山梨大学教育学部紀要 第 26 号 2017 年度抜刷
Dance and Poetry
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Art and Magic by Body and Voice
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木 村 はるみ
Harumi KIMURA
言葉と身体による「芸」と「術」
Dance and Poetry
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Art and Magic by Body and Voice
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木 村 はるみ
Harumi KIMURA
Ⅰ 序 言葉の力を取り戻す 「ことば」を漢字で書くと「言の葉」である。実に生命あふれる表現である。葉は枝を通り、幹や根 から栄養分を得ながら光に向かって緑に広がる。言語を葉に譬える日本語の感性に驚く。まだ言葉に ならぬ赤ん坊の声は、いつの日か言の葉を開き始める。しかし、いつの間にかあまりにも自然に出て くるその言の葉は、欲望や負の感情を通ってくるヘイト・ラングイッチの数々にもなり、言葉は決し て美しいものばかりではない。暴力的になることもあれば、クリーシェと化し本来の葉の命を失って ゆく。しかし時には、言葉が人を勇気づけ励まし癒し、その言葉の力に支えられることもある。祈り の言葉や呪文の言葉のように日常の意味を超えて神仏や異次元と交流するツールにもなる。 本当にいいたいことが言葉にならない。本当に相手の伝えたい言葉を聞くことができない。この悲 劇が人間関係では、悲しみを生む。聞こえない耳。話せない口。私たちの器官は不完全である。 1.言語と意味 ここでは、O. バーフィールド「言語と意味との出会い」を参考に言語と意味ついて考えてみたい。 意味には二つの側面がある。「語の力」とも呼ぶ辞書的意味と特定の話し手の意味(C・S・ルイス 「語の研究」)である。例えば、「夕食」の意味は、辞書的には「床に就く前の最後の食事」であるが、 ある人には「観劇の後でのビスケットと一杯のココア」であったりする。 意味は、人間精神の間の人間有機体相互の、より正確なコミュニケーションをめざしているが、言 葉がそもそも意味を持つということについて語る時、非常に慎重であらねばならない。意味の規範は 絶えず変化している。意味が分化し、その一部の定着することもあれば、意味の縮小・拡張・拡大な どもある。例えば、furniture(知識→家具)・ガラクタ(散らかったものへの嫌悪)。 2.言語の機能 (1)「表現」と「コミュニケーション」 言語の機能のすべてではないが、言語には二つの機能がある。表現とコミュニケーションである。 「表現」が達成しようとする目標は、「充実・真実さのようなもの」であるが、「コミュニケーション」 の狙いは「正確さ」にある。二つの機能は同時にある程度まで達成されなければ言語は存在している とはいえない。二つの機能のうちどちらが強くなるかは時と場合によって異なる。 O. バーフィールドはこの関係を以下のような極端な事例で説明している。 ・海の上の船の位置を定義するために言語が相応しく使われるとき(コミュニケーションは最大で あり、表現は最少)コミュニケーションは完全(数学によってなされてもなんの問題もない) ・詩人の言語は、表現の最大とコミュニケーションの最少と考えられる。この二つの機能は、やさしい敵同士(排他的で両立的:争い協力し合う関係)のような関係である。コミュニケーション の関心は、「いかに」にあり、(ともすると)新しさのない伝達になり、表現の関心は、「何か」に あるが、(ともすると)誰も理解しない表現となる。 (2)譜と身体表現(運動譜・舞踊譜・舞踏譜) 言語を記号として広くとらえた場合、芸術記号(例えば絵画的な表現)も言語である。私たちは、 ピカソの絵を落書きと見ることもあるし、壁のしみをお化けに見ることもある。世界のすべては読ま れていないサイン(記号)であるとも言える。コミュニケーションには言語的なものと非言語的なも のがある。通常、ダンスは非言語的コミュニケーションになる。絵画や音楽も非言語に属する。言葉 を使っていないからである。そうであろうか。・・・・芸術という言語は? 一般言語は使っていない が、しかし、絵画も音楽も身体表現も無言ではあるが、何かを指示(リファー)している。ここに芸 術記号の存在がある。
N. Goodman はこの芸術記号の体系を Languages of Art の中で分析している。主として二次元、三次 元での再現可能な「作品の同一性(アイデンティティ)」を保証する記号体系の成立基盤についてであ る。Goodmanの中では「作品」と「実演」は分けられている。例えば、スコアは作品の異筆(allograph) であるがその実演は自筆(autograph)である。 この場合、ダンスのスコアはラバノーテイションのような三次元の空間内を移動する人体の経過を 各部位・各関節毎に時間軸にそって記述するものを想定していて、その舞踊譜(ダンス・スコア)を 身体で読むということは三次元で再現することである。フォーク・ダンスやモダンダンスの名作はラ バノーテイション(20 世紀にルドルフ・ラバンによって構築された記号体系と記譜法)でスコアとし て採譜されたものがあり、再現可能である。使用音楽の譜も付録され、中には映像とともに舞踊団の レパートリー・レッスンに使われている。ロイヤル・バレエ団などは、バレエに即したベネッシュ・ ノーテイションのノーテイターを持っている。それらの譜からどのような実演が現れるかはダンサー によって微妙に異なるだろうし、作品(譜)の解釈の違いやときに失敗の場合もあるが、これは音楽 の楽譜と演奏の関係に近い。