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書評 西土彰一郎著『放送の自由の基層』(信山社、2011)

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(1)西土彰一郎著『放送の自由の基層』(信山社、2011 年). 書  評. 西土彰一郎著『放送の自由の基層』 (信山社、2011 年) 君塚 正臣 はじめに  本書は、 ドイツ公法理論を紹介し、 放送法の理論を提示したものであり、 特に、 公共放送の存在の必要性を説くものである。著者は、1973 年生まれで、神戸 大学大学院法学研究科を修了し、現在、成城大学法学部准教授である。 「学恩」 の対象として「恩師・棟居快行先生」を筆頭に、 「大学院生のときより」関係 する放送法・メディア法を専門とする先生方や、日本放送協会、日本民間放送 連盟の関係者の名前が並び(はしがき 1 頁)、著者のドイツ憲法への傾倒と、放 送法が研究の本籍であることが現れている(君塚正臣編『法学部生のための選択科目 。その著者が、2002 ガイドブック』 (ミネルヴァ書房、2011)で「情報法」を執筆した) 年提出の博士論文をリライトし、 その理論体系を世に問う初の著作である。よっ て、コンテンツ、伝送サービス、伝送設備という区分に基づく、2010 年 11 月 26 日成立、12 月 3 日公布の通信・放送法体系の整理統合は対象外であるが、 電波法 と 放送法(君塚正臣「日本国憲法二一条 の『表現』と『通信』の 間 に」関西大学 法学論集 51 巻 6 号 1 頁、5 頁以下(2002) [以下、君塚・前掲関大 I 論文、と 引用]も 参照). の目的規定は維持されており、問題はない。  なお、著書は、ドイツ憲法上の「放送」概念について、 「公共性」 「通信技 123.

(2) 横浜国際経済法学第 20 巻第 1 号(2011 年 9 月). 術による送信」 「表現手法」をメルクマールとして挙げる(204 頁)が、これは、 日本国憲法 21 条解釈でも踏襲できよう。以下、内容を紹介の上、論評を行う。. 本書の内容  本書は、大きくは、日本国憲法下の放送法の問題点を示し(1・2 章)、ドイツ 基本法下での理論の紹介(3-7 章)を経て、これを参考に、日本の放送法理論の 再構築を図るべく、自らの理論を提示する(終章)構成になっている。. (1)日本の放送法制と放送の自由論  1950 年に制定された電波法及び放送法は、無線通信事業者に免許付与、放 送番組内容・放送事業者組織の規律を定めている。そして、番組を制作・編集 する放送事業者が放送用無線局免許を有するという、ハードとソフトの一致原 則を定めた(2 頁)。放送法の基本構想は「規律された自己規律」であり、電波 法のそれは「電波の周波数の希少性」のための能率的利用にあったが(7-8 頁)、 電波法と放送法は、1952 年までは電波管理委員会設置法を(9 頁)、その後は省 令を媒介に結合し、総務大臣の広汎な権限により、 「行政は番組内容面の規制 にまで踏み込むことが可能となった」のである(2-3 頁)。郵政省自身は、番組 編集準則違反を理由とする電波法 76 条の免許取消しの適用には、 「番組につい ては『検閲できない』 」ことや、手続を法律が用意していないことなどから、 慎重であったが、近年、郵政省は同条の適用可能性を認め、遂にはその適用を 示唆したのである(10-11 頁)。また、放送法は、経営委員会の委員の任命権が 首相にあり、特殊な負担金である受信料収入のみを財源とする、公共放送とし ての NHK(日本放送協会)を事実上設立した(15-18 頁)。  これらの規制が許容される理由としては、放送法の趣旨である社会的影響 力論に収斂するというのが著者の分析である(13 頁。芦部信喜、塩野宏もこの立 。有力なのは周波数の希少性論であり、芦部信喜は、 場を紹介するという。34 頁) 124.

(3) 西土彰一郎著『放送の自由の基層』(信山社、2011 年). CATV などの発展を加味しても、VHF に取って代わるものではなく、この理 論は維持できるとした(35 頁)。芦部は、これに、国民の知る権利論を加味し、 寡占化の弊害を指摘し(37 頁)、加えて、広告主の意向から番組が画一化され るのを回避する目的(番組画一化論)も挙げた(35-36 頁)。長谷部恭男は、これを 放送の社会的役割論・部分規制論にまで発展させた(39 頁及び 41 頁)。浜田純一 は、 印刷メディアと異なり、 国家権力との闘いの中で確立されたのではない「未 熟な基本権」としての放送の自由は、多様な情報の流通の実現を期待させると した(40 頁及び 45 頁)。著者は、部分規制論を「ますます注目を集める」ものと して取り上げている(44 頁以下)。マスメディアが団体であるが故に規制を受け る場合があるとする市川正人(41 頁)を、著者は、メディアの特権であると批 判し、駒村圭吾の職能複合モデルに言及する(42-43 頁)。  しかし現在では、民放の発展、衛星放送やケーブルテレビなどの展開、メディ アの融合が生じた。まず、受託・委託放送制度が CS 放送の分野で 1989 年に 導入され、2001 年には通信事業者の設備を利用した放送を行える電気通信役 務利用放送が制度化され、ハードとソフトの分離は現実化した(22-27 頁)。浜 田の部分規制論は、メディアの融合が進み、周波数の希少性が解消された時点 で役割を終えると、著者は述べる。これに対し、長谷部は、マスメディアの自 由に立ち、規制のない印刷メディアと規制のある放送の立場の逆転を認めたほ か、公共放送と民放との並存による構造的多様性を認めた(47-48 頁)ことを評 価する。これに対して、一般的な表現の自由の法理による批判、端的な現行放 送通信法制への違憲論がある。この議論の典型的な論者である松井茂記は、メ ディアの自由を人権から外れた手段的自由だと捉えると、政府の干渉も強まる との批判も行った(52-53 頁)。著者は、この種の議論が市場原理に委ねること に帰着し、寡占化の危険があることに警戒的である(54 頁)。. (2)ドイツの放送法制と議論  こうした状況を考えるのに「参考になるのがドイツでの議論である」(55 頁) 125.

