Title
[巻頭論考]王府の異国船迎接体制 : 総理館を中心に
Author(s)
田名, 真之
Citation
琉球王国評定所文書, 14: 5-43
Issue Date
1998-03-25
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/19523
Rights
浦添市立図書館
︹
巻
頭
論
考
︺
王府の異国船迎接体制││総理官を中心に││
田 名 真 之は
じ
め
に
十九世紀に入ると、日本近海に欧米列強の船隻が頻繁に姿を見せるようになった 。異 国船の来航である 。 琉球も例 外ではなかった 。 日本の南の玄関に位置する琉球は、中国広東から北上する英仏の船にとって、地理的にも、また臼 本への橋頭壁として、政治的にも重要な位置にあった 。 そのため、琉球にはこれらの異国船の来航が頻繁とな っ て い たのである 。 十九世紀前半、琉球へ来航した異国船は、漂着あるいは薪水・食糧の補給を目的としたものが大半であったが、 八四四年来航の仏船(デュプラン ) が、和好・通商を求めたのを皮切りに様相が一変、以後、度重なる英仏米艦船の 考 渡 来 、 宣 教師の滞在に頭を{痛めていった 。 論 武力を背景とした列強の渡来、そして諸要求の前に、なす術のない琉球 。 鎖国を国是とする幕府も対応に苦慮し、 頭薩摩藩に一任して責任を逃れ 、薩摩藩も有効な手を打てないまま、成り行きを注視するほかなか っ た 。 巻 {桟 t } 一 八 五 三 年米国、五五年仏国、五八年蘭固と首里王府は相次いで﹁条約﹂の締結を余儀なくされていくこととなる 。 五一
,
L、
条約への署名は、琉米条約の場合、米国が米国艦隊の提督被里 ( ペ リ l ) 、王府 側は総理官尚宏勲、布政官馬良才、 となっていた。琉仏条約では、仏側が艦隊の提督ゲラン、王府側が総理大臣尚景保、布政官馬良才、翁徳裕であった。 条約に王府を代表して署名した総理官、布政官とは何者だろうか。かつて総理官 H H 摂政、布政官 HH 三司官と見なさ {住 2 ) れていた時期も存したが、現在では、異国船対応のために臨時に仕立てられた王府の官職と見なされるようになって 、 ﹀ 0・
ν ヲ Z T 確かに、これらの官は、下位の官たる地方官も含め、従来の王府の官制に則さない臨時の官でしかないが、条約締 結の場面ばかりでなく、異国船渡来時から前面で対応する役目を負っていたのであり、彼らの存在は等閑視しえない 側面をも っていたと思われる。 本論では、総理官、布政官、地方官についてみていくが、これらの官職が、 いつ、どのように創設され、 いかなる 役目を帯びていたのか、また王府のなかでどのように位置づけられていたのか、任職した多くの者が条約への署名を 含め偽名を用いていたが、それは何故なのか、そして彼らの存在は琉球の歴史のなかで結局のところどのような意味 をもったのか等々について検討する 。 一 、 異 国 船 渡 来 時 の 王 府 の 対 応 総理官は、異国船渡来時に、王府の高官として応援することになるが、それは王府の異国船迎接の 一 環なのであり、 王 府 中 枢 、 つまり中心となる評定所はいかに体制を整え、そしていつ、 いかなる時点で登場するのか、具体的にみて い こ 、 っ 。一八五五年のフランスのゲラン艦隊来航時を例に一連の動きを評定所文書によって確認しよう ( 一 五 三 四 号 、 一 五 五 一 号 。 ﹃ 琉球王国評定所文 書 ﹄ 第 十 一 ・ 十 三 巻所収 ) 。 同年九月 二 十七日、南から 一 隻、北から 二 隻、那覇に向か っ てくる異国船を確認 ( 南は小禄、北は読谷山・北谷間 切の遠目番からの報告であろう ) 、首里へ 急 報 。 早速、王府は那覇での現場指慢にあたらせるため、国王の決裁を得 て 摂 政 大 里 王 子 、 三 司官座 喜 味親方、池城親方、表十五人中の鎖之側宜野湾貌 雲 上、日帳主取国 士 口 親 雲 上 ・ 大田親 雲 上らを派遣した 。 他にも評定所筆者 主 取・筆者・加勢筆者、計六人、異国方係 一 人、御物 奉 行筆者 二 人、申口方筆者 二 人、平等所大屋子一人、同筆者 二 人、貝摺奉行所筆者 一 人、絵師 二 人 、 ( 首里 ) 通事係大湾親 雲 上ら 三 人を那覇詰 とした 。 また取納奉行、同役人へも那覇詰を指示、諸問切に対しても、指示を出した 。 急ぎ那覇に下った国士口親 雲 上は、護国寺詰の包丁人の情報として、同寺に逗留中のモ 1 トンが 望 遠鏡で確認したと ころ、異国船はフランス船である旨、 言 っ てきたこと、詳細については久米村の異国大 夫 、通事を船元に遣わすので、 追って連絡すると、首里城に残る日帳主取の兼城親 雲 上へ第一報を送った 。 同日の第 二 報 は 、 国 士 口 親 雲 上と宜野湾親 雲 上からで、久米村大夫、通事の報告として、南から到着した船に行き、 地方官の書状を渡したところ、船長室に迎え入れられたので、来着の次第を尋ねたところ、仏国船であること、乗組 人数は 二 百人 ( 内唐人 二 十人 ) 、上海より九山 ( 舟山列島 ) に行き、九山から出帆して今日は五日目になること、九 考山から一緒に出帆した他の 二 船も追々到着するはずで、 一 般には提督が乗船している云々、であった、と伝えてきた 。 論 第 三 報も同日で、国吉・宜野湾から兼城あて 。 一 隻めに続いて北からの船に赴いた久米村大 夫 、通事の報 告 で 、 こ 頭 の船には提督はじめ官人、水主、唐人が都合七百人程度乗り込み、上海より十日程前に出帆し、今日到着したこと 。 巻 地方官よりの文書を渡して提督へ面会を申し入れたが、何か用でもあるのかと 言 われ、用事ではないが見舞いだと 言 七
)¥ うと、それなら会うまでもなかろうと一蹴されたこと 。 また提督は長崎に一カ月余滞在後、上海に渡り、船を乗り換 えて琉球に到ったこと 。 唐の様子を尋ねたところ、太平王 ( 太平天国の洪秀全のこと) は従来通り南京に拠り、また 海賊も横行して鎮まっていないが、上海の賊はフランスが加勢して追い払った云々、となっていた。 さらに北からのもう一つの船にも赴いた久米村大夫、通事の報告が、国士口 ・ 宜野湾から兼城親雲上あての第 三 報に 載っている 。 それに拠ると、乗組 員 は五百人、うち唐人は四十人であること、広東から日本へ渡り、長崎、箱館に 一 カ月半滞在し、その後上海等を経て、九 山 からここに到ったこと 。 用向きについて尋ねたところ、先に残していた神 父のことか、または琉球官人の見廻りのことであろうが、子細は提督が知っており、本船船長は知らない、とのこと であった 。 ついで滞在中の神父を連れ帰るかと尋ねたが、連れ帰らない 。 いつまで滞船かについては数日と答えた、 とのことである 。 以上については、在番奉行所にも連絡した、との報告であった 。 これらをうけて宜野湾は、来着の仏船は、提紅白が乗っており、総理官 ・ 布政官に商会の申入れがあるかも知れない ので、その心積もりをしておかれるように、そのために関係各方面にも準備を整えるように 、 と兼城に伝えた 。 こ れ に対し、兼城は、総理官勤めの 金 武按司が病気御断りに付き、本部按司に代理を命じ、奥田方御用係も勤めるように、 との国王の決裁を済ませ、御仮屋方へも、御方 ( 宜野湾 ) で連絡するように、と連絡してきた。 そこで国吉は、久米村の総役長史及び泊詰の通事たちに宛てて、総理官の金武按司が病気で、去月、本部按司尚景 保に交代したので、異国人に 尋 ねられたらその旨答えるように、護国寺、天久寺詰めの通事、追行通事にも伝えるよ うに、と指示した。 同 二 十八日、国 士 口 、宜野湾から兼城 へ の連絡に拠ると、 フ ラ ン ス 提替の使者が天久寺逗留の神父 二 人 ( ジ ラ 1 ル と メ ル メ ) を引き連れて、若狭町学校所 ( 那覇公館 ) に到り、地方官との面会を求めた 。 そこで地方官の国吉親方が異
