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問孔篇初探

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Academic year: 2021

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耶 甥 r L Cq ・J I

二 九 七 九 年 十 月 十 1 日   受 理 )

一 王充は「反孔」か

「百家を罷勤し儒術のみを尊崇せよし という董仲野の対策を受けて' 漠の武帝は儒教を国家の正教として莫定し思想界の一統を図った。かか る思潮の中で'董仲野の「天人感応説」をはじめ「君権神授説」を批判 し'をかんず-儒教の総本山たる孔孟の「天命論」や「礼教観念」批判 ( 1 ) を展開した王充の歴史的意義は大きい。 今日の時点からみるとき'王充の思想は'「時代の制限を受け」て' 「儒家の思想的影響下から脱却しきれをい」(鐘達「論王充的反儒斗争」 1九 七四年﹃紅旗﹄第八期)'あるいは'「単純を形式諭理法による批判であ る 」 ( ﹃ 読 一 点 法 家 著 作 ﹄ ﹃ 儒 法 斗 争 史 概 況 ﹄ ) ' ま た ' 「 そ の 唯 物 論 思 想 の 不 徹 底さが彼自身を観念論的宿命論に陥れる原因ともなった」(田昌五﹃王充 - 古代的戦斗唯物論者﹄)等々の弱点を備えたものであったことは否めな い.だが儒家思想に対する懐疑や不敬が「非聖無法Lの罪名のもとに首 を別ねられかねをい時勢の中にあって'正々堂々と間孔刺孟を綴-得た : c 2 凸 強靭を批判精神こそは多としをければなら覆いであろう。 最近'王充研究がすすむ中で彼が果して「反孔」であったかという間 松     尾     善     弘 ︹ 研 究 紀 要   第 三 一 巻 ︺ 題が争点の一つになっている.例えば周桂細・壬生平氏は 「王充反孔 喝」(光明日報」-  で王充評価に関して'「孔子を盲信(原文は「迷 信」)することに反対することと、孔子そのものに反対することとを混同 して論じてはなら覆い」と指摘しっつ'「〟発効″流の (四人組の)徒が 王充を〟大法家″ の列に加えて〟反孔″であったとしているが'王充は 多-の箇所で孔子を尊崇し孔子を聖人と称してお-〟反孔″とは言いき れない」と述べている。そもそも王充が「尊孔」か「反孔」か'覆いし 「尊法反儒しかに色分けすることだけを目的とした研究では王充の真価 を見失う危険性が大きい.王充の真髄は周王両氏の言う'「唯物論と弁 証法の因素を含む」思考方法をとっているところにあ-'尊孔色の風潮 に抗して彼が科学的分析的態度を堅持しっつ自由自在を議論を展開して いる側面をこそ堀-起し顕彰すべきであろう.王充ほど激越を賛否両評 価に分かたれる思想家も珍しい.それは'その時代その社会の厳しい思 想対立の反映でもあるが'彼に対する評論が即'古今東西にわたって、 ( 3 ) 評者自身の世界観を露呈することにも覆る現実を我々は確かに知ってい る。 「後漠の王充は ﹃論衡﹄ の問孔篇において甚だし-理解の覆い仕方で ﹃ 論 語 ﹄   に 攻 撃 を 加 え て い る 」 ( 白 川 静 ﹃ 孔 子 伝 臥 中 央 公 論 社 1 4 頁 ) 。   -  果 二 六 九

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間   孔   篇   初   探 してそうなのかどうか'本論では王充の提起した問題点を'特に栄子の 解釈と対比させつつ逐条的に精査Lt 王充の発想のユニークさを究明し てみようと思う。孔子と王充と栄子の三巴の関係で捉えてい-ことが' 同時にそれぞれの思想の特色を開明にする効果を生むと考える。

間孔篇は次のようを書き出しで始まる。迫力のあるその文章からは著 者の覇気が自ずと感得され'戦斗的唯物論者という田氏の献称が文章義 現上からもあ夜がち的はずれでは覆いことを窺わせる.以下'い-つか の文を拾って吟味し夜がら論を進めようと思う. 二 七 〇 論戦しあった際に'両者を明分するキー・ワードとをEOたものである. つまり表現上の違いこそあれ'上世や古聖賢の言を至善とみる儒家の発 想「古に法る'礼に循う」に対し'法家は一度上古を否定した観点「古 ( 4 ) に法らず'礼に循わず」から出発する.商軟の更法において然-'韓非 Q 子の有名をエピソード「守株」の条において然-である.してみると' その思想の重要を部分において'王充がこれら法家者と共通項を持つこ とは明らかである。王充は儒学者の標梼する「今不如昔」が時代錯誤の 思想であ-'逆に彼らこそ「知音不知今」の徒であると指弾Lt 「当今 は育代の下にあり(斉世論)Lと喝破しているのである.但し'こ6[こと から直ちに王充を法家者の列に加えて論ずるのは如何にも性急であり痩 ( 6 ) 絡の誹-を免れ覆いであろう. 世儒学者'好信師而是古'以為賢聖所言皆無非'専精講習'不知難 問。夫賢聖下筆造文'用意詳審'尚未可謂轟得実。況倉卒吐言'安 能 皆 是 。 不 能 皆 是 ' 時 人 不 知 難 。 或 是 ' 而 意 沈 難 見 ' 時 人 不 知 間 。 案 賢 聖 之 言 ' 上 下 多 相 違 ' 英 文 前 後 多 相 伐 者 。 世 之 学 者 ' 不 能 知 也 。 王充は 「当時の儒学者達が師を信じ古を是とすることを好み'賢聖の いうことはすべて非なしと思いこんでいる.そしてただ専精講習するの みで間難することを知らぬ」状況を発-ことから始める。疑い問う精神 を欠如した儒学者たちのこのようを硬直した聖賢信仰については斉世篇 でも'「事を述ぶる者は古を高Lとして今を下とするを好み'聞-所を 貴びて見る所を膿しみ'弁士は則ち其の久しき者を談じ'文人は則ち其 の遠さ者を著わす」と断じ'「上は則ち虞夏を求め'下は則ち股周を索 め」る彼らの「厚古薄今」傾向を厳し-批判しているのである。ところ でこの「信師是古」こそはかつて春秋戦国期に儒家と法家が命を賭して そもそも賢聖が筆を下して文を造る場合'用意詳審ではあろうけれ どもt をかまだ蓋-実 (まこと) を得ているとはいいきれない.ま してや倉卒に吐言したものがどうしてすべて正しいと言えようか. ところが当時の人はそれを問難することをLをかった。あるいは' 言文は正しいが意味が探-沈潜していてわか-に-い場合も'彼ら は難問することを知らなかったのである。考えてみると'聖賢の言 でも上下相違することが多いLt 文章の前後の辻襟があわぬものも 多い.にも拘らず世の学者は気がつかをいのである。 王充の目は鋭-聖賢の書に注がれ'非科学的をものへ 非論理的をもの を見逃すまいとする.書虚篇でも同様の見解が述べられている.「世' おもへ 虚妄の書を信じ'以為ら-'竹島の上に載せらるる者はみな賢聖の伝う る所にして然らざるの事をLと。故に信じて之を是とLt 祝して之を読 す み'真是の伝と虚妄の書との相違するを晴れば'則ち井てて短書は信用

