【論文 】
宮沢賢治文学における地学
的想像力(七)
基礎編
: 「〔地質調査ルー
ト
マップ〕」の検証(その一)
―「五間ヶ
森
」とその周辺―
鈴
木
健
司
本稿 は 「 宮 沢 賢治 文 学 にお ける地 学 的 想 像力 」 と いう テ ー マの下に 企 図 され た、 連作論 文 の一 つ で ある 。 こ れ ま で 、 (一) 「 基礎編・珪化木 ( Ⅰ)及び 瑪瑙」 ( 「文学 部 紀要」文教大学文学部 第 21 -2号) 、( 二 )「 基 礎 編 ・珪化木 ( Ⅱ )」 ( 「 言 語 文 化 」 第 20号 、 文教大 学 言語文 化 研究所) 、 ( 三 ) 「基 礎編・ 〈 まごい淵 〉と〈豊沢 川 の 石 〉 」 ( 「注 文の多い 土 佐料理店 」 第 12号 、 高 知 大学 宮 沢 賢治研 究 会 ) 、( 四) 「 応 用 編 ・ 楢 ノ木 大学 士 と 蛋 白 石 、 発 展 編 ・ ジャー タ カ と 地学 」 ( 「 文 学 部 紀 要 」 文 教 大 学 文 学 部 第 22 -1号) 、( 五 )「 応 用編 ・修 羅 意 識と 中 生 代白 亜 紀 」( 「 文 学 部 紀 要 」 文 教大 学 文 学部第 22 -2号) 、 ( 六 ) 「 応 用編 ・ 第 三 紀 泥岩と 影 - 朔 太郎 的 不 安と の 類 似 性 - 」 ( 「 文 教 大学国文」第 38号) を 発 表 して い る 。 本稿の目的 は 、 「〔 地 質調査 ル ー ト マップ 〕」 に 関 し 、 特 に賢治 作 品 と 深い かかわ り を持つ「 五 間 ヶ森 」とその 周 辺 地域 の調 査結果 を 報告 し 、 賢治 作品の読 解に不 可 欠な 基 礎 的資料を新た に提 示 す るとこ ろ にあ る。 キー ワード : 宮 沢 賢治 、 地 学 、 ルー トマ ッ プ 、 五 間 ヶ 森 、 松倉 山一 「〔地 質 調査 ル ー ト マ ッ プ 〕」と は 「〔地質調 査 ルー ト マ ップ〕 」 (図 版 ペ ー ジ 参照 ) は、 『 新 校本 宮 沢 賢 治 全 集 』 第 十 四 巻 「 雑纂 」 に 、 カ ラー 口 絵 写真 の か た ち で 収 め ら れ て い る 。 ま た 、 同 巻 の「校異」篇 を み る と 、次のよ うに 記さ れている。 《用 紙 》 五万 分一地 形 図 「 新町 (秋田 四 号) 」 ( 陸 地測 量 部 発 行 )一 枚 《筆 記 具 》 ブルーブ ラックインク ( 文 字の記入の み) ・水彩絵 具 《補説》 本稿 は 、 「巌 手県 稗 貫 郡地 質及土 性 調 査 報告 書 」 のた めの 実 地 踏 査 中 ( 大 正 六 年 五月 以 降 ) に 作 成 され た も のと みら れる ( 本 文篇 四五頁 お よび 「校 異」参照 )。 本稿に 使 用された地 形 図は 図郭外 の 部分 を切り 取 り、 十六折 に され ている ( 野外携 行 用 に よく 行 わ れ る 措置 ) 。 この 地 形 図 の 初版 は 大 正 五 年三 月 三 十 日 発 行 (黒一色刷) 。 な お、 「 新 町」 図幅は 「 花 巻 」 の 西に 隣 接 する も の で 、 本稿 の部分 は 稗貫郡 の 西北 端にあ た る。 地 形 図 の 全体 を次に 掲 出す る が 、 口 絵 写 真 に 示 し た部 分以外には賢治の記 入 はない。 「 〔 地質調査ル ー トマ ップ〕 」 は、 「校 異 」 《補説》 に記 さ れ てい るよ う に 、 「 巌 手 県 稗 貫郡 地 質 及 土 性調 査 報 告書 」 ( 以 下 「 報 告書」 と 記 す ) 作 成 の ため 、 実 地踏査の段階 で 作 られ た と 考え て 間 違 い はない。 そも そも 「 報 告 書 」 と は、 大 正 六年三月、 稗 貫郡 長より 盛 岡高 等 農 林 学 校 教 授 ・ 関 豊 太郎 に 、 稗 貫 郡の 地 質 及 土 性に 関 す る 調 査の 嘱 託 が あ り、 約 四 年後 の 大 正 十 一 年 一月 に 完 成 、 稗貫 郡 長 に 提 出さ れた もの である 。 作成 にあ たり関教授 は 、 実 地 踏 査を 伴うそ の 仕事 の補助 者 とし て、 神 野 生馬 ( 農 学 科 第 二 部 助 教 授 ) 、 宮 沢 賢 治 (当時 三 学 年 在籍) に 依頼した 。 賢 治は 「報告 書 」 の 完成 の た め 、 卒 業 後 も 研究 生 と し て 残る こ と に な った 。 「報告 書 」 に は稗貫郡 長 の 「 序 」 と 関豊太郎の 「 序言」 が付さ れ ているが、 稗 貫郡 長 の 「 序 」 か ら は 、 「 報告 書」 の 作 成の 意義 ・ 必 要性を 知 ることがで き る。 また、 関豊 太 郎 の 「 序言 」 か ら は 、 「 報 告 書 」 が ど の よ う に
