も法典化されていった。 最後の偉大な, 19世紀までも有効であった法典 (Fassung) は, 1613年のハンザ船法 (Schiffsrecht) であった。 これは,
したがってドイツ・ ハンザよりも長続きした。 ハンザ共通の海法とリュー
ベック海法の条文の間には, 多くの細目(例えば, 海難救助料) では一定 170
-の相違があったが, ハンザの法 と しての偏差は リ ューベッ ク都市ではおそ らくほ と ん ど考慮されず, リ ューベッ クがたえずなお 最終審であった。 と こ ろで一法史的には奇妙な こ と であるがー1613年のハンザ船法 (Schiffs
ordnung) は, 1861年のドイ ツ一般商法典 と ,その後の1897年の帝国商法 典の施行 [にもか かわらず, 未 だ] なお形式的には廃棄されてはいない。
リ ュー ベ ッ ク ・ ハ ンザ海法 と 並 ん で, 15世紀 か ら17世 紀 に かけ て
「ヴィース ビュ海法 または水法 (Wisbysches See- oder Waterrecht)」
と いう題名の下に, 海法上の法発見に基づく法令集が評判 と なった。 こ れ は, しかし実際には, オ ラ ン ダ と 西欧のハ ンザの海法上の諸原則の私的な 編纂物にす ぎなかった。Vonesse van Dammぎ と いう題名 (Gestalt)を 付けられた前者 [= オ ラ ン ダの編纂物] は,13世紀の オ レ ロ ン海法の フ ラ マ ン語訳本であった。それゆえ (und) こ れはヴィ ース ビュと は何の関係 もなかった。 こ の [= 「ヴィース ビュ海法 または水法」 と いう] 表示は,
ヴィース ビュが 「最上級の水法」 すなわ ち 最上級の海事裁判所 と して [は るか以前に] 獲得していた, その名称の輝きを証明するのみであった。 な ぜなら, やがて リ ュー ベッ クの強大な力 と 彼らの法が, バルト海域を支配 し始める こ と になるからであった。
註
( 1) こ れ に 関 す る 文献 に つ い て は, コ ン ラー ト (H. Conrad) 「 ド イ ッ 法制 史 (Deutsche Rechtsgeschichte, Bd. Iり』 1962年 363頁以下を参照。
(2) レーツ CJ. Reetz) 「1300年頃の リ ュー ベッ ク 司教区 と 同市 (Bistum und Stadt Lubeck um 1300)』 ( リ ュー ベッ ク , 1955年), 188頁, 註1163。
(3) リ ュー ベッ ク 市史料集 (LiibUB), 第3巻 第595番 (633頁)。
(4) こ れ に つ い て は ア ッ シ ュ CJ. Asch) 「1598年ー1669年 ま で の リ ュー ベッ ク の 市 参 事 会 と 市 議 会 (Rat und Bilrgerschaft in Lubeck 1598-1669)』
( リ ューペ ッ ク , 1961年), 56頁以下を参照。
(5) こ れ に つ い て は, 現在で は, リ ュー ベッ ク 歴史協会雑誌 (Ztschr. d. Ver. f.
Liib. Gesch.) 第32巻(1951年) 所収の プル ン ズ (Fr.. Bruns) 「 リ ュー ベッ ク 市
バル ト 海地域におけるリュー ペック法 参事会」, 1 頁以下を 参照。
(6) 基 本書 は シュ レーダー (R. Schroder)『ドイツにおける夫婦財産制の歴史 (Gesch. d. ehel. Giiterrechts in Deutschland)」 の第2編 (Tei!), 第3節 (Abt.) (1874年)。
(7) ゼ ル ヒ ョ ウ (J. H. V. Selchow) 「ドイツにおける外国法と 自国法の歴史 (Gesch. d. in Teutschland geltenden fremden und einheimischen Rechte)」 ( ゲッテ ィ ン ゲ ン ,1767年), § 315。
(8) リューベックと いう名前の意味を め ぐる論争について. 現在で はリューベッ ク歴史協会雑誌 (ZVliibG), 第42巻 (1962年) 所収のカール (H. D. Kahl) 論
文 , 79頁以下を 参照。buku については同誌, 1 1 2頁以下. 参照。
(9) 既 に コ ン リ ン グ (Herm. Coming) の 『ゲ ル マ ン 法の起源 (Die origine juris Germanici)」 (1643年) では. リューベック市 [の描写] に ヴ ェ ルギ ウ ス 的 (virgilische) な 手法 (Bild) (「田園詩 (Bucol.)」 I 25)が施されている。
すな わ ち . 市 は他の都市から 際立 っ てお り , それは. 「ま るでイ ト ス ギが. 貧弱 に育つス イ カ ズ ラ の間で [際立つのが] 常であ っ たように」 であると 。 (10) ド ラ イ ヤー (J. C. H. Dreyer) 「リュー ベック法令の理解のための序論
(Ein-leitung z. KenntniB der . . . von E. Hochw. Rath der Reichsstadt Lubeck von Zeit zu ergangenen allgemainen Verordnungen usw.)J
