立命白川靜記念東洋字究紀 第六號 三九
讀「釋南」
─
白川字學の原點にる(五)
─
高
島
夫
はじめに
今回は「南」の字源を論證した白川靜「釋南」を讀む。南は言うま でもなく方位を示す字である。方位は特定の體な物の形で表わ し え な い 抽 象 念 で あ る か ら、 そ れ を 表 字 で 示 す こ と は で き な い。何らかの間接手段を用いて表示する工夫が必である。ところ が、甲骨は象形による表字がほとんどであり、字と字とを 組 み 合 わ せ て 新 し い 字 を 作 る 會 や 形 聲 と い う 字 段 階 に は ま だ 入っていない。いわば生まれたての象形による表字を中心とした 字體系である。では象形による表という方法で表わしえない言葉 はどのような手段を用いて表示するのか、という問題にここで面す る。中國語は言語形態の觀點からは孤立語に分される。孤立語とい うのは、日本語(膠語)や歐米語(屈折語)のような語の活用がな く、に語順によって法能が果たされる言語のことである。言 い換えれば語尾の多樣な變を示すための、表に特した假名やア ルファベットのような字をさほど必としないのである。世界の 字を眺め渡した場合、表字から出發した字でも、表字で表 わせない言葉には表という手段を用いざるをえなくなっていく。そ こで象形字を略體した表專用の字が考案されるというをたど ることになる。しかしこれはみな孤立語以外の場合である。甲骨の 場合、象形による表字でもってほとんどカバーできる字體系で あるから、殘された少數の言葉を表現するためには、表という手段 を部分に用すればよいのである。いわば例外な用である。し かし表能に特した特別な字を考案しないまま表という手段 を用いるわけであるから、別の字を借用するという方法をる。借 字とか假借と呼ばれる方法である。甲骨の場合、王室およびその 邊に關わることを占うという儀禮の記錄であるから、かなり多な內 容を持つとはいえ、そこに用いられる語彙もある度限られている。 また儀禮を示す字の度も高い。したがって表という手段を用い なければ表わせない言葉はかなり限られてくる。その例外の一つとし て方位關係の語彙があるのである。東・西・北なども借字による表語 である。しかし今回白川士が他の方位語とは別に 「南」 という語 (讀「釋南」 四〇 字)に限って考證を展開されるのは、別の必性からである。それは 「南」という字が別の用法を持っているからである。 後に體に言することになるが、甲骨に用いられる「南」と いう字は方位を示す場合だけではない。先を祭る際に他の動物と ともに犧牲にも用いられることがある。また、南方の國あるいは 地域を指している場合もある。こうした多樣な味をもつ「南」で あ る が ゆ え に、 字 源 論 が 功 し に く い 因 に な っ て い た の で あ る。 「南」という語の字源を多角に考察することが求められるゆえんで ある。 「釋南」 は初め 「甲骨學」 第三號に揭載され、 後に 『甲骨金學論叢』 (油 印本)に再錄された。再錄された理由を言されないが、私の推測で は、 「 甲 骨 學 」 に 揭 載 さ れ る に あ た っ て、 字 學 に 緣 の な い 人 が 淸 書 を擔當されたのであろうか、字の記が驚くほど多い。これが再錄 の本當の理由ではないかと思われる。後に『甲骨金學論叢』に收錄 される際に、第一章「殷と南方」がられた。いずれ々 『白川靜作集』 別卷 『甲骨金學論叢』 (下) に收錄されるはずだが、 今の時點では未刊のため、もっぱら油印本『甲骨金學論叢』のテキ ストを用いる。られた第一章は殷と南方との關係を當時の考古學方 面の知見に基づいて描かれた章である。報として今も效であろう と思われる點についてだけ略しておきたいと思う。
「殷と南方文化」の要點
・古い時代から河南の東部や北部に定していた殷人は、早くから 東夷・東南夷と相接していたものかと思われる。 ・殷の西方の衞は陸附の戉までであって、それから西方には 一時に支配がぶことはあっても、殷族が自ら陝西の地に入る ことはついになかったのではないかと考える。殷が西方のに 接しうるのは、として河北西部と山西南邊との二方面であった が、いずれも多くは戰鬪をじて接するという對抗な關係にお いてである。 ・南方との關係は、西方にもまして重であった。南方という味 を、ここでは江蘇・安・河南南部の一帶を汎稱するものとして おく。江蘇・安には東南夷がいたが、これは東夷と同種族の 民族であったと思う。河南南部から長江の一帶にも他の一系が あ っ て、 こ れ は 卜 辭 で は 南、 『 論 語 』 や『 楚 辭 』 に 南 人・ 南 夷 と 呼ばれているものである。「釋南」の構成
一 南の初義に關する諸家の說と問題點 二 人身犧牲としての南 三 南の本義 四 木にけた樂はいかなるものか? 五 銅鼓について 六 銅鼓の源地 七 「南」字は銅鼓を吊るした形立命白川靜記念東洋字究紀 第六號 四一
一
南の初義に關する諸家の說と問題點
