日本国憲法の判定と沖縄の関連性 : 引揚げ・復員問題を起点として
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(2) 横浜国際経済法学第 21 巻第 3 号(2013 年 3 月). いた日本側の憲法改正草案の一案は、1946 年 2 月 1 日付の毎日新聞のスクー プによって一般市民の知るところとなり、この報道によって占領軍は草案の詳 細を知る。その内容を見て、日本政府には大幅な改正を行うつもりはないと判 断した占領軍が独自の草案の起草に取り掛かったという事実関係である。二点 目は、占領軍が「沖縄を日本から切り離す」と通告した文書は、このスクープ の三日前、1 月 29 日に日本政府に送られていたことである。三点目は、憲法 改正と沖縄分離に関する政策決定においてイニシアチブをとったのは、占領軍 総司令部の民政局であったことである。 日本側の憲法改正草案と「沖縄を切り離す」とする占領軍の文書、毎日新聞 のスクープと占領軍の沖縄分離に関する文書は、時期的にも課題的にも重なり、 また政策としても密接な関わりがある。多くの先行研究において、日本国憲法 と沖縄問題を絡めて議論しているにもかかわらず、憲法制定と沖縄の分離がど のように関連しているかについては見落とされてきた 1)。そこで本稿では、こ の二つの問題について、すなわち憲法と沖縄問題の最初の接点となる「分離」 に焦点をあて、定説とされている議論を再検討しつつ、独自の仮説を提示する。 なお、憲法制定 2)と沖縄分離 3)というそれぞれの課題については別稿で論じ ているため、議論の重複を避けるため、本稿ではその接点に重点を置いていく。. 2..憲法制定と沖縄 日本占領史研究において、日本国憲法および憲法論争を取り上げる場合、民 主化と「国体護持」 、すなわち天皇制の問題に絡めて議論されることが多い。 たとえば、戦後処理としての天皇問題に焦点をあてた研究では、天皇制の存廃 に問題関心が集中してきた。一方、戦争放棄という問題を扱った研究では、不 戦条約と戦後の非軍事化という文脈の中で議論が展開されてきた。また戦後の 沖縄問題に焦点をあてた研究では、沖縄戦と米軍基地の問題との歴史的、そし て課題的な連続性を指摘している。天皇制と戦争放棄、沖縄という研究分野は、 この三つの問題の関連性をつねに念頭に置き、議論が展開してきたといえる。 324.
(3) 日本国憲法の制定と沖縄の関連性. 以下、戦争放棄と天皇制、沖縄の分離という三つの政策課題がどのようなか たちで関わり、この交差がどのように論じられてきたかについて概観する。. a.天皇制の維持と沖縄の分離 占領軍による憲法制定の必然性を強調する研究は、さまざまな課題を一直線 につなぎ合わせる傾向が強い。まず、憲法制定と象徴天皇制の存続という二つ の問題を結びつけ、その関連性を強調してきた。しかし、天皇制をめぐる議論 と沖縄の問題がどのような文脈で論じられてきたかについては、時代背景と照 らし合わせながら検討する必要がある。 本土復帰後間もない 1975 年、国際海洋博覧会の開催に際して、当時の明仁 皇太子が沖縄を訪問した。1987 年には、第 42 回国民体育大会の開催にあたり、 昭和天皇の沖縄訪問が予定されていた。しかし、現地では天皇の沖縄訪問に反 対する声が湧き上がり、メディアも注目する。昭和天皇の訪沖は、天皇制と沖 縄の戦後処理という二つの問題、その関係を浮かびあがらせる強力な要因と なったのである。 安仁屋政昭は、戦後の沖縄問題を明治初期の琉球処分に溯って論じている。 沖縄の分離を、琉球処分以降に展開していく内務官僚の支配、皇民化教育と軍 人徴兵制の適用、沖縄戦という流れの延長線上に置き、本土との長い確執の問 題のひとつとして位置づけている 4)。第二次世界大戦の際、沖縄の住民の忠誠 心に疑いを持つ皇軍が沖縄を「天皇制を守るための捨て石」としたにもかかわ らず、沖縄戦が終わるとともに、これを切り捨てる用意がすでにあったことを 強調している。 日本の支配層は沖縄戦をどういうふうに考えていたか、つまり沖縄に 米軍を迎えうって、打ち負かして日本の勝利に導こうということはほと んど考えてなかったということです。日本の敗戦はもはや決定的という 認織があって、敗戦よりもおそるべきは国体(天皇制支配機構)が解体 され革命が起ることであると、こういう認識を持っていました。天皇制 325.
(4) 横浜国際経済法学第 21 巻第 3 号(2013 年 3 月). 体を維持するために連合国と交渉して、時間を稼ぐと、特に日本人とい うのは天皇のためであれば皆殺しになってでも闘うという、はっきりいっ て沖縄県民は死んでみせなければいけなかったわけです。三二軍も玉砕を して見せる。ウチナーンチュも皆殺しになって見せるわけです。そういう ふうに米軍に提供する。本土決戦を引き延ばす時聞かせぎの戦闘という 言い方は間違いであると思います。あくまでも天皇制維持の終戦交渉を するための時間かせぎ、国体護持のための時間かせぎというふうにキチッ と押さえなければいけないと思います 5)。 安仁屋によれば、沖縄戦は「国体護持」の手段であり、戦闘が始まる以前か ら沖縄はすでに「捨て石」とされていたのである。 また新崎盛暉は、 「国体護持」の論理の戦時から戦後への連続を強調し、沖縄 が日本本土とは異なる占領下に組み込まれることにより、天皇制は維持された と指摘する。 ポツダム宣言を受諾して国家体制を民主化するという条件の下に戦争 をやめたにも拘らず、日本政府は積極的に日本の国内の体制を民主化す るのではなくて、できるだけ旧体制を維持するという姿勢を堅持します 6)。 それでは当事者である沖縄の住民は、どのように憲法改正における天皇制の 論議に接し、また何を感じたのか、ある住民の声に耳を傾けてみたい。知念字 の米軍療養所で働いていた仲吉良光は次のように回想している。 いつの日だったか『ライフ』という雑誌をあけて見ると、ふと、日本 の天皇に関する記事が目にとまる。日本にいたある宣教師がトルーマン 大統領に、天皇制廃止を献策したが入れられそうでない。今上陛下は戦 犯であるいは退位を余儀なくされるはずだが、皇太子があとを継ぎ即位 されるはずで結局天皇制は維持されるという意味のものだ。なんだか身 内がほのぼのと勇気のわき出るのを覚えた。それから、なるべく新聞に 親しむよう努力した 7)。 沖縄の住民からしてみれば、天皇制を維持するための「担保」として、沖縄 326.
(5) 日本国憲法の制定と沖縄の関連性. が本土から「切り離された」のであり、天皇を守るために犠牲を被ったという 感が強い。 しかし、沖縄の分離で戦後処理に終止符が打たれたわけではなかったのであ る。進藤榮一の研究によれば、1947 年 9 月、時の外相芦田均は講和条約の中 に沖縄の領土返還を盛り込もうとしていた。また 9 月 19 日、宮内省御用掛の 寺崎英成がシーボルト政治顧問に次のように伝えたことを明らかにしている。 天皇は、アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けること を希望している。天皇の意見によるとその占領は、アメリカの利益になる し、日本を守ることにもなる。 (中略)アメリカによる沖縄(と要請があ り次第他の諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の ― 二十五年から五十年ないしそれ以上の ― 貸与をするという擬制の上に なされるべきである。天皇によればこの占領方式は、アメリカが琉球列 島に恒久的意図を持たないことを日本国民に納得させることになるだろ うし、それによって他の諸国、特にソヴェト・ロシアと中国が同様の権 利を要求するのを差止めることになるだろう 8)。 沖縄と天皇の問題に焦点を当てたこれらの研究は、沖縄戦と戦後処理、憲法 制定から天皇メッセージまでの一連の出来事を一直線に結びつけ、単線的な議 論を展開してきたといえる。これらの議論は、法律と領土、国民の対等なかた ちでの取引という前提に立つものであるが、むしろひとつひとつに不随する要 因にも目を向ける必要がある。以下、沖縄の分離と「国体護持」の関係を捉え る上で、憲法九条と沖縄の基地問題に言及している議論に検討を加えていく。. b.憲法改正と沖縄の分離 日本国憲法の戦争放棄条項に対して、沖縄からの注目が集まる契機となった のが 1968 年の米軍 B52 ベトナム爆撃機の常駐と、その翌年の非核三原則をめ ぐる国会答弁だった。安保体制と平和憲法の蜜月を迎えていた日本本土に、核 兵器が配備されていた沖縄が復帰することとなるため、 「日本本土の沖縄化」 327.