ただ舞踊譜は音楽ほどには普及していないが、実演ではなく「作品」を 記号で残すところは同じである。一回性も再現性もどちらも実演芸術には重要である。しかしながら、 この両ノーテイション法とも量的である。もちろんラバノーテイション法にはエフォート・シェイ プ・ディスクリプションという運動質を記述する記号体系もあるが、あくまで3次元での運動の再現 を意図した数学的記述である。当然のように 1990 年代にはモーションキャプチャーやロボティクスな どの工学系の機材開発とともにコンピューター・グラフィックスの理論とベースを共有し、この理論 からは振付ソフトやロボットも出てきた。 対して、1960 年代に始まり日本の身体実演芸術として高い評価を受けた舞踏のジャンルでは、開 祖の土方巽の言葉を「舞踏譜」と表現している。これはたくさんの微細な身体表現運動を引き出すイ マージェリーであり、詩のような日本語である。ダンサーはその言葉からのイメージによって非日常 的な芸術としての身体の動きを開花させてゆく。非論理的で数学的でもないこの言葉による譜は、そ の言葉の意味を感じた生きた主体が表出する身体表現の現出を誘う。確かに一種の譜であり、動きを 導き出す指導言語でもあるが、前提としての身体感覚がまったく日常とは異なる価値から生み出され、 西洋のダンスの前提(その多くは真善美で健康な身体)を崩壊した非日常の異次元の身体感覚を生み 出す技法であり、その導きの言葉である。 以下は、土方巽の弟子であり舞踏家でもある三上加代氏(京都精華大学教授)の研究から、土方巽 の舞踏譜と言われる詩的言語の一部である。(身心変容技法研究会レジュメから 2017.9.29)
火の歩行の条件 イ)右手の甲に一匹の虫 ロ)左首筋からうしろへ下りる二匹目の虫 ハ)右の内ももから上がってくる三匹目の虫 ニ)左肩から胸を下りる四匹目の虫 ホ)五匹目 自分で知覚 ヘ)あっちも こっちもかゆい その場にいられない かゆさに押し出される ト)あごの下 耳のうしろ 膝のうしろ ベルトのところ に五百匹の虫 チ)目のまわり 口のまわり 耳の中 指の間 すべての粘膜に五千匹の虫 リ)髪の毛に虫 ヌ)毛穴という毛穴に虫 ル)その毛穴から 内臓に虫が喰う 三万匹 ヲ)さらい侵食し 毛穴を通って外に出る虫 身体のまわり 空間を虫が喰う ワ)さらに空間の虫を喰う虫 カ)その状態に虫が喰う ヨ)(樹木に五億匹の虫 中身がなくなる) タ)ご臨終です(意志即虫 / 物質感) (三上賀代『器としての身體―土方巽 暗黒舞踏へのアプローチ』から) 1960 年代は日本で肉体芸術が開花したころでもある。「原初生命体としての身体」など体操の野口 三千三(東京芸術大学名誉教授)や竹内敏晴など、人間の身体像をイメージと原初的な価値から掘り 起こした時代でもある。 身体表現を観るときに、すでに身体の形と身体の作り出す形、そしてそこに立ち現れる状況や気配、 イメージされた世界あるいは前提とした世界の現実を生きている非日常の身体を見ている。舞踊芸術 の「人体」の動きのレベルでは、ここに裸体を前提とするバレエのような西洋舞踊と身に着けた装束 を前提とする日本伝統舞踊の前提の違いが発生する。西洋舞踊が幾何学的な数学的譜に発展したのに 対して、日本舞踊は「あてぶり」が多く歌詞の意味のジェスチャー的要素が多いため。「踊りひとり稽 古」などの舞踊譜では歌とともに線画で描かれている。しかし、ともに動きによる輝かしい美の産出 行為としての「虚の力」の発生である。正反対の価値ともいえる病、脆弱、不完全、醜悪、暗黒の美 を中心に現出する舞踏的身体芸術であるが、やはり言葉のイメージと切り離せない日本人的な身体感 がある。いずれにしても基本は生きた人間の形の変形、変容、変身の行為であり技法である。その身 体の形成プロセス・動きの産出構造には身体をどう捉えるかが関わってくる。「水の入った袋」とする のも「虫の這う皮膚」や「カミソリの上に乗る足の裏」なども、そのことで引き出される「からだ」 の内実がある。 (3)人間の行為 土方が述べるような「器としてのからだ」の位置づけは、舞踊者の身体が憑依やトランスの状況、 あるいは「依り代」と近いことを暗示している。ここに宗教的身体を重ねることは実に自然で舞踊の 起源と和合する。そもそも何故舞うのか、踊るのか。踊らされるのか。人類文化に様々な宗教行為、 呪術行為があるように、さまざまな「ダンス」や「舞踊」といわれる身体行為・身体文化がどの民族 にもあり、ふたつの関係性は原初的に重なり合っている。宗教儀礼には舞踊・舞踏に近い行為がたく さんある。神楽などは文字通り「神あそび」であり、神を招いて遊ぶのであり、能楽は死者の霊を面 や身に降ろして語る謡であり神事である。舞踊行為に娯楽性の現れる以前、興行として成り立つ以前、
実演芸術概念の出る以前の「人間の行為のひとつの在り方」として舞踊行為(や演劇行為)は宗教行 為と同源の人類文化である。 参考文献 オーエン・バーフィールド / 朝倉文市訳「言語と意味との出会い―話し手の意味」人智学出版社 1983. 鎌田東二「神界のフィールドワーク」青弓社 ○c 1987 1993. 木村はるみ「運動記述に関する研究(その1);ダンス・ノーテイションとダンス・リテラシイ」山梨大学教育学部 研究紀要 44. 1994. pp.158-164 高橋巌「オイリュトミー芸術」イザラ書房 1988. 鳥山敏子・竹内敏晴・他「からだの教育」岩波講座 教育の方法8 1988. 野口三千三「原初生命体としての人間」三笠書房 ○c 1972 1980 三上賀代「土方巽・舞踏と身心変容技法」(2017.9.29 第 60 回身心変容技法研究会 上智大学) Goodman Nelson : Languages of Art Hackett Pub Co Inc 1976.
