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多言語主義の過去と現在 : 近代日本の場合

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(1)第 1 回「多言語主義の過去と現在」. 多言語主義の過去と現在 ─近代日本の場合─ 安田敏朗 1 はじめに―多言語主義と多言語状況 「多言語主義」ということばは,翻訳語である。しかもそう古くない。たとえば,三浦信孝編『多 言語主義とは何か』(藤原書店)が出たのは 1997 年である。「∼とは何か」という表現自体,な じみの薄さを示しているが,「注目の概念」という含みはある。 それでもこのことばがある程度知られるようになったのには,砂野幸稔の整理によれば,「① 過去修復型―「国民国家」批判」 「②主権国家の平等型―グローバル化と英語支配への反動」 「③移民社会への対応―グローバル化と移民労働力」という歴史的背景があるとしている1)。 ①については,「国語」という単一言語制度のもつ問題が,1990 年代にさかんになされた「国民 国家批判」とともに強調され,そのなかで多言語主義が注目された,ということである。また,②, ③は,国家内にもともとある諸言語の地位の向上をめぐるものであり,あらたに流入してくる 異言語への対応において唱えられるようになった多言語主義である。こう整理したうえで砂野 は問題点を指摘する。つまり, 「基本的にはヨーロッパ発のこの「多言語主義」(multilingualism) が,すでに,あたかもアプリオリに肯定的な価値であるかのように,とくにアジア,アフリカ などの非ヨーロッパ世界の現実への政策的介入に用いられ始められている」2)と。そして砂野 は『多言語主義再考』という書籍を編集した。2012 年のことである。 多言語主義が問い直されているのだとしたら,少し設定を変えてみることにしたい。 まずは, 「多言語状況のない社会はない」ということを前提としてみる。ある社会に生まれ育っ た個人は,程度はともかくとして多言語を身につけていく。この場合の「言語」の定義は,少 し曖昧にしておく。さまざまな「方言」―地域方言や社会方言などを含む「変種」といいか えてよい―も,それぞれが「言語」であるとすれば,多言語状況のない社会はない,といえる。 このことが問題になるのは,どの時代にもどの地域にもある多言語状況が,さまざまな主体に よってさまざまに解釈されるからである。 したがって,上記の「多言語主義」あるいはその「再考」にしても, 「多言語主義」という名 による多言語状況の解釈に関する問題でしかない。さらにいえば,ヨーロッパ発の「多言語主義」 は,ヨーロッパの多言語状況のある文脈における解釈のひとつにすぎない(「国民国家批判」なり, 移民対応などといった文脈である) 。とすれば普遍的なものとしてアジアやアフリカなどでとる べき指針とすることは,手順がちがう3)。 もちろん,というべきか,手順をまちがえた議論もある。日本社会の多言語化を新しい出来 事としてとらえる立場である。 「単一民族・単一言語国家日本」を前提とした立論である。それ −3−.

(2) 立命館言語文化研究 26 巻 2 号. ゆえ,『多言語社会がやってきた』という本の執筆者たちは, 「共通理解として「日本が多言語 社会に向かいつつある」,「同化主義よりも多言語主義が望ましい」 ,「言語は平等である」とい うような現状認識」をもっているという4)。かれらが現在の日本の多言語状況を解説すると,こ んな感じになる。  日本を取り巻く言語環境が急速に変化しつつあります。それは一言で言えば,様々な民族 が日本に移住してきて,急速に多言語社会になりつつあるということです。 〔……〕そのこ とから,言語に関して数多くの問題が生じてきています。これらは,私たちが 21 世紀を生 き抜いていくためには取り組まなければならない問題なのです。 〔……〕言語政策の立場か ら,多言語社会のなかで起こりうる問題の解決に向けて何らかの展望を与えること,それ がこの本の目的です。5) つまり, 「様々な民族が日本に移住してきて」「多言語社会」になったので,言語に関して「問 題が生じてきている」のが, 「私たち」があつかう「多言語社会」ということになる。それが「私 たちが 21 世紀を生き抜いていくためには取り組まなければならない問題」 だという。安定した「単 一民族・単一言語国家日本」に「外部」から撹乱要素が入ってきた,だから対応しなければな らないというのだ。 こうした歴史を切断した認識がでてきてしまうのも,あるいは「多言語主義」をよそからき た概念としてあつかっているところからきているのかもしれない。 それでも,外国籍人口が 200 万人を前後している現在,日本社会の多言語状況をどのように 解釈するのか,そしてさまざまな母語の継承および「共通語」として日本語がどのようにふる まうべきなのか,などといった議論は避けて通れない。そしてそれは,「グローバル化」の問題 を含めて,単なる言語問題をこえて日本社会のあり方をも問うことになるのであるが,議論は 低調である6)。 ということで,近代日本に即して「多言語主義」を論じるには,まず「多言語主義」から離 れなければならない。より俯瞰的にみるには,多言語状況がどのようにとらえられてきたのか, という観点から「近代日本の場合」を追うほかない。その際に,「社会の多言語状況をどうとら えてきたか」という側面と, 「個人の多言語状況をどうとらえてきたか」という側面から考える ことにしたい。. 2 多言語状況認識のあり方①―「方言」のとらえ方 2 − 1 排除するべきものとして 近代日本にかぎった話ではないが,国民すべてが書け,話せるような,統一されたことばを つくりだしていくことは,国民統合あるいは近代化のために,不可欠な作業であった。この条 件を満たせば,それは英語でも構わない,その任に日本語はまだたえない,と明治初年に主張 していたのが,初代文部大臣となる森有礼(1847-1889)であった。 そうしたなか,話しても通じない「くにぐにのなまりことば」を統合するような「標準語」 −4−.

(3) 多言語主義の過去と現在(安田). の制定の必要が叫ばれ, 「言文一致」の議論が高まっていくのは,1880 年代からであった。この 際,各地域社会のことばの多様性(階層差も含む)は,「豊かなもの」としてとらえられること はなく,「標準語」の普及を阻害するものとされた。 こうした傾向は,穏やかな標準語論7)とされている歴史学者三宅米吉(1860-1929)の「くに ぐに の なまり ことば に つきて」 (1884 年)も例外ではなく, 「くにぐに の ゆきき  の べんり を まし その ゆきき を しげく し,まじらい を あつく させ,しら ず しらず みづから あらためさする に しく なかるべし」8)というように,自然淘汰 的に「ひとつ」へと収斂させていくべきである,とされていた9)。多様であることは,少なくと も「よいこと」ではなかった。 結局は,「国語」という制度を,自然淘汰ではなしに東京山の手ことばを中心としてつくりあ げた「標準語」で担わせていくような政策を,明治政府はとっていった。単一言語が担う「国語」 という制度を浸透させていくのであるから, 「社会の多言語状況」を活用したり,重視する観点 は出てこない。むしろ,「国語」の浸透のためには,個人の多言語状況,すなわち標準語と方言 の使用を好ましくないものとする観点が登場することになる。早いものでは,小学校教員であっ た青田節による『方言改良論』(1888 年,福島進振堂)が典型的である。これは兵庫から福島に 赴任するときに汽車で同席した東北出身の婦人と話が通じず「同邦ノ人ニシテ斯ク迄言語ノ相 通セザルハ又歎ズ可キノ至リナラズヤ」との思いから,方言をいかに教育の場で「改良」して いくかについて論じたものである。 2 − 2 併用というとらえ方とその限界 排除という方向ではなく,現実の状況をふまえて議論しようとした者がいなかったわけでは ない。たとえば,英語教育や国語教育に関する著作のある石黒魯平(1885-1956)は,1944 年の 著作で以下のように述べている。 標準語(中央言語)は表向き・他所行きの言語,方言(地方言語)はどてらであぐら・ 寛ろいだ内輪の言語,各個人はこの『二重言語・Bilinguality・二枚舌』の生活を営むもの である,或はさういふ生活を営むべきものである。―かういふ考へ方を執つてゐる人が 学者・教育家の間に可なり沢山あるらしい。之については,不肖石黒魯平に俑を作る〔悪 い前例を作る〕者の自責が無いでもない。併し事実は大いに違ふ。 石黒は大正十三年に或る所でこの考へ方を講義して,意外な人気を博し,国語教育界へ の福音とまでたたへられたことを思ひ起す。二重言語主義・二枚舌主義・Bilingualism など の名称や,羽織・袴・どてら・襦袢との対比は,彼の好んで用ゐたところであるが,二重 生活を営むべきものとは決して説かなかつた。10) 標準語と方言を併用することを「二重言語・Bilinguality・二枚舌」と表現,よそゆきと普段 着といった比喩を用いた。石黒の言を信じれば,これを唱えはじめた「大正十三年」は 1924 年 である。「排除」が中心であった時期からは時間が経っているものの,1923 年の関東大震災後に は「持ち物や訛りから朝鮮人とみなされ」た香川県の行商人一行が千葉県で自警団に虐殺され −5−.