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曳 t l ^ -v すべからずと謂う.夫れ幽冥の実をほ知るべ-'沈隠の情をほ見定むべ し。顕文霜害は是非見易さに'寵纏して実事に非ざるを井せ伝うるは' 精を用うること専ら覆らず'事に思う無ければ覆り」.そもそも 「論衛 の造らるるは'衆書の並びに実を失い'虚妄の言の真実に勝つに起る ( 対 作 篇 ) 」   こ と で は あ っ た 。 論者皆云う'孔門の徒'七十子の才は'今の儒に勝る'と。此の言' 妄なり。彼'孔子の師たるを見'聖人の道を伝うるは必ず異才に授 -'故に之を殊と謂へる怒らん.夫れ古人の才は'今人の才を-. 今は之を英傑と謂ひ'古は以て聖神と為す'故に七十子は歴世有る こと希れと謂ふ。当今孔子の師有らしめば'則ち世の学者は皆顔・ を 閏の徒と謂らん。孔子無からしめば'則ち七十子の徒は'今の儒生 を-。何を以て之を験するや.孔子に学ぶも'極関する能はざるを 以て夜-。聖人の言'壷-は解する能はず。道を説き義を陳ぶるも 軌ち形する能はず。抑ち形する能はざれば'宜し-間ひて以て之を ひら 発-べ-'蓋-解する能はざれば'宜し-難じて以て之を極むべし。 皐陶'道を帝舜の前に陳ぶるや'浅略にして未だ極めざれば'丙'之 ( 7 ) を間難し'浅言復た深められ'略指復た分かる。蓋し問難を起すや' 此の説教せられて探切に'触せられて著明たるを-。 「難問」とは難疑答間の謂いであるが'ここで王充は'議論の弁証紘 的発展'批判的古文化の受容を説いている.いわれのをい古代信仰'根 拠の覆い古聖賢信奉に厳重を警告を発している.社会が時代とともに変 化するものである以上'ある時点での判断がそのまま後世にわたる金料 玉灸となっては怒ら覆いのである。ただし'ここにおいて王充は'無前 提で孔子尊崇の言を以て補説Lt 自らの弱点をも露わにしている。 松     尾     善     弘 ︹ 研 究 紀 要   第 三 一 巻 ︺ 事 1 _ _       1 -        1 -・ -            I I ︰ -・ 1         ! 、 r l l             ・ ・ -                            叩             § い " 3 *

三 「子辞の弦歌を笑ふLに対する王充と朱子

問孔篇の前文で'王充は、孔子に対する子辞の反論の灸を例にあげて 間難の重要性を主張している。論語陽貨篇にみえるその孔子と子辞の辛 -と-を次に掲げ'この箇条に対する王充の理解の仕方と姿勢を明らか にしてみよう.同時にそれと比較対照して'栄子の注をひもときをがら' 栄子のこの簡灸に対する理解の仕方を考察し'そこから論語 (す夜わち 孔子) に対する姿勢を導き出してみたい. o O 子 之 武 城 ' 聞 弦 歌 之 声 。 夫 子 莞 爾 而 笑 日 ' 「 割 難 悪 用 牛 刀 。 」 子 辞 対 日 ' 「 昔 者 催 也 ' 聞 諸 夫 子 。 日 ' ﹃ 君 子 学 道 ' 則 愛 人 ' 小 人 学 道 、 則 易 使 也 。 ﹄ 」 子 日 ' 「 二 三 子 ' 催 之 言 是 也 。 前 言 戯 之 耳 。 」 ( 陽 貨 篇 ) 孔子が武という小邑を通-かかったとき'邑人が弦歌する声を聞い た。孔子はにっこ-笑ってt だが'「鶏を料理するのにどうして牛 庖丁を使う必要があろう」といって子辞をからかった.そのことば を聞いた子群はムッとして反論して言うには'「以前'私はこうい う風に先生がおっしゃるのを聞きました。﹃君子が道 (礼楽) を学 べば人を愛するようにを-'小人が道を学べば使い易-覆る﹄と」. 孔子は「弟子たちよ'値の言うことが正しいよ.先ほどはちょっと 戯れに言ってみただけだよ」と答えた。 先の皐陶の例にしても'また右の例にしても'王充は'われわれがあ れこれの問題を理解する上で互いに質問し啓発し合うことがいかに重要 であるか'事実を追究する上で間難法がいかに有効であるかを強調して 二 七 一 ー11・r・-1       -・--         ・       ∵(・・V=「一打J

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間   孔   篇   初   探 いる.その王充の意図に沿う形でおよそ右のよう改訳を付してみた.す ると'われわれはこの場の雰囲気からt と-あえず孔子と子群の飾ら夜 い親近感溢れる師弟関係と'子辞が隔-の夜い自由を発言をしている情 況を汲みとることができよう。孔子が不用意に洩らした中傷に対し即座 に反論する子辞.辛-こめられた孔子がてれか-し笑いをLをがら周囲 の弟子たちに向って'「いや'さっきはちょっとからかっただけさ」と 弁解している様子からは'ぎ-Lや-した師弟関係をど微塵も感ぜられ ない.むしろ人間孔子の面目躍如たる場面ですらある。範例として引用 している以上'王充はこの部分を孔子集団の日常生活の一コマとして∼ 肩肘のこらをいご-自然をスケッチとして想定したに相違をい.いやむ しろ人間性豊かな師弟とはか-あるべLと念じているとさえいいたいほ どである。われわれも普通このように解釈する。 一方'この章句における栄子の解釈態度はこうである。「子群の称す ヽヽ る所は蓋し夫子の常言を-(昔者催也聞諸夫子の注。それは多分先生が い つ も お っ し ゃ っ て い る こ と 夜 の だ ) L 。 「 ( 夫 子 は )   子 辞 の 篤 信 を 嘉 み L t また以て門人の惑いを解-夜-(前言戯之耳の注.子辞の篤信をはめる と共に'門人たちの惑乱を解いてあげられたのだ)」.「治に大小あ-' 而してその之を治むるにまた必ず礼楽を用うれば則ちその道 (方法) た るや一覆り.但だ衆人の用うる能はざるもの多きに子群のみ独-之を行 う。故に夫子駿聞して探-之を書こび'因-てその (常) 言にして以て 之に戯る。而るに子辞正を以て対す。故に復たその言を是とし自らその 戯るるを実 (あかし) するを-.」 - これらの栄子の解説を追ってい-と'われわれは全体的に一種金しぼりにあったような感じをもつ。一点 の曇-もをい尊師が高弟の一人を唆し'ついでに門弟達にも教訓を垂れ 給うた.栄子の念頭には'冷静で厳格を禅問答の場のようを情況が浮か んでいたのではをいかと推測される.冗談をいい合いながらしかもそこ 二 七 二 に深い人間性をにじみ出させた雰囲気として捉える王充の人柄と'宗敬 的垂訓的それとして捉える栄子の人と怒りのちがいが読みとれよう.同 時にそれは両者の対孔子観に由来するものでもある。 間孔篇の前文は次のようにして結ばれる。 お そ こ ば き は 凡そ学問の法は'才無垂を畏れず。師を距み'道の実義を核め'是 非を証定するこそ難き夜-。間難の道は'必ずしも聖人の生時に及 あた ぶに対るに非ざるを-.世の解説して人に説-者は'必ずしも聖人 普 の教告を須って'乃ち敢へて言ふに非ざればを-。苛に暁解せざる の間あらば'孔子を追難すとも'何ぞ義を傷はん。誠に聖業を伝ふ るの知あらば'孔子の説を伐つもへ 何ぞ理に逆はん。孔子に間ふの 言'その解せざるを難ずるの文を謂ひて'世間の弘才大知の生'能 -間に答へ難を解する人は'必ず将に吾が難問の言を賢とせんと す。 学究の徒としてはおよそ才能の有無をぞ問題では覆い.道に当っては 師にも譲らぬ精神と'道の真意を究明Lt 是非を判定することこそ本務 と覆る.「王充が学問の道を論じて'核道実義'証定是非という表現を 用いている事実は'それが単に異った立場における相対的是非論で夜-' 一つの思想を成-立たしめる基本的な要素の意味自体にまで潮って'そ の真偽を検討しょうとする姿勢を取っていると考えられる点において∼ もっとも注目されてよいであろう.」(重揮俊郎﹃中国哲学史研究﹄二七二頁) 数百年を経過した後から覆される聖賢の追批判も'真実の開明という負 高目的の前にあっては'何ら道義を傷つけることには覆らない.そこに おいて彼は明瞭に宣言する.「追難孔子'何傷於義.伐孔子之説'何逆 於 理 」 。 {4  '