して作成 されたか、 特 に、 賢治がいかに重要な役割を 担 っ てい たかを 知 るこ とが で き る。 賢治に関 する箇 所 のみ 「 序 言 」 から、次に引用す る。 大正 六年三 月 稗貫郡長葛博氏ヨリ公 務ノ余 暇 ヲ 以 テ数 年ヲ期シ テ郡内 ノ 地 質 及土 性ヲ調 査 シ 農 事改 良ニ資 セ ムトスルノ希望 ヲ 容レ、 其 年四月嘱托 ヲ 承 ケ 之 卜 同 時 ニ 農学得業 士神 野幾馬 及 宮沢 賢治 ノ両 氏調 査員 トシ テ嘱託 セ ラレ 著者 ノ事業 ヲ 幇助スル コト ヽ ナ レリ。 宮 沢 氏 ハ 同 年 五 月以 降 洽 ク郡 内 山 野 ヲ跋 渉シ 、桔 据勉励 同 年 ノ 終 ニ 至リ テ地 質図 ヲ完成 スル ニ至 レリ、 著 者 ハ 自己ノ 踏 査セル結 果ニ 照 ラ シ 多少 之 ニ 補 修 ヲ 加 へ タ リ 、而シ テ宮沢 氏 ノ観 察 卜 著 者実地ニ 視察 セ ル 事実トニ 基キ 本郡地形 及 地 質ニ 関ス ル記 事 ヲ 編成シ 之 ヲ報 文 ノ 第 一 章 ト ナ セ リ。 (後 略 ) 大正十 一 年 一 月 東京 市外 西ヶ 原ノ寓 居 ニ於テ 農学 博 士 関 豊太郎 神 野 幾馬への嘱託は助教授であ るから当然と し て も、 宮 沢 賢 治 は 三 学 年 に 在 籍中 で あ り 、 異 例 の 抜 擢 と い っ て よいだ ろ う 。賢 治が書 い た と される 「 報告書」 第一 章 「 地形 及 地 質 」 を 読 むと、 地 質学 に関す る 賢 治 の知見が明らかとなる 。 こ こで は、 後の 論 の 展開に直 結する第一章第二節 「 岩 石 及 地 質系統」 第二項 「 火成 岩」の 「 三、 流紋岩 」 の 記 述を引用する。 三、 流紋岩 ... (酸性 火 山岩) 本岩 ハ一ニ 石 英粗面... . 岩 . 卜称シ微細ナル斜長石及石英ヨリ成レル灰白色 淡黄 色乃至淡赤色ノ 石 基中ニ細カキ石英ノ斑晶ヲ 散点シ、 破面ハ 粗 糙ナル ヲ 常 ト ス レ トモ時 ニ 頗ル 緻密ナルモ ノ アリ、 屡 其岩漿タリシ 際ニ流動シ タ ル紋理即 チ流紋 .. ヲ現ハス 之レ 流紋岩卜 呼ハル、所 以ナリ、往 々 岩石 ノ小腔中ニ細キ石英 ノ 結 晶 ヲ群 生ス、本 岩ハ第 三 紀ニ迸発シ タ ルモ ノニシ テ 一時 其噴火 ノ 頗ル隆 盛 ナリシハ其凝灰岩ノ分布広大 ナ ルニ ヨリテ 推 知 ス ルヲ 得へ シ、流紋岩 ハ 西部 丘陵 地ノ 諸 所 ニ 露 出 シ 其 顕 著 ナ ル モ ノ ハ 大森 山及 五 間 森ニ シテ其玻璃状変種タル真珠岩及松脂岩ヲ伴フ。
稗貫郡で の流 紋岩 の分布 は 「 西 部 丘 陵地ノ諸 所 」 で ある とし、 顕 著 な もの とし て 「 大 森 山 」 と 「 五間 ヶ 森 」 を挙 げ 、 流 紋 岩の 「 玻 璃 状 変種 」 で あ る 「真 珠 岩 」 や 「 松 脂岩」 も 見 出 せると し て い る。 「西部 丘 陵地ノ諸 所」 とは豊沢川中流域を指す 。 同地域における他 の 例 を 挙げれ ば、 鉛温 泉近く の 「高 倉 山 」 や 「江 釣 子 森山 」 も流 紋 岩 か ら でき て い る と さ れ る 。 賢治 の死後た だ一枚残 され た 「 〔地質 調 査 ル ート マ ップ〕」は、 こ の 付近を調 査対 象と した も の である。 「五間 ヶ 森 」 の 箇 所 を 見る と、 流紋岩 を 意味 する 「 Lip 」 ( Lipa rite ・リ パ ラ イ ト の 略 ) の 記 述 を 確 認 で き る 。 賢 治は 、 ま ず 大 沢 川 の 上 流域 に 入 り 、 川 筋 を下 り な が ら 、 そ の 足 で 「五 間 ヶ 森」 に向か い 「五 間ヶ森 」 の中 腹を 南か ら 北 に め ぐり、 「 下し沢 」 を経由 し 、 県 道 ( 花 巻 大曲 線)へ 抜 け た もの と思 わ れ る 。 その 間の 標本番号 を確認 す る と 30~ 36が 「 大 沢 川 」 、 37・ 39が「 五間ヶ 森 」、 38は「 五 間 ヶ森」を 越え た 峠道 、 42が「 下し 沢 」 である 。 40・ 41は飛び番と な って い る が 、 理 由 は不明で あ る 。 こ の地域 は 矢 櫃 層 ( 湯 口 層 ) と よばれる 新第三 紀 中新 世の 凝 灰 岩が基盤 と な って おり 、 下 部 に は男 助 層 ( 凝 灰岩 ) が あ る 。 そ れら を貫 い て 流 紋 岩の マ グ マ が 噴出 し 山 を成 し て い る 。 ま た 大 沢川上流は 、 大石 層 ( 凝 灰 岩) 、 さ ら に 大石 層下 位の大 荒 沢 層 (幕 館層)( 凝灰 岩)にか かっ て お り、 安山 岩 マ グ マ の 噴 出 が いた る と こ ろ に あ り、 複 雑 な 岩 石分布を 呈し て い る。 