(4) 立命館言語文化研究 26 巻 2 号. る「福田・田中村事件」も起こっており 11),呑気に「二語併用」などとはいっていられない状 況が継続していたことは確認しておきたい。 こうした主張を石黒は『国語教育の基礎としての言語学』 (明治図書,1929 年) ,や『標準語 の問題』(明治書院,1933 年)などでくりかえしたために,「意外な人気を博し」たのであろう。 ただ,石黒は,上記のように「二重生活を営むべきものとは決して説かなかつた」と述べている。 つまり,同書で明確に「二重言語主義(Bilingualism)の名称は,決して二重言語を尊重し擁立 し確立しようといふ意味のものではない。事実二重言語が行はれるといふだけであり,この過 程を通して標準語に一元化せられるやうに計るといふのである」とし「矯正・撲滅は固よりの こと,尊重も奨励も余計なお世話である」と主張している 12)。それは「標準語と方言とが同じ 等位で対立させられてゐて困る。吾々は之を別の等位に立たせなければならないものと考へる」13) からだった。 とはいうものの,「決して説かなかつた」わけではない。1929 年の『国語教育の基礎としての 言語学』では,「標準語と方言とは両立して,吾人に「二枚舌」の使へる余裕を持てと教へると 思つてよい」14)と明記している。1944 年という時点ではそうした「余裕」すらなくなったのか もしれない。社会の単一言語化が望ましいとされた以上,個人の多言語状況も,「ひとつ」へ収 斂していくことが望ましいとされるわけである。 「二枚舌」説は石黒自らの発案と思っていたようなのだが,1950 年の書物では, 「二重言語主義」 はヘルマン・パウル(Hermann Paul)の『言語史原理』 (1880 年,Prinzipien der Sprachgeschichte) の「共通語」という章に記述がある,としている 15)。その記述をみると,パウルは,「共通語」 がきわめて人工的な言語であるとし,対義語である「自然的言語」との関係を以下のように規 定する。  日常の交通に人工的言語を使用することは,種々雑多の段階がある場合において行なわれ ることがある。最初にこの言語は,自然的言語と交互に用いられる。〔……〕最後に,ある いは自然的言語を,もはや全く用いなくなるに至るのかもしれない。今日では,この全発 達の跡を,一歩一歩,一個人について,たどっていくことのできる場合がよくみられる。 ついにもっぱら,人工的言語のみを使用するに至るまでには,必ず,二つの言語を話す, 長いか,あるいは短い時代がそれに先だつものである。16) ここで注意したいのは,あくまでも「人工的言語」に至るまでの過渡期的状況をさしている こと,そして二種の異言語の併用についてではなく,「人工的言語」としての標準語と「自然的 言語」としての方言との関係についてのべている点である。 「方言」が標準語へと溶けこんでい く過程に「二つの言語を話す」時代がある,という指摘である。 そういう用語として「bilingualism」がとらえられていたことを確認しておきたい。 2 − 3 戦争と方言,そして包摂の論理 ひとつの言語に収斂することが望ましい,となれば,言語により同化が可能であると考える ことにもつながっていく。第二言語を習得することが,その言語が表象するとされる文化への −6−.

(5) 多言語主義の過去と現在(安田). 同化を示すものでは,必ずしもない。しかし,そう考えてしまいがちであって,植民地支配にあっ ては,同化の指標のひとつとして「国語」習得があげられることになっていく。そしてそれは往々 にして標準語と方言とのアナロジーで語られていた。 戦争となると,社会的多言語状況を語る余裕は失われる。たとえば,朝日新聞の島田春雄は 1940 年に以下のように述べている。  〔……〕日本軍は,大元帥陛下統率の下に,その思想に於て統一され,目的に於て一致する と共に,言葉もまた同じ日本語で緊密に結び合つてゐたのだ。〔……〕よしアクセント,音 韻に異様なもの,或は不明瞭なものがあらうとも,主たる語法は乱れず,初等教育の弘通 してゐる我が国にあつては,国定教科書の語彙と語法に準拠すれば,或る程度自由に話し 合ふことができる。17) 冷静にみれば,標準語が浸透していないことを述べているのであるが,これは第二次世界大 戦がはじまってすぐにドイツ軍に侵攻された「二国語国家」のベルギーが, 「同じ言葉を以て緊 密に親密に結び合はないならば,全体の協力を必要とする戦の場合には,その国家民族は砂上 に建てられた楼閣よりはかなく脆弱な姿を露呈」18)した例などとの対比で語られている点が重 要である。社会的な多言語状況も,個人的なそれも許容していては,いくさに勝てない,とい うわけである。しかし日本は敗戦を迎える。 標準語普及の阻害要因とみなされた「方言」だが,そう語る側の都合のよいように,たとえ ば「○○方言には奈良時代の日本語が残っている」という形で,日本語の歴史の一部を語ると きには注目された。とりわけ,琉球諸語は,日本の古代につながるものとして,民俗学も含め て位置づけられていく。それ以外の存在価値が積極的に見いだされることはなかった。そして 敗戦後の高度経済成長が一段落し「標準語」がある程度の普及したころから,害のない程度に「方 言」が「復権」されていく 19)。これは,テッサ・モーリス=スズキがいま現在の日本の「多文 化共生」を批判して称する「コスメティック・マルチカルチュラリズム(うわべの多文化主義) 」20) と類似する。そしてこの批判は,以下のすべてにあてはまっていく。. 3 多言語状況認識のあり方②―「異言語」のとらえ方 3 − 1 博物館・目録型 ここまで「方言」についてみてきたが,日本語以外の諸言語のあり方について, 「多言語状況」 ということばそのものが存在しないときに,どのようにそれを表現していたのか,ということ をまず考えてみたい。現実としては,明治期以降の「版図拡大」にともない多言語状況が出来 してきたのであるが,それをどう認識していたのか,まずはアイヌ語研究で著名な言語学者金 田一京助(1882-1971)をとりあげる。 金田一の最初の出版は翻訳書であった。ヘンリー・スウィート(Henry Sweet,1845-1912)の The History of Language(1900 年)である。ここでは, 『新言語学』と題された訳書の,金田一 による「自序」で「吾々に外国人には容易に得られない貴い資格」がある,と述べていること −7−.