(4) 横浜国際経済法学第 20 巻第 1 号(2011 年 9 月). と著者は述べ、ドイツ法研究を展開する。ドイツ連邦憲法裁判所が放送秩序の 指針を示してきたことの分析で、ドイツの議論は始まる。一言で言えば、連邦 憲法裁は民主主義的「放送の自由」理論を基軸としている(214 頁)。  1961 年の判決は、放送の自由は、印刷メディアの場合と同様、 「制度的自由」 であると述べるが、周波数の希少性と巨額の投資費用という特殊事情から担い 手が少数に留まる点で異なり、これは民放か公共放送かで異なることもないと 「全法秩序の客観的原理」 、 「客観法的要素」 した(57-58 頁)。1981 年の判決は、 という語を用い、基本法 5 条の権利一般は主観権的側面と客観法的側面が支え あっており、 放送については意見形成に 「奉仕する自由」という機能を強調した。 また、1961 年判決等の述べる 「特殊事情」は、 メディア技術の発達で解消しても、 競争を通じて意見の多様性を実現するという面が欠ける放送には、特有の公的 規律の正当性は失われないとも指摘した(60-61 頁)。  1986 年判決は、放送について、意見形成に「奉仕する自由」を強調し、 「国 家からの自由」と共に「国家による自由」も併せもつとした点が特徴的である。 二元的放送秩序を規範的に考察し、公共放送を基本的供給の保障と捉えたので ある(65-66 頁)。そして、様々な放送分野での公共放送を禁じたラント法への 憲法異議を受けての 1987 年判決は、民間の放送市場参入を促進するため、放 送の意見形成機能と文化的責任が公共放送の責務だと判示した。全ての人が受 信できる、地域・ローカル放送を除く地上波による番組は、公共放送が優先し て放送できるとしたのである(71-73 頁)。さらに、1990 年判決では、公共放送 の独占を続けていたラントで、公共放送と民放の業務提携や資本参加を可能に する「協調モデル」等が、二元的放送秩序は厳格でなくてよいとして、合憲と された(77-78 頁)。この流れの中で、公共放送による広告放送を禁じたラント 法を合憲とした判決(84-87 頁)や、公共放送の資金需要を公機関に申告、その 機関が受信料の改定等をラント首相に勧告する制度を違憲とする判決(87-89 頁) などが下された。連邦憲法裁が、 「メディアがいったん誤った方向に展開した 場合その後の修正が困難であることから、予め積極的な措置を講じる必要が 126.

(5) 西土彰一郎著『放送の自由の基層』(信山社、2011 年). ある」のであり、そこで、 「事業者の多様な構造が番組供給の幅と多様性の確 保に寄与するという考え方」(93 頁。「構造的多様性」という)を採っていると理解 できると、著者は述べる。これは、 「放送の卓越した異議と市場不全を強調し」 「放送事業者の自由という意味での主観的権利(自然的 た(97 頁)ものであり、 自由)を認めずに、マスメディアが果たす社会的機能を直接の保護目的とする. 「放送の自由の規範目的を集約し 『客観法論』 」を採用した(102-103 頁)という。 た基本的供給は、 『放送秩序内容形成論』を介して民間放送にも妥当する可能 性を排除できないことにより、公共放送と民間放送との規範的関係は不安定な 要素を抱え込ん」だ(105 頁)としたのである。  学説では、 「放送の自由を個人の自由な発展のために保障された権利」と端 公共放送の事業独占を批判しつつ、 的に解し、 放送市場の競争を強調し(108 頁)、 公共放送の憲法上の正当性については、民間放送が完全な競争に至るまでの間、 多くの意見潮流を放送において表現せねばならないという、必要最小限度の基 本的供給に求める見解がある(109 頁。131 頁以下に紹介される学説、227-232 頁の、放 。このラインに 送事業者の自由を否定する理論を批判する自由主義的な見解もほぼ同じ) 乗る有力な学説である、プロセス的「放送の自由」理論(241 頁以下)は、マス メディアが「氾濫する外的刺激のなかから社会について個々が認識すべきであ ると考えるものを選択し、確定し、社会全体へと流通させる」ことで「複雑性 を縮減する」役割を負うとして(252 頁)、カルテル規制や出資規制を放送の分 「ひとつの事 野に持ち込むことに反対した(260 頁以下)。この考え方によると、 業者に帰責される番組視聴率の合計が年間平均で 30%に達した場合には『支配 的な意見の力』が生じていると推定」(262 頁)する「視聴率モデル」が評価さ れることになるのであった(263 頁以下)。  だが著者は、これらも「放送事業者の自由を否定して客観法としての放送の 「制度的自由」としての 「放送の自由」 自由の議論を出発点として」おり(219 頁)、 とは「 『制度的保障』と『制度保障』の上澄みの混成物と把握できる」(225 頁) と評価している。また、以上のような学説には、個人が情報を享受するため、 127.