(6) 横浜国際経済法学第 21 巻第 3 号(2013 年 3 月). が警戒されたのである。そのため平和憲法である日本国憲法第九条の解釈が注 目された。 元沖縄県知事の大田昌秀は、平和憲法への強い願望こそが沖縄の復帰願望で あるとしている。大田は沖縄の復帰願望を「沖縄のこころ」と名付け、①戦争 に反対し平和を守ること、②人権(人間)回復をはかること、そして③自治を 確立することの三つをその願いに込めた。言うまでもなく、大田も含めた沖縄 住民の平和への希求を強いものとしたのは、沖縄戦における犠牲と戦後に強い られた米軍基地の存在である。大田は、平和憲法に託す思いを、真境名安興の 言葉を借り「兵備なきこと、じつに琉球外交の要諦にて後年にいたるまでこの 主義を一貫せり」と表現している 9)。 さらに大田の著書『沖縄差別と平和憲法』では、憲法制定と沖縄分離の過程 を次のように関連づけている。 戦後、アメリカ政府が沖縄を日本から分離して自らの直接軍政下に置 いたのも、一つには、沖縄が日本のアジア侵略の重要な足場になったと の彼らなりの認識からであった。言うまでもなくアメリカの対日戦後政 策の基本的目的は、日本の恒久的非武装化、非軍事化にあった。それらの 目的を達成する手段として、憲法を改正したり、財閥を解体したり、政治、 教育の民主化を推進するなどしたわけである。 ところが日本本土を非軍事化し、 「民主改革」を推進するためのいわば 担保として逆に沖縄は日本から切り離されて基地化されたのだ。すなわち 沖縄は、日本の恒久的非武装化を担保するための基地として、さらには将 来にわたって日本の再軍備を抑制する監視基地(米軍の四軍調整官スタッ クポール中将が「ビンの蓋」と表現)として利用されたわけである。10) さらに同書の一節では、 「沖縄、日本から分離される」と題し、沖縄の分離 に至る経緯について、占領、天皇制の存続と軍備の放棄の関連、天皇の「人間 宣言」と憲法九条の成立という時代的な流れに沿って論じている。またこの中 で、 「大平メモ」を引用し、マッカーサー・幣原会談の内容にも言及している。 328.
(7) 日本国憲法の制定と沖縄の関連性. ここでは、沖縄の分離から平和憲法の制定までの一連の出来事を時系列に並べ ている。太田の説明は、いつ誰によって、いかにして第九条の起草に至り、ま たこの平和憲法の制定過程が天皇制の存続とどのように関わっていたかという ことに重点が置かれており、従来の平和憲法論を踏襲するものである。同書に おいても、沖縄の分離と平和憲法の制定が同時代の文脈では論じられておらず、 沖縄と憲法の問題のそもそもの接点については明らかにされていない。 沖縄の分離と憲法改正の関連について、大田昌秀は沖縄問題を起点として憲 法を分析しているが、逆方向から分析したのが古関彰一の研究である。すなわ ち憲法の問題を出発点として、沖縄問題にアプローチしたのである。古関は、 憲法制定および日米安保条約成立を研究対象とし、戦後日本史における憲法と 安全保障の間の微妙なバランスにおける沖縄の位置づけを強調してきた。 古関はその著書『新憲法の誕生』の中で、マッカーサー司令部の憲法草案で 最も特徴的なことは戦争放棄条項であるとし、この戦争放棄条項の改正の経緯 を詳細にたどっている。戦争放棄は当初、マッカーサー・ノートによって民政 局に伝達され、民政局内では秘密裏の憲法制定会議が設置され、各委員会は割 り当てられた分野の条文を検討し、条文の最終案は運営委員会でまとめられた。 戦争放棄条項は当初、憲法前文の一部としてハッシー中佐一人が担当したが、 マッカーサーの指示でこれが第一条に移動した。さらに第二章の天皇条項と入 れ替わり、第二章の第八条となり、最終的に第九条となった経緯から、古関は 天皇制存続と戦争放棄条項の結びつきが強かったと結論づけている。 さらに、古関が付した第九条の解説によれば、第九条は不戦条約(1928 年 にパリで締結された戦争抛棄に関する条約)の第一条の条文に類似したもので あった。また古関は、高野雄一の解釈にも依拠しながら、司令部の起草者は国 連憲章も念頭に置いていたとしている。さらに、司令部が念頭においていたも うひとつの問題はフィリピンの植民地憲法であると指摘している。この文脈の 中で、第九条と沖縄問題のつながりにも言及している。すなわち古関は、 「日 本の場合、沖縄がすでに米軍の統治下にあり、後述のようにマッカーサーは沖 329.
(8) 横浜国際経済法学第 21 巻第 3 号(2013 年 3 月). 縄の要塞化を前提に本土の非武装化を考えた」とし、芦田修正に際してのマッ カーサーの言葉を引用し、 「沖縄の要塞化」について言及している 11)。 このような判断の裏側には確固とした軍事戦略があったのである。アメ リカは本土と沖縄を一体化させて考えている。つまり沖縄を軍事的に空軍 作戦可能な要塞としておけば、 「日本本土に軍隊を維持することなく、外 部の侵略に対し日本の安全を確保することができる」と考えていたので ある。したがってマッカーサーは朝鮮戦争が勃発して、自己の軍事的判 断が間違っていたことに気付くまで日本の再軍備には本国の要請にもか かわらず反対をし続けるのである 12)。 この議論の背景には、1980 年代後半から 1990 年代にかけて顕著となった、 いわゆる憲法の「押しつけ」を強調する世論がある。同書では、 この「押しつけ」 の解釈の起源を、憲法問題調査委員長松本烝治が「天皇の安泰」という言葉を 誤って解釈したことに求めており、GHQ 案手交はまさに「第二の敗戦」であっ たとする。松本の誤解さえなければ、日本の現行憲法は全く異なる形をとって いたかもしれず、また「押しつけ」を強調する議論も生まれなかったかもしれ ないのである。 他方、古関はこの「押しつけ」の本質を、沖縄の基地と日本の安全保障を分 離したうえで両方を一体として扱うというマッカーサーの戦略に見出してい る。 憲法九条は、単なる日本弱体化政策でも理想の実現でもない。そして日 本に戦争を放棄させ、軍備を持たせないことを米国政府が決定したこと は一度もない。憲法九条は連合国最高司令官マッカーサーの独自の判断 であった。 (中略) マッカーサーは、 天皇の地位を象徴として残すためには、 憲法九条が必要であり、日本本土を非武装化しても沖縄に基地を確保す れば本土の防衛は可能であると判断したのである 13)。 古関は、少なくとも戦後 10 年間、日本本土においては沖縄の問題を等閑視 したかたちで平和憲法を評価し、その後も平和憲法が沖縄の犠牲の上にあると 330.
