お満
け洲
るに圏地制の推移と小作制の進展
石
田囲
一N 一 旗地、の拡充と生産関係 清代満洲における旗地を中心とした農業的生産関係の形成および推移を特色づけるものは、 一方には清朝専制国家の維 持、従って皇室、宗室および世襲的軍隊たる八旗の維持のための広義の旗地拡充ないし補強政策であり、他方には、この 政策的結果が貨幣経済ない七商業資本の進展の故.に崩壊し、ここに生産関係の変質ないし推移が現われて行くということ である。逆に言えば、貨幣経済ないし、商業資本の支配が滲透し、黒地が漸次崩壊して行くが故に、これを救わんとして 必死な旗地補強政策がとられたと見ることも出来る。 清朝が入関後も右の如き理由から旗地拡充のため、あらゆる努力を払ったが、そこには先ず、国頭管理の下に農奴たる 壮丁の耕作が行われるか、或は家人すなわち奴隷による耕作が行われていった。 8 先ず清朝入関後、やがて満洲の駐防八旗を増強するに至ったが、これと共に旗人に遼河東部の地ばかりでなく河西 の地をも支給して開墾を奨励した。また、中国本土に入った旗人が山海関外に出て土地を開墾するのを奨励し、或は、旗 人が従来のように辺外の土地を耕作するのを許して奉天における警士の開発を計った。そしてこれらの旗入に土地を支給 するとぎには、壮丁毎に五駒ないし書駒を与えた。すなわち、入関前の土地支給方法を踊馨していることがわかる。かく 満州における圏地制の推移と小作制の進展 一満州における圏地制の推移と小作制の進展 二 して順治年間における旗地は内務愈々荘を除いて四四二、〇九七日となっている。 フ ル カ ロ 康煕朝には忌地の開発が強行されたが、就申、康煕十七年︵一、六七八年︶に吉林烏嘲に居住していた新満洲︵呼爾喀・ ワルが クルグ 瓦論題・庫爾恰等︶の副三士職街の十三頭等の三十一佐領の管下、戸一、〇二二二 、壮丁三、五三一名、魯属共に=、 一八○口を奉天に移住させ、彼等に房屋、田地、糧粟を支給することとした。因って、翌十八年十二月には奉天の土地を 旗下と民地とに分定し、旗地の中より新満洲に土地を与え、種子を給した。すなわち、奉天所属の東は撫順より西門遠州 の老君屯に至り、南は業平県の欄石より北開原県に至り、馬廠、羊草画の旬地を除いて、実際の丈量地が五、四八四、 一 五五駒あったので、これを旗地四、六〇五、三八○駒と民地八七八、七七五繭とに分け、新満洲に心地を与えるときには 賄毎に種子一拳斗︵関東斗︶を、穀米、粘米、高言地を与えるときには駒毎に各種子六升を給した。また、旗人、民人が荒 地を開墾する力なくして、召出していたときには処罪したという。かくて康煕十八年の奉天の土地丈量において、旗地を 民地の五・二四倍に決定したのであるが、これを見ても如何に曹長の確保に力を入れたかがうかがわれる。 ところで康煕十九年八月壬戊の盛京戸部侍郎毒筆等の上疏に﹁察過未墾荒地・荒旬、 一百五十四万七干六百余駒、内除 皇荘隈馬面草地二万二千四百余.駒、専有一百五十二万五千二百余駒﹂とあるように、未墾地が一、五二五、二〇〇余駒も あった。従って、前述の康煕十八年に量定された旗地および民地の中にも未墾地が多く算入されていたと見られる。そし て、これらの未墾地は棺冊に註記され、民人が開墾を願う縮合は、州県が奉天府府サに報じて、民地を与え、旗人が開墾 を願う場合は盛京戸部を通じ⋮樒冊に記して旗地を与えた。 日 康煕二十五年︵一六八六年︶には﹁南京通志﹂巻二四・田賦・八旗田畝数目の条に﹁雲州、鳳鳳城楯座処荒地、分擾 旗丁樹下、給附屯営、毎一丁承種、七丁下給口糧・叢叢、毒悪地二万四千六十五鴫﹂とあるように、錦州、鳳鳳城等の八 処において旗人に荒地二四、〇六五駒を開墾させた。