Ⅱ 言葉と身体による「芸」と「術」 1.人間の形 身体という記号には二重性があり、かつ変態(メタモルフォーゼ)するものである。ひとつは、身 体による運動性、運動形態の現出という記号であり、身体動作である。もうひとつは身体そのものの 形がすでに記号であり象徴である。万物はすでにその形態をもって存在している。ゲーテ的形態論で は、原植物とその変態が語られ、動物の骨格的位相が語られているが、人間には人間の形が与えら れている。鉱物・植物・動物も然りである。原植物に典型的にみられるように原型とその変形・変態 (メタモルフォーゼ)をベースとする。 2.現代芸術としてのオイリュトミー芸術と日本語 (1)オイリュトミー芸術 オイリュトミー芸術は 20 世紀にドイツの神秘哲学者であるルドルフ・シュタイナーによって考案さ れた全身象徴法である。音楽のオイリュトミー(身体による音の可視化)と言葉のオイリュトミー(身 体による言葉の可視化)の二つのオイリュトミーがある。オイは「良い」「健やか」を意味し「リュト ミー」は「リズム」からきている。 シルクでできたクライトという衣をまとい、その上に薄いシルクでできたシュライヤーというベー ルを纏い、オイリュトミーシューズを履いて演じる。それぞれの色はゲーテ的色彩論ないしシュタイ ナーの色彩論に対応しエーテル体やアストラル体の色を現す。自己表現の世界ではなく、楽曲の演奏 や詩編の朗唱に合わせて音楽そのもの、言葉そのものになって動く。朗唱は言語造形法による特殊な ものであるが、特にそのトレーニングをうけない朗誦者である場合も多く、今日世界各国語、各地域 などで地元の言語で行われている。 (2)人智学運動 日本には 1970 年代後半から 1980 年に人智学運動(アントロポゾフィー)とともに紹介される。世界 を有機的な三分節化で考え、新たな自由と調和的世界を構築する思想は個人の身心の変容のみに限定 された運動でなく世界観、社会構造の変容であり、医療・教育・経済などの未来社会の構築に向けら れた運動であり芸術化運動である。
(3)言葉のオイリュトミー:原言語・諸言語・現代語 このメソードはドイツ語で構築された。ドイツ語を纏って始められたとも考えられる。ドイツ語も 人間語の原型を内蔵しているからである。形との霊的必然性はドイツ語に降ろされたとも言えよう。 では、母国語がドイツ語でないものにとって、その語感、文法にどう向き合えばよいか。ともあれ新 生児は母国語をまだもたない。まだ纏っていない言語の力を以って存在している。 例えば、日本語の場合、日本語の言葉の力はこの衣装で良いのだろうか、日本古来の様々な発声法 やそれに見合う身体所作や型、その思想は確かにあるし、世界には様々な身体技法、その無形文化が 継承され残存している。また日本語であっても現代語と古語では異なる。語の力は、発する人間の側 ではなくて言語そのものにあるのではないか。意識の深化なしに始原にまではたどりつけない。とは いえ、現代人であっても技術によって時を超えて語る方法を獲得、習得することは可能である。 (4)言葉となって動く 2本の腕の表現を中心として、声を出す力を身体に流して、母音や子音の響きを動きながら、言葉 や詩を動く、フロアーには流れるような曲線と直線の組み合わせが下肢による移動の結果として舞踊 跡のようにフォルムとして描かれる。抽象画のようなリズミカルなラインにリズムや強弱がはいる。 (実際の言葉は朗唱者が行い、その響きに合わせてオイリュトミストが動く)オイリュトミーでは基本 練習として三分節化された身体(思考・感情・意志)の体験と統合を三拍子の歩行から習得する。一 般的な舞踊に見られるようなトランスや陶酔とはまったくの別物であり、覚醒した自我の行為であり 自己表現ではなく楽曲や詩を顕在化する芸術行為である。 本場のドイツでドイツ語を通して学ぶことでしか習得できなかったオイリュトミーであるが、近年 は日本でも指導者が増え、このメソードの根本原理に日本語でどう関われるか、発展できるか、日本 語のオイリュトミーの可能性を言葉の起源・本性から掘り起こし、実演化する試みがなされている。 ドイツ語とは違う日本語独自の言葉の力をどうオイリュトミーの原理で表すことができるか。その試 みから作品上演をしているのが笠井叡であり、かれの研究所である天使館のダンサー・オイリュトミ ストたちである。笠井叡は舞踏家であり振付家である。1960 年代の土方舞踏も経験している。土方と は異なる独自の舞踏の世界も展開していたが、1979 年より 1985 年までドイツ留学。帰国後、オイリュ トミーとダンスを平行して精力的に活動を続け、現在にいたる。日本語のオイリュトミーを追求しW Sなどを開催している。