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公事宿・郷宿から代書人・代言人への転換過程に関する研究

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公事碍/郷宿か必代華人・代声〆久の/

転換過程匿開す多研究/・

課題番号 136クdJOO夢′ 平成1 3年度∼J成1 5年度科学研究費補助金(基盤研究(C)j2))研究成果報苧 ′/ 平成1 6年5月 ノ /I ノ 研究代表者  吉 田了 正 志 働ヒ大学大ヲ除法学研究科教幣/

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は し が き 本報告書は、平成1 3年度より平成1 5年度までの3年間に「公事宿・郷宿から代書人 ・代言人への転換過程に関する研究」と題する研究課題に対して与えられた科学研究費補 助金による研究成果を纏めたものである。 研 究 組 織 研究代表者     吉 田  正 志 (東北大学大学院法学研究科教授) 交付決定額(配分額)       (金額単位:千円) 直接経費 亊I ィニ N 合計 平成13年度 テs 0 テs 平成14年度 テ 0 テ 平成15年度 都 0 都 総計 テC 0 テC 研究発表 (2)口頭発表 ① 吉田正志「明治3-4年の府藩県に跨るある民事訴訟 -当事者は訴訟にどれほど時間をとられたか- 」 (民事判決原本研究会、平成1 4年3月2 3日) ∴it

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序     言 本報告書は、第1部「公事宿・郷宿から代書人・代言人への転換過程」及び第2部「明 治3-4年のある民事訴訟と公事宿」の2部で構成される。 第1部は本報告書の中心をなすものであり、本研究によって得られた成果の概要を示し ている。ここで意識的に追究されたのは、 ①従来の諸研究は、江戸∼明治を通して主たる 関心を民事訴訟における訴訟支援者においていたが、それとともに刑事訴訟や行政的諸問 題における支援者としての側面も重視すること、 ②これまでは江戸や京・大坂といった政 治的・経済的な中心地における訴訟支援者が対象として取り上げられており、そしてそれ は当然のことであるが、同時に、地方における訴訟支援者の実態にも目を向けること、そ して③その際、利用者の立場から訴訟支援者をみたらどうなるかという問題関心を堅持す ること,の3点である。 このことにより、これまでの研究ではまったく取り上げられなかった、あるいはさほど 重視されなかった諸問題に、鮮明な光を当てることができた。 第2部は、本研究を進める中で入手した新史料を分析・紹介するものである。本文で詳 しく述べる通り、明治新政府樹立直後の明治4年くらいまでの裁判の実態はいかなるもの だったのかは、これまでの研究においては必ずしも十分には解明されていなかった。その 主たる理由は史料が不足していたということに尽きる。幕末維新期の動乱のもとでは、お そらく整った裁判記録の作成が不可能だったかもしれないし、また作成されたとしても何 らかの原因で散逸してしまったかもしれない。 ところが、ここに幸いにも、この時期の民事裁判に係わった民間の当事者の1人が、ま ことに興味深い詳細な裁判記録を残していてくれた。それは、当時の時代相を反映するだ けでなく、明治初年の裁判手続や公事宿の利用状況までも教えてくれるものである。それ ゆえ、第1部の中で紹介することも可能であったが、これだけを取り出して、まとまった 形で分析・紹介する方が適切と考え、第2部として独立させた。 現在のわが国の司法制度は、法科大学院の設置、裁判員制度の採用等、きわめて重要な 転換点にさしかかっている。このときにおいて、わが国の近代的司法制度形成の始点を振 り返ることがいかほどの意味をもち得るかについては、論者によって多様な評価があろう が、少なくとも司法制度の中央集権化という国家目標の達成と不即不離の関係で、その司 法制度が利用者にとって利用しやすかったか否かという視点が忘却されてはならないこと だけは示せるのではなかろうか。

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-2-第1部 公事宿・郷宿から代書人・代言人への転換過程

はじめに

1明治12年(1879) 6月、司法省修補課起草委員磯部四郎は、当時認められていな かった刑事裁判に代言人を許すことを発議した。その意見書には、民事裁判の多くは財物 金銭の得喪に関係するだけなのに対し、 「抑々刑獄ハ栄辱ノ属スル所.死生ノ岐ルヽ所、 裁判一夕ピ其当ヲ失フトキハ、人其罪二非ズシテ長ク固固二繋ガルヽ苦ヲ受ケ、其甚キニ 至リテハ、身首処ヲ殊ニシ、復夕日月ヲ見ザルノ惨二道フヲ致ス」等の理由が説得的に述 べられていた。しかし、 10人の委員中8人までは、改狩強戻である刑事被告人にさらにず るくて欲の深い代書人を許せば、その弊害はきわめて大きい等の意見を述べて反対し、賛 成者はわずか実作麟祥外1人であって、提案は否決された。 ところが、わずか1年後の明治13年7月発布の治罪法第266条には、 「被告人ハ弁論ノ為 メ弁護人ヲ用フルコトヲ得」と刑事弁護人制度の採用が盛り込まれた。この急変をもたら した理由は何か。それは、磯部は日本人で、治罪法を起草したボアソナードは外国人だっ たからであろう。 以上は、穂積陳重『続法窓夜話』が「刑事弁護制の主唱者」の表題で掲げる著名なエピ ソードである(1)。このように、治罪法の施行まで刑事弁護人制度が採用されなかった哩 由について、通説は、明治9年(1876) 5月25日司法省伺いに「従来刑事上代書人ヲ用ヒザ ルハ、必ズシモ禁令アルニ非ズ、自然ノ習慣二有之候」とあることを根拠として、 「たん なる因習によるもの」とする(2)。 ところで、代言人に資格試験を導入した明治9年2月22日司法省甲第1号布達「代書人規 則」第2条は、その試験内容の1つとして「刑律ノ概略二通スル者」であるかどうかを掲げ (3)、そして実際に同年4月17日に行われた東京府の試験においては、 5間中3間が刑事法関 係である(4)。もしも司法省が、代言人は民事訴訟のみに関与して刑事訴訟には与らない ことを当然と考えていたら、その資格試験に刑事法関係の問題を出す必要はなかろう。代 言人に刑事法関係の知識をも要求しながら、実際の刑事裁判の場から代言人を排除したの はいささか辻榛が合わない。これを「自然ノ習慣」とか「たんなる因習」とかで片付けて いいものだろうか。 私は、この間題については当時の刑事裁判の本質に立ち帰って考究する必要があると考 えている。すなわち、治罪法以前のわが国の刑事裁判は決して公平な裁判官が判定を下す ものではなく、その本質は事実を明らかにすることを任務とする検察であった。そこには 糾問する裁判官-検察官と糾問される被告人がいるだけであり、そもそも弁護人が登場す る余地などまったくなかったのである(5)。 以上のことから、私は、江戸時代の公事宿・郷宿から明治初年の代書人・代書人への転 換過程を考察するに際しては、刑事裁判の視角をも重視する必要があると考える。当該問 題を扱った先行研究のほとんどは、もっぱら民事裁判の局面に表れる訴訟支援者としての 公事宿・郷宿と代書人・代書人の歴史的関係を追究している(6)。そして、それはそれな りに貴重な成果を挙げていることは疑いない。しかし、刑事裁判の局面を無視ないし軽視 131