四 更に奉天の地においては入関後も内務警官荘、戸部官荘、礼部品荘、工部官荘および三道所属の官荘等が拡充され た。 かくの如く清朝専制国家の維持、従って清朝皇室、宗室および八章を支えるために運搬ないし旗地の拡充政策がとられ ていった。旗地の支給に際しては入関前と同様、壮丁当り五駒ないし六輝を配分する方法がとられた。これが宮地または 額地といわれるもので、順治朝以後には壮丁当りの官糧および径役が免ぜられ、いわば免税地となっていたのである。旗 地における耕作は、小規模のものは旗人の自作もあったが、より大規模になると家人たる奴隷によるか、農奴的な壮丁に よるかであり、後になるに従って漢民人の佃戸すなわち小作人によるものが愈々多くなっていった。官荘においては、三 頭の管理下に壮丁耕作ないし佃戸の小作が行われ、壮丁毎に、或は佃戸から、世世が徴牧されたのである。併し、初期に おいては、官荘も旗地も農奴的壮丁耕作が主であった。 ①周藤吉之氏﹁帰期に於ける満洲駐日の特殊性に関する一考察﹂︵﹁東方学報﹂東京一一ノ一︶周藤氏﹁清代満洲土地政策の研究﹂ =二一頁。 ② 周藤氏 右書 一三八頁。 ③乾隆元年版﹁盛京通志﹂巻二四、田賦、八旗田畝数目、周藤氏右書=二九頁。 ④﹁盛京通鑑﹂巻三、工司応弁事宜、周藤.氏右書一四二頁。 ⑤﹁聖書実録﹂巻八七、康煕十八年十二月癸未。明正﹁大清会典﹂巻二一五、墾田戸部望地。﹁皇朝文献通考﹂巻五、田占考五、 八旗田制、盛京荘田、周藤氏右書 一四二頁。 ⑥周藤氏右書一四三頁。
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周藤氏 右書 一四四頁。 乾隆元年版﹁盛京通志﹂巻二四、田賦、八旗田畝数目、周藤氏 右書 一四四頁。 周藤氏 右書 二八五頁、一三一頁。康煕﹁大清士典﹂巻二一、田土 二、荒政。 満州における圏地欄の推移と小作制の進展 三満州における圏地制の椎移と小作制の進展 四
二圏地制の推移
㈲ 民地における地畝基準の徴税i圏地制推移の第一の契機 漢民人の入植開墾については、丁毎に地五部を支給する方法がとられたが、民地の徴税は順治十五年︵一六五八年︶より へ や ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 既に毎畝銀三分を徴牧することとし、土地を基準とする賦税が課せられると共に、民人の樒役に代えて丁銀が課せ.られた む のである。かくて乾隆元年版﹁盛手通志﹂によれば、順治十八年︵一六六一年︶奉・天府および錦州府の民地空玉〇九国三三 畝で、その賦銀は一、八二七両九銭となっており、同じ年の入興は奉天、錦州の楚割で五、五五七丁、その樒銀は九二二 両どなっている。これは既に高度に発達した中国の貨幣経済下にあって清朝の財政は貨⋮幣牧入を不可欠としたことに基づ くと共に、漢民人がその農作物を貨幣にかえる経済機構も奉天地方には既に形成されつつあったと考えられるのであるq 抑々入関前より上地に行われた壮丁を基礎とする均田制においては、壮丁毎に官糧を徴呈すると共に樒役ないし兵役を 課するのを本来の建前としたのである。この塾図と謙卑は入善後旗人を優遇する意味で免除されたが、民地においては、 これと建前を異にする土地に対する賦税が銀で徴牧され、樒役.に代って樒銀が人望当てに課せられ、壮丁を基礎とする土 地制度すなわち圏地制の推移の端緒をつくった。 ① 乾隆元空耳﹁盛京通志﹂巻二四・撚掛および巻二三・戸口。周藤吉之氏﹁清代満洲土地政策の研究﹂一一頁、 九八頁。 ② 民地治よび賦銀については、右﹁盛京通志﹂巻二四・田田、人膚および径銀については巻二三・戸口。 ③周藤氏右書、一九八頁、一九九、二〇九頁、参照。なお、測地制の詳しい意味については、本稿=頁の註参照。 ㈲ 自開旗地の発展と地畝基準の徴税の一般化一圏地制推移の第二の契機 圏地制の推移を促した契機は右の如き漢民入の流入による民地の拡大の外、旗人が圏地以外に自ら開墾した所の自開旗地の拡大である。 康煕十九年︵一六八○年︶八月に戸部郎中都斉理は満洲旗人が新に開墾した土地を踏査して上奏し﹁東至撫順、.西至山 海関、南至道州、載量開原、門経有畜、⋮⋮計田万頃有奇、徴牧銭糧、約僅有万両、拠将軍雪布護、若将満洲新開地畝、 尽八入官、恐難度日﹂といった。すなわち奉天において満洲旗人が開墾した土地は万頃余︵一六六、六六六駒余︶に及び 奉天将軍安珠護の言に拠れば、これら旗人の自在地畝を尽く興銀すると、旗人は生活が出来なくなるというのである。 そこで、康煕帝は、この上奏に従って、自慰旗地を官に没牧もしなければ、銭糧を微量することもしなかった。