例 の ご と く『 說 解 字 』 の 引 用 か ら 始 ま る。 「 南、 艸 木 至 南 方 枝 任 也。 从 喞 溥 聲。 」 ( 南、 艸 木 南 方 に 至 り て 枝 に 任 せ る る な り。 喞 溥 の 聲 に从ふ。 ) とある。枝が鬱蒼と生い茂る狀態をいうものであるが、東南 西北を季の行に見立てて「南」を「夏」に位づけ「夏」と同義 のようにっているのが特徵である。當時流行した陰陽五行の思想 に基づいて解釋しようとしたものであろうが、そのような觀念な解 釋を施さねば解釋できないということであろう。許愼の字源解釋にこ の種のものが多いのは、やはり甲骨金を見ることのできなかった時 代 の 人 の 限 界 で あ る。 「 南 」 字 に つ い て も、 一 旦『 說 解 字 』 を 離 れ 甲骨金の字形に卽して考えなければならないという第になるので ある。そのような立場から「南」字を解いた代表な先學として、郭 沫若・・加常賢などが擧げられる。 [加常賢說] 加士は、南の字形は幬帳にしては亦聲であるというが、問題 はの三點に歸する。 ① は幬帳の形であるか? ②下の形の字は字であるか? ③かつ亦聲であるか? ()形聲字のうち、聲符にその原義を含むものを〈亦聲〉と言う。 ①の解釋の仕方はかなり複雜な手續きを踏む。先ず、說解字の解 に「 濃 其 也 」 (濃 は 其 の り な り ) と し て い る の を っ て、 こ れ を 南字の上部 と同字で幬帳の象と見なす。ついでを亦聲として南方 溫 の を 表 わ し た も の と す る こ と に よ っ て、 「 帷 幕 內 ノ 溫 ノ 」 とする解釋をくのである。中央にをもつ帷幕といえば、もはや幢 蓋や几帳のではなく、すでに居形式の問題となる。しかも帷幕は 朔北に最も廣く行なわれたものであるから、殷人が南方のを寄せた 字としては、あまりふさわしくない。 ②③については、・靑の字は卜辭に見えず、金にはじめて見え る字である點ですでに無理があるが、字形から考えても南字の下部 は井中にの象があることを示したものとはいえない。さらにこれら 上下の字形を合わせて會とし亦聲とする解釋は、容易に立しがた い。 [說] 王國維が と釋したのを排して、孫詒讓の 案 の說を是としている。 視 を 轌 と な し と な し て、 「 形 聲 に 變 ず 」 と い う よ う な 大 膽 な 議 論 にしてしまったのは非常に惜しまれる論だという。 [郭沫若說] 初め鎛鐘說を立てていたが、その後自說を變えてしまった。氏 の說を見て自說を棄て、新たに 庵 字說を出した。氏の字解をけ、 を 詞 字とする。ただとしたのでは用牲の例にじがたいので、こ讀「釋南」 四二 れ を 庵 す な わ ち 小 豕 と 解 す る。 し か し 卜 辭 に は「 十 豕 詞 」 の よ う に豕と 詞 とを竝稱するものがあって落ちかない。その說の方は 庵 は動物の子を泛稱する語であるという。しかし「南」が南方の 味にも用いられることについては觸れない。 以上が當時の字說のなものだが、それまでの字說を整理すること によって、問題點を析出するわけである。これらの字說が十分でない のは、方位を示す「南」字が犧牲にも用いられるという點を說でき ない片手落ちの說になっている點にある。白川士はこの兩方の味 を充たすにはいかに考えるべきかという方向にんでいく。そこで先 ず人身犧牲としての 「南」 とは何か? ということから入るのである。
二
人身犧牲としての南
甲骨の中に人身犧牲のことがかなり多數出てくるのだが、中國の 字學たちは、甲骨の中に人身犧牲を見ようとはしない。しかし 殷代から五〇〇年以上も下る春秋時代ですら人身犧牲が行なわれてい たことが『春秋左氏傳』の記事から分かるわけで、その紹介から始め られるのである。 なお、 しておきたいのは、 ここに見える 「用いる」 という語は、 漠然とした 「使用」 の味ではなく、 「犧牲として用いる」 の味だという點である。これは甲骨以來の用法である。 一、宋公は邾の公に 鄫 子を執えしめてこれを睢之に〔犧牲と して〕用いた。 (僖公一九年) ( ) こ の 睢 之 と い う の は 臨 沂 の 東 界 に あ っ て、 人 と い わ れ てい たものだということである。 二、楚子が蔡を滅ぼすや、蔡の世子を執えて歸り、これを〔犧牲と して〕用いた。 (昭公一一年) ( ) 公 羊 傳 に よ る と、 こ れ を 防 に( 犧 牲 と し て ) 用 い た と あ る か ら いわゆる人にしたものであろう。 三、子が莒を伐って俘を取り、これを亳に〔犧牲として〕用い た。 (昭公一〇年) 四、魯は河南北部の長狄と戰って長狄喬如を獲て、その首を魯の郭 門 で あ る 子 駒 の 北 門 に 埋 め た。 さ ら に 齊 の 襄 公 も ま た 長 狄 を 破って長狄榮如を獲て、 その首を齊の邑 ・ 首の北門に埋めた。 (公一一年) 卜 辭 に は 牲 獸 と と も に 犧 牲 に 供 せ ら れ て い る も の に 羌 と 南 と が あ る。 先 ず 羌 の 例 を 列 擧 す る。 濃 を 動 詞 と し て 用 い る 場 合、 犠 牲 に 用 い るの意を示す。 ○辛巳卜行貞、王小辛、 彖 伐羌二、卯二 眈 、尤。 [ H23106 ] (辛 巳 卜 し て 行 貞 ふ 、 王 小 辛 を す る に 、 し て 羌 二 を 伐 ち 二 眈 を 卯 こ ろ し て 、 尤 と が きか。 ) ○甲午卜行貞、 王□□、 伐羌三(二) 、 卯 眈 、 尤。 [ H22569 ] (甲 午 卜 し て 行 貞 ふ、 王 □ □ を す る に、 し て 羌 三 を 伐 ち、 眈 を 卯 し て 尤きか。 )立命白川靜記念東洋字究紀 第六號 四三 ○癸卯卜 貞、 濃 于河三羌、卯三牛、燎三牛。 [ H1027 正] (癸卯卜して 貞ふ、河に 濃 するに三羌をもちひ、三牛を卯し、三牛を燎 せんか。 ) ○癸卯卜 貞、燎河一牛、 濃 三羌、卯三牛。 [ H1027 正] (癸卯卜して 貞ふ。河に燎するに一牛をもちひ、三羌を 濃 して、三牛を 卯さんか。 ) ○寅卜、又伐于司、 忆 卅羌卯卅豕。 (寅卜す、又司を伐ち、卅羌を 忆 し卅豕を卯さんか。 ) [ H32050 ] ○午卜貞、畢奠歲羌卅卯三 、一牛、于宗用。六。 [ H320 ] ( 午 卜 し て 貞 ふ、 畢 奠 歲 す る に 羌 卅 を も ち ひ 三 を 卯 さ ん か、 一 牛 を するに、宗において用ひんか。六。 ) ○甲寅卜、其方一羌一牛九犬。 [ H32112 ] (甲寅卜す。其れ方するに一羌一牛九犬をもちいんか?) こ れ ら の 辭 例 に お い て 羌 は 牛 羊 犬 豕 と と も に 犧 牲 に 用 い ら れ て い る。郭沫若氏はこの羌を羌人と解することができないと見えて、羅振 玉氏の「羊」という說をけて「狗」と解したりするのだが、そうす る と「 貞、 方 一 羌 二 犬 卯 一 牛 」[ H418 ] の よ う に 羌 と 犬 と を 一 緖 に 用いる例があって立しない。また別に、 ○卜、甲寅 、畢御于大甲、羌百羌卯十 眈 。[粹・ 190 ] ( 卜 す、 甲 寅 す、 畢 大 甲 を 御 す る に、 羌 百 羌 を も ち ひ 十 眈 を 卯 さ ん か。 ) ○ 丁 酉、 宜 于 、 羌 二 人 卯 十 牛。 ( 丁 酉、 に 宜 す る に、 羌 二 人 を も ち ひ十牛を卯さんか。 ) [粹・ 411 ] と い う 例 も あ る。 だ が こ の 場 合「 羌 百 羌 」「 羌 二 人 」 と 記 さ れ て い る の を「 狗 百 狗 」「 狗 二 人 」 と し な け れ ば な ら な く な っ て お か し な 讀 み方になる。そこで郭氏はまた「磔」という新しい解釋を立てるのだ が、今度は、一旦否定したはずの人牲をめたことになってしまう。 白 川 士 は さ ら に 羌 人 を 捕 獲 す る「 王 伐 羌 」 ( 王 き て 羌 を 伐 た ん か。 ) [ H6617 甲 ] や「 王 令 五 族 伐 羌 方 」 ( 王 ここ に し て 五 族 に 令 し て 羌 方 を 伐 た し め ん か。 ) [ H28053 ] な ど、 多 數 の 力 な 部 族 が 羌 人 捕 獲 に動員される例を擧げている。また羌のあるものは殷室に使役される こともあるのだが、多羌や多馬羌・羌芻などの例を擧げて、彼らが殷 の宮において卜骨の修祓にも關與していたことにまで言する到 さである。ここまで到に詰められると羌が人間以外を味しないこ とは白である。殷の大墓から多數發見される人牲がそれを示してい ると見ていいだろう。こうして異族を用いた人牲の可能性があること がらかになれば、南が他の牲獸とともに宗に用いられることは何 ら不思議ではない。そこで南人を犧牲とする用例の列擧となるのであ る。 ○甲申卜貞、乙酉 濃 于乙牢 濃 一牛、 濃 南。 (甲 申 卜 し て 貞 ふ、 乙 酉 乙 に 濃 す る に 牢 を も ち ひ、 一 牛 を 濃 し て 南 を 濃 せんか。 ) [ H25 ] ○ 濃 于 辛 八 南。 九 南 于 辛。 ( 辛 に 八 南 を 濃 せ ん か。 九 南 を 辛 に もちひんか。 ) [ H1685 ]
讀「釋南」 四四 ○ 癸 未 卜。 帚 濃 妣 己 南 犬。 ( 癸 未 卜 す。 婦 は 妣 己 に 濃 す る に 南・ 犬 を も ちひんか。 ) {H40852} ○貞〔 〕年于王亥、咼犬一・羊一・豕一・燎三小 、卯九牛・三 南・三羌。 [ H378 ] (貞ふ 年 みのり を王亥に いの るに、犬一・羊一・豕一を 咼 ころ し、 三小 を燎し、 九牛 ・ 三南・三羌を卯さんか。 ) ○庚戌卜牽貞、于西一犬・一南、四豕・四羊・南二、卯十牛・ 南一。 [ H40514 ] (庚 戌 卜 し て 牽 貞 ふ、 西 に す る に 一 犬・ 一 南 を も ち ひ、 四 豕・ 四 羊・ 南 二をして、十牛・南一を卯さんか。 ) ○丁巳卜貞、燎于王亥十南、卯十牛・三南。 [ H6527 ] (丁 巳 卜 し て 貞 ふ、 王 亥 に 燎 す る に 十 南 を も ち ひ、 十 牛・ 三 南 を 卯 さ ん か。 ) ○貞、 方卯一牛 濃 南。 (貞ふ、 方するに一牛を卯し、 南を 濃 せんか。 ) [ H14300 ] ○ 貞、 皋 以 二 南 于 父 … 大 乙。 ( 貞 ふ、 皋 は 二 南 を 以 ゐ て 父 … 大 乙 に 于 か んか。 ) {H32430} ○丁……大…五十…伐…南。 [ H963 ] ○ 濃 于辛伐南。 (辛に 濃 して南を伐たんか。 ) [ H655 正甲] これらの「南」が南人と稱ばれる南方の異族であることは、もはや 疑いを容れない。こうした異族の人身犧牲には羌・南の他に白人など の異常や不自由人などをも用いた例を擧げられるが、ここでは愛 する。さて南字の本義は何であろう? に南方・南人の義はどのよ うにして生まれたかを考えてみなくてはならない。はこの問題であ る。
