†教科教育専攻 美術教育専修 指導教員:大嶋 彰 原 著 論 文
遊びの構造を分析することで見えてくる
造形教育の在り方
達
脇
知
弘
†Existence of Art Education Comes into View by
Analyzing the Structure of Play
Tomohiro TATSUWAKI
Abstract
Play consists of harmony which is essential for us to live. Analyzing the structure of play, dialogue and harmony, I found play is the ground of learning although play is for itself. Thatʼs why I think education must have the ground of play.
The meaning of art has changed dramatically since modernism and post modernism appeared. We canʼt define it strictly, because art is related to any context of the society. But the perspective of philosophy shows the importance of art.
Through this analysis, existence of art education comes into view. A purpose of Art education isnʼt to make students an artist but cultivate their sensibility for various things. And play has a very important role in art education to cultivate their sensibility.
キーワード:遊び,同調,アフォーダンス,アート,実存 Ⅰ.は じ め に 学校教育の論理は,子どもの能力を発達させ る「発達の論理」であり,特定の目的のために 使えるかどうかという有用性を原理とする近代 の労働をモデルとしている,と矢野智司は言 う1)。そして,この「発達の論理」によって注 目されたものの一つが遊びであり,遊びは体を 健やかにすることや,規則を学べることや,人 間関係を豊かにするといったことにおいて有用 性があると考えられたことから,学校において 遊びをもとにした教育がされるようになってき たと言える。しかし,田中裕喜も認めるように 「遊びの目的ないし価値は,遊ぶことそれ自体 の快楽にある」2) ことから,教育に道具的,操 作的に利用される場合は,遊び本来の可能性は 犠牲にされてしまうと考えられる。 本研究では,人間の基本的行為のなかの一つ である遊びの構造を西村清和の先行研究に依拠 しながら分析,考察し,さらに高橋勝の経験論 に照らし合わせることによって,この遊びとい う行為が有用性としての「発達の論理」の枠に
収まらない学びの源泉であること,そして,特 に造形教育が遊びに果たす役割の大きさについ て改めて確認することができた。本論は,現在 の教育において,遊びの役割を果たすために造 形教育はどう在るべきか,さらには,教育の場 とはどう在るべきかについての基本的な考察で ある。 Ⅱ.遊びの構造 1.遊びの姿 遊びは人間の他にも,鳥類の一部や哺乳類に 確認されており,特に子ども時代の遊びは生き ていく上で必要な,適応行動の獲得につながる ものとして考えられている。また,人間にとっ て遊びは気分転換やリフレッシュ,身体能力の 発達やコミュニケーション能力を促進するもの として一般的に考えられている。 確かに,遊びにはそのような効果を発揮する 潜在的な力があることは確かである。しかし, そもそも,遊び手自身がそのようなことを目的 にして遊んでいるとは考えにくい。遊び手は遊 びたいから遊んでいる,すなわち,遊びとは自 己目的的と考えるのが自然ではないだろうか。 遊びとは何かを述べるには,この遊びの自己目 的性に立脚し,遊び自体の成り立ちに遡ること が必要である。このような試みは,一見,実体 のない意味のないもののように思われるかもし れない。しかし,遊びの構造的な部分を明らか にすることで見えてくる遊びの可能性は,より 相互的,協働的な学びの姿を改めて浮かび上が らせることになると考えられる。 近代に入り,遊びの主題的発見によって多く の科学者,特に哲学者や心理学者が遊びについ て研究を進めてきた。なかでもホイジンガやカ イヨワの遊戯論は現在に至るまで遊びの基本ス タイルとしてとらえられている。しかし,これ ら従来の遊戯論は結局,遊びの現象そのものを 現実の自然や社会,文化のコンテクストに還元 してしまうものであり,遊び独自の内実につい ては知ることができないと思われる。これに対 して,美学者である西村清和は現象学的に遊び を分析し,その構造・骨格をとらえることが結 果的に遊びそのもののあり方をとらえることに なるとしている。 西村は,様々な遊びの行動を現象学的に記述 し分析することを通して,遊びとは存在様態, 存在状況であり,特定の活動ではないとし,全 ての遊びの基本構造は,遊び手と遊び相手とが 互いに呼びかけあい応答しあう往還運動への同 調にあるとする。そして,これは両者の間にあ る余地と余地の内部で当て所なく揺れ動く往還 反復の振りであり,西村はこの余地を「遊隙」 と呼び,さらにこの「遊隙」の内部に生じる遊 びの振り,運動様態を「遊動」と呼んでいる。 この様態を西村はシーソーでの遊びから説明し ており,ここで遊ばれる遊びとは,あるところ まで上昇しては反転して降下する遊動そのもの であり,遊び手の役割とは,ただ相手とつりあ う錘として存在することであるため,遊び相手 は錘としての適切な役割を果たす限りで,誰と でも交換可能であるとしている。 