大村善永研究ノート : その生涯と事績
著者
室田 保夫
雑誌名
関西学院史紀要
号
19
ページ
7-52
発行年
2013-03-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/10556
はじめに 二 世 紀 半 以 上 に わ た る 徳 川 幕 藩 体 制 が 崩 壊 し、 明 治 維 新 の も と 新 し い 国 家 体 制 が 形 成 さ れ、 西 洋をモデルにしながら近代国家が形成されていくことになる。それは長い鎖国政策から開国に踏 み切った時代変革、西洋諸国への文化的衝撃の反映でもあった。西洋という文明国家への憧憬と 共に近代国家形成が富国強兵、殖産興業、さらに﹁学制﹂に代表されるように教育がその経綸と されていった。その理念﹁邑ニ不学ノ戸ナク﹂といった教育政策という国是の遂行は、一方で近 代社会、とりわけ教育から疎外された人々も生み出していった。その一例が貧しさ故に、あるい は障害があるが故に学校に行けない子どもたちの存在である。 ここで障害の中でも視覚障害の問題に眼を向けてみよう。近世において盲人の生活安定に一定 の役割を果たしていた﹁当道座﹂の制度は維新とともに、一八七一︵明治四︶年に廃止されるこ とになる。明治維新を起点にした近代化は盲人たちにとって過酷なものとなっていった。そうし
大村善永研究ノート
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保夫
たことを背景に明治初期においては英国留学の経験ある山尾庸三による建白書が提出された。ま た、京都においては古川太四郎の京都盲唖院の設立、東京では古川正雄や中村正直らによって楽 善会訓盲院が設立された。そして明治から大正期にかけて各地に盲学校が出来ることになる。し かし視覚障害児者たちはともすれ ば 盲学校を修了したあと、高等教育から疎外されてきたし、近 代的な職業を得るにも容易ではなかった。 そうした中、一八八九年の創立になる関西学院は大正初期から視覚に障害がある学生を受け入 れてきた歴史があることは注目すべきことである。具体的には熊谷鉄太郎や岩橋武夫らの人物を 高等教育の場に 受け入れた 。 もちろんここに はそれに 関与した好本督の存在も忘れることが出来 ない。熊谷は関学の神学部で学んだあと、盲人伝道に挺身するが、その一環として当時大阪市立 盲唖学校で学んでいた岩橋武夫との邂逅があり、大正中期に岩橋も関西学院で英文学を学ぶこと になる。そして岩橋は昭和初期から関西学院で教えながら多くの視覚に障害のある学生と接触す る こ と に な り、 大 村 善 永、 本 間 一 夫 、 高 尾 正 徳 、 下 村 仁 、 瀬 尾 真 澄 ら 多 く の 人 材 を 世 に 送 り 出 す こ と に な る 。 し か し 彼 等 に つ い て は 未 だ 不 明 の 点 が 多 く、 岩 橋 武 夫 や 本 間 一 夫 以 外 殆 ど 研 究 の 対 象ともなってこなかった。しかしそれは関西学院史の一コマのみならず、社会福祉、とりわけ障 害児者福祉の歴史、そしてキリスト教史の課題でもあるのだ。換言すれ ば 関西学院が日本の近代 に於いて果たした重要な役割の歴史をみておかなけれ ば ならない課題であるにもかかわらず、こ れまでかかる人物について十分に調査、研究がなされてこなかった。 この小論は関西学院で学んだ大村善永という人物に焦点をあてて、彼の生涯と事業を素描して い く。 と こ ろ で、 大 村 に つ い て は 阿 佐 博 の﹁ 先 達 に 学 び 業 績 を 知 る 満 州 の 盲 人 福 祉 に 献 身 し た
大村善永﹂という簡単な伝記がある程度でこれまでほとんどといっていいほど研究がなされてき て い な い の が 現 状 で あ る 。 た だ 彼に は 八 四 歳 の 時、 記 し た﹃ 三 死 一 生 ﹄ と い う 自 伝 が あ る。 こ こ ではそれを一つの手掛かりとし、彼の生涯と事業を概観し、大村善永研究の一里塚としておきた い。 大 村 は 一 九 四 〇 年、 ﹁ 満 洲 ﹂ の 奉 天︵ 現 瀋 陽 市 ︶ に わ た り、 該 地 で の 盲 人 た ち の 福 祉 事 業 を 展開していくことになる。福祉の歴史からみれ ば それが重要な業績であり、また戦後はシロアム 教会を中心にしたキリスト教の伝道活動、あるいは盲人伝道と彼の活動の範囲は広い。もちろん 社会事業という視点からは満洲の社会事業史、あるいは植民地の社会事業史の重要な課題ではあ るが、ただその詳細については今後の研究課題とし、したがってこの小論は大村についての大凡 の生涯と事績を明らかにしていくことを第一義の目的とするものである。 第一章 誕生、満洲、岡山、そして朝鮮へ ︵一︶誕生 さしあたり大村の関西学院入学までを瞥見しておこう。大村の誕生から少年時代については彼 の自伝﹃三死一生﹄に頼らざるを得ない。大村善永は日露戦争が勃発する寸前の一九〇四︵明治 三七︶年一月七日、山梨県東山梨郡八幡村北︵現山梨市北部︶で誕生した。父房太郎、母るいの 六番目の子どもであり、大村家は農業と養蚕を生業としていた。大村家は維新前、苗字帯刀をゆ るされた家柄であり、比較的裕福な家庭環境であったと推察される。ところで彼の生涯において、 大きな思想的影響を受けたのがキリスト教であるが、この点を少しふれておきたい。
そ も そ も 維 新 後、 山 梨 県 に キ リ ス ト 教 が 入 っ た の は 明 治 一 〇 年 代 で あ る。 カ ト リ ッ ク は 一八七八年から伝道を開始している。大村家と関係の深いプロテスタントは七七年からカナ ダ メ ソジストの C ・ S ・ イビー と平岩愃保が伝道を開始したことによる。明治二〇年代もメソジスト が甲府を中心に伝道を行っており、旧家である大村家はこのメソジスト教会の伝道において恰好 の対象に なったと考えられる 。 その結果、祖父やその兄弟、そして父とその子供たちの多くがク リスチャンとなっていった。こうした環境を看過することが出来ない。 大村家のことでもう一つ言及しておかなけれ ば ならないことは、祖父の長男たる房太郎に対す る偏愛であった。このために、二男壬作、三男章作、四男貞平の三人が申し合わせて家出をして いる。ちなみに四男貞平は通信官吏となり、通信監理局勤めとなり後に満洲に出て、善永の養父 になるのである。 ところで、大村の自伝のタイトルは﹃三死一生﹄であるが人生において三回、死に目にあった としている。その第一回目が二歳の時であるという。それは村社の秋祭りの時、肥溜に落ち、危 うく命を落としそうになった経験である。これが自伝の ﹁三死﹂ の中の最初の ﹁死﹂ の体験であっ た。もちろん幼年期のことであり、彼の記憶に定かにあるとは思えない。 ︵二︶養子 ― 満洲へ ﹃ 三 死 一 生 ﹄ に よ れ ば 、 幼 年 時 代 に 大 村 の﹁ 生 涯 を 一 変 す る 出 来 事 ﹂ が 起 る。 三 歳 の 夏 に ﹁ 満 洲 の お じ ち ゃ ん ﹂、 す な わ ち﹁ 子 供 の な い 叔 父 夫 婦 ﹂ の 家 に 養 子 に 出 さ れ て い く こ と に な る。 叔 父とは既述した四男の大村貞平である。離別の当日を﹁母のなげきもかいなく遂に運命の日は来
た。紺がすりの着物に、甲斐絹のへこ帯を胸高にしめて、叔父に手をひかれ、屋敷の定口をいそ いそと下りてゆくわが子の後姿を見送る母、姉、兄たちその上、親しい近所の人々まで誰ひとり 別れを惜しみ、涙に くれない者はなかったという ﹂ と思い出を記している。叔父夫婦との生活は 満鉄線の熊岳城駅近くにある通信監理局の官舎であった。そこで近所の労働者、工夫のおかみさ ん、 宋 と い う 中 国 人 工 夫 の 親 切 さ、 ﹁ こ う い う 素 朴 な 人 た ち の 中 に、 私 は 幼 な い な が ら も 実 母 の 愛を代行する無垢な善意を感じながら育って来たように 思う ﹂ と述懐している。熊岳城は大連か ら北に二〇〇キロ近くに位置しており、近くに温泉のある風光明媚な場所で、眼を患う前の大村 には明確に当時の風景が脳裏に刻まれていたことと思われる。まさに原風景というものであった。 さて熊岳城での生活の後、養父の引っ越しのために大連に移ることになる。大村は﹁大連はロ シヤの占領下にあった時代に設計された町で、立派な港があり、街路は真すぐに走って、両側に はブロックを敷きつめた歩道が設けられきれいな店や、会社が並んでいた。街路樹はよく手入さ れ 、 四 、五 月 に は ア カ シ ア の 花 が よ い 香 り を た だ よ わ せ た 。 一 番 立 派 な の は 、 中 央 の 大 広 場 だ っ た ﹂ と当時の様子を回顧する。当初、この大広場の近くに あった小学校から、三年生の時、西公 園の中に新築された第三小学校に転校している。 その後、また養父の転勤で旅順︵現大連︶に引っ越す。旅順は二〇三高地をはじめ、日露戦争 時の激戦地であった。大村は満洲で唯一の官立中学であった旅順中学に入学することになる。こ こにおいても養父が長春に移ることになり、彼は中学校の寄宿舎にて学生生活を送る。寄宿舎で は高等学校を目指して日夜、学問に励んだことと思われる。かくて、一九二一︵大正一〇︶年四 月、一七歳のとき、彼は岡山の第六高等学校に入学することになるのである。