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四 「女与回也執愈Lの解釈をめぐって

( 9 ) 間孔篇の中で前文に続いて'王充はおよそ十八項目にわたって論語即 ち孔子の言論に対し批判攻撃を行をっている。以下'三ヵ条のみ選んで その論点を追うと共に'同箇条を栄子はどのように解釈しているか比戟 検討してみようO そこから必然的に両者の対孔子観をいし姿勢が導き出 されてくるであろう。 ○ 子 謂 子 貫 目 ' 「 女 与 回 也 執 愈 . 」   日 ' 「 賜 也 何 敢 望 回 ' 回 也 聞 一 以 知 十 ' 賜 也 聞 一 以 知 二 . 」 子 日 ' 「 弗 如 也 ' 吾 与 女 不 如 也 。 」 ( 公 冶 長 篇 ) 王充は言う。 これは孔子が顔淵を賢としながらも'ためしに子貢にたずねてみた 文だとされる。それでは一つ質問したい.本来'孔子の教えは礼譲 ( 2 ) を基本とする。子路が国を治めるのに礼を以てすと答えたとき'其 ( l l ) の言譲らずといって孔子は子路を非難したことがあった。そういう ことだから'もし子貢の方が実際に顔淵よ-まさっていたとしてAt 孔子が右の問いを発した場合'子責は「およびません」と答えるに 決っている.現実にまさっていをければなおさら「およびませんL という答えが返って-る筈だ。これは決して師に対しうそ偽-を申 し上げたことにはならをい.礼譲あることばとして当然卑下してみ せるべきだからである.そうすれば'いま孔子のこの問いはどうい う趣旨で発せられたことに覆るのだろうか。顔淵の方が子寅よ-勝 れていることを孔子が知っていたとするとへ わざわざ子貢に問う必 要は覆い。孔子が実際に知らをかったとしても'子責に問うたとこ 松     尾     善     弘 ︹ 研 究 紀 要   第 三 一 巻 ︺ ろで'彼は謙遜して答えるわけだからやはり知ることはできない。 顔淵の賢をはめたたえたいという気持があったの怒らば'それを言 うのに他にことばはい-らでもあったはずである.わざと子責に問 うまでもないことなのだ.例えば'「子日-'賢をるか夜回や」「吾' 回と言ひ終日達はざること愚なるが如し」 「回やその心三月仁に遵 ( 2 ) はずLの三章をどは'顔回を直接はめていて'他の人間を介在させ た-利用した-してはめようとはしていをい.ところがこの章に 限って夜にゆえことさら子貢を引き合いに出して顔回の賢を強調し たかったのだろうか.- この疑問に対してある人は次のように弁 解してみせた.孔子は子責を抑えようとをさったのだ.当時'子貢 の名が顔淵を凌いでいたので'孔子は子責が慢心することを恐れて 抑えられたのだt と.だが'そもそも名が顔淵の上をいったという のは時世の覆せるわざであり'子貢が自分から求めたわけではをい。 子責はそこのところをどの程度認識していたであろうか.顔淵が自 分より上にあることを知っておれば'白から認め服したであろうか ら'外から抑止する必要をどはない.またもしそういう意識をもち あわせていをかったとすれば'孔子が傍からとやか-言ってみたと ころで'子貢にしてみれば'かえって師が自分を押えつけようとし ていると感ずるのが関の山であろう。とすれば'孔子が問うと問わ ずとに拘わらず'抑えつけたいとかもちあげたいとかいうことも全 然関係の覆いことに覆る. い-ら師弟の間柄とはいえ'いや師弟の間柄であればなおさらのこと 「お前と某とはどちらが勝れているかね」 をどと人を屈辱的心境に追い 込むようを問いかけをしてはならをい.しかもそれは孔子がかねがね教 えている礼譲の精神に根本から惇るではをいかへ というのが王充の問難 二 七 三

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間   孔   篇   初   探 の骨子である.もし子貢が世評に乗せられて天狗になっていたとしても' 「はい'私の方が勝れています」 などとは到底答えようはずもない.い ずれにしても子貢は「私をどとても顔回には及びません」とまっとうに 返答するであろう.その返事を聞いた孔子は'「うん'及ばないね.わ しもお前も回には及ぼをいね」と柔らか-子責を包み込むような風情で 相槌をうったt と王充はみている.王充の文章には'本来論語のテキス ヽ トには書かれていない「倶」の字まで加えて'「不如也.吾与汝倶不如 也」と表現されてお-'「与」 字が並列の助字であることを明瞭に示し ている。「吾と汝と倶に如かざるを-.」ところがこの文章は栄子の手に かかると次のように変質してしまうのである。「吾'女の如かずとする ゆる を 与 す . 」   与 ' 許 也 t   と 。 こ の 解 釈 の 違 い が 両 者 の 対 孔 子 観 を 端 的 に 物 語る結果をもたらす。すなわち両者の見解に従って'孔子・顔回・子蛋 のランクづけを図示すれば' 二 七 四 であろう。教育者としてまた仁義礼智の提唱者としての孔子の人となり が'よ-温か-よ-すをおに感じとれるのは王説か'宋説か。 王充の叙上の議論は来往を採用しても十分成立するのであるが'もし 来往の意味で解釈すると覆れば'王充は多分よ-激烈を難詰を孔子に浴 びせたであろう._礼譲など口にするもおこがましい'倣慢不遜をお師匠 様 だ t   と 。

五 「子欲居九夷Lの章について

○ 子 欲 居 九 夷 。 或 日 ' 「 幡 ' 如 之 何 。 」   子 日 ' 「 君 子 居 之 ' 何 階 之 有 」 。 ( 子 竿 篇 )

顔回-・

M

I 子 貢 ( 王 充 ) I胤聞[-顔回-子責  (朱子) と覆って'朱子の念頭にあっては'弟子が孔子よ-上位にランクされる 解釈などか-そめにもあ-得をいと推定されるのである.「お前と某と どちらが勝れているか」という無礼を問いかけが許されるとしても'「私 はとても某にはかをいません」 という応答のしめ---に'「よしよし' わしはお前が某におよばないということを許してやる」をどと人を食っ た言辞を弄する師匠がいるであろうか。たとえそこを「お前が某におよ ヽヽ ば覆いということに賛成だよ」と言い換えたとしても。 二者の解釈のうちどちらを是とするか'もはや「問うも問わずも覆い」 孔子が九夷(東方の夷) に居たいと思った.某人が「随しいのをど うされます。」 と言うと'孔子は 「君子がそこに居るのだ'どうし て悔しいことなどあろうか」と答えた.孔子は道が中国で行われを いことに失意落胆して九夷に行こうと思ったのだ.ところが某人が 夷秋は膿し-礼儀も覆い'それをどうをさいますかと問うたのに対 し'孔子は「君子之に居れば何の隔たることか之れ有らん」即ち' 君子の道を以てそこに居て教化すれば'いやしいことをど何もない と答えたのである。 ところで'それではたずねるがt と王充は問難を開始する。 孔子が九夷に行こうとしたのは何に起因するのか。道が中国で行わ れ覆いので九夷に行こうと思ったのだとすれば1 そもそも中国です ら行われえないことがどうして夷秋で行われえようか.孔子自身' ( 1 4 ) 「夷秋の君あるは'諸夏の亡きに如かず」 と言っている通-'夷秋 規 謝     り