国大夫と異国通事大湾親雲上を引き連れて会見した。使者は贈り物に対する謝礼を述べ、 ついで入用の品については 購入したいと申し出たので、小国不自由ではあるが、なるべく希望に沿いたいと返答 。来着 の目的について、提督は 仏国皇帝の命を受けて諸国を訪問しており、この国 (琉球 ) の官人とも友好の相談をするために来島したこと 。 先年 運天にセシル提督が到った際には、すべての事について返答を引き延ばされた、今回はそうしたことの無いようにし ていただきたい。そこで琉球の政治に携わっている官人に会って相談したいことがあるので、 いつ面会できるか、と 間われた 。 地方 官の国吉親方は、私の一存では日時を決定できないので、首里に赴いて総理官に申し上げたうえで明 日返答する旨答え、了承をえた 。 以上の経緯については、その旨在香奉行所へも報告した 。 さらにこの会見で今回の ゲラン提督は以前のセシル艦隊の 小艦の船長であ っ たこと、さらに仏艦はもう 三 船が渡来するはずで、内 二 般は火輪 船であること、 日本との条約はまだ整っていないが、追って条約を定めたい云々の情報をえた 。 翌二十九日 、国 吉 ・ 宜野湾から兼城への報告で、提督と総理官の面会の日時について、明後朔日 ( 十月朔日 ) の 午 時、布政官が若狭町学校所で待っている旨を伝えた 。 ついで、面会の際、提督側の申し出を拒否することもあり、機 嫌を損ずる場合もありうるので、総理官、布政官両人、地方宮だけでなく、他に親方二人を派遣した方がよいのでは と提案 。 同日の第 三 報では、提督から総理官あてに文書が届いたので、久米村方に訓点をつけさせ、文書ともども送ること、 考文書の趣意は﹁和好交易﹂となっているので、是非とも断らなくてはならないが 、これに ついて首里でも吟味をして 論 お知らせいただきたい、この件は在番奉行所へも報告した、と連絡した 。 頭 これら那覇からの報告に対し、首里の兼城からの返答は次の通りである 。 十月朔日の面会で、布政官が 三 人とも出 巻 席するのはまずいので、垣花親方 ( 布政官 ) は病気ということにして、本部按司 ( 総理官 ) 、棚原親方 ・ 野村親方 ( と 九
。
もに布政官)に那覇に下っていただいてはどうかと考えているので、そちらでも相談されて大里御殿(摂政) 、 二 殿 内(那覇詰めの三司官二人│座喜味親方、池城親方)にもお知らせして、早々に決定してご連絡いただきたい、幸地 親方(首里に残る三司官)にもお話申し上げこの段連絡する。 十月朔日、提督と総理官らの第一回目の交渉が行われた。以下、十月十五日の条約締結に至るまで七回の交渉が行 われたが、琉球側は最初は条約には応じ難いと懇願し、それが無理だと分かると病気などを理由にひたすら日延べを 繰り返し、怒ったゲランが抜万して総理官らに押印を迫ったので、止むなく条約の調印に応じている。 この仏船来航時の顛末は、小国琉球の外交がいかに悲哀に満ちたものだったかを知実に物語っている。 この仏船来航のケ l スを押さえながら、異国船渡来時の一連の動きを今一度確認すると、以下のようになる。 ①南北より那覇へ向かう異国船を確認。首里に急報。 ②評定所では、摂政 ・ 三司官を筆頭に鎖之側、日帳主取、異国方係 、 首里通事ら総勢二十人余の対策チ l ム を 編 成 。 那覇に下り、現地本部を設置。在番奉行等へも連絡(以後そのつど連絡)。 ③久米村の異国大夫、通事を船元に派遣(首里通事が同道するケ l スもある)。国名、乗員数及び船長のランク、 来航の目的、滞在予定と今後の予定、中国情勢等々を確認。地方官の文書(面会の要請等)を手渡し。 ④異国人の上陸に備え、那覇 ・ 泊の関番人及び那覇を管する那覇里主・御物城 、 久米村の総役 ・ 長史、泊村の泊頭 取に管轄下地区での対応を指示。 ⑤異国大夫、通事の報告を受け、今後の対応を指示。商船、捕鯨船であれば、通常地方官までの対応となるが、軍 艦等の場合、乗頭(船長)は軍人で役人も乗っている可能性があり、布政官、時には総理官の出番もありうる。 さらに艦隊を率いる提督が乗頭となると、総理官対応となる。報告によって、総理官等へもその旨通知。⑥地方官が船へ赴き乗頭に面会。挨拶及び食糧品等を贈る。異国大夫、通事、首里通事も同道。協議要望事項等が あれば総理官 ・ 布政官との面会を設定。場所は大概那覇公館(若狭町学校所)。 ⑦異国釆頭 以下の役人と総理官・布政官、地方官、那覇公館で面談 。宴を催す。 協議内容により文 の応答、面会が二度、三度と行われる。 この間、会談以外でも、地方官、通事等は食糧の提供、情報の収集、会談の事前調整等のため、度々船元へ赴き、 また那覇公館に招くなどして、異国人と接触した 。 こ れらの動きは、那覇詰めの対策本部から指示が出されたが、本 部では鎖之側ら、表十五人の面々が摂政 ・ 三司官 の指示を仰ぎつつ、首里 ( 居 残 り の 三可官 、異国御用係の親方衆、 居残りの表十五人のメンバー)と緊密に連絡を取り、総理官、布政官、地方官に対応を指示していた。また在番奉行 所にはこの間の動きを逐一報告していた 。在番奉 行所では、異国御用係がこれまた逐て藩へ報告していた 。 さて、評定所という行政の最高機関がありながら、対異国船・人の場面では、摂政・ 三 司官以下のその構成メンバー が表に出ることはなかった 。 代わって対応したのが、総理官、布政官、地方官であった 。こ れらの役職は、 いつ設置 さ れ 、 いかなる性質をもち、 いかなる変選を遂げてきたのか、次に検討しよう 。 一一、総理官 ・布政官の 登 場 考 論 総理官 ( 総 理大臣とも記される)なる役職は、 いつから設置されたのか、明確ではない 。 布政官や地方官について 巻 頭 も 同 様 で あ り 現 在 確 認 で き る の は 一八四四年の古謝按司(唐名 ・名乗り、未 詳 ) で、仏国のセシル提督来航以前 の総理官である 。
ただし、それ以前に異国船の渡来時に、按司クラスが、琉球国王の名代、また政府の最高責任者として対応した事 例が存している 。 一 八 一 六年七月 二 十五日の英国般隊アルセスト号、ライラ号の渡来の際である 。 これら英艦隊は 一 八 一 六年七月 二 十五日から九月七日の問琉球に滞在している 。 その間の記録は、ライラ号の艦長 { 注 3 ) パジル ・ ホールの著した ﹃ 朝鮮 ・ 琉球航海記 ﹄ 等に拠って、また ﹃ 球陽 ﹄ にも関連記事があり、つとに知られている { 注 5 ) { 桂 6 ) が、この時、王府は按司の向鴻基今帰仁按司朝英を布政大夫、また久米村の毛廷器普久嶺親方を地方官として対応さ せていた 。 会見の際、今帰仁朝英は﹁向邦輝 L の偽名を用いていた 。 パジル ・ ホ l ルは今帰仁のことを﹁国王につぐ 地 位にあ り、王位継承者であらせられる王子﹂としている 。 そうした説明を受けていたのであろう 。 ところで、パジル ・ ホ l ルらの渡来時の首里王府の対応は、その後の王府の対応の前駆をなすものであるが、すで ( 桟 7 ) に相応のスタイルが整えられていたかのようである 。 同船来航についての﹁奥田日記﹂を見ると、以下の知くである 。 ﹁ 七 月 二 十四日 H青 天 西 風 一 、異国船弐般、糸満村之沖乗参候段、具志村遠目番之者共申来候付、足問役伊田にや騎馬ニ あ 遠目番列登、鎖 之側へ申上候事 七月 二 十五日 晴天 北 風 一 、右 弐 般、那覇 川 口ニ致繋船候付、問役加勢山口にや騎馬ニあ罷 登 、御役人衆御鎖之側え申上候事 一 、 右 ニ付、御物城以下役々親見世井沖之寺え賦合ヲ以 昼 夜相詰候事 ( 中略 ) 一 、 右 ニ 付 、 三 司官伊江親方 ・ 御鎖之側 ・ 御物奉行 ・ 申口 ・ 久米村惣役 ・ 長史、其外役々沖之寺へ御出張被成候