したがって,遊びがこのような構造であるな らば,遊び手はそれぞれに多様な人間であり, 遊び手どうしの間にある遊隙も多様であるため, 遊動は算定不能な多様性を持った様態であり, 遊びというものを一義的に定めることは困難で ある。西村はこの遊ぶ者と遊び相手の間にある 独特の存在関係を「遊戯関係」と呼び,この遊 戯関係のなかに同化することで遊び手になれる としている。そして,西村はこの秩序関係に入 り込むためには,遊ぶためのルールに従わなけ ればならないとしている。このルールは遊戯関 係に見られる往還運動への同調のルールであり, 遊びにおいてこのルールが守られない場合,両 者の間に遊び関係は成立しない。シーソーの遊 びであれば,シーソーの降りた方のものが地面 を蹴るというルールを守らなければその瞬間に 往還運動が終了し,遊戯関係は絶たれてしまう。 遊びのこのようなルール遵守の性格は 19 世 紀以降の発達心理学や教育学に注目され,遊び が子どもの「社会化」に有用なものであると考 えられた。その代表例として,ピアジェはマー ブルゲームのなかに「義務と服従の道徳」から, 「善 (義務に対立した) と自律の道徳」への連 続的発達を認める3)。しかし,これに対して西 村はピアジェの論は遊びを通じて社会化するこ との因果性について,なんらの確証も与えない
として次のように批評する。 義務や構成や人格尊重を子どもたちは, ゲームに限らず,かれの生活のあらゆる局 面をつうじて,次第に学習し,身につけて いく4) 結局,ゲームの規則とは,西村の認めるよう に,何よりもゲームの遊びを成り立たせるもの, 具体的な「遊び方」を規定するものと考えられ る。そして,遊びが上手くいく限り,その規則 は良い規則と言うことができ,遊びのルールの 根拠はまさに遊び自体にあり,それは「面白く 遊ぶ」ために存在すると言える。 また,西村は「これは遊びだ」というメタ・ コミュニケーションが遊ぶものどうしの間で成 立していなければならないことも,往還運動へ の同調には欠かせないとしている。確かに,格 闘ごっこのような一見喧嘩ともとらえられるも のが遊びとして成立しているのは,そのような メタ・コミュニケーションが成立しているため と考えられる。 2.遊びの可能性 遊びを考える上で見逃せないのが,その自己 目的性ゆえに,遊び手は周囲と遊びの関係を結 ぶことで,遊び続けるために同調するべき遊隙 を積極的に生み出すことがあげられる。つまり, 遊んでいる限りにおいて常に,同調するべき可 能性が生成されるということである。 例えば剣玉のような遊びであれば,一般的に 初心者は,最初に,最も成功する可能性の高い 大皿に玉をのせようと試みる。これは剣玉が遊 び道具として存在する上で自然なプロセスと考 えられる。なぜなら,遊び手は剣玉で遊びたい から剣玉をするのであり,初心者にはあまりに も難し過ぎる剣先からまず成功させようと試み ても,それはあまりにも我慢の伴うものになっ てしまうためである。遊戯関係とは遊び手が相 手との間に生じる遊隙を遊び,それが往還関係 を結ぶことにより成り立つ。つまり,遊び手の 行為が遊びたりうる反応となって返って来なけ れば遊びにならないのである。そのため,一向 に成功の兆しが見えてこないような,あるいは 見えてきたとしても他の技に比べて成功の兆し が見えにくい技は,遊びの優先順位として低い ものになる可能性が高いというわけである。 このことは,遊びの過程そのもの (遊べてい るという事実) の可能性に重要な意味があると いう考えを導くことになる。剣玉の遊び手は何 度も失敗をするうちに,だんだんと成功の兆し が見えてきて,ついに技が成功に至ることにな るのだが,これは同時に更なる遊隙の探索に遊 び手を向かわせることになる。それが結果とし て大皿,中皿,小皿,剣先というプロセスにな る。剣玉の初心者にとって,最初は難易度の低 い大皿が良き遊び相手かもしれないが,遊び手 は剣玉との関係性を遊びのなかで常に変容させ, やがて大皿に玉をのせることが大してチャレン ジングなものではなくなってしまう。しかし, 剣玉という玩具は常に遊びの可能性を遊び手に 提供しうるわけであり,それが遊び手をより難 易度の高い技へ誘うと考えられるのである。遊 びの可能性の一つは,このような遊びの発展の なかで段階的な技術の獲得を結果的にもたらす ということである。このことは,遊び手が遊び 続けられていること自体,常に技術の獲得を実 現しているということを示していると言える。 また,遊びの可能性として無視できないこと に,遊び手は遊び相手となるものそれ自体の, 一般的に持っている記号性に縛られることなく 遊びうるということである。例えば,剣玉で到 底遊べないような幼児が「剣玉」と戯れるよう なことがあるが,これは剣玉としての遊びをし ているわけでないことは明らかである。しかし, それでもその幼児にとって「剣玉」が遊び相手 となっているのであり,「剣玉」は「剣玉とい う玩具」でなくとも,十分に玩具としての存在 性を発揮していることになる。つまり,遊びと いうものは,遊戯関係が結ばれている限りにお いて,一般的な記号性にとらわれずに,遊び相 手となる可能性を引き出しうるものと言える。 そして,その結果として,その玩ばれるモノは, 既存の記号性を越える新たな意味を誕生させる ことになる可能性を持っていると考えられるの である。 では,遊戯関係の基盤である,遊び手が遊隙 に同調するという,「同調」の意義とはいかな るものであろうか。この「同調」の本質を明ら かにしなければ,遊びの可能性を十分に掴んだ
