森
鴎
外の軌跡
﹁鎚一下﹂をめぐってI
﹁鎚一下﹂は大正二年七月一月発行の﹁中央公論﹂第二十八年第八号 に発表された作品であり、﹁かのやうに﹂﹁吃逆﹂﹁藤棚﹂とともに、 大正三年四月五日籾山書店から刊行された単行本﹁かのやうに﹂に収載 された。鴎外の日録大征こ年六月二十日の条には、﹁鎚一下を書き畢り て滝田哲太郎にわたす。﹂とある。 ﹁鎚一下﹂は長田幹彦の﹁浮名﹂とともに、﹁中央公論﹂七月号の小 説欄に収められているが、目次では﹁槌一下﹂となっている。﹁浮名﹂ が全文二十八頁、﹁鎚一下﹂が十一頁で、ともに小品である。 ﹁鎚一下﹂は﹁中央公論﹂小説欄の二十九頁から三十九頁までの紙面 に掲載されており、二十九頁の最終行には、・括弧付きで﹁一九、一三、 六、コニ﹂なる表記が見られる。﹁十九、一三﹂は一九一三年のことで あろう。 一九一三年、すなわち大正二年六月十三日の鴎外の日録には、 十三日︵金︶。晴。暑。午前局長会議あり。本郷房太郎大臣に代り て首座に居る。滝田哲太郎来訪す。木越陸相官第へ宴会の礼にゆく。 本間俊平東京に来て、直ちに又去る。新橋に送りにゆき、前田正名、 俊平の長女武子等にも面会す。 一四一 篠 原 義 彦 ︵教育学部 国文学研究室︶ という記事が見られる。陸軍省医務局長室への樗陰滝田哲太郎の訪問は ﹁中央公論﹂七月号の原稿依頼であろう。そして、鴎外は陸軍大臣官邸 訪問の後、新橋停車場に赴き、。本間俊平に会っている。﹁中央公論﹂七 月号に発表された﹁鎚一下﹂は、﹁己﹂なる人物が新橋停車場で、H君 を見送る場面がその中核をなす作品である。H君のモデルが本間俊平で ある。鴎外は﹁中央公論﹂の編集者滝田樗陰から原稿依頼のあった日の できごとを﹁鎚一下﹂の中に封じ込めた。それは、大正二年六月十三日 から二十日までの間のことである。 ﹁鎚一下﹂は、﹁かのやうに﹂﹁吃逆﹂﹁藤棚﹂の三作品とともに五 条秀麿を主人公にした作品であり、﹁秀麿もの﹂と呼ばれている作品で ある。因みに、他の三作品が発表されたのは次のとおりである。 ﹁かのやうに﹂ 明治四十五年一月一日 ﹁中央公論﹂ ﹁吃逆﹂ 明治四十五年五月一日 ﹁中央公論﹂ ﹁藤棚﹂ 明治四十五年六月十五日 ﹁太陽﹂ ﹁かのやうに﹂以下の三作品の執筆時期が比較的接近しているのに対し て、﹁藤棚﹂と﹁鎚一’下﹂の間には一年有余、のへだたりがある。 ﹁鎚一下﹂を秀麿ものと称するには注記が必要である。大正三年四月 籾山書店から刊行された単行本﹁かのやうに﹂所載の﹁鎚一下﹂は確か に五条秀麿が登場し、秀麿ものの呼称にふさわしい作品である。しかし、一四二 高知大学学術研究報告 第三十四巻 ︵一九八五︶ 人文科学 ﹁中央公論﹂発表時の﹁鎚一下﹂は秀麿ものではなかった。五条秀麿な る青年貴公子はただの一度も顔を出さない。﹁己﹂が主人公であり、 ﹁己﹂の生活と見聞とで完結している。﹁己﹂の生活と見聞の記録﹁鎚 一下﹂は、単行本収載の際、五条秀麿の生活と見聞の記録にすりかえら れた。 本来、﹁己﹂の話である﹁鎚一下﹂を秀麿の話になすべく、鴎外が附 加したのは冒頭め部分である。 ・︲ 五条秀麿が洋行して帰ってからツ大分月日が立った。帰った当座は えらい学者に’なって来ださうだと云ふ噂が、同族間に立フてゐた・が、 なんの為出来七た事もなくて月自が立っうちに、うよぐゐる若殿原 の一人に数へられて、上流社会では特に人の注意を引かぬやうになっ ’﹄○、 。 ’j ’︱ j゛ ”︱ ・ 7 秀麿は矢張企てた著述に手を着けないで、本ばかり読んでゐる。併 し親属関係や、家に旧誼のある人との関係が知らず識らず結ぼれて来 て、高貴なる方々の邸宅にも往くことがある。父に勧められて、顕要 の地位にゐる人達とも語を交へることがある。併しさう云ふ方面には 親密な交際は成り立だない。それとは違って、綾小路に紹介せられて、 画家や彫塑家の中の第一流の人々とは、大抵友達になってしまった。 無論多くは西洋芸術の方面である。芸術家を除けて、秀麿の友達を求 めれば、只二三の大学教授と、若手の官僚とがあるに過ぎない。 併しこの芸術家や学者の友達の口から、秀麿の噂は青年芸術家や学 生の間に伝へられて、折々識らぬ青年が秀麿に手紙をよこす事などが ある。それは秀麿を新思想の分かる学者と認めるところから、世間の迫 害を受けてゐる銘々の境遇を訴へて、随分無理な依頼などをするので ある。或る時秀麿はそんな手紙を見て云った。。﹁かう云ふ人達に満足 を与へるには、己は大きな寄宿舎でも建てなくてはなるまい。﹂ 秀麿は近頃日記を綿密に附けるやうになった。さうなったのは、種々 の人の境遇などを聞かせられて、其手紙に一々返事もせずにはゐるが、 切角自分を信じて訴へて来た人の事を、全く棄てゝ顧みずにゐる’には 忍びないので、責めて其人名、住所、身上の概略、要求丈を日記に書 き留めて置かうと思ひ立った為である。 秀麿の日記は罫・の無い洋紙の判の大きいのを洋風に綴ぢた大冊であ る。其中に別に数枚の反古が挟んである。それに﹁鎚一下﹂と題して ある。次に載せるのが其全文である。’ 単行本収載に際して行っI。た鴎外の改稿は絶妙であるJこの冒頭の附加に よフて、﹁健一下﹂は﹁かのやうにサ以下の三作品とみご’とに吻合す蕩 こと。になった。﹁鎚一下﹂一篇は秀麿ものの系図の中に組み込まれた。。 しかし、﹁鎚一下﹂、の﹁d﹂の話は、﹁自記﹂。ではない?﹁秀麿は 近頃日記を綿密に附けるやうになった。さうなつたのは、種々の人の境 遇などを聞かせられて、其手紙に一々返事もせずにはゐるが、切角自分 を信じて訴へて来た人の事を、全く棄てゝ顧みずにゐるには忍びない﹂ ために、﹁人名、住所、身上の概略、要求﹂だけを書きとどめたという 鴎外の注記には無理がある。﹁鎚一下﹂に登場するH君こと本間俊平へ の作者の並々ならぬ憧憬は、わずかな自己垢晦の言辞で覆い隠せるもの ではない。 冒頭の一文によって、巧妙にも﹁かのやうに﹂以下の作品との連作関 係を成就した﹁鎚一下﹂の世界に、前作の影を求めるとすれば以下のよ うになる。すなわち、洋行帰りの秀麿は、文科大学在学中から、国史の 研究を﹁畢生の事業﹂としながらも、矢張企てた著述には着手すること ができず、瓦斯媛炉の入った自分の部屋で読書三昧に耽っている。そう いう秀麿にも外界との交渉はある。すなわち、﹁高貴なる方々の邸宅﹂ に往くことや、﹁綾小路に紹介﹂せられて知り合った芸術家や学者や若