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したことにより、とくに江戸時代の未決勾留施設としての「宿」の機能が適切に評価され ず、それゆえ明治に至って未決勾留施設の整備とともに「宿」が「人」に転換した過程を 十分に捉えきれずにいるのである。 本研究は、このような基本視角を設定することにより、公事宿・郷宿から代書人・代言 人の転換過程をさらに総合的に描き出そうとするものである。 2 ところで、近時歴史学の分野において、近世国家の支配の特質として、支配層と被 支配層の中間に位置付けられる中間支配機構が存在したことに注目する動向がみられる。 この中間支配機構とは、たとえば郡中惣代名主や惣代庄屋(7)、用闇や用達(8)などである が、それらとともに郷宿もその範噂に含まれるものとして扱われている(9)。これら中間 支配機構は、たとえば幕額代官所の脆弱な支配力を補完するために、蝕の伝達や御用人足 の差配、郡中入用の監査、代官所役人への歎願、代官所役人の応接等を勤めるとともに、 代官所へ用向きのある農民を宿泊させたり、書類作成等の支援をすることもあった。 こうした中間支配機構の実態解明により、公事宿・郷宿を主に民事裁判支援者としての み把握することは不適切であり、民事裁判支援は公事宿・郷宿の果たす広範な諸機能の一 部に過ぎないことが明らかになりつつある。上記した公事宿・郷宿と刑事裁判との関係を 追究すべきであるとする視角は、まさにかかる中間支配機構が果たす機能の一つを解明し ようとするものであり、この点で、歴史学の成果から学ぶべきことが多い。 しかし、こうした中間支配機構に依拠せざるを得なかった近世国家の支配が崩壊して明 治政権が成立した後、中間支配機構が果たしていた諸機能はいったいどうなったのかにつ いては、歴史学の分野では必ずしも十分な検討がなされているとはいいがたい。宿泊施設 としての機能を引き継いで、公事宿・郷宿が一般の旅宿に転化したであろうことは想像に 難くないが、これ以外の機能はどうなったのであろうか。 この答えの一つとして、これまでの法制史は、公事宿・郷宿の訴訟支援機能が代書人・ 代書人に引き継がれたと主張してきたわけだが、そこにも刑事裁判との関係性の無視ない し軽視があったことは既に述べた通りである。本研究は、以上のような歴史学・法制史双 方の問題点をともに意識しつつ、近世から近代への移行を辿ることを試みる。 (1) 穂積陳重『続法窓夜話』 (岩波文庫、 1980年、初版は1936年) 112貢。 (2) 石井良助『明治文化史』 2・法制編(洋々社、 1954年) 231-232頁。 (3) 『法令全書』明治9年、 1355 - 1358頁。以下、 『法令全書』による場合は、証記 を省略する。 (4) 奥平昌洪『日本弁護士史』 (巌南堂書店、 1914年) 183-184頁。念のため、それ を具体的に掲げれば、 「第一条 甲アリ、某省某局ノ文書ヲ偽造シ、之ヲ乙二差入レ テ金ヲ借ラントス、乙其偽造ナルコトヲ知リテ官二告ケス、却テ甲ヨリ金十円ヲ受ケ タリ、甲乙両名ノ刑如何、第二条 甲或夜乙ヲ伴ヒテ街上ヲ散歩ス、丙ナル者乙二怨 アリ、刀ヲ抜テ乙ヲ斬殺ス、甲之ヲ知リテ官二告ケス、甲及ヒ丙ノ刑如何、 (中略) 第五条 懲役終身ノ囚人逃走シ、外二在リテ臓額七十五円二十五銭ノモノヲ窃盗ス、 右改定律例第三百二条二依り絞二処スルハ擬律相当ナルヤ、若シ相当ナラサレハ如何 ナル処断ヲ為スへキ欺」とある。 (5) この理解については、滋賀秀三『清代中国の法と裁判』 (創文社、 1984年)参照。

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-4-(6) たとえば、先駆的な瀧川政次郎『公事師・公事宿の研究』 (赤坂書院、 1984年)か ら始まり、茎田佳寿子「内済と公事宿」 (『日本の社会史』5 ・裁判と規範(岩波書店、 1987 年))を経由して、最近の橋本誠一「郷宿・代人・代言人-日本弁護士史の再検討 (Ⅰ)-」 (『法政研究』 (静岡大学) 8-2, 2003年)などを参照。 (7) 久留島浩『近世幕僚の行政と組合村』 (東京大学出版会、 2002年)、山崎圭「信州 幕領における地域支配と陣屋元村名主・郡中代」 (『史学雑誌』 109-8、 2000年)。 (8) 村田路人『近世広域支配の研究』 (大阪大学出版会、 1995年)。 (9) 岩城卓二「「御用」請負人と近世社会」 (『国立歴史民俗博物館研究報告』 47、 1993 年)、同「近世中後期の村社会と郷宿・用達・下宿」 (薮田貫編『民衆運動史』 3・社 会と秩序、第3章、 2000年)、同「御用宿」 (久留鳥浩編『近世の身分的周縁』 5・支 配を支える人々、 2000年)、山本太郎「倉敷代官所の中間支配機構」 (『倉敷の歴史』 8、 1998年)、同「倉敷代官所の郷宿」 (坂本忠次編『地域史における自治と分権』第2 章、 1999年)など。

第1章 江戸時代の公事宿・郷宿と刑事裁判

本章では、まず江戸時代の公事宿・郷宿が、その機能の一環として刑事裁判にどのよう な形で関与したかについて、 ①江戸、 ②仙台藩、 ②高田藩を素材として検討したい。 ①の 江戸は、これまでの公事宿・郷宿研究の主対象であったことから、本研究でもその果たし た機能について一定の確認をする必要があると考えて取り上げる。これに対し、 ②の仙台 藩と③の高田藩は、これまでの歴史学の対象が主として幕府代官所支配地であったのに対 し、大名領の事例を確認したいと考えて取り上げるものである。その意味では他の大名領 でもよいのであるが、史料の残存状況等の関係で上記2藩を対象とする。 Ⅰ 江戸 1 江戸の公事宿研究はすでに豊富な蓄積を有しているが(1)、ここではそのすべてに 言及することはできない。ここではまず公事宿研究のさきがけともいうべき瀧川政次郎氏 が、次のように述べていることを確認しておこう(2)。 吟味物は、国の治安に関するものであるから、代人は全く許されない。その手続を 進行せしめる者は、悉く役人であるから、民間人の介入する余地はない。これに反し て、出入物は、訴訟当事者の利益に関することであり、訴訟手続は訴訟当事者によっ て進められるものであるから、代人も許される。従って公事師・公事宿の関係したも のは、悉く出入物である。この故に、公事師はまた「出入師」と呼ばれ、公事宿はま た「出入宿」と呼ばれた。坊間の公事師は、後に説くごとく、幕府がその存在を認め ないものであるから、吟味物をも引受け、贈賄その他の非法な手段を用いて、有司の 間に奔走したが、公認の公事師ともいうべき公事宿の主人・下代は、吟味物には手を 出さなかった。かように公事宿の関与した事件が、もっぱら出入物すなわち民事々件 であったことは,公事宿制度を研究する者の第一に心得ていなければならないことで

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-5-ある。 しかし、公事宿の主人・下代は、一面公事訴訟人から筆墨料を受けて訴状その他を 代書する代書屋であったから、彼等は奉行所で吟味を受ける人々の依頼を受けて、所 預となった人々の身柄の請状や、過料銭の納付書、盗難届などを代書することはあっ た。また彼等は本来旅館の主人であるから.町村から牢屋に入れられた人々に差入れ る牢扶持の仕出しをすることもあったと思われる。その意味では、公事宿は吟味物に 関係がなかったとはいえないが、刑事々件の内容にタッチすることはなかったのであ る。 このように、瀧川氏は、 「公事宿制度を研究する者の第一に心得ていなければならない こと」として、公事宿の関与したのは民事事件であって、刑事事件にはごく些細な、周縁 的なことに関係したに過ぎないことを強調する。 しかし,瀧川氏はまた、江戸の公事宿仲間が幕府から課せられていた賦役として、 ①差 紙の送達、 ②宿預となった者の監視、 ③在方預者の賄、 ④奉行所牢屋敷消防加番、を掲げ る(3)。この責務について即座に気付くことは、 ①の差紙送達は民事・刑事両者に関係す るけれども、 ②∼④はいずれも未決勾留関係であるということである。つまり、幕府が公 事宿に期待したのは、何よりも本来奉行所がなすべき未決勾留の代替ないし補助業務だっ たといわねばならない(4)。このことからすれば、公事宿はまさに宿だからこそ未決勾留 施設にも転化利用できたのである(5)。 2 それでは、宿預けはいかなる場合になされ、またそのとき公事宿はどのような責務 を負わされたのであろうか。平松義郎氏によれば、幕府は未決勾留について牢屋に勾留す ることはできるだけ制限し、牢屋以外での勾留を希望した(6)。この牢屋以外の勾留施設 の一つとして公事宿があり、在方から出てきて公事宿に止宿している場合は、その公事宿 に宿預けとなったのである(7)。従って、さほどの重罪でない場合、この公事宿での未決 勾留が多く利用されたと思われ、幕府としてはこの局面の公事宿の機能に当然重大な関心 を払わざるを得なかった。 また、民事裁判のために公事宿に逗留中の者についても、一定の不始末があったときに は同じく宿預けになったことにも注意すべきである。すなわち、たとえば訴訟を促進する ため軽い直訴をしたとか、差紙が来ても何度も出頭しなかったとかの場合は、宿預けに処 されることもあった(8)。駕龍訴や駈込訴といった軽い直訴は、不法な行為ではあるけれ ども、訴訟を有利に遂行するため公事宿が訴訟当事者に教唆してしばしば行わせたらしい から、これまたこの種の宿預けも公事宿が引き受けて当然のものであった(9)。一 以上のごとく、江戸の公事宿は、たしかに民事裁判支援者としての要素が強かったが・ 刑事裁判とはまったく無関係というわけではなかったことを確認しておきたい(10)。 (1) 「はじめに」証(6)所掲の諸研究のほか、南和男「江戸の公事宿」 (上) ・ (下) (『園 畢院雑誌』 68_1、 2、 1967年)、服藤弘司「近世民事裁判と「公事師」」 (大竹秀男・ 服藤弘司編『高柳真三先生頒寿記念・幕藩国家の法と支配』 (有斐閣、 1984年))、茎 田佳寿子「公事宿から代書人へ」 (『日本歴史』 491、 1989年)なども参照。 (2) 瀧川・前掲書、 108-109貢。 (3) 同上、 149-150頁。