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虫 電 1         t -即し は   ( 治 め )   難 -' 諸 夏 は   ( 治 め )   易 い . 容 易 な と こ ろ で 行 わ れ な い ことがどうして困難をところで行われようか。その上'孔子が「君 子を以て之に居れば何をか随と謂はんや」と言っているのは'君子 の道を修めて自ら悠容としていたいということを言いたいのか'そ れとも'君子の道を以て夷秋を教化したいと言おうとしているのだ ろうか。もし前者をらば'それは中国においても十分に出来ること であるから夷秋へなぞ行-必要は覆い.またもし後者だとすれば' 夷秋を教化することはさほど簡単では覆い.聖人丙でさえも裸国に ( S ) 入る時は裸で入-衣服を着て出てきた。衣服の制が夷秋に通じなか ったからである.丙でさえ裸国に着物を教えることができをかった のに'孔子が九夷を君子たらしめることができるだろうか. - さ てこの疑問に対してある人が次のようを解答をして-れた.孔子は 実は九夷に往こうと思ったのでは覆い。ただ道の行われ覆いのを残 念に思い'おもわずこの言葉を口にしてしまったのだ.ところが某 人がこれを各めたので孔子はその随をることを知-つつも「何の隔 たることか之れあらん」と言わざるを得なかった。成り行き上'そ の非難にこう応えざるを得をかったのだt と.実際に往こうと思わ なかったのだがつい理屈をこねてしまったということであれば'こ ( 3 ) れは偽言である.君子たるもの言に於いて苛し-もするところなし. その隔たることを知りながら強引に自説を押し通そうとしたとすれ ば'それは子路が子黒を費の串に採用しょうとした時'孔子に抗言 ( 5 ) した状況と同じである.即ち'子路は自分のまちがいを知-つつ無 ( 3 ) 理を通そうとしたので'孔子は「侯者Lだといって恵んだのである。 すると'いま孔子も不可能を知-夜がら押し通そうとしている事態 は同じだから'子路同様'孔子にも「使者」の格印をおしてもふし ぎ は 覆 い 。 松     尾     幸     弘 ︹ 研 究 紀 要   第 三 一 巻 ︺ 勘 所 を 押 え た 小 気 味 よ い 文 章 は 読 む 者 を 痛 快 を 気 分 に 誘 う . 途 中 に 挿 入 さ れ た 或 説 は 当 時 の 一 般 的 を 論 語 解 釈 ( 法 ) だ と 考 え て 差 支 え 覆 い だ ろ う 。 そ の 大 方 は 現 代 で も そ の ま ま 罷 -通 っ て い る 次 第 で あ l る か ら . だ が 或 説 者 の 解 釈 態 度 に は い ず れ も 孔 子 の 言 説 を 無 理 し て も 整 合 性 あ る ち の に 仕 立 て あ げ よ う と す る 意 図 が 感 ぜ ら れ て 怒 ら を い 。 皮 肉 を こ と に そ れ が か え っ て 王 充 の 再 批 判 を 呼 ぶ 好 餌 に な っ て い る . 孔 子 が 真 聾 に 道 を 追 及 し て 生 き た 偉 人 で あ る と い う 伝 説 は ' 一 応 そ れ と し て 是 認 し ょ う . だ が そ の 場 合 ' 孔 子 は 生 涯 い さ さ か の 動 揺 も を -一 分 の 隙 も 見 せ 覆 い で 理 想 に 向 っ て 遇 進 し っ づ け た 完 壁 を 人 間 と し て 捉 え る の が 事 実 に あ っ て い る の か 。 そ れ と も 王 充 の 考 え る よ う に ' あ ち こ ち で 壁 に ぶ つ か -時 に は 自 信 喪 失 の あ げ -逃 げ 場 所 が 夜 い か と ふ と 弱 音 を 吐 い て み せ る 人 間 と し て 捉 え る 方 が よ -ふ さ わ し い 孔 子 像 の 捉 え 方 を の か . 春 秋 末 と い う 混 濁 し た 時 代 に あ っ て 理 想 を 追 い 求 め る こ と が 蛾 烈 で あ れ ば あ る ほ ど そ の 反 動 と し て 苦 悩 や 煩 悶 も 多 -' 生 活 上 の 困 苦 も は か り 知 れ を い も の が あ っ た に 違 い を い . 時 お -洩 ら す 弱 音 こ そ そ の 難 難 辛 苦 の 象 徴 で あ り ' と り も な お さ ず 人 間 性 溢 れ る 孔 子 像 を 結 ば せ る 所 以 で は な か ろ う か 。 ○ 子 日 ' 「 道 不 行 ' 乗 梓 浮 干 海 。 従 我 者 ' 其 由 也 与 。 」 子 路 聞 之 喜 。 子 日 ' 「 由 也 好 勇 過 我 。 無 所 取 材 。 」 ( 公 冶 長 篇 ) ところが朱子の見解は異様である。三軟の一として有名な右の章の解 釈でも'そのようを (軟弱を) 孔子像からできるだけ目をそらそうとす るかの如き書きぶ-が察知できる。まず'「浮海の軟は'天下の賢君な きを傷む覆り.」と言っておいて'「子路は義に勇を-'故にその能-己 (孔子)に従ふを謂ふ」と要点が恰も文の後半部分にあるようを言い方を 二 七 五

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間   孔   篇   初   探 している.つまり文の前半部分は「皆仮説の言のみ」と設定し,i,い自 ヽヽ 分が海に浮かぶようをことがあったら'その時は義に勇ある子路こそが 自分についてきて-れるだろう'と解説してみせるのである.単純思考 の子路はその言葉を聞-とすぐ真に受けて有頂天に覆ったので'孔子は 子路の勇気は人並以上にすぐれているが事理をよ-裁度して義に向う能 力のないことを我られたtとポイントをずらせた説明をする.明らかに 「ああ今の世では道は行われをい'梓に乗って海に逃げ出したいものだ」 という 〟浮海の歎″ とみをすことを肯じ覆い素振-がみえる.栄子に とっては'聖人孔子ともあろう者がかかる弱音(本音∼) をはいては怒 らないのであ-'常に毅然として弟子を薫陶し叱陀激励していなければ 怒らないのであろう。 栄子の観点では'孔子が喪家の狗の如-諸国を流浪したあげ-'意気 阻喪して神がか-的を言辞を弄するに至った夜どとはか-そめにも解し ては覆らない.王充の見解とは風馬牛の隔-がある。 二 七 六

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○ 子 貢 間 政 。 子 日 ' 「 足 食 ' 足 兵 ' 民 信 之 夷 。 」 子 貢 日 ' 「 必 不 得 巳 而 去 ' 於 斯 三 者 何 党 。 」 日 ' 「 去 兵 。 」 子 貫 目 ' 「 必 不 得 巳 而 去 ' 於 斯 二 者 何 先 。 」 日 ' 「 去 食 ' 百 舌 皆 有 死 。 民 無 信 不 立 。 」 ( 顔 淵 篇 ) 右の章において孔子が最も重視したのは信である.さてそれをらばt と王充は間難をはじめる。 ○ 子 日 ' 「 鳳 鳥 不 至 ' 河 不 出 固 。 吾 己 夷 夫 。 」 ( 子 竿 篇 ) 1瑞鳥の鳳風もやってこない。河から龍馬が図を背負って出て-ることもない.わしゃもうおしまいだ。 --夫れ瑞応を致すは'何を以て之を致す。賢に任じ能を使はば'治 定まり功成-'治定ま-功成れば'則ち瑞応至らん。瑞応至るの後は' もち 亦孔子を須ひず。孔子の望む所は'何ぞ其れ末なるや。其の本を恩はず み して'其の末を望み'其の王を相ずして'其の物を名づ-0(間孔篇) --鳳至-図出ずるは'文明の梓を-。伏義・舜・文の瑞至らざれば' 則ち夫子の文章'その巳むことを知れ-0(栄子集注) 国を治めるのに食がなかったら'民は飢え'礼儀を捨て'信を守ら 覆い。「倉廃実ちて礼義を知り'衣食足って栄辱を知る」ぁるいは ( 3 ) 「譲は有余に生じ'争は不足に起る」 と伝書にもある通-'先に食 をと-去ってしまってどこに信の立つところがあろうか。春秋時代' ( S ) 戦国は飢餓に瀕し'子を易えて食らい骸を折いで炊いた.飢えて食 えなければ恩義を顧る余裕などをい.だが父子の恩こそ信では覆い か。人間ひとたび飢えると信を棄て'子をと-換えて食うこともす る。そうすると'孔子が子貢に「食を去って信を存すべLLと教え たのはどんをものであろうか.信を捨て・て食を存すれば'信を欲せ ずとも信は白から生ずる。逆に'食を去って信を存すれば、信を守 ろうと思ってもできないのである。 食と兵と信を同列に並べて取捨選択を迫るという形而上学的発想は' 論理的追及に耐ええをいところであるが'いま現実とのかねあいにはし ばら-目をつぶって'発想の根本精神にたち入って考察してみよう。そ

