特集「グローバル化と世界法」
グローバル化と国際経済法の変容
中 川 淳 司
目 次 ⚑ はじめに:経済のグローバル化の意義と背景 ⚒ 経済のグローバル化に国際経済法が果たした役割 ⑴ 供給網のグローバル化に国際経済法の果たした役割 ⑵ 金融のグローバル化に国際経済法が果たした役割の限定性 ⚓ グローバル経済の管理運営と国際経済法の役割 ⑴ グローバル供給網の管理運営に関わる国際経済法 ⑵ グローバル金融の管理運営に関わる国際経済法 ⚔ グローバル化と国際経済法の課題 ⑴ 世界貿易の伸びの低下 ⑵ グローバル供給網の管理運営に向けた国際経済法の課題 ⑶ 金融監督規制の国際制度をめぐる課題 ⑷ グローバル化と格差をめぐる国際経済法の課題 1 はじめに:経済のグローバル化の意義と背景 本論文は,1990年代以降に進行したグローバル化が国際経済法の構造と機能 に及ぼした変容を考察する.グローバル化(globalization)は多義的な概念で あるが,本論文では,米国の国際政治学者 Drezner に倣って,「国境を越える 経済交流の障壁を劇的に減らす一連の技術的,経済的及び政治的な過程」と定 義する(⚑).国境を越える経済交流の活発化,つまり経済のグローバル化に焦点 を当てた定義である.したがって,本論文では経済のグローバル化以外のグ ローバル化,例えばグローバル化の文化的な側面や社会的な側面には踏み込ま ない.程度の差を問わなければ,上記の意味でのグローバル化自体は,西欧に 限っても大航海時代以来見られてきた現象である.また,19世紀の欧州と米国の間にはローカルなグローバル化とも言うべき緊密な経済交流の関係が成立し ていた(⚒).しかし,これらの過去におけるグローバル化と異なり,1990年代以 降のグローバル化には⚒つの顕著な特色がある.第一に,実体経済に関しては, 生産工程のグローバルな分散ないし供給網のグローバル化(globalization of supply chains)が急速に進んだ.第二に,金融のグローバル化が進んだ. 供給網のグローバル化を示すデータとして,図⚑に世界の主要地域間の貿易 フローの変遷を掲げた.部品等の中間財の貿易と最終財の貿易の比率がわかる ように色分けされている.この図から明らかなように,1990年から2010年にか けて,東アジアにおいて,日本が主導して ASEAN,さらに中国を巻き込んだ 供給網が形成されたことが見て取れる.1985年のプラザ合意以降に急速に進ん 図⚑ 世界の主要地域間の貿易フロー(1990年,2000年,2010年,単位10億米ドル) *矢印の大きさは 貿易額(10 億ドル), 色彩は中間財シェア を示す。 70%~ 60%~ 50%~ 40%~ 30%~ ~ 30% (1990) 東アジア 日本 中国 EU NAFTA ASEAN 290.9 290.9 992.3 992.3 210.6210.6 14.0 14.0 23.5 23.5 38.138.1 17.9 17.9 20.7 20.7 24.4 24.4 67.467.4 23.4 23.4 125.1 125.1 119.1119.1 28.3 28.3 101.5 101.5 29.3 29.3 36.8 36.8 62.4 62.48.08.0 24.9 24.9 24.424.4 29.6 29.6 25.8 25.8 9.8 9.8 (2000) 東アジア 日本 中国 EU NAFTA ASEAN 800.7 800.7 1,391.3 1,391.3 635.8635.8 56.1 56.1 67.1 67.1 47.047.0 42.6 42.6 50.3 50.3 82.4 82.4 90.090.0 66.7 66.7 211.9 211.9 262.1262.1 129.4 129.4 163.9 163.9 58.0 58.0 69.4 69.4 82.1 82.127.127.1 39.9 39.9 53.053.0 96.8 96.8 86.3 86.3 44.2 44.2 (2010) 東アジア 日本 中国 EU NAFTA ASEAN 1,971.5 1,971.5 2,791.7 2,791.7 839.1839.1 143.5 143.5 208.4 208.4 65.0 65.0 145.3 145.3 197.2 197.2 384.7 384.7 93.993.9 115.9 115.9 278.5 278.5 380.8380.8 432.0 432.0163.9163.9 94.1 94.1 104.9 104.9 39.9 39.9 53.053.0 96.8 96.8 193.7 193.7 208.5 208.5 113.0 113.0 80.5 80.5 (出 典:経 済 産 業 省 編『通 商 白 書 2012 年 版』(勝 美 印 刷 株 式 会 社,2012 年),178 頁 第 2-2-1-1(a)図~(c)図)
だ円高による国内製造コストの相対的上昇に対処するため,日本企業,特に製 造業が積極的にこれらの地域に製造拠点を移した結果である(⚓).同様の供給網 は北米,欧州でも形成された(⚔).
次に,金融のグローバル化を示すデータとして,図⚒に世界の外国為替取引 量の推移を掲げた.これは国際決済銀行(Bank for International Settlements, BIS)が⚓年毎に発表している,⚔月の⚑日当たり取引の平均である.それに よると,直近の2016年には6.5兆ドル,おおよそ700兆円の取引が行われている. 日本の2016年度の実質 GDP(523.5兆円)(⚕)を上回る額の外国為替取引が⚑日 で行われていることがわかる.さらに図⚒からは,外国為替取引が1990年代以 降に急速に伸びたことが確認できる. 1990年代以降の経済のグローバル化,即ち供給網のグローバル化と金融のグ ローバル化に共通する技術的な背景として,情報通信技術の革新が進み,情報 通信の効率化と費用の低下が急速に進んだことが挙げられる.この結果,国境 を越えて展開する複雑な供給網を効率的に運営することが容易になった(⚖).ま 図⚒ 世界の外国為替取引量(⚔月の⚑日当たり平均,単位10億米ドル) 0 1000 2000 3000 4000 5000 6000 7000 8000 1989年 1992年 1995年 1998年 2001年 2004年 2007年 2010年 2013年 2016年
(出典:Bank for International Settlements (BIS), Triennial Central Bank Survey of Foreign Exchange and Derivatives Market Activity, each year.)