(6) 立命館言語文化研究 26 巻 2 号. に注目したい。つまり,言語の四つの「典型」として「曲折語・膠着語・孤立語・抱合語」を 挙げ,  英語・仏蘭西語其の外白色人種の言語は,凡て曲折語に属し,支那語は孤立語に,日本語 は膠着語に属する。して見ると,種々様々な形態を採る世界言語の一般概念は,此の小島 国に生れた日本は,大人になる迄には自然に把持する様に出来てゐる。 〔……〕抱合語の例 を求めると,これも丁度日本には,アイヌといふ種族が話して国土の内に行はれてゐる。 おまけに台湾には土着の熟蕃が孤立語を話してゐるので,日本といふ国はさながら世界各 種の言語の見本を備へつけた,生きた図書館の観がある。実に言語研究の立場に於ては, 日本人は生れ乍らに天与の特権をもってゐる〔……〕。21) という。四分類を前提として台湾やアイヌを含む日本の多言語状況をとらえている(「曲折語」 は強引な感あり)が「生きた図書館」に収蔵された目録を眺める感も漂う。 また,1912 年秋に,明治期に「獲得」した「新領土」(樺太,台湾,朝鮮)や開拓地の物産お よび住民を「展示」し,植民地経営の意義を実感させるために上野公園拓殖博覧会が開かれた 22)。 来場者が「展示」された人々と会話を交わせるように,と金田一が坪井正五郎に依頼されて著 したものが,『日本国内 諸人種の言語』であった。その附録「世界の言語と今日の日本」には こうある。  〔……〕日本は,どうやら世界のあらゆる言葉の見本を備へ付けた博物館の観があります。 而も,此度の此博覧会の催しで此等の言葉が一堂の下に寄合つて生きた口から話されてゐ ます。実に前代未聞のことで,大正の盛事,兼ねて,明治聖内の余光とでも申しましよう。 即ち吾々は為ながらにして極北地方の種族の言葉から,熱帯地方の種族の言葉に至るまで, 親しく見聞することが出来ます。言葉の研究には此程よい機会は求めても得られまいと思 ひます。23) 先ほどの認識とほぼ同じである。 「世界のあらゆる言葉の見本を備え付けた博物館」であると すれば,見る側と見られる側には接触はない 24)。相互に関連を持たない,単一言語社会の総和 として帝国日本・明治日本の多言語状況をとらえていたといえる 25)。 3 − 2 「大東亜共栄圏」という多言語状況―「東亜共通語」としての日本語 「新領土」を「獲得」後も,1930 年代には「満洲国」建国を足がかりに,1940 年北部仏領イ ンドシナへの進駐,さらには 1941 年の「大東亜戦争」開戦にともなう東南アジア軍事占領にま でいきつく。こうした動きに呼応して,日本語も「東亜共通語」という機能をもって「大東亜 共栄圏」内に普及しなければならないという論調があらわれる。 一方で, 「大東亜共栄圏」の盟主としては,圏内諸言語に対する関心ももたねばならなかった。 たとえば,1943 年に慶応大学の語学研究所から『世界の言葉―何を学ぶべきか』が出版される。 「世界の言語」ではあるが,大半が「共栄圏」内の主要な言語の初歩の説明にあてられている。 −8−.

(7) 多言語主義の過去と現在(安田). このほかにも 1944 年には乾輝雄『大東亜言語論』が出される。そこでは「共栄圏」内の諸言語 の概説が展示目録のように並べられ「共栄圏」内の多言語状況を示している。それゆえにこそ「共 通語」が必要とされ,その「共通語」として日本語を位置づけたいという主張がなされる。乾 は「結論」において,「大東亜共栄圏」の「三大共通語」として「過去に於て文化言語たる名声 を有した支那語と将来に於て文化言語たる名声を担ふべき日本語」と,構造的に簡易化されて いるので「如何なる民族にも入り易く覚え易い便利な言語」として「マライ語」をあげている 26)。 また乾は,1943 年に『言語と文化』という著作を出版するが,これは「今次大東亜戦の結果 として,大東亜の諸民族が我が文化の下に入つて来るやうになつた。言論は文化の媒介物である。 故に,言語問題は,大東亜の文化建設に必須の問題である」という文章ではじまる。さらに「言 語と文化は,我が国語を通じて我が文化を大東亜圏内に拡大せしめるに,最も重要な知識である」 といった文によって示されるように,一義的に,広めるものは日本語であり日本文化であって, 「諸民族」の言語と文化とは客体でしかなく,多言語状況を解釈することなど,想定されていな かった 27)。現実の政策でも「大東亜共栄圏」における現実の多言語状況には「日本語+各地域 共通語(インドネシア語,タガログ語,など)」という構図で教育などを通じて介入しようとし ていた 28)。 3 − 3 やがて消えゆく過渡的状態―「政治的国語問題」の不在 このように,多言語状況は放置され,共通語としての日本語の普及に力が注がれていた一方で, 多言語状況がもたらすであろう問題を認識し,それに対処しようとする考え方も存在していた。 この問題に関する当時の言語学者・国語学者の認識については,かつて論じたことがある 29)。 ここではその概要を紹介する。 欧州留学(1911-1912)経験のある国語学者保科孝一(1872-1955)は 1933 年の著作『国語政 策論』のなかで「国語問題」を「人文的国語問題」と「政治的国語問題」に分類している。前 者はそれをいかに解決しようとも,政治的な意味をもたらさない種類のもの(標準語の制定, 標準文体の統一,文字の改良,仮名遣の改定,文法の改善など)で,日本におけるものがその よい例であるとする。一方後者は,多民族によりある国家を構成する際に,それぞれの固有の 言語を政策的にどのように位置づけるかを含む問題で,重要な政治的問題としてあらわれるも のだという 30)。もちろん, 「人文的国語問題」が政治的な意味を持たないことなどないのだが, ここで保科の分類をあてはめてみると,欧州留学(1890-1894)をして「国語」の確立の必要を 訴えつづけた上田万年(1867-1937)は,帰国直後の 1894 年の講演「国語と国家と」においてヨー ロッパ諸国の多言語状況について触れている。人文的・政治的という表現は用いなかったが, 「人 文的国語問題」こそが日本で解決されるべきだと考えていた。 「政治的国語問題」が欧州に存在 することをは意識していたようであるが,同様の視線を日本に向けなかった。上田には, 「国語」 の確立が喫緊の課題だったからであり,むしろそうした状況がない点が日本がヨーロッパより 優れている点である,という意識をとりだすことも可能である 31)。 保科孝一はヨーロッパの言語問題は政治化しやすいとの認識を示している。そして具体的に アルバニア,スイス,南アフリカ,独領ポーランド,アルザス・ロレーヌ,オーストリア・ハ ンガリー帝国,ロシア領ポーランド,ベルギーなどの例をくりかえし日本で紹介していく。そ −9−.