三
南の本義
郭沫若氏は最初、白川士の提示する初義に比い說を立てて い た。 ( 南 ) を「 鈴 」 と 解 す る も の で あ る。 し か し 南 を 含 む 字 に は別に「 」のような字形がある。これはいわゆる占卜の際の貞人の 名で、 と釋することができるものだが、 をバチ狀のもので叩く 形に描かれている。郭沫若のいう鈴では「殳」を加えて擊つというこ とは理解できないとされる。なるほどそのりである。そして郭沫若 自身もその點がいと見ていたのか、後にこの說を棄てて說に從 うことになる。この件は後に改めて言されるのでこうした經のみ を記して先にむことにする。 郭沫若氏の說は白川士が提示しようとする說に比いとのこ とであったが、それは樂說をるという味でかったという味 であって、鈴では褄が合わないのである。ではどのような樂であ るか、 そこに入っていく。 甲骨の 「南」 字形を考える場合、 の 「 」 字形からして樂であることが分かるが、さらにこれを別の字形と照 合 し な が ら 考 察 を め て い く こ と に な る。 先 ず、 「 」 の よ う な 字 形 が あ る。 こ れ は 石 磬 と 呼 ば れ る 樂 を 擊 っ て い る 形 で あ る。 ま さ に 「磬」字の上部の象形であるが、この磬は祭祀の時に用いられる石製 の樂で、後に磬と鐘とが組み合わされかなり大規模な古代オー立命白川靜記念東洋字究紀 第六號 四五 ケストラのへと展するものである。その石磬が殷代にすでに見 えている。その上部は「 」字形になっている。また太鼓を示す の 場合も同樣で、 ・ のようにやはりこれを擊つ形が 「鼓」 の字である。 このような樂を繫ける木の形であることは一目瞭然である。この字 形は 「釋史」 に關に出てきた 「吿 ( ) 」にも見えている。この 「 」 について私の推定を交えるならば、おそらく祭祀の際に用いられる なる枝ではなかったかと思われる。士はここで豈・壴の二字に關係 する字で『說解字』の豈部・鼓部・豆部・部に收錄されている ものを列擧して、分の仕方自體に混亂があることにも言される。 それは後で、と樂とを許愼が混同していることを示すための伏 線である。 つ い で、 『 說 解 字 』 の 混 亂 を 一 複 雜 し た 說 を 立 て て い る 加 常賢氏の說にも言される。加氏の字源論が複雜になるのは、象形 字であるはずの字形をばらばらに分解してそれぞれ別々に解釋し、そ れを後で合してその合字であると解くからである。甲骨は象形 字ではないとでも考えているのであろうか。加氏はそのような手法 で「 豈 」 と「 壴 」 と が 同 じ で あ る と 說 く の で あ る が、 が「 豈 ( キ ) も 壴 ( チ ュ ウ ) と 一 同 で あ る と 思 う。 ソ レ ハ ( チ ュ ウ ) の 轉 で あ る 」 とするなど解釋に強引なところがある。かくて士は 「壴」 字と 「豈」 字のいについて『說解字』のりを正しながらのように結論す る。 の豆に屬するものは豆・壴の系列に、樂の豈・鼓に屬す るものはまたその系列に、截然として區分されなくてならぬ。壴 と豈との別は、豆とその豆實に象るものと、鼓とその鼓を繫けた 形 に 象 る も の と の 區 別 で あ る。 …… 說 は 豈 に 加 う べ き 解 字 を って壴にも加えて混亂を生じたが、加士は兩字を合せて一 にし、そのキとチュウとの聲を混じて一とされ、一理解しがた いものとなった感がある。 (七八頁) [一二二九~一二三〇頁] こ こ ま で で「 南 ( ) 」 の 上 部「 」 字 形 が 樂 を 繫 け る た め の 叉 枝であることがべられてきた。ここに擧げられた樂がどのような 時に用いられるものなのか、私の說ではすでにべてしまっている が、士はここで改めてその問題に入られる。ここで用いられるのは 卜辭に見られる「來 慌 」の例である。 「 慌 」字は ・ のように書く。 「 鼓 」 と「 女 」 に 從 う 字 で あ る。 「 來 慌 」 の 味 は「 漁 陽 の 鼙 鼓 地 を 動かして來たる」の謂いで、外の寇を味する語である。女字形 に從うのは古代シャーマンの俗にもとづくものであろう。わが國の 古代にも、軍事に女人を先頭させる例があったことが『古事記』上卷 の天孫臨の條に見えている。こうして木に繫けた樂を特定する方 向へとむ。
四
木に懸けた樂器はいかなるものか?