30~ 35は An d ( ande site ・ 安 山 岩 ) ( 写真1 )、 36は Co ngl omera te ( 礫岩 ) 質の Tu ff ( 凝灰 岩 ) ( 写真2 )、 37・ 39は Lip ( Liparite ・流 紋 岩 ) ( 写 真3 ・ 4 ) で 、 38は判読しにく い英語だが、 お そ らく は Tu ff ( Pumice ous )で 、浮 石 質 凝 灰 岩( 写真 5 )の こ と だろう。 42は L ip (L ip arit e ・流 紋 岩 ) ( 写真 6 ) で あ る 。 「五間 ヶ 森 」 中腹 に 黒 曜岩 を 意 味 す る Ob s. (Ob si dian ) の記 述が見 え 注目さ れ る が 、 同 地 点 から 黒 曜 岩 を 確認 する こ と は で きなかった 。 ただ 、 「 下シ 沢 」 の 上 流 部 で真 珠岩の 大 き な 貫入露 頭 が 確 認 で きた ( 写真7 ) 。 そ こ は、 「五 間 ヶ 森」 の山裾ともい える場 所 で 、 貫入 方角は、 「五間 ヶ 森」 の山塊に向かっ て いる。 ま た 「 下 シ沢 」 の 転 石 の 中 に 真 珠岩 を幾つ も 見 出 す こ とが で き た( 写真 8 ) 。 賢治 は先 の 「 報 告 書」 で 「 其玻 璃状変
種タル 真 珠岩 及松 脂 岩 ヲ伴 フ」 と記述し て い る。 黒 曜 岩と真珠岩は ともに流紋岩の仲間 で 非常 に近い関係 にあり、 賢 治 は 黒 曜岩 と真 珠岩とを 同義語 的に用 い て いる 可 能 性 が ある 。「 下シ 沢 」 の 真 珠 岩 は 、 九州 大 学 ・ 理学 研 究 院 ・ 地 球 惑 星 科学 部 門 の 上 原誠 一 郎 先 生 の 鑑 定で は、 真珠岩に 似 て い る が黒 曜岩と 判 断すべきと の こと であ っ た 。私の 採 取し た真 珠 岩 ( ま たは 黒 曜 岩) は、 賢 治 が 「 〔地 質調査ル ートマ ッ プ 〕 」 上 に記し た 地点 とは異 な る場 所 か らの 産出 で直 接 的 な証拠 と は なら な い が 、 賢治 が 「 下し 沢 」 を 下 りる 際に 真 珠 岩の 露頭を見 た 可 能性 も高く、 全くの 無 関係 とは思 わ れな い。 という の も 、「 〔 地質 調査ルートマッ プ 〕 」 上 の 「 Ob s.」 には 標本採 取 番号 が な く 、 本 当 に 賢 治が その地 点 で黒 曜 岩 を見 たのかどうか の 確 証 が ない 。 さ ら に 、 観 察し たかぎ り では、 賢 治が 記 述 した 付近か ら の黒曜岩 (ま たは 真珠 岩) の産出は 、 ほ と ん ど可 能性がないと 私は 判 断 し て い る 。 し たが って 、 「 下 し 沢」 ( 「 五 間 ヶ森」 の山 裾) の 黒 曜岩 (また は 真珠 岩) と 、 「 〔 地 質 調査 ルー トマップ〕 」 上 「 五間 ヶ 森 」 中 腹に 書き込ま れた 黒 曜 岩 と は、 何ら かの 繋 が りがあるかもしれないと 推 定す る こ とは 可能 である 。 ただ 現時点 で は、 調 査 報告 とし て と ど め てお き た い 。 また 、 「 五間 ヶ森 」 の 流紋 岩に は 二 種 類 あり 、 目 の ギッ シ リ と詰まっ た も の と 、 そ ろば ん玉型の空 隙 を持 った ものが 確 認 で きる。 後 者は 、 比 較 的 新し い噴火 の 際に 形 成 さ れ た も の と 推 定 さ れ 、 空 隙 の な か に 玉 随の 埋ま っ て いた あと を示す も の も 採 取 できた ( 写真 9 ) 。 蛋白 石の充 填 され てい た 可 能性 も な い わ け で は な い と思 われる 。 蛋白石 と の 関 連 で いうな ら 、「下シ沢 」 の調査中、 流紋 岩の転 石 に蛋 白 石 を発 見す る こ とが で き た ( 写真 10)。 同 質 の 流 紋岩 を 求 め 沢 を遡 る と 、 高 倉山 方 面 から 下シ沢 に 流れ 込 む 北 ノ 又沢 で再度 蛋 白石 を 見 つ ける こ と が で きた 。 「 下シ 沢 」 で採 取さ れた 蛋 白 石 は 株式 会 社 ニチカに 分析を委託、 X線回折 分析の 結 果と して 蛋 白 石で あ る こ と が 確 認 さ れて い る 。 蛋 白 石 は 、 賢治作 品 を 読 み解く上で の キーワード の 一つ であり、 〈台〉 の 万寿山 で の蛋白石の確認 ( 「 応 用編 ・ 楢 ノ木 大学 士 と 蛋白 石 」 参照) と ともに、 意義ある こ と と考