ことにはならない。よって,遊びという現象の 可能性をより関係性の側面から見ていけるよう に,同調の意義について論じていく必要がある。 Ⅲ.同調の意義 1.対話において 同調の意義を掴むために,まず,私たちは 日々の生活のなかで自分と他者 (身の周りの環 境) との間に対話的関係を結んで生きているこ とについて考えてみたい。浜田寿美男によると, 対話は話し手 − 能動,聞き手 − 受動という一 方的関係によってではなく,「人と人とが一対 の単位として,ことばが〈能動 − 受動〉の円 環をなして流れていく」5) ことで成り立つとし ている。そして,浜田は電車の中で携帯電話の 声がなぜ迷惑であるかということを例に,対話 において〈能動 − 受動〉の円環が結ばれてい ないときに私たちが感じる違和感を分析し,そ こから「対話」というものの本来の構造をとら えている。浜田によれば,対話とは言葉を交わ すものの間でパースペクティブが重なることで 成立するものであり,パースペクティブが重な るには対話が〈能動 − 受動〉の円環をなして 流れていなければならないとしている。 さらに浜田は,ことばに対して無意識的に意 味を求める強固な知覚体系が人間にはあること を,ネッカーの立方体のように無意識的に立体 (意味空間) を立ち上げてしまうことから説明 する。電車の中での赤の他人が発する〈能動 − 受動〉の円環が塞がれた携帯電話の言葉に 対しても,無意識的に対話的空間を立ち上げよ うとしてしまうのが言葉の受け手であり,この ことによって,人間は苛立ってしまうと浜田は 分析している。 それでは,浜田の言う対話の〈能動 − 受動〉 の円環とはどのような構造であろうか。浜田は, 対話はパースペクティブの重なりによって成立 する一方で,自分の身体の位置からこの世の中 を生きる以外にないという本源的な自己中心性 によって,対話をする両者のパースペクティブ が完全に重なることは原理的にありえないとす る。しかし,浜田はそれでも私たちは相手の身 体の姿に無頓着ではいられず,相手の身体の動 きに自分の身体が反応する,身体の本源的な共 同性を持っているとして,この共同性を同型性 と相補性の二つにまとめる。 まず,浜田の言う身体の同型性とは,もらい 泣きや,格闘技の観戦に熱中して,自分が戦っ ているわけでもないのに力が入るなど,出会っ た身体どうしが互いに同じような姿形を取って しまうことであり,そこには,相手の身体の姿 勢・運動に対して,自分の身体が無意識的に感 応して,知らぬ間に同じ形を取ってしまうこと から,意識的に相手の姿勢・運動をなぞって模 倣することまで含まれる。浜田はこの共鳴動作 とも言える身体の現象が生まれて数日の新生児 に見られることから,人間が同型性を生得的に 備えており,相手と通じ合うようになっている とする。 そして,浜田は身体の共同性のもう一つであ る相補性を,身体どうしが出会ったとき,その 両者の間で交わされる〈能動 − 受動のやりと り〉とする。浜田はこの相補性の例を「目が合 う」ことから次のようにあげている。 目が合うということは,自分が相手を 〈見る〉という能動の契機だけでなく,相手 から〈見られる〉という受動の契機がそこ に重なっているということに他ならない6)。 これは,同型性が相手の動きをなぞり,それ と一体化するのに対して,出合った相手を自分 自身と同種の能動性をもつもう一人の主体とし て受け止めるものであり,そこには相手と絡み 合いつつ,相手との差異を前提とする相互主体 性の関係があるとしている。 以上のことから,浜田は人間には同型性と相 補性が備わっており,私たちは絶対的な個別性 を持ちながらも,他者との共同性を持つ身体で 世界を生きているとして,図 17)のようにこれ を整理している。そして,対話とはまさに私た ちの身体を通して行なわれるものであり,対話 においても図 1 のような心的構図が見られると 図 1
している。 対話の同型性とは対話をするものどうしがあ る程度の共通の意味や概念を把握しているもと で対話が成立することであり,共通の意味や概 念の媒体は言葉だけでなく,ボディー・ラン ゲージでの同型的なものによって成り立ってい ると考えられる。 そして,対話の共同性と並んで構成する相補 性は対話をするものどうしの予め共通理解と なっていない部分を埋め合わすものと言える。 中田基昭は話し手の対話活動がパートナーに引 き受けられて補完されることにより,はじめて 対話活動となるとした上で,次のように述べて いる。 対話においては,いかなるときも,ある 一人の人間の中で能動と受動とが一体と なって同時に生起している8)。 また,浜田は,対話をする者は図 29)のよう に「内なる他者」を作ることで相互主体性を成 立させているとしており,私たちは話したり, 頭の中で話すことを考えたりするたびに,この 「内なる他者」の視点を通し,そこから思いを 受け取るとして,対話の〈能動 − 受動〉の円 環は,自分と相手との間で行なわれるものと, 自分と「内なる他者」との間で行なわれるもの との二重構造によって成り立っているとしてい る。 さらに,浜田は頭の中で考えたことをそっく りそのまま言葉に変換してしゃべっているわけ ではなく,しゃべりながら頭の中の漠然とした 考えをまとめ上げていく,すなわち加工してい くことになるとしており,そこに言葉の対話性 において自分の声を聞くということの意味があ るとしている。 以上の浜田や中田の理論によれば,対話にお いては,話し手は自分の話していることに他者 がどのように対応してくるかを,受動的に待た なければならず,聞き手は話し手が言葉を発し 始めると同時に話し手の意図することを考えた り,答える構えを持ち始めたりすると言える。 そして,対話が円環をなして発展していくには, 同型性と相補性によって構成される共同性と絶 対的な個別性が必要であり,そのためには対話 をするものどうしが価値観を共有し,パースペ クティブを重ねていこうとする姿勢,すなわち 同調の姿勢が不可欠だと考えられる。さらに, 対話が円環をなして発展していくというのは対 話をするものが自身にとっての外的世界 (価値 観) を自身の内的世界に取り込み,その内的世 界をより広げていくことになると考えられ,こ のことが人間にとって重要な意味を持っている と言える。 私たちは,それぞれに異なる身体に依拠した 世界を持っているのは言うまでもないことであ る。しかし,対話とはそのようなそれぞれの世 界を認め合うことなしには決して成立しないと いうことを確認しておく必要がある。そして, 「遊びをしている」状態というのは,他ならぬ, 対話的関係が成立しており,まさに個別性と共 同性が溶け合っている状態と言える。しかも, この対話的関係は,「遊び」を題材とすること で,より面白いことを経験できる関係を作り上 げていくことを目的にしており,その結果,積 極的に同調経験を遊び手にもたらすことになる と考えられるのである。 2.生態心理学の側面から 私たちは対話や遊びを他ならぬ身体を通して 行なっており,身体と周囲の関係において生ま れるものから対話や遊びは発展すると言える。 このことから,身体での直接的な行為が一次的 行為で,対話や遊びのような身体を通しての行 為が二次的行為と言える。もちろん,二次的行 為といっても,そのなかに常に一次的行為が含 まれているということは,「行為」が本質的に 図 2