︵三︶第六高等学校入学と退学 当時、高等学校は向学心のある若者の憧れの教育機関であり、大村も岡山での学生生活を送る。 もちろん高等学校に進学できる学生は限られていたし、幸福な家庭環境であったことは推察され る。大村が選んだのは岡山にある第六高等学校であった。六校は一九〇〇︵明治三三︶ 年 三月に 岡山市に設立された官立の旧制高等学校であり、 名門であった。大村は ﹁校庭をへだてて寮があっ た。その東側に松のみどりの濃い操山を背負い、南側に広い芝生をへだてて山陽女学校の建物が 望見された。学校の寮は南から南寮、中寮、北寮と二階建ての建物が平行し、その間に高い松の 木がそびえ、その根本に沈丁花が花盛りだった。私は北寮二階の四号室に入れられた。定員は八 名で内二名は二年生だった。出身地や性格がそれぞれ違っていても、若人らしいおおらかさが全 体の雰囲気をなご やかに してくれた ﹂ と回顧している。大村はこの憧れの六校入学を果し、学生 生活を満喫し、未来に夢を託し希望に胸を膨らませていたことは想像に難くない。 しかし、一年生の暮れに眼の病気の兆候があらわれ、岡山医大病院の眼科で診察を受け、その 結果、急性網膜炎という診断を受け一年間の休学を進言されたが、無理して期末試験を受け二年 生への進級を見届けて、急遽満洲へ帰ることになる。ここでロシア町の満鉄病院に行き診察を受 けた時、出血を見たのである。そして﹁網膜硝子体出血﹂という難病のため、入院を余儀なくさ れた。その入院も重症の診断で一人部屋に移されている。その時の心情を彼は後になってである が、 ﹁一人病床に身を横たえていると、 きのうまでこの世の春を一身に 、 若さを謳歌した高 校 学生、 今はうらぶれて、いつ失明するとも知れない悲運に泣き、不安の黒雲はもくもくと心の中を這い ずりまわっている。つい先日まで胸ふくらませ希望にあふれていた前途が今やすっかり暗に閉ざ
される思いだった ﹂ と苦渋な心境を吐露している。こうした希望から失望への転落という体験は、 後に関西学院で恩師となる岩橋武夫が早稲田入学後、一年で網膜剥離となり、失明し帰阪した体 験と重なる。こうして大村も僅か一年において高等学校生活を断念せざるを得なかった。ただ当 時、彼は完全失明という症状ではなかった。 ︵四︶朝鮮での農業経営 一 九 二 三 年 七 月、 大 村 は 大 連 か ら 豪 華 客 船 サ イ ベ リ ヤ 丸 に て 帰 郷 す る。 一 九 歳 の 大 村 は お お よそ一六年ぶりに故郷の地を踏んだ。ちなみに二ケ月後の九月一日、関東大震災が勃発する。翌 二四年六月、二〇歳になった大村は甲府にて徴兵検査を受ける。結果は視力が問題となり﹁丁種 不合格﹂となった。そして大連に帰り、養父母の援助もあり、朝鮮全羅北道にて農業経営をする ことになる。朝鮮での農業経営には矢崎清七・そのえ夫妻の支援を受けている。そのえは実姉で あ る。 ﹁ そ の う ち、 村 落 内 で は 相 当 顔 の き く 義 兄 の き も 入 り で、 二 〇 坪 ほ ど の 家 屋 敷 と 三 町 歩 あ まりの田地を手に入れることが出来た。水田作りには、まるっきり素人の私はし ば らく義兄の家 に 住み込んで朝鮮での農業の実地を習得することに なった ﹂ とある。このように 農業の方は成功 を収めたが、再びマラリヤという病魔が大村を襲うことになる。この罹患が因でわずかに残され ていた視力も完全に失なわれ、奈落の底に突き落とされたのである。失明当時を大村は次のよう に回顧している。 思 え ば 十 七 歳 の 春、 若 人 た ち の あ こ が れ の 的、 旧 制 高 等 学 校 に 入 学 を ゆ る さ れ、 若 人 の 夢 を ま ん き つ し て い た そ の 幸 せ の 絶 頂 に、 思 い も か け ず 目 を 患 い、 そ の 頃 と し て は 最 新 の 治 療
に 打 ち こ ん だ に も か か わ ら ず、 学 問 へ の 進 路 は 完 全 に と ざ さ れ て し ま っ た。 医 師 の す す め と、 養 父 母 の ゆ る し を 得 て、 十 六 年 振 り に 郷 里 に 帰 り、 農 業 へ の 希 望 を 見 出 し て 朝 鮮 に ま で 来 た の だ っ た。 と こ ろ が 今 は 小 さ な 田 園 王 国 の 夢 さ え 奪 い 去 ら れ、 何 を 目 あ て に 生 き た ら よ い の か全く希望を見失ってしまったのだ 。 ち な み に、 兄 の 勇 は 大 連 の 勤 務 を 辞 め て、 青 山 学 院 の 神 学 部 に 復 学 し 卒 業 後 は 教 会 活 動 に 挺 身 していた。そして兄から点字聖書を送られることになる。点字にて聖書を読み、信仰を深めるに あたって、神やイエスへの疑問が生じ、大村はある日自殺を決行しようとしたが果たせなかった。 むしろこのことによって信仰に生きることの決断がなされた。本間は当時を﹁ほんとうの愛に目 ざめた私の魂はこの時に初めて〝絶望から希望へ 〟〝 死から生へ 〟〝 滅びから救い 〟 へと呼び返さ れたのである ﹂ と回顧している。 人 生 に 前 向 き に 歩 み 始 め た そ の 頃、 大 阪 か ら﹃ 点 字 毎 日 ﹄ を 取 り 寄 せ、 そ れ を 購 読 し て お り、 点字を習得することによってヘレン ・ ケラー、アン ・ サリバンの存在、そして岩橋武夫のこと等々 を知ることになる。こうした情報を得ることによって大村は再び学問への情熱が再燃し、大阪行 きを覚悟する。そして養父に向学の志を打明けて承諾を得、希望する内地行きが実現することに なる。かくて大阪に赴き、大阪毎日新聞社にて中村京太郎、大野加久治、長岡加藤治らと面会し、 日本の盲界事情や盲人として生きる心がまえ等を聞き、自らの手でもって新しい人生を切り拓い ていくことになったのである。
第二章 関西学院 時代 ︵一︶関西学院入学 大 村 が 関 西 学 院 に 入 学 す る 前 の 状 況 に つ い て は 次 の よ う な 回 顧 が あ る。 市 立 盲 学 校 寄 宿 舎 に て一週間宿泊し、盲教育の実地研修を受けた。その後、岩橋武夫の近所に下宿し関学入学の準備 を し た と あ り、 岩 橋 の 妹 の 静 子 が 週 二 回 英 文 タ イ プ ラ イ タ ー の 練 習 を み た り し て い る。 そ し て 一九二九 ︵昭和四︶ 年四月、 岩橋の秘書に付き添われて文学部長ウッズウォース ︵ Woodswoorth ︶ に面接したが、その結果、一年間は聴講生として勉強し、成績次第で本科生ということに落着し た。ともあれ、こうして大村の関西学院入学が実現した。 入 学 式 は、 学 長 ベ ー ツ︵ C.J.L.Bates ︶ の 英 語 に よ る 式 辞 が あ っ た。 学 院 は 原 田 の 森 の 学 舎 か ら 新しくこの上ケ原に移転した。それは大学四〇周年を記念しての、そして大学設置という大きな 目標が背景にあった。当時、ベーツは新しい出発にあたって次のように語っている。 わ が 学 院 は 四 部 か ら 成 立 し、 中 学 部、 高 等 商 業 学 部、 文 学 部、 神 学 部 に 分 か れ て ゐ る、 学 院 の 教 育 方 針 は 宗 教 と 教 育 の 調 和 を 骨 子 と し て 進 ん で ゐ る、 宗 教 を 抜 き に し た 教 育 は あ ま り に も 物 質 的 で 精 神 的 要 素 を や ゝ も す る と 見 失 な は れ る こ と が あ る、 夫 故 に 教 育 に よ る 宗 教、 宗 教 に よ る 教 育 と い ふ 理 想 に 立 つ て 宗 教 が 迷 信 に な ら ず、 教 育 が 物 質 的 に な ら ぬ や う に こ の 二 者 の 調 和 を 求 め て ゐ る、 そ し て 全 人 主 義 の 人 格 建 設 に 重 き を 置 き、 飽 ま で も 学 生 の 自 由 を 尊 重 し て ゐ る、 我 学 院 の モ ツ ト ー は マ ス タ リ ー・ フ オ ア・ サ ー ビ ス、 青 年 よ 汝 は 主 と な れ、 強 く あ れ、 而 し て そ れ は 人 に 奉 仕 す る が 為 め に 自 主 の 人 と な れ、 真 理 は 将 に 汝 を 自 由 に な ら し