(6) 横浜国際経済法学第 20 巻第 1 号(2011 年 9 月). 放送には「 『基本的供給』を保障するための国家的規律」が必要であるという 批判が生じるという(111 頁)。基本法の社会国家原則は公共放送の独占をも根 拠付けるとか、放送コミュニケーションの完全な商業化は排除されるべきであ ることが主張された(111-112 頁)。また、プロセス的「放送の自由」理論には、 まず、 その基盤とする「システム理論の社会像は伝統的な法律制御と矛盾」 (270 「プロセス的法理論は基本法の命題と両立しえない」 頁)し、 (271 頁)点を指摘し、 「個人の自由を強調する以上、社会固有のルールに適応できない少数の個人の 力によりそれらが再構築される可能性を確保しなければならない」筈であって、 「学問としての民主主義理論の反省がやや足りない」と批判する(282 頁)。そ して、公共放送は「基本的供給の範囲内外ともに民間放送に優先して活動でき 「公共放送の なければならない」とする見解(116-117 頁)も現れる中、学説は、 補完的機能の否定」と「基本的供給を必要最小限度の供給として把握すること の否定」に、収斂していったという(119 頁以下)。また、利用者数に比例せず、 その価値が計算不能で、 「ただ乗り効果」が生じることなどから、市場では自 ずと生まれない情報の生産を可能とするように、放送の規律はプロセス的合理 性(将来に開かれた社会における規律の合理性)に依拠せねばならないと述べる(124-125 。特に、 「放送秩序内容形成論」に肯定的な学説は、基本的供給を公共放送 頁) に許される必要最小限度の供給とは捉えない。放送は、国家や党派などから自 由であるべきであり、意見形成に対する民間放送の機能性も尊重せねばならな いが、 「それと公共放送の相互補完により番組全体の均衡性を達成すべく両者 の関係を規律しなければならない」という(128-129 頁)。学説は多岐にわたり、 基本的供給概念は錯綜していた。  そこで、この概念は機能的任務概念(「主観的権利としての放送の自由」「から識別 される根拠」 「を表現」するもの。141 頁)へと移行していく必要があったと著者は. 述べる(137 頁以下。だが、この概念も「論者によりその内実が異なる」という。140 頁)。 民間放送が次第に市場競争に移行する中、 「公共放送の機能を明確にしなけれ ば競争を阻害するおそれがあ」り、公共放送の機能的任務を模索する必要が 128.

(7) 西土彰一郎著『放送の自由の基層』(信山社、2011 年). あった(142 頁)。ある論者は、 「統合機能」 「フォーラム機能」 「模範機能(番組 」 「補完機能」と集約し、公共放送自体の自由を認めなかっ の質を提示する機能) た(142-143 頁。別の論者は「革新機能」などを加味し、別の整理をした。156-157 頁。ま 。だが、これはあまりに た、放送の「文化的機能」に着目する学説もある。216 頁以下) も市場モデルに依拠しており、問題なのは「番組の希少性」(良質の番組の価格の 。別の論者は、公共放送の「番組制作・ 上昇)であるとする批判もある(145 頁) 編集過程それ自体の自律を保障」されるべきことを主張する(146 頁)。また別 の論者は、放送が「国家の影響力から自由であるとともに、ひとつの社会的集 団にゆだねられてはならない」ことを「基本法 5 条 1 項 2 文は立法者に義務づ けている」と述べ、 「積極的秩序の形成という内容形成立法」を求めた(149 頁)。 さらに別の論者は、公共放送が良質の番組を提供するのは「補完」ではなく 「模範機能」であり、 「補完機能」を公共放送の独立した機能と見做さない(157 。また、 「意見形成機能」を果たすには競争力の維持が必要であり、公共放 頁) 送にも「番組制作・編集のプロセスの自律が憲法上保障されなければならない」 とする(159 頁)。その内部的多元主義的組織構造は必要であるとされ(162 頁)、 編集者代表会がその手続的裏付けである(164 頁)ことを強調する論者もあると いう。本書はこのような方向性に親和的である、と言ってよさそうである。  なお本書は、EC 法における機能的任務の位相も分析する(169 頁以下)。公 共放送が EC 法の禁じる国家援助に当たるのという 2007 年欧州委員会決定 、競争法上 (178-182 頁)は、ドイツで、視聴者の利益を見落としている(187 頁) の権限を前面に出し過ぎている(189 頁)などの批判を浴び、同委員会は、EC 条約と両立するための諸処置を 2 年以内に施すというドイツ側の確約を得て、 国家援助に関する手続を中止し、 「公共的価値のテスト」を導入した第 12 次放 送州際協定が 2009 年に発効させたというのが顛末である(195 頁以下)。. (3)理論の提示  ドイツ法の分析を受けて、著者は放送の自由の理論を提示する。自由に関し 129.

(8) 横浜国際経済法学第 20 巻第 1 号(2011 年 9 月). ては、 「生活・社会関係内部での各人の自由の機会にかかわる歪みの是正も求 「より深層にあるコンセンサスの競争の保障を考え められる」(285 頁)ので、 る必要があ」り、 「表現の自由は、本来、無意識のうちに展開されてきたコン センサスの競争を共有信念の形成、修正という秩序目的の観点に立って保障す 「プロセス的基本権理論は、 る」点で把握しなければならないという(286 頁)。 自生的な社会秩序に力点をおいて個人の自律の所与の前提である多元的社会の 保護を目指していた」が、 「個人の自律を強調する以上、 」 「少数の個人の力に よりそれらが再構築される可能性を確保しなければなら」ず、 「コンセンサス の競争を保障する意義がある」という(288 頁)。対抗的公共圏を設営し、寛容 な社会を再生させ、社会を統合させる(288-289 頁)。  少数者の表現の自由の行使に頼むだけでは足りないので、 「他方で(留保を伴 うものの)経済市場を通して規範的に期待できる生活・社会関係のネットワー. ク化それ自体を積極的な法制度により保障する委託を導き出すことができるよ うに考えられ」 、そこで「マスメディアの自由は、この『法制度保障』の文脈 で把握される」というのである(290-291 頁)。マスメディアは少数意見を取り上 げねばならず、多様な見解を取り上げて「各生活・社会関係の共有信念に自省 の機会を提供すべきであ」り、その修正や新たな形成に向けて報道専門番組な どの「包括的な情報パッケージを供給しなければならない」という(291 頁)。 メディアは、 「分散化した知のネットワーク化」を期待されている(292 頁)。し かし、放っておくと市場の論理に支配されるので、 「マスメディアの内部的自 由」は再構成され、これ「を担う経営者側と広義のジャーナリストが協議する 場を設ける必要がある」(294 頁)とも指摘する。  その結果、 「マスメディアの自由は、 」 「経済的自由からも表現の自由からも 区別できる独自の権利として構成される」(296 頁)とする。だが、メディアを 取りまく状況の変化は急激であり、 「将来、総合編成番組のみならず番組の接 続も事業者により提供されなくなるおそれがある」などの問題があり、 「立法 者は民間による放送の自由(マスメディアの自由)の実現を十分な蓋然性でもっ 130.