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。 題 t l ︼叩 れにはもう少し王充の発言を聞いてみる必要がある. ○ 子 適 衛 。 再 有 僕 。 子 日 ' 「 庶 夷 哉 。 L 再 有 日 ' 「 既 庶 夷 。 又 何 加 葛 。 」 日 ' 「 富 之 。 」 日 ' 「 既 富 夷 ' 又 何 加 蔦 。 L 日 ' 「 敏 之 。 」 ( 子 路 篇 ) 孔子は再有に対しては富が先で教が後だと語-、子貢に対しては食 を去って信を存せよと教えている.食と富とはどう違うのか'信と 教とはどうちがうのか。二子に対して教えるところが異な-尚ぶと ころが違う。こういう態度では国を治める考えが定まるはずもない. 王 充 は 孔 子 の 食   ( 富 )   と 信   ( 敬 )   に 関 す る 首 尾 1 貫 し な い 教 え 方   ( 考 え方) を形式論理的に衝いている。その意味では確かに正当を批判た-えていをいかも知れない。しかしその議論文を丹念に読んでみると'王 充白身明言していないし従って極めて不徹底を思考ではあるが'王充が 哲学上の二つの命題に無意識のうちに迫ろうとしている気配が感ぜられ る。彼のその意志を助長し不足を補いつつ鮮明にしてみたい. それは'王充が'人間が生きてい-上でいったい信 (精神) を本源と みをすか'それとも食 (物質) を第一義のものとみ夜すかという二つの 対立した思想に本質的に触れている点である.観念論と唯物論のこの二 つの世界観を'王充は素朴を形ではあるが早-も紀元百年にみたない時 点で鋭-提起Lt 右のような形で (孔子の) 観念論の不備を衝こうとし ているのである.王充白身はっき-自覚していをいとはいえ'反論の中 で 引 用 さ れ た 「 倉 魔 実 ' 知 礼 節 ' 衣 食 足 ' 知 栄 辱 」 や 「 易 子 折 骸 」   の 実 例が'基本的に唯物論思考の現れであ-'王充がその考え方に傾いてい たことは明瞭である。他方'孔子の「天命論」にしても「名実論」にし ( 2 1 ) ても'また「固窮之節」で有名をエピソードにしても'すべて観念論の 松     尾     幸     弘 ︹ 研 究 紀 要   第 三 一 巻 ︺ 世界に遊んだ言動であることは詳説を要しないであろう. それでは栄子の世界観をわれわれはどう呼べばよいか.信を先にする か食を先にするかという短絡した形ではあるが'その限-で単純明快を ヽヽ 設問文の右章の注において'栄子は「人情を以て言えば'則ち兵食足-ヽヽ て而る後吾の信以て民に字 (まこと) たるべし。民徳を以て言えば'則 ち信はもと人の固有するところ'兵食の得て先にするところに非ざるを -.L「是を以て政を為す者は'まさに白からその民を率いて死を以て之 ( 宿 ) を 守 る べ し 。 危 急 を 以 て   ( 信 を )   棄 つ べ か ら ず 。 」 と 双 手 を あ げ て ヽ ヽ ヽ ヽ 孔子の意見に賛意を表している。人情の観点から言えばとか'民徳の 観点から言えばをどと'一見いろいろを観点に立脚して判断している ポーズはみせていても帰するところは一である。か-してわれわれはこ こに'栄子に対しては客観的観念論者という呼称が適しい根拠をみいだ す。そしてこのような対孔子観'対孔子姿勢こそ正真正銘の「尊孔」で あることを確認する。因みにわがお師匠棟には'この際'主観的観念袷 ( 2 3 ) 者という蘭号を奉っておこう. 間孔篇が論衡の諸第の中でもすぐれて論議の対象に覆るのは'いうま でもを-この篇が聖人の言論に対し真向から伐 (攻撃) を加えているか らである。なかにはピントずれの議論も少な-覆いが'単に孔子に対し てあれこれの批判を加えたというだけにとどまらず'孔子の言説を盲信 してはばからない思考停止の儒学者一般に対して手厳しい非難攻撃を加 えたものともなっている.多分そのことに起因して従来の王充研究では' 王充を「非望無法」の輩と頭から否定し抹殺してかかろうとする評価が あった.また'表面的に意気がってはいるが所詮尊孔の掌を飛び回る悟 空よろし-結論づける学者もあ-'最近の中国では'王充こそ反孔の旗 手であるとして法家者の列に組み入れることを辞さをい人も現れた。だ が王充の考えをいまわれわれが冷静に科学的に判読し整理してみれば' 二 七 七

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間   孔   篇   初   探 これらの評価はいずれも当を得ていないことがわかる.覆るほど王充は 孔子を聖人として尊崇した。そのことを以て即尊孔論者であるというの であれば'尊孔論者である。一方かれは孔子の多-の言説に厳し-反駁 している.そのことを即反孔であるといえば反孔である.しかしこの二 つの評価が二律背反であるとすれば'われわれは王充の真価を求めて考 察を進めねば怒ら覆い.それはもちろん同次元での折衷論であっては怒 らをい性質のものである.王充は当時の風潮の中にあっては否応をLに 尊孔的であった。しかしそれは栄子のように自ら意識した尊孔だったの ではをい.況んや尊孔を信奉したものでは夜かった.われわれは王充が 森羅万象に対してと同じ姿勢で孔子に対しても批判的立場を堅持し'料 学的分析的反論を企てている実態をみてきた.対孔子に限定して表現す れば'王充は唯物論者として批孔論者だったのである。す夜わち'尊孔 といい反孔という帰着するところは同じ観念論的評価とは次元を異にし て'われわれの評価は'王充の言論に即し思考方法に密着して客観的に 判断するものでをければ怒らをい. 注 l   王 充   字 仲 任 ' 会 稽 上 虞 ( 新 江 省 上 虞 県 )   の 人 。 建 武 三 年 ( 紀 元 二 七 ) に 生れ'永元の年号中(八九∼一〇五)に自宅で病没した。伝記には論衡・白 紀篇と後漢書・王充伝がある。先祖は「農桑を以て業と為し」祖父が「貫版 を以て業とした」「細族孤門」の出自であるという.若いころ洛陽に到り' 「家貧にして書を遵」がために店頭で立読みして 「博-衆流石家の言に通じ た.」のち出仕して小吏となったが 「貧にして一畝の身を庇う無-tL晩年退 職して家に帰っても'「年漸-七十」「貧にして供養するをき」生活を送った. しかし彼の反俗の精神は衰えることを知らず'現存する諭衝の外に'「哉俗 節義」「政務之書L「養生之書」を著わしたという. 2 「間孔刺孟が世界観の対立意識に由因するのではないことは'この面から 二 七 八 も明らかであろう.しかし'それだからといって'聖賢批判の自由と可能性 とを検討してそれを肯定し実行したこと自体のもつ意義が'それによって影 響を被ると考えるならばはなはだし-妥当を失する。この空前の業積に与え られるべき歴史的意義は'過小評価を絶対に許さをい性質のものである」. 重沢俊郎﹃中国哲学史研究﹄二七二ページ。 3 「近世封建社会の体制教学がわからは〟名教ノ罪人″として'王充の﹃論 衡﹄はきびし-攻撃されたが'かえってそれを通して(銭大師のごとく)秤 者白身の世界観をいLは史学方法の限界を'はしをくも露呈している場合が 多い.」戸川芳郎「四庫全書総目提要﹃論衡﹄謬註並びに補説」お茶の水女 子大学紀要一六二ページ。 4   < 商 君 書 ・ 更 法 > 秦の孝公(在位紀元前三六一-三三八)は変法更礼を意図したがなお決定に ためらっていた。商秋は「聖人は萄-も以て国を強むべ-んば其の故に法ら ず。萄-も以て民を利すべ-んば其の礼に循はず」と革新断行を促した。一 方 ' 大 夫 の   ( 儒 家 ) 甘 龍 ・ 杜 撃 は ' 「 聖 人 は 民 ( 俗 ) を 易 へ ず し て 教 え ' 智 者は法を変へずして治む」とか'「古に法れば過を-'礼に循へば邪をLL と頑強に変法反対を唱える。商鉄は'「古に反するもの未だ必ずしも非とす べからず'礼に循ふ者いまだ多とすべからず」と彼らの保守思想を打被し遂 に孝公に墾草令を布かしめた。 5 <守株> 米人有耕田者'田中有株'兎走触株折頚而死'国粋其未而守株'糞復得兎。 兎不可復得'而身為宋国笑。 韓非子・五蛮篇にある「守株」の寓話は'韓非子が儒家流の復古思想を批 判し旧套墨守の愚を笑ったものである。「是を以て聖人は修古を期せず'常 可に法らず。」「今'先王の政を以て当世の民を治めんと欲するは'みな株を 守 る の 類 な り . 」 と . 6 「ところが折から大陸に展開されている孔子批判運動家は'好個の同調者 を得たと言わんばかりに'これを利用し'果ては王充をもち上げて'法家の 立場からする儒家思想に対する攻撃だとしている.王充の思想的立場が法家 かどうかは'さらに慎重に検討してかかる必要があろう。王充には'本篇の