め る、 真 理 を 土 台 と し た 自 由 で あ る、 斯 く し て 人 に 奉 仕 す る そ の 精 神 こ そ 武 士 道 の 精 神 で あ り 中 世 紀 の ナ イ ト の 精 神 で あ る、 か か る 幻 と 信 仰 を も て る 教 養 あ る 青 年 を 養 成 し、 又 教 師 と 学 生 は 親 子 兄 弟 の 親 密 さ と 和 気 藹 々 た る う ち に 教 育 を つ ゞ け て ゐ る、 こ ゝ に 関 西 学 院 の 学 院 た る 使 命 が あ る、 故 に 我 が 学 院 は 教 育 と 同 時 に 尚 ほ 一 つ の 使 命 あ る 学 校 で あ る こ と を 識 つ て もらひたい 。 こうした一貫とした使命をもった学院の方針を聞きながら、キリスト者でもある大村の心は喜 びに溢れていたことは想像に難くない。そして﹁翌日の始業日は朝、猛烈な雨だった。神戸の前 校舎から、この春越した ば かりのスパニッシュスタイルの新校舎は、元、田んぼだっただけに通 学路は泥沼同然である。私が寮の玄関を出しぶっていると、 宇都宮というクラスメイトが 〝おぶっ て 上 げ よ う 〟 と 大 き な 背 中 に私 を ひ ょ い と の せ て 向 う が わ に無 事 着 陸 と い う ひ と こ ま も あ っ た ﹂ と学友との仄々とした想い出を語っている。また﹁英文科一学年は六十人という若人を集めてい た。その大教室はぬり立ての壁の匂いや、したみの塗料が鼻をついたが、すべてが新鮮で好感が 持てた。寮では毎朝食事前に集会室に集って寮生の祈祷会が開かれた。全員というわけにはゆか なかったが、私は支障のないかぎ りに 毎朝出席した ﹂ ともある。視覚に 障害をもっていたとはい え、多くの人々に支えられながら学院生活を送っていたのである。 ま た 同 じ 英 文 科 で 和 歌 山 出 身 の 島 史 也 と い う 同 級 生 と は 親 し く 交 わ っ て い る。 島 は 大 村 と 同 様 に寮に入り、生活面においても支援を惜しまなかった。島の主唱で週に一回一室に集って、準備 した論説、エッセー、詩などを発表し合い、そこでは文学論が自由、活発にたたかわされたりし ている。このように大村は﹁水を得た魚﹂の如く学院生活を満喫したのである。そして大村の学
院時代に関西学院は念願の大学昇格が実現する。一九三二︵昭和七︶年三月七日に大学令による 関西学院大学が設立が認可され、学院全体として喜びで高揚していた。 ︵二︶卒業をめぐって 大 村 は 大 学 四 年 生 の 時、 関 西 学 院 新 聞 か ら 原 稿 を 依 頼 さ れ、 ﹁ 闇 に 生 活 す る ﹂ と い う タ イ ト ル の文章を書いている。その内容は最初に入学式での嬉し涙にふれ、関学入学に至る自分の履歴を 記 し、 ﹁ 恰 も 砂 漠 を 旅 す る 旅 人 が 砂 塵 に 吹 き ま く ら れ 暑 さ と 戦 ふ 幾 十 日 か の 旅 路 か ら や つ と 緑 の オアシスに辿りついたやうに魂の曠野をあてどなくさまようて来たこの青年は今や、曾て味つた 智 恵 の 実 を 再 び 取 り 生 命 の 泉 を 掬 し、 物 象 の 世 界 は 失 は れ て も 聴 覚 と 触 覚 を 通 じ て 心 霊 の 糧 を 豊かに享受する身となつたのでありますからその喜びは如何 ば かりだつたでせう﹂と感慨を語る。 そして以下のように関学の前途を期待する。 普 通 な ら ば 闇 の 中 に 捨 て ら れ て 顧 み ら れ な か つ た か も 知 れ な い 彼 が 普 通 人 と 肩 を 並 べ て ひ と し く 光 明 の 前 途 へ と 精 進 の 一 路 へ と 辿 り 得 る こ と は た ゞ に 彼 一 個 に と つ て 驚 く べ き 恩 典 た る に 止 ま ら ず 又 運 命 開 拓 の 象 徴 と し て 他 を 刺 激 す る 大 な る も の あ る を 信 じ ま す。 諸 外 国 で は 各 大 学 に 於 て 盲 人 に も そ の 門 戸 を 開 放 し 盲 人 の 社 会 的 活 動 も 可 成 り み る べ き も の が あ り ま す。 翻 つ て 我 国 を 見 ま す に 盲 人 と 云 へ ば 鍼、 灸、 按 摩 か 琴 の 師 匠 な ど よ り 他 に は 殆 ど 為 す べ き こ と が な く 高 等 の 学 府 は 視 力 に 欠 陥 あ る も の ゝ 入 学 を 許 さ ず 向 上 の 道 を 絶 た れ た 若 き 盲 人 達 は 徒 ら に 卑 屈 す る の 外 な い 現 状 で あ り ま す。 然 る に 當 学 院 は 多 年 弱 者 の 友 た る キ リ ス ト の 精 神 に 沿 ひ、 女 子 や 盲 人 を も そ の 資 格 あ る も の に は こ れ を 入 学 せ し め つ ゝ あ る
こ と は 校 風 の 一 大 誇 り で あ る と 思 ひ ま す。 今 や 大 学 昇 格 を 実 現 し 洋 々 た る 前 途 に 向 つ て 一 歩 を 踏 み 出 し た 関 西 学 院 が そ の 表 面 的 発 展 と 共 に 内 面 的 に も 益 々 そ の 使 命 を 発 揮 す べ き こ とを信じて疑ひません。 この文章が﹁大学昇格祝賀号﹂に収載されて刊行されたのは、四年生の卒業間近の年末のこと であった。いわ ば 文章全体が彼の四年間の総括のようなものである。 ところで大村は四年生になり卒業論文という難題にぶつかる。 これにはロマン派の詩人ジョン ・ キ ー ツ を 選 び、 そ の 中 の﹁ Ode ︵ オ ー ド ︶﹂ に 焦 点 を 絞 っ て 執 筆 し た。 し か し 卒 論 と は い え、 自 由に研究をしようと思え ば 彼一人では心許ないことはいうまでもない。そこで卒論研究に力を貸 したのが平間輝男という学生であった。ボランティアとして買って出た平間は千葉県銚子出身の 後輩である。大村にとってそれは﹁干天に慈雨﹂の心境であった。平間について次のように述懐 している。 それからというもの彼は毎日のように学院の図書館から参考資料を借りてくる。 本屋に行っ て は 何 か 買 っ て く る。 そ れ ら を 私 の 本 棚 に お い て 片 端 し か ら 読 む、 そ れ で も 足 り な い と ば か り、 私 を 散 歩 に 連 れ 出 し て は、 林 の 中 の 切 り 株 や、 橋 の ら ん か ん に 腰 か け さ せ て は 読 む。 極 端 な の は、 私 を 床 や に つ れ て い っ て、 刈 っ て も ら っ て い る 間、 そ ば に 腰 か け て 読 む と い う 具 合。 私 が 頼 ん だ 個 所 に は ア ン ダ ー ラ イ ン し て 寮 に 帰 っ て か ら 点 字 に 写 さ せ て く れ る の で あ っ た 。 このような一人の学生の献身が文学部長夫人のミセス・ウッズウォースの耳にも入り、彼女も 手伝うようになった。ちなみにこの平間という学生の妹が後に大村の妻となる平間きみである。
卒論のタイトルは﹁ A Study on Keats's Odes ﹂で、英文タイプ二一枚のものである 。 周知のよ うにタイトル中の Ode とは特殊の主題でし ば し ば 特定の人や物に寄せる抒情詩である。ジョン ・ キ ー ツ ︵ John Keats, 1795-1821 ︶ は 一 八 世 紀 末 に ロ ン ド ン で 生 ま れ た ロ マ ン 派 詩 人 で あ る。 バ イ ロ ン︵ George Gordon Byron ︶ ら と も 親 交 が あ っ た が、 両 親 と 死 別 し、 大 学 教 育 を 受 け て い な い。一八一七年に最初の詩集を発表したが、その四年後二一年、二五歳で結核のために夭逝した。 一 九 年 に Ode to a Nightingale や To Autumn な ど 六 編 の オ ー ド や バ ラ ッ ド、 物 語 詩 な ど 多 くの傑作を書いた。大村がキーツを選んだ理由は、二五歳という若さで無念の死を遂げた人物へ の共感とそのオードの持つ魅力的な世界であったのではないか。 と も あ れ、 大 村 は 一 九 三 三 年 三 月、 優 秀 な 成 績 で 学 院 を 卒 業 し た 。 大 村 の 関 学 時 代 の 世 相 は 世 界 不 況、 満 洲 事 変、 五 ・ 一 五 事 件 等 が 勃 発 し た。 と り わ け 満 州 事 変 は 彼 の 心 に 気 に か か っ た こ と であったと推察される。そしてこうした暗い世相を反映し、就職難の時代にもかかわらず、横浜 訓盲院で働く場を得ることが出来たのは幸運なことであった。 第三章 横浜訓 盲 院教師 ︵一︶教師として 関西学院を卒業した大村は横浜訓盲院の教師となる。院長はギデオン ・ F ・ ドレーパー ︵ Gideon F.Draper ︶ であった。ここで七年間教師をすることに なる。そもそもこの施設の淵源は一八八九 年 九 月 二 六 日 に 設 立 さ れ た﹁ 盲 人 福 音 会 ﹂ と い う 民 間 の も の で あ っ た 。 施 設 は キ リ ス ト 教 主 義
