岡山大学経済学会雑誌
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1
(
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)
,
2
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,3
9
5
-4
2
1
《書 評≫
ミヒャエル ・- マ- ,
『
民衆運動 と官憲
1
8
3
0
-3
1
年 のザ クセ ン革命』
松
尾
展
成
しい 3月革命期ザ クセ ンの農村民衆運動に関す るローラン ト・ツァイゼの業績 の紹介を中心 とした学界展望の序論において,私は1
9
71年に次の ように記 し た.「農民運動 とそ こで捉起 され る諸要求の分析は,・-領主 -農民関係 の具 体的争点を究明す るために,当面の時期の社会構成の-理解に とって不可欠 である.この点で,- 「ザ クセン改革」の直接的動国 となった1
8
3
0
-3
1
年の 農民運動についての本格的研究の出現が待望 され る(1
)」.研 究史上 の この欠 落部分を埋める著書が,ようや く1
9
9
7
年 に刊行 され た .標題 に記 した ,ハ マーの著書(2)であ り,5
8
3
ページの大冊である.その 目次は,意訳すれば,吹 のとお りである. 序言 (S.7-9) 序論 研究史 ,史料 ・文献 ,本研究の 目標(
S,
1
卜2
6
)
第1
章 革命の前提 と経過 第1
節1
8
3
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年の革命的騒擾が勃発す る直前のザ クセ ンの社会的状況 後期封建的国家 ・社会体制の危機(
S.
2
9
-
5
8
)
第2
節 ドイツ連盟諸邦における1
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3
0
-31
年 の革命 的事態 を背景 と し た ,小規模国家ザ クセンの革命1060 (i)ドイ ツにおけ る1830-32年 の民衆蜂起 ,革命運動 お よび 自由主義 的志向 (ii)ドイ ツ諸邦 におけ る1830-31年 の革命 に関す る諸見解 (iii)小規模 国家ザ クセ ンにおけ る1830-31年 の革命 ザ クセ ン史 にお け る革命 の問題 1830-31年 のザ クセ ン革命 の経過 と評価 (以上 S. 59-120) 第2章 ザ クセ ンの1830年9月蜂起 第1節 ライ ブツ ィヒ市 (S.123-146) 第2節 ドレースデ ソ市 (S.147-156) 第3節 ケムニ ッツ市 (S.157-166) 第
4
節 -ル ツゲ ビル ゲ県 ('l)ヴ ェール ダ ウ市 (rl)クl)ミッチ ャウ市 (llii)フランケンベル ク 市 ,ペ 一二 ヒ市 (iv)リンパ ッ-村 (Ⅴ)ノイマル ク村 (vi)ヴ ィル デ ンフ ェル ス市 ,キル ヒベ ル ク市 ,- ル トマ ンス ドル フ村 (vii) シ ェ- ンベル ク家協定所領 (via)上部 -ル ツゲ ビル ゲ (ix)フライベ ル ク市 (Ⅹ)東部 エル ツゲ ビル ゲ (以上 S.167-246) 第5節 フ ォー ク トラ ン ト県 (i)tロイエ ソ市 (ii)ミ-ラウ市 (iii)ライ ヒ ェソバ ッ-市 (iv) ローデ ブ ィ ッシ ュ村 (Ⅴ)ア ウエルバ ッ-市 ,フ ァル ケ ンシ ュタイ ン 市 (vi)ア一 ドル フ市 (vii)プ ラムバ ッ-村 (vh)-ル ス ターベル ク 市 ,パ ウザ市 , ミュール トロフ市 (ix)上部 フ ォーク トラソ ト (以上 S.247-350) 第6節 マイセ ン県 (S.351-363) 第7節 ライブ ツ ィヒ県 (S.364-375) 第8節 オーバ ーラウジ ッツ (S.376-386) 第3章 民衆蜂起 に対す る官憲 の対応 第1節 中央政府 お よび民兵団 (S.389-407) 第2節 -ル ツゲ ビル ゲ ・フ ォー ク トラ ソ ト県 関 係特 別 委 員 会 (S. -396-ミヒャエル ・-マ-,『民衆運動と官憲 1830-31年のザクセン革命』 1061 408-426) 第3節 中級官庁 県知事 と郡長 (S.427-439) 第4節 下級官庁 (S,440-449) 第4章 1830年9月以後 の民衆運動 (S.453-471) 第5章 1830-31年の民衆運動の歴史的性格 (S.475-500) 付録 略号一覧 ,史料 ・資料 目録 ,文献 日録 ,史料9点 ,主要人名 ・地名 索引 (以上 S.503-583)
(
2
)
著者は第1茸第 2節 (iii)において,1830-31年の 「革命」を,その前段 階を含めて,次の ように時期区分 している.(1)1827年か ら30年夏まで.革 命前期的危機 の成熟 の時期 .1830年 の身分制議会 は 7月 8日に (Vgl.S. 98)成果な く停会 とな り,反動的支配勢力は,緊急に必要な改革でさえも阻 止 した .国民の大部分がル ター派であったザ クセンでは,アウクスブル ク信 仰告 白3百年祭 (Vgl.S、123)をきっかけ として ,7月末に ライブツィヒ市 , ドレースデ ソ市な どで不穏な動 きがあった .(2)30年9月 2日か ら13日ま で.上向局面 .ライブツィヒ市 (9月 2- 5日.Vgl.S.129-140)と ドレース デ ソ市 (9月 9-10日.Vgl.S.147-153)の民衆蜂起は,市参事会 と警察の権 力を打破 し,さらに,旧体制の中心である内局大臣 D.V.アイソジーデルを退 陣 させた.これに よって,反対派の貴族 ・官僚お よび市民は,国政 とゲマイ ンデの重要な地位を獲得 した.広範な地域で騒擾が勃発 した.(3)30年9月 14日か ら10月5日まで.革命運動の拡大 と深化の局面 ,民衆運動が最 も拡大 した.新任の大臣B.V.リンデナ ウを中心 とす る政府は,市民層 の諸要求に対 して改革を確約 した .市民層は ,政府への抵抗か ら,政府 との協調に ,路線 を変更 した . 9月26日と10月5日に政府は,民衆運動に対す る厳 しい処置を 宣告 した .(4)30年10月か ら12月4日まで .革命運動が沈静化 し,官憲の権1062 力が安定 した局面 .各 ゲマイソデにおいて苦情書の審議が続いた.散発的な 抗議行動が発生 した .9月騒擾 の司法的調査が開始 された .市民的反対派 と 貴族的反対派 との,改革に関す る合意 (ライブツィヒと ドレースデ ンにおけ る暫定 自治体代表の選出) と,不穏な地域-の軍隊の派遣にもかかわ らず , 反対派は一層 の運動を展開 した (ライブツィヒ
1
0
月1
8
日,11月3
0
日 ;ドレ一 スデソ1
2
月4
日).(5)3
0
年1
2
月か ら3
1
年4
月1
8
日まで.社会的基礎ははる かに小 さいけれ ども,第二次革命運動の成熟の局面 . ドレースデ ン市民協会 において, リンデナ ウ政府の改革路線 に対抗す る小市民的提案 が定式化 さ れ ,それが ドレースデソ4
月騒擾を惹 き起 こした .憲法草案 と改革諸法が , 再開された議会で審議 された .市民協会の解散命令を きっかけ とす る蜂起の 試みは,革命における民衆運動の頂点であ り,転換点であった .これに続 く 蜂起は勃発 しなか ったか ら,開始 された改革が ,当時の状況では変革に とっ て最適であったわけである.(6)3
1
年4月か ら 9月 4日まで.3
0
年9月に開 始 された改革が,実現 して,革命が終結す る局面 . ドレースデ ン4月騒擾 の 影響の下で憲法が議会で審議 され ,可決 された.民衆運動の最後 のもの とし て,ライブツィヒ民兵団騒擾が3
1
年8月未に起 こった(
S.