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i ^ L y m ■1 jl ぐ 次に孟子を攻撃した﹃刺孟篇﹄があるが'皮肉をことに、その次には法家の 大宗韓非子を攻撃した﹃非韓篇﹄があるのを、何と弁護するつもりであろう か 。 」 山 田 勝 美 ﹃ 論 衡 上 ﹄ 明 治 書 院   六 〇 五 ペ ー ジ 。 7   史 記 ・ 夏 本 紀 に ' 皐 陶 作 士 以 理 民 。 帝 舜 朝 ' 南 ' 伯 夷 ' 皐 陶 ' 相 与 語 帝 前 ' 皐 陶 述 共 謀 日 ' 「 信 其 道 徳 、 謀 明 輔 和 。 」 南 日 ' 「 然 ' 如 何 。 L -以 下 ' 二 人 の尋ね合いによって内容が次第に精探にをってい-様が措かれている。また 尚書・皐陶漠にはその原文と思われる'皐陶日'「允辿威徳'謀明弼譜。」南 口 ' 「 命 ' 如 何 」 以 下 の 文 章 が み え る 。 王充がこの-だりを引用した理由は'議論の重要性を示したいためである。 従 っ て 新 釈 漢 文 大 系 ﹃ 論 衡 ﹄ ( 六 〇 八 ペ ー ジ )   の 山 田 氏 の 注 ' 「 白 虎 通 聖 人 篇 に'皐陶聖人'而能為舜陳道t と。」は直接関係は覆い。また'雨間難之の 注に'右の皐陶讃冒頭を引いて'「これが間難という根拠である。」というの は'やや当を失した説明といわねばならをい。 8 「割難蔦用牛刀」を孔安国(漢) は「小を治むるに何ぞ須ら-大道を用ふ ぺけんや」すなわち'武のようを小邑 (難)を治めるのにどうして礼楽とい う大道(牛刀)を用いる必要があろうかt と解-。皇侃(栄)は'「聾へば 武城小邑の政の如きは小才を用ふべきのみ。子港の大才を用ふれば'是れ才 大にして用小夜るなり。」すなわち'武城の如き小邑の政(難) は小才で十 分なので'子辞の大才(牛刀) では勿体をいt と解-。王充の議論展開の中 には到底皇注の入り込む余地は覆い。栄子も孔注で理解している。 9 田宗重民は「従論衡間孔篇談起」(﹃思与言﹄第三巻第四期) の中で王充の 議論文を大き-二つのグループにわけて論じている。Aグループ (八項目) は主として王充が論語の文章や語句の矛盾をついたもの。Bグループ (七項 目)は主として孔子の身の処し方について間難したものとする。そのうちA 類については'いずれも一種のいいがかりに近いものが多-'王充白から翻 齢を来していると述べt B類も誤解や臆測に基-ものが多-'また後人の偽 託(陽貨篇の二例) の文も含まれて批判が成立し覆いとして斥けている。さ らに田氏は論衡各篇から十数条におよぶ「孔子'聖人也」の類の文を拾い出 し'王充は崇孔尊孔であったと結論づけている。しかし夜がら間孔篇の中で 論語について言及し引用した個所は'肯定否定とりまぜて単に十数条にとど 松     尾     善     弘 ︹ 研 究 紀 要   第 三 1 巻 ︺ ま る も の で は な い 。 従 っ て 田 氏 の よ う に 中 心 と な る 箇 条 の み を 列 挙 し て 論 駁 す る や り 方 で は ' そ れ こ そ 形 式 論 理 主 義 の 誹 り を 免 れ 覆 い で あ ろ う 。 王 充 の 立 論 の 有 機 的 連 関 性 や 着 想 の 異 質 性 を こ そ 探 ら 夜 け れ ば 本 質 を 見 失 う と い う 所 以 で あ る 。 王 充 の 「 尊 孔 」 意 識 の 意 味 に つ い て も 本 論 で 述 べ る 通 り で あ る O 「 這 様 看 釆 ' 王 充 雑 然 対 孔 子 大 不 敬 ' 他 受 孔 子 的 影 響 、 還 是 非 常 明 顕 的 ' 至 於 他 之 所 以 ﹃ 間 孔 ﹄ ﹃ 刺 孟 ﹄ ' 大 部 扮 還 是 由 於 他 対 論 孟 二 書 文 辞 上 的 誤 解 、 与 他 之 接 受 孔 子 的 思 想 ' 没 有 関 係 。 」 ( 田 宗 尭 「 王 充 対 孔 子 的 意 見 」 ﹃ 孔 孟 月 刊 ﹄ 第 三 巻 ・ 第 五 期 。 ) 「 論 理 の 失 当 と 思 想 の 誤 り を 衝 い た も の が 両 者 ( 同 孔 刺 孟 ) を 通 じ て 圧 倒 的 に 多 -' 且 つ 思 想 の 誤 り の 場 合 は す べ て 運 命 論 と 歴 史 観 に 関 す る 問 題 で 占 め ら れ て い る 事 実 が 発 見 さ れ る . 」 重 沢 俊 郎 ﹃ 中 国 哲 学 史 研 究 ﹄ 二 七 二 ペ 1 5 K 1 0 子 日 ' 「 能 以 礼 譲 為 国 乎 ' 何 有 。 不 能 以 礼 譲 為 国 ' 如 礼 何 。 」 ( 里 仁 篇 ) 1 1 先 進 篇 に あ る そ の 話 は ' 子 路 ・ 曽 暫 ・ 再 有 ・ 公 西 華 が 孔 子 を 前 に 各 々 そ の 志 を 披 嘘 し あ っ た 際 に ' 子 路 は 率 術 と し て ' 「 千 乗 の 国 ' 大 国 の 間 に 撮 ま れ , さ之 に 加 ふ る に 師 旅 を 以 て L t 之 に 因 る に 磯 雄 を 以 て す 。 由 や 之 を 為 む れ ば ' 三 年 に 及 ぶ 比 は ひ ' 勇 あ り て 且 つ 方 を 知 ら し む べ し 。 」 と 述 べ た 。 孔 子 は 「 国 を 為 む る に 礼 を 以 て す ' 其 の 言 譲 ら ず 。 」 と 子 路 の 不 遜 を も の 言 い を 噛 っ た ' と あ る 。 1 2 子 日 ' 「 賢 哉 回 也 。 一 箪 食 ' 一 瓢 飲 ' 在 随 巷 . 人 不 堪 其 憂 . 回 也 不 改 其 楽 。 賢 哉 回 也 。 」 ( 確 也 篇 ) ヽ 子 日 ' 「 吾 与 回 言 終 日 ' 不 達 如 愚 。 退 而 省 其 私 ' 亦 足 以 発 。 回 也 不 愚 。 」 ( 為 政 篇 ) 子 日 ' 「 回 也 ' 其 心 三 月 不 達 仁 。 其 飴 則 日 月 至 蔦 而 己 夫 。 」 ( 薙 也 篇 ) ヽ為 政 篇 の 「 退 き て 其 の 私 す る を 省 み れ ば ' 亦 以 て 発 す る に 足 る 」 の 部 分 を ' イ ' 孔 子 の 言 う 所 の 理 を ( 回 が ) 一 層 発 明 す る に 足 る 。 ( 末 子 注 ) ロ ' 孔 子 が 回 は 啓 発 す る に 足 る 人 物 だ と 認 め る 。 ( ﹃ 論 語 講 義 ﹄ 簡 野 道 明 ) ハ ' 孔 子 が 回 の 言 行 か ら 却 っ て 啓 発 を 受 け る に 足 る 。 ( ﹃ 新 釈 論 語 ﹄ 稔 種 垂 遠 ) と 三 様 の 解 釈 が あ る 。 イ ロ は 顔 回 が 主 語 ( 対 象 ) に な っ て お り ' ハ は 孔 子 が 二 七 九