身体の直接的な作用を生むものであることを考 えると明らかなことである。そして,ここで身 体を通してということは,先に身体の個別性と 共同性に触れたが,そもそも同型性や相補性は どのようにして発生し,その共同性と個別性に よって身体がどのような影響を受けるのかを説 明しなければならない。この身体の構造を明ら かにし,一次的行為がいかなる可能性を持って いるかということを分析することで,対話や遊 びといった二次的行為の意義をより明確にする ことができると考えられる。 そのために,生態心理学を手がかりとして, 身体の構造をさらに掘り下げてみたい。これは, 私たちは人間である前に生物学上のヒトであり, 全生物の身体の基本構造をとらえる必要がある ためである。 J・ギブソンのアフォーダンス理論では,動 物は環境から与えられる「意味」を利用し,世 界を認識するとしている。この理論では〈情 報〉を「生物学的」なもの,つまり,環境内の エネルギー場の特別なパターンとしてとらえて おり,〈意味 meaning〉とはその情報の探索・ 獲得へ向けて動物が利用する多様なプロセスの 結果として得られるとした。 このギブソンのアフォーダンス理論を手がか りに,行為の変化を分析しようとしたエドワー ド・S・リードは,環境に適応する能力は動物 界全体の共通原則であるとして,単細胞生物に おいても,能動的で自律的な調整ができるとし ている。これは脳だけが能動的で自律的な行動 を可能にする力を備えているわけではないこと を意味しており,アフォーダンス理論によって リードは生物の行動の進化は説明できるとして 次のように述べている。 環境の中には生物と環境との多数の切り 結びを制御する際に利用できる自己特定的 な情報があり,その情報を利用するための 方法を様々な動物が進化させてきたという 結論を導くことができる10)。 生物にとって環境に適応する力は種を繋ぐ上 で不可欠であり,適応するには環境内の情報を ピックアップしなければならない。そのために, その情報を利用するための方法を各生物が進化 させるのは当然の成り行きと考えられる。例え ば,人間にとって街路樹は寝床というアフォー ダンスを生むものではないが,多くの鳥にとっ ては寝床というアフォーダンスを生む。全生物 はこのような自己特定的な情報をピックアップ しながら,またはピックアップできるように適 応しながら生きていると言える。 さらにリードは,行為はアフォーダンスの検 知,獲得,利用を必然的に含んでいて,このア フォーダンスとのかかわりのなかで,動物はそ れぞれのニーズに合わせてアフォーダンス群を 獲得するための多様な行為システム群を組織化 することになるとしており,人間において特に 顕著に見られる「技能」について,次のように 述べる。 一般に〈技能〉と呼ばれるものは,ア フォーダンス間の特別な諸関係を検知し, そうした諸関係を組織化して一定の機能的 結果を達成する個体の能力から構成されて いる11)。 このことから,私たち人間にとってアフォー ダンスを獲得することが他の動物同様生きてい く上で不可欠であり,これによって人間は環境 に適応,すなわち環境との同調関係を築くこと ができるだけでなく,人間はアフォーダンスを 技術として知識体系に文脈化できるため,対話 的関係を周囲と結ぶことができ,より適応した 行為を生むと考えられる。そして,遊びとはそ の自己目的性ゆえにアフォーダンスとの関わり を豊かなものにすると言えるのである。 3.言語の可能性 アフォーダンスを知識体系に組織化すること で生まれる「技術」は,アフォーダンスによる 直接的行為である一次的行為に対して,それを 基盤にした二次的行為として位置づけることが できる。ここで,その二次的行為の典型といえ る言語が同調の意義をいかに支えうるものであ るかについて説明する。 竹田青嗣によると,言葉の秩序は以下の三つ の核心を持つとしている。 1.言葉は,経験によって形成されたこの欲 望連関の回折を集約するもの。 2.言葉は,その反復の可能性によって,集 約された経験の〈意味連関〉をいつでも
たぐり返すことのできるものとして保持 する,という機能を果たす。 3.言葉は本性上,この〈意味〉連関を,〈他 者〉との交換可能性として表示する性格 を持つ。」12) 竹田は,人間は常に欲望として存在し,その 欲望連関によってさまざまな「意味」が立ち上 がるとしている。また,言葉はその特性上,記 号的であるが,ハイデッガーは記号の意味を次 のように認める。 記号とは,もう一つの事物と表示関係に 立っている事物というようなものではなく, ひとまとまりの道具立て全体をことさら配 視に浮かびあがらせて,それと同時に,用 具的存在者の世界適合性が通示されるよう にする道具である13)。 よって,言葉はそれ自体「意味」の立ち上げ を促進する可能性を持ち,人間の思考力を支え る最も重要な役割を担うものと考えられる。 ただし,ここで留意しておかなければならな いことがある。それは竹田も言うように,「言 葉は〈意味〉の集約であり,わたしたちが〈意 味〉と呼んでいるものは,必ず一次的ゲシュタ ルトから回折された欲望連関の連鎖を含んでい る」14) ということである。私たちは他でもな い身体を持って生きていることを考えると,身 体経験が無視できるはずがないと言える。 以上のことから,人間は身体と環境の直接的 関係 (アフォーダンスを源泉とする一次的ゲ シュタルト) における行為 (一次的行為) と, 環境との直接経験を「欲望連関」によって組織 化した (回折的ゲシュタルト) 上での行為 (二 次的行為) をしている。