(9) 日本国憲法の制定と沖縄の関連性. いう認識は育たなかったと批判している。また古関は、新崎の主張にも依拠し つつ、平和憲法の下では、沖縄の日本復帰は実現できそうになかったと結論づ けている 14)。さらに、憲法の議論を突き詰める中で、基地と戦争放棄の関連 について、マッカーサーの肉声から人物像を描きつつ、次のように述べている。 憲法で国家の非武装を定めることは、国家主権の重大な制限を意味す ることはいうまでもありません。国家主権を守る最たる手段は、武力の 行使です。生粋の軍人・マッカーサーがそんなことを知らないはずは ありません。たしかにマッカーサーは、戦争放棄と軍備不保持を定めた GHQ 案に懐疑の念を抱いていた幣原に対して、 「followers が無くても日 本は失う処はない。之を支持しないのは、しない者が悪いのである」と 高い理想に生きるようにと叱咤激励したことは事実でしょう。マッカー サーらしい、日本人に教え諭すような、 『青い眼の大君」の姿が浮かび上 がってきます 15)。 古関はマッカーサーの「平和観」に対して、米国の日本国憲法の研究者であ るセオドア・マクネリ-とともに批判的な立場をとってきた。 我部政明は、米国の海外基地保有の構想に基づき、沖縄基地と憲法改正の因 果関係を強調している。いまだ不明瞭な部分が多いのは、憲法制定の時点にお いて、マッカーサーが描いていた青写真である。というのも、古関を第一人者 とする憲法制定史に関する研究から、マッカーサーがなぜ日本の戦争放棄にそ こまで固執していたのか、その理由が浮かび上がってこないからである。終戦 から半年経った時点で、日本は非軍事化しており、軍隊も解体されていたこと を考慮すれば、日本という国自体はさしたる脅威にはならなかったはずである。 数十年先を見越したとしても、適切な対処法が占領軍による憲法改正であった とは考えにくい。 大田と古関が指摘するように、結果的には、沖縄は米国の戦略に大きな役割 を果たし、また平和憲法の制定は米国の目的に適うものであったといえる。し かし事後解釈ではなく、戦後まもない 1946 年当時において、沖縄の分離と憲 331.
(10) 横浜国際経済法学第 21 巻第 3 号(2013 年 3 月). 法という二つの問題がどのように交差していたのかという疑問は残る。次節で は、時代を溯り、同時代の文脈に照らし合わせた上でこの二つの問題を掘り下 げていく。. 3.沖縄分離と憲法改正の再検討 沖縄の分離は、米国の基本的戦後戦略に関わる政策のひとつである。一方の 日本国憲法は、恒久平和という高い理想を追求したものといわれてきた。沖縄 の戦後処理がもっぱらその軍事的な側面にのみ注目が集まりがちであるのに対 して、日本国憲法の制定は、平和の実現に向けたものとして評価されてきた。 この沖縄の分離と平和憲法という二つの問題は、そもそも基本的な戦後戦略と 方向性が異なるものとして、切り離された形で議論が展開されることが多かっ た。 そのような中で、沖縄の戦後処理と憲法起草という二つの論題を関連づけて 論じたのが前述の大田及び古関の研究である。これらの先行研究に対して、本 節では対照的なアプローチをとる。すなわち沖縄分離を、軍政ではなく民政と いう側面から論じ、一方憲法起草についてその軍事的な側面から検討していく。 結論を先取りすれば、いずれも引揚げ・復員に関する政策と密接に関わってお り、この引揚げ・復員の問題との関連性を示すためである。. a.沖縄分離と総選挙 沖縄の分離について、その原因を民政的な側面から論じた研究が竹前榮治お よび天川晃によるものである。両者による研究から、 「沖縄を切り離す」とい う政策は米国の戦略的判断に基づいたものではなく、民政局から発せられた命 令であったことが明らかとなった。両者は、その命令は来るべき日本の総選挙 の実施を目論んだものであったことを指摘している。つまり、離島を含めた統 一的な選挙の実施は難しいと踏み、選挙を円滑に行なうために「沖縄を切り離 332.
(11) 日本国憲法の制定と沖縄の関連性. す」ことを決めたとする。両者の議論に即せば、沖縄の分離はマッカーサー司 令部の独断で決められたことになる。 日本国憲法の起草に至る過程と似ているように、マッカーサー司令部は、沖 縄の分離に伴う領土の変更に関する決定をすべて東京で行い、陸軍上層部に相 談を持ちかけることすらしなかった。軍隊というヒエラルヒー型の上意下達組 織において、なぜワシントンの意向を仰がずにこのような重要な決定を行うこ とができたのか、この疑問に答えるためには日本で行われる予定であった総選 挙の動向に目を向ける必要がある。民政局は、すでに予定されていた選挙を行 なうにあたり、日本周辺にある諸小島を含めての実施には困難が伴い、混乱を 招くことを見越していた。それゆえ、この離島の領域を日本本土と区別し、朝 鮮半島、台湾および太平洋諸島など旧植民地の領域と同様に扱うものとした。 ここで区別した領域を画定し、日本から行政的に分離したのである。行政的な 分離とは、日本政府の管轄圏から外れるということになる。 さらに特筆すべきは、日本政府から民政局に対して、沖縄を本土から切り離 すよう促す発言があったことである。戦前より沖縄選出の議員として活躍して いた漢那憲和が主張するように、日本政府は分離の結果、改正選挙法における 沖縄の議席数を減らし、選挙を実施しないことを定め、さらに翌 47 年には選 挙法の別表から沖縄の名を削除した 16)。総選挙の実施という事務作業を理由 にして、日本政府も「沖縄を切り捨てる」ことに同意したのである。. b.武装放棄 日本国憲法の制定について、その軍事的な側面はどのように解釈できるであ ろうか。この側面に焦点をあてた議論として、秦郁彦の天皇戦犯裁判に伴う反 動革命予防論、成田憲彦の食料危機暴動対処論、そして笹川隆太郎と佐々木高 雄のマッカーサー・ノート論争という三つを取り上げる。 まず秦の反動革命予防論であるが、ここでは天皇制存続を理由づけた次のマッ カーサーの判断が重要視されている。 333.
(12) 横浜国際経済法学第 21 巻第 3 号(2013 年 3 月). しかし、マッカーサーが連合国最高司令官としての最終判断を本国政府 に伝えたのは一九四六年一月二十五日であった。 (中略)まず天皇を戦犯 に指名するだけの証拠は発見されなかった、と述べたのち、マッカーサー は、そういう事態になった場合に予想される反響を次々に並べたてた。 計り知れないほどの動揺と混乱を確実に招き、日本は分解するだろう …日本人は、連合国がポツダム宣言の約束を裏切ったと感じて、永久と は言わないまでも、数世紀にわたって完結することのない相互復讐の連 鎖反応が始まり…ゲリラ戦で抵抗し…すべての民主化への望みは消減し、 日本は共産化するだろう」 。彼はそれでも不安を捨て切れなかったのか、 天皇を戦犯とする場合には、少くとも(ママ)百万の占領軍と数十万の民 政要員を準備することが不可欠となる」と半ば脅迫的な言辞でしめくくっ ていた。 (中略) 天皇の戦犯問題は、 こうして霧散してしまったのであるが、 マッカーサーが電報を打った一月二十五日は、幣原との会談の翌日に当っ ている。マッカーサーは何も触れていないが、前日の会談が電報に無関係 だとは思われない。 (中略)もし幣原が初めからギブ・アンド・テイクを 意識して、持ち出したのだとすれば、マッカーサーにはさらに好都合だっ たろう。なぜなら、マッカーサーは天皇を戦犯に追いやる事態となれば、 平穏な占領はたちまち破れ、翌日からはてしないゲリラ的抵抗の渦に巻 きこまれるであろうと信じていたからである 17)。 秦が強調するのは、天皇制と戦争放棄のバーター取引ではなく、ここでいう 「相互復讐の連鎖反応」であり、天皇を戦犯とすれば、いずれゲリラ戦の展開 につながりかねないとしたマッカーサーの警戒心である。多くの研究では、 マッ カーサーのこの発言を彼特有の大げさかつ激越な表現としてさしたる言及がな されることはなかったが、秦はあえてこの発言に注目している。 マッカーサーが主張する暴動の予防ではなく、実際に暴動が起きた場合、ど のように対処すべきか、占領軍が議論していた対処法に注目したのが成田の議 論である。占領軍は、暴動が予防できない状況を想定し、具体的な対処策を 334.