かくて 康煕朝の中頃以後には自開巻地はもとの圏地よりも多くなった。ということは壮丁を基礎として配分した圏地制度が自 開旗地の拡張によって意味がなくなって来たことを示すのである。康煕二十八年︵一六八九年︶より、奉天の建地が丈量 され三+二年に畢つたが、乾干元年版﹁盛京通志﹂巻二四・田賦・八旗田畝数目によるとこの時の野地の合計一、一六 七、五四四日五畝となっており、順治朝の野地合計四四二、〇九七日は内務贈官荘を除外してあり、ここの数字はこれ を含んでいると見られるので、この点を勘乱すれば二・六四倍に増加している。 この増大した甘地に対して、これまでは免税されていた。ところが、康煕二.十年代に至って吉林、黒竜江地方に急激 に軍隊を増強し、奉天においても駐防八旗の脚数が非常に増加したので、軍糧の問.題は切実となった。そのため、奉天 の粟米を他生に移出するのを禁止し、同二十九年四月には奉天および土州の両府の地丁銭糧の剰銀五千闘争および牛馬 墨銀三千余両を出して、下津、開原、遼陽、墨流等において糧粟を買って貯蔵さした。この頃軍儲とくに馬料を必要と したのは、康煕二十九年に善導爾の鳴爾丹の征偉が行われ、奉天、吉林、黒竜江の軍旗も参加したためと見られるβそ れに当時奉天地方は毎年飢饒が続いた。こうした事情により、豆草、粟等がとくに必要とされたため、発地免税の制を やめて華甲も自記旗地も区別なく要地一華につぎ豆一関東升、草一束が徴牧され、十三城の協領、城守尉等により催追 満州における圏地制の推移と小作制の進展 五
溝州における圏地制の推移と小作制の進展 . 六 された。すなわち﹁半旗通志初集﹂巻一八・土田志一・八雲土田規制・奉天規制の康煕三十二年の条に﹁前触、盛京旗 人、所無地畝、毎年地一領、必至一関東升・草一束、今津地畝丈量、不論卑属黒人、倶照八旗十三城所管地界、交与協 領・城守尉等催追﹂と述べてあるのはこれである。 かくの如く、自開旗持の著しい増大の結果、課税に際し、壮丁を基準とするわけには行かなくなり、土地面積を基準と する徴税方法をとるに至って、壮丁を基礎とする土地制度の第二段の推移が現われて来たのである。徴税が現物納であっ たというのは、先に述べた如く満洲における兵力の激増に対処し、また備荒をも兼ねて急激に糧草の蓄積を促進しなけれ ばならないという事情によるものと思われる。これは右に述べた如く、これまでの思子、丁銀ないし牛馬隠避の貯蓄のす べてを以て軍糧を購入したこと、更に今迄の民地毎畝銀三分の興銀を改めて粟米三升を三野し、また奉天府銀一銭五分、 錦州府銀二銭の丁銀制を改めて丁重に市.斗︵関東斗︶黒豆二軍三升七勺六抄九曜より、三斗八升を徴牧するようになったこ とにも現われている。 しかし、康煕四十三年︵一七〇四年︶には区点、寧遠州の器機を改めて、銀を徴牧している。同四十七年には制斗を頒っ たので、毎度米総量七升五合を徴牧した。その後、康煕五十三年には旧に復して、毎畝銀三分を徴馴したが、同五十六年 には粟米を徴牧している。また、雍正四年より翌五年に亘る民地丈量により国歩冊地を設け、銀、米を各半ば徴堕した。 同七年民地を丈量し、隠地を多く発見したが、土地の肥瘡に従って、上中下の三則に分って、銀、米を徴聾することとし た。上畳地は毎畝米六升三合八勺三抄、−または毎畝銀三分、中則地は性悪米四升二合五勺五就学撮または毎畝銀二分、下 則地は毎畝米二升一合二勺七抄六撮または毎畝銀一分であった。 だから、前記のように賦銀ないし丁銀が物納となったのは軍餉の急激な調達という一時的な処置で、これを以て満洲経 済が貨幣経済的におくれている結果と見ることは許されない。