事 (中略 ) 七月 二 十九日 雨 天 南 風 一 、阿蘭陀船泊津沖え致廻船候付、那覇御詰之 三 司官衆井 奉 行衆惣役 ・ 長史、其他役々泊村え御越被成候事﹂ 以上のことから、異国船の来航が御鎖之側に 急 報されると、さ っ そく 三 司官 ( ここでは伊江親方 ) 以 下 、 評 定 所 表 十五人の数人をはじめ、久米村総役等も動 員 がかけられ、沖之寺に詰めたことがわかる 。 また ﹃ 航海記 ﹄ は那覇 川 口 ( 伎 S ) 一 人の役人が船に到り、来航の目的を 尋 ねたこと ( 中国語を解したとあるので、久米村 に碇を降ろした到着当日に、 の 通 事 で あ ろ う )、 翌 朝 、 二 人 の 役 人 が 来 艦 、 面 会 が 行 わ れ た こ と を 記 し て い る 。 この 二 人 は 奥 間 ( O o r o o 自 由 ( 世 9 ) 冨 O 耳 円 y o d Z F O 円 国 ) と 儀 関 口 市 巾 呂 曲 、 叶 印 戸 l 印 巾
1
2
)
とあり、中国語を解する、とあることから久米村の異国大夫と通事に比 ( 桂川 ) 定される役人であったと推測される 。 ちなみに儀聞は同人の家譜によると察氏十六世の察修儀問親 雲 上のことで、異 国船の渡来に際し通事に任じられていた 。 儀間より上位の官と見なされている奥聞は 、 アルファベッ ト の綴りから、 姓は宮 O Jミ日毛と考えられるので、久米村毛氏の奥間家の人物とみて間違いなかろう 。 位階は親方とも推測されるが、 同人の家譜は確認できていない 。 この 二 人の他、多くの人物が王府の役人として英船に出入りし、事務調整等をなしているが、なかでも通事の役な 考 がら英語の習得に熱意を燃やしたのが 真 栄平と安仁屋である 。 真 栄平は首里系士の林世栄 真 栄平里之子親 雲 上 房 昭 で 、 論英船渡来時はまだ筑登之位で、位階は低かったが、パジル ・ ホ ー ルはその才気燥発な人物を好意的に評していた 。 同 人の家譜に﹁ ( 嘉 慶 二 十 一 年 ) 丙子七年、嘆時剛船両隻漂来す 。 即ち該船に往き、応対事を全うす 。 八月 二 十 一 日 、 { 注 目 ) 命を 奉 じて通事の職務を協理す﹂とある 。 頭 巻四 やはり首里の東順法与世山親方政輔のことで、当時はまだ 二 十四歳で安仁屋里之子と称していた 。 同人 { 注 目 } は、後に英語の通事として多くの漂着船との対応に当たり、海外にまで名を知られた人物である。 安 仁 屋 は 、 また、この時、地方官としてアルセスト号を訪問したのが、久米村の毛廷器普久嶺親方である 。 同人の家譜記録に ( 註 日 ) ト ム 酢 ヲ 心 シ ﹂ 、 ﹁ 嘉 慶 二 十一年丙子七月 二 十五日有嘆暗州国船大小両隻、収泊子泊村洋面: ・ 時 該水師無由特求見地方官、通国官民 不知其志大加驚恐、子是各官議日、若代遣官内見則其志可知、因於八月 二 日奉 憲令権称地方官、率領官伴併帯 猪羊菜疏登船相見 ・ : ﹂とある 。 地方官について、 ﹃ 航海記 ﹄ では寸大人 ( グレート・マン ) ﹂と記している 。 ところで、到着翌日の九月十七日 ( 旧暦七月 二 十六日)、奥間と儀聞が最初に英船を訪問した際、 マクスウエル艦 長は、船隻の修理と食糧等の補給のために寄港した、と告げていた 。 そこで、奥問らは、現投錨地の那覇沖から北部 の健堅港へ廻航することを勧めた 。 そのための水先案内人も用意すると告げた ( 那覇港から遠ざけるためであったろ う ) 。 マクスウエルは那覇より良港が見つかるまでは那覇を離れないが、まずはライラ号をその港に派遣して、報告 の結果を見てから考えると答えた 。 奥間らはライラ号の調査のために水先案内人を派遣するのは陸の大人と相談した 上でなければ保証できないと告げた 。 英船にはこの大人からの案内人派遣の返事がなかなか届かず、彼らをイライラさせた ( この﹁大人﹂が地方官とな るのだが ) 。 九月 二 十 二 日 ( 旧暦八月 二 日 ) に到 っ て大人が船を訪問し、初めて協議するに到 っ た 。 先の毛廷器の家 譜にみた英船訪問である 。 こ こ で 気 になるのが、家譜では﹁八月 二 日 、 憲令を 泰 けて権に地方官と称し:・﹂とな っ て いることである 。 文 字 通り解釈すると、同日任命されて、仮に地方官として 会 見した、ということになる 。 七月 二 十
八日の奥問らの訪問の際、地方官と説明したか否かは不明だが、大人の存在を口にしながら、毛廷器がその大人の役 に任じられたのは会見の当日となるからである。会見当日の任命はありえないだろうが、到着から会見まで六日間し かないのであり、毛廷器が英船到着前に異国関係の職にあったわけでもないので、到着後、急ぎ﹁大人﹂を仕立てた と考えるしかないだろう 。 一方、﹃航海記﹄で﹁王の継承者の王子﹂とされた今帰仁按司朝英(布政大夫向邦輝) の任命の経緯について見て おこう 。今 帰仁とマクスウエルらの会見は十月 二 十 三 日(旧九月 一 一 一 日)に行われているが、目的はマクスウェルらが 到着以来のもてなしと、病死した水夫の葬儀に対し、国王に謁見して謝礼がしたいと 言 っ たところから、それを断る ためであった。そのため然るべき官員を、ということで、今帰仁按司が選任されたのである。そのくだりを資料では 次のように記している。 ﹁ ・ : 王命王子以下按司及紫巾官等会議、皆調若遣一人権称府官、再見水師頻辞則可止其欲見国王之願、王乃命向鴻 基(今帰仁按司朝英、仮名向邦輝)権称府官帯領各色物件登船告辞 : ・ ﹂ ( 球 陽 寸 ﹁ 一 、 ( 九 月 ) 二 日、阿蘭陀船漂着ニ付ぁ、段々難有被仰付候付、登城、上様必御拝申上度由申出之趣有之、王子 ・ 按司・親方 ・ 表十五人へ吟味被仰付候処、御当国之儀、往昔より唐人折々漂着有之候処、上様御目見被仰付候 考 例 加 熱 之 候 付 あ は ・ : 按司衆之内より一人府官被仰付、唐人対面之上右之次第被申聞 : ・ ( 注 目 ) 一、府官は今帰仁按司 b 被仰付、明日御下被成筈候 L ( 三司官伊江朝睦日々記) 古色 ロ岡 頭 ﹁ 嘉 康 二 十一年丙子九月初 二 日、為登 嘆 暗剛国船以辞水師見王事奉 命 為 使 者 ・ ・ ・ 王乃命基為使者子九月初三日籍称 布政大夫率通事数人及執事座敷以下数十人前赴大船 ・ : ﹂(向氏具志川家家譜) 巻 五
」戸
,
、
これらの記録によって、府官(ここでは布政大夫) の選任が切羽詰まった状況のなか、按司のなかから一人を選ば ざるをえなくなって今帰仁按司に決定されたこと、それは九月 二 日で会見の一目前であったことがわかる 。 今帰仁按司は九月 三 日マクスウエルらと会見し、国王への謁見はかなわないと謝絶し、九月五日に到ってその旨同 人の署名した文書を手交して、同問題を決着させていた 。 英船は 二 日後の九月七日、那覇を出帆、大騒動も一件落着 したのである 。 この英船渡来は、王府の異国船迎接体制を見る上で、実に示唆的である 。 ①異国船渡来を確認すると、三司官以下、 鎖之側、表十五人の構成メンバー他が那覇に下り、②久米村の通事を船元に送って来航の目的等を確認させ、 ③ 慰問 の挨拶と協議のため地方官を会見させ、④最後の調整、宴札等の場面で、行政の最高責任者(ここでは布政大夫)が 会見しているのである 。 こうした体制は、後代とほぼ同様で、この時期にはおおむね確立していたと確認できるのである 。 それ以前の多く 一通りのシステムは成立してい たと考えられるが、地方官、布政大夫の登場は、十九世紀に入ってからであろうと推測され れ 噌 の唐人漂着や異国船渡来時において、久米村の異国関係の通事等が船元に赴くなど、 さて、地方官、布政大 夫 について確認しておくと、ともにその選任は 急 であ っ た 。 地方官はせいぜい 二 、 三 目 前 、 布政大 夫 に至 っ ては前日である 。 地方 官 は﹁大人﹂ということで到 着 のその 当 時にその存在が明 ら かにされながら、 任命は 会 見の 二 、 三 日前であ っ た 。 