えている 。 二 詩「 風 景 と オ ルゴー ル 」 ・ 「 風 と 偏 奇」 詩集『 春 と修 羅』( 第 一集)「風 景 とオ ルゴー ル 」 とい う 作 品 が ある が 、 この 作品 の 舞 台 は 、 お そ ら く 実 在す る 「 五間 ヶ森 」 と その 周辺 地 域 であ る。 爽か な く だ も のの に ほ ひに 充 ち つめ た く さ れ た銀 製の薄 明 穹 はく めいき う を 雲が どんどんかけ てゐる 黒曜 こく え う ひの き や サ イ プ レ ス の 中 を 一疋 の 馬 がゆ つく り や つ て くる ひとりの 農夫 が乗 つ て ゐ る もち ろん農夫 はか らだ半 分 ぐらゐ 木 こ だちやそ こら の銀のアトムに溶け また じ ぶ ん で も溶 け て も い いとお も ひ な がら あた まの 大 き な曖昧 な 馬 と いつし よ にゆ つく り くる 首を垂れて お となしくがさ が さ した南部馬 黒く 巨 き な 松 倉山 の こ つ ち に 一点 の ダ ア リ ア複合 体 その 電 燈 の 企 画 プラ ン なら じつに 九 月の宝石 であ る そ の 電燈 の献策 者に わた く し は 青 い 蕃 茄 トマ ト を贈 る どん な に こ れ らの ぬ れ た み ちや クレ オ ソ ー ト を塗 つ た ば か りの ら ん か ん や 電線 も 二 本にせものの 虚 無 きょ む のなか か ら 光つて ゐ るし 風 景 が深 く透明 に され たかわ か らな い 下で は水がごう ご う流 れ て 行 き 薄明穹の爽か な 銀 と苹果 と を 黒白 鳥 の む な 毛の 塊 が 奔 り ((ああ お月さ ま が出て ゐ ま す )) ほん た う に 鋭 い秋の 粉 や 玻璃末 は り ま つ の雲の 稜 に磨 かれ て 紫磨 銀 彩 し ま ぎ ん さ い に尖 つ て 光る六日の 月 橋の らんか ん には雨粒 がま だ い つぱ い つ い て ゐ る
なん と い ふ こ の な つ か し さ の 湧 き あ が り 水 は お と な し い 膠朧体だし わ た くしは こんな 過 透 明 くわ とうめい な景色 の な か に 松倉山 や 五 間 森 ご け ん も り 荒つ ぽい石 英 安 山 岩 デ サ イ ト の岩 頸 か ら 放た れ た 剽 悍 な刺 客 に 暗殺 さ れ て も いいの で す ( た しかにわ たくしがそ の 木をきつ た の だ から) (杉 のい ただき は 黒 く そら の椀を 刺 し) 風が口笛をはん ぶ ん ち ぎ つ て 持 つ て くれば (気 の毒な 二 重 感 覚 の 機関 ) わた く し は 古 い印 度 の 青 草 をみ る 崖にぶ つ つかるその へ んの 水は 葱の や う に 横 に 外 そ れて ゐ る そん なに風 は うま く 拭 き 半月 の 表 面 は きれ い に 吹 き は ら は れ た だか ら わ た く しの 洋 傘 は しば らくぱ た ぱた 言 つ てか ら ぬれた 橋 板に倒れたのだ 松倉 山 松 倉 山 尖つて ま つ暗な 悪 魔 蒼 鉛 の 空に 立 ち 電燈はよほど熟し てゐる 風が もうこれつきり吹けば まさ し く 吹 い て 来 る 劫 カルパ のは じ め の 風 ひ と きれそらにうかぶ暁のモテイーフ 電線 と恐ろし い 玉 髄 キヤ ル セ ド ニ の雲のきれ そこから 見当のつか な い 大 き な青い星がう かぶ (何べん の恋の償 ひだ) そん な 恐 ろし いが ま い ろの 雲 と わた く し の 上 着 は ひ る が へ り (オ ルゴ ールを か けろ かけろ ) 月は いきなり 二つに な り 盲ひ た 黒 い暈を つ くつて光面を過ぎる雲の一群 (し づまれし づま れ 五 間 森 木を き ら れて も し づ ま る の だ) 作品 舞台は、 志度 平 温 泉 と 大沢 温泉との ほぼ中間地 点で 、 豊 沢川に 架 か っ て い る 渡 わた り 橋 ( 現 在 の 渡 わた り 温泉 付 近) に 、 賢 治 は立 っ て い る と推 定 さ れ る 。 〈渡り〉 にお住ま い の 畠山幸 三 郎さ ん ( 昭和八 年 生
まれ) の お 話 で は 、 「 橋板 」 と 記さ れ て いるこ と に関 し、 渡 橋 は か つ て は 板 ででき て いた とい う こ と で ある 。 当時 は 花 巻市 街 と 鉛 温 泉 を 結ぶ 花 巻 電 気 鉄道 ・ 鉛 線 (軌道式 ) が 走 っ て お り、 渡橋は、 橋脚 と し て石を積 みコン ク リー トで 固め た も のが用 いられ、 電気鉄道は 橋の 片 側 に つ く ら れ た 鉄 製 の 橋 板 の 上 を 運行 し て い たと い う 。夜 間運 転も 行 っ て い たと い う こ と で あ る 。 『〔 写 真 集 〕 栄 光 の 軌 道 花 巻 電 鉄 』 ( 著 者 ・ 佐 々 木 幸 夫 、 発 行 者 ・ 花巻電 鉄 O B 会会 長 小 田 島 勝見、 熊 谷出 版印 刷 部 、 平 元 ・ 3 ) を 見 る と 、 渡 り 橋 上を 通過中 の 軌道 敷 電 車の 写 真 も収録 さ れ て お り 、 細 部 は 不 分 明 で あ る が、おおよそ、畠 山 氏 の証言 と 一致し て いる 。 