(13) 日本国憲法の制定と沖縄の関連性. 練っていた。成田は、占領軍は暴動のなかでも食糧危機によるものと予想して おり、この暴動の対処策を「もう一つの憲法改正手続」と位置づけている。成 田によれば、占領軍は、占領の開始当初から憲法の改正に積極的であり、紆余 曲折を経ながらも司令部は初志を貫徹させようとしたのである。日本国憲法が 米国から「押し付けられた」ものであるかどうかという議論はさておくとして も、 「マッカーサー自身が作成した、マッカーサー憲法」であることは否めな いとしている 18)。 占領軍は、かねてより様々なリスクを想定して、治安維持には細心の注意を 払っていたが、もっとも警戒していたのは、非軍事化や民主化の具体策の実施 に際してである。民主化の具体策は「日本の統治制度の改革」と称された。そ の基本方針がワシントンからマッカーサーに伝えられたのは、1945 年 12 月 18 日と 1946 年 1 月 11 日であった。ここでの方針では、総司令部が日本政府に憲 法改正を直接命令すべきでないことを強調していたが、日本政府の憲法改正で は統治機構の民主化の基準が示されており、司令部にはこの方針の実施が求め られていた。さらに、 この方針に関する統合参謀本部の意見では、 占領軍が「日 本の統治制度の改革」を実施する際、内乱の発生も考慮に入れるようにと注意 を喚起している。この方針に従うかたちで、マッカーサーの司令部ではモデル 憲法作業への準備が始まったと成田は指摘している。さらに成田は、安全保障 上の対応策を検討するにあたり、ある作戦計画の存在に注目している。 民政局が極秘にマッカーサー(憲法)草案を起草して日本政府に突き つけて受け入れさせる、という現実に用いられた手続以外に、じつはマッ カーサー自身の指示により GHQ 内でもうひとつの憲法改正の手続が検討 されていた。 (省略) (これは)モデル草案を起草するようなことは考えず、 憲法改正の強制で暴動が起きたときにはどうするか、といった観点から 研究が進められた。そして作成されたのが、必要に応じて第八軍による 直接軍政を布くという対応策を含むミノウ作戦計画である 19)。 ミノウとは、英語でハヤやウグイなどのコイ科の小魚、あるいは一般的な小 335.
(14) 横浜国際経済法学第 21 巻第 3 号(2013 年 3 月). 魚を意味する。成田によれば、 「日本の統治制度の改革」方針への統合参謀本 部や陸軍省からの意見はマッカーサーに有利に働き、幅広い対応策をマッカー サーに許容することになった。このような権限を得て、民政局がモデル憲法を 起草するに至ったという。 しかしながら、統合参謀本部の意見とマッカーサーのミノウ作戦は一致しな い側面もある。確かに、統合参謀本部は改革の強制に伴う不穏状態までも想定 し、最終的には武力行使の可能性を示唆していた。しかし、成田も指摘するよ うに、ミノウ作戦計画の原文に憲法改正問題との直接のつながりを示す文言は 盛り込まれていない。作戦の内容をみても、食料不足や失業などによる暴動の 発生、日本の住民あるいは政府主体の暴動、あるいは逆に不満分子による政府 の武力転覆の試みが生じた場合の対応策を検討しているにすぎず、憲法の改 正に言及しているわけではなかった 20)。成田によれば、この作戦の前提には、 天皇の地位の大幅な変更を含む憲法の改正の強制を不可避と考えたマッカー サーの判断があった。 三つ目の議論は、占領軍の憲法改正を直接示唆したマッカーサー・ノートに 関するものである。日本国憲法制定史では、マッカーサー・ノートについても 多く言及されてきたが、このノートが記された背景については不明瞭な部分も 多い。最近の研究では、マッカーサー・ノートには 2 種類のノートがあった事 実が明らかにされており、笹川隆太郎および佐々木高雄はこれらのノートにお ける軍事条項に注目している。両者の研究では、この二種類のマッカーサー・ ノートに対照的な解説が付されている。まず、もっともよく知られている確定 版のマッカーサー・ノートの関連項目を見ていく。第二項には、 「国家の主権 的権利としての戦争は廃止される。日本は紛争解決の手段としても、さらに自 己安全の手段としてもこれを放棄する。日本は、その防衛と保護を、いまや世 界を沸き立たせている高貴な理念に委ねる。陸軍・海軍・空軍が日本に認めら れるとは決してなく、交戦状態の諸権利が日本の実力組織に与えられるとも決 してない」と記されている 21)。 336.
(15) 日本国憲法の制定と沖縄の関連性. 佐々木によれば、以上の条項に目新しい表現はなく、すでに出来上がって いた武装解除政策を条文化したものにすぎないものである 22)。一方の笹川は、 最終版のノートよりもその原本となる会議要録を重要視し、 「交戦状態の諸権 利」という概念の国際法上の根拠を論じている 23)。両者の議論はマッカーサー・ ノートの原点およびその解釈について対照的な解釈を提示したものであるが、 共通する認識の上に成り立っている。その認識とは、 「紛争解決の手段として も、さらに自己安全の手段」という文言の解釈に関するものであるが、いずれ の議論も「放棄されるべき戦争」は二種類あるとし、ひとつは侵略戦争、いま ひとつは自衛戦争としている。これらは軍事条項に示された本来の解釈に基 づくものである。しかし職業軍人であるマッカーサーは「防衛」defense とい う明確な表現を同文で用いながらも、防衛的戦争という固有名詞をあえて曖 昧なままとしている。いかなる戦闘が「自己安全の保持」preserving its own security を目的とするものか、解釈の余地を残す結果となった。 成田の依拠している資料と秦の議論の土台となる資料は異なり、解釈も対照 的である。成田の解釈は、 秦の予防論とはかけ離れた、 いわば武力処置論であり、 具体的には食糧暴動を想定している。秦は、占領軍がなぜ新憲法の公布を望み、 制限した天皇制を存続させようとしたのか、その理由の説明に重点を置いてい るのに対して、成田は、司令部は新憲法で天皇制を制限した際に引き起こされ る暴動が起こる事態を想定し、軍政府を強いてこれを鎮圧する用意があったこ とを明らかにしている。両者の議論は異なるが、いずれも天皇制の制限に伴い、 司令部がさまざまな事態を想定し、予防線を張っていたかがわかる。両者の研 究は、憲法制定過程を「軍事的」な側面からみようとするものであるが、いず れも天皇制の制限という「民政的」な要因にその結論を見出している。そもそ も、両者の研究は武力鎮圧に言及する部分は少なく、占領軍が 1945 年末に直 面した安全保障上の懸念にも深く言及していない。マッカーサー・ノートに関 する従来の研究は、ミノウ作戦計画やマッカーサー電報の存在に言及している ものの、これらをもっぱら天皇制の存続という問題に絡めて論じており、治安 337.
(16) 横浜国際経済法学第 21 巻第 3 号(2013 年 3 月). 上の問題をさほど重要視していない 24)。 本節では沖縄の分離の「民政的」な要因と憲法制定の源流となった「軍事的」 な要因について考察したが、この二つがどのように影響し合っていたか、その 関連性について未だ不明瞭な部分が多い。次節では、憲法制定過程を再検討す るにあたり、沖縄の問題との関連性を浮かび上がらせ、沖縄の「民政的」な戦 後史と、日本の「軍事的な」戦後史の接点を捉えていく。. 4.引揚げ・復員問題 a.占領軍の治安上の懸念 秦及び成田の議論の起点には軍事問題があり、そこから憲法と天皇制を論じ ている。議論の枠組みとして十分に成立するものではあるが、この中で占領軍 が抱いていた安全保障上の懸念を理解することは難しい。以下、両者の依拠し ている資料を再検討した上で、仮説を提示する。 まず、成田が取り上げているミノウ作戦計画であるが、このミノウ作戦計画 は内乱などの有事に備え、占領軍の安全および日本政府による治安維持を目的 として策定されている。この作戦は、1945 年 12 月 15 日にマッカーサーの口 頭指令により着手されたものである。ここで想定される主要な脅威は、成田が 取り上げている食糧危機ではなかった。最優先すべき予防線は、引揚げに関す るものであった。この作戦では、暴動の引き金となりうる四つの要因を挙げて いる。第一の要因として、日本に住む朝鮮、台湾、中国などの住民の存在が挙 げられており、彼らが旧体制に不満を抱いていたことにも言及している。第二 は、外地から引揚げてきた陸海軍の復員兵および戦争に協力した引揚者であり、 彼らが若年層の人口の多くを占めていた。第三に、食料不足、インフレ、失業 および経済的な困窮という問題が挙げられている。時代や地域を問わず、国民 生活の逼迫は、暴動や内乱につながりやすいからである。なかでも、生活が著 しく困窮していたのは引揚者であった。このことから占領軍は、引揚げの動向 338.