布政大夫の任命は公式には九月 二 日であ っ て、非公式にはそれ以前と考えられな くもないが、それにしても、国王訪問の話が出て、王子以下で対策を協議して以降のことであろうから、同人が、そ のメンバーに加わ っ ていたとしても、数日間の余裕しかなか っ たはずである 。 いずれにせよ、地方官、布政大 夫 ともに﹁仮に﹂﹁籍に﹂と記され、﹁:・と称して 云 々﹂と記されるように、緊 急 の臨時的役職、対異国人会見のための職であったことが知れるのである 。 となれば、異国船が去った後は、直ちに職を 解かれたであろう 。 毛廷器、今帰仁按司両人の家譜でも、あくまで異国船来航による任職であって、任命から﹁異国 船田去﹂で記事を終えており、任期等について触れることはないのである 。 三 、 総 理 官 ・ 布 政 官 の 任 命 パジル・ホ 1 ル等の来琉に際し、応対のため布政大夫と地方官が臨時的に任命されたであろうことは前述した 。 そ れでは、その後の異国船来航時においては、如何ように対応したのだろうか 。 パジル ・ ホ l ル来琉時の対応を前例と して踏襲したのか、それとも変化させていったのか、どちらだろうか 。 結論からいうと、原則的には前例を踏襲しながら整理されていったといえる 。 しかし総理官│布政 官
l
地方 官とい うラインの確立と、臨時的設置からやがて常設へと変化していく点を考えれば、大きく変化したというべきであろう 。 以下、総理官らの任命とその変遷を概観しよう 。 一八一六年のパジル ・ ホール来航以後も、琉球には多くの異国船が来航している 。 一 八 一 九年の英商船ブラザース 号 一 八 二 七年の英軍艦プロ ッ サム号 ( 艦 長 ビ l チ l ) 、 一八三二年の英商船ロ l ド ・ ア l マ ス ト 号 、 一 八 三 七年の 考米商船モリソン号等々である 。 論 ( 注目 ) 一八三二年来 航のロ l ド・ア l マスト号の場 合 、 中国語を話すエ l チンとオソコという人物が、琉球側から対応に 頭 出ている 。 多分に久米村の異国大夫と通事であろう 。 さらに英語を話す H アニヤ H がいる 。パジ ル ・ ホール来航時に 巻 英語を学んだ安仁屋政輔である 。 その数日後、船上での会見で、長老が出てくるが、地方官であろうと考えられる 。 七J¥ ついで貿易要求に対し、琉球島の長老は文書でもって断固拒否した、とあるが、この長老が、総理官か布政官なのか は判然としない 。 以上のロ l ド ・ ア 1 マスト号の事例は、他も大概同様であろう 。 パジル・ホ 1 ル来航時の前例が踏襲されていたと 推測される 。 しかし、多くの奥田船の来航に際し、対応した地方官、総理官らの役を務めた人物は、ほとんど確認できていない。 ( 益田 ) 資料の制約が最たる理由だが、さらには、元来臨時的職であったためとも考えられよう。異国船が去ってしまえば、 任を解かれた、 つ ま り 一 、 二 l 数週間の任戦だったからではないだろうか。 と こ ろ が 、 一 八四四年の仏軍艦アルクメ l ヌ号(艦長デュプラン)が遭難と称して来航して以後、情況が一変し、 総理官らは臨時職から常設職へと変化していった 。 この年、従来にも増して異国船の来航が頻繁であったことにもよ るが、それよりもアルクメ 1 ヌ 号が残していった 二 人の異国人、仏宣教師フォルカ 1 ドと中国人のオ l ガスチン ・ コ -注 目 ︺ ウの存在が原因だったと考えられる 。 かつて経験したことのない異国人の滞留に、王府は頭を悩ませ、臨時的体制を 崩せなくなっていったのである 。 さて、ここでアルクメ l ヌ号来航に際しての地方官、布政官の任命について見ておこう 。 アルクメ l ヌ 号 は 、 )¥ 四四年 三 月十日、那覇沖に姿を現し、翌十 一 日那覇川沖に碇を下ろした 。 さっそく久米村の異国大夫、通事が訪問し ているが、久米村の鄭良弼其栄里親方が地方官へ就任したのは同日の 三 月十 一 日 。 翌日には修理のためと称して泊に ︹ 住 田 ) { 注目 ) 廻船させた後、聖現寺にデュプランを招いて面会している 。 布政官は、毛達徳座喜味親方盛普が任じられているが、同人の選任は、実に興味深い 。 その経緯をみると、まず聖 現寺で地方官真栄里親方と面会したデュプランが、和親・交易を申し出たのに対し、真栄里は書面での提出を要請。
同十三日にデュプランは総理官あて書面を提出 。 同十六日に、王府は﹁琉球国中山府布政大夫向永保﹂の名で返蓄を 送り拒絶した。同十九日デュプランは、追って大総兵が来航するので、それまでに検討するようにと初会見以来の 言 を繰り返すとともに、その際の通調のためにと、 フォルカ l ドらを残して去った 。 翌 二 十 日 、 フォルカ l ドは﹁ ・ : 極 内為知度趣有之候問、 三 司官へ直話仕度 L と申し出た 。 これに対し王府は﹁ ・ : 三 司官名代ニテ紫冠之内ヨリ為逢申候 { 桂 剖 ) テ可然段相達候処、座喜味親方差出シ面会為致候・:﹂とした 。 つまり、フォルカ l ド らが 三 司官に直接話したい 先 のデュプランへの文書も布政大夫となっていたことからすると、彼らは﹁布政大夫﹂と記したのであろうが、琉球側 で 三 司官に置きかえたと考えられる ) と要望したのに対し、王府では、紫冠 ( 親方クラス) のうちから誰かを、とい うことで、座喜味親方にした、というのである 。 これは実に奇妙な話である 。 デュプランへの回答を 三 月十六日時点 で﹁布政大夫向永保﹂の名で出しながら、その時、向永保なる人物はいなかったことになる 。 三 月 二 十日にフォルカ l ドらの面会要求がなされたため、急逮、親方衆のなかから向永保を選任したのである 。 仮に面会要求がなければ、書 面だけの存在のままであってもよしとしたのだろうか 。 また総理官についても、同様の経緯がある。デュプランらの滞留中、総理官の登場はなかったようで、選任されて いたか否か不明であるが、その 二 年 後 、 一八四六年五月、デュプランらの言のとおり、仏東洋艦隊の大総兵セシルが 三 隻の軍艦を率いて来航した際に、総理官が面会している。 考 この時、仏軍艦は別々に来航しており、 一隻は四月六日那覇入港、翌日には泊へ回り、 一カ月以上停泊して五月六 論 日運天へ回航、 五月十一日、もう一隻が那覇を経て運天へ、同日セシルのクレオパト l ルロすが那覇を経て運天に向か { 注目 ) ぃ、五月十三日三隻が運天に勢揃いしていた 。 王府では、急逮(北山)府官と称して真玉橋親方を運天に派遣して面 E頁 巻 会させたが、総理官との面会を要求され、拒否すれば直接王に対面を願うと脅されて首里へ急報 。 王府は、総理官を 九
。
運天へ派遣することとなる 。 その際の総理官は古謝按司(人物は特定できない)であったが、病気を理由に馬克仁国頭按司正秀に代わっている 。 その交代もさることながら、まずは古謝按司について見ておこう 。 五月十七日付薩摩在香奉行の平田善太夫から薩摩藩の島津豊後 ・ 調所笑左衛門あて文書の張紙に、﹁本文総理官者 古謝按司之筋申出置候処、先日ヨリ病気ニ付、国頭按司総理官之筋ニ而今日ヨリ運天へ被下候段届申出、此段モ申上 へ 注目 ) 候﹂とある 。 これからすると、セシルらの来航以前に、総理官として古謝按司が選任されていたことが知れる 。 選任 は 二 年前のデュプランらの来航時か、残置されたフォルカ l ドらのためか、またはその後も相次いだいずれかの異国 船渡来時か、不明であるが、 セシル来航で急逮ということはありえない 。 病気で交代となっており、病気の人聞を急 溢総理官に任ずることは考えられないからである 。 た だ し 、 セシル艦隊の先鋒は一カ月前の四月七日来着で、遅れて 大総兵が来るとしていたので、その時点での選任の可能性はある 。 先の張紙の官頭の﹁本文云々﹂のくだりからする と、むしろその可能性が高いのではないだろうか 。 