郭沫若は最初鎛鐘のをもって解しようとした。鎛と鐘とは同の 樂であるが、殷代にそれらがあったとするには疑問が殘る。鐘より 古い樂には鉦 (鎛) がある。 その形は下にがあって、 口は上に向かっ讀「釋南」 四六 て開いている。ちょうど鐘をにした形である。したがってこれは木 に差しんで立てた形で擊つになっている。おそらく樂という よ り も 軍 事 の 際 に 擊 っ た も の で あ ろ う。 殷 代 に 見 ら れ る 鉦 ( 鎛 ) は からして字形に合わない。これを殷代のものに求めるのはしいと いうことになる。しかし考古學方面から見ると、この殷代の鉦が南方 に傳播し發展した後に、それがに傳播し流入してくるという說を、 林巳奈夫氏がかなり後になってから發表され た (1 ( 。その流入の時は 西時代中頃ということであるから、その間南方では獨自に發展を げたことになる。しかしこの林說は「釋南」立論の時にはまだ見 られず、白川士が獨自に考察をめなければならなかった。士は 「南」字を鐘を繫けた形としえない理由をのように整理される。 一、品の時代が少し遲きに失すること。 二、上の甬の部分が南字の字形には見られないこと。 三、 鐘の釭の部分はね 形であるから、 その形ならば と書くべ きであるのに のように橫形にしたものがあること。 四、下部の兩銑と于との部分 耀 、南の字形の の下部が虛しいもの としく異なること。 五、鐘を繫けた形を何故に南と稱するかを說き得ないこと。 特に第五點が重な鍵を握っているのである。であるとすれば、こ の行論の行方は左に記された方向に向かうことになる。 もし樂の名にしてしかもそれが南方のを示しうるものがあ るとすれば、それはその樂が南方特のものであり、樂自體 が南方を表現しうるようなものでなくてはならない。しかしこの ようなものとして、特にわれわれのを喚する樂は、銅鼓 のほかにはない。私は甚だ武斷であるかも知れないが、南支から 佛印・東印度諸島にわたって廣汎な分布を示す銅鼓を以て、これ に充ててみたいと思う。そこで以下に少しく銅鼓についてべよ う。 (八〇頁) [一二三二頁]
五
銅鼓について
最初に銅鼓が學界の目を浴びるようになったのは、一八六〇年に 銅鼓が發見されたことがきっかけであると記されるが、これは歐米の 學界のことであって、日本ではそれより早く一八六二年に松崎益が 「銅鼓考」を發表していて、中國の西南蠻夷の作ったものであるとい う 卓 論 を 示 し て い た。 そ の 後 も、 大 給 恆「 古 銅 鼓 考 」 ( 一 八 八 五 年 ) 、 鳥 居 藏「 苗 族 査 報 吿 」 第 九 章 ( 一 九 〇 二 年 ) が 續 き、 ま た 更 に 原 田淑人 「銅鼓の製作時代」 、松本信廣 『印度支の民族と』 (一九四二 年 ) 、 津 正 志『 印 度 支 の 原 始 』 第 一 四 章 ( 一 九 四 三 年 ) と 續 い ていて、銅鼓究としてはすでにかなりの蓄積が見られる。一方中國 で は 凌 純 聲「 記 本 二 銅 鼓 論 銅 鼓 源 其 分 布 」 ( 一 九 五 〇 年 ) が 發表された。歐米の學界ではその後ようやく樂であることが知られ る よ う に な り、 マ イ ヤ ー ( 一 八 八 四 年 ) 、 フ ォ イ ( 一 八 九 八 年 ) 、 ヒ ル ト (一八九〇~一八九六年) 、ホロート (一八九八年) 、ヘーゲル (一九〇二年)立命白川靜記念東洋字究紀 第六號 四七 等の學によって究がめられた。特にヘーゲルの究は銅鼓の樣 式 區 分 を 試 み た 大 で、 「 南 」 字 が 銅 鼓 を 示 す も の だ と い う 士 の 說 に益な報をもたらしている。以下展開される銅鼓の說は大部分 が松本・津・凌の論に據るとのことである。以下、士は「中國 獻 中 の 銅 鼓 」「 ホ ロ ー ト の 見 解 の 略 」「 中 國 國 內 の 分 布 」「 銅 鼓 の 樣式とその分布」の順に說されるが、ここでは點を整理する形で めることにする。 (1)中國獻中の銅鼓 中國の獻で銅鼓のことが見えるものは「後書」馬傳に「交阯 において駱越の銅鼓を得たり」とあるのが初見である。その後の獻 三〇件ほどをその後に列擧している。そしてそれらの記事を檢討した 結 果、 「 銅 鼓 が 獠 族 の 用 い た 特 の 樂 で あ り、 か つ 極 め て 貴 重 と せ ら れ て い た も の で あ る こ と が 知 ら れ る。 