た,多様な国際金融取引を低コストで展開することが可能になった(⚗).これに 加えて,金融のグローバル化の技術的背景として,金融工学が発展し,とりわ け資産証券化技術が発達したことが挙げられる(⚘).また,政治的な背景として, 冷戦終結後,市場経済志向の政治体制が普遍化し,世界の国々が国境を越える 経済活動の自由化を推進したことが挙げられる.歴史的に見れば,市場経済を 重視し,市場への国家の介入の最小化を唱える新自由主義の発想は1980年代初 頭以来,英米を中心とする先進国によって唱えられてきた.冷戦終結後はこの ような発想が旧社会主義諸国にも広まり,世界銀行や国際通貨基金の融資政策 にも反映されて,途上国を巻き込んだ広範囲な広がりを見せるに至った(いわ ゆる「ワシントン・コンセンサス」(⚙)). 2 経済のグローバル化に国際経済法が果たした役割 国際経済法は,1990年代以降の経済のグローバル化を促進し,支える制度的 なインフラストラクチャーとして発展した.ただし,グローバル化に国際経済 法が果たした役割は,供給網のグローバル化と金融グローバル化とでは異なっ ている. ⑴ 供給網のグローバル化に国際経済法が果たした役割 供給網のグローバル化においては国際経済法が大きな役割を果たした.まず, 多角的貿易機構であるガット(関税及び貿易に関する一般協定),そしてガッ トを引き継いで1995年に発足した WTO(世界貿易機関)を通じて産品貿易と サービス貿易の自由化が進められた.特に,WTO の下で産品貿易とサービス 貿易の自由化を進める多数の協定が締結されたことが重要である.例えば,ポ ジティブリスト方式を採用して WTO 加盟国が段階的にサービス貿易を自由 化する枠組みを設けたサービス貿易に関する一般協定(General Agreement on Trade in Services,GATS),知的財産権保護に関する国際的な最低基準を 広範囲にわたって設定した貿易関連知的財産権協定(Agreement on Trade Related Intellectual Property Rights,TRIPS 協定)等は WTO の発足と同時 に発効した.1996年12月には情報通信技術を体現した産品の貿易自由化を進め
る情報技術協定(Information Technology Agreement,ITA)が締結された. 情報技術協定は先進国を中心とする29の WTO 加盟国(EU(当時は15構成国) を含む.情報技術製品の貿易シェアは世界貿易全体の83%)によって合意され, 1997年⚗月に発効し,HS 分類で約200品目の情報技術製品の関税を撤廃した. 加盟国はその後2016年⚒月時点で82に増加し,加盟国の情報技術製品の貿易 シェアは世界貿易全体の97%にまで拡大した.この間,情報技術製品の貿易額 は5490億ドル(1996年)から1.7兆ドル(2015年)へと⚓倍強に拡大した(10). 2015年12月には関税撤廃の対象となる情報技術製品の範囲を約200品目追加す る情報技術協定の拡大交渉が妥結し(11),2016年⚗月から関税撤廃が順次開始さ れた.2019年⚗月には約90%の関税が撤廃され,2024年⚑月には全品目の関税 が全加盟国について撤廃されることになる(12). ただし,WTO の下で2001年に開始されたドーハ開発アジェンダは,交渉進 展の鍵を握る先進国とインド,中国,ブラジル等のいわゆる新興国の立場が対 立したため,長期にわたって停滞しており,前述した情報技術協定の拡大交渉 を除けば,WTO を通じた産品貿易とサービス貿易の自由化は過去10年以上に わたって大きな進展を見ていない(13).それに代わって,主要国は,自由貿易協 定(free trade agreement,FTA)や二国間投資条約(bilateral investment treaty,BIT)を通じた産品貿易・サービス貿易や投資の自由化・円滑化と貿 易・投資ルール形成へと通商政策の軸足を移すようになってきている(14).図⚓ に発効済みの FTA の推移を示した.WTO が発足する前の1990年代初頭以来, FTA の数が顕著に増加していることがわかる.発効済みの FTA の数は2016 年12月現在で286,この他に署名済みで未批准のもの,交渉が妥結して協定分 の最終確定作業段階にあるものが18あるという. 図⚔に署名済みの国際投資協定(BIT と FTA 投資章の合計)の推移を示し た.こちらも FTA 同様に,1990年代初頭以降コンスタントに国際投資協定の 数が増加していることがわかる. このように,国際経済法は貿易・投資の自由化・円滑化と貿易・投資ルール 形成を通じて供給網のグローバル化の推進を支える重要な役割を果たしてきた. これに対して,国際経済法が金融のグローバル化に対して果たした役割は限定
的である. 図⚓ 発効済みの FTA の推移 0 50 100 150 200 250 300 350 1950-54 1955-59 1960-64 1965-69 1970-74 1975-79 1980-84 1985-89 1990-94 1995-99 2000-04 2005-09 2010-14 2015- (出典:日本貿易振興機構(ジェトロ)「世界と日本の FTA 一覧」,2016年12月に基づいて筆者 作成.) 図⚔ 署名済みの国際投資協定の推移 Cumulative number of llAs 3324 Annual numcer of llAs 250 200 150 100 50 0 Annual BITs Annual TIPs All llAs cumulative
1980 1982 1984 1986 1988 1990 1992 1994 1996 1998 2000 2002 2004 2006 2008 2010 2012 2014 2016
(出典:UNCTAD, World Investment Report 2017 : Investment and the Digital Economy, 2017, p. 111, Figure III.11.)
⑵ 金融のグローバル化に国際経済法が果たした役割の限定性
第二次世界大戦後の国際通貨・金融システムの要として設立された国際通貨 基 金(IMF)は,そ の 設 立 協 定 第 ⚖ 条 第 ⚓ 項 に,加 盟 国 が 国 際 資 本 移 動 (international capital movements)の規制に必要な管理を実施することができ
るという原則を掲げた.以下に引用する.
「加盟国は,国際資本移動の規制に必要な管理を実施することができる.た だし,いずれの加盟国も,次条第⚓項⒝及び第14条第⚒項に定める場合を除く ほか,経常取引のための支払を制限し又は契約の決済上の資金移動を不当に遅 延させるような方法で,この管理を実施してはならない.」
IMF 設立協定は第⚘条第⚒項で,経常取引(current transactions,産品貿 易及びサービス貿易)に伴う国際的な資金移動については原則として制限を禁 じている.これに対して,それ以外の国際資本移動については加盟国が規制・ 制限することができるというのが IMF の掲げた原則である.IMF が発足した 第二次世界大戦直後は米国を除く大半の加盟国で外貨準備が不足しており,加 盟国が国際資本移動を規制・制限することは自明の要請であった. その一方で,主要先進国は OECD の資本自由化規約(15)(1961年)の下で自 主的かつ段階的に資本取引の自由化を進めた.資本自由化規約は,付属書A 「資本移動自由化リスト」に自由化措置の対象になりうる全ての越境資本取引 を列挙した.付属書AにはA表とB表が掲載されており,A表は比較的早く規 制を撤廃できる傾向のある長期の資金取引,B表は規制を撤廃するのに時間が かかりがちな短期資本取引を列挙している.A表掲載の越境資本取引(16)につい ては,各加盟国が自国の留保表(付属書Bに掲載)に掲げる現行の自由化に対 する制限措置を維持し,これをさらに制限することが原則として禁じられる (スタンド・スティル,規約第⚒条bi)項~iii)項).これに対して,B表に掲 げられる越境資本取引(17)について各加盟国はスタンド・スティルの義務を負わ ず,自国の留保表(付属書Bに掲載)を修正・追加していつでもこれを留保す ることができる(規約第⚒条biv)項).こうして,OECD に加盟する先進諸国 は,越境資本取引に関する自国の留保表を改正することにより,自発的かつ段 階的に資本取引の自由化を進めることになった.なお,以上の自由化義務に対