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-6-(4) 南・前掲論文、 1、 75 - 79頁は、公事宿の機能として、 ①差紙の送達、 ②目安な どの作成と差添、 (卦預者、 ④出火駈付、 (9尋者穿塾、を掲げる。これらの機能のうち ②は幕府によって課された責務でなく、公事宿利用者の便宜を自主的に図ったものに すぎない-しかし実際にはこの機能が近代に入る際に唯一残存する-。従って⑤ の機能も含めて、幕府が期待したものはすべて刑事関係であるといってよい。もっと も、 ⑤の警察的機能はとりたてて公事宿のみに期待されたことではなく.旅宿や古物 商、さらには一般の百姓・町人の責務でもあったといえるから、やはり重視すべきは ③及び④の未決勾留関係となろう。 (5) 公事宿の宿としての機能を重視すべきことを指摘したのは、保谷七緒美「江戸の宿 仲間の基礎的研究-旅人の止宿をめぐる諸問題の分析から-」 (『論集きんせい』 13、 1991年)である。そこでは、江戸宿の御用として、 (D差紙の送達と呼び出され た旅人の止宿、 ②公用旅人の逗留中の処遇、 ③差添、が掲げられる(5 - 8頁)。そ れらは旅人の監視という意味合いが濃いとされ、その一環として「預け者」にもごく 簡単に触れるが(12頁),未決勾留がさほど重視されているわけでない。 (6) 平松義郎『近世刑事訴訟法の研究』 (創文社、 1960年) 752頁。 (7) 同上、 134頁は、公事宿が道中奉行に提出した次のような宿預けの請証文を紹介し ている。 御請証文之事 御名飯分 東海道桑名宿 旅絶屋 庄   助 (中略) 右之者共、御吟味中辛鎖又は宿御預ケ被仰付、奉畏、急度為相慎置候、若取逃候 ハヽ 、御替可被仰付候、仇而御帝証文差上申候処如件、 天保六未年四月廿二日 御奉行所様 右宿 問屋   与 六 郎印 年寄   喜   作印 源 十 郎印 江戸宿 神田松永町紀伊国屋 利   八印 (8) 小早川欣吾『近世民事訴訟制度の研究』 (有斐閣、 1957年) 38頁、 166頁参照。 (9) 証(7)に登場する紀伊国屋利八の手によって編述されたと推定される「江戸宿公用 留」を紹介した服藤弘司氏は,その解題において、公事宿が頻繁に発生する手鎖預け 者の出奔による処罰を避けるために、いかに巧妙な措置をとったたかを指摘している (『刑事法と民事法』 (幕藩体制国家の法と権力4、創文社、 1983年) 714-715頁)。 公事宿にとって、宿預けを無難に務めることがきわめて重要な義務であったことがよ く示されている。 (10)なお、嘉永2年に荻野山中藩(大久保家)領御宿村で発生した無宿殺人事件を内々

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-7-に済まそうとしたため、幕府勘定奉行の取り調べを受け、その間江戸の公事宿に滞在 した村役人等の動向を追った高橋敏『江戸の訴訟-御宿村一件顛末-』 (岩波書 店、 1996年)等も参照。 Ⅱ 仙台薄 1次に仙台藩(伊達家)の事例を検討しよう。仙台藩には、公事宿ないし郷宿に対応 する宿として、御用宿、郡宿ないし町宿と称されるものが仙台城下にあった。これらの呼 称は以下に述べるように決して別個のものを指すのではなく、たとえば城下の者が呼ぶ場 合には都万の者が宿泊するから郡宿、在方の者が呼ぶ場合には町にあるので町宿、などと 呼んだようで、同じものを指したようである。ここでは、後掲【史料1】に従い「御用宿」 と称することとする。この仙台藩の御用宿については,江戸の公事宿研究とは違い、これ までほとんどその紹介ないし研究がなされていないと思われるので、まずはその概要を探 ることから始めたい。 慶長6年(1601)に仙台城の築城が始まった当時、仙台城下に当たる地域はいまだ荒野 の状態だったらしく、仙台城下はまったく新たに建設されたといってよいといわれる(1)。 基本計画に沿って建設された城下には人口の集中も進み、また他地域からの来訪客も多く なったであろう。早くも同15年(1610)に仙台藩奉行が二日町検断に対し旅龍をおくこ とを命じている(2)。元禄期には二日町に隣接する国分町に旅龍屋が集中するようになっ たようである(3)。 ところで、仙台藩の裁判機関と呼べるものは、慶長17年(1612) 12月5日付けの伊達 政宗の文書にみえる「寄合所」である(4)。この寄合所の実態については不明な部分が多 いが、元和7年(1621) 5月1日付けの史料によると、そこには「御百姓」も提訴でき、 裁判官は3名の奉行で構成されたことが知られる(5)。こうした「御百姓」が仙台城下の どこに宿泊したのかを教えてくれる史料はないが、上記の旅龍などがその候補の1つにな ることは間違いあるまい。 この寄合所がいつまで存続したかは分からないが、寛永13年(1636)には「裁許所」が 設置されていて、これが寄合所の後身と考えられる(6)。この裁許所は寛文・延宝期に「評 定所」と改称され、以後仙台城下の中心的裁判機関として機能していく(7)0 仙台藩の主な裁判機関としては、この評定所以外に、城下の軽微な民刑事事件を扱う町 奉行と、在方のそれを担当する郡奉行があるが、中心はあくまでも評定所であり、評定所 に係属する事件の当事者及び関係者は、城下まで出てくる必要があった。このような当事 者等の宿泊施設としての宿について、前期についてはまったく依るべき史料が見当たらな いが、早い事例として次の史料を掲げ得る(8)。 【史料1】 宮城国分二御近在故国分町御用宿卜申ハ無之候処、不自由二付大肝入共吟味ヲ以国分 町最上屋孫左衛門相立候、同人代り田子屋善兵衛、此合力金八切宛両部割合二而相出 候、宝暦元年二御代官様へ相達御下知申受候、 これによれば、宮城郡及び宮城郡国分郷は仙台城下に近いので、 「国分町御用宿」をも っていなかったが、やはりそれでは不便なので、国分町の最上屋孫左衛門を「御用宿」と し、その代りには田子屋善兵衛を立てた。その報酬は金8切ずつで、両郡が分担すること