」 ( 八 二 頁 ) と し て い る。 銅 鼓 が 實 際 に 用 い ら れ る 時 の 樣 子 を 記 し た「 裵 淵 廣 州 記 」 ( 後 書 引 ) を 引用しておく。 俚 獠 鑄 銅 爲 鼔、 鼓 唯 髙 大 爲 貴、 面 闊 丈 餘 。 初 、 于 、 剋 晨 酒、 招 同 、 來 盈 門、 豪 富 子 女 以 金 銀 爲 大 钗 、 執 以 扣 鼓。叩 竟 留 人 也 。 ( 俚 獠 銅 を 鑄 て 鼔 を 爲 る。 鼓 は 唯 髙 大 な る を 貴 し と 爲 す。 面 闊 く 丈 余 な り。 初 め て る に、 に く 。 晨 に 剋 し て 酒 し、 同 を 招 す。 來 る門に盈つ。 豪富の子女 金銀を以て大釵を爲り、 執りて以て鼓を扣く。 叩 き 竟 り て 人を留するなり。 ) (2)ホロートの見解の略 銅 鼓 が 獠 族 に 原 す る も の で あ る こ と を、 オ ラ ン ダ の 東 洋 學 ホ ロートも「東印度諸島び東京・アジア大陸の古銅鼓考」でべてい る。白川士のまとめた章をここに引用しておく。 銅鼓は紀元一世紀頃、廣東の南西隅に流布し、四世紀上に揚 子江岸南部に行われた。廣州の民は銅の大部分を鑄鼓に投じ、 金銀をもその溶爐に投じたので、時の政府は鑄鼓を禁制したこと がある。銅鼓は廣く南方の狸 獠 の間に行われ、でき上ったときは 大 な 宴 を 行 な っ た。 ま た 戰 時 に は こ れ を 鳴 ら し て を 徵 集 し、の時もの願に用いた。南方の夷蠻はしばしばこれを 政府に獻したが、南夷にあっては、そのはこれによって その威權・勢力・門地を象徵しうるものとされ、これを失うこと は從って蠻を失うものとされた。かくてホロートは、 その分佈 ・ 樣・使用目にも考察をぼして、銅鼓は 獠 人に原するもの であることをべ、從來のヒルトの馬制作說を破っている。細 部にわたる議論はしばらくおいて、銅鼓が 獠 族に原するという このホロートの見解は、今日においてもなお學界の支持を得てい るものである。 (八三頁) [一二三五頁] 銅鼓が 獠 族に源をもつ祭であることがほぼ共識となったと 考えてよさそうである。
讀「釋南」 四八 (3)中國國內の分布 銅鼓の分布は、南支・佛印・東印度諸島から大洋州の島嶼にぶ廣 汎なものである。それで銅鼓の源地にも諸說が生じている。今度は この源地を絞りむ方向へとむ。銅鼓の分布と銅鼓の樣式の分 との相關關係を考えてみるという方向である。ここで士のられた 凌純聲「銅鼓地理分佈」の整理を引用する。 〔中國〕 四川 ( 史 劉 顯 傳 ) 宣 慶 符 長 寧 筠 高・ 珙 古 宋 屛山 雷波 西昌 廬山 奉 湖南 陽 嶽陽 乾 江西 南康 銅鼓 廣東 (ヘ ー ゲ ル ) 一 六 五 番 禺 茂 名 信 宜 康 合 浦 靈山 欽 萬寧 昌 廣西 南 桂 鬱林 白 北流 岑溪 蒼梧 桂林 融 象 橫 邑寧 凌雲 崇善 憑祥 Ailau 貴州 貴陽 黎 印江 思南 銅仁 我 安順 雲南 Parment ier 昆 瀘西 衝 芒市 〔中國外〕 東京 (河內・河南・寧・河東・和) 安南 (淸・公・島・巴色・沙克・景廣・三諾) 中原から見て南方に廣く分布し、それがベトナムにまでんでいる ことが分る。 (4)銅鼓の樣式とその分布 に銅鼓の樣式を分布狀況と關係づけて考える。これは最も古い樣 式がどこであるかを探るためである。分の仕方はヘーゲルによる。 第一式…… 最も古く大型の基本形式をもつもので、胴部が三區に別 れ、上部は膨らみ、中央部は垂、下部は截頭圓錐形を なす。上部に鼓面と胴部とを結合する丸く張り出した部 分がある。中央部の下は圓錐胴となっていて、緣は外方 に開いている。 鼓面と胴部張出しの裝は人物 ・ 動物 ・ 家屋・舟・飛鳥の原始繪畫・何樣等である。鼓面 には蛙・騎馬像等が附けられている。 上部が鼓面に接觸する部分に張出しがあるかないか、 その他若干の點の相によって、更に甲と乙とに分 れる。 第二式…… 胴の上部と中央部間の凹んだ稜がなく、胴の上部は下部 の 圓 錐 胴 に 接 る S 字 型 の 側 面 を 示 す。 鼓 面 は 出 し、樣區は第一式より多く、細な匠の裝から る。體の樣は籠目の靑銅の傳統を示している。 把手は小さく優美となり、重性を失なって、ときには 多くの小枝のある物形の三角片からる。 第三式…… 形小さく、 蛙の數が多く、 圓筒部は大きく下部は小さい。