(8) 立命館言語文化研究 26 巻 2 号. うしたところから,徐々に,日本の植民地などにおいても「政治的国語問題」が生じる可能性 を指摘するようになり,それが問題化する前に,対策として「国家語」の制定をおこなうべき だと主張することになる 32)。 国語学者安藤正次(1878-1952)は台湾総督府在外研究員として留学(1926-1928)後,台北帝 国大学教授に就任し総長も務めた。留学中は主にイギリスの自治領となって間もないアイルラ ンド自由国でのアイルランド語復興問題について資料を集め公表した 33)。さらに bilingualism を「二語併用」と訳し,国家・社会・個人での併用,標準語と方言の併用も含んだ概念として 紹介した 34)。1929 年のことである。さらに自身が居住していた台湾における国語と台湾語など との「二語併用」について,国語教育政策とあわせて論じる 35)。そもそも,社会の多言語化が 必ずしもそこに居住する人々を多言語化するとは限らない。社会的に優勢な言語(話者数の問 題ではない)の話者は,そうでない言語を学ばねばならないという脅迫観念にかられることは ほとんどない。逆に社会的に劣勢な言語の話者は,優勢な言語を学習しなければならないと感 じることが多いはずである。そうした構造のもつ問題を考慮することなしに,また実際に台湾 社会で日本語( 「国語」 )がどのくらい使用されているかの調査も経ずに,安藤は「二語併用」 状況を望ましくない過渡的状況とし,最終的に日本語=「国語」による単一言語社会を望まし いものと構想していた。この傾向は 1941 年以降強くなり,「外地における現在の異語民族にと つての日本語は,もはや外国語ではないのである。それは国語なのである。やがて,それは, 後世子孫の母語たるべき国語なのである」36)という表現もみられるようになる。安藤には台湾 社会は,「国語単一社会」への移行段階としか映っていなかった 37)。 また,京城帝国大学で国語学を講じていた時枝誠記(1900-1967)も,朝鮮人の母語を「国語」 にしていくべきであり,それこそが,恩恵・福利であると主張していた 38)。個人的な多言語状 況を不利益なものとみなし 39),価値の高い「国語」を受容せよという議論である。植民地にお ける「国語」と異言語との多言語状況について,異言語に対する「国語」の絶対的優位を疑う ことがなかったために,多言語状況を管理可能な事態としてとらえ,「国語」への「同化」を当 然のこととみなしたわけである。 もう少し説明を加えておく。時枝は,社会的多言語状況を強制的に解消しても,それは朝鮮 民族の反発を招くだけだと述べていた。なぜならば, 「朝鮮人の精神的血液は朝鮮語だから」で ある。この点を無視しているとして時枝は朝鮮総督府の国語政策を批判した。しかし時枝の主 張は,個人的多言語状況の解消こそが社会的多言語状況の解消につながるというものであった。 つまり,個人の「主体的価値意識」のもとで朝鮮語を進んで放棄させれば,社会的多言語状況 も解消されるというのである 40)。こうした用語は用いていないが,時枝と朝鮮総督府の議論は このように集約できる 41)。 ちなみに時枝は 1951 年に以下のように述べている。 私が朝鮮に在任中,国語常用運動というものが行われたことがある。日本語の使用を, 朝鮮人の日常の家庭生活にまで及ぼさせようとする運動で,そのために少からぬ摩擦を起 こしたことがある。朝鮮人の朝鮮語,日本語による二重言語生活を,一本に統一しようと する理想はよしとしても,日本語を,あらゆる生活にまで浸潤させようとすることは,朝 − 10 −.

(9) 多言語主義の過去と現在(安田). 鮮における日本語使用の意義の限界を越えた抽象的な理想論にしか過ぎなかったのである。 朝鮮人側が,しばしば朝鮮語を日本語における方言と同一に扱うべきことを要求したのは 正しいことであった。42) 自分も「摩擦を起こした」側であることを忘れて「国語常用運動」を提起した朝鮮総督府の みを責めるという微妙な意識の修正はあるが,「二重言語生活」を解消する,という「理想」の 訂正はないことを確認しておきたい。 保科と安藤は「大東亜共栄圏」の言語問題も視野にいれている。かれらが帝国内の多言語状 況に対峙したときに導入したのが「国家語」や「バイリンガリズム」という概念であった。し かし,そこには多言語性を馴致することが可能であるという前提があった。この構図は,他の 帝国の言語政策との比較でより強固になっていった。簡単にいえば,欧米諸帝国の植民地は宗 主国言語を教育しない「愚民化」政策であるのに対し,帝国日本は等しく「日本語」を与えよ うとしている点で優れている,というものであった 43)。 3 − 4 「言語同化」の可能性とその忘却 ここでまた石黒魯平に登場してもらう。1944 年に,言語統一による民族感情の統一には限界 があることを述べている。  〔……〕言語統一に依つて民族統一を計る従来の考へ方は,既に同一民族たる感情の連続が 保證せられてゐる集団内にしか通用しないものであつて,それは言語統一の構成的段階で あり言語醇化の段階に属する仕事である。同一民族たる感情の連続の無い集団に向つて, 言語統一の努力をしても効果はあまりない。言語統一によつて斯る感情連続の領域を拡げ ようとの考へ方は,むしろ放棄すべきものである。44) たとえ「大東亜共栄圏」のすべての住民が日本語を話すようになったとしても, 「同一民族」 という感情は生まれず,社会統合が保てるという保証はない,ということであろう。保科や安 藤が唱え,時枝が「理想」とした状況は,かえって不安定なものにすぎない,という指摘でも ある。 それではどうすればよいか,石黒は明白には語らない。ただ,1939 年には「外地約一千万の民」 は「完全に日本臣民と認めないで支配してゐる,さういふ人間を一人も持つてゐない」と述べ, 「日 本精神・皇道精神」が確かであって「世界文明の世話役たる力を養つて怠らず,日本語を扱ひ やすい道具にする度量と努力」があれば,日本語は広まる,と主張している 45)。そういう簡易 化論者であった。その石黒が 1950 年に『標準語』を著わすが,そこに以下のような一節がある。 日本は「民族語」と「国家語」と同円であるが,之わ敗戦後の実情である。明治 278 戦 役によッて台湾を領有し,更に明治 378 年戦役後,日韓合邦のために朝鮮を支配するに至ッ て,新附の民をしてその「民族語」を捨てさせ,日本「民族語」を「国家語」として強制 する方針で,あらゆる努力をした。46) − 11 −.

(10) 立命館言語文化研究 26 巻 2 号. 日本語は広められる,と豪語していた石黒だったが,こうした「努力」が「迷夢」であって, 「言 語の強制によッて,同化が出来るなどとわ,あまりにも甘い夢である」というわけである。議 論の一貫性を求めても仕方ないのだが,これは 1944 年時点での認識とさほど変わらない。それ でも「迷夢」といえたのは,敗戦後の言語状況認識と無関係ではないだろう。たとえば,1946 年に保科孝一は以下のように述べている。  朝鮮台湾および満洲と離れた結果政治的国語問題はわが国に取つてきはめて軽いものにな つたが,その代り文化的国語政策は新生日本に取つて,もつとも重大な意義をもつやうに なつたのであるから,国民はよく自覚反省して,民主主義国家の健全な発達に役立たしめ るやう努力しなければならぬ。47) 植民地が「離れた」結果, 「政治的国語問題」の比重がきわめて軽微なものになり, 「新生日本」 では,政治化しない「文化的国語問題」が重要になるというのである。「新生日本」には日本語 を話す日本民族だけがいることになった,という思い込みがある。だから石黒も「言語同化」 の問題を「迷夢」だと言えたのではなかろうか。 実際に,敗戦後,日本国内では,現代かなづかいや当用漢字表が実施され,それをめぐる議 論がいわゆる国語国字問題として活発になされ,種々のイデオロギーの対抗場といった様相を 呈した。ただ,国家統治を揺るがすような政治問題化したわけではなく,その意味では「人文 的国語問題」にのみ表面的に直面しつづけていたことになる 48)。 もう一例あげておきたい。1918 年生まれの豊田国夫という人物がいる。1942 年に法政大学文 学部を卒業するが,卒業即入隊であった当時「遺書のつもりで」書いた卒業論文の題目は『国 語政策論』であった。このテーマを選んだ動機を 1980 年に語っている。  当時,台湾・朝鮮などに対して,日本は一視同仁のひたすらな皇民化のため,強力に「国 語普及」の運動をすすめていた。「国語」を唯一の拠りどころとするこの同化方針に,私は まず疑問を感じた。それから「民族と母語」というものに関心をいだいた。〔……〕母語の ない民族はいないはずなのに,相手のことなど意に介しない,この手前勝手な普及策に義 憤さえ禁じ得なかった。それが,為政者の自国語に対する過信であるということはおぼろ げながら理解できていたが,私の疑問はむしろその過信の根源にあった。49) 回想であるという留保は必要だが, 「為政者の自国語に関する過信」の根源を探る,といった 観点から,豊田は 1964 年に『民族と言語の問題―言語政策の課題とその考察』を,1968 年に 『言語政策の研究』を,ともに錦正社から刊行した。戦前の日本の言語政策を「皇民化」への批 判を根底に据えて概括し,他国の言語政策との比較という視点ももった,先駆的なものである 50)。 このなかで豊田は個人的多言語状況を以下のように位置づける。 生活が日常ポリグロットの傾向をもつことはかならずしも文化的生活を意味しない。そ の必要があったとしてもモノグロットの日常生活が正常であり,教養的観点は別としてこ − 12 −.