答 ・ : ﹂ と し て 、 ﹁ 一 総理大臣 ところで、﹁異国人 b 返答之心得﹂のなかで、異国人にご摂政・ 三 司官衆、御名字唐御名相尋候ハパ、左之通相 A 注 目 ) 古謝按司尚廷柱﹂と記している 。 同文書は午七月 ( 内容からみて道光 二 十六年と推測 される ) の 日 付 で あ り 、 五月には国頭按司に代わっていたにも関わらず、古謝按司をそのままにしている 。 国頭への 交代劇がよほど急だったせいであろうか 。 さらに興味深い問題がある 。 古謝按司の唐名の﹁尚廷柱﹂である 。 もとよ り偽名と考えてよいのであるが、この唐名が、後任の国頭按司の唐名とされていることである 。 さらにいえば、道光 二 十八年と推測される同タイトルの資料でも、﹁古謝按司尚廷柱﹂となっている 。 このことは国頭按司への交代があっ たにも関わらず、国頭は任職中ずっと古謝按司尚廷柱で通したことを示していると考えられるのである 。古謝按司の病気により、王府は早急な後任の人選を迫られた。運天でセシルが待っているからである。五月十五日 に要求され、先にみたように十七日には、国頭按司に決定し、運天へ出発しているが、それでもまだ国頭でよいのか、 { 注 国 } 吟味がなされていた。 ﹁総理大臣、大総兵御対面之儀、最初御吟味通国頭按司へ被仰付可然哉、又浦添御殿御勤被成候方可宜哉之旨、翁 長親方へ被仰含越候付、諸官並久米村方係中ヘモ御吟味被仰付候処、別紙之通区々御申出有之、猶又私共ニモ得 ト致吟味候処、浦添御殿御勤被成候ハ 、、最初ヨ リ之成行委敷御存込之御 事ニ市 何歎難問 等申懸候共、機変ニ応 シ御速達被成御事ニ者候得共、於泊御ヤツリ之節者、仏人共不断見上居候付而者、自然ト疑相立、是迄都而之申 分モ不実之様相成甚御故障可相成勿論、総理大臣迄ニ而不相治、御名代御対面之時宜ニモ相及候ハ、其節者至而 御差支可相成哉 : ::就而者最初御吟味通国頭按司ヘ御対面被仰付可然与致吟味候: : : 五月十九日 摩文仁親雲上 島袋親雲上 伊是名親雲上 L ( 注目 ) 右の文書は、摩文仁 ・ 島袋の二人の日帳主取から鎖之側の伊是名に宛てたもので、この時、日帳主取は首里、伊是 { 住 却 ) 名は国頭按司や摂政 ・ 三司官らとと もにセシルらの停泊する運天にいた 。 考 さて、文書では、決定したはずの総理官について、本当に国頭でよいのか、浦添御殿 H H 摂政の浦添王子朝喜⋮のほう 論 がよいのではないか、と運天 ( つ まり摂政・ 三司官ら)からの今一度の検討要請に 対し、日帳主取らは諸官及び久米 一 県 !村方へも意見を聞き、首里に残る評定所のメンバーで検討した結果として、決めた通り国頭按司でよいのでは、とし 巻 ている。その理由として、浦添御殿は確かに最初からの経緯をよく知っているので、何事があっても臨機応変に対処
できるであろうが、泊においてヤツリ (?)の節、仏人たちに常に見られている。それを(今さら浦添御殿が総理官 だというと)疑念を発し、これまでのことがすべて虚偽であったとも取られかねず、故障の基となる可能性があって まずい、ということをあげている。 つまり、摂政の浦添王子は、泊に一カ月近くいた仏軍艦の連中にすでに顔を知ら れているから、だめだというのである。異国船渡来時、その対策指揮に当たるため摂政は三司官らとともに那覇に詰 ( 注幻 } めたが、異国船が泊に回航すると、それに併せて泊に移動して詰めていた。その際 、 本来の役職は隠し、王府の高官、 ( 桂 担 ) 長老として行動していた。これらのことから、仏人たちと (もとより天久聖現寺滞在中のフォルカ l ドとも)顔を合 わせていた可能性が大きかったことが推測されよう。だからこそ、疑われるのを恐れて、浦添御殿ではなく、 やはり 国頭按司を総理官と結論づけたのである。 以上、見てきたように、布政官座喜味親方、総理官国頭按司の就任は、ともに名称が先行し、対面という段になっ て大慌てで選任されたことが分かる 。 この緊急避難的措置は、王府が摂政 ・ 三司官になぞらえた総理官 ・ 布政官とい う対外的な虚構の王府官制を創設しながらも、未だ臨時的なもの、文書上で済むなら誰かを任職させるまでもないと いう程度の考えでいたことをよく示している 。 しかし、このドタパタの人選劇はこの時までで、以後は否応なしに体制の確立を余儀なくされていった 。 異国船が 渡来してから泥縄式に人選を行うのではなく、常設の職として、総理官・布政官、さらに地方官が任じられていった のである 。 道光 二 十六年の﹁異国人 b 返答之心得﹂は、異国人に政事に携わる官人たちについて尋ねられたら、﹁総理官御 一 人 、 { 質調 ) 布政大夫御 三 人、度支官 三 人、耳目官四人、替儀官八人﹂と答え、摂政 ・ 三司官 衆の名や唐名を聞かれたら、﹁総理 ( 哨 カ ) 安室親方毛鳳鳴座喜味親方向永保﹂と答えるようにと記して 大 臣 古謝按司尚廷柱 布政大夫 棚原親方馬良才
A世 田 } いた。この王府官制の摂政・ 三 司官を総理官・布政官に置き換えただけの体制は、以後、人の出入りはあるものの、 基本的には対外向けの体制として引き継がれていくこととなる 。 次表は、現在確認しえた範囲での①総理官、②布政官、 ③ 地方官の任職表である 。① にはパジル ・ ホ l ル来琉時の ﹁布政大夫向邦輝﹂も含め、同じく ③ には﹁毛廷器﹂を入れた 。 この表から、遅くとも道光 二 十六年以降は、各官ともに連続していたであろうことが分かる 。 たとえば、総理 官 の ( 住 M ) 宜野座按司 (後の 金 武按司 ) は、摩文仁按司と代合 ( 交代 ) であり、布政官の桃原親方は任職に際し、寸座 喜 味 跡 役 ﹂ ) と記されたのである 。 さらにいえば、先にも﹁異国人必返答之心得﹂で見た通り、総理官 一 人、布政官 三 人の体制確 立 をみてい っ たのであり、表でもその連続を大筋で確認できるのである 。 それでは、この変化、臨時から常設への変化はどうして起きたのだろうか 。 そ の 理 由 は 、 一八四四年のフランス船以来、 四 五 年 の 英 船 、 四六年英、仏船の来航と、異国船が相次いだこともあ るが、異国人の逗留、仏のフォルカ l ド、また英のベ ッ テルハイムの逗留が最大の要因と考えられる 。 フォルカ l ド は 一 八四四年の来島以来、度々地方官と面会していたほか、布政官向永保とも面会し、書簡も往復させていた 。 さ らに、大総兵が和好、貿易の条約締結のため、 いずれ来島すること、 フォルカ l ドの逗留もその通訳の用に備えるた めだというのであるから、おおいに意を払わなければならなかった 。 また一八四六年のベ ッ テルハイムも同様に地方 考官・布政官等々と頻繁に接触し、総理官など王府側と異国船乗頭との会見や接待の宴等の際には、仏宣教師ともども 論 臨席することも多かったのであり、王府としても、布政官、地方官をそのまま存置するなど、奥田船対策の体制を解 頭くわけにはいかなかったのである 。 巻 先の道光 二 十六年の﹁異国人 b 返答之心得﹂の布達は、ある 意 味で、王府が恒常的異国船対策について、総理官ら
四 総理官等任職一覧表 総 理 F、晶 届
*
尚 尚 尚 尚 尚 │旬 用 以 偽 い 下 宏 大 国 廷 廷 ヂ1I ず 偽名 名 勲 言葉 棟 柱 柱 輝 鳳 儀l旬 l句 向 摩 向 馬 古 │旬 景 保 ;ー且 7椅ーE 文 国 国 克 謝 鴻 座野 按 柱 頭 仁按 按司 基 靭健司1 名護 育l ぷーす入 帰 実 金 按 仁 武 司 王 按 按 朝挙 子 朝司 名 百 朝 Eヨl 正秀 英 岡│笠成八 成 │ 成 設 道 事E 出 政 威│ 道光 上 道 │ 光 道 E量 八 五 同 三 ニ 光 同 二 光 在 九 ・ 五 ・ ~三一
。
ーーー ノ、ム f壬 -ー 七 九 五 三 O五 九 九 ・ 、ノ~ 年 期 七 二 J¥ ・ - 五 五 九 五 ・ 五 間 四'l一 一 J1、 カ ー 一 七.
.
.