最近では著書に「カラダという書物」「カラダと生命 超時代のダンス論」「金 鱗の鰓を取り置く術大石凝真素美『真訓古事記』備忘録」がある。2014 年、『日本国憲法を踊る』によ り芸術選奨文部科学大臣賞舞踊部門受賞。 (5)笠井叡「古事記を踊る」WS概要1 2012 年 以下は、筆者によるWSのノートである。 日本語のアンドロギュノス性・・・父声と母声 宇宙には、聞こえない父の声があり、聞こえる母の声と結びついて、言葉が誕生する。笠井氏の日本 語の前提には、男性と女性、光と闇、天と地という対極の結びついたアンドロギュノス性がある。理 念の世界と地上の世界を結びつけているともいえる。言葉と身体、天と地も分けない。最初はひとつ であったからである。この宇宙に生じたアンドロギュノスの言葉。これを持ち続ける意志が日本語の 中にはあるのだという。 モノをつくる最初の力 宇宙を生み出し、人間を生み出し、大自然を生み出す力である。ここでいう言葉は意味を伝える言葉
ではなくて、宇宙的に蘇生する力であり、根本から創造する力を担った日本語のことである。神話に は、宇宙創世神話、神統譜、言語創成神話などの機能があるが、その中でも言語創成神話は最も重要 であるという。「あ」がどうして生まれたのか、なぜ動詞、名詞、形容詞があり、前置詞はどう生まれ たのかは、宇宙の文法である。 身体の文法 無数の音楽を生み出すドレミファソラシドの 7 音階は、誰が作ったものでもなく、神から与えられたも のである。あるいはもともとあったものである。神話の中の文法は文の文法であり、身体の文法であ る。 古事記を踊る身体を作る 古事記を踊るには、現代の人間とは異なる身体感覚が必要である。 これは古代に過去の人間に帰れというわけではなく、現在にその身体をよみがえらせる方法によって 行われる。 聞くことと話すことをひとつにする練習 語られた比喩はまず、魚について。魚は海の中を泳いでいるのではなくて音の塊を聴いている。鱗は すべてを聴いている。遠くの匂いを嗅ぎ方向感覚をもつ。耳を通常よりも大きくし空間の音を聞く、 全身で聴く。大和三山は、三つの感覚器官を象徴している。天野香具山は、鼻であり、玉。畝傍山は、 鏡であり口。耳成山は耳であり剣である。この三種の神器を感覚として耳と喉をひとつにする練習を 行う。聴くことが話すことと同じ感覚になってゆく。語りながら動くことによって自分の声を細心の 注意で全身で自己傾聴しながら動く。次に声を外に出さずに身体内に響かせて動く。稽古に使った言 葉は北原白秋の「言問(こととい)」であった。 舞踊は生まれる以前に戻らねばならない。 暗い世界。生まれてからの世界で演じる演劇とは違う。私たちは、眠っている時は宇宙にいる。発光 する無数の砂の渦巻く世界、その一粒一粒が声。その宇宙が一人の人間の中に入り込む。眠っている 時は宇宙の言葉とひとつになっている。人間の言葉は、宇宙に語られる言葉の影のようなものである。 高天原の天界に日本の国家が現れる、それから物質の国土が誕生する。渦巻いていた光のゴビ砂漠の ような宇宙が、ボールをひっくり返すように内に入り、人間が誕生する。 言葉なくして天孫降臨はない。言葉の力ですべてができあがる。 求心性の「あ」は、1点に集中することで鉱物を生み出す。遠心性の「あ」は1点から放射する。死 ぬと「あ」にもどる。1点に向かって降りてくる神、カミムスビノ神、1点から広がってゆくタカミ ムスビノ神。宇宙の中に球形の力をつくりだす「お」、始まりも終わりもない「う」。 国ができる前の高天原はカミムスビの神様が何億年もまって降りてくる。一人で降りてくるわけでは ない。アメノミナカヌシノ神は理神のような存在としてもある。理屈の中に存在する神を理神、実際 に存在する神を実神という。言葉の存在に関係なく存在する神は実神である。エヒメがイヨであり、 アワジの国がホノサワケ島というように、またの名の場合、一方は理で一方は実である場合が多い。 古事記を布斗痲邇(ふとまに)から読む 古事記の中でも上巻は日本の中で最もエソテリックである。公共的な読み方ではわからない。中村孝