( リューベック,1769年), 202頁。 [同書については拙稿 「 リ ューベック市 参事会 裁判と その判決」 (林毅 • 佐藤篤士編著 『司法への民衆 参加』), 93頁. 註(2) 参 照。 J
(JI) 「 ゾース ト の」 と いう読み方 は間違いな いが. 既に コ ン リ ン グ (『ゲルマ ン 法 の起源」 (1643年))が推測していたように. これ は 本来的には「ホ ルシュ タ イ ン の (Holsatiae)」 であ っ た. と は読めない。
(rn リューベック法の伝播についてのこれ ま での 文 献 は正確な 記 述と はいえない が. しかし最も詳細な 記 述としてあ げるぺ き は, ミ ッヘルセ ン (J. Michelsen)
『以前のリュー ベック上級法廷と その法判告 (Der ehemalige Oberhof zu Lubeck und seine Rechtssprilche)』 ( ア ル ト ナ, 1839年). シュー ベル トー フ ィ ケ ン チ ャー (G. Schubart-Fikentscher)『東欧におけるドイツ都市法の普 及 (Der Verbreitung der dt. Stadtrechte in Osteuropa)』( ヴ ァ イ マール.
1942年) である。
(13) コ ル レ ン編のキ ー ル写 本 (Dt. StR. Hs. Ki (Ausg. Korl�n)) の第68条 は,
防火壁についての争いを取 り 扱 っ ている。「しかしてある者が その壁を利用す るのであれば, 彼は上の方 ま で石 造 り の家屋を, 全面と 背面を切 り 妻として建 築すべ き である」。 [拙訳 「「キール法典」 仮訳 ( 上)」, 「近畿大学 法学』, 第41 巻第 1 · 2号, 333頁。J
1586年の校訂都市法典第 3 編の第12章第 9 条で は以下の通 り 。「すべての家 屋は. 通 り 側であれ. 中庭側であれ (Hoffwerts), 基礎から 石とし っ く いに
168
-よ っ て, 防火墜と 切 り 妻と 煙突と かま どと と もに(an)建築 さ れ る べ き であ る 。 しかしながら, 壁をにかわと 柱組(Stenderwerk)によ っ て設置す る こと は, い
かな る 場合にも禁止 さ れ る べ き であ る 。」
(14) カ ンツ ォ ウ (Thomas Kantzow) 「 ポ ン メ ル ン年代記 (Pommersche Chro
nik)」 (1536年) ( ペ ー マー (W. Bohmer) 編, 同書の低地ドイツ語版 ( シュ テ テ ィーン ,1835年)), ( ガエベル(G. Gaebel)編, 同書の高地ドイツ語版 ( シ ュ テ テ ィーン , 1897年)) 。
(15) キール写 本の第68条。「神の平和と 呼ばれる 平和の期間に. 打撲と 負傷につい て誰でも証言す る ことがで き る 。 彼が悪評でない限 り 。 ただし, ヴ ェ ン ド 人と 浮浪民を除いてて. であ る」。 [拙訳, 332頁。J
nro
リ ューベックの上訴家族 [都市] と 上訴の際の注目すべ き 手続 き について.現在では エー ベル (W. Ebel) 「 リ ューベックヘの上訴 (Der Rechtszug nach Lubeck)」 .ハン ザ歴史協会雑誌(HansGeschBI.), 第85巻(1967年). 1頁以下。
(17) エーベル(W. Ebel)編 『 リ ューベック市参事会判決録 (Liibecker Ratsurt
eile, hrsg. von W. Ebel)」, 4巻 ( ゲッ テ ィ ン ゲ ン, 1955年ー1967年)。 [拙稿
「 リ ュー ベック市 参事会判決録における Eigentum, Besitz, Were」, 「近畿大 学 法学」, 第44巻第1号] 。
⑱ さ ら に商法のドイ ッ最初の記 述はと もか く も ( ラ テ ン語ではあ るが) 1 人の リ ューベック市民に負うて い る 。 それは リ ューベック市長 マ ルク ァ ル ト (Jo
hann Marquard) の『商法に関す る 論文 (tractatus de jure mercatorum)」
( リ ューベック, 1642年) であ る 。
(19) ヴ ィ ース ピュ の都市法につ い ての包括的な 記 述は. ハッ セ ルベリ (Gosta Hassel berg)『 ヴ ィース ピ ュ 都市法と その法源に関す る 研究(Studier rorande Visby stadslag och dess kallor)J ( ウ プサ ラ , 1953年) であ る 。 そこには,
その他の関連 文 献もあげら れてい る 。
〈訳註〉
(20) 現在のポーラ ンドと ウ ク ラ イ ナ の国境河川であ る プク河(Bug) から 東側の,
ベラ ルーシ のプ リ ピ ャ チ 湿地帯(Pripjrtsilmpfe) に至 る , ウ ク ラ イ ナ の西部地 域。
⑳ ラ ン ト ヴ ェーア 教授によ る と , これは16世紀に由来す る マ グ デ プ ルク市の別 称であ る 。 この名称は, 特に
w.