118-119).3
1
年9
月4
日の憲法発布は1
8
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-3
1
年 のザ クセン革命を完了 させた .憲法 に よって,体制を変革す る,重要な諸成果が確定 され ,今後の改革の基本方 向が提示 された .憲法は,ザ クセン史における根本的な分岐点 ,立憲時代へ の移行を意味 した .憲法を基礎 として ,ザ クセンは市民的 ・資本主義的社会 に急速に転換 していった (S.119). ところで,1
8
3
0
年9
月2
日に始 まる「9
月騒乱」の うち, ドレースデ ンと ライブツィヒの運動は分析 されていたが ,他の地域の民衆運動は,ほ とん ど 不明であった (S.ll).「従来知 られていなか った ,都市 と農村の民衆運動」 (S.7) の究明のために,著者は国立 ドレースデ ソ文書館 (現 ・ザ クセン州 立中央文書館)の資料を長年に亘 って調査 した .民衆運動 の経過 につ いて は,下級 ・中級官庁の報告が最 も詳細である.-ル ツゲ ビルゲ県 ・フォーク -398-ミヒャエル ・-マ一,『民衆運動と官憲 1830-31年のザクセン革命』 1063 トラン 下県お よびマイセン県 ・ライブツィヒ県に関す る特別委員会 (本稿(4) (ii)を参照)の報告は,一層包括的である.実態を把握す るために,さまざ まな種類の文書が比較検討 された (S.16-18).著者は,支配関係 と経済的状 況の地域的特殊性を考慮 しつつ,98の集落を分析 したのである (S.22).
(
3
)
1830年の 「9月騒乱」を取 り扱 った第 2章は,9月以後の民衆運動を分析 した第 4章を加えると,本書の半分近 くのページ数を占めてお り,この時期 の都市 ・農村の民衆運動 (発端 ,展開,成果 ,敗北 ,影響)を初めて詳細に 明らかに した .以下で私は,ザ クセン本領地域の封建的土地所有制度 (中部 ドイツ荘園制) とその変革 (具体的には市民的土地改革)に対す る私の問題 関心か ら,運動の 目標 (ただ し,財産強奪 ,家屋侵入 ・破壊を除 く)が明示 されている,農村民衆運動を紹介す る.オーバーラウジ ッツの農村民衆運動 は,この地方が本領地域 と異な って,中部 ドイツ荘園制 の地域に属 さないの で,省略す る.ところで,市民的改革以前のザ クセン本慣地域の都市は,領 主制的支配権 との関係の相違か ら,領邦君主直属都市 ,管区所属都市 ,封臣 所属都市に区分 され(3),その他に,シェーンベル ク家所領 とヴィルデ ソフ ェ ルス家所領に都市がい くつかあった.管区所属都市以下の諸類型は,何 らか の領主制的支配権 ,とくに裁判権 ,に服属 していた .したが って,領主制的 支配権の廃止をめ ぐる農村民衆運動の究明に当た っては,純粋の農村の民衆 運動ばか りでな く,管区所属都市以下 の諸類型 の都市 におけ る民衆運動 も が,考慮 されなければならない.そのために,以下では,これ らの諸類型の 都市 ,とくに,騎士領に所属す る封臣所属都市 ,の民衆運動を も紹介す る. (i) - ル ツ ゲ ビ ル ゲ 県 (1)領邦君主直属都市 ケムニ ッツでは,カ トリック商人への攻撃が民衆運動の1064 主要な要素であった.特異な行動の一つがそ こか ら派生 した .すなわち,同 市における騒乱最初の 日
,9
月11日深夜に群衆が ,ケムニ ッツ管区役所に殺 到 して,賦役拒否の罪でそ こに拘留 されていた,ノイキル ヒェン,ブル ク-ル ツ ドク-ル7,クラッフェソバ ッ-村の農民の釈放を要求 したのである.騎士 領 ノイキル ヒェンでは,すでに30年夏に騒擾が発生 し,領民は賦役を拒否 し ていた .これは,騎士領所有者 との不確定賦役調整交渉が28年に失敗 した結 果であった.交渉不成立に続いたのは,移 しい訴訟であ り,それは農民に, 高額の裁判費用 ,財産の差 し押 さえ,貧 窮化 を もた ら した .30年 の収穫 期 に,約50人の農民が逮捕 され ,不穏な集落には軍隊が派遣 された .農民 と小 屋住農は, ドレースデ ンに代表を派遣 して,軍隊に よって秩序を維持 しよう とす る郡長に抵抗 した .-般に管 区の監獄は ,ライブツ ィヒと ドレースデソ の数 日前の民衆蜂起 に よって震姑 させ られた ,後期封建 的秩序 の象徴 であ り,ケムニ ッツ市の騒擾参加者 も,抵抗す る農村住民 に親近感 を持 ってい た .県知事は,拘留 されている農村住民の即時釈放を,翌朝 1時頃に命令 し た(
S.
1
6
0
-1
6
1).ケムニ ッツの騒擾ではエル ツゲビルゲ ・フォーク トラン ト 県関係特別委員会 (以下では特別委員会 と略記)は1
9
6
人を逮描 し,3
1
人に実 刑 (うち1
5
人に2
月-6
年)を判決 した(
S.
5
7
3
).
(2)ヴェールダウ市近郊の騎士領村落 シュヴァイ ンスブル クでは,領民は領主 裁判所長を批判 した.また ,領民の委員会は,山林 ,放牧権 と塩強制に関す る苦情書を特別委員に提 出 した (S.1
7
2
).
(3)封臣所属都市 ク リミッチ ャウでは, 9月18日に多数の市民 と住民が ,市庁 舎に集 ま り,領主裁判所長 と市参事会員に関 して苦情を述べ ,都市役職者全 員 の辞任 と,裁 判領主 の介 入 しない ,都市役職者 の選 出を要求 した . ツ ゲィッカウ郡長は,国王 と特別委員-の要望の伝達を,群衆に約束 した.こ れに よって平穏が回復 された .県知事 と特別委員は22日に,旧市参事会員を 退任 させ ,人気の高い人物5
人を新 しい市 参事会 員 に任命 した . ク リ ミッ チ ャウの事件は,特別委員会に よっても,その活動停止以後にも,捜査 され -400-ミヒャ-ル .-マ一,『民衆運動と官憲
1
8
3
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-3
1
年のザクセン革命』1
0
6
5
なか った(
S.
1
7
5
-1
7
9,4
2
5
).
(
4
)
ザ クセンにおける靴下製造業の中心 リンパ ッノ、村では,織機賃租 (Stuhl -zins)の軽減を求める靴下編工の請願が,2
8
年に国王に よって拒否 され てい た .3
0
年9
月1
8
日に住民集会が開かれた.出席 した靴下編工の大部分は,織 機賃租の完全廃止を主張 し,間借人は,領主への賦役 と頁租の廃止を要求 し た .仕立工で間借人のW
ノ\ウス-ルほ,賦役事項に関す る法原則(
3
0
年)に 反対 した .集会に現れた領主裁判所長は ,彼 あるいは騎士農場管理人に対 し て大衆が抗議す るつ も りか どうか ,を尋ねた.大衆は,否 と答え,領主的頁 租 の軽減を ,すなわち,従来の織機賃租か ら1
年6
グロッシ ェソの営業頁租 -の変更を,要求 した.彼 らは苦情書を直ちに起草 し,騎士領所有者に提 出 しようとした.領主裁判所長は少数の委員に よる苦情書の起草を提案 した. 彼は (巧妙に も),苦情書の審議を 「実直な人々」の委員会に移 し (,「急進 的な人 々を排除」 し)たのである (Vgl.
S.
4
4
2
-
4
4
3
).