手の官僚との交際である。前者は﹁藤棚﹂の世界で描かれるI男爵家の 音楽会であり、秀麿が混雑を避けて二台遣り過した後で乗ったボギイ車 で偶然再会した渡辺は、ベルリン留学時の秀麿の旧友である。帰国後某 省の参事官になった渡辺は、若手の官僚のひとりであり、明治四十三年 六月一日発行の﹁昴﹂に発表された﹁普請中﹂の主人公渡辺参事官の影 を引く人物である。そして、後者すなわち、秀麿の周囲に存在する芸術 家や学者は、﹁吃逆﹂に登場する綾小路であり、また、エナから帰った 幣原でもある。 冒頭の一文を附加することによって、﹁鎚一下﹂は、前作三作品と脈 絡を保つことになった。しか4 、﹁鎚一下﹂における﹁己﹂なる人物の 見聞録は、﹁世間の迫害を受けてゐる銘々の境遇を訴へて、随分無理な 依頼などをする﹂話でもなければ、また、﹁切角自分を信じて訴へて来 た人の事﹂でもない。その点て鴎外は附加した一文によって、︷鎚︸下﹂ の世界に埋めがたい亀裂を作ってしまった。 ﹁吃逆﹂におけるオイゲンをめぐっての秀麿と幣原の﹁むづかしい﹂ 話は、二人の芸者すなわち吊るし猫と明色の女にいかはどの影響さえも 与えはしなかった。吊るし庁呼ばれる芸者にとっては、﹁わたしもう 帰って寝ますわ、さやうなら﹂のみが結論であったし、秀麿や幣原の ﹁むづかしい﹂話は、明色の女の。﹁吃逆﹂をやめさせる程度の力も有し てはいなかった。観念の世界に遊び、﹁本ばかり読んでいる﹂という五 条子爵家の嗣子秀麿が﹁鎚の一下を以て日々の業を始む﹂H君夫妻に絶 大なる関心を持つという改稿後の図式は底が割れてしまっている。その 裂け目から作者自身の憧憬が見え隠れしている。 名刺形の男の写真を見せて、﹁ねえ、あなた、好い男でせう。寒玉子 よ。﹂と話しかける明色の女に対して、﹁うん。苦み走った好い男だ。﹂ と相槌を打つ秀麿の心情について、作者は﹁秀麿も矢張芸者を人間とし て丈は扱ひたいと見えて、真面目に返事をした。﹂と記したし、続く 一四三 森 鴎 外 の 軌 跡 ︵篠原︶ ﹁藤棚﹂の世界においても、﹁馬脚を露し﹂たのは渡辺の方であった。 秀麿自身は、﹁かのやうに﹂﹁藤棚﹂と続く作品の中で綾小路や幣原や 渡辺、それに、二人の芸者と交渉を持ちながらも、依然として五条子爵 家の高等遊民であった。そし・て、﹁鎚一下﹂の新たなる附加の部分にお いても秀麿の立場はその範囲から一歩も踏み出してはいない。しかし。 ﹁鎚一下﹂の﹁己﹂の話は、﹁かのやうに﹂以下の世界を超えている。 ﹁鎚一下﹂の﹁己﹂の話は、秀麿が日記にさし挟んだ﹁数枚の反古﹂で 片付けることのできないものを含んでいる。 単行本収載に際して、作者鴎外は冒頭部に一節を附加するとともに、 以下に示す改稿を行った。 ○︵初︶己も或る団体の或る階級の服装をしてゐる。そして其男の階 級は己のより低い。←︵改︶それを見れば、其男の高貴な方に対 する関係は、略察することが出来るのである。 ○︵初︶余り階級の懸隔した人なので、公用では毎日のやうに語を交 ・へてゐても ←︵改︶それで平生心易く交際してゐても ○︵初︶己も物を書く人間になつてゐて見れば ←︵改︶己も著述家 にならうと思つてゐて見れば ○︵初︶己がけふ日々勤めてゐる役所に出てゐると ←︵改︶己がけ ふ書斎で本を読んでゐると ○︵初︶いつもより早く役所の用事を片付けて ←︵改︶’読みさした 巻を措いて邸を出て 鴎外の改稿は右に挙げた部分を含めて十七か所に及んでいるが、その中 でその主要なものは以上の五か所である。 この変改によって、鴎外は初出本文に見られた﹁己﹂の官僚臭さをぬ ぐい去って、﹁己﹂を﹁著述家﹂志望の青年という枠にはめ込んだ。初
一四四 高知大学学術研究報告 第三十四巻 ︵一九八五︶ 人文科学 出 本 に 見 ら れ る ﹁ 己 も 或 る 団 体 の 或 る 階 級 の 服 装 を し て ゐ る ﹂ ﹁ 己 も 物 を 書 く 人 間 に な つ て ゐ て 見 れ ば ﹂ ﹁ 己 が け ふ 日 々 勤 め て ゐ る 役 所 に 出 て ゐ る と ﹂ ﹁ い つ も よ り 早 く 役 所 の 用 事 を 片 付 け て ﹂ と い う 表 現 に は 陸 軍 軍 医 総 監 陸 軍 省 医 務 局 長 の 面 影 が 漂 い す ぎ て い る 。 ﹁ 或 る 団 体 の 或 る 階 級 ﹂ と い う 表 現 に 、 陸 軍 軍 医 総 監 と い う 呼 称 を 代 人 す る こ と は い と も 簡 単 で あ り 、 か つ ﹁ 日 々 勤 め て ゐ る 役 所 ﹂ ‘ と い う 表 現 か ら 陸 軍 省 医 務 局 を 想 定 す る こ と も 作 者 を 知 る 人 開 に と ’ つ て は 容 易 で あ る 。 二 足 の 草 鮭 を 穿 く ﹁ 己 ﹂ と ’ い う 設 定 を 捨 て 去 ・ つ て 、 ﹁ 著 述 家 ﹂ 。 