ケ村民ノ子弟ヲ御教育相成候い たし度此段伺候也      但教師ハ其村中ヨリ撰任しテ伍長ノ給金ヲ付与しテ可然事       壬申十月    御布令 開化ノ御世話今日ノ御急務ニ付開墾掛申立ノ通別段ノ御詮議ヲ以村師ヘ伍長ノ御給与被下人物精撰候様御達相成 度候事   すなわち、明治五年十月に開墾掛から上官あてに札幌郡下各村に学校を設立してもよいかという伺が出され上官も承

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を 開 始 し た る に 起 る 二 七 ﹂ と し て い る。 さ ら に﹃ 北 海 道 教 育 沿 革 誌 ﹄ に お い て も﹃ 札 幌 区 史 ﹄ と 同 様 の 指 摘 を し て い る 二 八 。 な お、 ﹃ 札 幌 区 史 ﹄ に よ る﹁ 二 布 達 ﹂ と は 一 つ は 就 学 告 諭 を 指 し、 も う 一 つ は そ れ 以 前 の﹁ 明 治 五 年 二 月 十 二 日 札 幌本庁各課係院館諸宛達﹂として出された次のものである。    史料二 二九 当札幌部下未タ筆算等修業ノ場所無之ニ付、当分ノ内官員子弟ハ勿論、市在ノ者ト雖モ、年齢十四歳以下初学ノ者 共、資生館ヘ通学差許候條、有志ノ者可願出事。 但炭代券十五銭、夜分モ通学ノ者ハ、油代五銭ヅツ、毎月初メ上納可致、尤モ四月ヨリ九月迄ハ、炭代半数ヲ減 ス、其他要具ハ銘銘持参ノ事。   しかし ﹃札幌区史﹄ の記述には疑義がある。まずこの ﹁二月﹂ という月である。 ﹁市在諸達留﹂ によれば、 この達しは ﹁十一 月﹂ に出されたとある。達しの順番からしても、 十一月が正しいと思われる。また ﹁二布達﹂ というのにも疑問符がつく。 この達しが出されたと思われる十一月以前に、 以下のような ﹁会庁規則﹂ ︵伺いおよび御布令︶ が出されているからである。    史料三 三〇    会庁規則    三村二指南所一舎設事開墾局ヨリ伺之件

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り前の時期にあたる。これについては︵一︶で述べたので繰り返さない。またこの時期は、北海道の体制をどのように 行 な う か を 主 任 ク ラ ス で 検 討 し、 各 支 庁 ご と の 決 済 を 行 な っ た、 い わ ゆ る﹁ 札 幌 会 議 ﹂ が 開 催 さ れ た 時 期︵ 明 治 五 年 一〇月︶でもある。   学制との関係については、先行研究において二つの考えがある。一つは、 ﹁この開墾局からの奨学告諭︵ ﹃北海道教育 史 ﹄ で は、 就 学 告 諭 を﹁ 奨 学 告 諭 ﹂ と す る ⋮ 大 矢 注 ︶ で は、 ﹃ 学 制 ﹄ の こ と は 一 言 も ふ れ て い な い け れ ど も、 告 諭 の 時 期 か ら 考 え て、 ﹃ 学 制 ﹄ の 趣 旨 を ふ ま え て の こ と と 推 測 し て よ い と 思 う 二 一 ﹂ と す る﹃ 北 海 道 教 育 史 ﹄ の 立 場 で あ る。 さ らに ﹁このような奨学の通達のみによって、 組織的な学校が設立されていくものとはとうてい考えられないけれども﹂ ﹁開 拓地に即した簡易な教育機関の設立を、いくぶん刺激したことは事実であろう。また⋮⋮当時においては、全般的に学 校設置を就学義務の履行とを強行することは、 困難であったとみるべきだろう。しかし、 この開墾局からの奨学告諭は、 北海道全般の普通教育についての最初の政策表明として、意味深いものとみなければならない﹂としている。   一 方﹃ 新 北 海 道 史 ﹄ は、 ﹁ 直 接﹃ 学 制 ﹄ と は 関 係 が な く、 郷 学・ 寺 子 屋 式 教 育 の 促 進 を 主 目 的 と し た も の と 考 え ら れ る 二 三 ﹂ と す る。 そ の 理 由 は、 開 墾 局 に よ る 就 学 告 諭 の﹁ 今 般 各 村 江 筆 算 教 師 ヲ 被 置 広 く 教 化 を 被 施 候 条 一 同 御 趣 意 ヲ 体認し各々子弟とも共入学せしめ﹂の部分をひいている。また﹃新札幌市史﹄においても﹁これは学制に直接対応した ものとはいえない 二四 ﹂としている。   ただし、双方とも﹁北海道全般の普通教育についての最初の政策の表明として、意味深いものとみなければならない 二 五 ﹂ と い う 考 え で は 一 致 し て い る し、 他 の 先 行 研 究 も 同 様 の 指 摘 で あ る。 例 え ば﹃ 新 札 幌 市 史 ﹄ で は、 ﹁ 開 拓 使 の 開 拓 村 落 に お け る 初 等 教 育 創 出 の 意 思 を み る こ と が で き よ う 二 六 ﹂ と し て い る し、 ﹃ 札 幌 区 史 ﹄ で は﹁ 一 般 普 通 幼 年 子 弟 に 初 等教育を施すの設備は、実に明治五年冬左の二布達に淵源し、札幌及附近新移村に初めて語郷又は郷校と称する寺子屋