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-8-にするというものである。このことが宝暦元年(1751)に決まったのである。 この史料から、およそ以下のようなことが知られる。第1に、 「御用宿」は基本的に郡 ないし代官区等の一定の地域的まとまりを単位として設定されたこと、第2に、仙台城下 から遠い諸郡・代官区はすでに宝暦元年以前から国分町に「御用宿」をもっていたこと、 第3に、 「御用宿」は原則として1軒指定されるものの、その予備としてもう1軒指定さ れることがあったこと、第4に、宝暦元年当時の合力-報酬はおそらく1年に8切-2両 が相場であったろうこと、第5に、 「御用宿」の設置は在方が勝手にできるものではなく、 代官の指示のもとに行われたこと、等である。 もっとも、このうちの第1については、各部・代官区等ごとに別個の「御用宿」をもっ ていたというのではなく、複数の郡・代官区等が同一の「御用宿」を共有することもあっ たらしい。次の天保7年(1836) 3月15日付けの史料がそれを示す(9)。 【史料2】 国分町名取屋幸八億、伊具・志田・遠田・-弐三迫・流・西岩井・上下伊沢・江刺・ 気仙・本吉北方・東山・登米・佐沼登米七ケ村御郡宿井御人足宿申渡候様、桑四郎兵 衛殿被仲間、今十五日申渡、右之趣相達候上此段御通達致候、以上、 ここでは、国分町の名取屋幸八が、仙台領南部の伊具郡とともに北部の江刺郡や伊沢郡 上・下伊沢など多数の諸郡・代官区等の「御用宿」を引き受けていたことが示されている。 また、第4の合力であるが、これはおそらく諸般の世話をすることの引き受け料のごと き性格のもので、実際の宿泊に際しての宿賃や賄い料は別途支払われたものと思われる。 なお、 【史料2】中に、名取屋幸八が「御用宿」と「御人足宿」とを兼ねていることが 示されているが、 「御人足宿」とは在方から徴発される人足を纏めるとともに、人足小屋 に送り込むための準備などもさせることを用務としたらしい。寛延2年(1749)正月に「御 人足定宿」に指定された者8名が4名の「御都万御用足」と連名で提出した帯状にその用務 は詳しいが(10)、この「御人足定宿」は「拙者八人江御部分ヲ以」て命じられたらしい。 この「御部分」が文字通り郡単位でのものか、それとも「御用宿」と同様代官区等の地域 的まとまりを単位としたものか不明だが、いずれにしてもこの連名者は全員国分町の者で あり、 「御用宿」 「御人足定宿」 「御郡方御用足」などと呼ばれる町人が密接に関連しつつ、 城下に出てくる在方の者の世話をしていたのであろう。 ちなみに、この「御人足定宿」請状によれば、人足の賄い代は、 1泊白米7合、木賃35 文で、 1汁1菜を提供することになっている。御用宿においてもはぼ同様であったろうか。 2 それでは、仙台城下の御用宿はいかなる機能を果たしたのであろうか。関係史料は ごくわずかだが、目についたものを列挙してみよう。 ① 開所脇差・兵具類を評定所へ納付する際の取り次ぎ 寛政10年(1798) 3月25日付けの郡奉行より代官への指令中に、 「欠所脇差・兵具之 類評定所へ相納候様、天明年中壱統申渡置相見得候段申候二付、町宿へ為相登、我等共よ り添書を以同所へ為指出候処」、評定所へ納めるのは「品在之」ものだけでよいとの指示 が町奉行等よりあった、とある(ll)。この例からすると、欠所となった武器類のみならず、 たとえば犯罪に使用された凶器などについても、代官から一旦町宿に送られ、町宿から郡 奉行へ渡されて評定所へ納められる、というルートが想定される。 ② 在方の被疑者を城下の牢に収容する際の諸首尾

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-9-年末詳ながら①と同様寛政10年前後と推定される、牢への収容手続を示す記事(12)にお いて、町宿が重要な役割を演じたことが知られる。若干長文だが、興味深い内容をもつの で引用しよう。 【史料3】 i まず次のような事前通知(「前達」)が代官より発せられる。 加美郡中新田南町百姓庄右衛門義、同町百姓市郎右衛門子市太郎二過ル十九日庇為負 候段申出候二付、相礼候上、庄右衛門義囚人こて明廿三日此方出立、廿四日仙着御牢 入二為相登申候条、町宿之申出次第右之御首尾被成下度候、熊谷勘左衛門在仙中に付、 拙者儀首尾仕候間、前以如此相達候、以上、 三月廿二日       菊 地 千 歳 この文書には宛名がないが、 iiの記事より御都万高分役御愈儀方に宛てられたものであ り、これを届けるのは町宿の役目であった。 ii iの文書とともに、次の文書が町宿宛てに出される。 加美郡中新田南町百姓庄右衛門義、明廿三日此方出立、廿四日仙着御牢人為相登候条、 其心得兼て之通首尾可有之候、勿論別封御郡方高分役御余儀方へ夜中無嫌可差出候、 以上、 三月廿二日 菊 地  千 蔵 国分町 菊 池 与四郎殿 この文書には、 「右ハ町宿へ遭状如斯之振合也」との証記があるので、菊池与四郎が国 分町の町宿であることは疑いない。与四郎は, iの文書を受け取るやいなや、たとえ夜中 でも御郡方高分役御愈億万へ届けなければならなかった。 iii 以上の町宿への連絡とともに、次の被疑者送達の正式文書(「囚人為相登候紙面」) が作成される。 加美郡中新田南町 百姓

庄右衛門

右之者囚人道中附人こて御牢人為相登候条、右之御首尾被成下度候、以上, 三月廿二日       菊 地 千 歳 この文書も町宿を経由して御都万高分役御愈儀方へ届けられるものである。 iv 出の文書とともに、次の文書が町宿宛てに出される。 加美郡中新田南町 百姓

庄右衛門

右之者囚人道中附人こて為相登候条、仙着次第御牢入首尾可被申、尤、此別封御郡方 高分役御愈儀処え可差出候、以上、 三月廿三日 国分町 菊 池 与四郎殿 Ⅴ このほか、道中宿々宛てに「宿継判紙」が出される。

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-10-急御用状井囚人壱人道中附人こて加美郡中新田町より吉岡町通泊り所こて不寝番相 附、明廿四日仙着こて可相届候,以上、 何ノ 三月廿三日 右 宿 々 以上が在方の被疑者を城下の牢に収容する際の手続である。この一連の手続において町 宿がきわめて重要な役割を演じていることが明らかであろう。このように、在方の者を牢 に収容する場合には、耶奉行への連絡とともに、 「右之品々町宿江も前広申達置」くこと が要請されたのである(13)。 ③ 刑期の満了した奴を在方親類へ引き渡す際の首尾 仙台藩では、犯罪者を家臣や検断・肝入等に預けて使役させる奴刑が存在した。この奴 刑に関する宝暦2年(1752)の史料中に、次のごとき記事がみえる(14)。 【史料4】 右奴年限満返納し候ハヽ 、奴評定所へ召出、本所之御郡町宿之者評定所へ呼出相渡、 奴誰年限満被相渡、受取申候、拙者義右御郡町宿二付如此二御座候趣、奴帳へ為記、 印形為致、其旨井本所へ差下、於御村右奴親類二御代官引渡候様こと御郡奉行へ可申 達事、 これによれば、奴には親類が保証人として設定されたらしいが、もともとは奴の刑期満 了に際して、この保証人が仙台まで引き取りに来ていたらしい。しかし、わざわざ農民を 仙台まで来させるのは酷と考えたのであろうか、親類が在郷住居のときは、町宿の手でそ の村まで連れて行かせて代官に引き渡し、それから親類に渡すという手続を取ることに変 更されたのである。 ④ 幕府代官派遣飛脚の賄い 嘉永2年(1糾9)の事例として、幕府領の者が仙台薄儀で横死した件につき、幕府代官 から検使役人を派遣するので立会人を出してくれるようにとの依頼状が届けられたため、 同種の事件の先例が調査されて、そのような依頼状を持参した飛脚については「町宿逗留 中御賄被立下」ることになっているとされた(15)。 ⑤ 苗字帯刀免許の百姓ないし家中を牢に収容する際の大小の首尾 年不詳ながら、苗字帯刀を許されていた百姓が牢に収容される際、その大小の取り扱い について、 「右貞吉牢入二為相登候節、大小茂一同為相登、町宿江為預置候様首尾可在之 候」と郡奉行より代官に指示が出されてる(16)。同様のことは陪臣である家中についても 「右大小町宿江預り候様こも可取計」きこととなっている(17)。これらの事例は、 iiで紹 介した被疑者の牢収容手続において果たした町宿の役割から考えれば、十分理解可能であ ろう。 ⑥ これはいささか特殊な例に属するが,天保12年(1841)の庄内藩主酒井家の越後 長岡への転封阻止を実現するため、岡津領民300余名が仙台藩へ愁訴入国した際、代表5 名が「国分町御郡宿菊池平三郎」方に収容されている(18)。彼らは玉造郡鳴子村尿前から 越境しようとしたので、菊池平三郎は玉造郡を受け持った御用宿であろうか。人望ある領 主の転封阻止のためという酌むべき事情があるとはいえ、それ自体は他領民の越境という 犯罪であるゆえ、ここにおいても御用宿の刑事法上の役割をみてとってよい。