で 運 営 さ れ て お り、 関 学 で 学 ん だ 先 輩 の 熊 谷 鉄 太 郎 も か つ て こ こ で 教 え て い た こ と も あ る。 大 村 は﹃ 横 浜 訓 盲 院 ﹄ の 中 で﹁ わ た し は 一 九 二 九 年 中 途 失 明 者 と し て、 関 西 学 院 文 学 部 に 入 学 し、 一九三三年、卒業と共に今村先生の御世話で横浜訓盲院に奉職、一九三九年日中戦争の激しいさ なか、小さい時から育った大陸の人々への恩返しのつもりで満洲に渡り、彼地の盲人の福祉と教 育に 挺すべく院を辞した者であります ﹂ と当時を語っている。文中の今村先生とは後の当院理事 長にもなった今村幾太を指していると思われる。そして在院時代を次のように回顧している。 今在任中で一番印象深かったことの一つは就任後間もなく、元院長ギデオン ・ F ・ ドレーパー 博 士 の お 宅 を お 訪 ね し た 時 の こ と で す。 山 手 の 丘 の 中 腹 に 建 て ら れ た 宣 教 師 館 を 訪 れ た 日 は お だ や か な 春 日 和 で し た。 庭 先 の 大 き な び わ の 木 の 上 で 小 鳥 達 が わ た し を 歓 迎 す る か の よ う に し き り に 囀 っ て い ま し た。 ド レ ー パ ー 夫 妻 を 初 め、 令 嬢 の ウ イ ニ フ レ ッ ド・ メ リ オ ン 両 姉 妹 と 歓 談 の 後、 外 に 出 る と ミ ス・ メ リ オ ン が 庭 先 の 花 壇 か ら 小 さ な 花 を と っ て 出 来 立 て の 背 広 の 衿 に つ け て く だ さ り、 ﹁ こ れ シ ネ ラ リ ア ﹂ と 云 わ れ ま し た。 わ た し は ま だ 目 が 見 え た 頃 好 き だ っ た シ ネ ラ リ ア の 青 空 に よ う に 清 ら か な 花 を 思 い 出 し、 若 さ の 希 望 に 胸 を ふ く ら ま せ た も の で す。 ⋮⋮ 略 ⋮⋮ 訓 盲 院 時 代 に は 山 本 先 生 初 め、 先 輩 同 僚 の 先 生 が た か ら 多 く の 御 指 導、 御 鞭 撻 を 受 け ま し た。 経 験 の 浅 い 若 僧 の 教 師 は 大 し た 働 ら き も 出 来 ず、 皆 さ ん に 御 迷 惑 を か け た こ と を 思 っ て、 お 恥 し い 限 り で す。 ど う か 主 の 恵 み と 多 く の 人 々 の 愛 顧 に 支 え ら れ て 九 十 年 の 歴 史 を 歩 ん で 来 た 横 浜 訓 盲 院 が い つ ま で も 主 の 御 栄 光 に 奉 仕 さ れ ま す よ う、 願 っ てやみません 。 大村は就職した翌年の三月二四日、関学時代の級友平間輝雄の妹きみとドレーパー院長司式の
も と で 結 婚 式 を 挙 げ る こ と に な っ た。 ﹁ 訓 盲 院 の 裏 門 か ら 程 近 い 借 家 の 新 家 庭 は、 神 の 恵 の も と 平和に明け暮れた。翌三月には長女はるみ、二年おいて長男美国が与えられた。若い親達は失敗 を繰り返しながらもこの時代が一番平和で楽しかった ﹂ と後年になって回顧している。 ︵二︶辞職をめぐって 大村の訓盲院時代、 一九三七年七月に日中戦争が勃発し、 中国大陸はますます戦禍が激しくなっ て い く。 そ れ 以 前、 関 学 生 の 時 で あ る が 三 一 年 九 月 に は﹁ 満 洲 事 変 ﹂ が 勃 発 し、 翌 年 二 月、 国 際連盟が派遣したリットン卿︵ V. A. G. R. Lytton ︶を団長とする調査団が派遣された。一方、日 本は三月一日に、 ﹁満州国﹂の建国を宣言し、既成事実でもって調査団に抗した。翌年﹁満州国﹂ の不承認を内容とするリットン報告書が総会で採択され、日本は国際連盟を脱退した。こうした 世界の流れと日本がとった方向との齟齬の歴史があり、日本は溥儀をたてて傀儡国家満洲国を国 策として展開していき、世界との溝を広げていく。こうした国際情勢は満洲を故郷とする大村の 気にかかるところであったことは言うまでもない。 ところで一九三七年四月、日本国内においては大村の恩師でもある岩橋武夫の尽力もあり、ヘ レン・ケラーが来日し大歓迎がなされた。ケラーは国内各地において講演をして回ったが、満洲 をも訪問する 。 しかし日中戦争の勃発とともに 帰国することに なる。当時の日本と中国との関係 の悪化、とりわけ満洲の状況を大村は常に気にかけていた。こうした状況の中で、当時の大村は 非戦論者として述懐されている 。 横浜訓盲院の大多数が好戦論者であった。しかし大村と同様二 人の教師がそれに疑問を感じていた。河原と真船教諭である。こうした考え方が訓盲院内で軋轢
を生じたようであり、三人は辞職し、真船と大村は共に朝鮮から満洲、中国の北方の方に視察旅 行 を 企 て て い る。 そ の 後、 ﹁ 大 義 名 分 を 欠 い た 日 中 戦 争 の ご ま か し に 何 と し て も 納 得 が 出 来 ず ﹂ 大村は岩橋武夫の紹介でフレンド協会委員長のギルバート・ボールズ博士夫妻を訪ねて、その敷 地内の一室で起居し、満洲国に 対する建白書を認めたのである 。 それに つきボールズは﹁大村君 は、君が横浜訓 育 院に教鞭を執つて居られた五六年間、私の知人であり、また、過去半歳に亘て、 君が基督友会本部に居住された間親しく交つた関係上、私は君の将来の事業に対し深き興味を有 するものである。私は君の人格と手腕と、及び君が奉天の盲人延いては全満の盲人に使命を感じ、 此の為に 献身せんとしてゐる態度に 対し強い敬意を払ふものである ﹂ と記している。そして次章 でみるように、大村は満洲へ移転することになる。 大 村 が 満 洲 で の 盲 人 事 業 を 決 意 し た の は 一 九 三 九 年 夏 の こ と で あ る。 そ こ に は、 三 七 年 七 月 の日中戦争勃発が大きな要因となっていた。幼い時を過ごした満洲は彼にとって故郷でもあった。 ﹁ 学 友 の 幾 人 か は 勇 躍 征 途 に つ き、 そ の 或 る 者 は 軍 刀 を 揮 つ て 敵 陣 に 突 入 し、 遂 に 護 国 の 鬼 と 化 した。然るに己は眼盲ひたるが故に余りにも為す無きを嘆 ずる思 ひが次第に深まつて行つた。同 時に め 、 、 、 くら だから敵陣に見える事は出来なくとも、日本盲人の名に於て積年の菲政と戦乱に喘ぐ 悲惨な大陸の盲人に援助の手をさし伸べたなら ば 、亜細亜民族協和の一助ともなるであらうとの 考へが起つて来た ﹂ と動機を披瀝している。 そして一九三九年夏に職を辞し、同僚の真船とともに大陸の盲人事情を視察したのである。そ の結果﹁満洲に 盲人の保護並びに 教育の施設が必要なる事を痛感した ﹂ 。かくて翌一九四〇年三 月六日に﹁建白書﹂を満洲国政府、畑総裁に陳情したのである。
第四章 ﹁満洲 盲 人保護並びに教育に関する建白書﹂をめぐって 大村が提出した建白書は﹁満洲盲人保護並びに教育に関する建白書﹂ ︵以下﹁建白書﹂と略す︶ として、満洲に渡る前、一九四〇年七月に刊行された﹃満洲の盲人に光を﹄という小著に収載さ れている 。 この著は兄の大村勇が編集したことに なっているが、この著の内容に ついて次章で取 り 上 げ た い。 さ し あ た り こ こ で は こ の 著 に 掲 載 さ れ た﹁ 建 白 書 ﹂ の み 言 及 す る こ と に す る。 ﹁ 建 白書﹂は、一﹁趣意﹂ 、二﹁盲人福祉事業に就て﹂ 、三﹁盲教育に就て﹂から構成されていて、大 凡四〇〇〇字の長文である。 ﹁ 趣 意 ﹂ の 冒 頭 で﹁ 古 今 東 西 の 歴 史 を 按 ず る に、 国 家 社 会 文 明 の 尺 度 は 鰥 寡 孤 独 不 具 廃 疾 等 の 弱者が保護せられ、救済せらるゝ程度にありと謂ひつ可し。即ち欧米の諸文明国にありては一般 文化の進歩に並行して、病院、特種学校、養老院等の施設完備せられ、欧米人が未開の国土を開 拓せんとするや先づ医療、教育、救済等の施設を急ぎて、人心を案んずるは幾多の実例に見る所 なり﹂と述べる。そして日本の該事業も明治維新以来少しずつ、発展を遂げてきた。しかし翻っ て満洲をみると﹁満洲国は建国日尚ほ浅きにも拘らず、国家百般の施設頓に進捗し、今や世界驚 異の焦点たり。上に仁慈なる 皇帝陛下を戴き、下万民衣食足り、善政の徳化辺境に洽く、国民 挙つて新政を謳歌するに至れるは、寔に慶賀に堪へざる所なり。不肖今般満洲に到り、備に国内 の事情を察し、甞て不肖が少年時代を化育を受けたる当時を回想し、転た今昔の感に堪へざるも のありたり。唯茲に遺憾としたる一事は特種教育及び社会事業、特に盲人に対する保護並に教育 施設の甚だ微々たる事なり﹂という。日本が中国に侵略していっているという痛みはないが、大