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       円山   琴似   手稲   発寒        平岸   月寒   白石   おおよその内容を箇条書きでまとめると、次のようになる。   ・各村に筆算教師をおいて、広く教化を施すこと。   ・一同は御趣旨を理解して、子弟を入学させ、怠惰なきよう親も厳重に督促すること。   ・教師は現在の時勢を弁えて、有用な学を修めて急務の術を修めること。   ・ 農 夫 は 農 業 が 重 要 だ が、 文 字 を 知 ら な け れ ば 人 道 に そ む く こ と に な る し、 農 業 の 術 に 暗 け れ ば 収 穫 が 少 な く な る。    また触達を読むこともできないと罪科に陥る可能性もあるので、御趣意をしっかりと了解すること。   ・学舎は村の便利のよいところを選んで村で協力して建築すること。ただし、教師の家でもよい。   開拓農民として入植した人々が多くいた点から、 ﹁農夫﹂に焦点を当てていることが、特徴といえるだろう。   井上高聡によれば、史料の﹁開墾局﹂は通称であり、正確には﹁開墾掛﹂であるとする。すなわち﹁札幌開拓庁︵後 の札幌本庁︶設置以前の銭函仮役所・小樽仮役所時代に、出先部署として札幌近在を差配する札幌詰めの﹁庶務掛﹂と ﹁金穀掛﹂があり、 両掛が合併して﹁開墾掛﹂となった。札幌本庁設置後も、 開墾掛が札幌近在を管轄し、 慣例的に﹁開 墾局﹂を名乗っていた﹂のである 二〇 。   明治五年十一月という時期は、学制布告書が発令された八月の直後といってもよい時期であり、また北海道にとって はその学制施行が難しい特殊性について、正院・文部省・開拓使との間で答儀があった明治六年十一月から十二月頃よ

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  三   三点の就学告諭   ︵一︶札幌本庁の就学告諭   札幌本庁の就学告諭は、北海道では最も早く、明治五年十一月十八日に発令された。以下のものである。    史料一 一九 今般各村江筆算教師を被置広く教化を被施候条一同御趣意を体認し各々子弟ともを入学せしめ怠惰なき様其親々よ りも厳重督促致し可申尤教師たる者ハ専ら方今之時勢を弁へ上   朝廷御開拓之御趣意ニ基き下自己之職業を不失様 総而有用之学を務め急務之術ヲ修ル様可心掛事    一   農夫ハ農業を務ルハ専要之事ナレトモ文字を知らす筆算を学ハサレハ人たる之道ニ背き且農業とても其術ニ暗 ケレ         ハ        面   了解シ   不覚罪科ニ陥リ候儀モ可有之     ハ空シク力を尽シテ収穫少キ□□□勿論時に︹闕字︺上より御触達も 弁へ 難ケレハ 誠ニ憐然 之至ニ付篤と此御趣 意弁ヘ     を 了解し 可申事    一   学舎ハ村中便宜之地ヲ撰シテ村内合力ヲ以営構可致事         但シ教師之宅ニても妨なし       十一月十八日      開墾局          対雁村        札幌苗穂   丘珠   篠路