①﹁聖租実録﹂巻九一、康煕十九年八月墨型、﹁八旗通志磯馴﹂巻十八・土田志一・弔旗土田・奉天規制、﹁八旗通志﹂巻六六・ 土田志 五・土田規制・奉天規制、周藤氏﹁清代満洲土地政策の研究﹂一四三頁。 ②周藤氏右書一四七−一四九頁。 ③周藤氏﹁清代満洲に於ける糧米の漕運に就いて﹂︵東亜論叢第三輯一四五頁、周藤氏右書一五一頁。 ④周藤氏右書一五一頁。 ⑤雍正﹁大清会典﹂巻二︸五・盛京戸部・擾地、乾隆元年版﹁盛京通志﹂巻二四・自軍・八旗田畝数目、﹁八旗通志﹂巻六六・土田 志 五・土田規制・奉天規制、周藤氏 右書 一四九頁。 ⑥周藤氏右書一五〇i一五一頁。 ⑦周藤氏右書二〇〇頁。 ω 紅冊地の制定と地畝基準制の整備 すでに述べたところがら知られるように、年が経るにつれて、暴説において自開地畝の増加すると共に官位においても 民地においても開墾地が増加して来、些々闇に土地問題で紛争も絶えなかったので、雍正四−五年︵一七二六一二七年︶奉 天の官荘、旗地および民地を丈量してこれを土地台帳なる紅冊に登録した。これが一般に即智地といわれ、旗地について は旗紅炉地、民地については民紅冊地といわれた。ところで、内務府官荘、戸部田荘・等も勿論紅冊地に入れられたが、こ れらについて康煕末年より薙正朝にかけて壮丁毎に租糧を徴牧するのをやめて、土地そのものから租糧を徴毒するように なった。 かくて壮丁を基礎として賦税または租糧を徴聴する土地制度すなわち圏地制は漸次やぶれ、土地を基礎.として賦税また は粗糧を徴牧する制度に移って行った。そしてこの制度の整備されたものが、右に述べた雍正朝における旗章の妬嫉地の 制度である。 ①周藤吉之著﹁清代溝洲土地政策の研究﹂一一一=一頁。 ②周藤氏右書二三頁。 満州における圏地制の推移と小作制の進展 七
満州における,圏地制の推移と小作制の進展 八
三 旗地ないし官荘の生産関係と賦租関係
先に述べた如く、清朝専制国家維持のための官荘ないし旗特等の如き身分制的、世襲的な土地関係の拡充は、先ず官荘 においては荘頭を中心とする壮丁耕作すなわち荘園的生産関係を、旗地においては、同様な荘園的生産関係の外、家人た る奴隷による耕作関係をももたらしたが、今その内容について、より突き進んで検討して見ると次の如くなっている。 先ず荘園的な生産関係を見るに各荘園はそれぞれ一名の荘頭の下に七名ないし十数名の壮丁を以て構成されている。こ れらの筆頭も壮丁も荘園主に対しては公然たる制度上の世襲的隷属関係に立つもので、明らかに農奴的存在であったこと はやがて述ぶる如くである。それは明末清初の帯地投充とか流人ないし捕虜の強制植民或は人身売買によって生じたもの ボ ス で、その頭領的存在が蚊頭となったのである。彼等の地位は身分制的世襲的であると同時に、その属籍を離れて民籍に入 ることも出来なければ、自らの意思によって他の荘園に転ずることも出来なかった。また科挙の試験に応じて官吏となる 権利すなわち荘官応無権も剥奪されていた。更に荘園主によって、その土地の売買を通じて野曝や壮丁も売買されたので ある。このことは﹁大戸会典事例﹂に﹁凡投櫛園丁地腫応照八旗圏地例典同仁由本主﹂といっている所からしても明白で あ蕊・ 荘頭は荘園を管理し、壮丁を監督して親作に従事せしめ、壮丁から一定の地代たる租を徴攻することがその主要な職務 で、これに反するものは厳重に罰せられると共に、成績の良好なものは、諸種の報償を与えられた。租の微傷が埠頭の請 負においてなされたことは注目に値する。荘頭が規定によって上司から命ぜられた一定の租を人賦或は地積に按じて自己 の責任において徴牧し、規定の租額を納入すれば足りるのであって、この際、実際に荘頭が壮丁ないし後に問題となる小 作人たる佃戸から徴牧する租額が必ずしも一致するとは限らないのである。ここに荘頭による中飽すなわち中間牧取が生 9じ、やがて荘頭の地主化を生ずる契機が存在したのである。 一般湿地において、荘園主たるものは宗室および旗人であるが、旗地は一般に形式上は官地という建前となっており、 戸戸 рサの他の処分について法的禁止ないし制限もあったが、年を経るに従って、私有地と異る所がないようになっていっ た。台湾総督府編纂の﹁清国行政法﹂はこれを準私有地として取扱っている。旗地において、以上の如く、壮丁或は佃戸 から租を徴蒸するが、国家に対しては、旗地は入営以来免税であった。ところが康煕三十二年から既に述べたように地畝 を基礎として賦税を物納したのである。然るに注意すべきことは、内務府官荘を始め、各官荘がその徴噂した租糧のうち から、国庫たる戸部に素量と称する一種の国課を納入していることである。