立命白川靜記念東洋字究紀 第六號 四九 鼓面の樣帶も少なくなってジグザグが形式し、動 物の樣はとなる。いまカレン族の間に傳わって いる。 第四式…… 中國匠多く、丈低くして非實用である。鼓面の蛙 はなく、中央の星から十二本の射線が放出され、十二支 獸を鑄出す。南支に最も多く發見され、ラオスのシャ ン族、 ビルマの白カレン ・ 紅カレン族の間でも使用され、 タイの寺院や宮殿においても用いられている。 この四式はそのまま時代の新古を味するものと考えられる。 〔樣式の分布〕 ・湖南・四川……第一式甲 ・廣東・廣西……第一式乙と第二式 ・貴州・雲南……第三式 ・分布が廣汎……第四式 〔新古の層〕 ・第一 (第一式甲) …… 湘西・川南・滇南から島區の 東 トンキン 京 ・ ラオスにぶ。 ・第二 (第一式乙) …… 廣東・廣西から 東 トンキン 京 ・ ラ オ ス・ 安 南・ カンボジアを經て東印度諸島にぶ。 ・第三 (第二式) ……廣東・廣西から東京・ラオスにする。 ・第四 (第三式) ……貴州・雲南からビルマ・シャムに分布。 ・第五 (第四式) ……中國と 東 トンキン 京 灣付一帶に分布。 各樣式の分布狀態は銅鼓の發源地とその波の仕方を反映するもの と思われる。
六
銅鼓の起源地
銅 鼓 の 分 と そ の 分 布 に よ っ て、 銅 鼓 の 最 も 古 い 第 一 式 甲 が 湖 南・四川であることが分かった。これをほぼ銅鼓の源地と考えれば 良さそうだが、士はなお愼重に檢討する手續きを踏んでいく。紹介 された諸說を列擧しておこう。 インド說 (シュメルツ) カンボジア說 (マイヤー・フォイ) 中國南部 ・ インドシナ島北部說 (ホロート、 ヘーゲル、 ラクーベリ) 東 トンキン 京 南部・安南北部說 (ゴルーベフ) 西歐 ・ 中亞 ・ 西南諸省 ・ インドシナ島北部傳來說 (ケルデルン) 淮河・長沙說 (カールグレン) 以上は凌純聲の整理したものだが、凌氏はカールグレンの說がほぼ 當たっているとして、長江中流、雲夢大澤の地が銅鼓の源地である とする。その理由はの四點である。 1 湖南省陽は宋・のときに甚だ多數の銅鼓を出土した。黎 獠 民族は古くこの澤にあり、その後第に南下したものと讀「釋南」 五〇 思われる。 2 の人孫光 ・ 杜牧 ・ 溫筠 ・ 許渾の詩に 獠 族が銅鼓蠻歌、 神を祀って樂舞することが歌われている。 3 銅鼓の樣にある室と船との形式が 「依樹積木、以居其上」 といわれる 獠 族の生活と一致している。 4 黎 獠 民族が北方中原諸族の壓をけて南下した事が古い 料によって證される。 ここに黎 獠 とされる民族は獻に俚 獠 ・狸 獠 などとも記される民族 で、 凌 純 聲 氏 に よ れ ば 今 の イ ン ド ネ シ ア 人 と 同 一 の 民 族 で あ る と い う。これはコルベフやハイネ・ゲルテルンなどの考え方にもずるも のがある。そして銅鼓の最も古い形式のものが湘西の洞湖附か ら發見されることに目すべきだという。ここで少しだけ付言してお く と、 「 俚 獠 ・ 狸 獠 」 な ど と さ れ る 民 族 は 現 在 壯 族・ 布 依 族 と 呼 ば れ る も の で あ る ら し い こ と が 馬 寅 『 說 中 國 の 少 數 民 族 (2 ( 』 に 記 さ れている。そして銅鼓の使用はさらに苗族にも擴がっていることをも 考慮しておくべきだろう。
七
「南」字は銅鼓を吊るした形
士の考證はに「南」字が銅鼓を吊るした形であることに入って いく。字形識に關わる問題であるから、銅鼓を實際に用いている場 面や樣子を確かめなければならない。それで銅鼓使用の樣子を記した 獻を引用しながら論證の補強が圖られる。ただ讀む側からするとす でにべられたこともあり、內容に重複する氣がするので省略に從 うが、しかしこうした手續を疎かにしない點にこそ士の論證が到 極まりないことを示してもいるわけである。ここでは「南」字が銅鼓 を吊るした形であることを緻密にべている箇を引用しておく。 これらの記によるときは、銅鼓はこれを繫して擊ったこと がらかであり、その他の記事においても、その聲の極めて淸亮 であることをいうものが多いので、別に繫することをいわない ものでも、みなこれを繫けて擊ったものであることが知られる。 いま東京河內の東洋學院物 に藏する一銅鼓は、吊り下げた形 の ま ま で 寫 さ れ て い る が、 實 は 繫 け る と い っ て も こ の よ う に 形に下げるのではなく、上の方はもっと絞って中央の一處に合せ て吊るしたものであろう。