琉 約 蘭 条 仏流イム ゲ 車琉米条約二
2ぺ) リK -=:〆、と ハ〈 逗 ベ フ デ 布 パ と ラ ァ 儲 ッ オ ユ 政 ジ の条約 ン 四 l ア イ ム テ ル プ 大 ル 艦購寧 にs
仏 - 首 Jレ夷 ル カ ラ 夫 ・備 三 単 、ノ 帰 ハ lン ホ 入 署名 0城『車 イ 国ムに イム (ド色( Jレ 条 に 行 逗留 よ ( 仏 セ 英 考 約 よ 訪 り 英 ) り 問 王 ン 著 名 退任 ( 成 子来琉 ル 昇1
主 ~ 進 向 県 科 史べ評定所文符 べ 向喜
文容評七 ベリ 史料 評定 評定 中 評 琉球 異国 琉球 向 氏 リl氏金 山 定 氏 高 級重家譜度 1稿 所 所文 世 所 外 人 外 具 提督遠 本 文啓七 書 詩 文 交附 害 関 返 関b交 志JlI 典 ノ 、 巻 三 係 答之 係 家 征 巻 巻 七 巻 史 史 家 二 巻 言己 料 心 料 譜 一 一 四 得 二 拠 、五 随 五 四 五。
行記。
七 九 五 五 号 四 四 号 号 」同守r 号布 政 官 ( 定員三人 ) 頭
*
翁 翁 毛 馬 IOJ 用 以 鳳 q島 偽 い 下 徳 鴻 良 氷 ず 偽名 n~ 名 裕 度 オ“ 保 承a 克馬 毛 毛 龍光前j 向 馬 大向 向 毛 光 緒 日 徳裕 日主 逮 昇 氏 然 山 徳 伊 勝 連 方 親 垣 花 村野 桃 安室 棚 盛事 禄 野重
富
原 原 実 泰 親 方良 親方朝範 方親朝宜 親方輔良 方朝親 方親朝矩 盛味親方 名 EEヨヨ 方 普 岡│ 成笠一 道 道 威 主E同│ 成豊 問│ 成主主 成 重ふ量 き一霊
L道き 成│ 道光 同│ 光二 在 J1、ノ、/、ム ム ム ムノ、/、 五 九 ・ 一 七 四 二 並 二 二 四 任 - .ノ、 /、/、 七 ・ 期 七 一 九 一 九 、ムノ 一 一 四 戸/,、 . ーー 01 I J二七 六 七 凶 - 間二
。
七。
。
七 O E 役安室、昔 琉仏条約 桃原跡役 座喜味 五仏条約に車 琉条約米修好 ぺセルγ = セ 官 任 司 ルシ 跡 役 職 提督 備 署 名 名堵 1) に l よ E 名 岩 ゲ 交代り 考 フ ン * ・ * ・ 稿 料史 書文語
文 言文 書文 諮 家 評定 毛氏 評定 異固 言定干 定評 巽園 料稿史 評定 異 毛 評定 氏毛 評定 国 氏 に 所文曾: 垣花家 所舎文 人 所 所 人 所 人 垣 所 極 所 本 返b 文舎 舎 文 芸之b (本 文舎 b 花 文 務 l床 舎文 記 載 縦 一 返 家 密 典 譜 抄 家 -巻ー 答之 五巻 巻三 答之 詩家 巻三 家 三 巻 巻 巻 巻五
E
事
雇
二 家 巻 巻 >l、. 心 抄 古持 得 一 一 得 一 拠 四 三 記 三 五 五 五 五 五 五 六 八 J¥ }¥ 戦 八 五 四 五 四 O 九 九 九 無 九 二 七 二 七 四 四 号 号 号 号 Fワ~ー iロ勺 コロ勺 号 号 1;勺ヨ 号 考 号l>. ロ冊 巻 五*1*
*
*
I
r
毛「 毛 鄭*
*
南 北 府 官 山 北 偽 府 山自 山 笑 岐 玉 長 実 実 府知 名 鳳 麟 再!! 名 名 名 光 恩 │ 旬 俊翁邦 長聖
朝翁典 波 久 孝鐙院 毛 鄭 鄭 鄭 毛廷 有 フE 良 士 自 偉 JG 弼 音寺 山 軍見 イ,tJ兵 玉 =国t 1制 真栄 普久 回 減 古 実 方 親 つ J 親 橋 お i長 方 親 波 蔵 親 皇 嶺 親 方 嘉 比 親 方 垣 名 ;jE 雲 親 方 親 上 方 成』師、 成長 任命 成並 治同 成 l 道 道 │ 震 ノ上山、 登一
成│ 道光 光白書
~ ~ 同 二 在 ノ、 ノ、 主 主 三 五 δ 四 任 九 六 三 O 年 五 )¥ J関 六 九 九 間 了 四 七 七 月 七 那 覇 知 府 円ミ 総 ベ 総 デ ノ〈 ') 成:c:理唐栄 リl 成豊 道光 唐理 プユ ユ 〆 Jレ 一 二 栄 ラ 備 ゲ 一 司 0 司 ン ホ な フ 五 任職 五 ・ 任 る ン ー 職 セ Jレ 家t
普 二五 兼任 九 二 に シ 考 よ ル 二 り 六l 交代.
呉国 呉 料 稲 本 史 氏院 〔 霊 所文符七巻 氏毛 ペリ ベリ 評定 球 鄭 毛氏 善氏寺 人 国 陽 氏 人 浜 垣 l l所 真 普久 儀 間 b 返 答 之b 比 花 家 家 提遠督 征提督逮 舎巻文六 栄 返 B11 嘉君主 皇 嶺 家 家Zま典 答 之 家 覇 市 史 家譜 言抄普 征記 譜家 家 譜 'L、'待L、 言己 譜 待 拠 五 随 行 記 随 七三四 〕。
行記 〕 マ ロデ 号 地 方 官 ム ノ、の常設について、覚悟を決めた表れだったともいえよう 。 四 、 総 理 官 ・ 布 政 官 の 職 務 と 職 責 次に総理官らの職務と職責についてみていくことにしよう 。 彼らは、もとより異国船渡来時にその応対をなすのが職務であり、対応する相手が何者か、どのランクの者かによっ て、地方官だけの対応か、布政官も動員となるか、総理官までの対応となるかが決まった 。 ちなみに、地方官は漂着 船、商船等を問わず、 ほとんどの異国人に対応し、文書を送り、面会した 。 布政官は、軍艦の艦長はもとより、外国 の公式の使者に対応し、またそれらの命によって留めおかれたフォルカ l ド 、 ベッテルハイム ( 正確には英国海軍軍 人琉球伝道会の派遣で公の派遣ではないが)などにも対応した 。 総理官は、原則提督クラスであったが、公の使者、 軍人などにも会見を余儀なくされるケ l スもあった 。 地方官は、来航の目的等々を確認する久米村の異国大夫、通事らの第一陣の後を、つけて 、 第 二 陣として異国船に乗 り込み、異国人の要求等を改めて確認し、その他の情報 ( 中国情勢、世界情勢など)を得る努力をした 。 布政官、総 理官の出番となると、協議内容について、どう対応するか、事前に評定所の指示をうけることになる 。 そ の 指 示 は 、 考 那覇に詰める表十五人の鎖之側ら事務方で整理し、同じく詰めている摂政 ・ 三 司官の了承をえ、首里に残る 三 司官ら 論 と も 調 整 し 、 さらに薩摩藩在番奉行所とも調整した上でのものであった。 頭 四月十九 { 桂 描 ) 日、仏人船長の招きにより、布政官座喜味親方が船元に赴く際、会見で予想される応答向きの心得が指示されていた 。 たとえば、道光 二 十六年四月、仏東洋艦隊の 一 隻が他の 二 隻に先駆けて来航し、泊村に停泊していたが、 巻 七
ji、 ー 、 仏人ヨリ船元へ布政官御招之時応答向心得之次第 ( 前 略 ) 一、先日国王安否被相尋趣相達候処、茶被存候、大人モ平安ニテ候哉、安否相尋候様被申 付候段申入候 事 一大総兵来着之次第国王ヘ相達候哉 ト相尋候ハ、、早速相達必至ト驚入被罷居候段申入候事 一和好之事 如何被相考候哉ト相 尋 候 ハ 、 、 此儀者難応其意乍恐御許容之願申上 筈御座候問、万反宜様 御取計被下 度奉希候段相答候事 一右通相答願筋之訳合相尋候ハ、、 此儀事多口上ニテハ難申述候問、追而文ヲ以申聞候ハ 、被間違度申入候事 ( 中 略 ) 右外何歎相尋候ハ、応機変相答、自然重キ事ニテ候ハ、私一人ニテハ何分ト難申上候問、得ト致吟味候上申上 候段相答候事﹂ この﹁心得﹂にそって布政官座喜味は、応対したのであるが、結論的には、最後の文にある通り、﹁重キ事 L に つ い て は 、 一人では何とも答えかねるので、﹁得ト致吟味候上申上候﹂と返答を先送りすることを指示していた。 総理官についても大概同様であった 。 国頭按司が古謝按司に代わって急逮総理官とされ、大総兵セシルと会見する ことになった際、従来の経緯を必ずしも把握していないことについて懸念されたが、それについて﹁依之右者共(セ シルらのこと)用事之程相察シ候得者和好、貿易、天主教、公館取仕立等之外、重立候申立者有之間敷、此儀者応答 向彼是深御吟味之上兼而御噌居、重立候事者文ヲ以返答可相違敗、又者諸官へモ吟味之上可相違杯与申迦シ、右外何 歎尋事等モ都而右之振合通御心得応答有之候ハ、、タトヒ御 一 人御対面之場ニヲイテモ差支者有之問敷哉﹂としてい ( 世 " と た 。