(17) 日本国憲法の制定と沖縄の関連性. には特に注意を払っていた。最後の要因は、戦時中に虐待を受けた外国人、天 皇崇拝の姿勢を崩さない右翼団体や宗教団体である 25)。 ここに列挙された存在や問題はいずれも暴動の引き金になり得るものではあ るが、集団としてもっとも規模が大きく、大きな脅威と考えられていたのが引 揚者、復員兵そして送還者の集団であった。彼らは失業、食糧と物資不足の煽 りを受け、生活が困窮しており、このような生活環境の悪化に拍車をかけられ、 天皇制の改革にも批判勢力となる可能性が高かった。引揚者の中でも、実際に 戦闘経験のある若者は特に危険な集団と見られていた。というのも終戦直後に 除隊した内地の復員兵は復員当局の配慮により、一定程度の生活が保障される こととなったが 26)、外地からの引揚兵は、この制度の恩恵を受けることがで きなかったのである。さらに占領軍が恐れていたのは、ひとつの暴動が他の地 域にも伝播し、全国的な規模で拡大していくことであった。このような暴動の 場合、反乱分子を検出するのが難しく、軍事的な制裁も有効ではないため、暴 動が広域に伝播することになれば、緊急事態宣言を発動せざるを得なかった。 さらに占領軍を軍事的な行動に適した形態に再編し、沖縄のような直接軍政を 敷くことが計画されていたのである。これが成田のいうところの「幻の憲法改 正の手続き」である。しかしこの計画は、憲法改正を想定したものというより、 引揚げに随伴する混乱にどのように対処するか、引揚げのいわば事後策であっ たと結論づけることができる。 この治安維持に関する計画ならびに作戦は、もともと米軍が日本に上陸した 時点で策定されていたオリンピック軍事作戦の一環であった 27)。オリンピッ ク作戦では、占領された地域の治安維持は軍政府および憲兵の任務であったが、 日本は米軍が上陸する前にポツダム宣言を受諾したことにより、終戦が早めら れ、米軍の治安維持体制は日本政府の既存組織に頼るようになった。これは占 領軍の内部規定にも反映されており、その一例は催涙ガスの使用決定である。 占領の開始当初、占領軍は日本政府の協力を仰ぎ、催涙ガスの使用を厳しく禁 じた。しかし 1945 年末になると、復員により占領軍の規模が縮小され、第六 339.
(18) 横浜国際経済法学第 21 巻第 3 号(2013 年 3 月). 軍も停止されて引揚げた。時を同じくして「松山事件」が起こり、住民と占領 軍が直接衝突し、住民から死傷者を出す結果となった 28)。本来であれば、日 本の警察が対処すべき事態であったが、それができなかったために、占領軍は 治安維持のための発砲、住民との衝突に際しての犠牲者を抑えるため、催涙ガ スの使用を許可するようになった 29)。この催涙ガスの使用を許可する命令は 1945 年 12 月 28 日に出され、ミノウ作戦計画を進める重要な契機となったの である。 秦は、天皇制をめぐる戦後処理への問題関心からマッカーサー電報に注目し ている。秦が注目しているのは、もっぱら天皇の裁判に関連する事項であった。 マッカーサーは、天皇が裁かれるようなことになれば、全国で暴動が起こり、 ゲリラ戦につながりかねないという懸念を抱いたことを強調している。確かに マッカーサーは、天皇制をめぐる議論の行方、天皇問題の戦後処理を憂慮して いた。しかし実際は天皇の問題のみならず、その他の懸念材料、とくに復員兵 による反乱が起こる事態にもそなえていた。秦が参照しているマッカーサーの 電報は、1946 年 1 月 25 日付けでワシントンに打電されたものである。電文自 体は、マッカーサー自身が 1 月 24 日の幣原会談の翌日に書いたものとされる。 電報は秘密指定で、陸海軍の各首脳に宛てられており、三頁にわたるものであ る。たしかに、この電報の主題は天皇の戦争責任に関する弁論である。第一段 落では、開戦に際しての天皇の消極的な態度を述べ、次段落では国民の統合の 象徴としての天皇の役割を強調し、天皇制を廃止するならば日本は瓦解し、相 互復讐が始まると念を押している。翻って、第三段落の論調はやや異なるもの である。ここでは天皇については一切触れておらず、以下に引用するように、 もっぱら作戦行動について弁明している。 私見によれば、その措置に対しては、日本全体が消極的ないし半ば積極 的な手段によって抵抗するものと予想される。彼らは武装解除されてお り、したがって、訓練を積み、十分に装備された軍隊にとっては何ら特別 の脅威とはならない。しかし、すべての統治機構の機能が停止し、民主主 340.
(19) 日本国憲法の制定と沖縄の関連性. 義を根づかせた制度の基盤が崩れ、そして、地下運動による混乱、無秩 序状態が山岳地域や辺地でのゲリラ戦に発展していくことも考えられな くもない。思うに、そうなれば、近代的な民主主義方式を導入する望み はすべて消え、最終的に軍事支配が終わったとき、自由を奪われた大衆は、 おそらく共産主義的路線に沿った何らかの形の厳しい統制を志向するよ うになるであろう。このような事態は、現在抱えている問題とはまった く異なる占領上の問題を生むことを意味し、占領軍の大幅増強が絶対不 可欠となるであろう。最小限にみても、 おそらく百万の軍隊が必要となり、 無期限にこれを維持しなければならないであろう。それのみならず、全部 門の行政官を補充し、呼び寄せなければならないかもしれず、その規模 は、おそらく数十万に達するであろう。また、そのような状態のもとでは、 何百万もの民間貧窮人口を抱えつつ、事実上、戦時方式による対外物資 補給体制を確立しなければならないであろう。ここで論ずるつもりはな いが、そのほか数多くのきわめて厳しい結果を予想しておくべきであり、 連合国は、新たな偶発事態に対処するための諸方針にもとづいて、完全 な計画をあらためて慎重に用意すべきであろう。占領軍を構成する諸国 軍隊についても、きわめて慎重な検討が不可欠である。人的資源、経済力、 さらにはそれらの結果として生じるその他の責任という、恐るべき重荷 を米国が一方的に負担するよう求められる筋合いはないことは確かであ る 30)。 ここでキーワードとなる文言や表現は、ミノウ作戦計画の中に盛り込まれて いるものと酷似している。 「消極的」な手段はミノウ作戦計画ではストライキ、 デモ、 政治情勢の激変、 扇動よる群衆の暴徒化、 混乱を伴う暴挙を意味していた。 また「半ば積極的」な手段は、ミノウ作戦計画のでは小規模集団ないし個人が 非武装あるいは部分的軽武装の形で戦闘的騒乱に関与し、彼らの当初の活動が サボタージュ、狙撃戦、暴徒活動、あるいは小規模な組織的攻撃であるものに 限ると想定されていた。日本の「統治機構の機能が停止」する危険性は、ミノ 341.
(20) 横浜国際経済法学第 21 巻第 3 号(2013 年 3 月). ウ作戦計画では「中規模非常事態」および「大規模非常事態」で想定され、第 八軍による直接軍政は規模に応じて導入されることとなっていた。米国本土か ら新たに多くの「全部門の行政官を補充」する検討も、大規模な「占領軍の再 編」を伴う増強も、特に大規模の非常事態において検討されていた。さらに具 体的な戦略行動として、東京・北九州・大阪・千歳が最終的退却領域に指定さ れ、占領軍の絶対的防衛の拠点として重要視された。なぜなら、これらの領域 における港湾や空港が「戦時方式による対外物資補給体制」の拠点と指定され ていたからである。総括すれば、日本における大規模な非常事態は戦時戦後の 沖縄の現実であり、その縮図がここに示されていたと結論づけてよいであろう。 GHQ 版の憲法草案に向けて 2 月 4 日に民政局の草案チームに発表された マッカーサー・ノートであるが、前節で言及した佐々木・笹川論争では指摘 されなかった重要な論点がある。このノートにおいて、なぜ職業軍人である マッカーサーは「防衛」defense と い う 明確 な 表現 を 用 い な が ら、防衛戦争 という固有概念をあえて曖昧なものとし、 「自己安全の保持」 (preserving its own security)と表現したかという点である。ここでは、従来の侵略戦争か 自衛戦争かという二項対立のパラダイムにとらわれず、マッカーサーの意図 を読み解いていく必要がある。いま一度、該当箇所の文言を挙げると、 「日本 は紛争解決の手段としても、さらに自己安全の手段としてもこれを放棄する。 (Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security. 下線筆者)と あ る。 「自己安全 の 保持」と い う 表 現は防衛だけではなく、国内治安をも意味するとも読み取れる。占領当初、占 領軍は日本政府を通じて統治を展開することになり、日本警察を非武装化する 意図はなかった。しかし、引揚げてきた復員軍人が組織化して暴徒化した場合、 警察だけでは対処できない事態となることを想定し、また警察は中立性を保て るかどうかも疑問視されたために、暴動の鎮圧に際しては占領軍が直接出動す ることになっていたのである。さらに犠牲者の数を抑えるために、催涙ガスの 使用すら許可していた。 342.