村自身が幼少年時を過ごした関係が述べられ、満洲の盲人に対する﹁保護及び教育﹂施設は、日 本国内に比し著しい不備の状況であるという指摘がある。これは彼の満洲視察に基づいての発言 である。保健、医療も不完全であり、加えて彼等の職業もなく﹁盲人の大多数は徒食者又は乞食 なり﹂と論じ、彼等が非常に不遇な状況に置かれていることを憂慮する。それは彼等に原因があ るのではなく、 ﹁失明てふ一小欠陥の補はれざる故なり﹂と指弾する。政治的な意味はさて置き、 如何に彼等に対する事業を展開し、現状を少しでも打破して、彼等が幸福に暮らしていけるよう にという思いが吐露されている。大村が育った地の同類に対する同情からの発言と捉えられよう。 二の﹁盲人福祉事業に就て﹂では、冒頭の﹁盲人を救護するは先づ衣食よりして教育に及 ば ざ るべからず﹂という表現に彼の構想が込められている。盲人教育と保護事業との一体化をはかっ て い く こ と が 大 き な 目 標 と な る。 具 体 的 に は﹁ 満 洲 盲 人 福 祉 協 会 ﹂ を 設 置 し こ こ を 拠 点 に し て、 盲人会館と盲学校を設置し事業を展開していくことであるとする。具体的には盲人会館の事業は、 ︵一︶盲人調査⋮⋮地方別盲人の個別的及び統計的調査を為す。 ︵二︶盲人保護⋮⋮盲人の身の上相談に応じ、又貧困、病弱、老衰の盲人を救護す。 ︵三︶医療保護⋮⋮病院と連絡をとり、失明防止、開眼手術、眼疾治療其他の医療をなす。 ︵ 四 ︶ 成 人 教 育 ⋮⋮ 教 育 適 齢 を 越 え た る 成 盲 人 に 対 し、 盲 人 会 館 又 は 巡 回 教 室 に 於 い て、 若 く は 個 別 訪 問 に よ り て、 点 字 の 読 み 書 き 等 の 教 授 及 び 授 産 を 為 す。 ま た 会 館 に 点 字 図 書 館 を 設 け て 閲 覧 に 供 し、 会 館 の 講 堂 に 於 て、 修 養、 娯 楽、 宣 伝 等を目的とする集会を開く。 ︵五︶製作所及び出版所⋮⋮盲人の職工を雇傭して手工業、点字出版等に従事せしむ。
︵六︶合作社⋮⋮盲人の為めの購買、販売、信用、利用等の利便を図る。 以上のような具体的な盲人施策を構想し、上申したのである。 三 の﹁ 盲 教 育 に 就 て ﹂ で は、 近 代 教 育 の﹁ 智 育 偏 重 ﹂ を 指 弾 し、 ﹁ 精 神 教 育 ﹂ と﹁ 労 作 教 育 ﹂ をも重視しなけれ ば ならないこと、具体的には﹁労作教育﹂を﹁特種学校﹂において重要視しな けれ ば ならないことを指摘する。そして﹁満洲国にありては農業が国家生産の首位を占め、且つ 農家出身の盲人が大多数なるべきを以つて、満洲の盲学校に於ては農業教育を第一位に推すを適 当 ﹂ と し、 そ の 具 体 案 を 示 し て い る。 ま た 針 灸、 按 摩 等 の 療 術 を 習 得 せ し む る と し て い る。 さ らに﹁凡そ事業の成否は之に当る人物如何に在り﹂というように、とりわけ特殊事業に至りては、 こうした事業を遂行していくための人物が一番肝要であることを指摘する。そして、 斯 く し て 機 構 と 人 と の 完 全 な る 調 和 を 見、 国 民 挙 つ て 此 事 業 を 賛 助 し、 資 材 を 投 じ て 博 愛 慈 善 の 道 に 精 進 す る に 至 ら ば 即 ち 国 を 挙 げ て 王 道 楽 土 た る に 邇 か ら ん。 満 洲 盲 人 を 思 ふ 情 切 な る 余 り、 敢 て 尊 厳 を 犯 し、 涕 泣 し て 謹 み て 献 策 す。 幸 に 嘉 納 を 得 ば 、 之 が 実 現 に 関 し て は 不 肖 も 亦 第 二 の 故 郷 満 洲 の 為 め に、 犬 馬 の 労 を 辞 せ ざ る べ し。 希 く は 不 肖 の 微 衷 を 酌 ま れ、 不 幸なる満洲盲人福祉の為め一臂の労を惜しまれざらん事を。 と 結 ん で い る。 大 村 の 当 時 の 肩 書 と し て﹁ 東 京 盲 人 会 館 調 査 委 員 ﹂ と﹁ 関 東 盲 人 事 業 連 盟 幹 事 ﹂ となっている。ちなみに住所は﹁東京市芝区三田台町一ノ十三番地﹂とある。こうした満洲での 同じ苦しみを持つ人々への支援を彼は訴えたのである。この﹁建白書﹂に描かれた構想が後の満 洲への移住と事業の核となって具体的に展開されていく重要なモチーフとなっている 。
第五章 ﹃満洲の 盲 人に光を﹄をめぐって 大村の兄、大村勇は一九四〇︵昭和一五︶年七月に小雑誌﹃満洲の盲人に光を﹄を編集し発行 している 。 そして多くの人からメッセージを収集し、この著が刊行された。以下、掲載順に 執筆 者の肩書、タイトルを原文どおり記しておくことにしよう。 中 央 盲 人 福 祉 協 会 会 長 大 久 保 利 武﹁ 大 村 善 永 氏 を 推 薦 す ﹂、 東 京 盲 人 会 館 常 務 理 事 大 河 原 欽 吉 ﹁大村善永君の計画﹂ 、大阪ライトハウス館長岩橋武夫﹁一粒の麦地に落ちて死なず ば ― 大村善永 君 を 推 薦 す る の 辞 ﹂、 関 西 学 院 長 ベ ー ツ 博 士﹁ 満 洲 盲 人 の 福 音 ﹂︵ Work Among Blind People Of Manchuria ︶、 奥 島 太 一 郎﹁ 推 薦 の 辞 ﹂、 日 本 メ ソ ジ ス ト 奉 天 教 会 牧 師 平 野 一 城﹁ 贖 罪 愛 の 進 路 ﹂、 基督友会委員長ギルバアト・ボールス﹁大村君夫妻を推薦す﹂である。 ここで彼の関学時代の恩師岩橋武夫と学院長であったベーツの文章について言及しておくこと に し よ う。 岩 橋 は 日 中 戦 争 と 第 二 次 大 戦 の 勃 発 と い う 世 界 状 況 を 背 景 に 、﹁ ア ジ ア に 黎 明 の 光 を もたらすべく立ち上つた我等一億の国民が世界に振り出した﹃王道楽土﹄の大手形が不渡りにな らぬ様、一にも二にもこれを行動に於いて実証すべき日が刻々に迫つてゐる﹂と事業の意味を述 べ、 ﹁ 日 満 支 を 結 ぶ 共 同 帯 と し て 愛 盲 事 業 が 黎 明 期 に 立 つ 日 本 に 取 つ て 如 何 に 必 要 欠 く 可 か ら ざ るの聖業の一つであるかは以上述べた処に照らすも明らかであらう。何となれ ば 闇に住む百万余 の人々に光りがもたらされてこそ黎明のアジアたるを得るからである。⋮⋮略⋮⋮一人の闘士が 身を挺して友邦満洲国同憂の友に対し教育社会事業の分野に於てなすあらんと発願するに至つた 事 は 誠 に 近 頃 の 快 事 で あ る ﹂ と し て い る。 そ し て﹁ ﹃ 光 は 東 方 よ り ﹄ と す る な ら ば そ の 光 り が 今
日本より満洲に延び様としてゐるのである。私は同じ光りが隣邦支那の天地にも愛盲の烽火とし て延びん事を待望しつゝ大村君を紹介する言葉としたい ﹂ と結んでいる。 一方、関西学院長ベーツは﹁ Work Among Blind People Of Manchuria ﹂ というタイトルのも とで、以下のような文章を残している。 I have heard with great interest of the plan of my good friend and former student Mr.Y. Omura, to go to Manchukuo and there establish a school for blind people in that coutry. T his is a lo fty v isio n an d a no ble id ea l. It ca lls fo r th e sp irit o f a dv en tu re a nd s ac rifi ce ,
which I know that he possesses in a high degree.