道は古事記の霊学読みをした人である。ドイツでルドルフ・シュタイナーが行ったように彼は古事記 を霊学から読み解いた。日本語がどう天界から降りてきたか。古事記が封印されて蔵入りした間は日 本書紀が代用であった。江戸中期に公開され国学者が目にする。古事記は未来の書である。上巻は踊 りを通してエソテリックに読む。踊りながら読む。 神楽 アマツカナギ=霊学、アマツスガソ=占、アマツノリト=言葉の3つを束ねると神楽となる。前・後・ 左・右(地・天・水・火)の練習。五芒星形・・「この」「みはしらの」「かみはみな」「すになりまし」「す みきりたまふ」を発声しながら頭頂→右つま先→左手→右手→左つま先→頭頂をラインで結ぶ練習。 「たかまがはら」と「たかまのはら」 「たかま『が』はら」が全世界的なものであるならば、「たかま『の』はら」は日本国誕生に向かってい る。 TKMNHRは純粋父声である。Sは無音。YWは二つの母音からできる この「たかまがはら」は、人体の元である。 た・・・対象をもって引き合う。「たたかう」など。 か・・・引き合う力が輝く。 ま・・・円形を作る働き。「まり」「まるい」「むら」「むれ」 が・・・神々しく輝く、かえす。 は・・・ひろびろとして ら・・・回転 これら古事記は宣命読みである。漢字には意味はない。 「す」は、○ 、上顎と下顎の中に母の言葉「 、」がある。息が通る。 神道系の大本教、真光教はこれを出発としている。また二つのSの重なった8でも示す。上へのSは タカミムスビノ神、下へのSはカミムスビノ神を示す。母声の大権(?)。 身体感覚のつかみ方 身体感覚は宇宙の遠くまでつながっている。 玉の緒。宇宙のすべての出来事とつながっている。宇宙のすべてが人間の中へ、一人の人間の中から 宇宙が生まれ、人間の数だけ宇宙があるが、宇宙は一つである。神話は身体感覚で書かれている。学 問では無理である。例えば、オシリス神話は 28 の月の満ち欠けが人間を作ったという。これはエジプ ト神話であるが、28 の人間の神経系をつくったという事を示す。脊髄は 28 の神経を持つ。こうした事 柄は学問の対象ではなくて踊りに結びついている。身体感覚に結びついた事柄である。クニノトコタ チ、トヨクモノミコトなど、それぞれの母声を生み出す神様から力を受け取ること。それはひとつひ とつの言葉に対応する力を感じ、身体感覚はエネルギーを生み出す。神話の中から新しい宇宙が誕生 する。人間が死ぬと宇宙に向かって誕生する。誕生は宇宙から見れば死である。 姿勢における母音と母音の身体感覚 あ・・・仰向けに横たわる
(人間を犯罪に、理性を崩壊するほどの力、反社会的な力、本能的に病気を癒す、道徳を本能的に破壊 する力) あ・・・正坐のお辞儀・・・拝と揖 拝・・・前頭を深くさげる(すべてを捧げる、自分を供儀しようとする力) 揖・・・拝と正坐の間 お・・・正坐(最高の道徳的姿勢) う・・・立(たたかう姿勢) え・・・両手の交差(愛の熱を導き出す。人を愛したくなる。) い・・・片足立ち(宇宙へ返す力。一本足は宇宙的である。) これらの形の内実を体験し、内実の身体感覚を残したまま次の形(姿勢)に移り、その感覚を消して、 その形(姿勢)の感覚を体験し、その内実を残して、またその次の形(姿勢)に移り、その感覚を消 してその形(姿勢)の感覚を体験する。この連続の中で、身体感覚は研ぎ澄まされる。 身体感覚のつかみ方(つづき) 上昇と下降 身体の上昇を吸気、身体の下降と呼気の一致感を変える。身体の上昇時に息を吐いた時の身体感覚を 行い、身体の下降時に吸う時の身体感覚を行う。 下降の中での上昇と上昇の中での下降がもたらす身体感覚。 内と外 目の感覚は、身体の内に入る。耳の感覚は身体の外に広がる。動物や植物は眠ると宇宙へ帰るが、人 間は眠ると宇宙の前にもどる。 宇宙の音を聴く 耳の2種類の音を聴く、ひとつは音を聴く、もうひとつは無音を聴く。無音を聴くのは宇宙の音を聴 くことであり、宇宙の中で語られている様々な言葉を聴く。音の向こう側に無音を聴きながら朗読 (大石凝真素美)を聴く。「す」音を聴き続けて古事記を踊る。「す」音の会得は動きが生まれる以前の 感覚の会得である。 三神(ウマシアシカビヒコジノカミ)と三つの次元 零次元 点 ウマシ・・・1次元(南北)線 アシカビ・・2次元(東北)平面・・・2次元の視覚練習(立方体を見つめる) ヒコジ・・・3次元(水平)立体 3次元に落ちた人間が2次元(大きさ、遠近のない世界)になる練習。身体を抜き取った死者たちの 世界。 「やひろど」75 声・・・中村孝道「古事記口伝」から 女性原理(母声)と男性原理(父声)から音節が生まれる・・・みとのまぐはひ 父声15×母声5= 75 声
歯を響かせる天の響き、光の響き「い」から生まれる父声 光の音声「い」強 父声「き」 光の音声「い」少し強 父声「ぎ」 光の音声「い」弱 父声「し」 同様に舌(心臓―喉―舌)の火の響き「え」から「て、れ、ね」の父声が生まれる 同様に口の結の響き「う」から「ふすず」の父声が生まれる 同様に喉の「お」、腹の水の響き「お」から「ぽ、ぼ、も」の父声が生まれる 同様に生殖器官から下へ「あ」の地の響きから「いあ(や)」「わ」「あ」の父声が生まれる。 「私たち」の感覚と「私たち」の喉・声・響き 各個人の身体は、死ぬと宇宙と一緒になるという説明は大前提であるが、その際五つの母音と一緒に なって行く。この五つの母音の体験に声の響きと色彩体験、そして元素の体験を重ねる稽古を行う。 