しては,公の秩序維持,公衆衛生,道徳及び安全の保護(規約第⚓条第⚑項), 国家安全保障(規約第⚓条第⚒項)のためにいつでも規制措置をとることがで きるとの例外が認められている他,「自国の経済及び財政金融状態に照らして 正当と認められる場合」に自由化義務が免除されるとの規定も置かれている (規約第⚗条第⚑項).このように,OECD の資本自由化規約に基づく越境資 本取引の自由化は,加盟国の自主性と裁量を重んじる自発的かつ段階的で柔軟 な自由化として進められた. 1990年代の後半になって,IMF は資本移動の自由化を義務付ける協定改正 を検討したが,アジア金融危機(1997-1998年)が勃発し,改正は断念され た(18).この結果,今日に至るまで,IMF 設立協定は「加盟国は,国際資本移 動の規制に必要な管理を実施することができる」という第⚖条第⚓項の原則を 維持している.したがって,今日に至るまで,OECD 加盟国を除く IMF 加盟 国,即ち途上国に対しては資本移動の自由化を義務付ける国際経済法の規則は 存在しない.1990年代初頭以来金融のグローバル化が世界的に進み,途上国で も資本自由化を進める国が増えたが,それは国際経済法の義務の履行としてで はなく自発的な政策として進められたものである(19). 3 グローバル経済の管理運営と国際経済法の役割 国際経済法はグローバル経済の管理運営において重要な役割を果たしている. ただし,グローバル供給網の管理運営とグローバル金融の管理運営とでは国際 経済法が果たす役割は異なっている. ⑴ グローバル供給網の管理運営に関わる国際経済法 まず,グローバル供給網を円滑に運営するには広範囲の政策が必要となる. TPP(環太平洋パートナーシップ)に代表される最近の広域 FTA(20)はこのた めの包括的な規制・制度を提供している.表⚑に,供給網のグローバル化に必 要とされる政策を,⑴複数の国に分散した製造工程をつなぐためのサービスリ ンク費用の削減に関わる政策,⑵各製造工程の生産費用の削減に関わる政策に 分類し,夫々のグループに含まれる政策を列挙して,それらに対応する WTO
表⚑ 供給網のグローバル化に必要な政策と WTO,TPP 供給網のグローバル化に 必要な政策 関連する WTO 協定 関連する TPP の章 サ ー ビ ス リ ン ク 費 用 の 削 減 に 関 わ る 政 策 関税引下げ 1994 年 GATT,情 報 技術協定 (3,4)物品市場アクセス(2,4),原産地規則 貿易円滑化 貿易円滑化協定 原産地規則(3.4),貿易円滑化(5),透明性及び腐敗防止(26) 非関税障壁の撤廃 SPS 協定,TBT 協定,AD 協定,SCM 協定, セーフガード協定 貿易救済措置(6),SPS(7),TBT(8), 投資(9),国有企業(17),ビジネス円 滑化(22),規制の整合性(25) ロジスティクスのハード インフラの整備 GATS 約 束 表,政 府 調達協定 電気通信(13),政府調達(15) ロジスティクスのインフ ラサービスの供給 GATS 約束表 サービス市場アクセス(金融・電気通信を含む)(10,11,13) ビジネス関係者の移動の 自由化・円滑化 GATS 約束表 ビジネス関係者の一時的入国(12) 法制・経済制度の調和 SPS 協定,TBT 協定,TRIPS 協定 SPS(7),TBT(8),投資(9),電子商 取引(14),国有企業(17),知的財産 (18),労働(19),環境(20),透明性及 び腐敗防止(26) 各 工 程 の 生 産 費 用 の 削 減 に 関 わ る 政 策 税制(法人税減免など) ビジネス円滑化(22) 人的資源開発 GATS 約束表 サービス市場アクセス(教育,職業訓練など)(10),協力及び能力開発(21) 金融などの生産支持サー ビスの充実 GATS 約束表 金融サービス(11),電子商取引(14) 投資の自由化・円滑化 TRIMs 協定 投資(9),ビジネス円滑化(22),規制の整合性(25) 許認可の迅速化・透明性 向上 透明性及び腐敗防止(26) 政府調達市場アクセス 政府調達協定 電気通信(13),政府調達(15) 知的財産権保護 TRIPS 協定 知的財産権(18) 競争政策 競争(16),国有企業(17) ロジスティクスのハード インフラの整備 GATS 約 束 表,政 府 調達協定 政府調達(15),電気通信(13) ロジスティクスのインフ ラサービスの供給 GATS 約束表 サービス市場アクセス(金融・電気通信を含む)(10,11,13) 下請け産業の強化 投資(9),ビジネス円滑化(22) 産業集積の形成 投資(9),ビジネス円滑化(22) 法制・経済制度の調和 SPS 協定,TBT 協定,TRIPS 協定 SPS(7),TBT(8),投資(9),電子商 取引(14),国有企業(17),知的財産 (18),労働(19),環境(20),透明性及 び腐敗防止(26) (注:右列( )内の数字は関連する TPP の章番号を指す.) (出典:筆者作成.)
協定と TPP の章を掲げた. 本稿では表⚑の細部には立ち入らないが,ポイントとして⚒点を指摘したい. 第一に,WTO に比べると TPP がカバーしている政策分野ははるかに広い. 特に,WTO では限定的にしかカバーされていない投資の自由化・円滑化(21)に ついては,TPP は投資章(第⚙章),越境サービス章(第10章),金融サービ ス章(第11章),電気通信章(第13章),競争力及びビジネス円滑化章(第22 章)など,広範囲の規定を設けている.同様に,WTO がカバーしていない電 子商取引(第14章),WTO ではごく限定的な規律しか置かれていない(22)国有 企業及び指定独占企業(第17章)についても TPP は詳細な規定を設けた.第 二に,サービスリンク費用の削減に関わる政策,各工程の生産費用の削減に関 わる政策のいずれについても,締約国の法制・制度の調和は重要な意義を持つ が,この点でも TPP は WTO よりも広範囲の法制・制度をカバーしている. ただし,TPP の規定によって締約国の法制・制度の調和がどの程度進むかに ついては,TPP の規定ぶりや当該規定の解釈適用をめぐる紛争に対して TPP の紛争解決手続が適用されるかどうかなど,規定の細部に立ち入った厳密な検 討が必要である(23). 次に,グローバル供給網を通じて展開される経済活動に対する各国の公法的 規制(課税,競争法・競争政策,贈賄規制等)の配分と調整に関わる国際経済 法が発展した.まず,課税に関しては,国境を越えて展開される経済活動に対 して各国が課税管轄権を行使する結果として生じる二重課税ないし無課税の防 止のため,二国間租税条約のネットワークが形成されている(24).また,OECD は二国間租税条約の内容の国際標準としてモデル租税条約を策定・公表してお り(25),日本が締結する二国間租税条約もおおむねその内容を踏襲している.た だし,二国間租税条約は締約国が課税主権を持つことを前提にして締約国の課 税管轄権の調整を図るものであり,法人税率の調整など,締約国の課税主権の 実質的な内容の調整に踏み込むものではない.これに対して,グローバル供給 網を展開する多国籍企業による税源侵食と利益移転(base erosion and profit shifting,BEPS)に対処するため,OECD と G20(26)が主導して,2015年11月に BEPS プロジェクトの最終報告書が公表された(27).表⚒にその概要を取りまと
めた.これについては,後ほど⚔で触れる. 競争法・競争政策の分野では,競争法の管轄権の競合の調整と執行協力を目 的とする二国間競争協力協定や FTA 競争章が増えている.例えば,日本は米 国(1999年),EC(2003年),カナダ(2005年)との間で独占禁止協力協定を 締結し,独占禁止委員会と相手国競争当局との間で執行活動に関する通報,協 力,調整等を行っている(28).この他に,日本が締結した経済連携協定(EPA) の中には,競争章を設けて競争当局間の協力や調整を規定するものがある(29). 外国公務員に対する贈賄の規制に関しては,1997年に OECD 外国公務員贈 賄防止条約(30)が署名され,2003年には国連腐敗防止条約(31)が採択された.いず れの条約も国際取引において外国公務員への贈賄を犯罪化することを義務付け 表⚒ BEPS プロジェクト最終報告書(2015年11月)の概要 A 実 質 性 行動⚑ 電子経済の課税上の課題への対処 行動⚒ ハイブリッド・ミスマッチ取極めの効果の無効化 行動⚓ 外国子会社合算税制の強化 行動⚔ 利子控除制限ルール 行動⚕ 有害税制への対処 行動⚖ 租税条約の濫用防止 行動⚗ 恒久的施設(PE)認定の人為的回避の防止 行動⚘ 適正な移転価格の算定が困難である無形資産を用いた BEPS への対処策 行動⚙ グループ内企業に対するリスクの移転,過度な資本の配分 等によって生じる BEPS の防止策 行動10 その他移転価格算定手法の明確化や BEPS への対処策 B 透 明 性 行動11 BEPS の規模・経済効果の分析方法の確立 行動12 タックス・プランニングの義務的開示 行動13 多国籍企業の企業情報の文書化 C 予見可能性 行動14 より効果的な紛争解決メカニズムの構築 行動15 多数国間協定の策定 (出典:筆者作成)