When Mr. Omura was a student in Kwansei Gakuin it was always an inspiration for me to talk to him. His courage and spiritual vision lifted him on to a higher level of living, and made possible achievements that were not realized by some other students who were not handicapped as he through loss of sight. His life and work with us testified to the fact that God compensates us for our losses in other and better ways if we but trust in Him and
make ourselves available for His Service.
It is an in sp irin g fa ct th at, as w e re ad in th e N ew T es ta m en t, ou r Lo rd J es us C hr ist always responded to the call of the blind, and with love and deep compassion opened their ey es a nd r es to re d th eir s ig ht . E ve n th ou gh w e m ay n ot alw ay s be a ble to d o th at w e ca n do m uc h to a lle via te th eir d ist re ss es b y op en in g th e ey es o f t he ir m in ds a nd h ea rts through education and religion, and thereby help them to live enlightened and contented
lives. F or th is gr ea t se rv ice o f l ov e M r. O m ur a is w ell fi tte d by c ha ra cte r, tr ain in g an d ex pe rie nc e, an d w e m ay lo ok fo r re al su cc es s in th at w or k to w hic h he fe els D iv in ely Called. ベーツはここで大村を﹁良き友﹂ ﹁教え子﹂と呼び、彼の満洲での事業を﹁崇高なる識見﹂ ﹁理 想﹂と称している。また関学時代、学長と一学生の関係であったが、大村と語ることは﹁インス ピレーション﹂であったと述懐し、かかる事業を遂行していくことに、その人格、才能、経験と もに最適であると支援を送ったのである。ベーツの障害者に対する信頼と一人の人間としての認 識が窺えるし、教育の原点のようなものが察知できる。 ともあれこうして大村は、満洲での盲人福祉への構想を抱いて一九四〇年九月一四日、一家を 挙げて満洲に移住する。それは、中学まで育ったいわ ば ﹁故郷﹂への回帰でもあった。 第六章 満洲時代︵一︶ ― 奉天 盲 人福祉協会の創立 ― ︵一︶ ﹃愛 盲 之烽火﹄をめぐって 満洲に渡った大村は奉天にて起居することになる。当初から、大村は山梨に帰郷した時、世話 になった平野一城奉天青葉教会牧師に頼ることになる。大村は彼を﹁精神面のおやじ﹂と称して い る 。 大 村 の 来 奉 に は 満 洲 帝 国 初 代 の 国 務 総 理 鄭 孝 胥 と 親 交 の あ っ た 大 久 保 利 武 の 推 薦 が あ っ た 。 そして早速、構想の実現に 奔走し、一九四一年三月に 奉天盲人福祉協会の発会式を挙行する
ことが出来たのである。 と こ ろ で 大 村 は 一 九 四 一︵ 康 徳 八 ︶ 年 一 〇 月 五 日、 ﹃ 愛 盲 之 烽 火 ﹄ と い う 著 を 編 集 し 奉 天 盲 人 福 祉 協 会 か ら 上 梓 す る。 こ こ で こ の 著 作 を 紐 解 い て み る こ と に す る。 こ の 著 に は﹁ 序 言 ﹂︵ 奉 天 市 副 市 長 ︶ に 続 き 奉 天 盲 人 福 祉 協 会 の﹁ 趣 意 書 ﹂ が 掲 載 さ れ て い る。 ﹁ 趣 意 書 ﹂ に 引 き 続 き、 第 一 部﹁ 論 説 ﹂ と 第 二 部﹁ 奉 天 盲 人 福 祉 協 会 成 る ﹂、 そ し て 第 三 部﹁ 奉 天 盲 人 福 祉 協 会 の 展 望 ﹂ と いう構成になっている。 まず趣意書であるが、その冒頭は﹁我が満洲帝国は建国日尚ほ浅きにも拘らず国運頓に勃興し 之に伴つて我が奉天市が国内第一の産業交通の要衝として飛躍的発展を遂げつつある事は誠に慶 賀の至りであります。実に都市の興隆は国力の消長を卜するものでありまして都市の充実改善は 近代国家の等しく講究する所であります。然して市民中の不具廃疾者等に対する衛生保護教育等 の所謂社会事業施設も亦競つて充実に努めてゐる所であります﹂として、次の様に論じる。 我 が 満 洲 国 に 於 き ま し て も 今 や 此 種 施 設 の 必 要 性 が 叫 ば れ 既 に 成 果 の 見 る べ き も の 尠 く あ り ま せ ん。 然 る に 独 り 盲 人 の 福 祉 施 設 に 至 つ て は 殆 ど 手 が つ け ら れ て ゐ な い 有 様 で あ り ます。 医学上の各種統計によりますと満洲国人の過半数はトラホーム患者であつて内数パー セ ン ト は 失 明 し て 居 り、 之 に 傷 痍 や 諸 種 の 疾 患 に よ る 失 明 者 を 加 へ れ ば 恐 ら く 満 洲 盲 人 の 数 は 数 十 万 に 達 す る で あ ら う と 思 は れ ま す。 速 か に 眼 の 衛 生 思 想 の 普 及 と 失 明 の 防 止 を 図 ら な け れ ば そ の 将 来 は 実 に 憂 慮 す べ き も の が あ り ま す。 蓋 し 人 生 の 不 幸 失 明 に 勝 る も の は あ り ま せ ん。 か か る 不 幸 な 盲 人 を 保 護 教 育 等 の 福 祉 施 設 に よ つ て 精 神 的 経 済 的 に 自 力 更 生 せ し め る 事 は 国 家 社 会 連 帯 の 義 務 で あ る と 思 ひ ま す。 又 現 に 視 力 の 低 下 と 失 明 者 の 増 加 は
国防力の強化と生産力の増大に重大支障を来す事多言を要しません。 茲 に 奉 天 市 が 官 民 協 力 し て 他 都 市 に 率 先 し 失 明 の 防 止 と 盲 人 の 福 祉 増 進 に 寄 与 せ ん と す る 事 の 徒 爾 な ら ざ る を 確 信 致 し ま す。 幸 ひ に 貴 下 の 御 賛 同 を 得 て 本 計 画 の 実 現 を 見 る 事 が 出 来 ますなら ば 私共の欣快 之 に過ぐるものはありません。 何卒応分のご支援を切望いたします。 康徳八年三月八日 第一部は論説として、満洲医科大学医院長で奉天盲人福祉協会理事でもある船石晋一が﹁満洲 に 於 け る 失 明 者 の 状 態 ﹂ と い う 論 文 を 書 い て い る。 こ の 船 石 論 文 に 続 き 大 村 は、 ﹁ 世 界 に 於 け る 盲人福祉事業 ﹂ という論文を執筆している。その中で﹁この優れたる特性感覚を充分に 動員して 国 家 に 貢 献 せ し む る 所 に 盲 教 育 や 福 祉 事 業 の 目 標 が お か れ な く て は な ら な い ﹂ と 論 じ、 ﹁ 盲 人 と 職業﹂にふれて次のように論じているのは注目すべきことである。 出 来 得 る 限 り 広 い 範 囲 に 盲 人 の 徳 性 感 覚 を 活 用 し 得 る 生 産 的 な 仕 事 を 与 へ て 彼 等 を し て 小 に し て は 一 家、 大 に し て は 国 家 社 会 に 貢 献 し 得 る と の 自 信 を 持 た し む る と 共 に そ の 生 活 を 自 ら の 手 に よ つ て 保 証 せ し む る 事 が 望 ま し い。 そ れ に は 欧 米 に 於 け る 様 に 授 産 所 や、 製 造 所 を 設 け て、 織 物、 編 物、 バ ス ケ ッ ト 編 み、 製 本、 製 靴、 等 に 従 事 せ し め る と か 農 場 を 開 い て 蔬 菜、 果 樹、 花 卉 等 の 栽 培、 豕、 山 羊、 雉、 兎 等 の 小 家 畜 の 飼 育、 農 畜 産 加 工 等 を や ら せ る と か 言 つ た 集 団 的 職 業 対 策 を 主 と し、 特 に 優 秀 な 者 は 進 ん で 常 人 に 伍 し、 職 場 に 入 ら せ る と か 高 等 の学校に学 ば せて智的職業に従事させるのである。 さ ら に、 ﹁ 人 生 の 汚 点 と も 見 ら れ 勝 ち な 盲 人 が 国 家 有 用 の 人 的 資 源 と し て 明 朗 な 生 活 を 営 む 事 となれ ば 、それは単に彼等自身の幸福となる ば かりで無く、一般人を鼓舞激励し、社会全体を明