裁判所長はまた,放逸 な賎民の危険を指摘 して,夜間巡察を提案 した.人 々はそれに同意 し,平穏 に解散 した.その後2日間 ,村民委員会は苦情書を審議 した .同委員会は, 請願書を ドレースデ ソの領主に届けるよう,騎士農場管理人に要求 した.農 場管理人 は,2
2
日に ドレースデ ソに赴 き,宮廷 ・司法顧 問官 であ る領主 F.L.S.フォン ・ヴァル ヴィッツ伯爵に ,領民の請願書を提出 した(4).領主は2
5
日に,騎士領 リンパ ッ-に所属す る集落の 「靴下編工 ・間借人か ら提出さ れた請願書-の回答」を作成 した .その内容は以下の3点である.(1)領主 は,恥ずべ き金銭欲 とい う非難に反論 した.彼は,まった く財産のない人 々 に数年来 ,頁租を免除 して きたか らである.彼は,別表記載の領民か ら,場 合に よっては,一層多 くの貧民か らも,織機賃租 ,紡糸貢租 と賦役代納金を 免除す るであろ う.『私は,自分を裁判領主 と見なすのではな く,領民の同情 ある友人 と見なす ことに慣れている』.(2)彼 は,30
年9
月か ら2年半 の 間,織磯 1台当た りの織機賃租を 6グロッシェンか ら 3グロッシェソに軽減 した.これは5
5
0
ターラーの軽減になるであろ う.それ以上 に軽減す る こと1066 はできない.彼は,自分 と子供たちのために権利を守 らねはな らず ,公課 も 支払わねばな らないか らである.(3)彼は騎士農場管理人 に失業者 の雇用 を指示 した.しか しなが ら,『リンパ ッ-の名声が暴動に よって汚 され る』場 合には,彼は,彼の譲歩を取 り消 し,関係者 を厳 正 な法律 に委ね るで あろ う.彼は,この請願書を現実の困窮の表現 と見な してお り,誰かが故意で利 己的な行動を取 った,とは疑 っていない.彼は,『愛 と好意をもって』これを 領民の決定に委ね る (領主はその権利を 「家父長的な措置」に よって守ろ う としたのである.S.443).この回答を携えて,農場管理人は27日に リンパ ッ -に戻 ってきた .領主裁判所長がそれを集会で村民に読み上げた .裁判所長 のケムニ ッツ郡長宛報告に よれば,そ こで不法行為は生 じなか ったが,多 く の出席者は回答に満足 していなか った.ケムニ ッツ郡長はすでに23日に,必 要な場合の軍隊の派遣を領主裁判所長に保証 していた .郡長はまた
1
5
日に, 親方がその徒弟 と雇職人の夜間外出を禁止す ること,料理屋 と居酒屋は夜9 時に閉店す ること,を命令 していた .領主裁判所長は,命令を実施 していな い,と30日に報告 した .もしそ うすれば,雇職人な どの若者は内密の居酒屋 に行 き,事態は一層悪化す るか らである.また,領主裁判所長は,騎士領 リ ンパ ッ-所属村落で夜に行なわれてきた村の集会を,不穏な今は昼食時に開 くように,30日に領内の村長に命令 した .ケムニ ッツ郡長は,26日の勅命委 員会 (本稿(4)(i)を参照) の布告を30日に送付 し,それを直ちに村の集会で 告知す るよう,関係者に指示 した .布告を告知す るために10月 4日に開かれ た リンパ ッ-村の集会で,数人の間借人は,住民に損害を与える村長の退任 を要求 した .それに対 して村長は,困窮 した-女性に金を貸 さなか った とい う非難を退け,自分の財布か ら金を与えた と反駁 した(
S.
1
8
3
「1
8
8
).
リン パ ッ-の運動は特別委員会に よって審理 されなか った (S.425). (5)騎士領 リンパ ッ-に属す るケ-テンス ドルフ村でも,10月 1日のケムニ ッ ツ郡長の報告に よれば,村長補佐が9月29日の ミサの前に,靴下編工の請願 に対す る領主の決定を読み上げた時 ,-農民は,村長補佐は村の利益を代表 -402-ミヒャ-ル ・-マ一,『民衆運動と官憲
1
8
3
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-3
1
年のザクセン革命』1
0
6
7
せず ,領主の村長である,と非難 した.水車製作労働者 シュ トイデルは,村 費用の決算書を要求 し,また,我 々が何かをやろ うとす る時には,下か ら始 めねばな らない,と述べた.1
0
月1
8
日の村長補佐の報告に よれば,シュ トイ デルは決算書を要求 しなか ったが ,騒擾の首謀者であった .村長補佐は,秦 動の勃発を恐れて,当時は これを報告 しなか ったのである.同 じケ-テンス ドルフ村の靴下編工J
,
Ch.
G.
フィッシャーは3
1
年末に,裁判所が 口実を設け て ,新 しい法律 の公布 を妨 げ よ うと して い る , とケ ムニ ッツの弁 護 士 M.A.リヒクーに訴えた .博識なフィッシャーは,彼の村の住民を法律問題で 支援 し,.)ソバ ッ-所領で 『レ-エ ソ制度の廃止のための請願書(5)』(本稿(5) を参照)を配布 した(
S.
1
8
8
).
(6)シェーンブル ク家所領のオーバーアファル ター村は1
0
月2日に,村の窮状 に関す る苦情書を特別委員に提出 した .保有移転貢租の引 き上げに関す る領 主 との訴訟 ,賦役代納金 と羊放牧 権代納金 ,な どが苦情 の対象 であ った (S.2
1
1
). (7)同 じくミュルゼ ン ・ザ ンク ト・ヤーコプ村 につ いて特別委員 は1
0
月1
0
日 に,保護金を軽減す る,とい う-ルテンシュタイ ン管区長代理の決定を取 り 消 し,軍隊を派遣 した (S.
2
1
卜2
1
2
).
(
8
)
上部-ル ツゲビルゲのカルルスフェル ト村では9
月1
9
-2
0
日に,薪の採取 を禁止 した山林役人の家が襲われた .管区木材売出価格の引 き下げ ,村民の 家畜 の放牧区域の拡大 ,外国産釘に対す る当地産釘の保護 ,村長の罷免な ど が要求 され ,塩 の独 占が批判 された.1
0
月3日に勅命委員会は,関与者全員 ではな く,首謀者だけの捜査を特別委員に命 じた(
S.
2
2
0
-
2
2
3
).
特別委員会 が逮捕 した2
5
人の うち,実刑(2
週- 1年)は1
5
人であった(
S.
5
7
1
).
(9)同 じくタール-イム村は1
0
月26日に,靴下編工の窮状を訴え,牧師 ・教師 に対す る負担の軽減な どを要望 した (S.2
3
4
).
(
1
0
)
同 じくベルマンスダ リュ-ソ村 (ベル ムスグ 1)ユーンの誤植であろ う)は1
0
月4
日に,木材価格の引 き下げ ,道路建設負担の免除 ,売買手数料の引 き1068 下げ,5種類 の手工業者の営業認可な どに関す る苦情書を,特別委員に提出 した
(
S.
2
3
7
).
(lr)同 じくバイアーフェル ト村は1
0
月5
日に,賃租 ,賦役 ,十分の一税な どの 負担の軽減に関す る苦情書を,特別委員に提出 した(
S.
2
3
7
-
2
3
8
).
(12)東部-ル ツゲビルゲのプルシェソシュタイ ソ裁判区に含 まれ る小都市ザイ ダでは,苦情吾を国王に直接提出す るための市民集会が,1
0
月初めに何度か 開かれた .9
月2
2
日と1
0
月11日の脅迫状は,1
0
月1
日と11月 1日の領民の集 会 とプル シェンシュタイ ン城への行進を予告 していた.しか し,実際には何 も起 こらなか った.同 じくケマースヴァルデ村 で も9
月2
8
日と2
9
日の ビラ で ,村民集会の開催が村長に要求 された.フライベル ク郡長は,領民の大部 分が治安を維持 しているので (,また ,集会の禁止は村民の憤激を呼び起 こ すので),特別の措置を講 じない ように,領主に (発見 された脅迫状 としば し ばの住民集会に関 して,裁判所に[
S.
4
3
0
-
4
3
1
]
)
勧告 した.そ こで領主は, 領内の住民集会を妨げず ,軍隊の援助 も受けなか った .注 目すべ きことに, ザイダとその周辺の村 々の請願書の大部分は,商人 として活動 した後 ,市裁 判官 とな り,横領のために1
8
2
3
年に この職を罷免 されたF.
S.
ホ ミ- 1)ウスに よって起草 された.彼は,
「資格のない著述業」に従事 していたのである.ザ イフ ェソ村 と-イデルベル ク村は,その昔博吉に関 して領主裁判所 長 (Jus -titiar)の助言に従 った .領主裁判所長 の参加 した,百人以上の集会は平穏に 経過 した .ザイフェソ村民は営業税 ,狩猟 (賦役) 金 ,城 の清掃 ,道路建 設 ,薪不足について訴えた .フ リーデバ ッ-村 も木材問題 ,道路建設 ,奉公 人強制 ,下級役人について苦情を述べた .デ ィッタ-スバ ッ-村は軌間の費 用 ,製粉強制 ,役畜賦役 ,羊放牧権 ,山林役人について請願 した .クラウス ニ ッツ村はその他に ,領外に家畜を販売す る際 の手数料 ,貸付 の際 の認可 料 ,さまざまな種類の鋳貨の両替か ら下級役 人が得 る利益 を批判 した .ケ マ-スヴァルデ村は ,5歳の子供の国民学枚入学は早す ぎること,聖職者に よる曹惨的建築 ,授業料徴収官 ,高す ぎる租税 ,軌間の費用 ,賦役代納金 ,14
0
4-ミヒャエル ・-マ一,『民衆運動と官憲 1830-31年のザクセン革命』 1069 穀物賃租 ,音楽 ・ポ ロの賃借 ,競売を悪用す る弁護士 ,高慢 な廷吏な どにつ いて訴えた .ザ イダ市民は ,市民権取得料 と教会 ・病院の土地 の地代が非常 に高 く,また ,市裁判官が慈意的に振 る舞 う,と苦情を述べた .その不法が 脅迫状で批判 された ,プル シ ェソシ ュタイ ンの領主裁判所は ,個 人 ・ゲマイ ソデか らの請願(6)の受付 お よび裁判所 と領主 との間の仲介で非常に多忙 であ る,と11月2日に報告 した .翌 日に裁判所 は ,もと市裁判官 ホ ミ- リウスの 逮輪 と書類 の押収が必要 である,と判断 した .本領警察委員会 の指示 に基づ いて ,彼 は31年 1月3日に逮描 された .審理担 当の ラウタ-シュタイ ン管区 か ら特別委員会 (委員会 はプル シ ェンシュタイ ン所領について調査 しなか っ た .
