『歴代法宝記』考 ─ 山居修道と居士仏教 ─
著者
齋藤 智寛
雑誌名
集刊東洋学
巻
115
ページ
45-64
発行年
2016-06-30
URL
http://hdl.handle.net/10097/00129920
45 『歴代法宝記』考
﹃歴代法宝記﹄考
│
山居修道と居士仏教
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齋
藤
智
寛
はじめに 菩提達摩を祖師と奉ずる禅宗教団が中央に知られたのは 大通神秀︵ ?│ 七〇六︶が則天武后に謁見し、同世代の法 如が嵩山に住した時からであると思われる。やがて開元年 間 ︵七一三 │ 七四一︶ には長安において二つの禅宗史書 ︵以 下﹁ 燈 史 ﹂︶ ﹃ 楞 伽 師 資 記 ﹄ と﹃ 伝 法 宝 紀 ﹄ が 編 纂 さ れ る が ︶1 ︵ 、八世紀後半になると両京を離れた地方においてもその 地 で 活 躍 し た 禅 宗 祖 師 の 伝 記 を ま と め る 機 運 が 高 ま っ た。 嶺 南 に お い て 曹 渓 慧 能 の 言 行 を 集 成 し た﹃ 曹 渓 大 師 別 伝 ﹄ ﹃ 六 祖 壇 経 ﹄ と、 剣 南︵ 現・ 四 川 省 ︶ に お け る 禅 の 伝 統 を 記した﹃歴代法宝記﹄である。 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ は 釈 迦 牟 尼 仏 よ り 菩 提 達 摩 多 羅 ま で の 西 天祖師名と、達摩より弘忍、慧能を経て荷沢神会まで、ま た弘忍より智 詵 、処寂、無相を経て保唐寺無住に至る東土 祖師の伝記と語録を集成する。撰者は不明であるが、保唐 寺無住条が全体の半分以上を占めており、末尾には﹁大暦 保唐寺和上伝・頓悟大乗禅門門人写真讃并序﹂を附してい るから、無住門人の編纂とみなされている。 成立年代は、 ﹁大暦保唐寺和上伝﹂に大暦九年︵七七四︶ 六 月 三 日 に 無 住 が 六 十 一 歳 で 遷 化 し た こ と を 伝 え る か ら、 それをさほど下らない時期と推定され る ︶2 ︵ 。ただし、本文無 住 条 に は 遷 化 の 記 事 が な く、 冒 頭 を﹁ 和 上 鳳 翔 郿 県 人 也、 俗姓李、法号無住、年登五十︵和上は鳳翔 郿 県︹現・陝西 省︺の人、俗姓は李氏、法号は無住、いまの年齢は五十歳 で あ る ︶﹂ と 書 き 起 こ し て い る こ と に は 注 意 が 必 要 で あ ろ う。無住の五十歳とは西暦七六三年、すなわち肅宗が年号 を廃止して二年目の年に当たるが、これは無相条によれば 無相が無住に伝法袈裟を譲って遷化した年であって、この く だ り は そ の 頃 に 編 纂 さ れ た 伝 記 に も と づ い て い る だ ろ 集刊東洋学 第一一五号 平成二十八年六月 四五 −六四頁46 う。その後、無住条には永泰二年︵七六五︶に杜鴻漸の招 請で成都入りした記事が見えているから、無相遷化後の蜀 地仏教界における無住の名声の高まりに伴って生前から断 続的な語録編纂がおこなわれており、遷化後に歴代祖師の 伝記など諸資料と併せて一書にまとめたものが﹃歴代法宝 記﹄のようである。 これまで本書については、慧能が得た伝法袈裟が則天武 后を通じて四川の禅宗の手に渡ったという伝燈説の特異性 が論じられ、あるいは無相条にみえる念仏禅や、蜀地の気 風を反映した道仏交渉に関わる部分が取り上げられるなど していた が ︶3 ︵ 、論じ残された課題も多いようである。本稿で は、本書の構成を支える正統観と、 ﹁無念﹂ ﹁頓悟﹂といっ た 基 本 思 想 と 教 団 の あ り よ う と の 関 係 を 検 討 し、 ﹃ 歴 代 法 宝記﹄とその時代についてより広い視野からの知見を得る ことを目指したい。 