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  明治六年十一月に、 文部省は正院に対し﹁北海道学事着手之儀ニ付伺﹂において、 ﹁彼地逐年人民繁殖ノ場合ニ相運候、 付テハ学事之儀漸次着手可相成ト存候間、彼地教育関渉之事項ハ都テ当省ヘ協議施致候様開拓使ヘ御達有之度⋮﹂と伺 い出た。これについて正院から開拓使あてに下問があり、同年十二月に開拓使は﹁文部省伺北海道学事着手ノ儀御下問 ニ付答議﹂として次のように回答した 一六 。 [ 前 略 ] 彼 地 開 拓 創 業 已 来 逐 年 人 民 繁 殖 ニ 及 候 得 共、 皆 移 住 ノ 人 民 各 処 ヘ 土 着 各 山 野 ノ 業 ヲ 営 ミ 居、 其 生 計 ノ 道 モ 未タ十分ニ相立不申、過半ハ官ノ扶助ヲ仰キ候者ニ有之、当使民政ニ於テハ専ラ其産業督励ヲ主トシ、未タ他府県 同様学務施行ノ場合ニ至リ不申、尤函館ニ中小学、其他有珠余市二郡ヲ始各所ニ郷校ノ設有之、漸次学制ニ依循可 致見込ニ候得共、現今今悉其成規ヲ踏候テハ実地差支ノ廉不少、且本庁並当出張所学校ノ儀ハ、兼テ申上置候農工 等ノ現術ヲ教習シ自ラ別途ニ属シ候儀ニ有之、因テ管内教育ノ事ハ一般施行スヘキノ時ニ至リ同省ヘ協議処分候様 致度、此段上陳仕候也 一七   これに対して正院からは﹁北海道一般ヘ学生施行之節ハ、総テ文部省ヘ協議ノ上可取計事﹂という指令があった。こ れらの点について﹃北海道教育史﹄は﹁文部省は、北海道開拓社会の特殊性を認め、普通教育の実施については、正規 に よ ら な く て も よ い こ と、 北 海 道 全 体 に 教 育 を 施 行 し よ う と す る 時 が き た な ら ば、 文 部 省 と 協 議 し て 行 う こ と と し て、 普通教育について特別扱いを北海道に許可したのである。この時期は、その後の北海道普通教育の制度を立案する時の 根拠となっていったので、重要な意味をもつと考えられる 一八 ﹂としている。  

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  明 治 六 年 の 農 作 物 の 価 額 総 計 は 六 万 九 六 〇 四 円 で、 農 作 物 別 の 価 額 が 高 い 順 に だ い こ ん︵ 二 万 一 一 一 三 円 ︶・ 大 豆 ︵ 一 万 一 四 九 二 円 ︶、 馬 鈴 薯︵ 八 七 四 五 円 ︶ と 続 く 七 。 家 畜 は、 牛 が 二 三 五 頭、 馬 が 一 万 六 三 五 七 頭、 豚 一 五 四 匹、 緬 羊︵ 山 羊 を 含 む ︶ 八 九 匹 が 飼 育 さ れ て い た 八 。 水 産 物 の 価 額 総 計 は 二 二 五 万 八 〇 三 九 円 で、 水 産 物 別 の 価 額 は、 に し ん ︵ 一 四 二 万 三 五 三 一 円 ︶ が 半 分 以 上 を 占 め、 こ ん ぶ︵ 三 五 万 二 七 三 三 円 ︶、 さ け︵ 三 〇 万 八 六 四 一 円 ︶ と 続 く 九 。 鉱 産 物 で は、 石 炭 が 七 七 三 〇 ト ン 産 出 さ れ 一 〇 、 官 営 諸 工 場 で は 二 九 六 八 円 が 生 産 さ れ た が、 そ の ほ と ん ど が 製 材︵ 二 六 三 八 円 ︶ で あ っ た 一 一 。 輸 出 物 品 価 額 の 総 計 は 四 五 万 七 九 八 七 円 で、 水 産 物︵ 四 一 万 九 七 一 五 円 ︶ と 九 〇 パ ー セ ン ト を 占 め、 鉱産物︵一万一四四一円︶が続いた。一方輸入物品価額は四万二六二四円で、工産物︵一万二六四一円︶が約三〇%を 占 め た 一 二 。 輸 出 入 は 函 館 港 で 行 わ れ た が、 入 港 外 国 船 は 商 船 五 五 隻、 軍 艦 一 五 隻、 そ の 他 を あ わ せ て 七 〇 隻 で あ っ た。 商船で見るとアメリカが三三隻と半分以上を占め、一五隻のイギリスがそれに続いた 一三 。   以上からみると、当時の北海道はようやく人口が増加し、開拓使の事業も開始した時期であったことがわかる。産業 は水産業がその中心であり、続いて林業であったが、開拓使という﹁官﹂に全く依存する状況が続いていた。   ︵二︶当時の北海道の教育状況   明治五年八月に学制が発令されたが、第四章において﹁北海道ハ当分第八区ヨリ之ヲ管ス他日別ニ区分スベシ﹂とさ れた。これについて ﹃新北海道史﹄ は﹁北海道はその学区の設定は将来の問題とし、 当面暫定的に第八大区 ︵東北地 方 八 県 ︶ が 管 轄 す る と い う 措 置 が と ら れ た 一 四 ﹂ と す る 。 ま た ﹃ 北 海 道 教 育 史 ﹄ で は ﹁ こ れ は 、 北 海 道 が 開 拓 日 が 浅 く 他 の 教 育 区 と 肩 を な ら べ る ほ ど に 社 会 が 進 む 生 活 が 安 定 し て い な い と い う 認 識 か ら 、簡 単 に 処 理 し た も の と 解 さ れ る 一五 ﹂ としている。 なお、明治六年四月に文部省布達第四二号で、第八大区制は第七大区制に改められ、北海道は第七大区に入った。