ラーペ (Raabe : 1831-1910) の 文 学作品Unseres Herrgots Kanzlei (1862) によ っ て広 く 知ら れ る こと にな っ た。 マ グ デ プルクは宗教改革後, 新教派の拠 点と な り , 16世紀半ばの シ ュ マ ルカ ルデ ン 戦争後も, 旧教への回帰を拒否 し , 長期間の皇帝軍によ る 包囲を受けたが, こ れを堪え忍ん だ。 この抵抗によ っ て, 市は新教派の人 々 から , 神がこの地上に 定めた官房と いう尊称を受け る こと にな っ た。 ただし, この評判によ っ て, 市 は, 17世紀の30年戦争時に, テ ィ リー率い る 皇帝軍によ っ て激しい攻撃と 虐殺
バル ト 海地域における リ ュー ベッ ク 法 の対象 と な っ てし ま っ た。
四 マ グデ プ ル ク の参審人団に手工業者が参加していた. と いうエー ベルのこの 記 述にもかかわ ら ず, 訳者は, 現在 ま での時点で, これを史実によ っ て確認す るこ とはで きなか っ た。 むしろ. ここでも,他の中世都市 と 同様に. 参審人層は 都市門閥 として特権階層を形成していたように見える。 拙稿 「中世マ グ デ プ ル
ク における市 参事会 と 参審人団について」, 「阪大法学」, 第49巻第 3 · 4号。
i23) ラ ン ト ヴ ェーア教授による と . 復帰選挙の際に, すべての前任の市参事会員 が現任の市参事会員 として復帰したわけではな く , 暗黙裏に1人 ま たは数人の
市参事会員が現任の市参事会に復帰しなかっ たこ と を意味する。 その結果, 復 帰しなかっ た人数分に相当する現任の市参事会員は, 現職の ま ま 市参事会員職 を継続しなければな らないが, 退職した市 参事会員たちは戦務か ら 解放され.
本来の業務である商業に専念することが可能になる。 市 参事会員職は終身喘で あるが. 実際には. このような方法によ っ て人的な交代が図 ら れたのであろう。
⑳ 小説 『 プッ デ ン プ ローク 家の人々 (Buddenbrooks)』 (1901年)。
凶 Helmoldi presbyteri bozoviensis, Chronica slavorum. ド イ ツ 語 訳は Helmold von Bosau, Slawenchronik, Wissenschaftliche Buchgesell
schaft Darmstadt 1980.
⑳ ハイ ン リ ッ ヒ 獅子公の特許状は現存しないが, その内容は, 1188年の皇帝 フ リー ド リ ッ ヒ 1 世の特許状の中に見出さ れる と さ れる。 Urkundenbuch der Stadt Lubeck, Erster Theil, 1843, S. 9 -12. 註凶のヘ ル モ ル ト の ス ラ プ年 代記 には, 個 々 の権限についての記 述はない。
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1243年頃ではな く , 1263年頃に作成さ れ た と さ れるハッハ第1 法典の第19 条, 13世紀末のキール法典の第20条 そして15世紀前半に作成された と されるハッハ第 3 法典の第1 部の第132条において, エー ベルのこの 記 述を確認する ことがで き る。 各法典については拙著 『ドイ ッ 中世都市 「私」法の実証的研究J.