一 ﹃歴代法宝記﹄の正統観 ︵一︶ 能と神会の地位 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ は 前 述 の よ う に 無 住 門 人 の 編 纂 と 考 え ら れ、無住の法系は五祖弘忍︵六〇一 │ 六七四︶の弟子・智 詵 ︵六〇九 │ 七〇二︶に淵源する。だが本書は、達摩より 弘忍、智 詵 を経て無住に至る単線的な法系を主張するわけ では必ずしもない。ここで﹃歴代法宝記﹄の構成をたどっ て み る と、 ① 後 漢 明 帝 時 代 の 仏 教 伝 来 、 続 く 道 教 と の 対 立と仏教の勝利、② 仏陀より西天二十八祖の列名、③ 第 一 祖 達 摩 多 羅 よ り 第 六 祖 恵 能 ま で の 伝 記 と 語 録、 ④ 戒 行 や儀礼を批判する小文から始まる第二の恵能条︵以下、 ﹁第 二 恵 能 条 ﹂︶ 、 ⑤ 徳 純 寺 智 詵 、 処 寂 、 浄 衆 寺 無 相 の 伝 記 と 語録、⑥ 荷沢神会の伝記と語録、⑦ 保 唐 寺 無 住 の 伝 記 と 語録となる。注目すべきは、本書が智 詵 ではなく弘忍門下 にあって彼の兄弟弟子であった慧能を第六祖と称し、 無相 ・ 無住師弟の中間には慧能の門人・神会の条を挿入している ことであろう。本節では、 このことの意味を考えてみたい。 ま ず 指 摘 し た い の は、 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ に 先 立 っ て 編 纂 さ れていた禅宗燈史﹃楞伽師資記﹄においても、編纂者が法 を嗣いだ師と、当該燈史が正統とみなす祖師とは一致して い な い こ と で あ る。 ﹃ 楞 伽 師 資 記 ﹄ の 編 者・ 浄 覚 は 初 め に 大通神秀の下で修行し、神秀没後に玄賾に投じてそこで印 可を受けた人物である。玄賾は黄梅弘忍の門人、言い換え れば神秀の兄弟弟子でもあって、本書では神秀、慧安と共 に第七祖に立てられているが、列名の順序としては神秀に 次ぐ第二席に甘んじており、三大弟子の中で伝記と語録が 掲載されるのも神秀のみである。また第六祖弘忍条でも神
47 『歴代法宝記』考 秀のみが﹁親しく付嘱を受く﹂とされ、十人の弟子を論評 する段でも筆頭に挙げられる。 ﹃ 楞 伽 師 資 記 ﹄ に お け る 神 秀 関 連 の 記 事 は、 玄 賾 の 撰 し た﹃楞伽人法志﹄なる書物にもとづくようであるから、こ れは玄賾の謙遜であるかも知れない。しかし浄覚が本書を まとめる際にも、自らの師を顕彰するよりは神秀の教説を 伝えることに意を用いたこともまた事実であろう。そして 第八世代に名を記される普寂、敬賢、義福、恵福の四人が すべて神秀門人なのも、浄覚が神秀一門を禅宗の主流とみ なしていたことの證左であろ う ︶4 ︵ 。 開元年間に編纂された燈史にはいま一つ、杜朏撰﹃伝法 宝紀﹄がある。杜朏は在家信者であるから唯一の嗣法の師 は持たないと思われるが、本書が弘忍門下の嗣法を記す際 には、同門であるはずの法如と神秀をあたかも世代の異な る祖師であるかのように記しており、その正統観はやはり 検討が必要であろう。 ま ず 本 書 弘 忍 条 で は、 弘 忍 臨 終 の 日﹁ 因 み に 弟 子 法 如 密 か に 伝 有 り ﹂︵ 三 八 六 頁 ︶ と あ っ て ︶5 ︵ 、 嵩 山 法 如 が 弘 忍 の 付嘱を受けた後継者であることが明記される。