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料と思われるもの、函館支庁のそれの原案が確認できたにとどまった。しかし、就学告諭そのものを、今一度分析して その特徴を明らかにし、 さらに学制布告書との比較を行なうことには一定の意味があると考える。以下では、 まず﹁二﹂ において、 当時の北海道の状況と教育状況について若干述べる。続けて﹁三﹂において、 三点の就学告諭を掲載して︵根 室 支 庁 と 函 館 支 庁 に つ い て は、 一 次 史 料 な ど を 掲 げ る ︶、 先 行 研 究 の 分 析 を 掲 げ て 内 容 を ま と め る。 そ の 上 で、 三 点 の 就学告諭と学制︵学制布告書︶との関係・比較を行なって、その特色を明らかにする。最後に﹁四﹂において本論のま とめを行なう。   二   北海道の状況   ︵一︶明治五∼八年頃の北海道   北 海 道 に 開 拓 使 が お か れ、 ﹁ 蝦 夷 ﹂ か ら 改 称 し た の が 明 治 二 年 八 月 で あ っ た。 十 一 国 八 十 六 郡 に 分 け て、 樺 太 は 旧 称 のままとした。明治五年九月に管内を﹁六大部﹂に分け、札幌を本庁として、函館・根室・浦川・宗谷︵のちに留萌に 移 し て 留 萌 支 庁 と な る ︶・ 樺 太 の 五 つ に 支 庁 を お い た。 そ の 後、 樺 太 は 千 島 と 交 換 さ れ、 浦 川・ 留 萌 支 庁 は 廃 さ れ て、 函館・根室の二つの支庁と東京の出張所という形になった 四 。   明 治 六 年 の 北 海 道 の 人 口 は、 一 六 万 八 〇 五 八 人︵ 世 帯 数 三 万 四 〇 七 二 ︶ で あ り、 札 幌 本 庁 が 五 万 三 二 二 七 人︵ 同 一万六九二︶ 、函館支庁が一〇万七七七二人︵同二万一一三七︶ 、根室支庁が七〇五九人︵同一二四三︶であった。函館 が 最 も 多 く 約 三 分 の 二 を 占 め、 根 室 支 庁 は 五 パ ー セ ン ト に 満 た な い 五 。 開 拓 使 の 歳 出 入 合 計 は 三 三 九 万 五 三 円 で、 定 額 金収入が七五万八三三三円、租税収入が四六万九六五四円、雑収入が三〇万四六二円であり、全くの赤字であった。翌 年分よりの補足が一七九万九一八一円となっている 六 。

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北海道の就学告諭

  一   はじめに   本論は、北海道で発布されたいわゆる﹁就学告諭﹂三点について、その内容分析と学制布告書との対比を行なうもの で あ る。 就 学 告 諭 と は、 ﹁ ①︵ 王 政 復 古 の 大 号 令 を 一 応 の 起 点 と す る ︶ 明 治 新 政 府 の 発 足 か ら 教 育 令 公 布 ま で の 時 期 に おいて、②府藩県の官員あるいは管内各地域における指導者層によって作成された、③初等教育機関への就学行動の喚 起を目的とした説得的論理を包含した文書﹂である 一 。   筆者は、二〇〇〇年より二次にわたる就学告諭研究会に参加し、全国の就学告諭について調査・分析してきた。就学 告 諭 の 定 義 も こ の 研 究 会 に よ っ て あ ら た に 設 定 さ れ た も の で あ り、 ﹁ 学 制 布 告 書 ﹂ 以 降 の 文 書 と さ れ た 従 来 の 定 義 を 越 えたものになっている。研究会での筆者の地域担当は、北海道・青森・香川・徳島・広島などであったが、北海道に関 しては、先行研究で示されていた以上の新しい告諭を発見することはできなかった。そのため、研究会の報告書でもあ る著作二点においては、 ﹁モデル ・ 脅威としての外国﹂ 二 と ﹁就学告諭にみる ﹁立身 ・ 出世﹂ ﹂ 三 を報告 ・ 掲載するにとどまっ た。そして北海道の就学告諭そのものに関しては、 両著の資料編において函館支庁のそれが掲載されているだけである。   そこで本論では札幌本庁・根室支庁・函館支庁による就学告諭の三点をすべて掲載し、分析することにした。残念な がら、作成の過程や当時の状況を理解する新たな史料を発掘することはほとんどできず、史料的には根室支庁の一次史

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