銅鼓の樣には、銅鼓を木架の下に描 いたものがあるが、おそらく一古い時代においては、磬が のように接木に繫けられていたように、銅鼓も接木に繫けた ものではなかろうか。從ってその形は木形の と、銅鼓の側面形 と、そして銅鼓の兩旁の耳から に繫けられた紐の部分 と、 この三つの部分をもつことになる。そしてこの三つの部分を合せ るとまさに とはなって、銅鼓を木に繫けた形をあらわす。銅 鼓の下部は洞となっていて、その點が鐘とく異なっており、 鐘 な ら ば 下 邊 の 于 の 部 分 が の よ う な 形 に は な ら な い は ず で あ る。もし右の推定がり立つものとすれば、南字は銅鼓の兩耳を 吊って、これを木の一處に繫けた形であり、本來は樂である銅立命白川靜記念東洋字究紀 第六號 五一 鼓の名である。しかもこの形式の樂はひとり狸 獠 に限られた彼 ら特のものであり、また彼らはこれ以外には他の樂を用いる ことが甚だ少い。そしてこのような事からいえば、樂の名で ある南がやがて南人たる狸 獠 を稱する南となり、ついに南方を 味する南に用いられるに至った事が、極めて自然に解せられる のである。 (八八頁) [一二四〇~一二四一頁] こうして「南」字が銅鼓を吊るした形であることが緻密に論證され た。もはや疑う餘地はないと言ってもよい。しかしこれは字形を中心 に考察した結論である。に 「南」 ののことに入る。 「南」 字は 「ナ ン」というをもつが、銅鼓を味する語のが「ナン」であること を示すことができるかどうかという問題である。この點については比 初めの方で言されていたのでご記憶の讀もあるだろう。ここ で再度持ち出してその裏付けを提示するというび方である。 ここも士の章を引用しておこう。今し方引用した箇のぐ後 のところである。 銅鼓を木に繫した形である「南」が、ナンのをもってよま れたのは、おそらく 獠 人の語に出るものであろう。鳥居藏士 の苗族査報吿によると、士が貴州北盤江の上游にある毛口地 方で仲家の銅鼓使用狀況を査されたとき、彼らは、われわれは 苗子や羅ゝとって、もとからここにいたのではない。の洪武 のとき、はじめてここにってきたものだ。われわれの樂には 笙 の は な く、 た だ 銅 鼓 だ け を 使 う。 銅 鼓 は 土 語 で は Nan-Y an と い う。 と き ど き 地 中 か ら 發 掘 さ れ る。 族 が 入 し て か ら は すっかり奪い取られ、今ではもうなくなってしまった。だからや む な く 皮 で 作 っ た 太 鼓 を 使 っ て い る、 と 語 っ た と い う。 ( 八 八 ~ 八九頁) [一二四一頁] こうしての面からも「南」が銅鼓を示すものであることがらか になった。士の考證はさらに念入りに細部の檢討を重ねていくが省 略に從う。 ○〔小 要 〕 以上によっていえば、南字は銅鼓を木に繫した形であって、それ は Nanj と よ ま れ、 そ の 樂 と あ わ せ て 南 任 の 語 が あ っ た よ う で あ る。 い ま 銅 鼓 を 土 俗 の 語 で Nan-Y an と 呼 ぶ の は、 そ の 語 の 今 に 存 し た も のではないか。もしかく考えうるならば、南字の形義は、一應の說 をなしうるに至るわけである。 南は 獠 族特の樂であり、古い時代からこの民族獨自のものとし て人に強烈な印象を與えていたものであったから、人はやがてか れらをも南とよび、南人と稱し、いてはかれらのむ地域が南とよ ばれ、また轉じて方角の名にも用いられるに至ったという事は、右 によって大體首肯されるであろう。 これらの南人は、古くは遙か北方の揚子江中流附一帶にあり、桐
讀「釋南」 五二 柏山を越えて中原の殷人と接觸をもっていたものと思われる。古代 においては、異種族の間には互いに他族を犧牲としてこれを祀る風が あって、殷人が羌・南・夷をその宗・陵墓に用いたことはすでに記 したりである。ただ南に關する卜辭が羌に比すると甚だ少なく、 特に獲南の辭が殆ど見いだしがたいほどであるのは、南人が殷と接觸 しつつも、かれらがとして山谷や沼澤地の狹長な地帶などをんで み、かつ甚だ捷であり、に臨んではちに南を鼓してその同 を結束し、強力な抵抗を行なったため、羌人のように容易に捕獲し えなかったというような事もあったものと思う。