る.日本では OECD 外国公務員贈賄防止条約を実施するため,1998年に不正 競争防止法を改正し(1999年⚒月施行),外国公務員等に対する不正の利益の 供与等に対して,違反者に⚓年以下の懲役または300万円以下の罰金,法人重 科として⚓億円以下の罰金を科すこととした.その後2004年に関連法令の見直 しが行われ,現在では外国公務員贈賄罪に対しては,⚕年以下の懲役または 500万円以下の罰金(またはこれらの併科),法人重科として⚓億円以下の罰金 が科されるとともに,国民の国外犯も処罰されることになっている(32).OECD では1994年に設立された国際商取引における贈賄に関する OECD 作業部会 (以下「OECD 贈賄作業部会」)が OECD 外国公務員贈賄防止条約の各国によ る実施状況をモニターしている.条約の国内実施法の立法状況を審査する フェーズ⚑,国内実施法の履行状況を審査するフェーズ⚒,条約の執行状況を 審査するフェーズ⚓,条約の執行状況及び国ごとの事情に応じた分野横断的な 課題を審査するフェーズ⚔と段階を追って審査が行われる(33).日本は2002年に フェーズ⚑,2005年と2006年にフェーズ⚒,2007年にフェーズ⚒のフォロー アップ,2011年にフェーズ⚓,2014年にフェーズ⚓のフォローアップの審査を 受けた.審査では,1999年の不正競争防止法改正以来,外国公務員贈賄で起訴 された件数が極めて少ないことが問題として指摘され,外国公務員への贈賄で 有罪となった企業や個人が不正収益をロンダリング(資金洗浄)などの手口で 保有できないようにするため,組織的犯罪処罰法の改正が繰り返し要請されて きた.また,日本企業による外国公務員贈賄を摘発,捜査,起訴できるように, 警察と検察のリソースの組織化を図る行動計画の策定が提言された(34).次回の 審査は2019年⚓月に実施される予定である. 最後に,グローバル供給網を通じた環境保護,労働基準の遵守確保,人権保 障等の社会的課題への取組みの動きに触れる.まず,深い統合を志向する FTA で環境,労働について規定する例が出てきた.表⚓に TPP 環境章(第 20章)の概要を挙げた.本稿では内容の細部には立ち入らないが,ポイントを ⚒点指摘したい.第一に,第20.3条の一般的な約束の⚒項で,環境に関する締 約国の主権的権利が宣言されている.つまり,国内の環境保護の水準を決定し, また環境法の執行にどのくらい予算を割くかは,あくまでも締約国が決定する
表⚓ TPP 環境章(第20章)の概要 条文番号 表 題 概 要 第20.1条 定義 第20.2条 目的 ①相互補完的な貿易・環境政策の推進,高水準の環境保護,効果的な環境法令の執行,貿 易に関連する環境問題への対処能力の向上 第20.3条 一般的な約束 ②環境に関する締約国の主権的権利④貿易・ 投資に悪影響を及ぼす継続的・反復的な環境 法令の効果的な執行の懈怠の禁止⑤環境法令 執行のための資源配分に関する締約国の裁量 権の承認⑥貿易・投資を奨励する目的での環 境法令の免除等の逸脱の禁止⑦他締約国領域 内での自国環境法令の執行の禁止 第20.4条 環境に関する多数国間協定 ①自国が締結している多数国間環境協定の実施約束の確認 第20.5条 オゾン層の保護 ①モントリオール議定書に基づく措置の実施 義務②措置の策定・実施における公衆参加と 公衆との協議,措置の情報公開③第20.12条に 基づく協力 第20.6条 船舶による汚染からの海洋環境の保護 ①マルポール条約に基づく措置の実施義務② 措置の策定・実施における公衆参加と公衆と の協議,措置の情報公開③第20.12条に基づく 協力 第20.7条 手続事項 ②国内の利害関係者による環境法令の違反容疑調査要請の保証③環境法令の執行手続の保 証⑤環境法令違反への制裁・救済手続 第20.8条 公衆の参加のための機会 ②本章の規定の実施に関する利害関係者との協議の仕組みの保証 第20.9条 公衆の意見の提出 ①本章の規定の実施に関する自国の者の意見 書の受理と回答②意見書の受理・検討手続の 整備④環境法令の効果的な執行懈怠の意見と 回答に関する環境小委員会での協議 第20.10条 企業の社会的責任 自国領域内・管轄内で活動する企業が環境関連の CSR 原則を採用するよう奨励する 第20.11条 環境に関する実績を向上させるための任意の仕組 み ①環境保護・規制措置の補完のための柔軟で 任意の仕組みの有用性の承認②法令・政策に 従い,適当と認める範囲内で十何・任意の仕 組みを奨励する 第20.12条 協力の枠組み ③協力を担当する連絡部局の指定⑦連絡部局を通じた本章の実施・運用に関する定期的な
検討と環境小委員会への報告 第20.13条 貿易及び生物の多様性 ②法令に従い,生物多様性の保全・持続可能 な利用を促進・奨励する④管轄内の遺伝資源 の取得機会容易化の重要性の承認,一部締約 国が利用者と提供者の合意する利用条件を国 内法制で義務付けることの承認 第20.14条 侵略的外来種 ②侵略的外来種に関する情報共有と協力のため,環境小委員会と SPS 小委員会で調整する 第20.15条 低排出型・強靭な経済への移行 ②第20.12条に基づき低排出型経済への移行のために協力する 第20.16条 海洋における捕獲漁業 ④保存管理措置の実施・効果的執行を通じて, さめ類,うみがめ類,海鳥,海洋哺乳動物の 保存を促進する義務⑤⒜濫獲状態にある魚類 資源に悪影響を及ぼす漁獲補助金の禁止,⒝ IUU 漁業に従事する漁船に対する補助金の禁 止,⑥既存の⑤⒜補助金は協定発効後3年以内 に廃止する⑨現行の漁業補助金の通報義務 第20.17条 保存及び貿易 ②ワシントン条約に基づく義務の履行⑤違法 に採捕・取引された野生動植物の取引に対処 するための措置(制裁・罰則その他を含む。) をとる義務 第20.18条 環境関連物品・サービス ③環境関連物品・サービス貿易に関連する事項につき環境小委員会で検討する 第20.19条 環境に関する小委員会・連絡部局 ①連絡部局の指定・通報②環境小委員会の設 立③環境小委員会の任務④環境小委員会の開 催⑦協定発効後5年以内に環境小委員会は本章 の実施・適用を検討する 第20.20条 環境に関する協議 ②本章の下で生ずる問題につき,連絡部局を通じて協議を要請する③第三国の協議参加 第20.21条 上級の代表者による協議 ①第20.20条協議不調の場合,環境小委員会における協議国代表者の協議を要請する②利害 関係を有する第三国の代表者の協議参加 第20.22条 閣僚による協議 ①第20.21条協議不調の場合,協議国の閣僚協議を要請する③協議は秘密とする 第20.23条 紛争解決 ①前条までの協議不調の場合,協定第28章の 紛争解決手続に付託できる②第20.17条②に関 する紛争についての特則③・④第20.3条④・ ⑥に関する紛争についての特則 (注:「概要」中の数字は各条の項番号を指す.) (出典:筆者作成)
という原則である.深い統合を志向する FTA である TPP においても,国内 の環境保護や環境規制に対する締約国の主権的権利を尊重するという原則を前 提としつつ,オゾン層の保護,生物多様性の保護など,締約国が参加する多数 国間環境条約上の義務に言及するという控えめな規定が設けられている.第二 に,その一方で,TPP は第20.16条の⚕項で,濫獲状態にある魚類資源に悪影 響 を 及 ぼ す 漁 獲 補 助 金 の 禁 止,IUU 漁 業(違 法(illegal),無 報 告 (unreported),無規制(unregulated)に行われる漁業)に従事する船舶に対 する補助金の禁止,という新しい規律を導入した.魚類資源の保存管理のため に漁業補助金の一部を禁止するという手法は,ドーハ開発アジェンダのルール 交渉で米国等が導入を主張してきた手法であるが,日本等が反対したため, ルール交渉では合意を見なかったものである(35).TPP 交渉を主導した米国が ドーハ開発アジェンダから TPP へと交渉のフォーラムを移してこの方式の導 入を実現した. TPP 環境章が示すように,グローバル供給網を通じた環境保護,労働基準, 人権保障等の社会的課題への国際経済法の取組みはこれまでのところ限定的な ものに留まっている.他方で,グローバル供給網を通じた社会的な課題に対処 するために民間企業や業界団体,NGO が自主的な基準・規格を策定し,こう した基準・規格を満たしている認証を獲得することを財貨やサービスの購買や 調達の条件とする,いわゆるプライベート・スタンダードが,1990年代以降に 発達してきた.Abbott と Snidal がプライベート・スタンダードの広がりを整 理したガバナンス・トライアングルを図⚕に掲げる.図⚕で三角形の⚓つの頂 点は,グローバルな社会的課題に対する取組みのための規格・基準を策定する 主体としての国家(states),私企業(firms),NGO を指す.Zone 1 は国家間 の合意ないし国際組織が策定する規格・基準を,Zone 2 は私企業が策定する 規格・基準を,Zone 3 は NGO が策定する規格・基準を指す.これらの中間の Zone は異なるタイプの主体が共同で策定する規格・基準を指す.例えば, Zone 4 は国家・国際組織と私企業が協力して策定する規格・基準である. 注目すべきは,このガバナンス・トライアングルにプロットされた規格・基 準の開始年の推移である.図⚖に,1985年以前,1985年~1994年,1994年以降
の規格・基準の推移を掲げる.