さらに法如 条末尾では、法如の遺言として﹁ 而 い 今 ま より 已 い 後 ご は、 当 まさ に荊 州 玉 泉 寺 秀 禅 師 の 下 に 往 き て 諮 禀 す べ し ﹂︵ 三 九 〇 頁 ︶ と あって、弘忍から法如、法如から神秀へと禅門の領袖の地 位が譲られていったことが示される。 複雑なのが神秀条で、彼は弘忍に参じたものの﹁自ら證 する所は知る者有る 莫 な し﹂とあり独悟して必ずしも印可は 受けなかったかにも見えるが、同条末尾には﹁及忍禅師臨 遷 化、 又 曰︿ 先 有 付 嘱 ﹀。 然 十 餘 年 間、 尚 未 伝 法︵ 弘 忍 禅 師は遷化に当たって、 ︿すでに付嘱した人物がいる﹀と言っ た。しかし神秀は十数年の間、弘忍の法を伝えることはな か っ た ︶﹂ ︵ 三 九 六 頁 ︶ と も 記 さ れ て い る。 後 者 の 記 載 は、 弘忍は法如への付嘱に先立って神秀に法を伝えており、し かし神秀は法如が没するまでの間はそのことを秘していた と い う 含 み が あ る だ ろ う。 つ ま り、 ﹃ 伝 法 宝 紀 ﹄ は 弘 忍 門 下の著名な弟子二人を記録するにあたって、両者ともに弘 忍の法を嗣いだことを明記しつつ、教団の指導者としての 地位は単線的な系譜の上に位置づけようとしていたことに なる。これは、禅門の領袖は一代に一人という意識を背景 とするものだろう。 このことを明確に言語化したのが、荷沢神会である。彼 の 語 録 の 一 つ で あ る﹃ 菩 提 達 摩 南 宗 定 是 非 論 ﹄ は﹁ 北 宗 ﹂ を 批 判 し て 南 宗 の 正 統 性 を 主 張 す る 宗 論 の 記 録 で あ る が、 そこでは達摩より弘忍を経て慧能に至る六代の師承が説か れ、 慧 能 の み が 弘 忍 の 付 嘱 を 受 け た 正 統 な 祖 師 で あ っ て、 同門の神秀やその弟子・普寂らは教えを説く資格すらない
48 のだとされる。そして神会はその證拠として、正統な祖師 には伝法の證として達摩伝来の袈裟が伝授されており、そ の袈裟は現在のところ慧能が開法した韶州にあると主張す るのであ る ︶6 ︵ 。 周 知 の よ う に、 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ は こ の 伝 衣 説 を 受 け 入 れ て蜀地の禅宗に正統性を付与している。まず、達摩条から 恵能条までの各条では、師が次の世代の祖師に袈裟を与え る 場 面 が 必 ず 挿 入 さ れ、 恵 可 条 に は﹁ 其 の 衣 を 得 る 者 は、 法 の 正 し く 相 承 さ る を 表 す ﹂︵ 一 八 一 中 ︶ と そ の 意 義 が 語 られ る ︶7 ︵ 。ついで第二恵能条の後半では、その達摩の袈裟が 剣南︵現・四川省︶の資州智 詵 に伝えられる経緯が語られ る。 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ の 言 う と こ ろ に よ れ ば、 慧 能 を 招 聘 し た則天武后は本人が辞退したため、替わりに内道場で達摩 の袈裟を供養することを求め、慧能は武后の要請を容れて 袈 裟 を 貸 与 す る。 武 后 は つ い で 資 州 徳 純 寺 の 智 詵 を 召 し、 神秀、玄賾とともに尊崇するが、智 詵 の帰郷に当たって達 摩 の 袈 裟 を 彼 に 贈 り、 慧 能 に は 別 に 袈 裟 を 賜 っ た と い う ︶8 ︵ 。 これは、神会の唱えた伝衣説を認めつつ、嶺南で慧能門人 らが伝承している袈裟は実は則天武后から賜与されたもの であって、達摩の袈裟は剣南に伝えられたと主張するもの である。 さらに神会条では、 慧能の墓塔を守る老僧の言葉として、 次のように記される。 