人間の環境に対する適 応は,これらの行為経験によって成り立ってい ると考えられ,行為がなければ適応のきっかけ さえ生まれないといっても過言ではないと考え られる。 ここで再び遊びに目を向けたい。遊びは周囲 の環境と戯れることを基盤にしており,遊び手 はより面白く遊ぶために試行錯誤を繰り返し, 遊びを発展させていく。この遊びの構造は一次 的行為と二次的行為の双方によって構成されて いるため,周囲の環境に対する身体を通した遊 びのなかで,遊び手はアフォーダンスを得て, 遊び手はアフォーダンスを遊びのコンテクスト に組織化する。この遊びのコンテクストは遊び 手がそれまでに経験してきたあらゆることを基 盤にしており,まさに,遊び手の実存そのもの によって成り立っていると考えられる。 私たち人間にとってアフォーダンスを獲得す ることが他の動物同様に生きていく上で不可欠 であり,これによって人間は環境に適応,すな わち,環境との同調関係を結べるだけでなく, 人間はアフォーダンスを言語的「意味」に分節 化できるため,対話的関係を周囲と結ぶことが でき,より適応した行為を生むことができると 考えられる。このことから,対話的関係を結ぶ ことや,アフォーダンスを獲得して組織化する (アフォーダンスを獲得すること自体が,「欲 望」として存在する人間にとって,自然に「意 味連関」に取り入れられる) ことの経験とは, 私たちが周囲のあらゆるものとより良い同調関 係を築くことをもたらし,生を充実させること になると考えられるのである。 矢野智司は遊びとは「複数のコンテクストの 自由な横断を可能にする」15) としており,こ れは遊びが遊び手に多様な経験を可能にさせる ことを意味する。高橋勝によると,経験には 「既知性」(日常性) から逃れ,「未知性」(可能 な現実) へと突破する可能性が内在しており, 「経験それ自体が,常に新たな生活地平を自己 変成する働き」16) をもっているとする。これ らの論から,遊びと学びは切り離して考えられ るものではないということが浮かび上がってく るのである。そして,そのことは必然的に,造 形教育の可能性を最大限に引き出すには,どの ようなあり方が求められるかということにつな がると考えられるのである。そして,その先に 造形教育の不可欠性というものも見えてくると 考えられる。 Ⅳ.造形教育の在るべき姿を求めて 1.遊びの可能性という側面から見た学習 遊びというものが「面白く遊ぶ」ためのもの, つまり,自己目的的なものであること,そして, 遊びが発展していくなかで,結果的に,より高 度な技術を身につけることになるということを
Ⅱで述べた。このことから,学習というものが 遊びとして存在する,つまり,「面白い」遊び を基盤にした学習に重要な意味があると考えら れる。では,その可能性とはいかなるものであ ろうか。 面白さが「興味」や「関心」に支えられてい るというのは“interest”という言葉からも思 い浮かぶ。この“interest”という言葉自体, 「inter- (〜の間) +-est (存在する)」という, 遊びに見られた遊隙のようなものによって成り 立っていることは興味深い。というよりも,遊 びというもの自体が遊び手と遊び相手の遊隙に 同調する関係によって成り立っているため,こ の“interest”,いわゆる「間」の存在する状態 を満たしていなければならないのである。 それでは,その「興味」や「関心」を生む 「間」とはどのような基盤の上に成り立ってい るのであろうか。「興味」や「関心」をもつに は,それに至る「意味」を感じることが必要と 言えるが,その「意味」は人それぞれの実存次 第と言える。では,実存はそもそもいかにして 存在するかということになるが,竹田は次のよ うに述べる。 人間の生は,どんな超越的な目的や理想 にも還元できない。ただその〈欲望〉を, 生活世界内的な範形の中で育て,その〈意 味〉をいわばエロス的対象性として見出す ことによって,生の充実を生きることの可 能性を絶えず編み上げる17)。 竹田は,事象の〈私〉に対する現れのありよ うを広義の意味でエロス的領域としており,竹 田は「エロス」という言葉で示す理由を次のよ うに述べている。 〈世界〉が,〈私〉にとって単なる実在や その関係としてではなく,快苦,美醜,倫 理性の関係として,つまり,つねにすでに 色づけられて現われてくるようなそういっ た〈私〉と〈世界〉の関係上の原理にほか ならない。この原理は,人間の「経験」が 必ず〈意味〉として現われ出ることの根本 的な基礎をなしているとともに,〈実存〉 という概念の一番重要な土台でもある18)。 すなわち,このような「エロス的」な対象と して現れるようなもの,それがエロス的対象性 というわけである。 このエロス的対象性としての意味を見出す 「欲望」であるが,一言に「欲望」といっても, 人それぞれ,異なる生活をしているわけなので, それに合わせて「欲望」も異なった形をしてい ることになる。そして勿論,ある事象に対する 「意味」の立ち上がり方も十人十色というわけ であるが,その「意味」をエロス的対象性とし て見出す者にとっては,それがより充実した生 活をする上での可能性として取り込まれる。こ れは実存が変化する過程であり,程度の差はあ れ,そのような実存の変化を生む「意味」が, すなわち「興味」や「関心」というものの構造 をなしていると考えられる。 このことから,「面白い」遊びというものは, エロス的対象性として見出される「意味」を, 満たしていくものであり,それは極めて実存的 な行為であると同時に,実存を変化させていく ものと言える。これによってエロス的対象性と しての「意味」は広がると考えられ,遊びの自 己目的性から,遊べている限りにおいて常にそ の「意味」は広がっていくものと考えられる。 ゆえに,この上に成り立つ学習が,その「意 味」の広がりにおいて,重要な可能性を持って いると考えられるのである。 2.造形教育の可能性とその意義 遊びの可能性という側面から学びをとらえた ことにより,そのフィルターを通して造形教育 の可能性をとらえることが造形教育の重要な意 味をより浮き上がらせると考えられる。では, 造形教育の意義について考える前に,造形教育 の扱う主なテーマである「芸術」または「美 術」とはどのような意味を持つものかを確認し ておきたい。 今日,この「芸術」という言葉の在り方自体, 様々な議論がされているわけであるが,アー サー・ダントーはモダニズムのなかで生まれる てくるアートが,到底従来の「芸術」という言 葉で定義できるものではないとしており,次の ように述べている。 モダニズムの歴史というものは,アート の限界線を広げていくものであり,それは 同時に,アートの意図を変容させるもので