図⚖からわかることは,1985年以前には Zone 1(国家間の合意ないし国際 組織が策定する規格・基準)が大半を占めていたのが,1985年から1994年の間 に Zone 2(私企業が策定する規格・基準)が増加し,1994年以降は Zone 3 (NGO が策定する規格・基準),Zone 6(私企業と NGO が共同で策定する規 格・基準)が増加したことである.さらに,Zone 7(私企業,NGO と国家が 共同して策定する規格・基準)も登場するようになっている.つまり,プライ ベート・スタンダードは優れて1990年代以降の産物であるといってよい. 図⚕ ガバナンス・トライアングル States NGOs Firms IFC IFC IECA++ ECO++
ECO++ OECDOECD BM EMAS ❶ UNGC ILO KIMB TOI ISO14 EQP EQP EITI 4C VPSHR AIP ❼
GRI 1FOAM1FOAM FLO MH MSC SAI FLA FSC ❻ ❺ TCO SULL WRC AI
CCC CERESCERESAUG GSULL ❸ WDC SFI ❷ ICC RC PEFC WBCSD WBCSD
WRAPBS++ GAP++GAP++ ❹
(出典:K. Abbott and D. Snidal, “International Regulation without International Government : Improving IO Performance through Orchestration”, 5 Review of International Organizations, 2010, pp. 315-344, p. 319, Fig. 1.)
表⚔ ガバナンス・トライアングルにプロットされた規格・基準の正式名称と開始年
Zone 1
BM WHO Code of Marketing for Breast-milk Substitutes, 1981 ECO German Blue Angel Eco-label, 1978
EMAS EU Eco Management and Audit Scheme, 1995 IECA The Employment of Children Act (India), 1938
IFC World Bank International Finance Corp. Safeguard Policies, 1998 OECD Guidelines for Multinational Enterprises, 1976
Zone 2
BS The Body Shop, “Trade Not Aid” initiative, 1991
BSC Business Social Compliance Initiative ; European Supplier LaborStandard, 2004 GAP Gap, Inc., Labor Rights Scheme, 1992
ICC Int` l Chamber of Commerce Busines Charter for SustainableDevelopment, 1991 PEFC Programme for the Endorsement of Forest Certification, 1999 RC Responsible Care, 1987
SFI Sustainable Forestry Initiative, 1994 GG Global GAP, 1997 (as Eurep GAP)
WBCSD World Business Council for Sustainable Development, 1992 WDC World Diamond Council Warranty System for Conflict Diamonds,2004
WRAP Worldwide Responsible Apparel Production, Industry LaborCode, 2000
Zone 3
AI Amnesty International Human Rights Guidelines for Companies,1997 CCC Clean Cloths Campaign Code of Labor Practices for Apparel, 1998 CERES CERES Principles on Environmental Practices, 1989
GSULL Global Sullivan Principles on Economic and Social Justice, 1999 RUG Rugmark Labeling Scheme to Control Child Labor in Carpets,1994 SULL Sullivan Principles, 1977
1990年代以降にプライベート・スタンダードが登場し,急速に広まった背景 として,⚓点が指摘できる.第一に,1990年代以降,供給網のグローバル化が 急速に進み,財貨やサービスに対する国家の規制が困難になった.この点はと
Zone 4
EQP Equator Principles, 2003
ISO14 ISO 14001 Environmental Management Standard, 1996 TOI Tour Operators Initiative, 2000
UNGC UN Global Compact, 2000
Zone 5 TCO TCO Development Environmental and Energy Standards forComputers, 1992
Zone 6
FLA Fair Labor Association ; Apparel Industry Scheme, 1999 FSC Forest Stewardship Council Certification, Labeling Scheme, 1993 FTO World Fair Trade Organization ; Standard for Fair TradeOrganizations, 2004
GRI Global Reporting Initiative Standards for Social, EnvironmentalReports, 1997 IFOAM Int`l Federation of Organic Agriculture Movements, 1972 MH Max Havelaar Fair Trade Certification, Labeling for Coffee, 1988 MSC Marine Stewardship Council, 1997
SAI Social Accountability International Standard for Supplier LaborPractices, 1997
Zone 7
4C Common Code for the Coffee Community Social, Environmental,Economic Standards, 2006
AIP Apparel Industry Partnership ; Clinton Administration StakeholdersScheme, 1996-97
EITI Extractive Industries Transparency Initiative : UK FinancialDisclosure Scheme, 2002-03 ILO ILO Declaration on Multinational Enterprises, 1977
KIMB Kimberley Process on Conflict Diamond Trade, 2003
VPSHR Voluntary Principles on Security and Human Rights (privatesecurity), 2000 (出典:Abbott and Snidal, ibid., pp. 320-321, Table 1.)
りわけ地球規模の公共財(例えば,森林減少,地球温暖化ガスの排出規制,生 物多様性の保全,食品安全,金融の安定化等)について明確である.地球規模 でこれらの公共財を達成するためには国家単位の規制では不十分であり,国際 的な規制の協力が必要となるが,伝統的な国際的規制協力の手段である条約を 通じた規制協力は合意形成に時間がかかり,コンセンサスを得ることが容易で ない.そのため,これに代えて私企業や NGO などを通じたプライベート・ス タンダードが求められるようになった(36).第二に,グローバルな供給網を構 築・展開する企業(lead firms)が登場した結果,lead firm が供給網を構成す るサプライヤー等の企業との購買・調達契約に自らが策定した規格・基準を購 買・調達の条件として盛り込むことにより,供給網の全体を通じて自らが策定 したプライベート・スタンダードを普及させることができるようになった(37). この点は,化粧品や食品等の消費財のメーカー,あるいはスーパーマーケット や衣料品などの巨大小売業者が lead firm として構築する供給網において典型 的にあてはまる.第三に,特に先進国の市場において地球規模の公共財に対す る消費者の関心が高まったことを受けて,グローバルな供給網を展開する企業 が地球規模の公共財に対して採用する方針が注目を集めるようになった.地球 規模の公共財の分野で活動する NGO がグローバル企業による地球規模の公共 財侵害行為を伝えてボイコット等のネガティブ・キャンペーンを展開するよう になった(38).1991年にスポーツシューズメーカーの Nike が途上国の製造工場 で劣悪な労働条件の下で生産を行っている(sweatshops)との NGO の批判に 図⚖ ガバナンス・トライアングルの推移 ❶ ❸ ❹ ❼ ❺ ❻ ❷ ❶ ❸ ❹ ❼ ❺ ❻ ❷ ❶ ❸ ❹ ❼ ❺ ❻ ❷ ❶ ❸ ❹ ❼ ❺ ❻ ❷ a.Pre-1985 b.1985-1994 c.Past-1994
さらされたのはその一例である(39).グローバルな供給網を展開する企業にとっ て,供給網全体で地球規模の公共財を追求するプライベート・スタンダードを 策定し,その遵守を訴えることが企業経営上重要になった.その意味で,プラ イ ベー ト・ス タ ン ダー ド の 増 加 は 企 業 の 社 会 的 責 任(corporate social responsibility,CSR)の広がりと軌を一にする(40). 以上の背景の下で,プライベート・スタンダードは1990年代以降急速に発展 を遂げた.策定者の属性に注目すると,個別の企業が策定する規格・基準,業 界団体などが策定する国家単位の規格・基準,より広範な国際的な業界団体や NGO が策定する規格・基準がある(表⚕を参照). プライベート・スタンダードのタイプに注目すると,規格・基準に適合する ことを証明する認証(certificate/accreditation),認証を表現するラベル,購 表⚕ 策定主体別のプライベート・スタンダード(食品安全分野) 個 別 企 業 国別の業界団体 より広範な 国際団体・NGO
Tesco (Nature`s Choice) Carrefour (Filière Qualité)
Assured Food Standards (UK)
British Retail Consortium Global
Standard - Food (UK) QS Qualitate Sicherheit (Germany)
Label Rouge (France) Food and Drink Federation/British Retail Consortium Technical Standard for the Supply of Identity
Preservced Non-Gentically Modified
Food Ingredients and Product (UK)
EurepGAP/GLOBALGAP Internatoinal Food Standard Global Food Safety Initiative (GFSI)
ISO 22000 : Food safety management
systems
Safe Quality Food (SQF) 1000 and 2000
ISO 22005 : Traceability in the feed and food chain
買・調達する lead firm が策定する行動指針(code of conduct)に分類できる (表⚖を参照).