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-ll-3 以上、仙台藩御用宿について触れている事例を掲げた。わずか6点のみなので、こ こから全体像を構成することは不適切であろう。しかし、そのすべてが刑事法上の事例で あることは決して無視できない。いうまでもなく仙台藩評定所には民事裁判も係属した (19)。こうした民事裁判のために在方から出てきた農民が宿泊するのはやはり各郡を担当 する御用宿であったろうから、そこで訴状の作成その他の援助もなされたことが十分予想 される(20)。それにもかかわらず、現存御用宿史料として目につく限りは刑事法に関係す るものであることは、やはり藩政にとって重視されたのは御用宿の刑事法上に果たす役割 であったことを推測せしめるのではなかろうか。 (1) 『仙台市史』通史編3・近世1 (仙台市、 2001年) 91頁。 (2) 同上、 102貢、深井甚三『江戸の宿-三都・街道宿泊事情-』 (平凡社、 2000 年)31貢。 (3) 深井・前掲書、 31頁。 (4) 「貞山公治家記録」巻之22、同日条(『仙台藩史料大成 伊達治家記録』 2 (宝文 堂. 1973年) 567頁。以下、 「治家記録」の引用は. 2-567頁のごとく同刊本の巻数 と  真数のみを掲げる)。 (5) 『仙台市史』通史編3 ・近世1、 219-220頁。 (6) 「義山公治家記録」巻之1、同年9月20日条(4-392頁)、 『仙台市史』通史編3・ 近世1、 220-221頁。 (7) 『仙台市史』通史編3 ・近世1、 221-222頁。 (8) 「塩釜町方留書」 253号(原田伴彦編集代表『日本都市生活史料集成』 9 ・門前町 篇(学習研究社、 1977年) 729頁)。 (9) 『(前)仙台市史』 9・資料篇2 (仙台市、 1953年) 661号(273頁)。 (10) 「万御定格留」 1、 36号(藩法史料叢書刊行会編『薄法史料叢書』 3・仙台藩(上) (創文社、 2002年) 544-547頁)。ただし、同史料では、本文で8名の者が「御人 足定宿」に指定されたと述べるにもかかわらず、連名者は7名である。 『(前)仙台 市史』 1 (仙台市, 1954年) 376頁によれば、ここには「阿部屋多利之助屋守伝之丞」 の脱落がある。 (ll)東北大学附属図書館歳「旧仙台藩古記」 6、 6号「欠所脇差・兵異類、晶在之分評 定所へ相納、無品分雑売払二相立、金代を以相納候様被仰渡候事」。 (12) 「不時急見聞録」 (高倉浮氏編「NHK文化センター泉教室古文書入門テキスト」)。 本文にみられる代官・熊谷勘左衛門は①の記事中にもみられる(引用は省略した)の で、寛政10年前後の記事と推定した。 (13) 「続郡例鑑」巻之1、 138号「大肝入牢人為登者首尾合之事」 (『薄法史料叢書』 3、 765 頁)。 (14)東北大学大学院法学研究科法政資料調査室蔵「評定所格式」 3、 「三奴之部」 75号 「御郡之者請合親類在郷二候ハ→ 、不召登可首尾事」、前掲「万御定格留」 2、 80号 「奴二被行候者親類受合相立、年限満除首尾合等之事」 (『藩法史料叢書』 3、 601頁)。 (15) 「続郡例鑑」巻之1、 75号「伊達耶梁川村百姓伝次郎亘理郡坂本村二両横死、為検 使之梁川御代官御手代桂信一郎出役、取都一件之事」 (『藩法史料叢書』 3、 726頁)。

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-12-(16)同上、 77号「下伊沢中畑村百姓荒所起返方制道役菅原貞吉儀、西岩井大肝入手前 礼之上牢入二為相登候節、大小も一同為相登、町宿江為預置可申由之事」 (同上、 731 頁)。 (17)同上、 117号「牢入首尾合之事」 (同上、 753貢)。 (18) 「仙台藩え庄内領民愁訴録」 (小野武夫『日本農民史料衆粋』 2 (巌松堂書店、 1941 年) 527頁、 539頁、 543頁)。 (19)その一端としての借金銀裁判法については、拙稿「貞享二年および元禄一五年の幕 府相対済令と仙台薄金銀出入取捌仕法」 (『岩手史学研究』 69、 1985年)以下の私の 研究を参照。 (20)ちなみに、幕末の山形藩(水野寂)城下旅能町の旅龍・後藤又兵衛家の「諸事帳」 (『山形市史編集資料』 34 (山形市、 1974年))は、同家が、菜種取引内済、金銭貸 借訴訟その他の民事裁判に深く関与していたことを示している。仙台城下の御用宿も 同様の民事事件を扱ったことは疑いない。 Ⅱ 高田薄 1 高田薄(榊原家)については、幸いにも中村幸一氏により「万年覚」 「記録便覧」 「高田領高帳」 「越後国質地騒動記」を翻刻収録した『高田薄利史研究 資料編』が刊行 されており(1)、この中に豊富な郷宿関係記事がみられるので、主としてこの史料により ながら同藩郷宿の様子を探っていきたい。 まず、同藩の郷宿と村方との関係及び郷宿軒数について、 「記録便覧」寛政10年(1798) 2 月11日条の「町方二両郷宿仕候者共名前書上候様被仰付認上ル」 (2)によれば、 「田中組 郷宿 開町江波や吉右衛門」以下15名の郷宿が書き上げられている。行政区画である組1 つに1軒の郷宿が対応しているケースが11軒あるはか、 「田中組ノ内中山通り 呉服町三 国屋八郎右衛門」と組の一部のみを担当しているケースが1軒、また「五日市組・黒岩組 上小町塩野や紋右衛門」のごとく2ないし3組を受け持っているケースが3軒ある(3)。 こうした郷宿と村方との関係は、両者のみで勝手に変更し得たわけでなく、必ず藩の指 示のもとに行われるものだった。 「万年覚」文化2年(1805) 11月の記事によれば、呉服 町三国屋八郎右衛門が郷宿差し止めの処分を受けた際、田中組閑山村以下7ケ村の庄屋及 び大肝煎が連名で、 「然ル上ハ、私共ハ不及中上、村内之もの迄休泊為致中間敷候」とい う内容の「御請一札」を奉行所宛てに提出している(4)。そして、同3年10月に同人の処 分が解除されたときにも、奉行所が田中組大肝煎を呼び出してその旨を伝えるとともに、 「右之趣中山通之者共勝手次第以前之通り三国屋へ罷越候様可申渡候事」と命じている 也)。 このように、郷宿は藩の強い規制のもとで活動を行っていたのであるが、その軒数につ いては、文政10年(1827) 10月5日付けの郷宿連名で奉行所宛てに提出した請書(6)では14 軒と寛政期より1軒減少しているが、天保3年(1832) 2月に奉行所に提出された賄い代 値上げ願いには18軒が(7)、翌4年10月の同旨の願いでは19軒が(8)、それぞれ連名して おり、若干の増がみられる。なお、後者の歎願には「仲間一同連印」とあり、彼らが仲間 を結成していたことが知られ、またこれに応じて惣代もおかれたようである(9)。 -13一

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2 それでは、この郷宿にはいかなる役割が期待されたのであろうか。文政10年10月4 日に領奉行より郷宿中に宛てて出された「覚」 (10)では、 ①訴状裏書や差紙で呼び出した 者が郷宿へ着いたら早速着届をすること、 ②郷宿へ呼び出した者をみだりに帰村・他出さ せないこと, ③両当事者の熟談引合をする場合はできるだけ早く済ませて、長引かさない こと、 ④一件が片づいて帰村するときに飯料の勘定をさせること、 ⑤飯料のほかにみだり に余計の金銭を取らないこと、が命じられている。 ここで想定されている宿泊者は,明らかに民事裁判ないし行政上の用務で逗留している 者であり、高田藩郷宿の機能としてはさはど刑事法との関わりがないようにもみえる。し かし、 「万年覚」には、たとえば宝暦元年(1751) 3月17日の記事として「田中八兵衛殿 御預り所、上雲寺三郎右衛門と申者御吟味之筋二而、手鏡、郷宿預被仰付置候処・昨十六 日夜逃去候二付」とあり(ll)、また同2年8月28日にも「松之山組松代村番大半四郎抱半 助と申番太吟味之筋有之、手鎖、郷宿預二申付置候処、今廿八日明方手鎖之億こて逃去候 由」とあるごとく(12)、郷宿が未決勾留施設として利用されていたことは明らかである。 従って、高田藩の郷宿も、治安維持ないし刑事裁判という御用を補完するものとしての機 能を期待されていたことは確認できるであろう。 (1) 全5巻、風間書房、 1967-1970年。以下、本書の引用に際しては、 『高田藩』と 略 記の上、巻数と真数のみを掲げる。 (2) 『高田薄』 5-377頁。 (3) ちなみに、同じ越後国の新発田藩(溝口家)城下の郷宿も、すでに享保11年には 基本的に組に対応した形で存在していたようで、組宿とも称されたらしい(『新発田 市史』上(新発田市、 1980年) 571貢)。 (4) 『高田藩』 3-102頁。 (5) 『高田藩』 3-133貢。 (6) 『高田藩』 3-744 - 746貢。 (7) 『高田藩』 3-973 - 974貢。 (8) .『高田藩』 3_1000 - 1002頁。この点については、八鍬友広「訴願する実力」 (岩 田浩太郎編『民衆運動史・近世から近代へ』 2・社会意識と世界像(青木書店、 2000 年)) 210頁も参照。 (9) 『高田藩』 3_389-391所掲文政2年10月「以書付奉願上候」、 4-117-118頁所 掲天保13年6月「乍恐横折書を以奉中上候」参照。 (10) 『高田藩』 3-746-747頁。この「覚」に対して出された請書が証(6)である。 (ll) 『高田藩』 1-248貢。 (12) 『高田藩』 1-290貢。