ある19)。 芸術は近代以降,社会との相互関係によって 大きく変化してきたわけであるが,「芸術」の 可能性は,常にモダンなものによって変容して きた。そして,これはもはや「芸術」とは「美 しい芸術 (fine arts)」に収まるものではない ということを意味する。それゆえに,「芸術」 や「美術」という言葉に代えて「アート」とい う概念でとらえることが重要と考えられる。 では,いったい何が「アート」でありうるか と言うと,私たちが,あるものに対してアート としての価値を与えるというのは,アートを取 り巻く環境の価値観と深い関係があり,作品が アートであるかどうかを決定するのは,アート の理論や歴史にさまざまな意味で依存している と言える。 ダントーは,アートの理論と歴史からなる一 定のアートの環境を「アートワールド (art-world)」と呼ぶ。この理論はダントー自身, 制度理論であることを認めているが,西村によ ると,ダントーが強調するのは,「当初から アートワールドとは,アートのさまざまな作品 が歴史的な形で秩序付けられた一定の活動領域 であり,またやはりそのつど歴史的なかたちで 秩序付けられた諸理論によって市民権があたえ られた活動領域だという点」20) ということで ある。例えばデュシャンの「泉」やウォーホル の「ブリロ・ボックス」は,従来のアートの規 範が崩れ,従来アートとして考えられていな かったものがアートとしての資格を得るように なった歴史的環境において,「みずからアート の作品であろうとこころみたものである」21) と西村は認める。このようなことから,西村は ダントーのアートワールドについて次のように 考えを示している。 アートワールドとは「制度化された理由 づけのディスコース」のことである。また そのメンバーであるということは,当の作 品について,自分の属する文化と歴史にお いてこれをアートの作品とする「理由づけ のディスコース」にみずから参与するもの のことである。批評家は,このふるまいに おける専門家である。だが専門家でなくと も,さまざまなレベルで,このふるまいに 対する関与はひらかれている22)。 「ディスコース」とは「言説」という類の言 葉であるが,このことは作品が何かしらのアー トとしての言説を発し始めることによって,そ れはアートワールドに参入していくということ である。そして,西村は新しい作品の持つ意味 を次のように認めている。 あたらしい作品とは,これまでのアート の定義と理論とのかかわりにおいて,その つど新しい定義と理論をみずからのうちに 体現し,これによってみずからがなぜアー トでありうるかを呈示するものである23)。 このような「みずからアートの作品であろう とする」現代のアートは,神的なものと結びつ いていたり,権力の象徴として扱われたりする ような古典主義的な有用性で語れるものではな い。しかし,それゆえに万人にとって,アート が常に各々の好みに合わせて意味のあるものと して存在しうるようになったと考えられる。 そして,アートの可能性を考える上で欠くこ とのできないこと,それは,現代アートが基本 的に美的多元主義を柱としていることによって, 以前の芸術とは違った関係が作品と受け手との 間に存在することである。この美的多元主義で は作品の受け手は作品に対して創造性をもって 接し,作品の受け手による創造が作品を多元的 なものに発展させることになるのである。 以上のことから,「芸術」という殻から抜け 出したアートというものが,存在として,言葉 で表すことができないような可能性を孕んだも のであり,豊かな生活をあたえてくれる一つの 要素であると考えられる。そして,それゆえに, 生活をより意味に溢れたものにする,いわゆる 「生きる力」を身に付ける,一般教養としての 重要な役割を果たしうるものと考えられ,教育 のテーマとして無視できないものだと言えるの である。 それでは,造形教育の可能性の一端を説明し ていきたい。まず考えられること,それは, アートが社会のコンテクストと相対的な関係に よって成り立っていることから,造形教育はあ らゆるコンテンツを表現材料とすることによっ て,それらとの間に新たな関係性を築く可能性 が溢れているということである。このような経
験は竹田の言うところの欲望の意味連関に取り 込まれ,回折的に利用されうると考えられるの である。そして,これこそまさに,高橋の言う ような,経験による新たな自己の変成であり, 「既知性」(日常性) から逃れ,「未知性」(可能 な現実) へと突破する可能性を手に入れるとい うことだと言える。 次に造形教育の可能性として考えられること は,造形が他ならぬ行為を基盤として創造に よって成り立っているということのなかに存在 する可能性である。同調の意義から,行為とい うもの自体が非常に可能性を持ったものであり, 造形の材料に手で触れるだけでなく,よく見て みるなど様々な意味で感じることによって,私 たちは行為を発展させていく。このレベルにお いては,サルをはじめとする他の動物と決定的 な違いがないと言えるかもしれない。しかし, そのような一次的行為における対象との関係性 が,人間の場合,常に意味連関に回折すること で二次的行為に発展する可能性を持っているの であり,このようななかで常に実存は新しく編 み上げられていくことにもなる。そして,造形 行為というもの自体がこのような行為によって 成り立っており,造形が発展していくというの は,自己の変革がまさに起こっている瞬間であ ると考えられるのである。 以上のようなことから,造形活動は,現実世 界における意味連関を拡張する可能性を持って いると考えられる。