(21) 日本国憲法の制定と沖縄の関連性. マッカーサー・ノートに記されている「自己安全の手段」とは、ミノウ作戦計 画で想定されていた抵抗する武装組織だったのではないだろうか 31)。いずれ にしても、憲法草案作業の中ではこの条文はケーディスおよびホウィットニー により早々に削除されたことで、日本国憲法の草案では実現することはなかっ た 32)。初期のマッカーサー・ノートにこの文言が現れること自体、これらの 懸念は民政局に共有されていたものというよりも、治安を担当する作戦当局に 意識されていた問題であったといえる。 ちなみに、復員兵による暴動はマッカーサーの記憶に新しかった。1932 年 当時、マッカーサーは米陸軍参謀長という職位にあり、 「ボーナス・マーチ」 と呼ばれた世界大戦の米復員兵による暴動が起こり、その鎮圧にあたったので ある。ワシントンの郊外アナコスティア側沿岸に失業した大戦の退役軍人・現 役の軍人 4 万 3 千人が集まり、ボーナスの早期支払いを求めて行進した。マッ カーサーは、このような復員兵の行動は治安を乱すばかりか、共産党の受け皿 にもなるとして、強硬手段を用いて鎮圧にあたり、その際仮宿のすべてを焼き 払うことを命じた。このボーナス・マーチ事件の教訓として、暴動が拡大する 前に未然に防ぎ、また犠牲者を最小限に抑える具体的な策も念頭に置いていた のである 33)。暴動の鎮圧にあたり、催涙ガスを使用するというのも、この事 件で得た教訓であった 34)。. b.治安問題解消への始動 上記の電報とミノウ作戦計画、そしてマッカーサー・ノートの三つの文書か ら、新憲法の制定と天皇制の問題は切り離せる問題ではないが、これらの文書 が作成された時期の戦後処理の問題、その動向という大きな枠組みにも注意を 払う必要がある。ここで強調する大きな枠組みとは、引揚げ・復員問題の社会 的影響を意味している。復員の中でも次の二つに注目する。ひとつ目の復員 は、日本兵の外地からの帰還であり、いまひとつ目は米兵の米本土へ送還であ る 35)。 343.
(22) 横浜国際経済法学第 21 巻第 3 号(2013 年 3 月). まず日本兵の外地からの帰還であるが、これについては既にポツダム宣言の 第九条で約されており、終戦後間もない時期にはじまっていた 36)。もっとも 帰還政策を推進していたのが、朝鮮半島からの送還であった。比して、難航し たのは南西諸島の地域からの帰還であった。沖縄戦および終戦時の混乱に加 え、各島々の独立的な地位が尊重されたため、まず駐屯軍の引揚げ・復員が進 められていった。日本への送還事業は、元軍人が優先され、民間人は後回しと なった。その結果、南朝鮮や南西諸島の地域からの元軍人の帰還は 1946 年 1 月の段階でほぼ終わり、博多港に到着した人数だけでも 33 万人を上回ってい た 37)。1945 年 10 月から翌年の 1 月までの時期は、九州の主要引揚港に引揚軍 人が詰めかけ、復員事務のため市内に立ち往生し、また他の引揚港から九州に 帰郷したものも多かった。同時期、帰還を希望していた在日朝鮮人は福岡を中 心として日本の帰還兵が到着する引揚港に押し寄せたため、現地には緊張が走 り、治安の悪化と小競り合いが起きた 38)。1946 年 1 月の時点で、博多で送還 を待っていた朝鮮人は 34 万に達し、一日に 2 千人から 5 千人の送還事務は押 寄せる人の波に太刀打ちできず、1 万 5 千人以上の残留者は劣悪な環境で直接 博多埠頭に収容されることとなった 39)。占領軍は 12 月にミノウ作戦計画の準 備に着手したのは、このような引揚げに伴う混乱が想定されていたからであ る 40)。ただし占領軍にとって、送還者と帰還者の小競り合いよりも、1946 年 春以降の中国からの本格的な引揚げ事業を控え、在留邦人が次々と帰還し、大 規模な人口移動が起こることに危機感を抱いていた。占領の開始当初、防諜局 運用課研究調査班長の職にあったハーバート・ノーマンは、1946 年 1 月付け で極東諮問委員会のカナダ代表に就任した。1946 年 2 月 1 日、報道陣に向け たノーマンの発言には、中国からの引揚者が混乱を招く恐れがあることへの懸 念が含まれていた 41)。 引揚軍人への処遇は、日本政府の優先事項でもあった。時の厚生大臣芦田均 の日記には、1 月 30 日に軍人恩給が打ち切られる交渉に関して「三百万人の 生命に大関係ある問題である」と記されている。引揚事業によって押し寄せる 344.
(23) 日本国憲法の制定と沖縄の関連性. 復員軍人は公職から追放され、生活や先行きの目処が立たず、経済的な困窮に 陥ることは目に見えていた 42)。引揚げに伴う米国が抱いていた懸念は、占領 軍に全面的な協力を約束していた日本政府の頭を悩ます問題でもあったといえ る。 いまひとつの復員は、米占領軍の帰還である。この問題は、マッカーサーは そもそもどのような日本占領を想定していたかにまで遡って考える必要があ る。終戦前夜、マッカーサー指揮下の太平洋陸軍の兵力は 140 万人で、欧州戦 線からの補強を受けて秋の日本上陸時には 250 万弱の兵力が想定されていた。 この大軍は 8 月 14 日以降不要となった。日本への上陸は空路を用いたため、 占領軍の兵力は占領開始後に 38 万人前後に修正された 43)。さらに、占領は円 滑に展開し、米軍の統治は日本政府を経由した間接軍政になったことで、マッ カーサーは 9 月 17 日にも、1946 年春には日本占領軍を 20 万に減らすと宣言 し、米議会やメディアで注目を浴びた 44)。これはドイツ占領軍の半分に当た る兵力であり、日本主要都市に兵隊を配備しても、各都市に数千人程度の兵隊 しか配備できないことを意味していた。このマッカーサーの発言は、早期帰還 を求める米国国内の世論に乗じたものであったが、結局彼自身、自分の口から 出たこの発言に縛られることになった 45)。 1945 年 12 月から 46 年 1 月にかけて、フィリピンおよび横浜で早期帰還を 求める米兵のデモが発生し、マッカーサーにもうひとつの治安上の問題を投 げかける。秦の論文で議論された 1 月 25 日のマッカーサー電報はこのような、 占領軍の中の緊迫した状況を反映したものである。仮に日本で暴動が起こり、 内戦状態となれば、せっかくの民主化政策は水の泡となる。平時の兵力水準の 削減について、米国の世論から厳しい追及を受ける一方、日本における暴動の 鎮圧、予防策には「百万の増兵」を要した。しかしこの規模の増兵は、当時の 米国内の反戦ムードに逆行するものであり、世論の制裁をまぬがれようもな かった 46)。1946 年 1 月 24 日、マッカーサーは幣原首相との会談で涙を流した というエピソードが残っているが、幣原から何らかの形で暴力手段を制限する 345.