(9) 西土彰一郎著『放送の自由の基層』 (信山社、2011 年). て期待できな」くする危険がある(297 頁)。そこで、 「このような状況において ますます重要となるのが、 公共『放送』の存在である」と、 著者は力説する(同頁)。 「多様な番組の接続、編入を企図」し、 「番組編集プロセスの自律を組織的、手 続的に保障する必要があ」り、その「民間に対する競争力をも維持する必要が 「公共放送は」 、民放やインターネットの補完的機能に留 ある」という(同頁)。 まらず、 「ビデオ・オン・デマンドやオンライン・サービスまでも進出できる」 とまで明言している(同頁)。多チャンネル化による視聴の分散を乗り越え、事 業展開を図る必要がある(298 頁)し、人気番組ソフトの調達価格の高騰という 状況の下では、 「民主政治にとっても」 「公共放送の存在は一層重要となる」と 「放送産業の拡大、巨大化による従来型の放送サービスへの回 いう(299 頁)。 帰とその潜勢力を利用して、一定の市場占有率に達している事業者に対して積 極的な規制を課すことにより、それらと公共放送との(ドイツで主張されている 『ジャーナリズム上の競争』が展開する枠 ように純粋な経済的競争とは区別される) 組みを設定することは十分な合理性がある」とするのである(同頁)。放送のよ うな「場としてのメディア」は少数意見を取り上げ、 「主体としてのメディア」 が支配的意見に挑戦する(300 頁)構図の中で、全ての事業者が後者を選択する 場合の保障として、 「公共メディア(公共放送)の設置が要請される」という(301 。著者は、 「内部的自由の理念を基礎とした公共メディア(公共放送)の存在 頁) が、 マスメディアの自由あるいは放送の自由により要請されている」 (304 頁)と、 本書を締め括るのである(西土彰一郎「部分規制論」駒村圭吾=鈴木秀美編『表現の自 由 I −状況へ』273 頁(尚学社、2011)も参照。292 頁で、 「各事業者に、 規律を内在させた 『場. 。 としてのメディア』か、 基準点たる 『主体としてのメディア』かを選択させるべき」と述べる). 本書の評価  本書の大部分は、ドイツにおける「放送の自由」に関する連邦憲法裁の判例 と学説の分析であり、その詳細な紹介は邦語としてのものとしては貴重なもの 131.

(10) 横浜国際経済法学第 20 巻第 1 号(2011 年 9 月). である。外国判決に年号が付されていない不備(また、できれば判例索引があるこ とが望ましい)があるが、次の著作では修正されるものと思われる。博士論文と. して、それまでの著作を纏めるためやむを得ない面もあろうが、学説の分析の 部分で、類似の学説を一つの章に纏めることの不徹底のきらいもある。が、本 書中央部分が近年までのドイツ情報法の丹念な紹介であることは、高く評価す べきであろう。また、本書が、これまでの情報法学者が曖昧にしてきた、公共 放送 (NHK) の憲法的説明を積極的に行っている点、そして、合憲論を踏み越え、 その存在を否定することはかえって違憲ともなることを示唆している点は、注 目できる。そこで、以下、ドイツ法部分というよりも、その方法論や日本法へ の示唆、日本法の解釈に関して若干の論評を行うこととしたいと考える。. (1)表現の自由法理の中での放送  著者は、ドイツ基本法理論の展開から日本で理論を提示するものであるが、 ドイツでは基本法 5 条が「自己の意見を自由に表明し流布する権利」と、 「放 送及びフィルムによる報道の自由」を分離するのに対して、日本国憲法 21 条 1 項は「一切の表現の自由」と纏めており、日独の条文上の違いを、評者はま ず指摘せねばならない。ドイツでは兎も角、日本では「放送」も表現媒体の一 つであり、放送規制は「表現」規制として憲法の許容するところかを考察せね ばならないという違いがある。この点は、あまり自覚的に区別されていないよ うに思われる。放送に関して日本で憲法論を展開しようとすれば、一般的に表 現の「自由」が起点であって(松井茂記『マス・メディア法入門』〔第 4 版〕280-281 頁 、頭から「個人の人権としての (日本評論社、2008) [以下、松井・前掲 I 書、と引用] ) 一般的な表現の自由とは異なる性格を認めるべき」(鈴木秀美『放送の自由』309 頁 (信山社、2000) )という議論は、少なくとも日本国憲法解釈論としてはあり得ま. い。著者がこれに流されている(「マスメディアの自由は、」「経済的自由からも表現の 自由からも区別できる独自の権利として構成される」など)点は危惧される。大声で足. りず拡声器を用い、それを無線で飛ばし、これを中継したものが放送であれば、 132.