始めは物納で草豆と粟米との二種目、乱丁は 盛京および箆鷺の旗倉すなわち内倉に交納し、罪質は禅語所在地の外城北倉に交納された。しかし後には銀嶺となった。 ﹁戸部地畝梢冊﹂の盛薫掛畝総梢に見える雍正九年十二月の棺案によると、平南親王省可喜の王政祭祀地は、海城の群青舗、小馬頭 三河沿、爽河等にあって、荘園を構成し、荘国は荘頭と壮丁とを以て組織されている。荘頭に租糧を免ぜられたものとそうでないも のとがある。これは恐らく、先に述べた荘頭の徴租成績に対する待遇の現われではなかろうか。壮丁に糧差荘丁と銀翼壮丁とあるの は注意を惹く。糧差荘丁は丁毎に粗糠六石、麦子二斗、蘇子二,斗、京米二斗、猛一口、驚二隻、鴨子三隻、鶏難三隻、大柴一車、毬 稽百五十束、乾草五十箇、炭十包、銀一両舌斐を納め、怪士荘丁は丁毎に三両五斐を納めている。 このように壮丁は丁毎に租糧或は租銀を納めているが、これが当時における荘園の普通の形態だと考えられる。ところ が、丹荘においても、既に雍正朝に壮丁を基準とする徴租の方法を改め、地畝を基準とする徴租方法に変った。これは各 壮丁が私かに開墾して耕作地を拡大し、増嵩を来すようになったためと思われる。 なお、一般の旗地においては、家人たる奴隷を以,て耕作せしめている所もあり、小規模のものにあっては旗人自ら耕作 していたものもある。 満州における圏地制の推移と小作制の進展 九
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満州における圏地制の椎移と小作制の進展 ﹁満洲旧慣調査報告 内務府官荘﹂一八頁。 大上末広氏﹁清朝時代に於ける満洲の農業関係﹂九八頁。 ﹁大清会典事例﹂巻一一一八、大上氏 右書 一〇一頁。 大上氏 右書 一〇〇頁。 台湾総督府編纂﹁清国行政法﹂第ご巻 ニニ八頁。 大上氏 右書 五九頁。﹁満洲旧慣調査報告 内務府官荘﹂=ハ九頁。 周藤氏﹁清朝中期に於ける黒地の小作関係i戸部地弾棺冊の紹介を中心としてl﹂ 周藤氏 前掲書 二一一頁.四小作制度の進展
ρ 一〇 ︵東方学報 東京 第十二冊之一︶ニー八頁。 ㈲ 民地の拡大と小作制度の進展 このように清朝専制国家の維持という基本線に沿うて官歪ないし糊地の拡充政策が強行され、これと関連して荘園的農 奴的生産関係および家人による奴隷的生産関係が形成されて行ったのであるが、他方、かって述べたように漢民人の植民 による民地の開墾の進展と共に中国本土の進んだ生産関係1とくに小作的生産関係が移植され、発展して行ったと考え られる。 ここで今風地との比較において民地の発展を見て行こう。先ず順治朝における旗地と民地は次の如くなっている。 旗 地 四四・二、〇九七日︵二六、五二五頃 八二畝︶ 民 地 六〇九頃 三三畝 すなわち、旗地は民地の四三・五三倍であり、この旗地には内務隠撮荘が入っていないから、広義の平地は民地の四 三倍よりももっと多かったと考えられる。ただ、この場合、注意しなければならないことは、民地は開墾され賦銀をかけられた土地面積であるに対し、露地の方は免税でもあり、また旗地拡充の政策的考慮もあって相当な荒地を含んでい ると考えられるので、両者の面積の比較を以て、旗地的な生産関係と民地的な生産関係との此重と見ることは許されな い。開墾された民地は寧ろ隠され勝ちで、これより多いであろうし、旗地の開墾されて農業を形成している面積はこれ より遙かに少ないであろう。 ② 康煕朝の中頃における旗地と民地とは次の如くなっている。 康煕二十四年︵=ハ八五年︶ 民 地 三、一一七頃 五〇畝 康煕三十二年︵一六九三年︶ 旗 地 一、 一六七、五四四日 五畝︵七〇、〇五二頃 六九こ口 ここでは画地は民地の二二・四七倍になっている。この旗地には内務府及び其他の二二が含まれていると見られる。 ③ ところが雍正年聞における旗国と民地 ︵永吉州、長寧県を除く︶ は次の如くなっている。 雍正 五年︵一七二七年目 旗 地 二、三六七、八〇六日四重︵一四二、〇六八頃 四〇畝︶ 雍正十二年︵一七三四年︶ 民 地 二五、九五三頃七二畝︵退圏地を含む︶ これによると旗地は民地の五・四七倍である。 ︹註︺退圏地を説明するには、先ず原圏地または圏地から説明しなければならない。