(24) 横浜国際経済法学第 21 巻第 3 号(2013 年 3 月). と約束を取りつけることができれば、この会談はマッカーサーにとって一挙両 得であった。すなわち、米軍の軍備縮小をはかり、なおかつ日本国内の暴動を 予防することができるからであった。 引揚げの実施に際して、日本政府もまた占領軍も頭を悩ましており、九州に おける混乱した状態に対処するために次の二つの策がとられた。まず一つ目は、 ミノウ作戦計画による治安維持と暴動の予防であり、二つ目は沖縄残留民の送 還である。この二つは、日本政府および占領軍の抱えていた事情により、途方 もない結果を生み出した。その結果とは、ミノウ作戦計画に具体的に示されて いた懸念や予防策は後に憲法の非武装の理念へと結晶化する。また第二の策と して在日の沖縄残留民の送還は、沖縄人を「非日本人」にし、奄美を含めて沖 縄を日本から「切り離す」こととなった 47)。一般の住民から見れば必然的に 生じるはずの引揚げの要求は、両政府の予想を超える問題となり、戦後日本の 方向性を大きく変えるきっかけとなった。. 5.終わりに 憲法改正と戦後沖縄の地位について、この二つは密接に関係していることが 先行研究で指摘されてきた。この二つの問題を結びつける歯車的な存在であっ たのが、沖縄における米軍基地の保有であると強調された。しかしながら従来 の研究では、それぞれの問題を別個に扱う傾向がある。憲法の起草過程に焦点 をあてた研究では、憲法起草の段階において、沖縄の基地がどのように関わっ ていたのかについては、史料的に明らかにされてこなかった。他方、沖縄の分 離が日本政府に通知された時、このことが司令部の憲法改正への動向にどのよ うな影響を与えたのかについても、不明瞭な部分が多かった。そもそも、この 二つの問題を結びつける歯車がどのように噛み合っていたのかがはっきり見え ていなかったのである。米軍は沖縄における基地の保有にそこまで固執してい たのであれば、なぜ沖縄を放置し「廃墟の島」にしたか、戦争放棄をした日本 346.
(25) 日本国憲法の制定と沖縄の関連性. ではなぜ再武装と基地保有を求めるようになったか、一見すると矛盾した政策 が展開していったのである。 本稿では、憲法改正と沖縄の地位に関する研究を再検討した上で、この二つ の問題を関連づける新たな歯車として、引揚げ・復員の問題を取り上げ、仮説 を示した。事業としての引揚げは、外地にしか適用されなかったため、内地と されていた沖縄は他の内地と区別され、本土から沖縄住民の送還を行う際、沖 縄は分離されるに至ったのである。また、沖縄など他の地域から引揚げてきた 復員兵は、占領軍の 10 倍を超える人口規模があり、暴動が波及した場合、主 要引揚港があった九州は内戦に陥る可能性すらあった。沖縄にしてみれば、引 揚げが分離とともに平和をもたらしたわけであるが、その一方で日本本土には 戦争の陰を忍び寄らせるものだったのである。引揚げ自体は、戦後処理の一環 として捉えるべき問題であるが、この引揚げを契機として米軍は沖縄に基地を 長期的に保有できると考えるようになったのであり、その影響は今日において もはっきりと見てとることができる。. <追記> 池田龍彦先生には公私にわたりお世話になった。不肖の弟子でありながら、 こうして『退官記念号』に寄稿できることを大変光栄に思う。池田先生からい ただいたお言葉には、宮本武ノ輔や青山士のものがある。新潟の信濃川大河津 分水の記念碑に残した「萬象ニ天意ヲ覺る者ハ幸ナリ」という言葉が心に残っ ている。常に温かいお言葉を掛けていただき、同時に厳しくご指導いただいた ことに改めてお礼申し上げたい。 1)吉田喜明・影山日出弥・大須賀明『憲法と沖縄』敬文堂、1971 年;仲地博・水島朝穂編『オ キナワと憲法 : 問い続けるもの』法律文化社、1998 年;宮崎繁樹「沖縄分断の法的構造」 中野好夫編『沖縄問題を考える』太平出版社、1968 年;伊志嶺恵徹「憲法 9 条再考」 『琉 大法学』52 号、1994 年、p151-169;高良鉄美『沖縄から見た平和憲法』未来社、1997 年; 高良哲美「復帰後の沖縄における平和憲法史」 『琉大法学』68 号、2003 年;高良鉄美「米 347.
(26) 横浜国際経済法学第 21 巻第 3 号(2013 年 3 月). 軍統治下 の 沖縄 に お け る 平和憲法史」 『琉大法学』67 号、2002 年;高作正博「憲法九条 への「新しい光」と改憲論の「周辺」 」琉大法学、67 号、2002 年;仲地博「錯綜する沖 縄の憲法像」 『軍縮問題資料』212 号、1998 年 6 月;嘉陽安春「沖縄の復帰と憲法」 『ジュ リ ス ト』480 号、1971 年;嘉陽安春「憲法改正 2」 『沖縄法学』22 号、1990 年;嘉陽安春 「憲法改正」 『沖縄法学』19 号、1989 年;大城渡「駐留米軍の合憲性あるいは憲法判断適 合性について」 『琉大法学』80 号。 2)拙稿「日本の統治体制改革の初期及び沖縄の地位に関する新考察①」 『法政大学沖縄文化 研究所所報』第 61 号、2007 年 10 月、7-10 頁。 3)拙稿「日本の統治体制改革の初期及び沖縄の地位に関する新考察②」 『法政大学沖縄文化 研究所所報』第 62 号、2008 年 3 月、12-15 頁。 4)安仁屋政昭「沖縄戦と天皇」新崎盛暉・川満信一編『沖縄・天皇制への逆光』社会評論社、 1988 年、51-52 頁。 5)安仁屋政昭、前掲、51-52 頁。 6)新崎盛暉「沖縄戦後史と天皇(制) 」新崎盛暉・川満信一編『沖縄・天皇制への逆光』社 会評論社、1988 年、130 頁;新崎盛暉「沖縄にとって戦後とは何か」 『戦後日本 占領と 戦後改革』第5巻、岩波書店、1995 年、207 頁。 7)仲吉良光『日本復帰運動記』沖縄タイムス社、1976 年、16 頁。新憲法はどのように沖縄 で周知されたかについて、上地聡子によれば、ふたつの情報源があったとされる。ひと つは、本土からさまざまなルートを通じて届いていた邦文の新聞雑誌であり、いまひと つは帰還した引揚者によって伝えられた。上地はこの二つ目のルートの存在を強調して いる。上地聡子「 『復帰」における憲法の不在:1951 年以前の沖縄にみる日本国憲法の存 在感」 『琉球・沖縄研究』第 3 号、2010 年。 なお、憲法改正草案要綱は 1946 年 3 月 6 日午後 17 時に発表され、翌 7 日に新聞各紙 に掲載された後、マークゲインの日記が示すように、外国人記者クラブを通じて世界中 に知れ渡ることとなった。第三のルートとして、仲吉良光の証言が示すように、日本国 憲法はもっと早期の段階に沖縄に伝わった方法として「外国」からのルートであったと 考えられる。 8)進藤栄一『分割された領土』岩波書店、2002 年、66 頁。 「天皇メッセージ」についての波 紋はその後国会の審議にまで至っている。また、エルドリッジは進藤とは異なるアプロー チをとるが、 「天皇メッセージ」を早期講和の模索という文脈において位置づけているこ とで、天皇制維持と沖縄問題の関連性について、進藤と同じ立場をとる。 9)大田昌秀『拒絶する沖縄』サイマル出版会、1971 年、3 頁。 10)大田昌秀『沖縄差別と平和憲法』BOC 出版、2004 年、60-61 頁。 348.