朗にするであらう﹂と論じ、また職業対策のみが、盲人の対策ではなく、教育や対策に向けての 根本的なことを付随して行う必要性を説くのである。したがってこの福祉協会を基点にして種々 の事業や団体が設立されていくことになる。 ︵二︶奉天 盲 人福祉協会の設立と展開 既述したように奉天盲人福祉協会は一九四一年三月に設立され、市公署三階正庁において設立 の式典が挙行され、会長には鄭奉天市長が、副会長に多田晃副市長が就任した。そして常務理事 に龐行政所長が就き、大村はその主事、そして啓明学園園長として任命されている。協会の当面 の最重点事業として啓明学園の設営があり、後述するようにそれは一一月一日に開校されるに至 る。また翌年一〇月には一般盲人の自治的組織﹁盲人団﹂が結成されている。そして協会は﹁護 眼運動﹂や﹁眼の保護週間﹂等の事業を展開していった。これらについては次章で論じることに する。 さて、この協会の結成された年、すなわち一九四一年一二月八日、日本はハワイ真珠湾を攻撃 し、米英に対して宣戦布告をしアジア太平洋戦争に突入していく。こうした戦争によって生じる 相当な困難の中で、三年を経て﹃創業三年之回顧﹄という著作を上梓するが、この事業について 次のように論じている。 今 や 大 陸 の 盲 人 も 永 世 の 眠 り か ら 醒 め て 王 道 の 光 に 浴 し、 大 東 亜 共 栄 の 栄 光 に 与 ら ん と し て ゐ る の で あ り ま す。 近 く は 国 都 新 京 に も 盲 人 福 祉 協 会 の 誕 生 を 見 ん と し、 漸 次 国 内 各 区 域 の 愛 盲 の 聖 火 が 点 ぜ ら れ る こ と ゝ 思 わ れ ま す。 か く し て 全 国 数 十 万 の 盲 人 に 国 家 の 恩 沢 が 及 び
ま す な ら ば そ れ は 盲 人 に と つ て の 幸 福 に 留 ら ず、 今 ま で 盲 人 を 家 族 の 中 に 持 つ て 絶 え ざ る 苦 悩 と 肩 身 の せ ま さ と を 味 つ て ゐ た 数 百 万 の 親 が、 子 が、 妻 が、 夫 が 後 顧 の 憂 ひ 無 く し て、 或 ひ は 米 英 撲 滅 の 第 一 線 に 、 或 ひ は 銃 後 の 生 産 増 強 に 勇 躍 邁 進 す る こ と が 出 来 る で あ り ま せ う。 ま た 本 事 業 に 依 つ て 失 明 の 重 大 性 が 国 民 一 般 に 認 識 せ ら れ、 国 民 挙 つ て 貴 重 な 両 眼 を 愛 護 し つ ゝ 日 々 の 職 場 に 敢 闘 し ま す な ら ば 国 力 の 増 大 と 聖 戦 の 完 遂 は 一 層 容 易 に な る で あ り ま せ う 。 そして大村は﹁本協会創業の三年は謂はゞ満洲盲人福祉事業の試作時代でありました。世界の 各 国 は そ れ 巨 費 を 投 じ て 事 業 の 完 璧 を 期 し 各 国 各 々 国 情 に 応 じ て 事 業 に 特 徴 を 持 つ て ゐ る の でありますが我が満洲国の如き民族協和の王道国家に於てはおのずから他国に類を見ざる新機軸 を生み出すべきであります。この意味に於て本協会過去三年の経験は誠に貴重なものでありまし た。私共はこの経験を充分に生かし、将来世界文化の最高峰をゆく我が満洲国にふさわしい盲人 福祉事業の確立に 資したいと思ひます ﹂ と抱負を語っている。満洲国という傀儡の国家という幻 想はみられず、大村にはただ懐かしい﹁第二の故郷﹂という認識があるのみである。ここには日 本の中国本土への侵略という視点はなく、満洲は日本の延長上にあり、極楽王土の﹁満州国﹂建 国という認識が強く発露されている。こうした満洲への認識は当時の多くの日本人のもっていた ものであろうし、大村は政治的課題よりもそこに暮らす人々の生活、そして彼等の福祉の課題に 果敢に挑戦しているという思念が窺がわれる。
第七章 満洲時代︵二︶ ― 奉天での諸事業 ― ︵一︶奉天省 盲 人調査 既 述 し た よ う に 大 村 は 一 九 四 四 年 に﹃ 創 業 三 年 之 回 顧 ﹄ と い う 著 を 満 州 盲 人 協 会 か ら 上 梓 す る が、この著は協会創立後三年の事業報告とともにその成果の発表であった。ここでこの内容につ いて少し論じておくことにしよう。それを盲人調査、啓明学園、老人団、そしてその他の事業の 四つについてふれておきたい。 第 一 の﹁ 盲 人 調 査 ﹂ で あ る が、 こ の 協 会 が 取 り 組 む べ き 調 査 は、 ﹁ 市 内 盲 人 の 実 態 調 査 ﹂、 ﹁ 盲 児の教育施設の設営﹂ 、﹁市内外に於ける失明防止運動﹂ であった。奉天盲人福祉協会がさしあたり、 重 要 な 事 業 と し て い る の が 盲 人 の 実 態 調 査 で あ っ た。 こ れ に つ い て み て お き た い。 社 会 事 業 が 国 家 の 要 請 に 応 え て い く た め に は、 ﹁ 事 業 対 象 と な る べ き 人 員 の 社 会 に 於 け る 実 態 を 調 査 し、 精 密なる記録、統計等によつて来る原因を究明﹂していくことが第一に必要不可欠であり、それに 基づき原因の解決、そして組織的方法でもって積極的に指導錬成が必要であると、すなわち第一 盲人調査、第二失明防止、第三に 教育と述べている 。 そしてトラコーマ疾患に ついて詳述し、次 に統計表として﹁盲人統計表﹂ ﹁失明原因統計表﹂ ﹁失明年齢及現在年齢統計表﹂ ﹁職業別統計表﹂ が掲載されている。その中で奉天市の数字はないが、 ﹁奉天省下盲人数統計表 ﹂ を掲げておく。
奉天省下盲人數統計表 奉 天 市(未 了) 撫 順 市 陽 市 鞍 山 市 營 口 市 本 溪 湖(未解答) 鐵 嶺 縣 瀋 陽 縣 鐵 嶺 縣 撫 順 縣 淸 原 縣 營 口(未解答) 康 縣 中 縣 復 縣 陽 縣 新 民 縣 城 縣 法 庫 縣 本 溪 湖 縣 興 京 縣 蓋 縣 合 計 總 計 種 別 地 名 全 盲 準 盲 盲 46 99 47 66 38 193 157 56 41 83 174 145 322 625 240 112 58 55 119 2676 8 3 2 1 2 16 8 8 14 10 7 11 5 53 19 11 9 6 3 196 2 4 2 5 11 9 17 1 3 4 4 7 4 19 8 16 3 2 1 122 2994 全盲ハ明 ヲ辨ゼザルモノ 準盲ハ一米ノ距離ニ於テ指ノ 數ヲ辨別シ得ザルモノ 盲ハ一米乃至三米ノ距離ニ於テ指ノ 數ヲ辨別シ得ザルモノ 備 老
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︵二︶啓明学園をめぐって 大村が当初から奉天で展開する重要な施設の一つは啓明学園の経営であった。当時、当地には 盲人の施設として英国の宣教師が経営する﹁重明瞽目院﹂という施設があったが、これは女子盲 児の施設で男子のものが必要であった 。 そこで一九四一年一一月に 開園式を挙行し、大村はその 園長となった。奉天盲人福祉協会の最重要事業の一つとして位置づけられた啓明学園は奉天城内 大南門裡の前学舎において、 鄭禹奉天市長らの出席の下、 開校式を挙げた。 ﹃愛盲之烽火﹄ によれ ば 、 この著の刊行が一〇月であるので、まだ学校開校の準備段階しか記されていない。しかし﹃創業 三年之回顧﹄を紐解け ば 、三年間の実績が分かる。市長は祝辞で次のように述べている。 ⋮⋮ 前 略 ⋮⋮ 見 ら る ゝ 通 り 啓 明 学 園 の 発 足 は 甚 だ 小 規 模 で あ り ま す。 然 し 乍 ら 大 樹 と 云 へ ど も 先 づ 小 さ き 種 子 が 蒔 か れ な く て は な り ま せ ん。 良 き 樹 木 を 得 る た め に は 良 き 種 子 を 蒔 か な く て は な り ま せ ん。 こ の 意 味 に 於 き ま し て 啓 明 学 園 が 最 も 選 ば れ た る 良 き 種 子 と し て こ の 地 に 蒔 か れ ま し た こ と は 最 も 大 い な る 喜 び で あ り ま す。 願 く は こ の 小 さ き 種 子 が 天 の 恵 み と 在 奉 天 官 民 諸 氏 の 御 協 力 に 依 り ま し て 人 生 最 大 の 不 幸 を 換 へ て 人 間 が 其 の 苦 難 を 如 何 に 突 破 し 得 る か と 云 ふ 尊 い 証 明 を 立 て 得 る、 聖 な る 道 場 た ら し む る と 共 に こ れ に よ り 多 く の 目 の 見 え る 一 般 学 生 児 童 を 鼓 舞 激 励 し、 延 い て は 国 家 の 仁 徳 を 中 外 に 宣 揚 し 以 つ て 王 道 楽 土 の 実 現 に 寄与せんと欲する次第であります 。 開校当時は五名であったが、その後増加し三年後に は二七名となっている 。 満洲最初の盲学校 として開校されたが、男子のみであった。全人的国民教育の方針で生徒はすべて寄宿舎で生活し、 ﹁ 家 庭 的 雰 囲 気 の う ち に 規 律 的 錬 成 を 施 ﹂ し て 明 朗 快 濶 な 少 年 に 教 育 す る と し て い る。 第 二 に 教