その よう な前提 で 詩の 解釈を試み て み る なら、 「 オ ルゴール」 と いう表現 は、 軌 道 式電車に電気を送るた めに立 て られた電 柱 ( 同電 柱には 家 庭用の 電 線 も 敷設 され てい た ) の電 線に強 い 風が吹 き つけ、 う なりを立 てているよ う すを 暗 喩 とし て 表 現した も の と 考 え ら れ る 。 ま た、 「一 点の ダ ア リア複合体」 と 描 写 さ れ た 「 電 燈 」 は 、 畠山氏の記憶 で は 〈渡 り〉 駅は無 人 駅 で 、 電柱に電灯が付けられていたということで あ り、 その 電燈を指し て い る と考え て よいの で はな い だ ろ う か 。 賢治は 、 駅名で い え ば 〈志 度平温 泉〉から 〈 渡 り 〉 を経 て 〈 大沢 温泉〉方面に 歩い ていた と 推定される。 進行方 向 の 後 ろに 「 松 倉山 」 ( 写真 11)が あり、 前 方 左 手 奥 に 「 五間 森 」 ( 「 五間 ヶ 森 」 写真 12)が あ るこ とになる。 同 日の日 付 をもつ詩 「昴 」 か ら、 帰途 は電 車に乗 っ た こ とが分か る。 花巻電気軌道設立は、 一九 一三年 ( 大正二年) で あ るが、 一 時 に 全線が開通した わ け で ない。 馬 車鉄道の 区間 も あ り 、 一九二 三 年( 大正一 二 年) 五月に 志戸 平温泉 と 湯 口 (大沢 温 泉 ) 間の電 車 運 転 が開業さ れて いる。賢治の 詩の日 付 は わ ずか その四 ヶ 月後 である。 な お 、大沢 温泉 と 西 鉛温泉 間 は当時まだ 馬車鉄道 で 、 電化は大正一四年ま で 待たねば ならなかった。 さて 、 「 五 間 森」 や 「 松倉 山」 が 「 石英安山 岩 デ サ イ ト 」と 記述さ れ ていることは、 大 きな謎 で ある。 す でに確認 した よ う に 、 賢治 は 「 五間 ヶ森 」 を 「 〔 地 質 調 査 ル ー トマ ッ プ 〕 」 上 で 流 紋 岩 と 記 述 し て お り 、 詩 に お い て 「石 英 安 山 岩 」 と 記 し た こ との合 理 的理由 を 見出 す こ とが でき な い か ら で あ る 。 後 に 詳 述 す る が「 松 倉 山 」
も 「 石 英 安 山 岩 デ サ イ ト 」 で は な い 。 それ 故、 あ え ていう な ら、 賢治には 「五間森」や「松 倉 山 」を「岩 頸」と捉 え た い内的理由が あり、そのた めに「石 英安山岩」とした のかも し れないという こと で あ る。 「岩頸 」 と「石英安山岩 」 と の 組み合 わ せは、 賢 治 の場合、 沼森(散文「沼森 」 ) や 南 昌山 (短歌№ 240) のような例が あ る 。この場合も 、沼 森や南昌 山が石英 安山 岩だ と保 障さ れ て いる わけ でな い。 用 例 とし て存 在し てい る と いうこと である。 また、 実 際の 「五間 森 」 や「松 倉 山 」 を見るか ぎり 、 「 岩頸 」の 表現 が あ ま り 当 て はま らない 山 とい わ ざ るをえない 。 「五 間ヶ 森」 は山 頂が 平ら で 「 岩頸 」 の イメージ に合 わない。 「松 倉山 」も〈渡 り〉側か ら見 れば山容 は「 岩頸」と 呼べ そ う だが、 別 の角 度 か ら見 た場 合横 に細長く ( 写真 13) 、 や は り「岩頸 」 の イメージ にはつながら ない 。このよ うな 実際と 詩 の表 現と の食い 違い をど のよう に 解 釈 す べき か 。 単 純 に賢治 の 記憶違いと い うことで 済 ま すべ きで はない だ ろ う 。 お そ ら くこ の種の問題 は 、 詩 を さ らに 深く 読み 込ん で行 く過 程 で 、 自 ず と 賢治の意 図し たこと が 理解される の で は ない かと予想される が 、 本 稿の 目 的 か ら はず れ る の で 、 別 稿 の 課題 とし て と どめ おく こ と にす る。 「風 景 と オ ル ゴー ル 」 と 同 日 の 日 付 ( 一 九 二 三 ・ 九 ・ 一六 ) を もつ詩「風 の 偏奇 」も、舞 台は同 じ であ る。 おゝ 私 の う し ろ の 松 倉 山 に は 用意さ れ た 一 万 の 珪 化 流 紋 凝灰 岩の弾 塊 があり 川尻 断 層 の と きか ら 息 を殺し て し ま つ て ゐ て 私 が 腕時計を光 ら し過 ぎれば落ちて くる 空気の 透 明度は水よりも強 く 松倉山 か ら生 え た 木は 敬虔 に 天 に 祈 つ て ゐ る こ の 作 品 で 賢 治は「 松 倉山」を「 珪 化流紋凝灰岩」 とよ ん で い る 。「 風 景 と オ ル ゴ ー ル 」 で は 「 石 英 安 山 岩 デ サ イ ト 」 で あ った。 現 在流 布し ている地 質図 ( 内 外 地 図株式 会 社発 行 ・ 著作権 所 有 者 : 長谷地 質 調査 事務所、 昭 55・ 9) で は 「流 紋 岩 」 の 山 と も解釈 で き る の で 、 ま ず は 、 実際の 岩 石が何である の か 確 認 し て おく必要 があ る だろう。 「 松 倉 山 」 を 調査 し て みる と 、 賢 治 の い う 「 珪