(27) 日本国憲法の制定と沖縄の関連性. 11)古関彰一『新憲法の誕生』中央公論社、1995 年、136 頁。 12)同書、308-309 頁。 13)古関彰一『 「平和国家」日本の再検討』岩波書店、2002 年、2 頁。 14)古関彰一「沖縄にとっての日本国憲法」 『法律時報』68 巻 12 号(846 号) 、1996 年 11 月、 13-14 頁。 15)古関彰一『憲法九条はなぜ制定されたか』岩波ブックレット 674 号、岩波書店、2006 年、 29 頁。 16)漢那憲和の発言は以下から引用。 「衆議院議員選擧法中改正法案委員會」 『帝國議會衆議 院會議錄』衆議院、1945 年 12 月 7 日。 17)秦郁彦『史録 日本再軍備』文藝春秋、1976 年、64-65 頁。 18)成田憲彦「日本国憲法と国会」内田健三・金原左門・古屋哲夫編『日本議会史録』第 4 巻、 第一法規出版、1990 年、22 頁。 19)同書、72 頁。 20)同書、73 頁。 21)この項目は、佐々木および笹川の日本語訳に修正を加えたものである。原文は以下の 通 り で あ る。II War as a sovereign right of the nation is abolished. Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security. It relies upon higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection. No Japanese Army, Navy or Air Force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force. 22)佐々木高雄『戦争放棄条項の成立の経緯』成文堂、1997 年。 23)笹川隆太郎「マッカーサー・ノートを読み直す」曽我部真裕・赤坂幸一(編)大石眞先 生還暦記念『憲法改革 の 理念 と 展開』信山社、2012 年;笹川隆太郎「憲法資料室収蔵 「ハッシー文書」と 'Constitution File No.1'(前編) 『 」石巻専修大学経営学研究』16 巻 2 号、 2005 年。 24)治安維持という側面から、この作成計画の背景と意図を分析した研究が荒敬や柴山太に よるものである。荒は占領史研究が新たな潮流を形成しつつあった 1970 年代に日本軍 の具体的な非軍事化過程および敗戦軍人の引揚げ・復員に着目し、実証的な分析を行っ ている。さらに、1980 年代後半、ミノウ作戦計画に関しても検討し、新たな研究成果を 出している。荒敬『日本占領史研究序説』柏書房、1994 年、第 3 章;柴山太『日本再軍 備への道―1945~1954 年―』ミネルヴァ書房、2010 年、600 頁、脚注 28。 25)国会図書館県政資料室、連合国最高司令官総司令部最高機密 ファイ ル ( 各部局 ) マ イ ク 349.
(28) 横浜国際経済法学第 21 巻第 3 号(2013 年 3 月). ロフィッシュ TS 000118。 26)加藤陽子「日本軍の武装解除についての一考察」増田弘編『大日本帝国の崩壊と引揚げ・ 復員』慶応大学出版会、2012 年。 27)根拠として、第 8 軍の作戦指令第 30 号あるいは各地の占領部隊の作戦指令が掲げられ る(米国立公文書館 RG407, World War II Operations Reports 1940-1948, 8th Army, Box 2844, Folder 1) 。また、荒敬は 1946 年後半及び 1947 年のこれらの作戦指令の改定に詳 し い、荒敬『日本占領史研究序説』柏書房、1994 年、72 頁。 『荒敬寄贈資料』横浜市史 資料室所蔵、第 8 箱、第 3 ファイルなども参照。 28) 『朝日新聞』1945 年 12 月 23 日。 29)AG(B) 04800 および AG(A) 00370(国会図書館資料室マイクロフィッシュ番号) 。催涙ガ スの使用に関して、第 8 軍を含む GHQ の隷下部隊の作戦司令も 1946 年 1 月中旬に改 訂されている(RG407, World War II Operations Reports 1940-1948, 8th Army, Box 2844, Folder 1 を参照) 。 30)原文 は 国会図書館「日本国憲法 の 誕生」の ホーム ページ に 資料 3 - 3「マッカーサー、 アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡(天皇の戦犯除外に関して)1946 年 1 月 25 日」と して公開されている (http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/064shoshi.html)。 31)公文書によるミノウ作戦計画・マッカーサー電報とマッカーサー・ノートの関係性につ いては、本稿の紙幅を超える課題であるため、稿を改め論じる。 32)ケーディス の 回想 は:竹前栄治『GHQ 高官 の 証言』中央公論社、1988 年、58-59 頁、 鈴木昭典『日本国憲法 を 生 ん だ 密室 の 九日間』創元社、1995 年、125 頁、Dale M. Hellegers. We, the Japanese People, vol. 2. Stanford: Stanford University Press, 2001, p. 523. 33)Clayton D. James. The Years of MacArthur, vol. 1. Boston: Houghton Mifflin, 1970, pp. 392, 399, 404, 680 fn.28. Douglas MacArthur. Reminiscences. New York: McGraw-Hill Book Company, 1962, p. 92. The New York Times. July 29, 1932. 34)Clayton D. James. Op. cit., p. 401. 35)大日本帝国軍人の引揚げ・復員については先行研究も多く、個人の日記や回想なども含 めると膨大な資料と研究蓄積がある。近年、社会史的な手法を用いた研究は盛んとなっ てきたが、行政資料に依拠した、綿密な分析に基づく実証研究は加藤聖文が指摘してい るとおり、皆無に等しい。1970 年代までは厚生省関連の出版物が大半を占めていた。政 策史に関する研究は再び盛り上がるのは 1990 年代後半からである。増田弘ほか編『日 本帝国の崩壊と引揚げ・復員』2012 年;加藤陽子「敗者の帰還―中国からの復員・引 揚問題の展開」 『国際政治』第 109 号、1995 年 5 月および同『戦争の論理一日露戦争か ら 太平洋戦争 ま で』勁草書房、2005 年;加藤聖文『 「大日本帝国」崩壊』中央公論社、 350.
(29) 日本国憲法の制定と沖縄の関連性. 2009 年;浅野豊美「折りたたまれた帝国一戦後日本における『引揚』の記憶と戦後的価 値」細谷千博他編『記憶としてのパールハーパー』ミネルヴァ書房、2004 年;および拙 稿 “Territoriality and Governance in the Early Postwar Japan and Okinawa, 1945 – 1946” 『法政大学国際交流基金による招聘研究員紀要』第 12 号、2006 年プログラム、2008 年、 39 - 210 頁。 36)加藤聖文の研究により、これまで空白となっていた引揚げ政策の多くの詳細が明らかと なってきた。加藤聖文『 「大日本帝国」崩壊』中央公論社、2009 年、56 頁、および「大 日本帝国の崩壊と残留日本人引揚問題」増田弘ほか編『日本帝国の崩壊と引揚げ・復 員』 、2012 年、16-23 頁において、日本側の終戦初期の失策を詳細に取り上げられてい る。実際は、米国側でも、同様の事態が存在した。民間人より軍人の引揚げを優先させ たのは日本政府だけではなく、ポツダム宣言第 9 条の約束に基づいた米国政府内の動き でもあった。1945 年 8 月中の SWNCC58 の改訂(特に SWNCC58/9 第 8 条)およびそ の後の太平洋陸軍による引揚げの計画・実施について拙稿を参照。“Territoriality and Governance in the Early Postwar Japan and Okinawa, 1945 – 1946” 前掲、97-98 頁および 102-104 頁。 37)福岡市役所編『福岡市史』第 5 巻、福岡市役所、1970 年、432 頁。 38)九州・中国地方の一部の引揚げ港の状況について加藤聖文監修・編集『海外引揚げ関係 資料集成 [ 国内編 ]』ゆまに書房、2001 年の第 8 巻から第 11 巻までを参照。司令部は国 会図書館 GHQ/SCAP 参謀第 3 部の資料を参照。 39) 『局史』加藤聖文監修・編集『海外引揚げ関係資料集成 [ 国内編 ]』第 9 巻、ゆまに書房、 2001 年、38-39 頁。 40)たとえば第八軍の定期諜報第 113 号では 1945 年 12 月 19 日に九州における日本海軍の 復員軍人の 2 つの転覆集団 (subversive groups) の存在が発覚し、米軍に対する破壊活 動や敵対攻撃 (sabotage and hostile acts) の計画が明らかとなったとの報告がある。計 画ではクリスマスイブから新年の間に米軍拠点が襲撃されることが分かり、警戒態勢 (precautionary measures) が敷かれた。 (米国立公文書館 RG407, World War II Operations Reports 1940-1948, 8th Army, Box 2729, Folder 1) 41)ノーマ ン の 発言 に つ い て は 次 の よ う な 報道 が あ る:Signs of resentment and sullen anger of tens of thousands of unbeaten, repatriated Japanese have appeared in the Home Islands and present a potential menace to Occupation Forces, a Canadian member of the Far Eastern Commission said today in Tokyo...remember (Japanese Troops) were never beaten in China, they never saw the Allied Power that was demonstrated to the Japanese coming back from other Pacific Regions. Instead they had been swaffering (swaggering?) top-dogs for years, accustomed to lording it over everyone. Now theyre 351.
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