を 志 す 青 年 の イ ’ メ . I ジ を ・ 創 り 出 す こ と に よ 。 つ て 、 鴎 外 は 自 画 像 の 突 出 を 回 避 す る と 七 も に 、 見 事 に ﹁ か の や う に ﹂ を は じ め と す る 秀 麿 も 辺 と の 連 携 を な し え た 。 ﹃ ⋮ ﹁ 鎚 一 下 ﹂ と い う 作 品 は 、 次 の f よ う な 五 つ の 部 分 か ら 成 り 立 ’ つ 7 い る 。 1 1 1 J r 一 一 ` − 一 − a ︵一︶’秀麿の近況 = ノ ︵二︶新橋停車場での﹁己﹂の体験の回想 ︵イ︶﹁己﹂と高貴な方の﹁随員たる其男﹂との対立 ︵口︶﹁或る皮肉家﹂﹃についての思い出 ︵三︶﹁己﹂の聞いた﹁牛込の男爵﹂の話トトH君の生についてI ︵四︶新橋停車場での﹁己﹂とH君との出会い ︵五︶H君の生活を書こうと思い立った﹁己﹂の心情 二︶の部分が既に触れたように改稿に際して新たに附加された部分で あり、作品﹁鎚一下﹂の中核をなす部分は︵三︶と︵四︶の﹁己﹂とH 君との問題であり、︵三︶がH君についての伝聞事実の描写であるのに 対して、︵四︶は﹁己﹂とH君の現実の出会いである。大正二年六月十 三日の鴎外日録に見られる﹁本間俊平東京に来て、直ちに又去る。新橋 に送りにゆき、前田正名、俊平の長女武子等にも面会す。﹂の作品化で ある。 ︵三︶の部分に見られる﹁牛込の男爵﹂の家れ 0伝聞は、既に山崎一 穎氏が﹁本間俊平︱鴎外ゆかりの人々 その六﹂ で指摘されたごとく、 大正二年三月十日のことであろう。当日の鴎外の日録把は﹁晴。石黒男忠 悳、大嶋子義昌を訪ふ。石黒と話すこと二時間許。鈴木本治郎来て筆受 す。佐佐木信綱、柿内三郎来話す。﹂とある。この﹁二時間許﹂の石黒 忠悳との対談の中で鴎外は石黒男爵忠悳から﹁鎚の一下を以て日々の業 を始む﹂H君こと本間俊平の生を聞いた。 秋吉台で大理石を掘りながら﹁社会から虐待せられつつ育って来た青 年﹂の教碍に尽捧するクリスチャン本間俊平は明治六年八月十五日越後 ヽ’ ` ,︵5︶‘ ’ 国三島郡間瀬村宇高屋に.生まれた。俊平の疾風怒萌のごとき生の片鱗を ‘ 石黒から聞いた鴎外の心の中に生起したものがどのようなむのであっだ コ ーー 一 かはその日録からは推察する術もな.いが、鴎外日記に見石れる静謐な筆、 ゾつかいの裏面には︲‘﹁奴隷の道徳﹂を奉じて生きる後生への並々ならぬ陽’ 四゜ 一S − fー ー ーぃ 心が娼鋸じている。因みに鴎外にH苔こと本間使平む生を語った石黒忠
る而已ならず其間幾多の良青年を養成せられ其父兄の悦を博せられたる 事も亦鮮からず年久しく交を締する老生輩亦欣喜に堪ざる所也此に二十 年記念に際し益御夫婦始︼族又一山の健康にして斯業に勉精せられ秋吉、 山より出る大理石も青年も他と特別の良秀なる名を永く続かむことを専 福す。﹂と記して本間俊平の功績をたたえている。 ﹁鎚一下﹂の︵三︶で主人公の﹁己﹂がH君こと本間俊平の話を聞い たのは、﹁心易い牛込の男爵﹂からであり、石黒忠悳の第宅は牛込区揚 場町十七にあった。既に触れたように大正二年三月十日のことであり、 ﹁鎚一下﹂欄筆の六月二十日から数えて三か月と十日前のこと、また、 ﹁鎚一下﹂掲載の﹁中央公論﹂第二十八年第八号の発行日の︸一二日前 のことであり、︵三︶の冒頭の﹁己がH君の名を聞いたのは、四箇月程 前の事であった。﹂どいう記述と大旨平仄が合っている。 ﹁鎚一下﹂という作品の中核をなす部分は既に触れたように、︵三︶ と︵四︶の部分、すなわち、﹁己﹂がH君のことを﹁牛込の男爵﹂から 聞き及んだ部分と、新橋停車場でのH君との対面の部分である。そして、 この中核をなす部分をより鮮明に描き出すべく設定されたのが︵二︶の 部分、すなわち、新橋停車場での﹁己﹂の体験を描いた箇所である。 ︵二︶の部分は二つの話から成り立っている。すなわち、新橋停車場 での﹁己﹂と高貴な方の﹁随員たる﹂男との対立の話と、他の一つは、 ﹁或る皮肉家﹂についての回想である。そして、後者は前者に付随する 思い出として描かれている。 ﹁己﹂である秀麿が躊躇しつつも、﹁継子根性のやうに誤解せられた くは無い﹂ため、つい高貴な方に暇乞いをすべく二三歩進み出た時、突 然、高貴な方の随員が﹁己﹂の右の肩尖に手を掛けて押し戻しながら﹁今 日は一般の謁見はありません。﹂と言ったというのが︵二︶の︵イ︶に 描かれる事件の概要である。 作品﹁かのやうに﹂︲において、鴎外は父との対決を回避すべくアルス・ 一四五 森 鴎 外 の 軌 跡 ︵篠原︶ オップの哲学に頼ろうとする五条秀麿を描いていた。﹁高等遊民﹂たる 秀麿に対して友人綾小路が﹁八方塞がりになつたら、突貫して行く積り で、なぜ遣ゝ大敗い。﹂と迫っても、秀麿は﹁所詮父と妥協して遣る望は あるまいかね。﹂と呟くだけであ力、秀麿の高邁な宗教諭も﹁明色の女﹂ の吃逆には何らの効果ももたらさなかった。観念の遊戯に生きる秀麿が 一歩を踏み出した時、そこには、﹁かのやうに﹂以下の世界とはちがっ た現実の世界が新橋停車場のプラットホームにあった。すなわち、﹁城 鼠社狐﹂、正しくは﹁城狐社鼠﹂の世界に生きつつ、﹁決闘﹂の思いに いくたびか苛まれてきたのが陸軍軍医総監、陸軍省医務局長鴎外森林太 郎その人の生でもあった。 しかし、﹁己﹂の頭脳が﹁城鼠社狐﹂と﹁決闘﹂という概念に支配さ れていたのは、わずかに一瞬間のことであった。﹁己﹂自身はその時の ことを次のように記している。 併し己の肩を衝いた男と相対して立ってゐて、そんな事実が己の意 識に上ったのは、真に一瞬間の事である。一体己は何事によらず、意 志の第一発動を其儡行為として現したことが無い。これは怯儒かも知 れない。若しこれに沈着と云ふやうな美徳の名を付けたら、それは文 飾であらう。兎に角利害関係から見れば、此性質のだめに屈辱を甘ん じ受けることが多い。そこで右の場合にも、意志の第一発動はたわい もなく消えてしまって、己は忽ち反省した。そして己の怒を発したの は、かの高貴な方に対して己の持ってゐなくてはならぬ尊敬が、まだ 十分でなかったのだと悟った。 みごとというほかは無い﹁己﹂の自省の告白である。父子爵との対立の 回避に腐心する秀麿の延長線上に存在する﹁己﹂の映像でもある。 ﹁城鼠社狐﹂の肢屋する状況に対して﹁決闘﹂を思い立ったのも﹁己﹂