もと圏というのは指定の土地を縄張りすることを いうので、これによって、その土地の業主権︵所有権と見てよい。当時、土地はすべて天子のものという建前から、実質的に所有権 に相当する権利を業主権というた︶を特定人に認めることを風選といい、圏内の土地を圏擬地、指図地、思潮地、原案地または単に 圏地等と呼んだ。そして例えば内務府官荘または王公荘園に圏位した土地が、その荘園の撤廃によって普通の官地と変じ、経営上の 便宜顧慮より、更にこれを其の耕種者たる旗、民佃戸の所有に畳むる場合の如く、旗人が官地の耕種権を官に還し、または官より給 せられた土地の所有権を官に還すを退と謂い、再びこれを旗、民の土地として旗、民に丈放して税賦を豊里するを交といい、かくの 如く退交されて蝉騒の土地となった土地を退圏地という。遼河以西の錦広寧、錦州寧遠州、熟河および畿輔地方の﹁指頭﹂ ﹁存退﹂ または﹁易案﹂等の各地目は、皆このようにして当時の耕作者の無業︵永遠の業主権を認めること︶に帰した土地である。旗人に帰 満洲における圏地制の推移と小作制の進展 一一
満洲における圏地制の推移と小作制の進展 した退圏地も乾隆朝以後は民人に小作させたという。 乾隆四十五年︵一七八○年︶における旗地と民地とは次の如くなっている。 旗 地ノ
旗余地取
職町籍
齢雛瞥
二、五〇九、二七四日 ○畝︵一五〇、五五六頃 四四日目 三五、八五四頃 八二畝︵退軍地を含む︶ ’ =一 ここでは旗地は民地の四・二〇倍になっている。 このように民地が年と共に増大して行ったことは、その上に大体において中国本土におけるが如き農業的生産関係が拡 がっていったことを意味すると考えて大過ないと思われるが、更に乾隆以降において漢民人の加速度的な入満は官荘ない し旗地の上にも中国本土におけるが如き小作制度を滲透せしめていった。 ①乾隆元年版﹁盛京通志﹂巻二四・田賦、旗田、周藤吉之著﹁清聴満洲土地政策の研究﹂一九八一一九九頁。 ②右﹁盛京通志﹂巻二四、周藤氏右書一九九頁。 ③右﹁盛京通志﹂巻二四、周藤氏右書二〇〇1二〇一頁。 、 ④天海謙三郎氏﹁満洲国土地制度の理解に関する一関鍵﹂︵満鉄前掲書五一頁︶周藤氏右書二一八頁以下、加藤鉄矢監修﹁土地 用語辞典﹂退圏地、退交、永業の項参照。 ⑤乾隆四十八年版﹁盛京通志﹂巻三七・田賦一・盛京民田徴賦規制、巻三八田賦二・奉天黒旗地、周藤氏右書二〇五一二〇六頁。 価旗地ないし官荘への小作関係の嚢乾明朝に入る頃には、既に旗人が民人を雇って旗地を耕作させ、その租糧を徴漏することが行われたことは明らかで ある。すなわち、理解五年九月越ある奉天府理工響応枚の上奏に﹁旗人地畝、不許全雇民人、耕種取租、必須三時力作、 相率務農﹂とあって、旗地においては、民人を雇って耕作させて、租を取るのを、許さず、旗人に旗地を耕作させようとし たのである。また、乾隆八年に帝は奉天に行ったが、同年十二月旗人に諭して﹁奉天の旗人は前には官差の余暇にみな力 軽して自ら耕作していたが、今は自身で耕作するものが少く、民を雇って佃種させるものが多い、⋮⋮嗣雑兵丁等には、 操演、緊要なる官差の外、幸心なる雑差を減じて、余暇を得させて、親ら耕作させよう。また荒地の開墾すべき処を査明 し、或は種子を貸与して之を開墾せしめよう﹂といった。このように下地を民人に小作せしめることを禁止し、旗人をし て自ら開墾耕作せしめるよう幾度となく努ヵを払ったということは、その半面において、それだけ民人による旗地の小作 が盛んに行われたことを意味するというべきであろう。 また嘉慶八年︵一八〇三年︶四月には大愚亭翌翌星章が奉天より帰ったが、彼は奏して﹁山東・直隷の無業の貧民が奉天 の傭価が高いので、巻属を率いて、多く此の地方に流入し、土地を耕種して生計を立てたため、旗人の生計が窮乏するに 至った﹂と述べている。因って帝は軍機大臣等に諭して﹁総田旗人等、怠於耕作、将地風租給心入、坐獲理事、於民入即 借此牟利﹂といい、旗人が旗地の耕作を行わず、民人に之を菜種させて、その租息すなわち小早料を取るので、意地の利 が民人に帰すると述べている。かくて帝人は奉天将軍晋昌に命じて旗人に諭し、旗人が民人に尽く極地を租佃すなわち、 小作させて生計に窮するのを戒め、民人が山海関を出た後、露地を私かに開墾し、または私かに典蝕することの禁止され ていることを諭させた。 このように乾訪朝から嘉慶にかけて漢隠亡の満洲移住が著しくなると共に旗地に入って小作するものが多くなり更に官 荘においても小作人が愈々増加していった。 満洲における圏地制の推移と小作制の進展 ” 一三