V
gl.S.569-573)-の同年 7月 2日の報告に よれば ,ホ ミ- リウスの 自宅 で発見 された 「不利 な文書」 は, 9月11-12日のケムニ ッツ市の騒擾に関す る文書 ,プル シ ェンシュタイ ンの役人 と下級役人を誹誘す る文書 ,ザイダの 租税徴収官に反対す る文書,9
集落に関す る苦情書,
「国内の不幸な出来事」 についての ,さまざまな報道記事 ,な どであ った .ラウタ-シュタイ ン管区 に よれば ,これ らの誹誘文書は ,ホ ミ- 1)ウス と,脅迫状の起草 お よび暴動 -の参加 に関 して疑われている,ザ イフ ェソ村 の擁櫨工 シ ュ トラウスに よっ て ,共 同で作成 された .これ らの苦情書では,具体的な問題点 と並 んで,封 臣の領民は 「祖 国の見捨 て られた継子」 である,と記 され ,あるいは,農民 の邦議会議席が要求 されていた .ホ ミ- リウスは ,彼が これ らの苦情書お よ び ドル フケムニ ッツ村 の苦情書を起草 した こ とを ,認 め た .後 者 にお いて は ,その地 の領主裁判所長が トル コの高官 の ように振 る舞 う,と記 されてい た .管区は,ザイダに関す るホ ミ- リウスの文書が ,騒擾 の きっかけ とな っ た ,と考 えた .ホ ミ- リウスは31年10月に未決拘留か ら釈放 された .彼 は , 32年 に ライブツ ィヒ陪審人裁判所 に よって3月 の禁 固刑を判決 され ,33年6 月に刑を免除 された . しか し,訴訟費用 の負担は免除 されなか った .34年 に 67歳 のホ ミ- リウスは,45週 の禁 固に よって彼 の健康 と家族が破壊 された , と訴え ,貧 困を理 由に315クー ラーの訴 訟費 用 の免 除 を願 い 出た (S.243-1070 246). (ii) フ ォ ー ク ト ラ ソ Tl県 (1)封臣所属都市 トロイエ ソの領主裁判所は,枯木の採集を14日間のみ許す , と9月17日に告示 した .これが,下層民の暴動の主要な原因であった .同 日 に,嫌われている廷吏の住宅 と監獄が破壊 され ,さらに,廷吏補佐 と財産調 査人の住宅 も攻撃 された .廷吏の申告に よれば,奪われた り,壊 された りし た彼の財産は, 1千4百 タ-ラーに上 った .これは裕福な市民の財産に相当 した .18日に市書記K.G.トッ ト (彼は49年の ドレースデソ5月蜂起に際 して 臨時政府委員に選出された)は,民衆集会を召集 し,そ こに2人の騎士領所 有者 と牧師 とを招いた.集会では多 くの要望 と要求が提示 された .主要な も の として領主裁判所長の罷免があった.騎士領の山林か ら枯木を採取す る権 利 も要求 された.牧師に対 して埋葬手数料 の軽減が求め られ ,教師には,未 払い授業料を裁判所に提訴 しない こと,子供の通学開始を満6歳 とす ること が,要請 された .出席 した裁判領主は ,暴動を避け るために ,要求を認め , 議事録に署名 した .集会は,とくに トッ トの有能な戦略のために,平穏に終 わ った .当地の事情に関わ る事項は,大部分が譲歩 されたのである.封建的 支配の数世紀間に民衆が,その領主 と直接に交渉 し,その要求を記録 させた のは,全 くの例外的現象である.行動様式 と要求の内容は後期封建社会の状 況に よって特徴づけ られていた .ライブツィヒ,ケムニ ッツ,アウエルバ ッ -ほ どには, トロイエ ソでは貧富の対立は激 しくなか った .社会的困窮 と官 憲の抑圧が , トロイェソの民衆蜂起の注 目すべ き急進性を もた らした .そ し て , トロイエ ソはフォ-ク トラソ トの蜂起の中心 とな った .この運動は,監 獄の破壊 と領主-の要求の貫徹で もっては終わ らなか った .多 くの小都市 と 同 じように, トロイェ ンで も民兵団は, トッ トの尽力に もかかわ らず ,結成 されなか った.19日に30-40人の トロイエ ソ住民は,山林盗伐の罪のために 前の冬に取 り上げ られた構 6台を返却 させた .抑圧 されてきた社会層に よる -406
-ミヒャ-ル ・-マ-,『民衆運動と官憲 1830-31年のザクセン革命』 1071 同種 の行動が,数回続いた . トロイエ ソにおけ る公権力 の麻痔 は10日続 い た.主 としてエル ツゲビルゲ県か ら呼び寄せ られた軍隊は,10月12日に トロ イエ ソの暴動の首謀者8人を逮捕 した .市庁舎に集 まっていた群衆は,軍隊 に抵抗 したので,さらに3人が逮捕 された .特別委員会判決において,31人 が2週間か ら 4年の実刑に処せ られた .実刑 4年の 6人の うち,4人は手工 業親方,2人は雇職人であ り, 1- 2年の 4人の うち, 2人は手工業親方 , 2人は雇職人であった.実刑判決を受けた,当市 とその他の集落の住民は, 32年に刑を免除 された (S.247-264,312-315,319,572).
(
2
)
封臣所属都市 ミ-ラウでは9
月16日に ,市民 の一部 (醸 造権 は持 たない が,い くらか富裕な層)は ,織布工親方 アルベル トの指導の下に,市長な ど 市参事会員の罷免を要求 し,領主裁判所長に罷免要請書 を作成 させた .県知 事は翌 日に,この苦情書を本領警察局に迅速に送付す る,と市民代表に伝え た .21日に,困窮 した市民たち (織布工親方な ど)は,織布工親方 シュテ-テフェル トの指導の下に,市参事会が,裁判領主に対 して市民の権利を保護 せず ,悪 しき行政に よって市民の財産を奪 う,と市参事会を批判 した .競合 す る外国商品の輸入 と下請け織布工の貸金に関 して,2
人の企業家が初めて 批判 された .21日夜か ら翌朝 までの暴動では,市長な ど市参事会員の罷免が 要求 された .22日にシュテ-テフ ェル トたちは,薪不丘 ,授業料 と塩強制に 関 して,さらに,間借人保護金 ,賦役 ,織布工 ・肉屋 ・すべての手工業者の 貢租 ・負担 ,領主の羊が多す ぎる (農民は領主の羊のために耕地を空けてお かねばな らない) こと,な どに関 して請願 した .4人 の参事会員 は辞任 し た .同 日,領主は市庁舎で,群衆の要 求すべ てを東認 した .そ の場 に ライ ヒェソバ ッ-市の弁護士 G,F.フォーゲル も同席 していた.この合意は領主 裁判所長の私宅で,領主 ,醸造権所有者代表2人 (都市代表 と親方),醸造権 を持たない家屋所有者の代表 アルベル ト,間借人代表2人 (親方 と工場労働 者),4人の手工業親方の同席の下で,文書にされた.免除 され るものは,家 屋に対す る世襲賃租 ,間借人の保護金 ,肉屋 とパ ン屋に特有の貢租 ,織布エ1072 に関 して,2グ ロッシ ェンの織機料 (Stuhlgeld)と 7グ ロッシ ェンの織機貢 粗 (Stuhlgebuhren),醸造権所有者に関 して ,すべての賦役 と世襲賃租 ,な どである.さらに領主は ,市長選任権を放棄 し,彼 の山林 での枯木 の採取 を 貧民に許可 した .軍隊が ミ-ラウに進駐 した
2
5
日に ,特別委員は2
2
日の約定 の無効を布告 した .翌2
6
日に シ ュテ-テフ ェル ト,弁護士 フ ォーゲルな どが 逮捕 された .フ ォーゲルは , ミ-ラウの領 主 と裁判 で争 って い る老 す べ て (オーバ ー ミ-ラウ村 の手賦役農民 ,シュナイデ ソバ ッ-はか4
村 の領民 , ロー トシャウ村 の小屋住農 な ど) の代理人で もあった .1
0
月1
8
日にはアルベ ル トも逮捕 された . ミ-ラウでは暴力行為は発生 しなか ったので ,特別委員 会 に よる刑罰は比較的軽か った .シュテ-テフ ェル トとアルベル トが実刑3 月 ,弁護士 フ ォーゲルが2
月,9
人 (親方7
人 と紡績工場労働者2
人) は2
週間 ,な どである(
S.