(11) 西土彰一郎著『放送の自由の基層』 (信山社、2011 年). それが憲法上「表現」でなくて何であろうか。放送が憲法 21 条の保護範囲に あることは自明以外の何物でもないのである。  次に、仮に、政治的・非政治的言論司法審査基準二分論に従ったとしても(評 者は従わない。君塚正臣「暴力表現・自殺唱導表現と憲法」法律時報 76 巻 9 号 55 頁(2004). 、放送がいかな など参照。市川正人『表現の自由の法理』 (日本評論社、2003)ほぼ同旨) る意味でも非政治的言論一色であることは考え難い。また、放送規制は時・場 所・態様規制(表現内容中立規制)であるという主張もあろうが、特定の番組の 規制は内容に基づく規制であろうし、総量規制等は表現内容の制約を含むで あろうし、包括的な放送禁止は勿論許容できないので、放送に関しては、表現 内容に向けられない規制はあまり想像できない(合憲論主張者に立証責任がある)。 節電のための放送時間一律制限のようなもの(2011 年夏、なさそうだが)はぎり ぎり内容中立規制かもしれないが、それも表現の自由の制約に違いなく、規制 の危険性が低いとも思えず、その規制を中間審査基準で判断するべきではない (君塚正臣「司法審査基準」公法研究 71 号 88 頁、90-91 頁(2009) 、同「判批」佐藤幸治=土. 。結論として、放送規制には基本 井真一編『判例講義憲法 I』112 頁(悠々社、2010) ) 的に厳格審査基準が及ぶべき筈である(君塚正臣「ハイビジョン時代の憲法学」文明 。様々な放送規制を普く認めたくとも、 「表現の自 72 号 39 頁、40 頁(1995)など) 由の優越的地位」を認める以上、限界がある。  放送が新聞や雑誌と究極的に異なるのは、周波数が条約で割り振られている 点である。放送は電信以外ではまず難しい。勝手な周波数帯の開発もできない。 このほか、放送規制が許容される根拠は様々挙げられている。送信装置の設営 に費用がかかるため、参入障壁があるので、多元的意見を取り上げるべく規制 が必要との主張もあろうが、ミニ FM 局の設置は地域新聞社の設置と比べて 困難とは思えない(しかも、これに従えば、参入困難な特殊な書籍である、芸術的写真集、 。映像のインパク 専門雑誌、高校の教科書などは同様に規制が可能ということになろう) トを根拠としても、まずそれはテレビ放送に限られ、 「囚われの聴衆」への不 意打ちの放送を制限すれば十分であり、それが必要最小限の規制となり得るも 133.

(12) 横浜国際経済法学第 20 巻第 1 号(2011 年 9 月). のであろう。また、そもそも、スイッチ一つでお茶の間に衝撃的映像が入り込 めるとするのであれば、スイッチ一つで打ち切れる筈である(君塚・前掲法時論 文 56 頁、君塚・前掲関大 I 論文 11 頁。家庭と国内をパラレルに考えれば、税関検査の問題 に帰着する。君塚正臣「性表現規制のゆるやかな変化として」新聞研究 681 号 50 頁(2008) 、. 。加 え て、 同「判批」堀部政男=長谷部恭男編『メ ディア 判例百選』126 頁(2005)参照) 影響力が強い言論であるから規制可能という理論は、表現が、公に向け、その 主張の影響力を増したいがためになされることと矛盾する。しかも、影響力の 中身が低俗番組にあるとすれば(しかも、テレビ視聴者の 9 割は暴力番組から影響を 受けていないとされる。大渕憲一「暴力映像が視聴者の行動に及ぼす効果について」実験社. 、視聴者が断固拒絶してスイッチを切る 会心理学研究 20 巻 1 号 85 頁、91 頁(1980) ) ことでこれを絶滅に向かわせることができるのであり、それでも規制が必要と いうのはパターナリスティックだと非難されよう(君塚・前掲文明論文 42 頁、君塚・ 。放送の中立性の要求は、 放送事業者を論争回避行動に導き、 前掲関大 I 論文 11 頁) 国民の情報受領権を阻害する傾向は否定できない(君塚正臣編『ベーシックテキス 。しかも、 「表現」規制であ ト憲法』 〔第 2 版〕99 頁(法律文化社、2011) [福島力洋] ) れば政策的規制は許されない筈のところ、実際には県単位でネットワークに免 許が付与されており、 このことの合憲性は疑わしい(君塚・前掲文明論文 40-41 頁)。  以上の考察を経れば、放送独自の合憲的規制根拠は、周波数の希少性という 点に尽きよう。しかも、これすら、森林資源が希少財となった今日、新聞の規 制にも援用でき、 一般化された 「財の希少性」は、 放送の場合でも程度問題に至っ ており、 磐石でもない。それ以外に媒体の特殊性(これを展開すれば、ビラ、デモ行進、 意見広告など、あらゆる表現形態は特殊となろう。君塚正臣「判批」東海大学文明研究所紀 要 15 号 95 頁、105 頁(1995)も 参照。松井・前掲 I 書 282 頁 ほ ぼ 同旨。同書 299 頁 は 免許 制を疑問視する。これに対し、長谷部恭男『テレビの憲法理論』117 頁(弘文堂、1992)は、 電波は公共財だとして、放送の特殊性を強調する)をむやみに振り回し、表現権の一. 般理論を瓦解させるべきではない。補足するに、情報法制が明快でなく、多く の行政指導で成り立っている点は、明確性の基準(本法理については、君塚正臣編 134.

(13) 西土彰一郎著『放送の自由の基層』 (信山社、2011 年). 「判批」阪大法学 41 巻 4 号 501 頁、511-512 頁(1992)など参照)等に反していないかも、. 検証を要しよう。放送局に、 萎縮的な効果(これについては、毛利透『表現の自由』 (岩 過度に広汎な規制となっていないかも、疑問である。 波書店、2008)参照)を与え、  今日のように、衛星放送が登場し、地上波もデジタル化して、チャンネルが 相当数増えれば、周波数の希少性による規制の正当性すらもかなり薄まった と言えよう(君塚・前掲文明論文 43 頁、君塚・前掲関大 I 論文 8 頁以下)。CATV( 有線 テレビ ) に至っては、周波数の希少性という根拠すら使えないのである。しか. も、インターネットの普及により、文字情報ばかりか映像を一般に公開するこ とも安価かつ容易になり、インターネットテレビも登場している。映像を広く 伝えるのに、放送免許も映画会社の設立も必要でなくなり(君塚・前掲関大 I 論 、影響力や伝播力は最早、放送の専売特許とは言えなくなったのであ 文 21 頁) る。多チャンネル化により一つの番組の影響力が低下している(君塚・前掲関大 I 論文 9 頁。明らかに地上波放送の視聴率は低下している)こと、実際、地上波放送や. 衛星放送において、猥褻とも取られ得る映像が淘汰されてきていることは、規 制を必要とする根拠をより疑問にしている。加えて、衛星放送や CATV では、 見たくない放送局とは契約しないことが普通であり、 「囚われの聴衆」論はお よそ妥当しない(君塚・前掲関大 I 論文 12 頁)。テレビ受像機も、スイッチやチャ ンネル操作が簡便になり、ザッピングがテレビ視聴の基本技術となった今日、 「囚われの聴衆」となる危険も殆どない。あっても、街角の支持せぬ政治家の ポスターの如く、多少のことは民主主義のコストとして甘受すべきである(君 。 塚正臣「国家公務員法違反事件鑑定意見書」横浜国際経済法学 19 巻 1 号 89 頁、98 頁(2010) ) ここに至って、放送に、活字メディアともインターネットとも異なる特殊な規 制を行うことの正当性はほぼ失われたものと思われる。  それでもなお、地上波テレビ局の開設・運営は特権的であり(そもそも、印刷 メディアも含め、 「プレスの特権」という議論が今でもどこまで成立するのかは疑問なしで. 、2ch に代表されるようなインターネッ はない。反対、長谷部・前掲書 45-46 頁など) トサイトとは信頼性が異なるのであり、放送に関する様々な規制は正当化でき 135.