化流 紋 凝 灰 岩 」 の 正し い こ とが 分かる 。 「松 倉山 」 は 細長い山 であり、 場合によっ て は 流 紋岩か ら 成る場所 がある こ とも考えられるが、 私 が調査した数箇所 (沢 や尾 根 ) での サン プ ル 採 取 の結 果 は 、 ほ とん ど が 凝 灰 岩と 判 断 で き るも の で あ っ た( 写真 14・ 15)。 泥 岩 層など の 混じることも 確認 で き た。 次に 「 川 尻断 層」 の 語 だが 、 原 子 朗 著 『 新宮 沢 賢 治 語彙 辞 典 』 ( 東京 書 籍 、 99・7 ) で も 解 説 さ れ て い る ように、 一八 九 六 年 ( 明治 29年) 八月 三 一 日に お き た 陸羽地 震 によっ て 和賀郡湯 田村( 現 ・西 和賀 町川尻 ) に生じた断層のことで ある。 『 岩手百科 事 典 』 ( 岩手 放送 、 53・ 10)に よれば 、 マ グ ニチ ュ ー ド 七 . 五 と 推定 さ れ 、 県 内の 死 者 四 人 、 全 壊 家 屋 一 一〇 と い う こ とである。 な お、 秋田県 側 の被害は岩手県の 被害をは るか に 上 回る も の であ っ た とも記 さ れ て いる 。 賢治は 「 珪化 流紋凝 灰 岩」 を「用 意 され た一万 の 」 「弾 塊 」 と記 し て い る ( 写真 16)。 詩の 解釈 とし て は、 陸羽地震に よ り 「 松倉 山 」 の珪化 流 紋 凝 灰岩 に無 数 の 罅が 入ったと 読め るが、 そ れが事 実 と 異 な る こ と を賢 治は承 知 し て いたは ず で ある。 凝 灰 岩 の罅の 隙 間 には 所 に よ っ て 水 晶 が 発 達 し て お り ( 写真 17)、 火 山灰 が 海 底に 積もっ て 地 下 深 く 沈ん でいた頃 か ら の 罅であることを 示し て い る。 賢治が 「 珪 化 」 と 呼んで いる の は 、 地 下 に お い て 高 熱 の 温 水 にさ らさ れ た 結 果 とし ての 「 珪 化 」( 二 酸 化 珪 素 化 ) を意 味 し た も の で 、 「珪 化 」 作用 を受 けた 「松 倉山 」 の 凝灰 岩は 通常の 凝 灰岩と 異 なり、 ハ ンマーで たたく と カ ー ン と 高 い 音 を 立て るほ ど の 硬 さ を有 し て い る 。 「報 告書」で の記述 に 次の ような 箇 所が あ る 。 二.流紋凝灰 岩 ..... 本岩 ハ流紋岩質 火 山灰ノ 水 中 ニ沈積シテ固結シタルモ ノ ニ シ テ、白色淡灰色 淡黄 褐色ヲ 呈 シ粗糙ニ シテ脆 弱 ナ ル モノト緻密 ニシ テ 堅 実 ナ ルモ ノトア リ 、往 々稍 粗大 ナル 流 紋岩ノ 砕 屑ヲ混 有 シ、又肉眼ニテ認視スル ヲ 得 へキ石英粒ヲ散布 ス、本岩ハ西部丘陵地ノ 大 部 分ヲ 形成シ豊沢川上流地ニ於テハ本層中所 々 ニ 流紋岩ヲ露出ス、鉛 大 沢間ニ於テハ本凝灰岩ヲ 採掘シ下 シダ シ沢 サハ 石卜称シ 竃ノ製作ニ利用ス、 盛 岡 附近ニ於ケル滝沢石卜岩種及用途ヲ同フス、台
温 泉 地ニ於テハ其分解ニヨリテ生シタル白土ヲ 以テ陶器 ヲ製造ス、本 岩 ニハ 温泉 ノ作用 ヲ 受ケ テ硅化 .. シ頗 ル堅硬トナ リ 頑ト シテ 風化ニ 耐 フ ル モ ノ アリ志戸平、江釣子森、台温 泉 附近等ニ於 テ好 例 ヲ 見ル 。 「流紋 凝 灰岩」が ど のような経緯で 「珪 ( 硅 )化」 さ れ るか、 ま た 「 珪化流 紋 凝 灰 岩」 と は ど のよう なも のか賢治自身 が 説 明し て お り、 興味 深い。 稗 貫郡にお ける 「 珪 化 流 紋凝 灰 岩 」 は 「志 戸 平 、 江 釣 子 森 、 台 温 泉附近等ニ於テ 好 例ヲ 見ル 」 と されて お り 、 松倉 山は その 中 の 一 つ の 「 志 度 平 」 に あ る 。 こ こ の 石 は 明 治 時 代よ り 「 耐 火 粘土 」 と し て 知ら れ 、 「 明 治九 年 各府 県金 石 試 験記 」 ( 文部省 ) にも記 載 さ れ て い る。 また、 「 報告書」 と と もに刊行された 「 岩手県稗貫 郡 主 要部 地質及 土 性略 図」 ( 『 新校 本宮 沢 賢 治全 集』 第十四 巻 「雑纂」 ) を 確認する と、 松倉山 の ある 一帯 は、 「 」と あ り 、 「 流 紋 凝 灰 岩 」 の「 硅 化 部 」 と 説 明さ れ て い る こ と が 分 か る 。 