今日,プライベート・スタンダードは広範囲な分野で策定されている.その 実数を把握することは難しい.ジュネーブに本部を置く貿易関係の国際機関で ある国際貿易センター(International Trade Centre,ITC)はプライベート・ スタンダードのデータベース Standards Map を運営しているが,2017年⚙月 現在,このデータベースは239のプライベート・スタンダードをカバーしてい る(41).とはいえ,このデータベースには日本発のプライベート・スタンダード (例えば,イオングループの TOPVALU グリーンアイ(42))は収載されておら ず,網羅的とはいいがたい.総数はこの何倍かに達しており,おそらく1000を 超えるのではないか. プライベート・スタンダードは民間の企業や業界団体,NGO が策定する基 準や認証制度であって,国際法ではない.しかし,グローバルな供給網を構築 し展開する企業が策定したプライベート・スタンダードは,供給網全体で環境 や労働,人権などの社会的課題に対する取組みを強化することができる.プラ イベート・スタンダードの課題については,後ほど⚔で触れる. ⑵ グローバル金融の管理運営に関わる国際経済法 金融監督規制に関する国際制度は,金融グローバル化の進展に応じてパッチ ワーク的な発展を遂げた.主要国の金融監督・規制当局が参加する国際組織が 表⚖ プライベート・スタンダードのタイプ 認証 認証とラベル 購買行動指針
繊維・衣料 WRAP Oeko-tex, GOTS and Fairtrade
BSCI, FLA, H&M, Marks & Spencer, Gap, Inc. Business Social
皮革・履物 SA8000 n/a Nike, Adidas, Deichmann
家 具 n/a FSC Pier 1, IKEA, Wal-Mart
(出典:UNIDO, Making Private Standards Work for You : A Guide to Private Standards in the Garments, Footwear and Furniture Sectors, 2010, p. 18, Table 2.)
策定する業態別(銀行,証券,保険),テーマ別のソフトロー(基準,勧告, 原則,了解覚書等)を各国の当局が国内実施し,その実施状況をピア・レ ビューにより,あるいは IMF/世界銀行が審査する(43)という仕組みである. 図⚗にその概要を示した.この国際制度の意義と課題については⚔で触れる. 4 グローバル化と国際経済法の課題 以上概観してきた,グローバル化と国際経済法の現状を踏まえて,今日,国 際経済法が直面している課題が何か,簡潔にまとめる.主な課題は⚔つある. ⑴ 世界貿易の伸びの低下 第一に,1990年代以来の供給網のグローバル化は多くの途上国に富をもたら した.特に新興国の成長が顕著である.他方で,2009年の世界金融危機以来, 世界貿易の伸びが低下している(slow trade).図⚘に,slow trade の原因を 分析した IMF のエコノミストの研究からグラフを引用した. この分析によれば,2010年以降に世界貿易の伸びが低下した原因は景気変動 などの短期的で循環的な要因ではなく,より長期的で構造的な要因に求められ る.そして,主要な構造的な要因として,グローバル供給網において中国が中 間財を輸出入に頼らず国内調達する傾向が高まっていること,それに応じて米 国の中間財貿易量の伸びが停滞していることが指摘されている.その結果,供 給網グローバル化のプロセスが成熟した可能性がある(44).これは国際経済法に 図⚗ 金融監督規制に関する国際制度の構造 Agenda setters G20;FSB ↓
Standard Setters: 業態別:Basel Committee;IOSCO;IAIS;Joint Forum テーマ別:FATF;OECD;CPSS;IADI;IASB;IFAC
↓ ↓
Implementers: National regulators Monitors: IMF;World Bank;Peer review (Source:C. Brummer, Soft Law and the Global Financial System : Rule Making in the 21st
とっていかなる意味を持つであろうか? この点を考察するに当たっては,深い統合を志向する広域 FTA(TPP, TTIP,日 EUEPA,RCEP)とグローバル供給網の地理的範囲が重なってい ることに注目する必要がある.現在交渉中の TTIP,日 EUEPA,RCEP の交 渉が妥結すれば,東アジア,北米,欧州で形成されているグローバル供給網は これらの広域 FTA によってほぼ完全にカバーされることになる.グローバル 供給網に成熟の兆しがあるとすれば,グローバル供給網の地理的範囲はこれら の広域 FTA によって固定され,グローバル供給網に参加している諸国の閉じ たサークルが供給網のグローバル化を専ら担うことになる.そして,それらの 国とグローバル供給網の埒外に置かれている諸国との分断が固定化されてしま う恐れがある.現状でグローバル供給網の埒外に置かれている国の大半は途上 国であり,これらの国々は将来にわたって供給網グローバル化がもたらす経済 成長の恩恵にあずかれなくなってしまう.このような分断は世界の繁栄や平和 維持の見地から見て容認できるものではない. 図⚘ 世界貿易の伸びの低下とその原因 15 10 5 0 -5 -10 -15 2001 03 05 07 09 11 13 Short-term component Long-term component Trade growth Model prediction
(Source:C. Constantinescu, A. Mattoo and M. Ruta, (2014), “Slow Trade : Part of the Global Trade Slowdown since the Crisis Has Been Driven by Structural, not Cyclical, Factors”, Finance & Development, December 2014, pp. 39-41, p. 40, Chart 3.)
グローバル供給網の成熟を乗り越えて,現在はグローバル供給網に参加でき ていない途上国もこれに加わることができるよう,これらの国の規制・制度環 境の整備を進める必要がある.そのための方策として,WTO を再び活性化さ せることが必要である.経済体制も発展段階も異なる多くの国が参加する WTO は,ルールの形成とできあがったルールの実施を,漸進的ではあるが確 実に進める多くの制度的な仕組みを備えている.ドーハ開発アジェンダは行き 詰まったものの,全加盟国が参加する多角的貿易交渉や一部の加盟国が参加す る複数国間協定の交渉を通じてルールを形成することは,依然として WTO の中核的な機能である.WTO 協定の多くは途上国に対する特別かつ異なる待 遇(S&D)を設けている(45).途上加盟国による WTO 協定の実施を支援する 能力開発(capacity building)(46)や,WTO 体制の下で拡大した通商機会を途上 国 が 活 用 す る 能 力 を 伸 ば す た め の 援 助(貿 易 の た め の 援 助(Aid for Trade)(47))も活発に行われている.これらの仕組みは,世界貿易秩序の要と しての WTO が備えた重要な制度的インフラストラクチャーである.供給網 のグローバル化という21世紀の世界経済の新しい現実を踏まえて,WTO の役 割を見直し,WTO の制度的インフラストラクチャーを活用して TPP 等の広 域 FTA に盛り込まれた新たなルールを WTO の多角的ルールとして取り込み, 加盟国の間でそれを確実に実施してゆくことが必要である(48). ドーハ開発アジェンダが行き詰まって久しい.2015年12月に開催された第10 回 WTO 閣僚会議(ナイロビ)で採択されたナイロビ閣僚宣言は,2001年の ドーハ閣僚宣言に沿ったドーハ開発アジェンダ完了をうたう加盟国と,これに こだわらず,新たなアプローチで多角的貿易交渉を進める加盟国の両論を併記 した(49).後者には,ドーハ閣僚宣言に盛り込まれていない新たなテーマについ ての交渉を開始すべきとの意見も含まれる(50).ドーハ開発アジェンダの終了と 新たなテーマについての交渉の開始をめぐって加盟国の間でこう着状態が続い ている.この状態を打破し,TPP 等の広域 FTA に盛り込まれた新たなルー ルを WTO の多角的ルールとして取り込む交渉を開始することが国際社会に とって国際経済法の確信につながる重要な課題である.