材は国民学校のそれに準拠し、点字は日文と満文を教えているが、日文の進歩が著しいとしてい る。第三に情操教育としてハーモニカの合奏を教えている。第四に作業科において木工や毛糸編 み、 学校農園に おいての蔬菜花卉の栽培、 小動物の飼育、 また上級に なれ ば 按摩術も教授している。 全寮制であったので、大村とともに妻きみの援助も大きかった。後年きみは﹁言語、習慣のち がう異国で、自分の子供のほかに三十名近い、目は見えないが非常に元気で優秀な男の子達の世 話を一手に引受けた私は未熟な信仰ではありましたが、ただひたむきに主につかえる思いで盲児 たちの身のまわりの世話に、使用人と共に立ち働いたものでした。一つ家に住み、一つ釜のごは んを食べてすごした盲児たちと、私共との間柄は、ほんとうの親子と少しも変らず、彼らは私た ちを〝お父さん 〟〝 お母さん 〟 と呼んで親しんでくれました ﹂ と回顧している。 ︵三︶ 盲 人団について 日本では大日本盲人会が結成されていたが、満洲においても一九四二年一〇月三〇日、奉天盲 人 福 祉 協 会 の 傘 下 の も と に 、﹁ 盲 人 団 ﹂ と い う 組 織 が 創 設 さ れ る こ と に な る 。 そ の ﹁ 結 成 趣 意 書 ﹂ は以下のとおりである。 大 東 亜 戦 争 の 勃 発 と そ の 戦 果 と は 過 去 に 於 い て 全 く 米 英 の 植 民 地 化 せ ん と し た る 東 亜 の 天 地 に 東 亜 諸 民 族 が 相 寄 り 相 助 け て 共 存 共 栄 の 新 秩 序 を 建 設 せ ん と す る に 至 ら し め た り。 こ の 時 に 当 り 我 が 満 洲 国 は 建 国 十 周 年 を 慶 祝 す る と 共 に 親 邦 日 本 に 協 力 し て 新 東 亜 の 建 設 に 絶 大 な る 貢 献 を な し つ ゝ あ り。 国 民 は 挙 げ て こ の 回 天 の 偉 業 に 参 画 せ ん が 為 め に 孜 々 営 々 と し て 生 業 に い そ し み つ ゝ あ り。 実 に 国 家 が 個 人 に 期 待 す る 所 今 日 の 如 く 大 な る は 無 し。 我 等 盲 人 は
不 幸 に し て 有 用 な る 五 官 の 一 を 失 し た り と 雖 も 尚 ほ 残 余 の 感 覚 を 以 つ て こ れ を 補 ひ、 健 全 な る 頭 脳 と 肉 体 と を 以 つ て、 日 々 国 恩 の 下 に 生 を 楽 し み つ ゝ あ り、 何 ぞ 我 等 又 国 民 の 一 員 と し て 起 つ て 滅 私 奉 公 の 実 を 挙 げ 得 ざ る。 こ ゝ に 於 い て か 我 等 は 奉 天 盲 人 福 祉 協 会 の 麾 化 に 馳 せ 参 じ、 盲 人 団 を 結 成 し て 自 治 共 同 以 つ て 相 互 の 福 祉 を 図 る と 共 に 微 力 を 結 集 し て い さ ゝ か な りとも国家に奉仕せんとする所以なり。⋮⋮以下略⋮⋮ そして以下のような事項を申し合わせてい る 。 一、 吾 等 は 奉 天 省 下 各 県 地 区 盲 人 団 結 成 の 機 運 を 促 進 し て 之 を 全 国 に 及 し 可 及 的 速 か に 満 洲帝国盲人会︵仮称︶の結成を期す。 一、吾等は満洲盲人の名に於て本年度中に軍用飛行機の献納を期す。 一、吾等は盲人団運動を協和会運動に合流することを期す。 一、吾等は按摩、卜易及音楽の特殊技能を以つて軍及職場に対し慰問奉仕の実践を期す。 一、吾等は防空監視員、工員等聴覚及触覚を活用し得る勤務に採用されんことを期す。 一、吾等は満洲帝国盲人福祉協会の早期実現を期す。 こ の よ う に 盲 人 団 の 結 成 は 組 合 費 を 徴 収 し、 団 員 同 志 の 福 祉 向 上 を 目 指 す も の で あ り、 例 え ば 貧困家庭の盲児を啓明学園に入学させる救済費に充当する相互扶助的な役割をもつものであった。 そして同時に、この団体は戦争への積極的な協力を明確に謳っていることも看過すべきではない。 ︵四︶その他の事業、傷痍軍人の保護 ︵ ⅰ ︶岩橋武夫の招聘
一九四三年、盲人福祉協会の理事会は盲人文化講演会と盲人福祉思想の普及目的の為に岩橋武 夫と宮城道雄の満洲への招聘を決定した。そのために大村は同年三月、久しぶりに招聘の為に妻 と二人で大阪に行っている。岩橋は教え子との誼でもあったか、招聘に賛同したが、宮城は実現 できなかった。そして同年秋に岩橋武夫を満洲の地に迎え、講演会を開催し視覚障害者の福祉の 向上のための運動が実現した。岩橋の講演は奉天、新京、ハルピン、錦州、安東で持たれ、その 会は盛況であった。 ︵ ⅱ ︶眼の保護週間 国 民 の 眼 に 対 す る 衛 生 思 想 を 普 及 さ せ て い く 必 要 も あ っ た。 日 本 国 内 に お い て は そ の 一 環 と し て失明防止運動は中央盲人福祉協会の主唱によって、九月一八日を﹁眼の記念日﹂として全国的 に展開されていた。奉天においても一九四一年から九月一八日を中心とする一週間を保護週間と して開始されていた。一回目は都市を中心に実施されたが、二年目は市の外郭地区や平生医療に 恵まれないところで実施され大きな成果を上げた。四三年の第三回目は政府の計画﹁厚生週間運 動﹂に連動し、市の防疫科と共にトラコーマ、結核及び花柳病に対する撲滅運動を展開している。 こうした運動、 あるいは事業は失明の原因疾患と深く結びついており、 効果があったと報じている。 ︵ ⅲ ︶盲人文化展覧会 こ れ は 一 般 の 人 た ち へ の 盲 人 文 化 の 啓 発 の た め、 そ の 実 情 を 知 ら せ て い く 事 業 で あ る。 一九四二︵康徳九︶年が満洲建国一〇周年にあたり、それを機に協会も盲人文化博覧会を開催し た。出品物は盲教育に関する資料、盲人用器具機材、盲人製作品、盲人文化に関する資料、盲人 職業に関する資料、失明軍人に関する資料、失明防止に関する資料、其他盲人福祉に関する資料
となってい る 。 ︵ ⅳ ︶失明軍人の事業 大村は敗戦の色がかなり濃くなった一九四五年五月、奉天陸軍病院庶務課長陸軍軍医中佐の訪 問を受けることになる。それは中国戦線で眼を負傷した兵が増加し、その再教育と生活訓練の依 頼 で あ っ た。 ﹃ 三 死 一 生 ﹄ の 回 顧 に よ れ ば 、 こ の 中 佐 の 懇 願 に 心 を 動 か さ れ て 週 二 回 ず つ、 陸 軍 に出向し数十名の失明兵に、失明者としての世に処する心がけや点字を教授したことが記されて いる。その後さらに失明兵の増加に伴い奉天市の郊外の満鉄の休憩所を接収し、そこに﹁奉天失 明 軍 人 教 育 所 ﹂ を 設 け 六 〇 余 名 を 移 し た。 管 理 者 は 田 中 陸 軍 中 尉 で、 大 村 は 教 官 に 任 じ ら れ て い る。 か く て 七 月 か ら こ こ に 宿 泊 し 指 導 に あ た っ た と あ る。 し か し、 ﹁ そ の 間 不 衛 生 な 城 内 の 生 活 の中で、家では二人の女児を失 ﹂ うという不幸もあったのである。 このように、 満洲での盲人を対象にした事業は戦争の影を落としながらも、 軌道に乗りつつあっ た が、 一 方、 戦 争 は 日 ご と に 激 し さ を 増 し、 そ の 終 末 は 決 定 的 と な っ て い く。 一 九 四 五 年 八 月 一〇日のソ連の参戦は、敗色が濃い中でそれに追い打ちをかけ、敗戦を決定づけるものとなった。 一四日、大村一家は身重の妻とともに温泉地五竜背に疎開を余儀なくされ、翌日天皇の放送﹁詔 勅﹂を聴くことになる。五竜背には共産党八路軍が駐留し、一応生活は安定した。九月四日に無 事、女児を出産し、めぐみと命名された。そして翌九月に引き上げが実現することになる。つま り敗戦からこの五竜背において約一年間生活したのである。気になる啓明学園は戦後、奉天市に 移 管 さ れ ス コ ッ ト ラ ン ド 宣 教 会 経 営 の﹁ 重 明 女 盲 院 ﹂ と 合 併 し、 ﹁ 瀋 陽 市 盲 校 ﹂ と し て 継 続 し て いる 。