能 和 上 在、 立 揩 師・ 智 海 師 等 問 能 和 上、 ﹁ 承 上 袈 裟 伝否、仏法付嘱誰人﹂ 。能和上答、 ﹁我衣女子将去。我 法我死後二十年外、竪立宗旨是得我法也︵恵能和尚が 在 り し 日、 立 揩 師・ 智 海 師 ら が 和 尚 に 質 問 し た。 ﹁ 祖 師伝来の袈裟はさらに伝えたのでしょうか、仏法は誰 に付嘱したのでしょうか﹂ 。恵能和尚は答えた、 ﹁わが 衣は女子が持ち去った。わが法については、わたしの 死より二十年後に、宗旨を打ち立てた者がわが法を得 た者である﹂ ︶。 ︵一八五下︶ 女 子 が 持 ち 去 っ た と は、 武 后 が 袈 裟 を 召 し 上 げ た こ と。 また神会条は、神会が﹁開元年中、滑臺寺にて天下の学道 者の為めに、其の宗旨を定む﹂ ︵一八五中︶とも記すから、 恵 能 入 滅 二 十 年 後 に 宗 旨 を 立 て る 者 と は 神 会 の こ と で あ る。つまり﹃歴代法宝記﹄は﹁衣﹂と﹁法﹂を分けて考え ており、正法を伝える者は神会だが、しかし彼はそれを證 明する袈裟を持たないと言うのである。 こ の 記 述 か ら 考 え て、 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ が 恵 能 条 と 神 会 条 を立てる理由は単に袈裟の剣南伝来を主張する便宜のため だけではなく、その一方で慧能と神会師弟こそが弘忍の法 を嗣いだ天下の禅宗の本流であると認めているからだと思 われる。恵能条冒頭には ﹁唐朝第六祖韶州恵能漕渓能禅師﹂
49 『歴代法宝記』考 と 記 さ れ る が、 同 世 代 の 智 詵 条 は﹁ 資 州 徳 純 寺 智 詵 禅 師 ﹂ と 記 さ れ て 恵 能 に の み﹁ 六 祖 ﹂ の 称 号 を 許 し て い る の が、 こうした態度を明らかに示しているだろう。恵能条と神会 条の内容を見ても、必ずしも伝衣説と関わりの無い彼らの 説法や問答が収録されており、袈裟の由来を説明するだけ のために無理に立伝したわけではないことが看取されるの である。 ︵二︶ 剣南禅における無住の地位 次 に、 蜀 地 に お い て 達 摩 の 袈 裟 を 伝 え た と さ れ る 智 詵 、 処寂、無相、無住四代の描かれ方を吟味したい。まず指摘 できるのは、無住の源流にあたる智 詵 と処寂の仏法が高く 評価されてはいないことである。 智 詵 条と処寂条を見ると、 それぞれ簡単な伝記と、達摩の衣を弟子に伝えたことが記 されるのみで、 説法や問答の記録は見えない。 ﹃歴代法宝記﹄ は、むしろ法系上はつながりの無いはずの慧能や神会の説 を丁寧に紹介しているのである。 さらに金和上こと浄衆寺無相条では、智 詵 と処寂を明確 に貶める言説が見られる。 又云﹁我此三句語、是達摩祖師本伝教法、不言是 詵 和 上 唐 和 上 所 說 ﹂。 又 言﹁ 許 弟 子 有 勝 師 之 義。 縁 詵 唐 二 和 上 不 説 了 教、 曲 承 信 衣 ﹂。 金 和 上 所 以 不 引 詵 唐 二 和 上 説 処。 每 常 座 下 教 戒 直 言、 ﹁ 我 達 摩 祖 師 所 伝 此 三 句語是総持門⋮⋮﹂ ︵また言う﹁わたしの唱える無憶、 無念、 莫忘の三句は、 達摩祖師が本来伝えた教法であっ て、 智 詵 和 尚 や 唐 和 尚 処 寂 師 の 説 で は な い ﹂。 ま た 言 う﹁ 弟 子 が 師 に 勝 る と い う 道 理 を 認 め る べ き で あ る。 智 詵 、処寂の二和尚は完全な教えを説かないのに、無 理 に 悟 り を 証 す る 衣 を 継 承 し て い た か ら で あ る ﹂。 