(11) 多言語主義の過去と現在(安田). れが平和な人間の生活における神の摂理であろう。 〔……〕これは人間の自然な摂理でもあ るといいたい。51) ポリグロットを「多言語併用者」 ,モノグロットを「一言語使用者」と訳しているが, モノグロッ トであることを「神の摂理」「人間の摂理」と言い切る。両言語とも中途半端になる,というと らえ方が普遍的であった時期があったことは確かであるが,理想は一民族・一言語・一国家と いうことになり,社会的な多言語状況も,それをもたらす要因が植民地支配であるかどうかに かかわらず,よろしくないこととなる。これは,植民地言語政策への批判にはなりえても,多 言語状況を望ましくないものとしてとらえる点で,国民国家批判にはならない。そういう限界 を示してもいる。もちろん,現在ではセミ・リンガルやダブル・リミテッドといった用語で「多 言語併用」であることの問題や実態を問い直す研究も進んでいるが,だからといって「モノグロッ トの日常生活が正常」であることは正当化されないだろう。 このように,それがどのようなものであれ社会的多言語状況に向き合った記憶を消去し(豊 田はともかく) ,単一言語状況をよしとして,現実にある多言語状況に眼を向けてこなかった日 本社会においては,1990 年代の「多言語主義」を完全なる舶来概念として受容するほかなかった, といってよい。. 4 多言語状況への再照明 4 − 1 1980 年代まで 「単一言語状況をよしとして,現実にある多言語状況に眼を向けてこなかった」結果どうなっ たか,朝鮮語研究者の生越直樹は 1980 年に以下のように指摘している。 二言語使用(バイリンガリズム)の研究はもっぱらヨーロッパ・アメリカで行なわれ, 日本ではあまり盛んではなかった。これは日本が単一言語の国と考えられてきたことから くるものと思われる。そのためか,二言語使用に関する問題として日本で最初に取り上げ られたのは,海外の日系人の言語生活であった。最近,帰国子女の教育が社会問題となり, 二言語使用の問題がようやく日本国内でのさしせまった問題としてとらえられるように なってきている。しかしながら,この二言語使用の問題は,実は日本国内においてもかな り広い範囲にわたる問題としてとらえることができるのではなかろうか。たとえば,日本 人に対する外国語教育の問題や方言使用者の標準語使用の問題などは,この問題と無関係 ではありえない。また,アイヌ人,在日朝鮮人,在日中国人という日本国内での少数民族 の問題も,この二言語使用の問題と密接にかかわり合っている。これらについては,残念 ながら今のところ,二言語使用という観点からはほとんど研究がなされていないようであ る。52) 生越にしても,戦前期に「二語併用」に関する言及があったことに触れていないが(具体的 事象に関する研究はなかったので,比較は困難であるにせよ) ,日本のバイリンガリズム研究の − 13 −.

(12) 立命館言語文化研究 26 巻 2 号. 文献目録を作成した。〈理論について〉,〈海外日系人の言語生活について〉,〈海外・帰国子女の 言語生活について〉,〈在日朝鮮人の言語生活について〉 ,〈諸外国における問題について〉と分 類された文献総数は 91 である。網羅されたわけではないだろうが,戦前期への言及はなく,日 本の戦前の歴史と関連のある〈在日朝鮮人の言語生活について〉3 本のうち日本人研究者の論文 は 1 本である 53)。ちなみに,この一本は,朝鮮語学者塚本勲のものである。塚本は敗戦後なか なか韓国に渡航できないなか,1950 年代後半以降,在日朝鮮人の言語使用から朝鮮語の「単語 をひとつふたつ,と採集しては,書き込んでいった。そして,それを学習して覚えることにした。 すこし進むと文法もつくり始めた」という手順をふんだ,地道な言語調査をおこなっていた 54)。 在日朝鮮人から朝鮮語を学習し,文法を独自に解明していった。その塚本でさえ,1964 年のこ の文章で以下のように述べていることに注意したい。  在日朝鮮人の言語生活をみて,いつも私の頭をはなれないのは二重言語制ということであっ た。かっては,それに憧れさえ持ち,そうなるべくがむしゃらに努力を積み重ねたこともあっ た。しかし,この頃よく思うのは,人間とは国籍が一つであるように, 「言語」も一つであ るのが,自然なのではないか,ということである。この場合の「言語」とは,なんとか読 んで意味をとる程度の外国語のことなどではない。その言語を通じて生活し,思考を組み 立てるようなものである。オリンピックブームたけなわの頃,外国語を母国語のように憶 えましょう等と麗々しい広告がよく目に入ったが,なんともわびしい気持がするのであっ た。55) 引用の最後の一文はもっともなことであるし,2020 年の再度の東京オリンピックをひかえて 同様のことがふたたびくりかえされるのは目に見えているのだが, 「その言語を通じて生活し, 思考を組み立てる」言語が「一つ」であることが「自然」だという意見は,先の豊田の引用に も通じる。豊田の文章も,1960 年代のものであった。これはあるいは「バイリンガル」を完璧 な二言語使用ととらえた結果ともいえる。 4 − 2 1990 年代以降 こうした状況は 1990 年代に変化したようにみえる。1991 年 4 月に国際基督教大学アジア文化 研究所はシンポジウム「新しい日本観・世界観に向かって―日本におけるバイリンガリズム と民族の多様性」を主催した。その内容をまとめた書籍では,  私たちは,アイヌの人びとに思いをいたさなければならないだけでなく,現実に生活して いる朝鮮,中国,東南アジア等からの人びとの生活や文化や言語を尊重し,均一化ではな く多様性を尊重することの大切さを訴えたい,というのが企画者たちの共通の意識でした。56) としている。内容は,アイヌ語,在日コリアン,手話,帰国生,女性,朝鮮総聯の朝鮮語教育, 方言などである。 同年 11 月に『日本のバイリンガリズム』が刊行されたのが,その「はしがき」では, − 14 −.