2
6
5
-
2
8
9,3
1
5
-
3
1
6.Vg
l
.
S.
5
7
2
).
(3)封臣所属都市 ライ ヒェソバ ッノ、では ,市民代表5人は市会計官に関 して ,9
月2
0
日に県知事に陳情 し,2
1
日に会計官は辞任 した .2
1
日には さらに ,秤 衆が市庁舎に集 ま り,塩強制 の軽減 ,授業料 の引 き上げの撤 回 ,舗道通行料 の免除を要求 した .授業料 の引 き上げは校長 に よって撤回 された .舗道通行 料 に関 しては ,県知事が免除に同意 した .特別委員会に よる処罰は ,首謀者1
人 (織布工親方) に4
週 間 ,他 の5
人 (親方3
人 ,商人 ・料理店亭主各1
人) に2-3
週 間 ,の実刑であった(
S.
2
8
9
-
3
0
0,3
1
7
).
(
4
)
複合村落 ローデ ヴ ィッシ ュの うち ,オ ーバ ーゲル チ ュ村 とニ ーダ ーゲル チ ュ村 では9月2
0
日の村民集会 で苦情書が作成 された .賦役 ,世襲賃租 ,辛 放牧権 ,聖職者- の授業料 ,塩強制 が拒否 され ,廷 吏 も苦 情 の対 象 とな っ た .翌2
1
日に廷吏 の住宅が4
0
-5
0
人に よって攻撃 された .破壊 された廷吏の 財産 は,8
0
クーラーであった . トロイエ ソ市 と同 じように ローデ ヴ ィッシュ 村で も,2
1
日に獄吏が追放 された後 ,担保物件が無料 で取 り戻 された .暴動 は3日後 に止んだ .これは ,日雇な ど最下層 の運動 であ って ,農民に影響 を 与 えなか った .2
5
日に軍隊が p-デ ヴ ィッシ ュに進駐 し,同 日か ら翌 日にか-4
0
8-ミヒャ-ル ・-マ-,『民衆運動と官憲 1830-31年のザクセン革命』 1073 けて13人を逮捕 した (S.300-312).実刑判決を受けた ローデ ヴ ィッシ ュ村民 は,4年 が 2人 (商 人 と 日雇), 2年 が 3人 (日雇 1人 と手仕 事 労働者 2 人),2- 6月が5人 (商 人 1人 ,親 方3人 ,労働 者 1人) で あ った (S. 317-318.Vgl.S.572). (5)封 臣所属都市 アウエルバ ッ-では特徴的な事情があった .その生産物 をほ とん ど販売で きなか った織布工は ,失 業 を 「工 場 主」 のせ いに した ので あ る.この地方 の事情 は,周辺農村 の貧民層が , レース生産 の衰退 の中で山林 役人に対す る憎悪 をつの らせた ことに よって ,複雑 にな った .9月16日にア ウエルバ ッ-の領主裁判所長は ,同市 に
1
千 クー ラーの道 路建 設 が 国家 に よって割 り当て られ るように ,県知事に要請 した .所長はまた ,木株 と廃材 を採取す る伝統的権利が ,約15年前 か ら禁止 されている,とい う貧民 の苦情 も伝 えた .道路建設に関す る彼 の要請 は承認 された .18日に県知事 と上級森 林監督官は ,アウエルバ ッ-裁判 区の貧民が一定量 の燃料用枯木 を国有林 で 採取す ることを ,許可 した .20日には レンペ ス グ リュ- ン村 の多数 の住 民 が ,アウエルバ ッ-の裁判所 に請願書を提 出 しようとした .22日に, レンペ スグ リュ- ン村住民が再度行進 して くるとの噂に,アウエルバ ッ-では民兵 団が組織 され ,治安を確保 した .同 日に県知事 は軍隊を アウエルバ ッ-に進 駐 させた .24日に特別委員 は,アウェル バ ッ- で市 民 か ら要 望書 を受 け取 り,人心を沈静化 させた .織布工の製 品販路は さらに小な くな ったので ,ア ウエルバ ッ-の6人 の商人は ,同市 の織 布 工 の製 品 を 2年 間 2万 クー ラー (うち1万 タ - ラーは 国費) で買 い付 け る こ とを ,11月29日に決議 した (S.3191327).アウェルバ ッ-市 と レンペス グ リュ-ン村 では,特別委員会 に よる処罰は行 なわれなか った (Vgl.S.569-573). (6)プラムバ ッ-村 の賦役農民は ,ア一 ドル フ市 の領主裁判所長 の10月 3日付 け県知事宛報告 に よれば,領主 の山林か ら材木 を持 ち出 した .彼 らは長年 , 領主 と裁判 で争 ってお り,今や賦役 と畜賦役 を廃止 しようとした .彼 らは さ らに村役人の更迭 を求めた .県知事は,苦情書に対す る上級官庁 の決定が出1074 るまで ,農民が違法行為を しないこと,を指示 した .手賦役農民9人は賦役 に従事 したが,畜賦役農民29人は賦役を拒んだ .同月14日に畜賦役農民が集 会を開いた.国王は,同村に軍隊を派遣 しない ように,県知事に命令 した. 特別委員会が判決 しなか ったプラムバ ッ-村の事件 (S.425)について,ライ ブツィヒ陪審人裁判所は32年11月に,不法な言動に関 して同村の肉屋 1人を 軽罪に処 した.しか し,ここで も30年10月 14日の集会 その ものは裁 かれ な か った (S.336-342).
(
7
)
封臣所属都市エルスターベル クで9
月20日に開かれた市民集会では,他の 集落 と同 じように,市民が現行制度に対す る不満 を表明 し,住民の委員会が 苦情書を作成す ることにな った .翌21日に ,騎士領 の羊 が駆逐 され ,市長 (同時に領主の山林役人) と裁判所記録係の罷免が要求 された .両者は翌 日 に辞任 した .領主裁判所長はすでに19日に ,道路建設 と市民の生活費のため に1
百 タ-ラーを県知事に要請 し,県知事は これを承認 していた .領主裁判 所長は31年8月 に ,特別委員会 が審理 しなか った ,前年 9月 の暴動 (S. 425)の調査を要請 したが,本領司法委員会は翌 9月に これを拒絶 した (S. 342-346).(
8
)
封臣所属都市 ミュール トゥロッフの市民は9
月21日に,塩強制の廃止 ,物 品税の軽減 ,市長の罷免 ,公共的負担に関す る経理の公開 ,貧民-の騎士領 林 の薪 の放 出,牧師のための間借人質租 の廃止 ,な どを要求 した .県知 事 は,い くつかを除いて,承認 した (S.348-349).この事件を特別委員会は起 訴 しなか った (S.425). (9)上部 フ ォーク トラン トのオーバーザ クセ ンベル ク,ウンタ-ザ クセ ンベル クとア ッシュベル クの3村住民は, 9月21日に山林役人を襲 った .当局は木 材伐採を承認 した (S.349-350).オーバーザ クセンベル クの 2人が特別委員 会に よって2月の実刑に処せ られた (S.571). 1410-ミヒャエル ・-マ-,『民衆運動と官憲
1
8
3
0
-3
1
年のザクセン革命』1
0
7
5
(iii)マ イ セ ン 県 マイセン県では,農村 も, リーザ ,シュ トレーラな どの封臣所属都市 も, 大体において平穏であった(
S.
3
5
6
-
3
5
7
).
(1
)
1
0
月1
0
日にマイセ ン県1
2
0
村は請願書(7)を提 出 し,賦役 の償却 ,護送税な ど の廃止 ,新 しい自治体代表制度 ,邦議会におけ る農民代表 ,な ど計2
2
項 目を 要求 した(
S.
3
5
6
-
3
5
7
).