一四六 高知大学学術研究報告 第三十四巻 二九八五︶ 人文科学 であったし、そのような非常の思念をあえて否定したのも、他ならぬ ﹁己﹂であった。意志の第一発動をたわいもなく消してしまい、﹁屈辱﹂ を甘んじて受ける﹁己﹂の性質は、一方から見れば﹁沈着﹂であるし、、 また、観点を変えるとすればそれは﹁怯儒﹂ということになろう。あの ﹁舞姫﹂においても、作者は主人公太田豊太郎の言勣の源に﹁弱くふび んなる心﹂を設定して、いたし、﹁己﹂を支配する二つの桔抗する思念の 中に生きていた,のが鴎外森林太郎その人でもあっ ﹄た。 高貴な方の随員たる男との対立を白昼夢として消し去った﹁己﹂‘は再 び﹁城鼠社孤﹂、によ?て成り立っている閉塞社会の一員として,の自己を 取り戻した。そのた始に社、﹁己﹂自身の高貴な方に対する尊敬がまだ` 十分ではないこどを認識する必要があうた。意志の第一発勁に伴う怒り ︲。︲ ﹁己﹂が今日新橋停車場に送りに行った人は、 ‘ ﹁城鼠社狐﹂という概 念の中に生息する人ではなかった。文字どおり﹁珍らしい人﹂であった。 ﹁四箇月程前﹂、鴎外の日録に密着すとすれば、大正二年三月十日石黒 忠悳邸で聞いたH君夫妻とAとの話、すなわち本間俊平次子夫妻と相川 勝治との事件は、﹁城鼠社狐﹂の概念の支配する社会の出来事ではない。 牛込の男爵の話を聞いた﹁己﹂は﹁われは鍛匠を羨む。鎚の一下を以て 日々の業を始む。﹂なる句を想い起している。﹁鍛匠を羨む﹂のは﹁己﹂ ひとりではなか。つた。鴎外森林太郎その人も﹁鍛匠を羨む﹂ 一人であ、 た。﹁鎚T下﹂ 一篇は、作者鴎外の﹁鎚の一下を以て日々の業を始め﹂ るこえのできるH君夫妻の生に対する憧憬の産物である。﹁基督教嫌の’ “ ニイチエは、既に人の片頬を撃允れて、更に一方0 頬を撃たせようとす る道徳は、‘奴隷の道徳だと云。つた。その奴隷の道徳を奉じて。ゐる人達かで l i j l ■ い‘﹃ 。︲ I I I。鎚の一下を以て日々の業を始めてゐるのである。﹄−鴎外を囲統して厳 然として存在する城鼠社狐の社会とは異なった世界に生きる人々への並々 ならぬ関心の発露である。 H君に対する作者の眼には感動がある。作者は続いて次のように記し ている。 併しおもに己を感動させたのは、其事ではなく其人である。己の男 爵に聞いた物語めいた事実は、1 へば断えず流れてゐる水が偶々石に 激せられて沫を飛し、断えず燃えてゐる火が偶々風に煽られて談を閃 かしたに過ぎない。異に社会から虐待されつつ育って来た青年の一人 と交る人があるとする。其人の生活は決して平穏ではあるまい。さう 云ふ青年が寄り合って出来た集団の中央に、幾年の久しい間身を置い て、その一人一人に人間としての醒覚を与へようとしてゐるH君の生 活は、実に驚くべきものではないか。己の感動したのは、H君の此日 常生活を思って感動したのである。
﹁己﹂のこのような﹁感動﹂は、新橋停車場におけるH君との会話へと 続いている。 に言った。﹁浜夫人です。﹂円雷の婦人が已に会釈した。 ﹁そんなら武子さんのゐられるお内の奥さんですね﹂と己は云った。 己はH君に言った。﹁大そう急な用事で御上京になったのだそうで すね。﹂ ﹁ええ。矢っ張周囲の窟迫を受けてゐる青年の事で。﹂ ﹁ははあ。思想問題でせうね。﹂ \ ﹁さうです。むづかしい時代で。﹂ ﹁どうも目上のもののそれに対する処置が、一般に宜しきを得ない のですから。﹂ H君は頷いた。﹁旧思想を強ひようとするのは駄目です。﹂ ﹁片付きましたか。﹂ ﹁此汽車に載せてIしよに連れて帰るのです。﹂ 話はここに尽きた。 H君は己の逢ひに米たのを丁寧に謝した後、円看の婦人を顧みて己 一liin r\ \ lO﹁’fヽニχしχ’゛`︵旨’︶o一 1■nvSm rノ∃m ^ "^ i-i'\ \一y{u rv \ t I o 会話文の主語が明記されておらず判然としないのが残念であるが、﹁え え⋮⋮⋮﹂と応えたのがH君であり、ぞれを受けて、﹁ははあ。思想問 題でせうね。﹂と推定したのが﹁己﹂、そして、﹁さうです。むづかし い時代で。﹂と慨嘆しているのがH君であり、﹁どうも目上のもののそ れに対する処置が、一般に宜しきを得ないのですから。﹂という断定を 下したのが﹁己﹂ということになる。 ﹁どうも目上のもののそれに対する処置が、一般に宜しきを得ないの ですから。﹂トト微妙にして含蓄のある断案である。このH君に対する 一四七 森 鴎 外 の 軌 跡 ︵篠原︶ ﹁己﹂の断案に近い文言を鴎外の他の作品から抽出するとすれば、﹁食 堂﹂における主人公木村の一言と、﹁最後の一句﹂の十六歳の痩肉の小 娘いちの﹁最後の詞の最後の一句﹂がある。 鴎外の作品﹁食堂﹂は明治四十三年十二月一日発行の﹁三田文学﹂第 一巻第八号に発表された。九月一日発行の﹁三田文学﹂に発表された ﹁フアスチェス﹂や、前月十一月の﹁三田文学﹂に掲載された﹁沈黙の 塔﹂に続く鴎外の思想小説であり、大逆事件決定書公表後の閉塞の時代 を活写した作品として注目されるが、この﹁食堂﹂に次のような場面が ある。 ﹁雨漏りの痕が怪しげな形を茶褐色に画いてゐる紙張の天井、濃淡の ある鼠色に汚れた白壁、廊下から覗かれる処だけ紙を張った硝子窓、性 の知れない不潔物が木理に染み込んで、乾いた時は灰色、濡れた時は薄 墨色に見える床板。かう云ふ広間﹂の役所の食堂で、﹁某局長の目金﹂ で任用されたという噂の犬塚から﹁恐ろしい連中﹂についての詞を聞く 木村は、﹁鳥さしがそつと覗ひ寄って、鶏竿の尖をつと差し付けるやう な心持﹂になりながらしだいに話に釣り込まれて行った。知識欲にから れながらも、﹁無政府主義﹂については少しの知識を持ち合せない山田 の﹁あんな連中がこれから殖えるだろうか。﹂という問いかけの後に次 のような描写がある。 ﹁殖えられて溜まるものか﹂と、犬塚は叱るやうに云って、特別に 厚く切ってあるらしい沢庵を、白い、鋭い前歯で咬み切った。 ﹁木村君、どうだらう﹂と、山田は不安らしい顔を右隣の方へ向け た。 ﹁先づお国柄だから、当局が巧に柁を取って行けば、殖えずに済む だらう。併し遣りやうでは、激成するといふやうな傾きを生じ兼ねな い。その候補者はどんな人間かと云ふと、あらゆる不遇な人間だね。
一四八 高知大学学術研究報告 第三十四巻 ︵一九八五︶ 人文科学 先年壮士になつたやうな人間だね。﹂ ﹁鎚一下﹂における﹁己﹂の一語、すなわち、﹁どうも目上のもののそ れに対する処置が、一般に宜しきを得ないのですから。﹂という断案が、 大逆事件とそれに続いて明治四十四年一月十九日付読売新聞第一面に掲 載され^啓﹁南北朝対立問題︵国定教科書の失態︶﹂に端を発した南北朝 正閏問題とを経過した鴎外の論理切帰結であるとすれば、﹁食堂﹂にお ける犬塚を前にしての木村のI語ばい・作者自身の予想される状況への明‘ 敏な洞察に立脚した願望であったはずである。﹁先づお国柄だから、当 局が巧みに柁を取づて行けばヽ殖えずに斉むだyつ・﹂という木村の発 言の背景には、Lか月前の﹁三田文学しに発表された﹁沈黙の塔﹂にお ける﹁芸術の認める価値は、因襲を破る処にある。因襲の圏内。に夕ろつ’ いてゐる作は凡作である。因襲の目で芸術を見れば、あらゆる芸術が危 険に見える。﹂﹁学問だって同じ事である。学問も因襲を破って進沁で行 く。一国の一時代の風尚に肘を製せられてゐては、学問は死ぬ乱心七 いう極めて犀利な断定が存在するはずである。 ﹁どうも目上のもののそれに対する処置が、一般に宜しきを得ないの ですから。﹂−鴎外の分身﹁己﹂の一語の延長線上には、﹁鎚一下﹂ 発表から数えて二年三か月後の大正四年十月一日発行の﹁中央公論﹂に 発表された﹁最後の一句﹂における姉娘いちの一語がある。長谷川泉氏 は﹁鴎外文学の位相﹂において歴史小説﹁最後の一句﹂の原拠と目され る作物を紹介したうえで、﹁鴎外は﹁最後の一句﹂において孝女いちの 献身の哀話とその讃歌を奏でたのではなかった。すなわち原拠と目され る素材に歴史離れのフィクションをほどこし、現代心理分析の潤色を加 え琵︶政治不信と官僚批判の鋭い反抗を盛って見せることになったので。 ある。﹂と断じているが、元文三年十一月二十四日の未の下刻の大阪西 町奉行所の白州は、十六歳の桂屋の長女の最後の詞の最後のI句によっ て、その漕=を根底からゆるがされた。﹁お上の事には間違はございま すまいから。﹂1いちの﹁最後の一句﹂は痛烈な﹁反抗の鋒﹂となっ て、西町奉行佐佐又四郎成意のみならず奉行所の役人一同の肺諭を貫い た。 桂屋太郎兵衛の姉娘いちも、そして、﹁鎚一下﹂のH君もともに与え られた困難な状況下で懸命に生きる人間である。﹁最後の一句﹂のいち の父親助命の願出の裏には、いちをはじめとする五人の子どもの身代わ りの申し出がある。自分たぢ五人の子どぢの命を犠牲にしIで父親太郎兵 衛の命乞いをす’る五人の﹁`献身﹂の絵柄は、﹁鎚一下﹂におけるH君の ’生の延長線上。からいぐらも離脱していないはずである。﹁鎚﹁下﹂。の 全一︶におけるH君夫妻とAとの出会い`一すなわち、本間俊平次子夫妻− 甲 1 s l “”I F AJ相川勝治との出会・いは次のよ夕に描かれている。い ブ 。ペドノ 話はかうである。長門国に秋吉と云ふ所がある。そこから大理石が 出る。併しその採掘は利益が少いので、企業家が手を著けても持続し て行くことが出来ない。Hは現にそれを採掘してゐる。そしてそれを 採掘するのに、尋常の企業家のやうに、労働者を使ってゐるのでは無 い。Hは多くの不遇の青年を諸方から集めて、基督教の精神を以て、 同胞として彼等を待遇して、自分もIしょになって労働してゐる。或 る年Aと云ふ人がその仲間に這入った。Aは非常な癩癩持て、それが ために官を失ひ獄に下ったことかある。その後どこにゐても折合が悪 かったのを、Hがとぅく引き受けた。二年程一しょにゐるうちに。 Aは新しく仲間に這入った青年と争論をして、そしてHにその青年を 放逐することを要求した。Hの細君が傍からAを諌めて云った。ここ は世の人が悪いと云ふ青年を入れる所だから、わるいからと云ってこ こから出すことは出来ない。どうぞ人を責めずに己を責めて下さいと 云った。Aは持前の削癩を起した。そしてHが黙って細君に詞を尽さ