この場合も、重要な事に関しては、諸官とも相談の上、後日文書で、などと 言 い逃れることを第 一 としていたので ある 。 そこさえ踏まえていれば、たとえ一対一で対面しても心配はなかろうというのである 。 また成豊五年 ( 一 八五五 ) 、仏ゲラン提督来琉時、﹁琉球政事相構ひ候各官人﹂と面 会 したい、とのゲランの要請に 対し、王府は会見に臨む役人の範囲 等 々について吟味しているが、﹁総理官、布政官、地方官﹂だけとなると﹁政事 に携わる各官人﹂を、と王府の 重 役たちの出席を要求したゲランの機嫌を損ねるやも知れぬので、﹁総理官弁布政 官 両人・地方官外ニ親方之内弐人相添:・﹂た方が要求にかなうだろう 。 しかし、官人の数が多いと、﹁申 立 之事々吃
S
則席ニ相究、返答押付 差 障候儀も可有之哉﹂として懸念しながらも、﹁:・国之大事 S旬 、 いつれ諸官吟味いたし不申込 返答難成事ニぁ、則席返答申入候儀何共難致事候問、此儀幾重ニ残御断被仰入候ハ、日延等聞済、夫丈御差障相成候 (注調 ) 儀 s h 有之問敷哉 S : ・ ﹂と結論づけていた 。 つまり、総理官、布政官はじめ、異国人との会見、交渉に当たる各官人に謀せられていたのは、王府評定所の対異 国船対策の基本路線に則り、和好 ・ 通商 ・ 布教等多くの開国につながる要求の拒否、 ひたすらの懇願であり、遷延策 を弄することであ っ た 。 た めに、その場での即決を避けるため、総理官に随う布政官は通常一人、せいぜい 二 人 と し 、 三 人全員が会見に臨むことはなかったのである 。 それからすると、先のゲランの各官人との面会要求への対応は、冷 や汗ものだったのである 。 考 評定所の指示に従って対応に当たった総理官ではあ っ たが、その職責はどうなっていたのだろうか 。交 渉の結果に 論 ついてはどう評価されたのだろうか 。 頭 国頭按司の場合、 一八四六年仏のセシルが来航し、和好 ・ 貿易 ・ 布教の条約の締結を迫られたが、 ひたすらの懇願 巻 と遷延策が功を奏して、時間切れとなり、再度の来航を 言 い残して去ったこと、また一八四八年には、王府の頭痛の 九。
種であったフォルカ l ドがようやく帰国したことで、総理官の功績と評価され、薩摩の肝入りもあってか、王子位に ( 住 拍 ) 昇進していた。 一 方、摩文仁按司の場合、 一 八 五 三 年米国のペリ l 来航時 一行の首里城への入城を止めることができなかったた めであろうと考えられるが、 四 月 三 十日の入城の、翌五月一日に退任し、翌 二 日には宜野座按司が就任していた 。 しかし首里城への異国人の入域はペリ l 以前の成豊元年に英国人の事例があり、それも摩文仁総理官任職時のこと である。その時 、交代せずに、 二 度目での交代はどういうわけであろうか。この度の交代について記した文書は次の (注刊 ) ように記している。 ﹁総理官摩文仁按司事、此節来着異国人入城断筋、身命掛る委曲文書を以平ニ頼懸候得共不聞入、押々既ニ為致入 域事候付、此涯致代合候方、異国人 b 対し跡都合可宜S
、摩文仁ゑ退職ニあ宜野座按司に代り被申付置候・:﹂ つまり、摩文仁は命をかけて阻止せんとしたが力づくで押し切られた。阻止できなかったから更迭されたとペリ ー らに分からせた方が、王府の態度、決意を示すことになる。ペ リーらのせいで摩文仁が更迭させ られたと明確に示す ことが、穏便に済ませるより後々のためによい、と判断したのであろう 。 成豊元年の際はいわば 一 過性の事件であり、 止むを得ない 。努 力したが阻止できなかった、 で済ませたが、今回のペリ ーはまだまだ滞在し、 条約のことも残って いるので、あえて身内を切ってみせた。詰め腹を切らせた、といえるだろう。 もう 一 つ 、別の事例を 、 挙 げてみよう 。総 理宮本部按司が交渉に望んだ、仏のゲラン提督との﹁琉仏条約﹂締結の願 { 法 制 ) 末 で あ る 。 ﹁ 仏 船 三 般来 着 付那覇ニあ之日記﹂ ( 成豊五年 ) によると、一八五五年九月、王府は﹁条約﹂の締結をゲ一フ ンから強く求められて脅しをかけられていた。交渉は、本部按司らの暖昧な返答と遷延策でなかなか進まず、字句の 修正にも手間取り、ゲランをいらつかせていた。大詰めを迎えた六回目の会談は、 五回目での合意を受けて、双方で著名押印し、条約成立となるはずだったが、そこまできて、本部按司はまたしても今 一 度の検討をと懇願したため、 遂にゲランは抜万、総理宮本部按司、布政官の棚原 ・ 野村の両親方、地方官の国吉親方を兵に取り押さえさせ、庭に 引きずり出し、今にも万を振り下ろそうとした 。 ここに到って、遂に署名押印を応諾、 A 叩を落とさずに済んだ、とい うのである 。 本部按司らは、 実 に酷い目に遭ったものだが、本来彼らには了解し決定を下す職権はない 。 いくら大変でも﹁平ニ お許し﹂をと、ひたすら願、つしかなかったはずである 。 首を落とされそうにな っ たのだからしかたがない、といえば 確かにそうだが、了解するならするで、そこまでいかなくてもよかったはずである 。 しかし実際は先の話とは様相が 異なっていた 。 地方官国吉親方 ( 唐名毛有増 ) の家譜は了解したその場面を、次のように記している 。 ﹁ : ・ 該 提 督 大 喝一声、左右兵役抜剣突入、将本官等立刻執出戸外、只等行刑、令一下就要開万時、国相法司等官親看危急、即令本 ︻ 校日 } 官等暫為応允 ・ ・ ・ ﹂ ゲランの命令一下、万が振り下ろされんとした時、国相、法司らが、危急なるをみて応允させた、という 。 摂 政 ・ 三 司官が応諾することを許したということになろう 。 ということは、摂政らの許可を得て了解したとなるが、それだ と摂政らは身近にいたことになる 。 前述の﹁仏船三綬来着付那覇ニゐ之日記﹂の当該街所に、交渉に陪席する﹁那覇・ 久米村年長之方:・﹂とある 。 摂 政 ・ 三 司官はこのなかに紛れていたのではないだろうか 。 方法はともかく、﹁応允し 考 てよい﹂と許可できるのは摂政 ・ 三 司官のみであり、本部按司らの危機的情況をみて、となると、その場にいたとし 論 か考えられないだろう 。 頭 以上、わずかな例からではあるが、総理官、布政官らの職務と職権のあり様をみてきた 。 彼らは、自ら判断を許さ 巻 れた場面は限られていたのであり、重要な事はすべて持ち帰って吟味の上で返答すると、逃げ口上を用い、受け入れ
られぬことは土下座までしてひたすら懇願するしかなかった 。 功績として評された事例は、国頭按司のみといってよ いほどで、他は功績云々の話はみえない。もとより点数の稼げる職ではなかっただろう 。 五、総理官らの位置づけについて 総理官は確認できる人物のその大半が偽名を用いていた 。 先の表に記したように、成豊五年九月登場の﹁本部按司﹂ 以前はすべて偽名であった 。 布政官も同様で、成豊五年の﹁垣花親方﹂以降が﹁実成ニあ可然﹂で、以前は偽名であっ た 。 地方官の場合、当初の﹁毛廷器﹂﹁鄭良弼﹂は実名、それに続く﹁鄭長烈﹂﹁毛王麟﹂が偽名、﹁庇孝鐙﹂は実名 と変化していた 。 これらの偽名は、任職時、久米村に考えさせていた 。 何故、偽名を用いたのか、何故成豊五年以降実名の通りとな っ ていくのか、総理官らの位置づけを考えていく上で、 重要な鍵となろう 。 さて、この総理官を頂点とした体制は、先にも触れたように﹁異国人 b 返答之心得﹂等で、 みごとに王府の官制と 重な っ ている 。 摂 政 を 総 理 官 、 三 司官 ( 法司 ) を布政官、と置き換えただけで、度支官、賛議官など、他のは同一と い っ て よ い 。 また名称の総理官も総理大臣などとも記されたが、 いずれにせよ、久米村の長たる総理唐栄司などにみ るように、唐栄を総理 ( 統括 ) する官と同様、総理 ( 統括 ) を な す 官 、 つまり行政の最高責任者を表現する官の名と して、容易に納得しえるものであろう 。 中国においても、光緒年間成立の総理街門や総理大臣以前に、何がしかを統 括する官名として総理云々はいくつか見受けられる 。 異国船に乗り込んでいた中国人通事も違和感はなかったろう 。 布政官 (布政大夫 ) も同様で、福建布政使司などからの連想であろうか 。 これまた違和感はなかったはずである 。 地