(2)封臣所属都市 ダー レンでは,放牧権に関 して訴訟が続いていた .1
0
月4日 に4人が領主館の戸を破壊 した .これは,
「一般の9月運動 の枠 を越 えた行 動」である.ピス トルを持 っていた首謀者 (商店店員)は4
年 (後に2
年に 減刑),2
人の共謀者 (雇職人)は1-2
年 ,他の1
人 (親方)は3
月 ,の実 刑に処せ られた .首謀者の反感は市収入役に も向け られていた.彼 の父は, 後に都市代表 とな り,職権を乱用 した市収入役に対す る苦情書を,3
1
年8
月 に提 出 した(
S.
3
5
7
-
3
5
9
).
(iv)ラ イ ブ ツ ィ ヒ 県 小規模で,工業化の進んでいないライブツィヒ県では,3
1
年9月に始 まる 抗議行動は,比較的小 さか った(
S.
3
6
5
).
(1)ボルナ郡長は1
0
月8日に ,農村住民が ,官憲に反抗 し,賦役 と貢租に関す る要望を暴力に よって実現 しようとしている,と報告 した.郡長の使者に対 してゼラー- ウゼ ン村の村長は,道路が悪いな ら,幌馬車に乗 る貴紳が 自ら 修理すれば よいのであって,村民は これ まで束縛の下にあった,と述べた. シュテ ユソツ村の村助役 も,村民に とって道路は十分であるとして,道路修 理を拒んだ(
S.
3
7
1). (2)ヴィルデ ン-イ ソ村は1
0
月3日の集会で,裁判領主-の要望を決定 し,領 主は廷吏を罷免 した(
S.
3
7
1
-
3
7
2
).
(3)ム ッチ ェン司法管区の土地保有農民 と小屋住農の代表は, 9月2
8
日に管区 に苦情書を提出 し,村の金庫を即座に検査す る こと,な どを要望 した (S.1076 372). さらに,上記 (iii) と (iv)に関連 して,付言す る.ライブツィヒ ・マイ セン県関係特別委員会最終報告書に よれば, 9月騒乱に関す る被告は,両県 合計で337人であ り,-ル ツゲビルゲ ・フ ォー ク トラソ ト県 の被告数 (888 人) よ りも少ない.また ,この両県では領主制的賦役 ・貢租お よび教区負担 は,-ル ツゲビルゲ ・フ ォーク トラソ 下県の ように,自己救済のための暴動 のきっかけにはならなか った (S.537-538).
(
4
)
第3葦 の対象は,民衆運動に対す る,各段階の官憲の対応である. (i)中央政府お よび民兵団 (他の節の要約を含む) (1)新政府 .ライブツィヒに続いて, ドレースデ ンで も民衆運動が激 しくな っ たために,国王は9月10日に,公安維持のためのあらゆ る措置を講ずべ き勅 命公安委員会 (勅命委員会 と略記)を,王族 フ リー ドリヒ ・アウグス トを議 長 として,設置 した (S.391,408).13日には,旧時代の象徴である内局大臣 D.V.アイソジーデルが辞任 し,その後任に枢密顧問官B.Ⅴ.リンデナ ウが任命 された .同 じ13日に上記 フ リー ドリヒ .ア ウグス トは共 同統治者 に任ぜ ら れ ,王族 ヨ- ソが14日に勅命委員会議長 とな った .新政府の主要課題は,広 範な改革作業の開始 と民衆運動の防止であった .13日に都市 自治体法の,21 日には憲法の,起草が開始 された (S.394-395,408).勅命委員会は,民衆運 動が拡大す るェル ツゲビルゲ県 とフォ:p トラソ †県に対 して,一方で,正 当な請願は聴 き届け られ ること,他方 では ,治安撹乱 は処 罰 され ,暴 力に よって強制 された譲歩 は ,破棄 され る ことを, 9月26日に布告 した (S. 559-561).10月4日に下層市民の抗議運動が ドレースデ ンで勃発す ると,翌 5日に国王の布告が発布 された .そ こにおいて も,一方で,改革路線が再確 -412-ミヒャ-ル ・-マ-,『民衆運動と官憲 1830-31年のザクセン革命』 1077 認 され ,他方 では ,暴動 に対す る厳 しい措置が宣言 された (S.413).
(
2
)
民兵団 ,ライブツィヒ市参事会は ,市 民 が提 案 した治安 維 持 団体 の結成 を, 9月 4日に拒否 したが ,民衆運動 が頂 点 に達 した翌 5日には ,一転 し て ,民兵 団 の結 成 を呼 びか け た . この呼 びか け は直 ちに実行 に移 され た (S.131,137-138).ドレースデ ンでは,9月9日の騒擾 の際に民衆は護 国団 と協 同 した .勅命委員会 は ,設置 された10日に , ドレースデ ン市 内か ら軍隊 を撤退 させ ,首都 の公安維持 を市民に委託 した .こ うして,その 日に ドレー スデ ンで も民兵 団が結成 された . ドレースデ ン民兵団を統御す るために,政 脚 ま新任 の ドレースデ ン駐屯軍司令官を民兵団司令官に任命 した .勅命委貞 会 は12日に,本領地域 の知事 とオーバ ーラウジ ッツの郡長 に対 して民兵団の 設立を指示 した .23日には上記 ヨ- ソが全ザ クセソ民兵団給司令官 とな った (S.391-393,399).ドレースデ ソでは ,民兵団指導層 の要請 に基 づ いて , 23日に軍隊が市 内に再進駐 した .民兵団は,市民への譲歩 であるよ りも,氏 衆騒擾抑圧 のための機関であった .政府 は ,民兵団か ら社会下層を排除す る ことに全力を尽 くした .こ うして ,民兵団は一種 の補助警察 とな った .民兵 団の指導層 は ,ライブツィヒでは大市都市 の大市民であ り, ドレースデ ソで は士官 と官吏であ った .ほ とん どプ ロレタ リア化 した手工業親方に至 る-般 市民は ,経済的な理 由か ら,民兵団勤務を好 まなか った .ェル ツゲ ビル ダと フ ォーク トラン トの工業地域 では,最下層住民の暴動が勃発 してか ら,ある いは ,暴 動 の危 険 が差 し迫 ってか ら,市 民 は民 兵 団を結 成 した (S. 395-397).政府は ,民兵団を完全に掌撞す るために,11月29日に民兵団訓令を公 布 した (S.456). (ii)ェル ツゲ ビル ゲ ・フ ォーク トラン ト県関係特別委員会 30年9月 の民衆運動 の中心地は-ル ツゲ ビル ダ県 とフ ォーク トラン 下県で あ った .フ ォーク トラン ト県におけ る抗議行動 の頂点は9月16日か ら23日普 でであった .それ よ りも広 い-ル ツゲ ビル ダ県では,暴動 は一層長期に及ん1078 だ .勅 命 委 員 会 は9月13日に ,本 領 警 察 委 員 会 の宮 廷 ・司 法 顧 問 官 C.G.A.グルーナ-杏 ,-ル ツゲビルダ ・フ ォーク トラソ ト県関係特別委員 と して現地に派遣 した .26日には上訴院顧問官K.G.J.V.マシゴル トも,グルー ナ-と同 じ特別委員に任命 された.
2
人の特別委員は重要問題を しば しば現 地で即決 した (S.408-410). 多数の産業 と人 口を持つエル ツゲビルゲとフォーク トラン トでは,特別委 員は各地の経済的 ・社会的困窮を考慮 しなければな らなか った .そのために 特別委員は,道路建設 ,工場主-の財政援助 ,貢租 ・刑罰の寒期や免除 ,悼 まれている地方執行官吏の罷免 ,ゲマイソデ行政の弊害の解決を,下級 ・中 級官庁 と調整 して ,実施 した (S.413). 10月6日には,エルツゲ ビルゲとフォーク トラソ トの治安撹乱者に対す る 迅速な調査 と処罰のための特別委員 として,上記特別委員 グルーナ-とマン ゴル トに加えて,ライブツィヒ陪審人裁判所裁判官 K.ク リーン教授 が任命 された .特別委員は,1791年 の暴動令に従 って即座に判決を下 し,それを直 ちに執行すべ きであった.数 日後に,逮捕活動が強化 され , トロイエソ市 , リンパ ッ-村な どに軍隊が投入 された (S.413-414). 勅命委員会は30年11月7
日に解散 したが,特別委員会は,翌年 まで活動 し た (最終報告書は31年5月16日付け).乳蝶はあったが,暴動が生 じなか った 9集落では,調査は行なわれなか った.特別委員会が判決 した,44の事件に 関 して,実刑は303人であ り,半年以上の実刑は64人 (最高は6年の 3人)で あった.ク リミッチ ャウ市 , リンパ ッ-村な どの無視すべか らざる抗議行動 は,事件 として取 り上げ られなか った .これ らの場合には,主 として,ゲマ イ ンデの権力をめ ぐる紛争であったので,特別委員会は調停だけを行なった のである (S,417-418,423,425-426). (iii)中 級 官 庁 下級官庁か らの報告に基づ く,中級官庁 (県知事 ・郡長)の報告は,しぼ -414-ミヒャエル ・ハマー,『民衆運動と官憲 1830-31年のザクセン革命』 1079 しぼ中央官庁 の決定の基礎 となった
(
S,
4
2
7
).