お そ ら く 賢 治 の 調 査 が生 かさ れ た 結 果 であ る 。 現 在 松 倉 山 が 流紋 岩の山 と 判断 され てい る点 につい て は、 今後さ ら に 調 査を進める必 要を感じている 。 二 金山 ・銀山 堀尾青 史 著『年譜 宮沢 賢治 伝 』 ( 図 書新 聞双書、 昭 41) に 、 土 性 調 査 に 伴 い 林 業 の 調 査 を 受 け 持 っ た 盛 岡 高 等農 林学校 の 林科助教授 ・ 小泉多三郎の聞き書 き が紹 介され て いる 。 ど の エ ピ ソ ー ド も興味 深 い も のだ が 、 そ の なかの一つに 、 「 金」 「銀」 に関 する話 が あ る。 大沢 温泉に第一夜をあかし、鉛を半分こえた時 でし た 。 宮沢 は 、 私 に 特 に き か せ る と い う で も な く、何かひと りごとを言いながら 道を歩いて い る の で す。考え 考え 、頭 の中にあ るも のを まと めて いる といった 調 子 で、 「 こ の 谷 の こ っ ち 側に は 金 、 こ っ ち側には銀、 ここには鉄があります ――。 」 などと 言 っ て いるの で す。学問的な カンをひらめ かし ながら、 その辺の地 質 を見透すように や っ て t’2
いるの です。 「鉛 を 半 分 こ えた 」 地 点 と いっ た場 合 、 賢治の い う 「谷 」 と は ど れ を 指 す のだ ろ う か 。「 鉛 を 半 分こ えた 」 地 点 に 「 谷 」 と よ べるほど の 場 所はない。 〈 鉛〉 を越 えて 少し行ったところ ならば 、 北東から〈東 ノ又 沢〉 が流 れ 込 ん で いる 。 そ の 場 合は 男 助 層 か 矢櫃層 ( 湯 口 層) と な る、 鉛付 近の西 側 ならば大荒沢 層( 幕 館 層 ) となる だ ろう。 〈 鉛〉 付 近 で鉱山 が あっ た と い う 記録 はなく、 ま た 、 詳 し い 現 地 調査もで き て おらず、 現 時 点で 確 定 的 な こ と は 何 も い う こ と が で き な い 。 た だ 、 岩田 安 正 氏 ( 前 宮 沢 賢 治 イ ーハ トーブ 館 副 館 長 ) の 情 報で 、 松 倉山 を地元 で は銀山 と 呼ぶ こと の あ る こ と を 知っ た 。 先 に 紹 介 し た 賢 治 の エ ピ ソ ー ド との 関 連 もあ り、 今 回 少 し 詳し く 調 査 す る こ とに なっ た。 その過 程 で 、 松倉 山は金山と し て 稼 動していた 時 期のあるこ と も 確 かめる こ と が でき た。 かなり、 信憑 性 の あること なの で、 記 録 とし て 残 し て お き た い 。 松倉 山 は 矢櫃 層に属 す 矢櫃 層は台 温 泉から さ ら に 北 方 にか け広が る 凝灰岩を中 心 と し た地層で ある 。 畠山幸三郎さん ( 前出 ) の お 話 で は 、 小 さ い 頃か ら 松倉山 を 銀山 と 呼 ん で いた そう であ る。 松 倉 山は 畠 山 さんの 家 の 目 と鼻の 先 に そ びえる山 である。 畠山さ ん は明治生 まれの父親から 「 あ の 山は銀 が 採れる 」 と聞 かさ れ て いた そう である 。 お そ らく 、 昭 和以前 、 大正 期か 明治期 か ら 銀 が掘られ て い たの では ないか と お っし ゃ っ ていた。 坑 口 は山 の 中 腹 に ある との こ と で あ る( 写真 18)。 畠山 さ ん の 記 憶でも、時 折 、銀 を掘 りに 来 る 人 が いて、 地 元 の 主婦 を数人 雇 い、 掘 り 出 し た 鉱 石を 鉄の臼 で 細か く 砕 き 、 水を 流 し た樋 を 使 って 銀をより分けるということ で あ る。 それが四合 瓶 い っ ぱ い にな ったと こ ろで 帰 っ て い く の だそう で あ る 。 会 社組織 で の 大 がか り な 採 掘 はなかった よ うだ 。 畠山さんの 証 言に、 多 少検 証 の 余地が な いわけ で は な い 。 銀 の採掘の 場 合自 然 銀 と し て の 産 出 はあ まり 考 えられず、 多 くは硫 黄 との 化合 物 と し て 産出 す る 。 ま た、 方 鉛 鉱 な どに含ま れて一 緒 に 産 出する こ とが多い。 つま り 、 銀 の 採取 に は 精 錬 の 作 業 が 加 わ る わ け で 、 そ の点 の お 話 を 伺う こ と が で きなかった 。 お 話 の 感 じ で は 、 山金 の採掘 のようでもあ る 。 当 日は天 候 の関 係で