以下は、二つの集団が円形で稽古する。 クニトコタチノカミ・・・「あ」の発声。 (生殖器官より大地に流れる力)(黄色)(鉄の輪の上を歩く。)最初は、円形をとっているとはいえ各個 人の体験であるが、時計回りに輪に「あ」のエフェソス発声をしながら集団がひとつの喉になって発 声する。(神様の名前と母音の対応には他にも諸説がある。) トヨクモヌノミコト・・・「お」の発声 (腹部のあたりの水の流れる力と浮力を感じながら)(白あるいは緑)(水平に水と浮力の存在を感じて) 同上の練習を「お」で行う。 ウイヂニスイヂニノミコト・・・「う」の発声 (喉の前に手を平衡に出して)(紫)同上の練習を「う」で行う。 ツヌグイ・イクグイノミコト・・・「え」の発声 (胸の前で交差する両手とともに心臓から喉、舌への火の力)(赤)同上の練習を「え」で行う。(ツヌ グイ・・上顎 イクグイ・・・下顎=合わせてE) オオトノヂ・オオトノベノミコト・・・「い」の発声 (右手を上に垂直に近くあげながら光の放射を感じる)(青)同上の練習を「い」で行うが、円形で歩く 際には、頭を開き、全員の頭頂より光が放射するように歩く。 これは、全員でのどになる練習である。この練習の中にさらにそれぞれの母音ごとに自由な即興の場 面も作るが、集団の輪を必ず意識する。ひとりにならないで同じ輪を常に感じることが重要である。 みとのまぐはひ 二つのグループに分かれ、向かい合い立ったままの姿勢で以下の母音発声を同時に行う。 一方は、 地→水→火→天(A→O→U→E→I)・・・オモダルノミコト もう一方は、天→火→水→地(I→E→U→O→A)・・・イモアヤカシコネノミコト
集団の喉からIA OE U EO AIの響きが発生する。 ひきつづき、円形のつながりを保ったまま空間を自由に移動し母音とともに即興する。 「古事記を踊る」WSで扱った内容 使用テキスト・・・大石凝眞素美「眞訓古事記」 「かみよがなりたつ時に」から「成り成りて 成りあまれるところ ひとところあり」 素気聲(スセイ)・・・宇宙以前、つくられる以前 産巣日(ムスビ)・・・三つの身体 力の流れ あしかび・・・・・・空間が作られる(上下・左右・前後) 天の沼矛・・・・・・作られた世界と生まれる以前の世界を結ぶ 布斗痲邇・・・・・・身体の天火水地 みとのまぐはひ・・・カムロギとカムロミ (6)舞踏家のイマジネーションと神話・言霊思想 オイリュトミーの発想を日本語と創世神話としての「古事記」の言霊から身体化する試みは、他の 舞踊家にもオイリュトミストにも真似のできない斬新な試みである。その後日本語古語文法でのオイ リュトミーの模索から和歌を動く試みもあり、弟子たちに多くの影響を与えている。身体で詩を書く 舞踏家ならではの細やかな日本語のオイリュトミー構築試論であり、古事記の世界への身体的接近の ひとつの形を参加者に与えた。 日本語の一音に込められた意味から古事記を解釈したコタンスキは、それまでの字義通りの解釈で は古事記の真意は伝わらないと考え、音素にこだわる事の必要性を強調し独自の神々の名前の分析を 行った。一音のイマジネーションは、ランボーなどの詩人も作品に残している。 笠井叡氏はその後さらに、2014,7 のWSでは、日本語古語文法での試みを行った。中村孝道の言霊 論の展開である。近代の日本語が失った力とはなんであったのか、和歌を器として、三種九品(みく さここのしな)の理論をベースに名と結と言の関係性から古語文法の世界と身体を結びつける試みに 入る。日本語における言葉と言葉を結びつける働きを身体化するこころみである。課題は「しのぶれ ど いろにいでにけり わがこひは ものやおもふと ひとのとふまで」「ふくからに あきのくさき の しほるれば むべやまかぜを あらしといふらむ」の和歌であった。文法構造には、古代人の無 意識と声の活動の秘密が内包されている。動くことによってその本性が現れるのであれば日本語のオ イリュトミーを追求する中で我々は日本語の精神に出会うことになる。全身で日本語の一音の声の響 きを生きるとき、私たちは日本語の力を取り戻す。はるか昔に隠された日本語の使命を予感する。 2011 年5月、東日本大震災の余震もまだ残る中、笠井叡氏の研究所である天使館にはたくさんの人 が集まった。日本はどうなるのだろうと皆不安であった。そしてしばらくして「日本語のオイリュト ミー講座」が始まった。わたしも、「ガンバレ日本」のこころを持って参加したのをおぼえている。 (7)言霊と身体 「神界のフィールドワーク」の中で、鎌田東二氏は、「舞踏」という漢字に「うねり」とルビを附って いる。これは、言霊論のコンテクストならではの舞踏あるいは舞踊の解釈であり言霊と舞踏の本質的 関係を暗示している。同著書ではまた空海の『声字実相義』を引用し、声の身体内発生と宇宙内発生 との照応を指摘し、空海がそこに密教的言語論を展開していると述べている。 声を発声しているのではなくて、風気が発せられると声になるという、一般的な声の認識とは逆な 現象であり、風気に起因する「声」の発現の現場を述べることで、気と声の時間差的因果関係を暗示