⑵ グローバル供給網の管理運営に向けた国際経済法の課題 次に,グローバル供給網の管理運営に向けた国際経済法の課題である.⚓⑴ で見たグローバル供給網を通じて展開される経済活動に対する各国の公法的規 制(課税,競争法・競争政策,贈賄規制等)の配分と調整に関わる国際経済法 はさらに整備する必要がある. まず,課税に関しては,BEPS プロジェクト最終報告書(前掲表⚒)の実施 を通じて,OECD 移転価格ガイドラインの改訂,OECD モデル租税条約の改 訂,既存の二国間租税条約の見直し,多数国間租税条約の策定等が進められる ことになる.各国の課税主権を前提としながら,移転価格税制や二国間租税条 約の見直しと内容の調和が図られることになる. 競争法や贈賄規制に関しては,各国で法整備が進んでおり,その結果として, グローバル供給網を構成し展開する企業への競争法や贈賄規制法の適用におけ る多重適用・多重処罰のおそれが出てきた.例えば,部品等の中間財について の国際カルテルが,供給網を構成する複数の国の競争法で違反とされ,摘発さ れるケースである(51).あるいは,日本企業による同一の贈賄行為に対して,日 本だけでなく米国やその他の国の贈賄規制法違反が摘発されるケースである(52). こうした場合に,管轄権の競合を調整するメカニズムは整備されていない.二 重処罰の禁止は憲法上の原則である(日本国憲法39条).しかし,これは一国 の国内刑事手続に限定されるものであり,外国で確定判決を受けた者が,同一 の行為についてさらに処罰することは妨げられない(日本国刑法⚕条).今後 これらの分野では管轄権の競合を調整するためのメカニズムを整備する必要が ある. 最後に,プライベート・スタンダードについてである.プライベート・スタ ンダードは,供給網のグローバル化に伴う国単位の規制の不備を補う手段とし て発展してきた.その意味で,プライベート・スタンダードにはグローバルな 供給網全体で環境,労働,人権等の社会的課題に取り組むという積極的な意義 が認められる.また,プライベート・スタンダードに適合する産品やサービス には先進国市場で価格優位(price premium)が認められる可能性がある.途 上国の生産者にとっては,プライベート・スタンダードに準拠すれば先進国市
場へのアクセスと価格優位が得られる可能性がある(53). 他方で,プライベート・スタンダードにはいくつかの課題が存在する.第一 に,プライベート・スタンダードの遵守費用の問題である.生産現場でプライ ベート・スタンダードを遵守するために設備投資が必要な場合がある.さらに, 第三者機関がプライベート・スタンダード遵守を認証する費用が発生する.グ ローバルな供給網で以上の費用は通常生産者が負担する.そのため,特に途上 国の小規模生産者にとって費用負担が実質的な参入障壁となりかねない.第二 に,プライベート・スタンダードが増えた結果,同じ産品やサービスに複数の プライベート・スタンダードが競合して適用されるようになっている.あるプ ライベート・スタンダードを満たしても他のプライベート・スタンダードを満 たさない例が出てきた.さらに,プライベート・スタンダードが生産国の公的 な規制よりも厳格な基準を設定する場合があり,公的な規制をクリアーしても プライベート・スタンダードはクリアーできない例も出てきた.いずれの場合 も,プライベート・スタンダードが産品やサービスの貿易を妨げる障壁となる 恐れがある.第三に,私企業や NGO が策定するプライベート・スタンダード は,国や国際組織が策定する規制や規格・基準と比べて,正統性の点で問題が ある.私企業や NGO がプライベート・スタンダードを策定する場合,策定過 程に他の利害関係者(例えば,グローバルな供給網を構成する生産者や産品・ サービスの最終消費者)は関与しないという問題もある(54). プライベート・スタンダードが抱える課題に対処するため,実務では以下の ような方策が講じられている.プライベート・スタンダードの遵守費用の問題, 特に途上国の小規模生産者の費用負担の問題に対しては,途上国の小規模生産 者の遵守費用を抑える工夫をプライベート・スタンダードの策定者が講じてい る場合がある.例えば,Global G. A. P. は,ドイツ技術協力公社(GTZ)の支 援を得て,後発途上国の小規模農家が Global G. A. P. の品質管理システムを集 団で実施して遵守費用を抑える「小規模生産者包摂プログラム」を提供してい る(55).プライベート・スタンダードの費用負担の問題に対する新しい取組みと して,Ecom Caravan がある.これは,急送便の DHL 社と電子商取引の eBay 社,国際貿易センター(ITC)が協力して開設したアフリカの後発途上国の小
規模事業者が製造した製品を販売する電子商取引のサイトである.電子商取引 のプラットフォームに載せることで,先進国の小売業者等の lead firm が設定 するプライベート・スタンダードに準拠することなしに先進国の消費者に製品 を販売することができるようになる.決済には PayPal が利用できるので,決 済費用も定額に抑えられるというメリットがある(56).Ecom Caravan は,プラ イベート・スタンダードの費用負担の問題を情報通信技術(ICT)が解決を与 えるという可能性を示唆する.プライベート・スタンダードの競合・錯綜と抵 触という問題を解決する一つの方策は,特定の財貨・サービスに適用されるプ ライベート・スタンダードを特定し,それらの適用を申請する手続や遵守費用 についての情報を提供することであろう.この点で注目されるのは,⚓⑴で触 れた国際貿易センター(ITC)が運営するプライベート・スタンダードのデー タベース Standards Map である(57).ITC への加盟国の拠出金で運営され,プ ライベート・スタンダードを策定する多くの NGO や企業団体等がデータの収 集・分析と更新に協力している.ユーザー・インターフェースに優れており, 例えば,途上国の農家がその生産物を先進国市場に出荷しようとする場合,生 産物の種類と出荷先の国名を入力すれば,申請可能なプライベート・スタン ダードの一覧が表示され,これらのスタンダードについて,問い合わせ先,申 請手続,申請費用が比較可能な形式で表示される.さらに,これらのスタン ダードの対象項目について自らの事業所の現状を入力することで,スタンダー ドに適合させるためにいかなる項目について追加的な整備が必要かを判断する 自己評価もできるようになっている.プライベート・スタンダードの正統性の 不足ないし欠如という問題に対処する方策の一つは,プライベート・スタン ダードに公的な規制を及ぼすことであろう.その可能性の一つは WTO の衛 生植物防疫措置協定(「SPS 協定」)の規律をプライベート・スタンダードに適 用するというものである.これは,2005年に WTO の衛生植物検疫措置 (SPS)委員会で,セントヴィンセント・グレナディンが特定の貿易上の懸念 (specific trade concern,STC)として,主要産品であるバナナの英国向けの 輸出がプライベート・スタンダード(Eurep G. A. P.,現在の Global G. A. P.) によって停滞しているとの懸念を表明した際に,ペルー政府が SPS 協定13条
の適用可能性を問題提起したことを契機として,SPS 委員会で議論されるよう になった.SPS 協定13条は以下の通り規定する. 「加盟国は,この協定上のすべての義務の遵守についてこの協定に基づく 完全な責任を負う.……加盟国は,自国の領域内の非政府機関……がこの 協定の関連規定に従うことを確保するため,利用し得る妥当な手段を講ず る.……」 この規定にいう「非政府機関」に私企業や NGO が含まれるとすれば, WTO 加盟国は国内の企業や NGO が策定するプライベート・スタンダードに ついて,SPS 協定上の義務(科学的原則に基づくこと(⚒条⚑項),無差別原 則(⚒条⚒項,国際的な基準,指針または勧告に基づくこと(⚓条⚑項)等) に従うことを確保するために利用し得る妥当な手段を講じる義務を負うことに なる.しかし,SPS 委員会では,EU や米国を中心として,プライベート・ス タンダードを策定する私企業や NGO は第13条にいう「非政府機関」には当た らないとする見解が唱えられ,プライベート・スタンダードに SPS 協定13条 を適用するという方針は支持されていない(58). ⑶ 金融監督規制の国際制度をめぐる課題 第三に,金融監督規制の国際制度をめぐる課題である.2008年の世界金融危 機を受けて,G 20と金融安定化理事会(FSB)を頂点とする階層的な仕組みが 成立した.業態別・テーマ別の国際的な基準・原則の策定が進められている. しかし,基準・原則の大半がソフトローであることから,各国の基準受入れを めぐる対応にはばらつきがあり,そのことが国際金融市場に不確実性をもたら している.一例として,2010年に策定され,2019年の完全施行に向けて各国が 取り組んでいるバーゼルⅢがある.日本,米国,欧州は段階的に導入中である が,実施のタイミングにはばらつきがあるし,国内実施法の内容にもばらつき がある(59).金融監督規制の国際制度がソフトロー主体で柔軟かつ機動的に構築 されてきたことは評価すべきであるが,こうした不確実性をいかに減らしてゆ