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聞   孔   篇   初   探 主体と覆り啓発されるものとなる。朱子に言わせればハ説などとても容認で き覆いだろうが'王充は多分これに賛意を示すのではないか. 1 3   ﹃ 経 籍 纂 請 ﹄ を 手 引 に ' 与 ' 許 也 。 の 用 例 を 調 べ る と 次 の 箇 条 が あ が る 。 ︹ 論 語 ・ 公 冶 長 ︺ 吾 与 女 弗 如 也 。 皇 侃 義 疏 、 秦 道 費 目 ' 爾 雅 云 ' 与 許 也 。 仲 尼 許子貫之不如也。(いま問題にしている文例であるが'﹃大漢和﹄﹃辞海﹄等 にも記載されている) ︹ 論 語 ・ 述 而 ︺ 我 与 爾 有 是 夫 。 一 云 ' 与 許 也 。 ( 経 籍 纂 請 で は 同 文 が ' 与 ' 及 也の欄にも入れられている。栄子もこの文は与'及也.つまり並列の「と」 で解釈している) ︹ 国 語 ・ 晋 語 ︺ 先 珍 日 ' 子 与 之 。 注 ' 与 許 也 。 ︹ 漢 書 ・ 司 馬 遷 伝 ︺   而 世 又 不 与 能 死 節 者 比 。 師 古 日 ' 与 許 也 ' 不 許 其 能 死 節 。 ︹ 漢 書 ・ 雀 才 進 伝 ︺   君 子 与 之 。 師 古 日 ' 与 許 也 。 ︹ 管 子 ・ 小 匡 ︺ 衆 必 予 之 。 注 ' 衆 必 与 之 ' 与 許 也 。 ついでに'与猶許也.および反対の'許'与也。の用例を調べると' ︹ 史 記 ・ 五 帝 紀 ︺ 与 為 多 蔦 。 索 隠 ' 与 音 羊 汝 反 ' 与 猶 許 也 。 ︹ 漢 書 ・ 陳 湯 伝 ︺ 集 注 ' 皆 不 与 湯 。 師 古 目 、 与 猶 許 。 ︹ 易 ・ 文 言 伝 ︺   知 至 至 之 可 与 幾 己 。 注 ' 故 可 成 務 夷 。 疏 ' 与 猶 許 也 。 ︹ 礼 記 ・ 典 礼 ︺   刑 不 上 大 夫 。 注 ' 不 与 賢 者 犯 法 。 与 猶 許 也 。 ︹ 公 羊 ・ 文 九 ︺   許 夷 秋 者 ' 不 一 而 足 也 。 注 ' 許 与 也 。 などが挙げられる。以上の用例でみる限り'与-許という形は認めねば覆ら ない。しかしながら「吾与女不如也」 の与に許の意味を与えようとするとき、 単に語義上の言い換えにすぎないとは言いきれない栄子の作為を感じる。実 は朱子は次の二文においても'与-許'あるいは'与-示t という注をつけ ているのである. 互郷難与言。童子見。門人惑。子日'「与(来往'与幹也)其進也。不与其 退 也 。 唯 何 甚 ' 人 潔 己 以 進 ' 与 其 潔 也 。 不 得 其 往 也 。 」 ( 述 而 ) 子日'「二三子'以我為隠乎。吾無隠乎爾。吾無行而不与(朱注'与猶示 也 )   二 三 子 者 。 是 丘 也 。 」 ( 述 而 ) Si 前条は一般に'「其(童子) の (前)進むに与するなり'其の退-に与ざ る覆り.」と訓んであり'-みス-与1許ス の隔たりはさほどをいとも言え 二 八 〇 とも る。しかし後条の場合は'「行ひて二三子と与にせざるものをLL という一 ヽヽ 般 的 ( 荻 生 租 裸 注 ' 言 我 所 行 ' 必 与 二 三 子 共 之 。 与 共 也 。 )   訓 み に 対 し ' 朱 注に従えば'「行ひて二三子に与(示) さざるものをLLとなって、孔子が 一段高い所から弟子たちに指示している構図が想定される。栄子にとっては 公治長の文と同様'孔子が門弟たちと同列に並んで共に行動する状態など考 えられようも夜かったのではあるまいか。 なお﹃経籍纂請﹄によれば'子謂顔淵日'「用之別行'舎之則蔵。惟我与 爾有是夫」(述而) の章にも'与及也t と一云'与許也の二注が存すること が記されている。 1 4   子 日 ' 「 夷 狭 之 有 君 ' 不 如 諸 夏 之 亡 也 。 」 ( 八 伶 ) イ'夷秋の君あるは'諸夏の亡きに如かざるなり。 包成云ふ'諸夏とは中国覆り。皇侃云ふ'此章は中国を重んじ蛮夷を臆 しむなり。言ふこころは'夷秋に君主ありと錐も'中国の君をさに及ぼざ る覆り。 ロ'夷秋の君あるは'諸夏の亡きが如-ならざる覆り. 朱注。夷秋すら且つ君長あり'諸夏の借乱し'反りて上下の分なきが如 -怒らざる覆り。孔子'時の乱るるを傷みて之を歎-覆り。亡とは実に亡 きには非ざる覆り。これありと錐も'その道を尽す能はざるのみ。 いうまでもを-王充はイ説で理解しているとみなさなければならない. 1 5   < 准 南 子 ・ 原 道 訓 >   故 南 之 裸 国 ' 解 衣 而 人 ' 衣 帯 而 出 ' 因 之 也 。 注 ' 裸 国 在 東 方 ' 聖 人 治 礼 不 求 与 俗 ' 故 日 ' 因 之 也 。 1 6   君 子 於 其 言 ' 無 所 得 而 巳 夫 。 ( 子 路 ) 子 日 ' 「 古 老 言 之 不 出 ' 恥 窮 之 不 逮 也 。 ( 里 仁 ) 子 日 ' 「 夫 人 不 言 ' 言 必 有 中 。 L ( 先 進 ) 1 7   子 路 使 子 蓋 為 費 宰 。 子 日 ' 「 賊 夫 人 之 子 。 」 子 路 日 ' 「 有 民 人 蔦 ' 有 杜 稜 蔦 。 何 必 読 書 ' 然 後 為 学 。 」 子 日 ' 「 是 政 悪 天 候 者 。 」 ( 先 進 ) 孔子は子路を使者だと罵っているのであるが'子路の方がより実際的感覚 の持主であるとも考えられる。現に子路は到る処で孔子の危難を救い'孔子 の非現実的発想や行動を批判している。 1 8 侯とは「口絵を以て人に禦るL t 口さきばかり達者で理屈をこねる人間の