している。そして「響」は声に起因する。『その声が物の名を表するを写して「字」となる』という 風気→声→響、風気→声 = 物→字の一連の流れと関係性は、『四大相触れて音響必ず応ずるを名づけ て「声」といふ』でもわかるように人間の声だけの話ではなく、自然や宇宙の発現の音も「声」であ ると。ここにはコレスポンデンスであって、自然の一部でもある人間の発声についても書かれている。 人間の発明した文字ではなくて自然界や自然現象にはたくさんの声の響きが表した「字(記号サイ ン)」があるとも言える。 Ⅲ 芸能の起源と詩の発生 1.久高島 既存の学問領域を超えて、「芸能の起源と詩の発生」について考えてみたい。久高島は 2012 年の夏 以来、毎年訪れている。2012 年度の内地研究中に鎌田東二先生の授業で「久高オデッセイ 生章」(監 督:大重潤一郎 三部作のⅡ)という映画を鑑賞し、映像とこの島に魅了された。古来「神の島」と 呼ばれ、琉球王朝よりも古い歴史がある。「イザイホー」と呼ばれる祭りは 1978 年以来、途絶えている が、島人は今でも年に 22 回の祭りを行っている。数年前に 20 代の若い神女(かみんちゅ)も誕生した。 彼女は高校生時に島に帰省中にカミダーリとなったと聞いたが、見たことも聞いたこともない、知ら ないはずのイザイホーの旋律で祈り唄う。イザイホーの映像はインターネットでも見ることができる。 三重の大きな円形舞踊で、大勢の神女が白装束に翳しをつけ手に扇を持ち、神唄を歌いながら舞って いる。島のあちこちには御嶽と呼ばれる神聖な祭儀の場がある。久高島唯一の宿泊施設である交流会 館の玄関には釈迢空 折口信夫の直筆の書が飾られている。 「目を閉じて時と所を忘るれば神代に近き聲ぞ聞ゆる」釈迢空 折口信夫が聞いた「聲」はどのような声であったのだろうか。 久高島は民俗学者からは早くから注目され、彫刻家で文化人類学者でもあった岡本太郎が強烈にそ の魅力を探究していたことは有名である。写真家の比嘉康雄の写真集ならびに著書「日本人の魂の原 郷 沖縄久高島」と大重潤一郎監督の残した映像による遺言は、久高島の神聖な祭儀への驚きと畏敬 を語っている。そこには現代人が忘れてしまった聖なる感性が息づいており、日本人のこころの古層 を予感させる。 2.悲の力 五木寛之氏によれば「悲しい」の前提には「いとおしい」があるという。いとおしい者を亡くすか ら悲しいのである。そして悲しみの極致に「いかり」・「いたみ」・「いのり」がある。「悲の力」に歌の 発生をみた五木寛之氏は、中世期、乱世にみる悲哀と歌の関係から親鸞の「教行信証」について述べ た。「親鸞は幼少期に聴いた今様(当時の流行歌)のメロディーが心の中にずーと流れていて消えな かったらしい。そして自分が書いた歌を昔の今様の形式、(いまの演歌みたいなもの:七五調、四拍子) にして歌う形式で書いた」と述べている。 「『教行信証』には数百の和讃(詩)があり、はなたれ小僧でも、おばあちゃんでもわかる仏教の本 体を伝える歌が書かれ、人々に歌でもって語りかけた。四条河原に死体がごろごろしていたような乱 世の京都の町の人々は歌に救いをもとめていたのだ」とも述べている。鎌田東二氏は「グリーフ・ケ ア」として能楽を再見し、世阿弥の考案した複式夢幻能を、亡霊(クライアント)に語らせ、ワキで ある諸国一見の僧侶(カウンセラー)が傾聴し、シテ(クライアント)が舞に舞い成仏していく芸能 とみている。また能を平時の武術とも見ている。山へ逃げた南朝方の武士と吉野修験道との交流は予
想される。山岳修行と神事の間に芸能としての能楽が発生したと考えられるからである。 3.宗教言語の発生・・・次元と階層性 鎌田東二氏の「言霊の思想」では、宗教言語の発生を考えるベースとして以下の4つの次元が示さ れている。 次元の4 1.物質的次元・・・音響と作用 2.生命的次元・・・バイオコスミックなリズム(呼吸作用・定型性) 3.社会的次元・・・意味伝達が可能なコミュニケーション 4.霊的次元・・・・霊的パーフォーマティヴな次元 続いて宗教言語意識の展開を以下の7段階(7層)に分けて解説している。 観の7層 1.言語生命観 奈良時代以前 2.言語定型観 奈良時代以降 3.声字実相観 平安時代 4.口唱行力観 鎌倉時代 5.和歌即陀羅尼観 鎌倉―室町時代 6.声音法則観 江戸時代 7.言霊学宇宙観 江戸末期―明治―大正以降 4.