坑口ま で 登る ことが で きず、 銀 鉱石 も 入 手し ていな い ので 、断 定的な 結 論 は 避けな け れ ば な ら な い だろ う 。 金 山 についてで あ るが 、 こ ち ら は松倉山の地主さん で あ る畠 山 勲 さん (大正一 三年生まれ) から伺った 話 であ る 。 昭 和 三〇 年 か ら 三 五 年 く ら い の こ と 、 日 鉄 釜 石鉱 業 所 か ら 技師 が 来 て、 金 の 採 掘 を目 的 に 坑 道 を松 倉山 に 七 本 掘 っ た そ う で あ る。 横 に 掘 り 進め 、 深 い も ので 一三 〇㍍ほ ど あ っ たと のこと 。 釜 石 鉱業 所 の 所 長 で あ る今井さ んという 方の一級先輩に金 を 探 す山師 がい て 、 採掘 を 勧 めたそう で あ る。 畠山さんに金の鉱 石をお 持 ちかたずねたところ 、 軒 下 に あ る石を持っ て こら れた。 そ れが 金 の 鉱 石 で 、 以 前 は 肉 眼 で 確 認 でき る大 きさの 金 が付 着 し ていた と の こ と で あっ た 。 箔 の ように 付 着し て い る金もあった とのこと で あ る。 付近 に鉱 石の欠 け た一 部 が あっ たの で頂戴 で きないかお 願いす る と快く分け て いた だく こ と が で き た ( 写真 19)。 ル ー ペ を 使っ て観察し て み た が 、 残 念なが ら 金 の存在 は確認で きな かった 。 おそ ら く 、 マ グ マ の 熱 水が 滲入し て で き た鉱床 と 考え られる。 金鉱脈は 一メ ートル ほ ど の 巾で 、 掘 り進めるにした が い 、 細くなっ たりまた太 く な っ た り する そう であ る。 現 在 坑 口 は安 全の た め す べ て 塞 が れ てい る そ う だ 。 当 時、 金 鉱 石 を 砕くた め に使 わ れ た と いう鉄製の 臼 と杵 を見せ て い ただ いた。( 写真 20)。 また、 昭 和初 期の頃 、 松倉 山の 裏 手 に松 沢鉱山とい う 金 山があったということで あ る。 江釣 子森 山側から、 松倉山 に 向 け て 掘 っ て いた という記憶 を 教え てい た だいた。 同時期の記 憶 と し て 、「 天 ヶ森」 ( 賢治 の 「 〔地 質 調 査ルー ト マップ〕 」 に 含まれ て いる山名) の 麓 に も鉱 山 が あ り 、 金 も 掘 り 出 し て い た そ う であ る 。 さ て 、賢治が小泉 助教授に独り言の よ う に語った 「 金 」 「銀」 「鉄」 の 話だが 、 単なる当て推量な のか 、 それ と も 、 具 体 的 な地 学的 根 拠 に 基 づい ての こ と だっ たの か 、 可能 な範 囲 で 推測 し て み た い。 「江尻断層 」 の ある 現在の西和賀町は、 か つて 金・ 銀・銅 な ど を 多 産 し た 地 域 で 、 大 正 期 に は す で に 数 多 くの 鉱 山 が 開 かれ ていた 。 大 荒 沢 層 や大 石 層 と 呼 ばれ る地 域 で 、 そ れ は 賢 治 が歩 い て いた 豊沢 川 流 域 に も続 いている 地層 で あ る。 賢治の 作 品に も 具 体 的 記 述 を 見 ることができる。詩 「 〔 甲 助 今朝 まだく ら ぁ に 〕」
(『 春 と 修 羅 』第 三 集 )に 記 さ れ る 「 綱 取 」 は 和 賀 仙 人 鉱 山の近くの綱取鉱 山の こ と で 、 当時 盛ん に金銀銅 な ど を産 出し て い た。 金 ・ 銀で は な いが、 「 〔地質調 査ル ー ト マ ッ プ 〕 」 と の 地 域 的 関 わ り で いえ ば 、 三ツ 沢 鉱 山( 銅 ) や 鶯 沢 鉱 山( 硫 黄 )な ど 重 要 な 鉱 山 が 近 くで 稼動し て い る 事実も見のがす こ とが で き ない だ ろう 。 ま た 、 現 在 の 豊 沢 ダ ム の 奥 に あた る 桂 沢 の 沢 口 付近 に は 桂 沢 金山 が あ り 、 賢治の 詩 「 〔 廃坑 〕 」 の 下 書き 原稿の 余 白に 、 メ モ と し て だ が その 名 が 記 さ れ て いる 。 この よう な大正期 の鉱 山 の 活発 な 稼 動 状 況 を 前提 に、 さ ら に、 今回の 聞 き取り 調 査 で 見え て き た、 松倉 山で の金 または 銀 の採 掘、 そ し て 松 沢 鉱 山や 天ヶ森 鉱 山 と いった 確 実に昭 和 初期 ま で 遡 る こ と の で きる金 の採 掘の歴 史 といっ た 条件 を 考 慮する な ら 、 お そ らく 賢治は 、 それ なりの 鉱 山学 的 な 知識 と 根 拠 を もっ たう えで 、 小 泉助教 授 に 「 金 」 「 銀 」 「 鉄」 のことを 語っ た 、 と推 定することが 妥 当な の で はないだろうか 。 今 後同 地域 の調査 を さら に進めて いき たいと 考 える 。 (了 )