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満洲に担げる圏地制の推移と小作制の進展 ﹁高宗実録﹂巻 一ご七・乾隆五年九月丁酉、周藤氏 右書 一=二頁。 右 巻 二〇六・乾隆八年十二月辛亥、周藤氏 右書 ニコ一頁。 ﹁仁宗実録﹂巻一一一・嘉慶八年四月丙子、周藤氏 右書 一二三一二一四頁。 一四五小作制度の歴史的問題点
この当時の満洲の小作制度について、先ず注意しなければならないのは、佃戸すなわち、小作人に永小作人たる訓山戸 ︵老佃戸、老地戸︶と普通小作人たる現租戸の区別である。 割山戸は、官荘ないし忌地等の未墾地を開墾して、これら官荘ないし旗地荘園の設立に貢献し、世襲的な永小作権を獲 得したものが主となっている。尤もこのうちには、帯地投充に当って投忍者が、その所有地のみを献納して自らは壮丁と なることを欲せずに、ただ単にその地の永小作権を得て団山戸と呼ばれたものもあった。割山戸の場合は、年々一定の貢 租を納入する限り耕種権は奪われることなく、また、 一且定められた率の租すなわち地代は、創山戸の同意なくして地主 側で随意に変更することが出来なかった。かかる永小作権または永租権は世襲的で、その典売が出来た。官地の永州権の 売買は禁ぜられていたが、実際上億曲ハ売が盛んに行われ、官もまた黙認するのが常であった。このようにして永い年月を 経るにつれて、永租権は実質的に所有権化して来たことば、満洲の揚言とくに注意しなければならない。 ﹁満洲旧償調査 報告、租権﹂に﹁満洲起於テモ余地其他ノ官地昌設定セラレタル永租権ハ殆ド所有権ト異ナルコトナシ﹂と述べてある。 光緒三十二年に奉天都督趙爾巽が奉志学官地に附帯せる公租権についての上奏に ﹁⋮⋮然大毒無レ非二官地民佃納フ租是 以定例、不レ准二民間買置一、亦不・微声牧契税一、然歴年既久、勢難レ禁、其交易有レ時乱読、佃敏撮同二業主一、二型其例日二三 副工本一、実則与二買売一極レ異⋮⋮﹂ とあって、奉天省の各余地其他の官地には、従来民佃附帯し官に小作料を納付して来たが、従前は佃戸に其土地の売買を准さず、従って契税を徴毒することがなかったが、歴年既に久しくして人民は退免 の名義でそめ再製を売買し、代価は之を土地の代価なりと云わず、開墾資本の報償なりというも、其の実、佃権は土地所 有権と異なるなく、その売買は土地の売買と異らないというのである。なほ、開墾に基づく永租権は、官荘ないし旗地の 外、 一般民地についても認められた。 また、この永租権は所有者が変っても群羊、増租されることがなかったという。永小作人たる創山戸はその永租権の売 渡によって、永小作人たる地位を脱することが出来るが、農奴たる荘頭や壮丁と異り、土地と共に売買せられることもな ければ、また法律上荘頭や壮丁のもつ拘束もなかった。 このように永小作権は、主として開墾と附帯して生じて来たが、やがて所有権の如く売買されたため、買受による永小 作権者も生じ、また地代の幾年もの前払または押目銭ないし押荒壁︵納租義務に対する保証金︶の形で地主に金融して、永 小作権を得ることもある。これは実は勝地の民人への典売禁止に対する脱法手段で、小作料を非常に低額にして、法的に は永租権の形をとって、法の処罰を免れ、実質的には安全な所有権を取得する方法がよくとられたのである。 次に現庄戸について、 ﹁満洲旧慣調査報告、内務府官荘﹂はそれは普通の小作入であって、その権利も毎年翌年度の租 を前納して、始めて耕作しうる租借権たるに止まり、予期満了と共に、其の契約の更薪を行わねばならぬと述べ、謂わゆ る先租後脚または上申租と称するものは之であるというている。しかし普通小作が全部、かかる小作料前払制であるとい うのは行過ぎであろう。このことは、同じ報告の﹁租権﹂に租は牧穫季節後遅滞なく之を納むるを以て一般の慣行なりと し、基礎資料を示している。そして、これは物納の揚合で、金納の時には先制︵前払︶たるを例とし、多くは専ら耕作着 手前に納付すると述べている。この金納の前払小作制は下拙ともいわれ、中国本土においても時代の進むに従って増加し ている。ところで問題は、満洲において、これが可成多くとられたということは、民人への旗地曲ハ売禁止の法例を免れる 満洲における門地制の推移と小作制の進展 一五