そして,これこそ感性を拓 くということの意味であり,造形教育の意義で あると考えられるのである。そして,この造形 教育の可能性を遊びの可能性に照射することで, 造形教育の在り方という点において,造形教育 と遊びの極めて重要な関係が見えてくると考え られる。 3.多様な経験を生む遊び ではここで,実際に行なわれた「遊び」の授 業で確認できたことから遊びの可能性について 具体的に述べていきたい。筆者が観察した授業 は兵庫県宍粟市立菅野小学校三年生の図画工作 の授業 (担当教諭:寺元幸仁) である。この授 業は「新聞紙をやぶって……」というテーマで, 新聞紙を使って自由に遊ぶというものであった。 教師が子どもたちに授業内容を伝えた際には, そのテーマが本当であるかを確かめるように 「〜や〜をしてもいいの?」という声が次々に 挙がった (写真 1)。このときの子どもたちは いつもと違う授業に対する好奇心を見せながら も落ち着いていると言える。しかし,教師が新 聞紙を破り始めると,子どもたちの様子に変化 が見られ,破った紙を舞わせた途端に,その辺 りに座っていた子どもたちが舞う新聞紙には しゃいで手を伸ばした (写真 2)。それ以降, 子どもたちはそれまでの落ち着きがなくなり, 少しずつ興奮状態になっていった。この突然の 子どもたちの変化は,教師が新聞紙を破って宙 に舞わせるという,普段の新聞紙との関係性に 亀裂が生じる行為をしたため,彼らと新聞紙と の間に遊隙が生じ,遊戯関係が形成されたこと によって現れたものと考えられる。 そして,教師が新聞紙を投げると同時に子ど もたちは一斉に新聞紙で遊び始める (写真 3)。 子どもたちはたちまちに夢中になって新聞紙を 破ったり,宙に舞わせたりして遊びを楽しんで 写真 1 写真 2
いた (写真 4)。しかし,しばらくすると新聞 紙で友人を激しく叩く子が出てきたため,教師 はこれに対して,遊びを一時中断し,新聞紙で の危険な行為をしないよう子どもたちに指導し た (写真 5)。これはとらえ方によれば,せっ かく子どもたちが夢中になって遊んでいるのに, それを中断するのは教師が事前にそのことに留 意させるべきだったのかもしれない。しかし, ここで重要なのは,子どもたちが何をすると遊 べなくなるのかという,遊びのルールを「実 感」する機会を得られたことである。この授業 では教師が危険を感じ,遊びを中断したが,も しそのままにしていたら,喧嘩に発展する恐れ もあり,いずれにせよ,遊びは中断することに なっていたと考えられる。そして,この遊びが 中断することによって,何が「遊べない」のか を,まさに「実感」し,学習することになった と考える。ちなみに,事前に注意事項を伝える ような,「実感」の伴わない指導が意味を成さ ない場合が往々にしてあることを考えれば,い かにこの「実感」を伴った学習が重要であるか は言うまでもないことである。 そして,遊びが再開されてからは友人を激し く叩く子どもはいなくなり,徐々に子どもたち の遊びの内容も多様化し始める。それまでは新 聞紙を破ったり,宙に舞わせたりという単純な 行為がほとんどであったが,新聞紙に滑り込ん だり,大量の破られた新聞紙を友人に被せたり, 散らばった新聞紙の上を滑ったり,なかには新 聞紙を引っ張り合って遠心力をはたらかせ,物 凄い勢いでぐるぐる回っている子どももいた (写真 6)。その中でも特に筆者の目を引いたの が,先ほど友人を新聞紙で激しく叩き,遊びを 中断させる原因を作ってしまった子の行為であ る。この子は新聞紙を鞭のような形にして,地 面に散らばっている新聞紙を叩いていた。彼の 行為は周りの子どもたちに比べて依然として危 ないものであったとは言えるが,彼は自らの危 険な行為で遊びが中断してしまい,人を激しく 写真 3 写真 4 写真 5 写真 6
叩くという行為が「遊べない」と実感したから こそ,(激しく) 叩く対象が新聞紙になったと 考えられる。 以上のように,短い時間で遊びにおける行為 が発展していく様子を確認できた。ここで言え ることは,教室が遊びの同調空間となり,その なかでそれぞれの子どもによって多様な行為が 生まれ,より面白い遊びのために常に遊びが発 展していったということである。子どもたちが 遊び始めたときは,教師が子どもたちにやって 見せた,破る,宙に舞わせるという行為がほと んどであったことを考えると,子どもたちは新 聞紙を使った遊びの経験がそれほどなかったと 思われる。それにもかかわらず,遊びがここま で発展できたのは,他ならぬ遊びの自己目的性 を基盤とした多様な行為が生まれたからこそと 考 え ら れ る。こ の 行 為 と い う も の 自 体,ア フォーダンスの検知,獲得,利用を必然的に含 んでいるというのは先にも述べたが,このア フォーダンスを組織化することが技能の獲得に なり,それによって新たな行為が生まれる。そ して,その新しい行為がさらなるアフォーダン スとのかかわりを生む。この授業では,見逃し やすいことであるかもしれないが,破られた大 量の新聞紙とのアフォーダンスの探索が子ども たちによって行なわれていたと考えられる。遊 びの空間とはアフォーダンスに溢れており,ま さに行為が発展していく場所なのである。 た だ し,先 に も 述 べ た よ う に,「遊 び」が 「勉強」に利用される,つまり,「遊び」を「教 える」というようなことになってしまっては, このような創造的な活動にはならなかったと考 えられる。臨床心理学者である河合隼雄も「遊 びの本来のよさである自由な表現というところ を忘れてしまって,大人が子どもに遊びという 「勉強」を押しつけてくると,遊びの大切さは壊 れてしまう」24) と述べており,子どもをいか に遊ばせるかというのが教師には勿論のこと, 大人たちに求められると考えられるのである。 4.造形教育の在るべき姿についての考察 これまでのことから,造形教育の在るべき姿 というものが見えてくる。豊かな学びというも のの基盤に遊びがあることを述べてきたが,そ うであれば,教育はいかに子どもたちを遊ばせ るかということになる。