(14) 横浜国際経済法学第 20 巻第 1 号(2011 年 9 月). るという主張もあろう。また、地上波と衛星放送も、影響力等が大いに異なる という、理論よりも既成事実を重視し、厳格審査基準適合的でもない、つまり は「表現」規制の合憲性の一般的な議論においてはあまり説得的とは思えない 主張すらありそうである。しかし、これすらも、規制があり、地上波の放送局 数が限定的であるが故のことであり、事態は一変している。デジタル化はそも そも周波数帯の有効活用のために行われたのであり、地上波に関しても、参入 可能な放送局数は増えているのである(周波数の希少性とは物理的な意味なのである から、収益性の面から参入には限度があるという主張は、議論の摩り替えである。君塚・前. 。そして、放送局は番組作成者兼発信者であるということは 掲関大 I 論文 12 頁) 決して自明ではないのであって、受託放送業者と委託放送業者の分離が既に始 まっている(君塚・前掲関大 I 論文 13 頁)。地上波でも、番組制作の丸投げが多く なっていることはよく言われており、両者を分離できないと考える方が不思議 なのである。そうなれば、特定の局の特定の時間帯が特定の人々のみに向けて 放送され、採算が取れなければそこから撤退するという、市場原理に沿った行 動が取られよう(君塚・前掲文明論文 44 頁)。そして、そのことは何ら憲法 21 条 上の問題を生じさせるとは思えない。  以上検討のように、著書が力点を置く「社会的影響力論」は放送規制の主理 由とは思えない。放送に、他の媒体と異なる過大な影響力を想定することは、 高度経済成長期なら兎も角、今やできない。少数者の見解の保護は重要である が、表現活動においての少数者は「思想の自由市場」で勝利すべく、より懸命 な努力が必要なだけである。この点は、活字メディアなどの場合と変わらない。 少数派の番組が放送できる余裕は、多チャンネル化と受託放送業者と委託放送 業者の分離によって生まれる筈である。放送の多元性は、放送局、ジャーナリ スト等の競争によって担保されるべきである。千歩譲っても、現行放送法制が、 著者の主張する目的に適合的であるか、過度に広汎な規制ではないかは疑問で あろう。著者の主張は、憲法学界で当然視される「表現の自由の優越的地位」 の議論に合致しない。表現権一般の理論に先だって放送故の特別の法理を掲げ 136.

(15) 西土彰一郎著『放送の自由の基層』 (信山社、2011 年). ることも、賛成できない(但し、長谷部恭男「判批」堀部政男=長谷部編『メディア判 例百選』196 頁、197 頁(2005)も、訂正放送に関して、放送局に特別の義務を科すことに否. 。インターネット放送に飲み込まれるとの予測すらある 定的であることなど参照) ( 「特集・さようなら!デジタル放送こんにちは!ブロードバンド」週刊東洋経済 5666 号 30 頁、40 頁(2000) )放送業界の権益保護のための議論になっていないかとの懸念. もある(いわゆる距離制限各判例の背景に、自民党の集票マシンであった小売業者の既得 。若い著者がこれらに 権保護の意図があったことは、容易に思い起こされるべきである) 与しないことを、望むものである。. (2)公共放送は憲法上どこまで許容されるか  著書のユニークな点は、公共放送を必須とするところにあろう。著者は放送 を上述のように捉えたが、公共放送もまた、表現権理論の枠組みの中で検討さ れねばならない。憲法上の人権が「国民の権利」である以上、国や公共団体は 憲法上の権利を有さない(君塚正臣「社会権としての『教育を受ける権利』の再検討」 横浜国際社会科学研究 15 巻 5 号 1 頁(2011)でも指摘したように、だからこそ国家が教育. 。著者は、公共放送の有益性を暗黙の前提 権を有するという主張には無理があった) としているが、憲法論としては、それは国家の当然の責務などではないので(君 塚正臣『憲法 の 私人間効力論』265 頁(悠々社、2008) 、同「二重 の 基準論 と は 異質 な 憲法 訴訟理論は成立するか」横浜国際経済法学 18 巻 1 号 17 頁、32 頁以下(2009)で述べたよう に、日本国憲法の解釈論として基本権保護義務論は拒絶されるべきである。一部に熱心な信 者もあるが、芦部信喜『宗教・人権・憲法学』232 頁(有斐閣、1999) 、松井茂記『LAW IN CONTEXT 憲法』356 頁(有斐閣、2010) 、佐藤幸治『日本国憲法論』168 頁注 112(成文堂、. 、ここでは、国は公共放送を行っても憲法違反 2011)などを読み、改宗すべきである) ではないか、国が特定の機関や法人に受信料徴収に基づく放送事業を認めるこ とはいかなる条件下で許容されるべきか、という設問が立てられるべきである。  紙媒体としての官報や政府広報の配布と同様、専ら政府広報や国会中継のみ を行う放送局の想定は難くない。しかし、これらが限られた周波数帯を奪う以 137.