敬文堂, 1996年。 なおキール法典の第20条 と . ハイ ン リ ッ ヒ 獅子公 (=皇帝 フ リード リ ッ ヒ 1世) の特許状の関係条 文 の仮訳は. 拙訳 「「キール法典」 仮訳
(上)」, 『近畿大学 法学』, 第41巻第1 · 2号, 344-345頁で試みている。
⑳ ハッハ第 l 法典 (全部で100条)。
(29) キール法典 (全部で257条)。 これ と 類似する法典にハッハ第 2 法典がある。
(30) 原 文 の273頁辺 り の記 述を指す と 思わ れる。
(3D ド ラ イ ヤーについて. 拙稿「「 リ ューベッ ク 法」 研究のための一つの覚書」,
『近畿大学 法学』, 第38巻第1 - 4号, 115頁以下, 参照。
(32) ゾース ト 法 と リ ューベッ ク 法の関係については林毅他訳「ハン ス ・ プ ラー ニッツ 「中世ドイツにおけるケ ル ン都市法 と その伝播」」. 『阪大法学J, 第131 号。 なお ラ イ ン ケ (Heinrich Reineke) の研究については拙稿 「十九・ニ0世 紀における リ ューベッ ク 不動産法研究の展開」 『近畿大学 法学』, 第39巻第1 .
2号, 87頁以下, 参照。
166
-(33) デ ト マールは14世紀の リ ューベッ ク の年代記作者。 聖カ タ リーネ ン修道院の 読師 (Lesemeister)。 1385年に, 彼は市 参事会員から, 1346年 ま での都市年代 記 (sog. Rufus-Chronik) の続編の作成を依頼され, 1 101年からは最終的に 1395年 ま での年代記 を低地ドイ ツ語で 記 述した。 ただし, その記述の客観性に つ い ては,1386年の食肉 商の蜂起が影響 を 与え て い ると い う 見方もある。
Detmar v. Lubeck, in Lexikon des Mittelaltes ill, Miinchen/Ziirich 1986. Sp. 737. (hrsg.) A. GraBmann, Liibeckische Geschichte, Lubeck 1988,
s.
300. なお, メ デバッハ (Medebach) 市は ゾース ト の南東に位置し,ヴ ァーレ ン ドル フ (Waredorf) 市はその北西に位置している。
(34) ゾース ト 都市法の邦訳は林毅他 「最古の ゾース ト 都市法」,『阪大法学」, 第 136号。
図 こ の用 語は, 伊東孝之他編『ポーラ ン ド・ ウ ク ラ イ ナ ・バ ル ト 史』, 山川出版 社 ,1998年にはな い。 お そ ら く 18世紀初 め の ポーラ ン ドの王位を め ぐ る ス ウ ェーデ ン, ザ ク セ ン , ロ シ ア を巻 き 込ん だ戦乱をさすものと 思わ れる。 同書,
151頁以下。 ポーラ ン ド 継承戦争(1733ー35年) もこ れに含 ま れるのかは不明で ある。
(36) ヴ ォーリ ン 島は現在のポーラ ン ド と ドイ ツの国境河川のオーダー河の河口に 位置している。 こ こ には ヴ ィ ネータ と い う 都市が10世紀と 1 1世紀頃存在し, こ れは後に海に没したと される。 H. Rossler und G. Franz, Sachworterbuch zur Deutschen Geschichte, Miinchen 1958, S. 1336.
聞 ポーラ ン ド 語では Trzebiat6w。 レ ガ (Rega) 河口にあ り , 現在, シ ュ テ テ ィ ーン行政区域 (Woiwodescahft) に属する。 同市は,1277年 リ ューベッ ク 法 を 付与さ れ, 1450年 頃 ま で ハ ン ザ都市であ っ た。 dtv-Lexikon, Bd. 18., Miinchen 1982, S. 279f.
⑱ 東欧, 特にポーラ ン ドの歴史においても, 13世紀のドイツ植民と 都市建設が ポーラ ンドに様々 な自由 をもたらした こ と は否定されていない。 ただし, そ こ で利用さ れた法は リ ューベッ ク 法ではな く , 一般的にマ グ デ プル ク 法であ っ た。 伊東孝之他編 『ポーラ ン ド・ ウ ク ラ イ ナ ・パル ト 史』, 54-58頁。 本訳の原 頁,257頁以下。
(39) キール法典の第1 12条。 拙訳 「「キール法典」 仮訳 (上)」, 324頁。
(40) ジ ャ ン ・ ボ ダ ン 『国家論」 (1576年)。
(40拙稿「「 リ ューベッ ク 法」研究のための一つの覚書」,1 15頁以下。G. Landwehr, Rechtspraxis und Rechtswissenschaft im Liibischen Recht vom 16. bis zum 19. Jahrhundert, in Zeitschrift des Vereins fiir Liibickische Ge
schichte und Altertumskunde, Bd. 60, 1980. S. 35f.
(� 同海峡は, デ ン マーク 語では エーア ソ ン 海峡と 呼ばれる。
(43) 百瀬宏他『北欧史』, 山川 出版社 ,1998年,85-86頁。
(44) トーマ ス ・ リース , 鵜川馨訳 「デ ン マーク 中世都市の類型」, 『立教経済学研