実際に,楽しくて,よ く身についた授業が遊びのように感じられたと いうのは多くの人が認める。まさに教育はこの ような状況を目指して行なわれなければならな いと考えられる。ゆえに,教師としてはまず, 子どもたちに遊びを提供して,一緒に遊ぶとい うことが重要な意味をなすと考えられる。教師 も一緒になって遊べている限りにおいて,子ど もたちと対話関係を築くことができ,子どもた ちそれぞれの実存にあった教育が自ずとできる と考えられるのである。 そして,造形教育はモノと関わることの奥深 さを味わうなど,様々な遊隙との出会いを学び 手に提供する可能性をもっていると考えられる ため,造形教育はこの「遊び」を学習する側面 を持った教科であると考えられる。造形教育は 表現と鑑賞の活動を通して「感性」を豊かにす ることが一つの目標となっているが,これは自 分を取り囲むあらゆるものとの同調関係を築く 能力に他ならない。教師はこの「感性」を子ど もたちが豊かに広げていけるよう,制作や鑑賞 の時間において,その主題に合った対話的関係, すなわち遊戯関係を子どもたちに提供し,それ によって生まれた経験を,あらゆるものと関わ るためのコンテクストのなかに取り込んでいけ るようにしなければならないと考えられる。そ して,これは実感の伴った学習であり,造形教 育という,ものとの直接的な関係を重視する教 科の特徴と言える。このようなことからも,造 形教育が子どもたちに遊ばれなければならない と考えられるのである。また,造形活動を遊ん でいる限りにおいて,それは常に体験が深まる ことを意味していると言える。矢野の主張はこ のような体験の深まりがいかに子どもの成長に 重要であるかを示している。 子どもの体験を深める教育とは,経験へ と回収できる事象ではなく,むしろ反対に, 子どもを既存の枠組みを超える事象との出 会いへと導くことを意味するのである25)。 造形活動を遊ぶというのは,まさに新しい世 界との出会いであり,それは新たに実存を編み 上げていくことになるのである。 以上のことから,造形教育が遊びを基盤とし
て行われることで,一般教養として極めて重要 な役割を発揮し始めることが浮かび上がってく る。造形教育とはものの見方,考え方,関わり 方といった「感性」を学ぶものであり,外的世 界と内的世界の新たな関係を広げていくもので あるため,決して美術家を生産するためにある のではない。例えば,デッサンなど,一般的に 美術家になるための基礎トレーニングとして考 えられているものも,美術教育ではそのような 意味で扱われるべきではない。そのようにとら えられている間は,美術に携わる者として生き ていこうと考えていない多くの人々から不必要 なものとして片付けられてしまう。そうではな く,美術教育や造形教育は総合的な学習として とらえられなければならないと考えられる (こ れは当然他の教科にも言えることである)。 デッサンであれば美術家になるための基礎ト レーニングではなくて,私たちの生きる上での 基本的行為である「見る」という対話的,同調 的行為の基礎トレーニングなのである。そして, 造形教育が豊かに学ばれるには,授業は子ども たちに同調され,遊ばれなければならないと考 えられるのである。 Ⅴ.お わ り に 学校教育は社会の在り方と相対的なものであ るため,授業で遊びを基盤に教育することは, 現在の状況では非常に難しいと言える。しかし, 教育というものが,純粋に民主主義を基盤とし て行われるのであれば,現象学的な「遊び」を 根底とした教育が望ましいと言える。そして, 教師が「授業」を子どもたちに遊んでもらえる 玩具として提供できれば,自ずと授業が豊かな 学びの場へと発展していくことと考えられるの である。 引用文献 1 ) 矢野智司『意味が躍動する生とは何か ― 遊ぶ 子どもの人間学』世織書房 2006 年 p. 113 2 ) 田中裕喜「遊びの哲学 ― なにゆえ遊びは教育 方法たりうるか ―」『滋賀大教育学部紀要 教 育科学』No. 56 2006 年 p. 97 3 ) ピアジェ『臨床児童心理学Ⅲ・児童道徳判断 の発達』(大伴茂訳,同文書院,1956 年) p. 79 4 ) 西村清和『遊びの現象学』勁草書房 1989 年 p. 286-287 5 ) 浜田寿美男『私と他者の語りの世界』ミネル ヴァ書房 2009 年 p. 19 6 ) 浜田寿美男『「私」とは何か』講談社 1999 年 p. 124 7 ) 浜田寿美男前掲書 1999 年 p. 97 8 ) 中田基昭『教育の現象学』川島書店 1996 年 p. 126 9 ) 浜田寿美男前掲書 1999 年 p. 228 10) エドワード・S・リード『アフォーダンスの 心理学 ― 生態心理学への道 ―』(細田直哉訳, 新曜社,2000 年) p. 35 11) エドワード・S・リード前掲書 2000 年 p. 303 12) 竹田青嗣『意味とエロス ― 欲望論の現象学 ―』筑摩書房 1993 年 p. 149 13) ハイデッガー『存在と時間上』 (細谷貞雄訳, 筑摩書房,1994 年) p. 184 14) 竹田青嗣前掲書 1993 年 p. 150 15) 矢野智司前掲書 2006 年 p. 29 16) 高橋勝『経験のメタモルフォーゼ〈自己変成〉 の人間教育学』勁草書房 2007 年 p. 108 17) 竹田青嗣前掲書 1993 年 p. 157 18) 竹田青嗣前掲書 1993 年 p. 124
19) Arthur Danto「THE WORK OF ART AND THE HISTORICAL FUTURE」『DOREEN B. TOWNSEND CENTER OCCASIONAL PAPERS・14』Hunza Grapics, Berkeley, Cali-fornia 1998 年 p. 11 20) 西村清和『現代アートの哲学』産業図書 1995 年 p. 47 21) 西村清和前掲書 1995 年 p. 47 22) 西村清和前掲書 1995 年 p. 47-48 23) 西村清和前掲書 1995 年 p. 50 24) 河合隼雄『子どもと学校』岩村書店 1992 年 p. 94 25) 矢野智司前掲書 2005 年 p. 119