第2章 明治初年の代書人・代言人と刑事裁判

第1章では、江戸時代の公事宿・郷宿が、とくに未決勾留のための施設としてきわめて

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-14-重要な機能を果たしたことを、江戸・仙台・高田の事例に則して具体的にみてきた。それ では、かかる機能は明治期に至っていかなる変容を遂げたのであろうか。 Ⅰ宿預けの消滅 1 この間題については、明治5年「司法職務定制」制定以前の公事宿・郷宿の実態を 確認する必要があるが、それを教えてくれる史料はほとんどないのが実情である。民事裁 判に関するそれについては、わずかにi茎田佳寿子「公事宿から代言人へ」が、明治2-3 年に生じた下野国那須郡烏山藩領の畑方永納願一件における百姓方の支援者である公事宿 池田屋の活動を紹介していること(1)、 ii本研究報告書第2部で紹介する明治3 - 4年の ある民事訴訟の記録である「武蔵国秩父郡坂石村出入一件控」において、訴訟当事者の1 人である多三郎が公事宿大坂屋長右衛門方その他を何日ほど利用したかを知ることができ るとともに、訴訟人の支援者に関して「一体代三郎と申者は、俗二中上候得は出入しと申 者二相唱、越後屋方へ相抱被置候由」なる一文がみられることより(2)、当時においても 「出入師」が一定の活動をしていたことを窺えること、及びhi増田修「明治初年のある公 事師の貸金取立旅日記-上原和兵衛『陸奥紀行』 (明治四年十月十四日∼明治五年五月 九日)の紹介-」が、東京の公事師の青森県七戸における動きを追うことによって当読 期の貸金取立の実態を紹介していること(3)、といった程度である。 こうしたごくわずかな素材をもとに推測する限り、 「司法職務定制」制定以前の公事宿 ・郷宿の民事裁判に関する機能は、江戸時代のそれとほとんど変化がなかったといえるよ うに思われる。 それでは、公事宿・郷宿の刑事法上の動きはどうであろうか。これまた史料が極端に制 約されるのだが、幸いにも京都の事例が大平祐一「明治初期京都の目安箱訴状- 『函訴 検閲録』-」のなかに若干表れる。すなわち、まず第1に、明治3年6月13日条に「何 右衛門儀、当四月中於京府脊メ被申付、公事宿預二相成居、妻子共難渋二付、歎願之事」 という訴状が目安箱に投ぜられたことより(4)、 -このケースの場合、それが既決か未 決かは必ずしも明瞭でないが-宿預けの存在が知られる。第2に、同年10月3日条に 掲げられる「菟罪ヲ蒙り,養家不縁二相成、且村内住居難相成旨、.村役人共ヨリ被申渡、 難渋二付、御取調之上、正邪御裁判有之度、歎願之事、但、笠松県へ願出候得共、取揚無 之事」という訴状の主は、 「旅宿下珠数屋町間ノ町東入加賀屋清兵衛」に逗留している濃 州海西部野寺村の者であった(5)。なお、これはむしろ民事裁判に属すが、第3に,同日 条の「村内高持並村役人共申合、田地面及ヒ租税ノ儀二付、従来不正ノ件々、御取乱有之 度再歎願ノ事」との訴状を出した濃州中島郡長開村の小前総代4名は、 「旅宿七粂西境町 山田屋長八方」に宿泊していた(6)。 こうした宿預けの存在や菟罪の訴えの取り次ぎなどの事例を踏まえると、刑事法上の公 事宿・郷宿の機能も、やはり江戸時代のそれをそのまま受け継いでいたと考えてよかろう。 2 このような状況のなかで、明治政府は明治5年(1872) 8月3日に太政官無号達「司 法職務定制」を発した。司法卿江藤新平のもとフランス法に倣って近代的司法制度を導入 しようとの意欲に満ちたこの法については、司法権の一元化、検事や代書人・代言人の設 置その他多くの側面から言及がなされており、ここに賛言する必要はない。 しかし、ぜひとも注目しておかねばならないのは、これまでの研究では比較的触れられ

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-15-ることの少ない、同法の最終章である「第廿二章 裁判所内監倉規則」である。本章は第95 条から第108条までの14ヵ条で構成されているが、第95条には次のようにある。 【史料5】 犯人ヲ捕縛シ至り、其罪状疑アリテ未夕其証ヲ得サル者井二不時礼間スへキ者ハ、之 ヲ監倉二留ム、礼間シテ実ヲ得レハ、重軽二随ヒ、或ハ之ヲ囚獄二送り、或ハ之ヲ管 轄官吏・村町役人若クハ親類等二俣責シテ管照セシメ、其無罪ナルハ放遅ス、 すなわち、未決勾留は裁判所内に設置される監倉において行うことがここに方針として 打ち出され、それ以外の場所、たとえば公事宿に預けるといったことが少なくとも積極的 には認められなくなった。さらに、この直後の同年11月29日、ヨーロッパの監獄をモデ ルとした「監獄則」が達せられ、未決はこの監獄の一画に勾留することが予定されるに至 った。 もっとも、こうした獄制の近代化への動きは、必然的にこれまでのような公事宿・郷宿 での未決勾留を否定するものであったが,周知のごとく、 「司法職務定制」が目論んだ各 府県の裁判所設置は容易に進展せず、また「監獄則」の目指す近代的監獄も財政難を理由 とする大蔵省の反対にあって実現困難であった。このため、現実には従来のごとく公事宿 ・郷宿での未決勾留も存続したと思われる。実際、明治9年3月12日の内務省達乙第26 号は、 「罪犯糾間中及囚徒ノ内微罪ノ者ニシテ或ハ老幼廃疾ノ類、都テ各庁ノ都合二依り 用宿其他親類隣保二責付スル者賄料」を、 1人1泊2賄金9銭、昼1賄3銭5厘とするこ とを命じており(7)、軽罪で老人等の場合の未決勾留が「用宿」でなされたことのあるこ とが明らかである。 しかし、監獄の整備が次第に進むにつれ、公事宿・郷宿での未決勾留はおのずと姿を消 していったに違いなく、この点において中間支配機構たる「御用宿」としての性格は薄れ ざるを得なかった。そして、これによって相対的に表に出てきたのは、民事裁判当事者の 支援をするという商人としての側面であった(8)。ここに、代書人・代言人が身分的に低 いものとみなされた根拠の1つがある。 もちろん、代書人の中には近代法の素養を身につけた者もいたことは早くから指摘され ており(9)、またそのような者の数は次第に増していったであろうが、民事訴訟の当事者 を支援する者としては、やはり公事宿・郷宿の系譜を引く者が主流であった(10)。明治9 年「代言人規則」において資格試験が導入されたのは、まさにこのような、もはや「御用 宿」としての性格を喪失し、一介の商人に過ぎなくなった公事宿・郷宿を、司法の場から 排除せんがためであった。 3 以上のことの中に、なぜ代言人資格試験に刑事法の問題が出題されたのかの解答が おのずから示されていよう。すなわち、公事宿・郷宿の系譜を引く代言人は、すでに「御 用」、なかでも宿預けに携わらなくなり、その限りで次第に刑事法上の知識は必要なくな ってきていた。かれらに要求されたのは民事訴訟当事者への支援に限定されていった。従 って、彼らを司法の場から排除するには、刑事法の知識を要求することがもっとも適切だ ったのである。民事法の問題だけでは、あるいは試験に合格する可能性もあるが、刑事法 の問題にはおそらく太刀打ちできなかろうという思惑が、代言人資格試験導入の背後にあ ったことは十分推測し得るのである。