満洲における圏地制の推移と小作制の進展 一六 ための方法として、逆に言えば、旗人なり荘頭なりが資金の融通ないし取得のために、この方法をとり、これが官僚U商 業資本と関係あるものの乗ずるところとなり、旗地の実質的所有権が後者に移って行く歴史過程に大きな役割を演じたこ とに注意する必要がある。 次に問題なのは、官荘ないし旗地における荘頭下の小作関係である。これは、官荘ないし旗地が大土地所有であり、揚 言によっては不在地主制である所、そして、もともと荘園的形態をとれる所に漢民人が流入することによって生じて来る わけである。ところで、この場合、一方馬頭は、地主の威を籍って小作人を左右すると共に、他方では、小作入の名を籍 りて地主を欺隔して中塗をとげて行くことになる。例えば、馬頭は小作契約の締結に際しては腸管をとり、小作料の徴牧 にあたっては、正租の外に附租を求める。また、凶作の際は、臨地踏査を利用して、小作人より賄路をうけ、地主には、 凶作で小作人より納租が充分でないと虚報して、中間的搾取をすることにもなる。また徴駕した租糧の販売において、穀 価の変動を利用し、或は商業資本と結托して中飽する機会も生ずる。ここに梢頭の富裕化が生ずる。旗人などが、これよ り資金の融通を5けて、土地の実質的所有権を失い、ここに、荘頭の実質的地主化が生じて来る。羊頭は多く旗艦に入っ ているから、唐言にあるもの同志の淫売が認められているので、これも盛んに生じたであろう。ここに荘頭を実質的地主 とする小作関係に推移する。名目上の業主権︵土地所有権に相当する︶がもとの地主にある揚合は、荘頭を中心とする﹁又 小作﹂すなわち包工芸が生れて来る。この場合、町頭は地主から包括的に土地の租借権を得ることになり、これを小作人 ボ ス に﹁又小作﹂せしめるということになる。このような包佃制すなわち叉小作制は、漢流民が私長し、その頭領の下に小作 関係が結ばれている際、この私墾地が査出されて、官地として取上げられた場合にも生ずる。すなわち、もと地・王的地位に あったものが永租権者にされ、官によって賦税の外、租︵地代︶をも徴牧されるようになった各種の余地︵例えば額徴民人 余地とか羅衣旗人余地︶においても、もとの小作関係が、官との間に二重の小作関係すなわち包佃制となって来るのである。
更にこれは官僚11商業資本又はこれとつながりをもつものが、旗人に幾年分かの小作料を前払金融することによって長租 権を得、これを貧困流民に小作させる場合、また蒙地における如く、官僚H商業資本につながりをもつ擁頭が蒙古王に金 融して、広大な土地の永租権を得て、流民に小作させる揚合にも生ずる。この揚合になる、と包佃は、本地または蒙旗地の ,典売禁止の法例をうまく潜り乍ら、実質的な土地支配権を握る巧妙な手本となるわけで、それは身分的、世襲的土地関係 が官僚U商業資本の支配に推移する歴史過程において、重大な役割を演じたものである。 中国における包直下の研究は天野元之助氏によってなされている。天野氏によれば。急撃制においては大地主または不在地主は、 その土地の穴部分を少数の潮風者に貸与して、毎年一定の小作料を徴牧し、,彼等がその土地を如何に処置しようと、地主は更に過問 しない。かくの如き輸租者は、多く直接の農業生産者ではなく、唯だ土地を借りて更に之を転挿し、地代を高くして、中に立って利 益をとる豪紳の輩であるといわれる。このような小作は日本では﹁又小作﹂とよばれている。 ①満洲旧慣調査報告内務府官荘一八九頁。 ② 右報告 内務府官荘 一九〇頁。 ③大上氏﹁清朝時代に於ける満洲の農業関係﹂ ④ ⑤⑥