(iv)下 級 官 庁 30年 9月の反抗的領民 との対立の中で,領主 (家産裁判領主)が前面に出 ることはなか った.領主は住民 との交渉を領主裁判所長に委ねた .領主への 攻撃は,しば しば予告 されたが ,オーバーラウジ ッツのノイキル ヒ村を除い て,実行 されなか った.領主は, トロイエ ソや ミ-ラウでの ように,彼 らの 役人の要請に従 って,住民集会において一定の譲歩を した .プ ローン (ロー デブィッシュ村)の裁判領主の ように ,軍隊 の保護 を求 め る場合 もあ った(
S.
4
4
0
)
.批判 ・抗議 ・攻撃の主要な対象は,日常的に住民 と接す る下級執 行官吏であ り,ライブツィヒと ドレースデンでは警察であった.その他の下 級官吏は,市書記 (ク リミッチ ャウな ど),廷吏 ・市下級役人 い ロイェ ン, ローデブィッシュ村な ど),山林役人 (カルルスフェル 吊 寸な ど),租税 ・物 品税 ・護送税 の徴収官 (ライ ヒェソバ ッ-な ど),村長 (リンパ ッノ\村 ,カル ルスフェル ト村 ,ム ッチ ェン管区な ど),領主裁判所長 い ロイエ ソな ど)で ある(
S.
4
4
卜4
4
2
).
攻撃 された役人はほ とん どすべてが,逃亡あるいは辞任 したので,その後の出来事に関与 しなか った .他方では,抗議行動の具体的 経過に最 も影響を及ぼ したのは,地域の事情 と住民の心情を知 る下級官吏で あった(
S.
4
4
2
).
(
5)
第4章は1830年9月以後の民衆運動を取 り扱 う. 相互の関連がほ とん どないまま,地方官意に抗議 した集団的行動は,1830 年9月初めにライブツィヒと ドレースデ ンで突発的に発生 し,-ルツゲビル ダ県 とフォーク トラソ 下県に主 として広が ったが, 9月末には 自然に収 まる か ,あるいは,鋲圧 された .しか し,民衆運動 は完全 には終 わ らず ,脅迫1080 状 ,山林犯罪 ,訴訟な どとして一部は33-34年 まで続いた .経済状況 と無産 住民の生活は30年9月の騒擾以後 さらに悪化 し,事態が好転 したのは,31年 末以後であったか らである (S.453-454). 30年10月に も民衆運動はかな り激 しか った .4日の リンパ ッ-における村 長罷免要求は,すでに紹介 した. 11月の民兵団訓令は ドレースデ ンで問題を発生 させた. ドレースデ ンでは 護国団がすでに1809年に設置 され,20年代には小市民層が有償で護国団の勤 務に就いていた.護国団は9月騒乱に際 して抑圧手段 として有効でなか った のであるが ,その団員は,民兵団訓令に基づ く民兵団勤務義務に対 して,12 月 4日に最終的に武器の引き渡 しを拒否 し,市民のみに よって構成 され る護 国団の解散に抗議 した.政府は,解散に反対 した護国団団貞 5百人以上を民 兵団勤務不適格 と宣告 した .彼 らは主 として小市民 ・手工業者であった.4 百人以上のもと護国団団員は,12月7日に ドレ-スデ ン 「市民協会」を結成 し,護国団の再結成を 目指 した .身分制議会が国家改革の審議を開始 した31 年3月か ら,市民協会はその性格を変 え,政治全般を議論 し,活発に宣伝 し た .この変化は,新入会員の弁護士モース ドル フと麺類工場主ベル トルデ ィ (30年10月か ら ドレースデ ン暫定都市代表)に起因 した .モース ドル フの憲 法草案(8)は,政府草案 よりもはるかに急進的であ り,すべての封建的従属 ・ 特権 ・負担 と家産裁判権の廃止の規定を含んでいた.4月17日に政府は ,軍 隊を動員 して,市民協会の指導者21人を逮描 した.18日夜には,数千人の群 衆に対 して発砲が命令 された.3人が死亡 ,13人が負傷 し,101人が逮描 され た.それは,主 として初期 プ ロレタ リアー トと小市民であった.この後 ,政 府にあま り協力的でなか った ドレースデ ソ民兵団について,「清掃」 が実施 された.市民協会会員
,
「下層階級」な ど1
千6
百人以上が,
「反抗的」 とし て民兵団か ら排除 された.こうして民兵団は最終的に支配権力に服属 させ ら れた .有産市民層は革命運動の圧服を支持 した.4
月暴動の積極的参加者は 厳 しく処罰 された .上記2人の市民協会指導者に対す る15年の禁固刑な どで -416-ミヒャエル ・-マ一,『民衆運動と官憲 1830-31年のザクセン革命』 1081 ある
(
S.
4
5
5
-
4
6
5
).
30年 「9月騒擾」発端の地 ライブツィヒで,31年8月末に民衆運動が高揚 した .同市の民兵団監視所の移転を民兵団総司令官 ヨ-ソが命令 したか らで ある.多 くの民兵団団員が命令に従わず ,群衆は投石 した.軍隊には発砲命 令が発せ られた .市民の死者が3人で ,負傷 したのは,市民約30人 ,民兵団 団員約5
0
人であった .これが,ザ クセ ンにおける民衆 と官憲 との間の公然た る対立の最後の ものであった (S.4
6
7
-
4
6
9
).
30年の9月騒擾 と異な って, ドレースデ ンの30年12月 と31年4月の運動 , お よび , ライ ブツ ィヒの31年8月 の運動 は ,他 の地域 に波及 しなか った (S.4
6
5
).
30年に秩序を守 った農民は,32年初 めには ,償却 の速 やか な実施 を求め た.フ ォーク トラン ト県のい くつかの村では,賦役が拒否 され ,領主羊が放 逐 された.ケムニ ッツの弁護士M.A.リヒタ-はケムニ ッツ市周辺で憲法に ついて講演 し,その-結果 として農民は賦役を拒否 した.弁護士 リヒタ-は 取 り調べ られ ,亡命 した .彼 の兄弟で,ツゲィヅカウの編集者K,
E
.リヒクー は,弁護士 1)ヒタ-起草の 『レーニ ン制度の廃止のための請願書』を,33年1
月末の雑誌 『蜜蜂』に公表 した.これが 『蜜蜂』の発行禁止のきっかけ と な り,邦議会議員 とな っていた編集者 リヒタ-は,35年 に亡命 した . リヒ メ-兄弟 はすべ ての封建 的負担 ・特権 の無償廃 止 を求 めた のであ る (S.4
7
0
).