︻ 法 制 ) ( 佳品 V A 注 柑 } 方官は﹁那覇地方官﹂、また﹁那覇知府﹂とも表されており、﹁(中国の)府官之段相達﹂との説明もあり、那覇の長 ( 注 訂 ) 官で問題はなかろう 。 他に北山府官、南山府官も道光 二 十八年の﹁心得﹂では記しており、実際、異国船が運天など に入港した際には、同官名で首里から派遣された人物が対応していた 。 こうして築かれた虚構の王府官制、その頂点に位置する総理官、布政官らは、地方官も含め、対外的には破綻をき たすこともなく、各役目を演じきっていた。彼らは異国人を相手に交渉しつつ、結論を出そうとせず、持ち帰って検 討などと懇願し、選延策を弄した 。 ただ王府は、持ち帰っての相談とすると、大臣たる者が諸官と吟味したり相役と ( 注拍 ) 重ねて相談もあるまい、と 言 われかねないと懸念していた。とはいえ、足かけ八年も逗留したベッテルハイムや仏宣 教師の誰も、結局はその虚構を見破ることはできなかったのである 。 彼らは日常的に地方官、時折布政官、また英・ 仏・米の軍艦の来航時には宴会、交渉の場で総理官とも同席していたが、王一府の説明に何らの疑念も抱かなかったか にみえる。摂政 ・ 三司官は異国船渡来時はもとより、それ以外にも那覇に下りてくる機会はあったのであり、まして 地方官は久米村の親方である 。 それが総理唐栄司(久米村総役)でも、那覇里主等ではないことにも気づいていない のである 。 見た目で区別のできようはずもないが、ベッテルハイムは琉球方言もこなしたのであってみれば、王府の 虚構組織が意外としっかりしたものであったこと、首里 ・ 那覇へ廻文等により情報を徹底管理していたことが分かる のである 。 考 この虚構の対外対応組織の属官たちは、先述したが、 一八四四年
i
四六年時に、それ以前の臨時的なものから、王 論 府官制を模した恒常的な官へと性格を変えていった。そこでの変化は、先の唐名の偽名、実名ともからんで、総理官 頭 らの位置づけを考える大きな問題であろう 。 では何故変化したのか 。 先にも若干触れたが、その理由は、異国船の渡 巻 来が一過性の事件ではなくなっていったことがまず第一である 。 四四年あたりから異国船の来航はそれこそ頻繁にな四 り、さらに宣教師が逗留するようになっていった。いずれまた迎えに来るといい、来たら来たで交代要員を置いてい く 。 これでは総理官、布政官の体制は解きょうがない 。 それどころか恒常的な監視体制を構築し、また総理官以下の 組織も虚構であるとはいえ、相応に整備しなくてはならなくなっていったと考えられるのである 。 第 二 には、第一とも関連するが、琉球関係情報の拡散、伝播である。来航した異国船の琉球に関する情報が、英・ 仏 ・ 米と国を越えて伝播し、共有されていたことである 。 そこにおいては、最早、総理官など泥縄ではごまかしがき かなくなる 。 交代は交代で、病気につき云々と告げざるをえなくなっていったのである。その関係で、最たるものが 条約締結の影響であろう 。 一 八 五 四年六月﹁琉米条約﹂が締結されるが、同年九月に琉球に到った米国のピンセンス 号(艦長ジョン・ロジャース大佐) は、入港後、王府に対し、 ①入港時 水先案内のボ l トを出さなかったこと、②干 瀬に目印の杭が 立 てられていないこと、などを指摘 。 総理官への面会と釈明を求めた
o
m
添 川 百 ともに﹁琉米条約﹂に掲 げられている条項で、琉球が対応することになっていたからである 。 王府は慌てて釈明しているが、波が荒れていて ボートが出せなかった、杭は流されてしまったらしいと、 出ていたが:::と皮肉たっぷりであった 噌 いずれもとってつけたような弁解で、 ロ ジ ャースも漁船は このピンセンス号はペリーらと同じアメリカ箪艦であったが、いずれにせよ、条約の条項はすでに伝えられており、 その履行が求められたのである 。 翌 一 八五五年に締結したフランスとの条約は﹁琉米条約﹂をさらに 一 歩も 二 歩も踏 み出すものとなったが、これも﹁琉米条約 L の内容を知った上でのことであったろう 。 こうした奥田船の動き、対応は、すでに琉球を訪れる異国船が、 一 度去れば 二 度と現れないものではなく 、 二 度目 もありうること、さらには同一船、同一人でなくても情報を持ってやってくることを王府は思い知らされていくこと になるのである 。 幕府、薩摩の対外政策の変化もあるが、もうその場限りのごまかしは通用しない時代となっていたのである 。 ここに至って王府は、異国人と対応する総理官らも偽名を用いる必要がない、実名の通りでよい、とした 。 成豊五 年 l 六年には、布政官も地方官も含め実際の通りとなっていき、成豊八年には偽名だけでなく、﹁総理官、布政官ノ儀、 { 住田 } 漸々とハ実誠通、摂政、 三 司官より相勤可宜、左候て小禄親方は此節より布政官ノ場ニて時宜次第:・﹂となり、同年 のフランスからの軍艦購入の注文書には、尚景保(本部按司)と並んで布政官馬克承(小禄親方)として署名するに 至った 。 こうして、総理官ら特別に仕立てて対応させた王府の異国船対策の虚構は終駕を迎えることとなる。 王府が異国船への対応のために構築した総理官、布政官、地方官、さらにいえば評定所の実務部隊の異国通事、久 米村の異国大夫、通事らの組織は、結果として多くの異国船に対応し、 一 八 四
O
年頃まで 何とか事を処理したとい え る。しかし仏宣教師の逗留以降、様相が異なり、かつてのそのつどつどの臨時的な体制から恒常的な体制へと変化さ せた。それは、異国船自体が漂流、探検などではなく、和好 ・ 通商・布教等、明確な目的をもって条約を締結せんと して来航するようになったこととも無縁ではなかろう。王府の苦悩はもとより、総理官らの役割は重要なものとなっ ていった。しかし、その役割は、評定所の指示を受け、 ひたすら要求を拒むばかりであり、 いかに遷延策を巧みに操 るか、あきらめてもらうか等々、姑息な手段を弄するのみであった。自ら判断し活路を採る路などなかった。小国琉 考 球 の 対外関係をまさに象徴する虚構の存在だ った、といえ よう 。 論 頭 1王 l ﹁ 琉 米 L ﹁ 琉 仏 ﹂ ﹁ 琉 蘭 L の各条約文は、大熊良 ﹃異国船琉球来航史の研究﹄ 他に収録 。 原資料は外交史料館 巻 所蔵。写真複製版が沖縄県立図書館等にある。 五ム ノ、 任 2 大熊良 ﹃ 異国船琉球来航史の研究 ﹄、洞富雄 ﹃ ペ リ l 日本遠征随行記﹄等 。 注 3 岩波文庫 ﹃ 朝鮮 ・ 琉球航海記 ﹄ ペイジル ・ ホ l ル著、春名徹訳、 一 九八六年 。 任 4 ﹃ 球陽 ﹄ 嘉慶 二 十 一 年 、 原文編 ﹄ 四 二 七頁) 。 一 五八五項 ( 角 川 書庖 ﹃ 球揚 注 5 ﹁ 向 氏 具 志 川 家家譜 L (﹃ 那覇市史 資料篇第一巻六 ﹄二 七九 1 二 八 二 頁 ) 。 注 6 ﹁毛氏普久嶺家家譜 L (﹃ 久米毛氏家譜 五九頁 ) 。 原文読み下し ﹄ 財団法人久米国鼎会、 注 7 ﹃異国船来琉記 ﹄( 法政大学出版局、 一 九七四年 ) 引用の﹁異国日記﹂ ( 二 八 三 、 二 八 六 、 三