(16) 横浜国際経済法学第 20 巻第 1 号(2011 年 9 月). 上、まずは民放に最小限度の義務付けを行い、或いは競売をして、性質上、視 聴率の取りにくい番組を供給する途も考えるべきであろう。三歩譲って、その ような交渉に応じる放送局がない、全国ネットが担保されないなどの事情から、 国営放送用の最小限度の周波数帯が確保されていることは、厳格審査の下でも、 常に憲法違反であるとは言い難いように思われる。  そうだとすれば、まして、強制的な受信料や税による公共放送を、憲法違反 と断じることはできない。しかし、それが憲法上の人権享有主体ではあり得な い以上、許容されるのは、やむにやまれぬ目的の下、必要最小限の局数に限定 される筈である。放送が、国民にとって最小限の情報受領手段である(東日本 大震災はこのことを再認識させた)ことを考えると、民放では採算の採れない離島. や山間部などに普く放送を行き渡らせる必要はあろうから、そのための局が一 つの周波数帯を占めることは合憲となろう。衛星放送の方がこの目的には適し ていると言えなくはないが、国民が普く有しているのは地上波放送受信機であ るため、民放の放送を阻害しない限りで、地上波放送のチャンネル維持も合憲 と言えなくもない(但し、郵政民営化時の民間参入の議論を想起すれば、民放といえども、 難視聴地域を極力なくすことを条件に周波数帯を配分することはあり得、この種の役割を公. 。教育目的のチャンネルの追加 共放送と民放とで杓子定規に分けて考える必要もない) なども、憲法上許容する余地があるのかもしれない。  しかし、現在の NHK は、もともと教育番組を全国に行き渡らせる目的で開 設した教育テレビを 2011 年 6 月から「E テレ」と改称し、総合テレビとの差 の縮小を図っているほか、 衛星放送についても、 同 4 月に 3 チャンネルを 2 チャ ンネルに改編した際に、難視聴地域の解消、地上波とは異なる番組の提供、ハ イビジョンの実験(君塚・前掲文明論文 43 頁参照)というチャンネルの違いを曖 昧にした。民間では採算の採れない部分を担うという公共放送としての役割を、 自ら放棄しつつある。そうであれば、以前なら兎も角、放送インフラの整備が ほぼ終了した今日では、民間が放送の自由を享受すべき貴重な周波数帯を公共 放送が複数占める理由はなく、端的に残余のチャンネルを総務省に返納し、新 138.

(17) 西土彰一郎著『放送の自由の基層』 (信山社、2011 年). たな民放の参入を待つことが憲法 21 条の要請ではあるまいか。或いは、国鉄 や電電公社、郵政公社の例を考えれば、チャンネル毎の分割民営化を行い、そ の相互間の競争が期待されるべきである。評者の視座は非現実ではない。  また、 「極端な公共財であるがゆえに価格メカニズムが適切な配分を行いえ ない放送サービスについて、次善の形でそれを視聴者に提供しようとする試み の一つである」(長谷部・前掲書 151 頁)とされる受信料収入を、NHK は主財源 とする。NHK は、営利広告を放送しないことで中立性を体現しているとも言 えるが、他方で NHK の番組の宣伝はほぼ増加の一途にあり、受信料をこれに 用いて有意な番組の放送時間を奪っているばかりか、経済原理に従えば、民間 の参入をその分困難にしている。視聴者から見れば、 受信料が、CM に対し「囚 われの聴衆」たるを避ける費用である意味を、失わせている。これに対して、 広告料による番組編成では、広告主が視聴者の質に関心をもち、最大公約数的 な番組を欲し、番組が画一化し、広告時間が増加するなどの弊害もあり、受信 料による放送機関を並存させることは「対処の一つである」とする見解もある 。だが、NHK の番組が画一化していないことには異論が (長谷部・前掲書 152 頁) あろう。民放であれば広告主がなくなって番組が改編されるところ、NHK の 場合は、不評な番組であっても、作成者に思い入れがあれば存続するという弊 害がある。NHK と民放とを併せ、全体としては画一化が回避されるというの が情報法学者多数の見解なのであろうが、守られるべきだとする少数者の主張 機会や良質の番組が、これで担保される保証はない。NHK 故配給される好番 組とは何なのか。 「歌謡ホール」か。著書が記すように、公共放送機関が人気 番組ソフトの買い付けに(ある意味、大衆に迎合して)邁進できるのであれば、そ もそも受信料に支えられる公共放送機関の必要性はない。民放に受信料を分配 する代わりに、その一部において中立性に配慮した番組の作成を義務付ければ 済む(但し、政府の介入が許されるなら、受信料の強制徴収は何故許されるのかという新た な問題が生ずる)し、多チャンネル化の中で民放が、そういった番組を、その信. 頼性維持のためにある程度作成するであろうことを考えれば、受信料徴収すら 139.