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曲 一 覇 、 fe 磯叩 ー 謂である。拙稿「侯字考」﹃漢文教室﹄一二二号 大修館書店 参照。 1 9   倉 魔 実 ' 知 礼 節 。 衣 食 足 ' 知 栄 辱 。 ( 管 子 ・ 牧 民 篇 ) 夫 民 有 余 即 譲 ' 不 足 則 争 。 譲 則 礼 義 生 ' 争 則 暴 乱 起 。 ( 准 南 子 ・ 斉 俗 訓 ) 2 0   夏 五 月 ' 楚 師 将 去 宋 。 申 皐 稽 首 於 王 之 馬 前 日 ' 埠 畏 知 死 而 不 敢 廃 王 命 ' 王 棄 言 蔦 。 王 不 能 答 。 申 叔 時 僕 ' 日 ' 築 室 反 耕 者 ' 宋 必 聴 命 。 従 之 。 宋 人 催 ' 使 華 元 夜 入 楚 師 。 登 子 反 之 淋 ' 起 之 日 ' 寡 君 使 元 以 病 告 ' 日 ' 敵 邑 易 子 而 食 ' 析骸以輿。離然城下之盟'有以国難不能従也。去我三十里'唯命是聴。子反 催 ' 輿 之 盟 ' 而 告 王 退 三 十 里 。 宋 及 楚 平 。 華 元 為 質 ' 盟 日 ' 我 無 爾 詐 、 爾 無 我 虞 。 ( 左 伝 ・ 宣 公 十 五 年 伝 ) 楚 入 園 宋 ' 易 子 而 食 ' 析 骸 而 費 。 猶 無 城 下 之 盟 。 ( 左 伝 ・ 哀 八 ) 昔 ' 宋 執 楚 使 ' 遂 有 析 骸 易 子 之 禍 。 ( 後 漢 書 ' 釆 欽 伝 ) 析 骸 易 子 ' 廠 禍 亦 巨 。 ( 風 俗 通 。 弄 覇 ) 其 後 楚 攻 宋 ' 国 共 城 。 民 易 子 而 食 之 ' 析 骸 而 炊 之 。 ( 列 子 ・ 説 符 篇 ) 当 此 之 時 ' 易 子 而 食 ' 析 骸 而 炊 。 ( 准 南 子 ・ 人 間 訓 ) 2 1   < 天 命 論 > 孔子は自らの人生を回顧して'五十而知天命と言っている。人間は上帝の 安配した運命に支配されて生きるものであり'また'自分こそは上帝の与え 給うた高尚をる道徳と使命を背負って生きる人間だという考え方を表わした 箇条を次に列挙する。 子 日 ' 天 生 徳 於 予 。 桓 魅 其 如 予 何 。 ( 述 而 ) 孔 子 日 ' 君 子 有 三 畏 。 畏 天 命 ' 遵 大 人 ' 畏 聖 人 之 言 。 ( 季 氏 ) 顔 淵 死 。 子 日 ' 噴 ' 天 喪 予 ' 天 喪 予 。 ( 先 進 ) 子 夏 日 ' 商 聞 之 夫 。 死 生 有 命 ' 富 貴 在 天 。 ( 顔 淵 ) 子畏於匡。日'文王既没'文不在弦平。天之将喪斯文也'後死者不得与於斯 文 也 。 天 之 未 喪 斯 文 也 ' 匡 人 其 如 予 何 。 ( 子 竿 ) 子 日 ' 道 之 将 行 也 与 ' 命 也 。 道 之 将 廃 也 与 ' 命 也 。 公 伯 寮 其 如 命 何 。 ( 憲 間 ) 子 見 南 子 。 子 路 不 説 。 夫 子 矢 之 日 ' 予 所 否 者 天 厭 之 ' 天 厭 之 。 ( 舜 也 ) 子 日 、 獲 罪 於 天 ' 無 所 蒔 也 。 ( 八 伶 ) 子 疾 病 ' 子 路 使 門 人 為 臣 。 -吾 誰 欺 、 欺 天 平 。 ( 子 竿 ) 子 日 ' 予 欲 無 言 ' -天 何 言 哉 ' 四 時 行 蔦 ' 百 物 生 蔦 。 ( 陽 貨 ) 松     尾     善     弘   ︹ 研 究 紀 要   第 三 一 巻 ︺ 子 日 ' 不 知 命 ' 無 以 為 君 子 也 。 ( 尭 日 ) こ れ ら の う ち 顔 淵 篇 の 天 喪 予 ' 薙 也 篇 の 天 厭 之 t に つ い て は 王 充 の 論 難 が あ る 。 < 正 名 論 > 君 君 ' 臣 臣 ' 父 父 ' 子 子 。 ( 顔 淵 ) -三 綱 五 常 の 基 と も い え る こ の 条 は ' 孔 子 が 斉 の 景 公 の 為 政 の 間 に 対 し て 答 え た も の で あ る 。 子 路 が 「 衛 君 に 用 い ら れ れ ば ど う い う 政 治 を と ら れ ま す か L と 問 う た の に 対 し て も ' 孔 子 は 「 必 也 正 名 乎 」 と 前 お き し て ' 「 名 不 正 ' 則 言 不 順 。 言 不 順 ' 別 事 不 成 。 事 不 成 ' 則 礼 楽 不 興 。 礼 楽 不 興 ' 則 刑 罰 不 中 。 刑 罰 不 中 ' 則 民 無 所 措 手 足 。 故 君 子 名 之 必 可 言 也 ' 言 之 必 可 行 也 。 君 子 於 其 言 ' 無 所 荷 而 己 夷 。 」 ( 子 路 篇 ) と 答 え て い る 。 と こ ろ で ' こ れ ら の 発 言 は い ず れ も ' 景 公 父 子 ' 衛 君 父 子 が 王 位 継 承 に 絡 ま る 抗 争 を 起 し ' 人 倫 が 素 乱 し て い る 実 態 を 非 難 し た も の で あ る 。 斉 大 夫 陳 成 子 が 斉 君 簡 公 を 試 し た 時 も ' 孔 子 は 斎 戒 休 浴 し て 哀 公 に 陳 成 子 討 伐 を 請 願 し た ( 憲 間 篇 ) 。 す な わ ち ' 孔 子 の 「 名 を 正 す 」 ' 名 が 実 を と も な う と い う こ と の 実 体 は ' 臣 が そ の 君 を 試 し た り ' 子 が 父 を 無 み す る よ う を 人 倫 の 大 変 を 絶 対 に 容 認 で き 覆 い と い う 意 味 で あ る 。 宵 有 が ' 伯 夷 叔 斉 に か こ つ け て ' 衛 君 へ の 援 助 如 何 を 問 う た 時 も ' 孔 子 は ' 天 倫 を 以 て 最 重 要 と み な し ' 人 民 の 支 持 を 無 視 し て 天 倫 の 序 に 従 う べ き こ と を 主 張 し て い る ( 述 而 篇 ) 。 < 固 窮 之 節 ∨ 諸 国 放 浪 の 途 次 ' 陳 に 在 っ て 糧 食 絶 え ' 供 の 者 も 疲 労 困 債 の 末 ' 起 ち あ が る こ と さ え で き を -覆 っ た 。 さ す が に 子 路 は こ ら え き れ ず 「 君 子 も ま た 窮 す る こ と あ る か 」 と 孔 子 を 皮 肉 っ た 。 孔 子 は ' 「 君 子 固 よ り 窮 す ' 小 人 窮 す れ ば 斯 に 濫 す 」 と 大 見 得 を き っ て い る 。 孔 子 の 精 神 主 義 が ど こ ま で 通 じ た か 、 子 路 の 苦 労 ぶ り が し の ば れ る 箇 所 で あ る 。 2 2 「 儒 教 の 哲 学 に お い て ' 十 一 世 紀 に お い て も を お 擁 護 者 を 見 出 し て い た 人 格 神 表 象 は ' 十 二 世 紀 い ら い は ' 康 照 帝 に よ っ て も を お 権 威 と し て 遇 せ ら れ た 唯 物 論 者 の 朱 子 の 影 響 の も と で 消 失 し た 。 L M ・ ウ ェ ー バ ー ﹃ 儒 教 と 道 教 ﹄ 二 九 ペ ー ジ 。 「 -唯 物 論 者 で あ っ て 無 神 論 者 で あ る 十 二 世 紀 の 栄 子 に よ っ て 達 成 さ れ た 同 ' 二 四 五 ペ ー ジ 。 二 八 一

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間   孔   篇   初   探 朱子を唯物論者とするM・ウェーバーの右の見解は筆者と基本的に相容れ な い 。 「唯心主義世界観は基本的にはより多-支配階級に寄与するものであると いう見通しの正しさを、先行諸人についで彼(孔子)もまた立証しているよ うに思われる。」垂沢俊郎﹃中国哲学史研究﹄五一ページ。 モー tF■■■■■■■ 1 4

参照

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