くかは今後の課題である. ⑷ グローバル化と格差をめぐる国際経済法の課題 最後に,Brexit とトランプ政権の TPP 離脱表明に触れたい.グローバル化 を主導した英米両国で,内向きの政策がとられたことは重大である.その背景 には,グローバル化の恩恵にあずかれない中間層・労働者層の反感がある.図 ⚙は,1988年から2008年までの20年間に,世界の所得分布ごとに,実質所得が どれだけ増加したかをプロットしたものである.最も豊かな層,そして中間の 層で実質所得が伸びた反面,上から20%前後の比較的豊かな層で実質所得が伸 びず,減少すら見られることがわかる.中間の層で実質所得を伸ばしたのが新 興国の中間層であり,上位で実質所得が伸び悩んだのが先進国の中間層である. このことは,国際経済法にとっていかなる意味を持つか? 第一に,供給網 のグローバル化と金融のグローバル化は,世界全体の富を増大させ,その恩恵 は特に新興国に顕著であるということである.さらに,最貧困層以外の途上国 にもグローバル化の恩恵は及んでいる.その意味で,グローバル化を支えた国 際経済法はこれからも維持されるべきと考える.先に,供給網のグローバル化 図⚙ 世界の所得分布ごとの実質所得の累計増加率(1988年~2008年) -10 0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 55 15 25 35 45 55 65 75 95 累計増加率(%) 世界の実質所得分布のパーセンタイル 85 85
(Source:B. Milanovic, “Global Income Inequality by the Numbers : in History and Now”, World Bank Policy Research Working Paper 6259, 2012, p. 13, Figure 4.)
が成熟したという見方を紹介した.このプロセスを停滞させないためには,広 域 FTA に盛り込まれた新しい貿易・投資ルールを WTO に持ち込み,多角的 ルールとして現在はグローバル供給網に参加していない途上国にも広げてゆく ことが必要である.第二に,供給網のグローバル化が先進国の中間層から職を 奪ったこと,金融のグローバル化が特に英米で所得格差の拡大をもたらしたこ とは重大である.貿易・投資の自由化に伴う構造調整の推進,金融のグローバ ル化がもたらす所得格差の拡大の抑制に向けて,国際経済法は真剣に取り組む 必要がある. 注
(⚑) D. Drezner, All Politics is Global : Explaining International Regulatory Regimes, 2007, p. 10.
(⚒) 参 照,K. O` Rourke and J. Williamson, Globalization and History : The Evolution of a Nineteenth Century Atlantic Economy, 1999.
(⚓) 参照,M. Ando and F. Kimura, “The Formation of International Production and Distribution Networks in East Asia”, National Bureau of Economic Research Working Paper 10167, 2003. Available at 〈http://www.nber.org/papers/w10167〉 (⚔) 参照,R. Baldwin, “Global Supply Chains : Why They Emerged, Why They Matter, and Where They Are Going”, Fung Global Institute Working Paper FGI-2012-1,2012,pp. 2-10.
(⚕) 参 照,内 閣 府,国 民 経 済 計 算(GDP 統 計),年 次 GDP 実 績,2016年 度. 〈http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/menu.html〉
(⚖) 参照,R. Baldwin, op. cit., pp. 4-5.
(⚗) 参 照,P. Cerny, “The Dynamics of Financial Globalization : Technology, Market Structure, and Policy Response”, 27 Policy Science, pp. 319-342 (1994), at 330-331.
(⚘) 参 照,D. K. Das, Financial Globalization : Growth, Integration, Innovation and Crisis, 2010, pp. 45-48.
(⚙) 参照,J. Williamson, “The Strange History of the Washington Consensus”, 27 (2) Journal of Post Keynesian Economics, 2004-2005, pp. 195-206.
(10) 参照,WTO, 20 Years of the Information Technology Agreement : Boosting Trade, Innovation and Digital Connectivity, 2017, p. 4.
(11) 参照,WTO, Ministerial Declaration on the Expansion of Trade in Information Technology Products, 16 December 2015. WT/MIN (15)/25.
(12) 参照,ibid., paras. 2-7 ; WTO, Committee on Market Access, ITA Expansion, Schedules Approved by Participants During the Plurilateral Review Process, 26 January 2016. G/MA/W/117.
(13) 参照,拙著『WTO 貿易自由化を超えて』(岩波書店,2013年),194-198頁. (14) 参照,同前202-207頁.
(15) 正式名称は「資本移動の自由化に関する規約(The Code of Liberalisation of Capital Movements)」.1961年12月 OECD 理事会採択.
(16) A表には以下の越境資本取引が掲載されている.⚑.直接投資,⚒.直接投資 の清算,⚓.不動産取引(売却),⚔.資本市場における証券取引(満期⚑年以 上),⚗.集合的投資証券の取引,⚘.国際商業取引及び国際サービス提供に直 接関連するクレジット(クレジットの原因となる取引に居住者が参加する場合), 10.抵当・保証・金融支援(B表の10掲載の取引を除く),11.預金勘定の運営 (非居住者による居住者機関の勘定の運営),13.生命保険,14.個人的性質の資 本移動(賞金以外の場合),15.資本の現物異動,16.非居住者の所有する封鎖 資金の処分. (17) B表には以下の越境資本取引が掲載されている.⚓.不動産取引(購入の場 合),⚕.金融市場における取引(満期⚑年未満の取引),⚖.流通証書及び非証 券請求権に関するその他の取引,⚘.国際商業取引及び国際サービス提供に直接 関連するクレジット(クレジットの原因となる取引に居住者が参加しない場合), ⚙.金融上のクレジット及び貸付,10.金融支援(国際貿易,国際間の経常的貿 易外取引または国際間の資本移動取引に直接関連しない場合,または元になる国 際取引に居住者が参加しない場合,11.預金勘定の運営(居住者による,非居住 者機関の勘定の運営),12.外国為替取引,14.個人的性質の資本移動(賞金の 場合).
(18) 参照,S. Fischer et al., “Should the IMF Pursue Capital-Account Convertibility ?”, International Finance Section, Department of Economics, Princeton University, Essays in International Finance, No. 207, 1998.
(19) 東アジア諸国による資本自由化の一端を示す株式市場の対外自由化について, 参照,佐藤仁志「資本自由化のメリットと問題」国宗浩三編『国際資金移動と東 アジア新興国の経済構造変化』(日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究 所,2010年),33-70頁,40-42頁. (20) 広域 FTA(mega-FTA)とは,TPP,RCEP(東アジア地域包括的経済連携), 日 EU の EPA(経済連携協定),米国と EU の TTIP(環大西洋貿易投資パート ナーシップ)など,多数の国が参加する FTA の総称である. (21) WTO 協定の中では,内国民待遇原則(ガット第⚓条)と数量制限の一般的禁 止(ガット第11条)に沿ったパフォーマンス要求の禁止を盛り込んだ貿易関連投