31年か ら33年 までの急進民主主義的 ・自由主義的運動の抑圧,32年の改革 諸法の公布 ,それ以後 の改革の続行 ,経済状態の改善な どが,30年 以後の社 会的動揺を終結 させた (S.4
7
0
-
4
7
1).(
6
)
第5章は1830-31年の民衆運動の歴史的性格を分析す る1082 時期的に,また ,内容 と形態において,1830-31年の民衆運動は,1790年 のザ クセン農民一挺 と1848-49年の市民的 ・民主主義的革命の中間にある. 1790年 の農民一挺は革命の質に達 していなか った .体制を変更す る改革は, その後に実施 されなか った .都市 ,とくに,大都市は,一部の雇職人を除い て ,農民一挺に参加 ・連帯 しなか った .1830年 の9月騒乱が主 として都市住 民の活動であったのに対 して,1790年 の農民-費の中心地は圧倒的に農業的 であった.1830年の民衆運動は,1790年は ど急進的ではなか ったけれ ども, はるかに広範であった.しか も,民衆運動は3大都市 ライブツィヒ, ドレ一 スデ ソとケムニ ッツでまず勃発 し,参加者が多 く,自治体の レグェルで最初 の成果が得 られた.また,広範な市民 と官僚が,国家 ・自治体 ・土地制度の 根本的な改革の必要性を認識 してお り,彼 らは貴族的支配層の権力喪失後 , 体制変革を開始 した.意識 と観織性が低か った民衆運動は,市民的 ・貴族的 反対派 と併存 した .意識 と組織性の点で,48-49年の革命は新 しい質を示 し ていた .市民的反対派は,強力であ り,自治体の請願運動 と広範な住民層の 動員 とに よって,48年3月には反動的政府の退陣 と自由主義的内閣の樹立を 平和的に実現 させた .政治組織 ,民衆集会 ,選挙活動 ,政治的新聞が3月革 命の性格を特徴づけていた (S.475-477). 1830年9月蜂起は,30-31年のザ クセ ン革命の民衆運動の頂点をなす .突 発的な,ごく短期間の民衆運動に よって,不法 と感 じられた権力の象徴が破 壊 され ,譲歩が獲得 され ,憎 まれていた多 くの官吏の罷免が実現 した .民衆 運動は,指導者 も組織 もほ とん ど持たなか ったために,有産市民層 と連合 し た官庁に よって,比較的容易に制圧 され た .制圧 が成功 しなか った場合 に は ,軍隊が投 入 され た .請願書 の波 は騒 擾 よ りも長 く続 い た (S. 477-479).市民の共同決定権を拡大す るための運動は,領邦君主直属都市 (市参 事会 とその執行官吏の独裁-の反対)においてばか りでな く,管区所属都市 (管区に よる監督-の反対)でも,封臣所属都市 (領主の警察 ・裁判権-の 反対)でも,発生 した .封臣所属都市 では ,市民 の権利拡 大 を求 め る運動 -418
-ミヒャエル ・-マ-,『民衆運動と官憲 1830-31年のザクセン革命』 1083 は,裁判領主 との対立に結び付 き,社会 ・経済的な要求 ・運動 と交錯 してい た (S.482-483).多 くの頁租 ・強制 (塩強制な ど) ・物品税の廃止ない し軽 演 ,材木採集の許可 ,警察 ・官庁に よる抑圧の軽減な どを要求 した騒擾に参 加 したのは ,主 として,貧 しい織布工 ,日雇 ,手仕事労働者 ,雇職 人で あ る.騒擾参加者の最大部分は,その集落で支配的な,さまざまな部門の手工 業者であった.全体 として見て,親方 と雇職人はほぼ同数である.小都市で は中年の親方が多い.3大都市の逮捕者のほ とん どすべては,労働者 と雇職 人である (S.486-487).農村住民 も,都市住民ほ どではないとしても,賦役 拒否の ような革命的運動に参加 した.農村 で も,富裕 な農民 よ りも下層農 民 ・小屋住農が,暴力行為に積極的に参加 した .農民は,村落共同体の最重 要の構成員 として ,苦情書 の内容を決定 した .苦情書 は ,さまざまな国家 的 ・領主的貢租 ・賦役の廃止あるいは軽減 ,お よび,農村 自治体制度の革新 を要求 した .目に見える成果が現れなか った とき,31年か ら農民の運動は活 発 とな り,そ して,32年償却法の公布 とともに沈静化 した (S.489-490).
(
7
) 以上が ,私の関心に基づ く要約である.本書の最大の貢献は,「9月騒乱」 の具体的様相を広範な地域について,初めて実証 した ことにある.とくに, -ル ツゲビルゲ県 とフ ォーク トラン 下県については,きわめて詳細に追跡 し ている.本稿で紹介 しなか った ,本領地域の領邦君主直属都市 と管区所属都 市 ,お よび,オーバーラウジ ッツにおけ る9月騒乱の追求 と合わせて,本書 は, 9月騒乱に関す る最初 の包括的著作であ り,したが って,今後 のザ クセ ン史研究に とってきわめて重要な著書である.それを確認 した うえで,い く つかの問題点を指摘 したい. 第1に,著者は,1830-31年の 「民衆運動 と貴族 ・市民の改革運動は,協 同 しなか った としても,憲法発布の時期 までに広範な変革を達成 し,この過1084 程 は ,ザ クセ ンに とっての歴史的意義か ら,革命 と評価 され うる上 と述べて いる.そのす ぐ後 では
,
「暴 力的な民衆運動 は ,ブル ジ ョアジ-お よび改革派 貴族 の改革志 向 と直接には関連がなか った として も,改革作業 の開始に対 し て決定的な原動力を与 えた」 と,記 されてい る(S.92).さらに ,ザ クセ ン革 命は 「上か らの革命 と下か らの革命を包括す る」.す なわ ち,
「民衆運動に よ る下か らの強力な推進 と上か らの改革者 の活動」の2要因を包含す る.そ し て,
「その結果は ,国家 と社 会 を根 本 的 に変 革 す る革 命 的性格 を持 って い た」,とも主張 されてい る(S.117).これ らの見解に私は同意で きない .革命 と改革は峻別 され るべ きである. 第2に ,民衆運動その ものについて は ,あ る集落 か ら請 願 書 が提 出 され た ,とのみ記述 されて ,請願書 の内容が明 らかに されていない場合カ㍉ かな りある.その集落 の置かれた現実的状況が明確に され えないので ,これは実 に残念 な叙述 である. 1第 3に,1830年 の人 口は ,-ル ツゲ ビル ゲ県 ・フ ォーク トラン ト県が計58 万人余 り,マイセ ン県 ・ライブツィヒ県が計59万人弱であ った (S.23).それ に対 して, 9月騒乱 の逮締着 は前者で多 く,888人 (ケムニ ッツ市の196人を 含む) であ り,後者では337人 (ライブツィヒ市 の20人 と ドレースデ ソ市 の 44人を含 めれば ,401人) にす ぎなか った (S.146,153,537-538,573).し か し,3大都市 を除 くと,後者 の逮描者 は前者 のそれの5割 に近 い.ところ が ,本書で前者 に与 え られた184ペ ージ (ケムニ ッツ市を加 えると,194ペー ジ)に対 して ,後者は僅か25ペ ージ (ライブツ ィヒ市 と ドレースデ ソ市を加 えて も,59ページ) にす ぎない し,マイセ ン ・ライブツィヒ県関係特別委員 会の活動 も分析 されていない .これは均衡 に欠け るであろ う. 第4に,31-32年 に活発化 した とい う農民運動 の分析 を希望 したい。 -420-ミヒ ャエル ・- マ 一 ,『民 衆 運 動 と官 憲 1830-31年 のザ クセ ン革 命 』 1085
(注)
(1)拙稿,「3月革命期 お よび フランス革命期 のザ クセ ンにおけ る農民運動」,『岡 山大 学 経済学会雑誌』,3巻1号,1971,p121.
(2)Michaelliammer,VolksbewegungundObrigkeiten,RevolutioninSachsen1830/
31,Weimar/Koln/Wien1997.
(3)拙稿,「市民的改革 以前 のザ クセ ンにおけ る都市制度」,(3),『岡山大学経 済学 会 雑 誌』,25巻3号,1994,pp364-375,お よび ,同 ,(4),同上 誌,25巻4号,1994, pp.375-377. (4)したが って,「(蘇士領)Limbachにつ いて見 てみ ると,・・・「九月騒乱」期に提 出 され た請願書は知 られていない」,との拙著 ,『ザ クセ ン農民解放史研究序論』,御 茶 の水 書 房 1990,p.290の記述 は誤 りであ った .請願書原文 は現存 しないが ,領主の回答 の骨 子が文書 として残 され てい るか らである. (5)ランゲ ンロイバな ど44村 に よって署名 された ,この請願書につ いては ,拙 稿 ,「ザ ク セ ン 「九月騒乱」期 の同時代 パ ンフ レッ トにおけ る農業 ・土地 問題」,(3),『岡山大学 経済学会雑誌』,9巻3号,1978,pp.144-157を ,靴下編工 フ ィッシャーについては ,同 じくpp158-160を参照 . (6)拙稿,「「九月騒乱」期 におけ る騎士領 プル シ ェンシ ュタイ ン所属集落 (南ザ クセ ン) か らの請願書」,(1)- (5),同上誌,12巻2号-13巻2号,1980-81,を参照 . (7) ドレースデ ソ管 区 シュ トレー レン村 な どのいわゆ る120村請願書 については ,前 注(5) の拙稿 ,(1),同上誌,5巻 1号,1973,pp.110-119を参照 . (8)前注(7)の論文,pp127-129.なお ,モース ドル フにつ いては ,フ ォル カ一 ・ル ーラン ト (松尾 ・編訳),「ザ クセ ン九月騒乱期 の3人 の重要人物」,(1),岡上誌,28巻 1号 , 1996,pp220-227を ,さらに ,王族 ヨ- ンにつ いては ,同論文,pp200-220を , リンデ ナ ウにつ いては ,同論文,(2),同上誌,28巻4号,1997,pp395-406を参照 .