(13) 多言語主義の過去と現在(安田). 本書は,日本に多種多様な言語を使う人々が生活していることを豊かさとしてとらえる。 日本のバイリンガリズムを形成するのは,従来から少数民族の言語として認識されている アイヌ語や韓国・朝鮮語話者のみでなく,最近の中国帰国者,インドシナ難民,移民労働者, それに海外帰国者や第 2 言語を仕事のために使用する多くの一般の人々を含む実に豊かな 集団であると言える。この集団の豊かな言語に対してより関心が持たれ,高く評価され, 発展が促進されるよう願うものである。57) といった状況を記している。さらに「あとがき」において, 単一言語国家だと言い続けてきた日本が,実は言語的に豊かなバイリンガル社会である ことを明らかにすることが本書の主たる狙いであった。これは在日外国人の増加によるこ ともさることながら,日本人自身のバイリンガル化に負うところが大である。さまざまな 言語集団が繰り広げる活発な言語活動は,互いの接触を通し,工夫と創造をもたらす土壌 を作り出している。したがって,もし,これらの言語集団の活力を正確に把握しないで対 応を誤れば,混乱,反発,疎外が起こりかねない。そのようなことが起こらないように, バイリンガリズムの流れを育み,調和ある言語社会を実現していくことが肝要であると考 える。58) という。内容は,在日朝鮮人,帰国生,国際結婚のファミリーバイリンガリズム,ラジオ放送 でのコード・スイッチング,アイヌ語の「復活」などとなっている。 この二著に共通するのは,「在日外国人の増加」ということばが示すように,外国人人口の増 加が契機となって,在日朝鮮人,中国人やアイヌの言語問題もとりあげるという姿勢である。 外部条件の変化によって,それまで気がつかないふりをしてきたアイヌや在日朝鮮人たちの言 語生活・言語問題を「発見」した,という書き方である 59)。冒頭でとりあげた 2004 年の『多言 語社会がやってきた』の認識もこの延長線上にある。 ある時点で共時的にきりとった社会の多言語状況を指摘し,それを以て「言語的に豊かなバ イリンガル社会」であると主張するのは自由である。しかしながら,それぞれの集団がもつ歴 史への目配りなしに称揚するのは,空々しい。植民地などで日本語を教育し,バイリンガル状 況をつくりだしてきたという記憶を忘却してよいはずがない。 さらに, 「バイリンガリズムの流れを育み」とはいいながらも, 「言語集団の活力を正確に把 握しないで対応を誤れば」云々という見解は, 「調和ある言語社会」をつくるための多言語状況 の管理を連想させる。日本では「バイリンガリズム」は解消されるべき過渡的状態としてとら えられてきたのではなかったか。 とはいえ,日本社会の多言語性を指摘したこと自体は評価すべきであろう。この時点よりも 外国籍人口は増加しているし,阪神・淡路大震災,東日本大震災後の多言語情報サービスの重 要性は否定すべくもない。社会的多言語状況をどのように解釈していくのか,という問題自体 が存在しないと強弁することはもはやできない。 ただやはりくりかえしになるが,現時点での社会的多言語状況を述べるだけではなく,かつ − 15 −.

(14) 立命館言語文化研究 26 巻 2 号. てそれがいかように解釈されてきたのかという視点は欠落させてはならない。そして,社会的 多言語状況は決して管理の対象ではなく,どこにでもある現象であって,それをいかに社会制 度に反映させるのか,といった視点から行政サービスなどのありかたを考えていくことが必要 なのではないか。 『多言語主義とは何か』が出版されたのが,1997 年である。これを批判的に受 け入れる素地はできておらず,外部から「やってきた」状況をまとめてくれそうな概念として 受け入れられていったのではないだろうか。. 5 おわりに―英語と多言語主義 最後に,英語について触れる。まずは以下の引用文を読んでみたい。  こんごわが国では,当然,英語と日本語とが並行するであろう。そこに英語と日本語との 混合語が生まれることは,ある程度まで避けられないことである。 しかし,われわれは,日本語と英語との並行を,いっそう積極的にうけとめなければな らない。将来日本人が世界的な平和国民として国際社会のなかに生きてゆくためには,当然, 国際語となるべき外国語を身につけなければならない。何国語をえらぶのがよいかといえ ば,国際関係からいっても,当の言葉の国際性からいっても,やはりまず第一に英語とい うことになるであろう。 日本語と英語とを積極的に並行させるという言語政策的立場に立てば,望ましいものは 日本語と英語の混合ではなくかえって逆に,日本語と英語とがそれぞれの純粋な体系を保 持する完全な並行である。つまり,将来日本人が正しい日本語を使用し,そして同時に正 しい英語を使用することができることである。60) 「混合語」を避けた,日本語と英語の「正しい」バイリンガリズムをめざせ,と唱えているの だが,これが 1951 年に書かれた文章であることに,とりあえず驚いておきたい。英語に与えら れた役割は,その後 60 年以上経っても変わっていないからである。 バイリンガルであることが「国語」へと至る過渡的状態であって,それ自体が望ましくない とみなされていた当時,望ましいバイリンガルといえば,「国語」と「文明の言語」(「国際語」) という組み合わせのみであった。したがって帝国日本では,国境を越える「文明の言語」は「日 本語」だけであった(どんなに建前の議論であっても)。 1945 年の敗戦は,日本語が「文明の言語」でありつづけるふりをする必要がなくなったこと を意味する。となれば,国境を越える新たな「文明の言語」として登場したのが,占領軍の言 語である英語(厳密には米語だが)であったのは当然であり,宮原のようにそれとのバイリン ガルを求めていくのも自然な流れである。 「文明の言語」が同時に「経済の言語」 「文化の言語」 として不動の地位を築いていったのが敗戦後であるとすれば,そこに「多言語主義」が入り込 んだとしても,「英語のほかにもうひとつの言語(しかも「経済の言語」)」という解釈になるほ かはない。 すでに忘却されたかもしれないのだが,2000 年に発表された「21 世紀日本の構想」懇談会『日 − 16 −.

(15) 多言語主義の過去と現在(安田). 本のフロンティアは日本の中にある―自治と協治で築く新世紀』 (講談社)のなかで提起され た「英語第二公用語論」が話題になったことがある。 これは, 社会制度的に日本語と英語のバイリンガリズムを徹底させる,という宣言であった(日 本語が公用語だという規定はないので, 「第二公用語」はおかしいのだが) 。音頭をとった小渕 恵三首相の死去にともない公用語論はウヤムヤとなったが,個人のバイリンガル化は,英語教 育の早期化という形で実行に移されている 61)。 大学の講義も英語でおこなう方が文部科学省のおぼえめでたくなっているご時世である。そ うなると「英語帝国主義」という批判も力を得てくると思いきや,英語から日本語を「防衛」 せよという方向へと話が展開し(津田幸男・筑波大学教授 62)),「公共サービスのための言語は 日本語である」といった条項を含む「日本語保護法」を提起している。これは英語ばかりに注 意が向かい,日本社会の多言語状況を見ない議論である 63)。「日本語は日本の自然美と日本文化 の結晶といえます」64)などと無根拠なことをいった時点で思考停止に陥り,「多言語主義」自体 を否定することにつながっていく。作家水村美苗の『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』 (筑摩書房,2008 年)での議論とそれへの反応も,同様の構図のなかにある。 おもうに,英語を過剰に意識することは,「多言語主義」にも逆行することであり,日本社会 の多言語状況を把握することをも困難にさせるのではないか。そもそも日本の外国籍人口のう ちで英語母語話者の割合は決して高くない。ことばの「市場価値」でのみ多言語状況を把握し ようとすると,何も見えなくなる。日本での「多言語主義」の論じ方がそうならないことを願 うのみである。 *なお,本稿は,安田敏朗『脱「日本語」への視座―近代日本言語史再考Ⅱ』(三元社,2003 年) の第三章「多言語性認識の諸相から」および,安田敏朗「多言語状況はいかにとらえられてき たか―近代日本の言語政策史の視点から」 ,砂野幸稔編『多言語主義再考―多言語状況の比 較研究』(三元社,2012 年)と重複する部分がある。 注 1)砂野幸稔「多言語主義再考」,砂野幸稔編『多言語社会再考 ―多言語状況の比較研究』三元社, 2012 年,12-13 頁。 2)同前,13 頁。 3)複言語主義(plurilingualism)を基礎理念とする「ヨーロッパ共通参照枠」を外国語教育の新しいあ り方としていこうとする日本での流れも,同様の問題をかかえている(鳥飼玖美子「英語コミュニケー ション能力は測れるか」,大津由紀雄・江利川春雄・斎藤兆史・鳥飼玖美子『英語教育,迫り来る破綻』 ひつじ書房,2013 年,95 頁)。 4)河原俊昭「はじめに」,xii 頁,河原俊昭・山本忠行編『多言語社会がやってきた―世界の言語政策 Q&A』くろお出版,2004 年。ここでの「多言語主義」とは「社会の中で多言語が併用して使われてい る状態」のことを「状態としての多言語主義(多言語使用) 」とし「多言語使用に積極的な意味を見つけ, その状態が望ましいという信念」を「信念としての多言語主義」とする(200 頁)。 5)同前,河原俊昭「はじめに」,x 頁。 6)たとえば,移住労働者と連帯する全国ネットワーク編『移住者が暮らしやすい社会に変えていく 30 の方法』(合同出版,2012 年)という冊子があるが,そこでは多言語での情報発信には触れられている − 17 −.