せたのを責めて、出刃庖刀で切って掛かった。庖刀はHには中らない で、H君の細君の腕に中った。その時細君は死を決して、讃美歌を誦 した。Aは驚いて、夢の醒めたやうになって、自殺しようとした。周 囲のものがそれを止めた。それからはAもHの真の同胞のやうになっ て、現に或る慈善事業に尽捧してゐると云ふのである。 ﹁牛込の男爵﹂の話を聞いた﹁己﹂は、その感動の由って来るところを ﹁それには昔の献身者の物語に似た事を、現に生存し活動してゐる人の 上として聞いた、好奇心の満足も加はつてゐるに相違ない。又その献身 者のやうな夫婦が大理石を掘つてゐると云ふことが、一種の象徴のやう に、己の感受性の上に作用した所もあるに相違ない。﹂とするとともに、 社会から虐待されながら育って来た青年の集団に身を置いて、ぞの一人 一人に人間としての醒覚を与えようとする﹁H君の日常生活﹂への着目 に感動の源があると記している。 ﹁最後の一句﹂の﹁お上の事には間違はございますまいから。﹂とい ういちの一語に対して、鴎外はあえて注釈を付して、﹁元文頃の徳川家 の役人は、固より﹁マルチリウム﹂といふ洋語も知らず、又当時の辞書 には献身と云ふ訳語もなかつたので、人間の精神に、老若男女の別なく、 罪人太郎兵衛の娘に現れたやうな作用があることを、知らなかつたのは 無理もない。しかし献身の中に潜む反抗の鋒は、いちと語を交へた佐佐 のみではなく、書院にゐた役人一同の胸をも剌した。﹂と記している。 ﹁マルチリウム﹂martyriumに生きる捨身の人間としてH君もいちもと もに作者鴎外の憧憬の対象である。マルチリウムの包含する概念に﹁殉 教﹂の二字を挿入するまでもなく、H君夫妻やいちを具象化した鴎外の 。原体験’に注目しなければならない。 鴎外の生地津和野への百五十三名にのぼるキリシタン流罪の凄惨な歴 史的事実については国立公文書館に残る﹁異宗門徒人員帳津和野藩辛未 一四九 森 鴎 外 の 軌 跡 ︵篠原︶ 五月﹂や津和野町蕪坂峠の﹁殉教者名碑﹂が如実に物語るところであり、 百五十三名中の死亡率は二五・五%にも達し、三十九名の多ぎを数えて おり、林太郎の津和野時代のいやしがたい﹁原体験﹂として心の奥底に 焼付いていたはずである。二十七名もの死亡者の出た明治三年、前年来 藩校養老館に通っていた林太郎は九歳であった。鴎外森林太郎の生涯の 軌跡の中にしばしば見られる反 叫喚の地獄絵図があったはずで
回
構図の背景には、乙女峠にける阿鼻 ところで、竹盛天雄氏は、既に触れた﹁食堂﹂における木村の﹁先づ お国柄だから、当局が巧に柁を取って行けば、殖えずに済むだらう。﹂ について、﹁この部分は、﹁柁を取って行けば﹂というとこ`ろにアクセ ントをおいて読まれ、鴎外の柁を取るという意識について議論されるデー タとなっているが、わたくしには、鴎外がそれほど楽天主義に陥ってい たとは考えにくい。むしろ鴎外の真意は、この後の方の﹁併し遣りやう では、激成するといふやうな傾きを生じ兼ねない。﹂という、強権によ る弾圧政策がもたらす細作について、警鐘を鳴らし覚醒をうながすとこ ろにあったのではないか﹂としている。竹盛氏の明敏な指摘に賛意を 表するとともに、続いて竹盛氏が﹁食堂﹂後半の無政府主義の歴史につ いての記述とのかなりな程度の﹁契合性﹂を指摘した、平出修弁護士の ﹁幸徳事件弁論手控﹂につい友1 若干の付言を呈しておきたい。平出の ﹁手控﹂は、﹁平出修集第一巻﹂に見られるところであり、その末尾に 次のような記述がある。 ステルネル ブルドン バクニン -ヘーゲルの哲学より、マツキスーステルネル︵シミツト︶ 有らゆる崇敬するものを否定する一五〇 高知大学学術研究報告 第三十四巻 二九八五︶ 人文科学 一 -頼む処は己れなりと云ふ ブルドンはステルネルから来たのではない。ステルネルを 無神論者にして、無政府主義者なり︵仏︶ ロシヤのバクニン ツルゲネーフの虚無党 ︲ 自然学の範囲内に解釈 バクニンが虚無党の名を襲ふ ゜瑞西の時計屋事件 ﹃、。。、。 ﹃ユラの騒動 ’ 瑞西に死す ’じ事実を以つてする宣伝、’伊大利亜 ” ︵傍線筆者︶゛ ≒ I http://www... − 一 I FI・I d“I F“ − ゛− ゜i ` I Ir Jj l jI この平出修の﹁幸徳事件弁論手控﹂の中の﹁事実を以つてする宣伝﹂な る語は、﹁契合﹂以上の謎を秘めている。 ﹁沈黙の塔﹂は、直接には東京朝日新聞が明治四十三年九月十六日か ら十月四日にかけて十四回にわたって連載した﹁危険なる洋書﹂に対す る西学東漸の門としての鴎外の極めてジャーナリスティックな回答の産 物であるが、パアシイ族の西学東漸の経緯を描いた部分に次のような記 述がある。 丁度其頃此土地化革命者の運動が起ってゐて、例の郷子の殼の爆裂 弾を持ち回る人達の中に、パアシイ族の無政府主義者が少し交ってゐ たのが発覚した。そして此 rropaga乱e par le faitの連中が縛ら れると同時に、社会主義、共産主義、無政府主義なんぞに縁のある、 乃至縁のありさうな出板物が、社会主’義の書籍之釦ふ符牒の下に、安 寧秩序を斎るものとして禁止せられることになった。 文中の﹁例の榔子の殼の爆裂弾を持ち回る人達の中に、パアシイ族の無 政府主義者が少し交つてゐたのが発覚した。﹂は、宮下太吉、新村善兵 衛、新村忠雄が長野地方裁判所松本支部で和田良平次席検事らの取調べ を受けた明治四十三年五月二十七日から、宮下以下三名と管野すが、古 河力作、新田融、幸徳秋水の合計七名が刑法第七十三条に該当する犯罪 行為があったものとして松室検事総長に送致される六月上旬の状況を下 敷にしたものであるし、引用文後半の、﹁社会主義、共産主義、無政府 主義なんぞ化縁のある、乃至縁のありさうな出板物が、社会主義の書籍 といふ符牒の下に﹂云々について︲は、石川啄木の,﹁日本無政府主義者隠 謀事件経過及び附帯現象﹂の八月四日の条の﹁文部省は訓令を発して、 ’全国図書館に於て社会主義に.関がる書籍を閲覧せ七’むる﹃事を倣禁レ大り戸 一 l f ・f を事実証明として挙げれば十分であろう。\’ ≒ J 若し平八郎が、国家なり、自治団体なりにたよつて、当時の秩序を 維持してゐながら、救済の方法を講ずることが出来たら、彼は一種の 社会政策を立てただらう。幕府のために謀ることは、平八郎風情には 不可能でも、まだ徳川氏の手に帰せぬ前から、自治団体として幾分の 発展を遂げてゐた大阪に、平八郎の手腕を揮はせる余地があつたら、 r 。