基層・深層に働く「草木言語」観 ・・・「聴くこと」の重要性 「草木言語」観では、言葉が呼吸―息―生命と結びついているという思想が最も根深い観念であり、 宗教的言語意識の展開を探る出発点になっている。この7つの展開過程は一方向的な直線的進化のプ ロセスを示しているわけではなく、「むしろ一貫して底流している基層的・深層的言語意識に依拠しつ つ、そこから養分を吸い上げながら、各時代の思潮に沿ったさまざまな形態を多様なかたちで生み出 したというべきである」と述べている。 『言霊の思想』では現代言語学の知識をベースとしながら、人類と言語についての総論に始まり、前 半では日本言霊学通史、各論を緻密な参考資料で論説し、古層にある生命観の日本的独自性を観つつ、 歴史の中に生じた言語表現を精神の構築とそのワザ、こころの階層性から解き明かし、その変遷から さまざまな日本文学や日本思想が表現されてきたことを提示している。日本の近世言霊学を現代言語 哲学のフィルターを通して語る前半は、国学の豊饒な教養を披露しつつ、言霊学を言語哲学として正 当に扱う研究書として重要な役割を果たしている。いままでの宗教研究や日本研究が回避してきた部 分であり、その勇敢な研究の旅には強い意志と温かい支援があったことをあとがきで述懐している。 後半の宗教言語の分析では、諸宗教の言語運用の諸相を概観し、「名称と事物の本性の一致」につい て、言霊論者と記号論者の対立を問題提起している。神秘主義者や詩人の言葉の価値とそれを否定視 する学者の価値との対立は世界へのこころの態度として今日的問題にも通じる。聖俗を超えて近代新 興宗教での言霊による語呂合わせ、言語遊戯の紹介と分析は日本語の特徴を示しつつ、言葉の遊びが こころの変容、意味の無意味化と再意味化・多様化という新しい宗教体験にまでつながっていること が示され、宗教とは何かと考えさせられる。 生きて働く「言葉」という存在の力を「古事記」など神話時代から東日本大震災の臨床宗教師の開 いた喫茶、カフェ・ド・モンク(僧侶・文句・悶苦)まで自在に語り、知らぬ間に日本のこころと言
葉の世界に我々を導いてくれる。日本人にとって日本語は何をして来たのか、日本語はどうやって出 来上がって来たのか。言葉の力とは何か。そもそも言葉はどこから何のためにやって来たのか、考え させられる。 言葉の力・起源を問う中で、「耳」の重要性、全身で「聴く」行為について言及されていることは興 味深い。 言葉の学に「身体性」が入ること、体験の世界が入ることもこの本に実感を与えている。 5.詩と身体 神授としての日本語(言霊)は意味を伝える道具ではなくて意味そのものである。やまとことばの 言霊・音霊は普遍的な言語―身体―世界(宇宙)に通じ、言葉本来の力と真実を予感させる。 6.現代の芸術・芸能と言霊・音霊 オイリュトミー芸術は、言と音が響きの中で身体と一体として現れる実演芸術である。同時進行の 音楽歌舞劇とも言えよう。詩の朗誦に合わせて言を動き、詩を生きる。音楽の演奏に合わせて音を動 き、音楽を生きる。ここ数年、若手のオイリュトミストによる日本語のオイリュトミーの試みがたく さんなされるようになって来た。古事記をはじめとする古代歌謡、宮澤賢治の詩、谷川俊太郎の詩な どが多い。 『言霊の思想』の著者である鎌田東二氏は「神道ソング」という自作自演の歌を歌う。石巻の釣石神 社では対岸の大川小学校の子供たちのために歌を作り能楽師の舞とともに鎮魂能舞を奉納していた。 Ⅳ なぜ歌い、なぜ舞うのか・踊るのか 人類に言葉があって良かった。歌や舞・踊があって良かった。言葉は神である。人々は人生の荒波、 悲しみを歌と踊りで生き抜いてきた。歴史はさまざま形や様式を発生させ、生きたカラダによって受 け継がれている。それは地下水脈からの養分の採り方のワザであり、遊びである。 参考文献 折口信夫「日本文学の発生 序説」角川ソフィア文庫 1975.9 2017. 6 鎌田東二「世阿弥 身心変容技法の思想」青土社 2016.3 鎌田東二「日本人は死んだらどこへいくのか」PHP 新書 2017. 5 鎌田東二「言霊の思想」青土社 2017. 6 西郷信綱「増補 詩の発生 文学における原始・古代の意味」未来社 1964. 3 1976. 1 比嘉康雄「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」集英社新書 2000. 5 2015. 8 比嘉康雄「神々の古層① 女が男を守るクニ 久高島の年中行事Ⅰ」ニライ社 1989. 12 比嘉康雄「神々の古層② 女が男を守るクニ 久高島の年中行事Ⅱ」ニライ社 1990. 4 五木寛之:講演と鼎談「悲の力 乱世を生きぬくために」@上智大学 東京自由大学主催 2016. 10. 29