(16) 立命館言語文化研究 26 巻 2 号 が,日本語の問題,継承言語の問題などは触れていない。より総合的な取り組みが必要だ,ということ でもあろう。なお,多言語化現象研究会編『多言語社会日本―その現状と課題』(三元社,2013 年) も参照。 7)亀井孝・大藤時彦・山田俊雄編集委員『日本語の歴史 6 新しい国語への歩み』平凡社,1965 年(復 刊,平凡社ライブラリー,2007 年,引用は 389 頁)。 8)みやけよねきち「くにぐに の なまり ことば に つきて」『かな の しるべ』第 2,3 号, 1884 年 8 月,9 月(引用は,『文学博士三宅米吉先生著述集 上巻』目黒書店,1929 年,814 頁)。 9)前々注の書籍では,三宅のこうした考えは「国家統一がはじまったことには,統一の方法についても 定見がない」から,結果としておだやかなものになっていると指摘し,その後の「日清戦争後,民族意 識の高まりに応じて,積極的・人為的な方法」が提案されるようになった,としている(389 頁)。個 人の考えというよりも,時代背景に重点を置いた解説ではあるが,三宅のこの自然淘汰にまかせていく, ある意味では優勝劣敗の思想につながる考えは,当時流行していたスペンサーの社会進化論の影響を受 けたものととらえるべきであろう。三宅は独学でコントやスペンサーなどの著作を読破していたという (森田俊男『開闢ノコトハ通常歴史ヨリ逐イダスベシ―若き日の三宅米吉』民衆社,1981 年,21 頁)。 10)石黒魯平『標準語の問題』三省堂,1944 年,168 頁。 11)田中正敬・専修大学関東大震災研究会編『地域に学ぶ関東大震災―千葉県における朝鮮人虐殺 そ の解明・追悼はいかになされたか』日本経済評論社,2012 年,viii 頁。 12)石黒魯平『標準語の問題』三省堂,1944 年,172-173,75 頁。 13)同前,152 頁。 14)石黒魯平『国語教育の基礎としての言語学』明治図書,1929 年,309 頁。 15)石黒魯平『標準語』明治書院,1950 年,52 頁。 16)ヘルマン・パウル(福本喜之助訳)『新装版 言語史原理』講談社学術文庫,1993 年,709 頁。 17)島田春雄『明日の日本語』冨山房,1941 年,7-8 頁。 18)同前,4 頁。 19)安田敏朗『〈国語〉と〈方言〉のあいだ―言語構築の政治学』(人文書院,1999 年)を参照。近年 一部で話題をよんだ,田中ゆかり『「方言コスプレ」の時代―ニセ関西弁から龍馬語まで』(岩波書店, 2011 年)も,この「害のない方言」の論じ方の流れに属する。テレビドラマで話題になる「方言」も。 20)テッサ・モーリス=スズキ『批判的創造力のために―グローバル化時代の日本』平凡社,2002 年, 142-166 頁。 21)スウィート氏原著・金田一京助訳著『新言語学』子文社,1912 年,自序,1-2 頁。「曲折語・膠着語・ 孤立語・抱合語」という四分類は, 『新言語学』での訳語であり,原著と対照させれば,それぞれ inflective, agglutinative, isolating, polysynthetic(incorporating)である。この訳語自体にも揺れがあった。 22)拓殖博覧会残務取扱所『拓殖博覧会事務報告』1913 年。 23)金田一京助編『日本国内 諸人種の言語』東京人類学会,1912 年,附録,2 頁。 24)安田敏朗『日本語学は科学か―佐久間鼎とその時代』(三元社,2004 年,第一章)を参照。 25)こうした,あくまでも観察者であるという見方は,金田一のアイヌ語・アイヌ認識にも通底している。 安田敏朗『金田一京助と日本語の近代』(平凡社新書,2008 年)を参照。 26)乾輝雄『大東亜言語論』冨山房,1944 年,249 頁。ちなみに,竹越与三郎の序をもつ,阪田政次郎『馬 日対照 南洋語彙』(育英舎,1912 年)の表題が示すように, 「南洋語」は「馬来語」の別称でもあった。 それだけ通用している,というイメージはこのころからすでに日本であったわけである。 27)乾輝雄『言語と文化』国語文化研究所,1943 年,1 頁。乾はほかに『英独仏露四国語対照文法』 (冨 山房,1935 年)や,敗戦後には『日本における辞典の歴史』(辞書協会,1956 年)などを著している。 28)安田敏朗『帝国日本の言語編制』世織書房,1997 年,第四部を参照。 29)安田敏朗『近代日本言語史再考―帝国化する「日本語」と「言語問題」』三元社,2000 年,第三章。 − 18 −.