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-16-(1) 『日本歴史』 491、 1989年。 (2) 第2部史料【18】参照。 (3) 『修道法学』 26-2、 2004年。 (4) 『立命館法学』 279、 2002年、 154- 155貢。 (5) 『同上』 284、 2002年、 40貢。なお、同人は同月8日にも再度訴状を出している(41 貢)。 (6) 同上、41貢。 (7) 内閣記録局編『法規分類大全』 57・治罪門(2)(1891年、覆刻版、原書房、 1980年) 325 - 326頁。 (8) 中間支配機構としての郷宿が自分たちを武士に近い存在と位置付けようとしていた ことについては、岩城卓二・前掲「「御用」請負人と近世社会」 58貢以下を参照。 (9) 手塚豊「日本最初の弁護士-児玉淳一郎と中定勝- 」 (『法学セミナー』 20、 1957年)、村上一博「近代的代書人の登場一児玉浮一郎と中定勝-」 (『法律論叢』 70-2 ・ 3、 1997年)。 (10)拙稿「明治初年のある代書・代言人の日誌- 『出堺日誌・第三号』の紹介-」 (服藤弘司先生傘寿記念論文集刊行全編『日本法制史論纂一紛争処理と統治システ ム-』 (創文社、 2000年)) 421頁以下の「解題」参照。 Ⅱ 刑事弁護制の採用 1 もっとも、このような解答が正解とされるためには、もう1つ解決しておかなけれ ばならない問題がある。それは、 「はじめに」で提起した問題、すなわち、代言人が刑事 裁判に関与しなかったのは禁令があったわけでなく、単なる因習であった、との通説が正 しいかという問題である。 たしかに、江戸時代においては公事師・公事宿が、差添え人ないし代人として民事裁判 の法廷に臨む事例がみられ(1)、また明治政府も明治2年(1869)に一旦は公事宿の民事裁 判の法廷への出席を禁じたものの、それへの批判もあったらしく(2)、この限りでは民事 裁判への公事師・公事宿の関与は習慣としてそれなりにあったといってよい。 しかし、このことから逆に刑事裁判への彼らの不関与も因習だったと断じてよいかは別 である。たとえ因習だったとしても、いかなる理由でそのような因習ができあがったのか が問われなければならない。そして、私は、すでに「はじめに」においてこの解答を示し ておいた。繰り返せば、そもそも明治初年の時期までのわが国の刑事裁判は、決して近代 的な刑事裁判ではなく、そこには糾問官たる裁判官と糾問される被告人がいるだけであっ て、それはまさに「御用」としての性格をもっていた。このような「御用」の場に、被告 人の弁護が認められる筈はまったくなかったのである。 このように考えると、明治12年の時点で司法省修補課において磯部四郎が刑事弁護人 制の採用を提起したにもかかわらず、賛成者は実作麟祥ほか1人で、残る8名は反対した ということについても、当時の刑事裁判の本質を理解していたのはむしろ反対した8名の 方であって、磯部や実作こそ古い革袋に新しい酒を無理に入れようとしたというべきであ ろう。 以上の理解に立てば、穂積陳重が翌明治13年に制定された治罪法において何らの異論

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-17-なく刑事弁護制が採用された理由を日本人の外国人崇拝に求めたのも、まったく皮相的と いわざるを得ず、治罪法が近代的刑事裁判手続法であるからこそ、刑事弁護制を矛盾なく 導入し得たのである。 2 治罪法施行以前の代言人は刑事裁判に関与できなかったにもかかわらず、代書人資 格試験になぜ刑事法の問題も出題されたのか,この素朴な疑問から出発した本研究も、前 節で一応の解答を見出した。そこには、治罪法施行以前の刑事裁判と治罪法の定める刑事 裁判との間の本質的差異を前提としつつ,中間支配機構である「御用宿」の性格を喪失し た,公事宿・郷宿の系譜を引く代言人の排除という明治政府の意図があった。 では、この明治政府の意図は思惑通り実現したか。事態は決して順調に進まなかった。 この事態の中核をなすものは、いわゆる「三百代言」問題である。すなわち、資格をもつ 代書人のほかに、代書人や代人が存在し、彼らが代言人の職務の一部を安い料金で遂行し た問題である。このことについてはすでに多くの先行研究があり(3)、また私もかつて簡 単に触れたことがあるので(4)、ここで改めて詳説する必要はあるまい。 ただ、明治9年に免許を得た代言人がいなかった地域では、必然的に民事裁判に無免許 の者を認めざるを得なかった。このような地域として青森県が同年6月16日に発した法 令を紹介しておこうb)。 【史料6】 詞訟代言者に於る近来悪弊を長じ、却て人民の障害を醜成するもの不少候処、本年太 政官第十八号御布告及司法省甲第一号を以て公明至適の規則御発達相成、実に人民保 安を期するの秋に有之処、当県未た免許を経たる代言人あらさるより,即ち司法省甲 第-号但書に照準、該区戸長の証書を以て代書人差出候は往々有之候得共、右代言人 たる多くは従前の代言人にて、其品行履歴も詳細ならす、就中詐偽非文は上告不実等 の処刑を代言人中に受け、或は身代限処分を受けたるもの等も往々有之、己れ民権剥 奪を被るか如きものにして、他の権利伸暢せしむるの理無之に付、詞訟本人疾病事故 有之、且つ親戚に於て代言のものも無之、不得止代言人証書願出候はゝ、該区戸長に て篤と取調、相違無之に於ては規則第二条第四項、同第三粂第-項より第五項に掲載 せる節目に抵触せさるにのみ証書相渡候様注意可致、此旨相達候事、 このように、そもそも代言人規則が区戸長の発行する証書をもって代言に立つことを可 能としていた以上、免許代書人がいない地域ではこの制度を利用するのが必然であり、し かも安い料金で代言をして貰えるとなると、民衆にとってこうした無免許代言人は実に利 用価値のあるものだったことは疑いない。最近こうした無免許代言人の活動実態を示す史 料が若干ながら世に出されているものの、その絶対数はあまりにも少ない。江戸時代の公 事宿・郷宿から明治時代の代書人・代言人への転換過程を一層明らかに把握するために は、無免許代言人の活動実態を教えてくれる史料をさらに発掘することがぜひとも必要で ある。 (1) 服藤弘司・前掲「近世民事裁判と「公事師」」 364貢以下参照。 (2) 茎田佳寿子・前掲「公事宿から代言人へ」 3頁。 (3) 最近の研究としては、橋本誠一・前掲「郷宿・代人・代言人」があり、とくに140 貢以下の「表5地方巡察使復命書〔代言人・代書人記事抜粋〕」は、明治15 - 16年

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-18-段階の政府関係者が「三百代言」問題をいかにみていたかを知るうえで便利である。 (4) 拙稿「明治初年のある代書・代言人の日誌」 431-432貢。 (5) 青森県文化財保護協会『青森県歴史』 4 (みちのく双書26集、 1969年) 421貢。 む す び 以上、公事宿・郷宿から代書人・代言人への転換過程を、 「御用」、なかでも「宿預け」 の消滅過程を基軸に据えて描き出した。これまでの研究が、主として民事裁判との関連で この間題を考察してきたのに対し、本研究は、刑事裁判との関連性を追究するというまっ たく新しい視角からアプローチし、新たな成果を挙げ得た。そして、この視角は、単に法 制史のみならず歴史学との対話をも可能とするものであり、本研究を基礎としてさらに実 り豊かな研究の展開を約束するものである。 しかし、本研究が利用した史料は、ごく限られた地域のものであるに過ぎない。江戸時 代の公事宿・郷宿にせよ、明治になってからの代書人・代言人にせよ、これらが全国各地 に存在していたことはいうまでもない。これら全国各地の様子が、何名かの研究者によっ て報告されつつあることは喜ばしいことであるが、なすべきことはいまだに多い。 こうした作業は、とうてい個人の手によって果たし得るものではないゆえに、今後集団 的な研究プロジェクトを立ち上げて、体系的研究を遂行する必要がある。本研究が、こう した新たな段階の研究を組織するうえでいくぱくかの役割をなし得るとすれば、これに勝 る喜びはない。