暴動は起らなかつただらう。 この二つの道が塞がつてゐたので、平八郎は当時の秩序を破 望を達せようとした。平八郎の思想は未だ醒覚せざる社会主義で ︵傍線筆者︶
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と断じているが、あの十二月二十八日の大審院特別法廷で平出修が高木 顕明、崎久保誓一両被告の弁護人として平沼騏一郎検事を相手に二時間 にわたる弁駁の論を展開し池頂の手控、すなわち、﹁刑法第七十三条 に関する被告事件弁護の手控﹂の中核をなす立論との奇矯なほどの契合 は、﹁鎚一下﹂の底面を支える鴎外の思念を解く鍵でもある。 然らば本件被告に無政府主義者たるの信念があったかと云ふ把、彼 等の大多数は、無政府主義の本体に就いて確たる。意見がないのである。 現に主義其ものに対する智識がないものに、信念と云ふものが有りや う筈がないのである、一体今日の新思想は、個人の自覚と云ふものが 基礎を作社て居るので、すべて理性の上から判断して自己の帰依する 思想を交てるのが近代人の特色の一つになって居る、故に理解なしに 信ずると云ふ迷信は、近代思想の最も忌む処、自覚して信じ、理解し て実践すると云ふことでなくては、近代思想の信念ではないのである。 近代思想が危険であると云はるるのも、つまり個人の自覚と云ふ牢乎 とした基礎の上に立つからである。然るに本件の被告には、未だ此自 覚がなく、理解がなく、もし彼等が無政府主義者なりとすれば、理解 のない主義者、自覚のない主義者である、故に少し考察して心眼を開 くか静思して理解に入るかすれば、忽ち懐疑思想に捉はれるのである、 之れは多数被告の態度を親しく目賭せられた判官諸公のもはや看取せ られた処のものであって、斯くの如きものを主義者とは申されぬので ある、彼等は只社会の欠陥に慨し、所謂燕趙悲歌の士を気取ったにす 一五一 森 鴎 外 の 軌 跡 ︵篠原︶ ぎぬのである。彼等が無政府主義者なりと云ふのは、只此意味に於て のみである、従って真に主義に殉ずる、確固不抜の意思があるのでは 決してない。︵傍線筆者︶ 大逆事件の﹁多数被告﹂を﹁理解のない主義者、自覚のない主義者﹂と 規定したうえでの、犯罪事実の不在証明に挑む平出の立論は鮮やかであ る。﹁沈黙の塔﹂における﹁Propagandepar le fait﹂なる表現と ﹁幸徳事件弁論手控﹂の﹁事実を以つてする宣伝﹂との契合、そして、 右の引用部分における﹁理解のない主義者、自覚のない主義者﹂という 文言と﹁大塩平八郎﹂︵附録︶における﹁未だ醒覚せざる社会主義﹂と いう表現との奇妙なほどの吻合のうえに、次の一節を加える時、いかな る絵柄が成立するのであろうか。﹁城鼠社狐﹂の世界とは千里を隔たっ た世界がそこには厳存しているはずである。 すなわち、幸徳秋水は明治四十四ご ︶月十日、東京監獄から平出修に 対して一通の封絨はがきを発しているが、その中で秋水は、平出の十二 月二十八日の弁論に対して﹁熱心な御弁論感激に堪へませんで’した、同 志一同に代りて深く御礼申し上ます。﹂と記して感謝の意を表明し、 ﹁酒ほがひ﹂︵吉井勇︶の差入れに触れたうえで、文芸論を展開してい る。大逆事件の首魁とされた秋水幸徳伝次郎は、自己の理想とする文芸 を﹁一たび此美しい夢から醒めて、実際の生活に立返り、深刻に社会の 真相を観破した頭脳から遊つた文芸﹂と断定したうえで、ウイリアムー モリス、ソラ、ハウプトマン、ゴーリキー、アナトールーフランス、ダ ヌンチオ、バーナードーショウの名を挙げ、これら泰西の文人の作物が ﹁一般社会の人心を震憾するを得る所以﹂は﹁人間の真に触れ得るが為 め﹂とするとともに、重要な一文を草している。 そして以上に名を挙げた人人は、皆な自覚せる社会主義者たること一五二 高知大学学術研究報告 第三十四巻 ︵一九八五︶ 人文科学 は、最も注意して戴きたい所だと思ひます︵傍線筆者︶ 十二月二十八日の大審院の最終弁論で平出修の弁論を聞いた秋水は、平 出の﹁理解のない主義者、自覚のない主義者﹂なる言辞の逆手を取って、 ウイリアムーモリス以下の泰西文人に対して﹁自覚せる社会主義者﹂な る献辞を呈した。そして、修の背後に見え隠れする観潮楼の主鴎外は三 年後の大正三年﹁月、﹁大塩平八郎﹂において、平八郎の思想を﹁未だ 醒覚せざる社会主義である。﹂と断じた。十二月二十八日の平出修の弁 論の根幹をなす、大多数の被告を﹁理解のない主義者、自覚のない主義 者﹂作こ規定したうえでの行動’の不在証明の論理は観潮楼のメートル鴎外 の教一不によるものであろう。ご 。⋮⋮⋮ ・続いて秋水砲、文芸の真価を﹁人生と交渉あ’る点﹂ たうえで、 に見出したいとし ` ゛り 日本の文学でも鴎外先生の物などは、流石に素養力量がある上に、 年も長じ人間と社会とを広く深く知って居られるので立派なものです、 私はイッも敬服して読んで居ます。 として、日本文学の中で鴎外のみを取り挙げて賞讃の言辞を展開してい る。東京監獄の人であった秋水が﹁イッも敬服して読んで﹂いたのは、 差入れによって手に入れた﹁三田文学﹂であろう。