(17) 多言語主義の過去と現在(安田) 30)保科孝一『国語政策論』国語科学講座 73,明治書院,1933 年,3 頁,9 頁。 31)上田万年「国語と国家と」『東洋哲学』1 巻 11 号,12 号,1895 年 1 月,2 月(上田万年(安田敏朗解説・ 校注)『国語のため』平凡社東洋文庫,2011 年に収める)。 32)イ・ヨンスク『「国語」という思想―近代日本の言語認識』(岩波書店,1996 年)も参照。 33)安藤正次「アイルランド自治州の国語政策―アイルランド語の復興について」 『国語教育』13 巻 9 号, 14 巻 4 号,5 号,6 号,8 号,1928 年 9 月∼ 1929 年 8 月。 34)安藤正次「二語併用地域における言語教育(上) 」『台湾教育』29 巻 8 号,1929 年 8 月。この用語の 初出の確定はできないが,上田万年の東京帝国大学における「言語学」の講義にあらわれたものは早い もののひとつだろう。上田の 1896 年度と 1897 年度の「言語学」の講義は,新村出の筆記ノートにより 概要がわかる。それによれば,1896 年度の講義での「国語ノ混交 MIXTURE OF LANGUAGE」の項目 中 に,「individual ガ 元 ト シ テ 一 国 語 ガ 他 国 語 ト マ ザ ル モ ノ ニ シ テ, 一 人 ガ 二 国 語 ヲ 話 ス コ ト 即 チ :trilingualism 又 Bilingualism ニヨリテ mixture ガアル。」とある(新村出筆録,柴田武校訂『上田万 年 言語学』教育出版,1975 年,185 頁) 。上田は,外国語との接触によって新単語や発音をとりいれ ること,翻訳の影響で文体が変化することなどを例としている。つまり,「国語ノ混交」をひきおこす 要因としての「バイリンガリズム」であり,それ自体の詳細な説明はない。また,明治時代に数多く書 かれる言語学の概説書をひもといても,この概念について詳しく説明したものは,見当たらない。また, 石黒魯平は既述のように 1924 年に「二枚舌主義」と訳している。安藤のような認識は,たとえば,教 育学者宮原誠一(1909-1978)の「言語政策と言語教育―アメリカにおける二重言語児童」 (『教育』7 巻 4 号,1939 年 4 月)などにもみられる。宮原は敗戦後の教育学におおきく貢献したというが,戦前 はジョン・デューイなど,アメリカの進歩主義的教育学についての研究をおこなう一方,昭和研究会や 国策研究会などに参加し,統合論理としての文化政策を提案していた人物であり,その戦争責任がとわ れつづけている人物でもある(内外文化研究所『学者先生戦前戦後言質集』全貌社,1954 年,長浜功『教 育の戦争責任』大原新生社,1979 年,佐藤広美『総力戦体制と教育科学―戦前教育科学研究会にお ける「教育改革」論の研究』大月書店,1997 年)。 35)安藤正次「二語併用地域における言語教育(下)」『台湾教育』29 巻 9 号,1929 年 9 月。 36)安藤正次「日本語のむつかしさ」『日本語』2 巻 3 号,1942 年 3 月,10 頁。 37)安藤の言語政策論への反感は,当然ながら存在した。たとえば,台湾の作家呉濁流(1900-1976)が 1943 年から 1945 年にかけて書いた自伝的小説『アジアの孤児』(新版,新人物往来社,1973 年)では, 台北帝国大学総長(安藤のこと)の新聞寄稿に関して「台湾人の皇民化を徹底させるためには,台湾語 を抹殺しなければだめだという,学者にあるまじき暴論」であると記している(283 頁)。 38)時枝誠記「朝鮮に於ける国語―実践及び研究の諸相」『国民文学』3 巻 1 号,1943 年 1 月。 39)時枝のみの話ではない。たとえば韓国併合前の『東京日日新聞』の社説「朝鮮の教科目」 (1909 年 9 月 3 日)は朝鮮語を教育科目から削除することを主張しているが,削除して日本語のみにすることで, 「是 れ国民的統一を速成する所以なるのみならず,朝鮮人の為に脳力の経済を策する所以なりとす。一個の 国民として二個の相異なれる国語は最も不幸なる国民なればなり」という状態から離脱できるという「利 点」を強調している(引用は姜東鎮『日本言論界と朝鮮―1910-1945』法政大学出版局,1984 年,23 頁)。 「能力の経済」から単一言語使用を有利なものとする考え方に注目しておきたい。 40)時枝誠記「朝鮮に於ける国語政策及び国語教育の将来」『日本語』2 巻 8 号,1942 年 8 月,「朝鮮に於 ける国語―実践及び研究の諸相」『国民文学』3 巻 1 号,1943 年 1 月。 41)時枝誠記については,安田敏朗『植民地のなかの「国語学」―時枝誠記と京城帝国大学をめぐって』 (三元社,1997 年)を参照。 42)時枝誠記「国語生活の歴史」,『国語教育講座 第一巻 言語生活 下』刀江書院,1951 年,64 頁。 43)たとえば,安藤正次「台湾に於ける国語教育」(『学菀』7 巻 10 号,1940 年 10 月)など。 44)石黒魯平『標準語の問題』三省堂,1944 年,58 頁。 − 19 −.

(18) 立命館言語文化研究 26 巻 2 号 45)石黒魯平「文化=殊に言語=進出の準備如何」 ,大日本学術協会編『興亜の大陸教育』モナス, 1939 年, 36 頁。主旨は,準備はできていない,という点にあるのだが。 46)石黒魯平『標準語』明治図書,1950 年,35 頁。 47)保科孝一「新生日本の国語政策」『思潮』1 巻 3 号,1946 年 9 月,69 頁。 48)この点については,安田敏朗『国語審議会―迷走の 60 年』(講談社現代新書,2007 年)を参照。 49)豊田国夫『日本人の言霊思想』講談社学術文庫,1980 年,234 頁。 50)豊田はこの二著のあとは, 「根源」を追い求めるためか, 「言霊思想」の研究に取り組み,1980 年に『日 本人の言霊思想』, 『言霊信仰―その源流と史的展開』(八幡書店,1985 年) , 「日本語の言霊観」(『環』 4 号,2001 年)などを著している。とはいうものの,その「言霊観」が近代日本の言語政策にどのよう に作用したのか,という初発の問題への解答には至っていない。 51)豊田国夫『言語政策の研究』錦正社,1968 年,584-585 頁。 52)生越直樹「二言語使用(バイリンガリズム)に関する文献目録―日本における研究」『待兼山論叢  日本学篇』第 14 号,1980 年,39 頁。 53)生越直樹は以下をあげている。金賛汀『祖国を知らない世代 在日朝鮮人二・三世の現実』田畑書店, 1977 年,塚本勲「在日朝鮮人の言葉」『朝鮮研究』35,1964 年,朴正文「在日朝鮮人の言語問題」 『国 語の授業』16,1976 年。 54)塚本勲「朝鮮語辞典の編纂をふりかえる」,吉田金彦編『ことばから人間を』昭和堂,1998 年,319 頁。 55)塚本勲「在日朝鮮人の言葉 朝鮮語こぼれ話②」『朝鮮研究』35 号,1964 年 12 月号,31 頁。 56)「発刊にあたって」(魚住昌良),ジョン・C・マーハ,本名信行編著『新しい日本観・世界観に向かっ て―日本における言語と文化の多様性』国際書院,1994 年,3 頁。 57)「はしがき」(ジョン・マーハ,八代京子) ,ジョン・C・マーハ,八代京子編著『日本のバイリンガリ ズム』研究社出版,1991 年,iii-iv 頁。 58)「あとがき」(八代京子,ジョン・マーハ) ,同前書,211 頁。 59)山本雅代編『日本のバイリンガル教育』 (明石書店,2000 年)は,言語教育へ焦点をあてたものであ るが,アイヌ語についてはその歴史的背景についても触れており,1990 年代を通じて深化した認識の ひとつの頂点を示している。 60)宮原誠一「アメリカにおける二重言語児童―その英語教授の問題」『国語教育講座 第五巻 各国 の言語教育』刀江書院,1951 年,2 頁。これは注 34 で触れた,宮原誠一「言語政策と言語教育―ア メリカにおける二重言語児童」(『教育』7 巻 4 号,1939 年 4 月)の副題を主題に入れ替えただけのもの である(既発表であることのただしがきはある)。内容は,主にアメリカ合州国における移民のバイリ ンガリズムに関する研究の紹介である。引用部分は,再録に際して冒頭部分に追加された,敗戦後にお ける英語の日本への浸透状況についての宮原の感想である。 61)この実施方法がいかに理に叶っていないかについては,大津由紀雄・江利川春雄・斎藤兆史・鳥飼玖 美子『英語教育,迫り来る破綻』(ひつじ書房,2013 年),および同著『学校英語教育は何のため?』(ひ つじ書房,2014 年)を参照。 62)英語帝国主義批判者はたいていが大学の英語教師である。したがって英語教育について異を唱えるよ りも,矛先を社会一般で目立つ英語使用状況に向ける傾向がある。前注のものは例外的である。よほど 政府のいう英語教育改革案がひどい,ということでもある。 63)津田幸男『日本語防衛論』小学館,2011 年,189 頁。 64)同前書,7 頁。津田幸男『日本語を護れ!―日本語保護法制定のために』 (明治書院,2013 年)で も同様の主張をくりかえしている。ちなみに,津田のホームページには, 「竹島,尖閣諸島,北方四島 は全て日本の領土である」というスローガンも掲げられている(2013 年 9 月 4 日確認。ただし 2014 年 5 月 3 日現在では確認できなかった)。「日本語の防衛」から, 「日本国の防衛」へと意識が広がっていっ た,ということだろう。ご苦労様,といっておきたい。 − 20 −.

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参照

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