(18) 横浜国際経済法学第 20 巻第 1 号(2011 年 9 月). 不要なのかもしれない。中立的で優れた報道専門チャンネルは、CNN の如く、 必ず視聴者を得よう(しかも、静的な「中立」など架空のものであって、多元的な放送 。公 局の競争と受信者の選択により中立点が生まれると考えるのが、憲法適合的であろう) 共放送が選択して取り上げるべき少数者の見解等と、そうでない不人気な言論 の区別は困難であり、NHK の一担当者に任すには重すぎる課題であろう。  視聴者の「知る権利」論は、 確かに一見もっともである(奥平康弘『「表現の自由」 を求めて』280 頁(岩波書店、1999)も、米最高裁判決を引きつつ、 「放送局の自由」よりも これに傾斜した理解を示している)が、これがいかなる権利性を有しているのかは. 不明である(松井・前掲 I 書 284 頁)。新聞や雑誌に関して、購読者のそれを守る べく公共報道機関を維持せよ、もしくは全ての業者が撤退しないように国が行 為する義務がある、とはなるまい。ここでの憲法上の権利主体は、第一義的に は情報受領者ではない。 「法人」としてのマスメディアと言うのは躊躇を覚え る(中谷実編『ハイブリッド憲法』114 頁(勁草書房、1995)[君塚正臣])が、自然人と してのジャーナリスト集団、即ち情報発信者の表現の自由である。それが、や むにやまれぬ目的と必要最小限度の手段をもって制限される場面があるか、を 問うべきである。およそ表現行為は、情報受領の「自由」が保障され、強制は 禁じられようが、 欲する情報を民放という私人に求める権利(ある種のアクセス権) までは憲法は保障しまい(榎原猛ほか編『新版基礎憲法』101 頁(法律文化社、1999) [君 。情報受領者には見ない自由があるだけであり、 これを行使すれば、 塚正臣]参照) 「思想の自由市場」では不人気な表現は淘汰され、放送局はよりよい表現を模 索するのみである。  情報法学界には、放送の影響力を過大に評価し、放置すれば低俗番組はなく ならず、これをよくないことだと評価し、そのためには政府が介入すべきであ るが、 「表現の自由」に配慮すれば、国そのものではなく公共放送の相対上位 のシェアや指導力によって、これを解消すべきとする発想があるのであろう。 だが、前述のように、その種の番組は市場原理によって淘汰されつつある。特 定番組を有料化すること、受信拒否することも技術的には可能になっており、 140.

(19) 西土彰一郎著『放送の自由の基層』 (信山社、2011 年). このような必要性は最早ないのである(このことは、長谷部・前掲書 83 頁が早々に 。多チャンネル化時代では、その放置の弊害も極小であろう。 指摘していた)  著者は、放送局の運営を民主化することで、問題を解消したいようである。 しかし、組織であれば、外界と遮断された「自治」(結社の自由)があり、自然 と権限が寡占化される中で、ジャーナリスト全員参加の決定がなされるような 桃源郷は、とある御方の老害を指摘するまでもなく、あまりにも非現実的で ある(放送局の内幕を暴くモデル小説、北岳登『虚飾のメディア』(ダイヤモンド社、2004) 。マスメディアについてのみ、これを制度的保障のように考えること など参照) は、 困難である(憲法 21 条の特別法的条項である 23 条を有する「大学の自治」についても、 憲法上のものは教学の自治であり、国公立でも私立でも、これ以外に、財務を軸とする法人 組織の自治は残るのである。君塚正臣「国立大学法人と『大学の自治』 」横浜国際経済法学. 。ならば果たして、国が法律等 17 巻 3 号 193 頁(2009) 、君塚前掲書 510 頁以下参照) をもって、政党など、表現行為を目的とする結社の内部に介入することが合憲 なものか。これまた大いに疑問である。. おわりに  1965 年生まれの評者にとって、テレビは先住民族であった。ただ、音声多 重放送や衛星放送は自分の「後輩」であり、インターネットは勿論そうであ る。物心ついてから登場したものの経緯は理解し易く、また、それがなかった 時代も思い出せる。逆に、生まれたときにある制度やシステムはつい当然の制 度であるとついつい錯覚してしまう(「国家の通貨発行権」の議論もそのきらいがある。 。憲法論、 君塚正臣「日本銀行 の 憲法学」横浜国際経済法学 18 巻 3 号 49 頁(2010)参照) 法理論としては、そこで立ち止まって考え直すべきである。ほぼ全ての日本人 にとって「放送」は、その種の錯覚に陥る危険がある(放送と通信の区別は関東 大震災が契機である。だから、つい当然視してしまいがちである。君塚・前掲関大 I 論文 4-5 頁。長谷部・前掲書 117-118 頁も、現行放送法制を完全無欠と考えるべきではないと述べて 141.

(20) 横浜国際経済法学第 20 巻第 1 号(2011 年 9 月). 。しかし、放送があることが果たして憲法上の(制度的) いることは、示唆的である) 保障なのかは疑わしく、憲法上、それが「自由」だということを起点にすべき である。加えて、当該事象が、憲法問題なのか、法令の解釈問題なのか、それ とも単なる政策判断の問題なのかは次元が異なる筈である(ドイツでは、「通信」 と「表現」のほかに「メディアサービス」という概念があるという紹介もある。鈴木・前掲 書 311 頁以下。しかし、このような概念は日本国憲法にはないので、憲法論として用いるべ きではない。君塚・前掲関大 I 論文 25 頁)が、各特殊法の研究発展は、その区別を. 曖昧にしているのではないかとの懸念もないではない(この点は、ジェンダー法や 環境法でも言えよう。憲法以外の基本七法でもそうである。いかに各法分野の学者にとって 好ましい政策でも、憲法違反のものは主張できない。憲法違反との批判への反論は、政策の よさの誇示ではなく、憲法違反でない旨の反論でしかない。著作権法と憲法の隙間を埋める. 。 貴重なものとして、大日方信春『著作権と憲法理論』 (信山社、2011)参照)  また、外国法研究は、外国法そのものに浸かるためではなく、そこから日本 法への示唆を得ることに核があるべきであろう(君塚正臣「大学における『比較憲法』 。著者の主張はドイツ法に引き の存在意義」関西大学法学論集 52 巻 2 号 1 頁(2002) ) ずられがち(近年憲法学界で頻発している)に思えるが、当該研究対象国法偏重に 陥ることには気を付けたい。著書が解説するように、そもそもドイツ情報法は EU 法の下位法令となる運命にあり、その根拠とするドイツ法も変成途上にあ るのではないか。加えて、過剰な哲学思考(以前から憲法学界に多い)がシンプル な問題を徒に混乱させることはなかったか、とも思える。  本書を通じて、現在の情報法学界の迷い道が丘の陰に見えた感がある。若き 著者が以上の錯誤に陥っている懸念、なきにしもあらずや。. [付記]本稿では、全て敬称は略させて載きました。. 142.

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