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-19-夢2部 明治3-4年のある民事訴訟と公事宿

はじめに

1第1部第1章でみた公事宿・郷宿の本質と実態が、明治維新以後いかに変化したか。 この間題に迫るため、第2部では、明治維新直後の状態を検討したい。江戸幕府の瓦解と 明治新政府の成立が、公事宿・郷宿の本質と実態にいかなる影響を与えたかを確認してお くことは、明治5年以降成立する代書人・代言人との関連を検討するうえで不可欠だから である。 ところが、この間題に一定の解答を示すことは、現実には相当困難が伴う。というのは、 すでに第1部でも言及した通り、利用し得る史料がきわめて少ないという現実があるから である。このことは、石井良助氏が、明治4・5年頃の民事訴訟法の実態を紹介するに当 たり、 「明治二年より三年までの手続が不明なのは残念である」としつつ、 「この当時の 民事訴訟法の実体は全くといってもよいほど不明であった。各府県の者の間の訴訟につい ては、小法典があり、参考にはなるが、一般的な民事訴訟法典はなかった。個別的な法令 も僅かしかないし、伺指令の類もきわめて少ない。したがって、この種の史料によって、 当時の民事訴訟の実体を描き出すことはきわめて困難である。広い意味での民事訴訟に関 する覚書にでもよって知る外はないのである」 (1)と述べる通りである。 2 このような乏しい史料状況のなかで、幸いにも「武蔵国秩父郡坂石村出入一件控」 と題する史料がある。本史料は、私が科学研究費補助金により古書店より購入したもので あり(2)、内容はのちに具体的に示すが、相手方の1人である前橋藩支配所武州秩父郡坂 石村名主吉田多三郎が府藩県に跨る対談違変出入について書き留めたもので、石井良助氏 のいう「広い意味での民事訴訟に関する覚書」である。しかもその扱う時期は事件の発生 が明治2年で、法廷で争われたのが同3-4年であって、まさに民事訴訟手続がまったく 不明の時期の覚書である。 さらに興味深いこととして、本史料には、相手方の者たちが法廷に出るために何日くら い公事宿に宿泊したかが丹念に書き残されており、当時訴訟当事者は訴訟に何日くらい時 間をとられたかが示されている。逆にいえば、公事宿は何日くらい訴訟当事者によって利 用されたかが判明するのである。 第2部では,この史料を主たる素材として、 ①明治3-4年頃の公事宿が、訴訟当事者 によって如何に利用されたかを確認し、同時に②この頃の府藩県に跨る民事訴訟手続の一 端を明らかにすることを課題とする。 なお、本史料は、以上の意味で希有な史料なので、第1章を解題とし、第2章で全文を 翻刻して掲載する。以下第1章で引用する場合利用される【1】等の番号は、私が第2章 所掲史料に便宜に従って付した通し番号を示す。 (1) 石井良助「明治初年の民事訴訟法」 (『近世民事訴訟法史』、創文社、 1984年) 401 頁。 (2) 原本には表題はなく、表題は険に付されたものである。したがって、この表題はお

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ー21-第2部 明治3-4年のある民事訴訟と公事宿

はじめに

1第1部第1章でみた公事宿・郷宿の本質と実態が、明治維新以後いかに変化したか。 この間題に迫るため、第2部では、明治維新直後の状態を検討したい。江戸幕府の瓦解と 明治新政府の成立が、公事宿・郷宿の本質と実態にいかなる影響を与えたかを確認してお くことは、明治5年以降成立する代書人・代言人との関連を検討するうえで不可欠だから である。 ところが、この間題に一定の解答を示すことは、現実には相当困難が伴う。というのは、 すでに第1部でも言及した通り、利用し得る史料がきわめて少ないという現実があるから である。このことは、石井良助氏が、明治4・5年頃の民事訴訟法の実態を紹介するに当 たり、 「明治二年より三年までの手続が不明なのは残念である」としつつ、 「この当時の 民事訴訟法の実体は全くといってもよいほど不明であった。各府県の者の間の訴訟につい ては、小法典があり、参考にはなるが、一般的な民事訴訟法典はなかった。個別的な法令 も僅かしかないし、伺指令の類もきわめて少ない。したがって、この種の史料によって、 当時の民事訴訟の実体を描き出すことはきわめて困難である。広い意味での民事訴訟に関 する覚書にでもよって知る外はないのである」 (1)と述べる通りである。 2 このような乏しい史料状況のなかで、幸いにも「武蔵国秩父耶坂石村出入一件控」 と題する史料がある。本史料は、私が科学研究費補助金により古書店より購入したもので あり(2)、内容はのちに具体的に示すが、相手方の1人である前橋藩支配所武州秩父郡坂 石村名主吉田多三郎が府藩県に跨る対談違変出入について書き留めたもので、石井良助氏 のいう「広い意味での民事訴訟に関する覚書」である。しかもその扱う時期は事件の発生 が明治2年で、法廷で争われたのが同3-4年であって、まさに民事訴訟手続がまったく 不明の時期の覚書である。 さらに興味深いこととして、本史料には、相手方の者たちが法廷に出るために何日くら い公事宿に宿泊したかが丹念に書き残されており,当時訴訟当事者は訴訟に何日くらい時 間をとられたかが示されている。逆にいえば、公事宿は何日くらい訴訟当事者によって利 用されたかが判明するのである。 第2部では、この史料を主たる素材として、 ①明治3-4年頃の公事宿が、訴訟当事者 によって如何に利用されたかを確認し、同時に②この頃の府藩県に跨る民事訴訟手続の一 端を明らかにすることを課題とする。 なお、本史料は、以上の意味で希有な史料なので、第1章を解題とし、第2章で全文を 翻刻して掲載する。以下第1章で引用する場合利用される【1】等の番号は、私が第2章 所掲史料に便宜に従って付した通し番号を示す。 (1) 石井良助「明治初年の民事訴訟法」 (『近世民事訴訟法史』,創文社、 1984年) 401 貢。 (2) 原本には表題はなく、表題は幌に付されたものである。したがって、この表題はお

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ー21-そらく古書店の手によって付されたものであろう。

第1章 解題

Ⅰ 前史 1本史料には、筆者多三郎が、御用状が到来したとして支配前橋藩出張所松山役所に 呼び出された明治3年8月5日以降の経過を簡潔にまとめた記事がみられる(【3 8】)。 以下、この記事に沿って事件の概要を示すことにするが、その前に、そもそもこの民事訴 訟が提起されるに至った事情を前史として確認しておきたい。説明の便宜上、あらかじめ 訴訟人・相手方の両当事者を表1として掲げておく(【8】)。 表1 当事者一覧 名前 倡烏「頷ィ 「 肩書 儂ル ク ァ「 訴訟人 舒ノ 驟 東京府数寄屋町 儺h Y&竟旭ネ蕀 佇 相手 亰i[リ 兌メ 岩鼻県支配所.武州秩父郡南村 (現埼玉県飯能市) 同上 儷9 ノ[ィ X処 9 ツ y:「 563両1分2朱 藤十郎 2 百姓

多三郎 新次郎 サILク迚Gィ 「餾 )( X8ナ8゙) 「 依ケM Eネ : 迚Gィ 「 ): ナ8曵nノ*ノZ「 依ケM Eネ 名主 百姓

半平 禎作 舒)T ハx迚Gィ 「 ): ナ9>ノ 「 依ケM Eネ : 迚Gィ 「 ): ナ9>ノ ノ 「 依ケM Eネ 名主 組頭 免 >ツ 万蔵 ネケ餮ケ hン駑 ツ 六郎地借 2 訴訟人喜太郎の主弓削まこうである(【8】)。明治2年5月に訴外秩父郡南村の東兵 衛より、相手方の1人東京府新材木町万歳を通して、生糸を買い入れたいので金主になっ て欲しい旨の依頼があり、考慮していたところ、 6月になり東兵衛のほか多三郎・藤十郎 ・儀平治・新次郎の4名を加えた計5名より依頼があり、はじめて取引することにした。 7 月に東兵衛代理の儀平治が認めた書状を藤十郎が持参し、生糸が安いので金子を持参して 買い入れに来て欲しいといってきたので、手代の新兵衛に金を持たせて行かせ、東兵衛宅

参照

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当協会に対する 指定代表者名 代表取締役.. 支店営業所等

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(1) 学識経験を有する者 9名 (2) 都民及び非営利活動法人等 3名 (3) 関係団体の代表 5名 (4) 区市町村の長の代表