明治四十三年十二月 十八日付の堺利彦あての秋水書簡には﹁三田文学はよく気がついたね、 僕はアンナ文学がすきだ、又見あたったら送ってくれ玉へ、幽月も小説 ずきだから送って遣ってほしいもんだ﹂︵傍線筆者︶と記している。因 みに鴎外はこの頃﹁三田文学﹂に﹁フアスチェス﹂︵九月号︶、﹁沈黙の 塔﹂︵十一月号︶、﹁食堂﹂︵十二月号︶を発表していた。これら三作品 の評価に係る重要な秋水の言辞であるとともに、鴎外の足跡を検証する ︵22︶うえにおいて注目すべき事実でもある。 新橋停車場でH君に会った﹁己﹂にとってこの日は記念すべき日でも あった。﹁中央公論﹂に発表した﹁鎚一下﹂の末尾に、あえて﹁一九、 一三、六、一三﹂と記した鴎外にとっても﹁意義のある出来事﹂であっ たはずである。M君こと前田正名から﹁秋吉に往つて御覧でしたか。﹂ と尋ねられた鴎外の分身﹁己﹂は﹁まだ往きません。併しいつか往つて 見たいものです。﹂と応えているター﹁己﹂も鴎外も﹁奴隷の道徳を奉じ てゐる人達が、鎚の﹁下を以て日々の業を始めてゐる﹂秋吉へ赴くこ。と はなかやだ。依然として、﹁己﹂’も鴎外も﹁城鼠社狐﹂に囲統されつつ 生きねばならなかった。八方塞がりになっても、突貫して行くことはで II II il ■ I j 四 IIS闘 i ・きなかヴた。その意味において、H君社﹁かのやう把﹂の世界に生きる 鴎外森振太郎の憧憬の具象でも砂った。∼平出修や羽良平4 、ごそして本間、。 俊平との交渉の中に、官詣に生きる﹁フイリステル﹂︵﹁普請中﹂︶と しての鴎外の苦渋嘆息を聞く思いがするとともに、﹁鎚一下﹂で鴎外が 描いて見せた憧憬の奥津城には、大正七年十二月二十日付の賀古鶴所あ ての書簡や翌大正八年十二月二十四日付の同じ賀古あて書簡がある。前 者において鴎外は、病臥中に開かれた常磐会で、井上通泰が帝王学の必 要性について大気焔をあげたという賀古の報告に対して﹁フランス革命 ニテ君主専制が敗レ立憲君主制が出来タルニ此大戦ニテソレガ又危クナ リ居候勢ヲ以テ論ズレバ前途ハ政権が人民二遷り民政トカ共和制トカニ ナリハセヌカト察セラレ候此時二当りテ我帝室ヲ奈何スベキカ世界ノ大 勢二反抗シテー旦君主専制ヨリ中途半端ノ立憲君主制マデ譲歩シタル現 制ヲ飽クマデ維持スル︵が出来ベキカソンナ事ノ出来タ例八万国ノ歴史 ニナイデハナイジ︶^傍線筆者︶と記している。文中の﹁世界ノ大勢二 反抗シテ﹂の一節は、﹁現制ヲ飽クマデ維持スル﹂を修飾することは自 明の理であろう。﹁大そう急な用事で御上京になつたのださうですね。﹂ ﹁ええ。矢つ張周囲の窮迫を受けてゐる青年の事で。﹂﹁ははあ。思想問
題でせうね。﹂﹁さうです。むづかしい時代で。﹂﹁どうも目上のもののそ れに対する処置が、一般に宜しきを得ないのですから。﹂﹁旧思想を強ひ ようとするのは駄目です。﹂という﹁鎚一下﹂における﹁己﹂とH君の やりとりを想起させるのに十分である。 大正八年十二月二十四日付の賀古あて書簡では、鴎外は﹁御話中上候 社会政策猶細密二中上度近日又々参上仕度存居候名ヲツクレバ﹁国体二 順応シタル集産主義﹂背け口に0 斜可ごトブモ謂フベ牛力又﹁国 家社会主義﹂四特設謐卜云フモノニ・近ケレド世間二唱へ居ルハ同 盟罷エヤ群衆び示威運動ニテ成功セントスルモノユ‘エ全ク別二有之。候猶 研究中二御座妬ごと記している。鴎外の﹁国体﹂についての執心は依然 として続いている。 その日録によれば、H君こと本間俊平との書簡の往反はその後も続い ている。大正四年十月十八日の鴎外日録には﹁本間俊平秋吉にありて記 念会を開く。電信に托して祝辞を寄す。﹂とある。しかし、鴎外が再び H君のことを作品に描くことはなかった。﹁鎚一下﹂ 一篇は、﹁H君の 生活を書こうと思ひ立った己の望は何時遂げられるか知れない。事によ つたら昔ギョオテがグレエトヘン悲壮劇の筋を話すのを聞いて、それを 先に書いた人があるやうに、此記事を見て、先にH君の事を書く人が出 て来るかも知れない。若し今日文壇で老ミ者を以て遇せられてゐる己よ りも、それを先に書く人が旨かつたら、ギョオテの先例とは反対に、己 は安んじて初め書かうと思った事を終に書かずにしまふかも知れない。﹂ という文章でその幕を閉じているI。 注 ︵1︶ ﹁鴎外全集﹂︵昭和四十六年∼五十年、・岩波書店︶⑩−五九七、以下 同書による。 ︵2︶ ⑩I一〇九 一五三 森 鴎 外 の 軌 跡 ︵篠原︶ 八3 w 八 4 W 八5 w / ' ` χ 6 口 ハ 、 7 w へ8 心 八9 w 八 1 0 W へ 11 w ︵12︶ ︵13︶ ︵14︶ ︵15︶ ︵16︶ ︵ 1 7 ︶ ︵ 1 8 ︶ ︵ 1 9 ︶ ︵ 2 0 ︶ ︵ 2 1 ︶ ︵22︶ ︵23︶ ︵24︶ ⑩一九二 ﹁評言と構想﹂第十九輯、一七?四六頁 三吉明﹁本間俊平伝﹂︵新約書房︶の﹁本間俊平年譜﹂による。 東京大学法学部蔵 ⑩一七七 初出﹁長女です。﹂ 初出﹁そんなら武子さんですね﹂ ⑦−四一九 ’ 篠原義彦﹁鴎外の軌跡︵その三︶I思想小説﹁かのやうに﹂をめぐ る諸問題についてI﹂︵﹁日本文学研究﹂第二十号、一三五?一八一 頁︶ ⑦−三九二 昭和五十四年、明治書院刊、増補版二五七頁 ⑩−一七四 篠原義彦﹁森鴎外の世界﹂︵桜楓社︶の﹁五﹂参照 ﹁鴎外その紋様その13﹂︵﹁国文学﹂第二十五巻第六号、一四六ッー五 二頁︶ 春秋社刊、三四四上二四七頁 ⑦−三八七 ⑩−七二 ﹁平出修集﹂第一巻三二九?三四二頁 ﹁平出修築﹂第︸巻三八八∼三八九頁、﹁幸徳秋水全集﹂第九巻︵昭 和四十四年、明治文献刊︶五五八頁 ﹁森鴎外の世界﹂二二二頁 ⑩I五三〇 ⑩j五五九 ︵昭和六十年九月十二日受理︶ ︵昭和六十年十二月二〇日発行︶