こ れが、金和尚が智 詵 、処寂二和尚の説を引かなかった 理 由 で あ る。 門 下 に 対 し て 教 戒 す る 時 に は ず ば り と 言っていた﹁わが達摩祖師が伝えた三句はあらゆる教 説を包含する総持門である⋮⋮﹂ ︶。 ︵一八五中︶ おそらくは無相が常に口にしていた無憶、無念、莫忘三 句の由来をめぐって、 彼の禅法の由来を訝しむ人々がおり、 そうした疑念に対応するために三句の根拠を達摩へと遡ら せたのであろう。さらに彼は、自らの法系上の祖父と父で ある智 詵 と処寂について﹁了教︵了義教︶を説かず﹂と断 ずるのである。しかも神会条の説くところによれば、その 無相ですら完全な祖師ではなかった。神会は剣南から来た 迦葉ら二十数名の西域僧に向かって、次のように語ってい る。 汝剣南 詵 禅師是法師、不説了教。唐禅師是 詵 禅師弟 子、亦不説了教。唐禅師弟子梓州趙是法師、陵州王是
50 律 師、 巴 西 表 是 法 師。 益 州 金 是 禅 師、 説 了 教 亦 不 得。 雖然不説了教。仏法只在彼処︵君たちがやってきた剣 南では、智 詵 禅師は実は法師であって、完全な教えを 説かない。唐処寂禅師は智 詵 禅師の弟子であって、や は り 完 全 な 教 え を 説 か な い。 処 寂 禅 師 の 弟 子 の う ち、 梓 州 趙 は 法 師、 陵 州 王 は 律 師、 巴 西 表 は 法 師 で あ る。 益州の金無相は禅師であるが、完全な教えを説くこと はやはり不十分である。完全な教えを説きはしないけ れ ど も、 仏 法 は た だ 無 相 禅 師 の 所 に あ る の で あ る ︶。 ︵一八五下︶ ﹃歴代法宝記﹄は﹁禅師﹂とそれ以外の出家者を峻別し、 ﹁ 禅 師 ﹂ に 最 上 の 評 価 を 与 え る。 た と え ば 達 摩 条 に お い て 本書は、浄覚の﹃楞伽師資血脈記﹄ ︵現存の﹃楞伽師資記﹄ であろう︶が四巻本﹃楞伽経﹄の翻訳者である求那跋陀羅 を第一祖とすることを非難し、求那跋陀羅および十巻﹃楞 伽﹄の訳者菩提流支、七巻﹃楞伽﹄の訳者実叉難陀につい て﹁已上は尽く是れ訳経三蔵、是れ禅師にはあらず﹂と断 じ て い る︵ 一 八 〇 中 下 ︶。 こ こ で は、 達 摩 の 袈 裟 を 伝 え た 智 詵 、処寂が﹁法師﹂であるという角度から、彼らが了義 教すなわち完全に奥旨を尽くした教えを説かないことが改 めて指摘され、さらに無相については﹁禅師﹂ではあるも のの、了義教は説かないとされている。それでも仏法が無 相の下にあるとは、達摩の袈裟の所在地が仏法の所在地で あるからであろう。 次に、本書の主人公とも言える保唐寺無住による彼の先 人たちへの評価を確認したい。白崖山に住んで弟子たちを 指導していた無住は、剣南西川節度使として着任した杜鴻 漸によって成都に招かれ説法するが、その際、彼らは次の ような対話をしている。 相 公 問、 ﹁ 金 和 上 説 無 憶 無 念 莫 妄、 是 否 ﹂。 和 上 答、 ﹁是﹂ 。 相公又問、 ﹁此三句語為是一為是三﹂ 。 和上答、 ﹁是 一不三。無憶是戒、無念是定、莫妄是恵﹂ 。又云、 ﹁念 不起戒門、念不起是定門、念不起恵門。無念即戒定恵 具足﹂ 。相公又問、 ﹁既一妄字、為是亡下女、為是亡下 心 ﹂。 和 上 答 云﹁ 亡 下 女 ﹂︵ 杜 相 公 は 問 う、 ﹁ 金 無 相 和 尚 は︿ 憶 ゆ る 無 か れ、 念 ず る 無 か れ、 妄 な る 莫 か れ ﹀ と 説 か れ た と か。 そ の 通 り で し ょ う か ﹂。 無 住 和 尚 は 答 え る、 ﹁ そ の 通 り で す ﹂。 相 公 は ま た 問 う、 ﹁ こ の 三 句の語は、 一つでしょうか、 三つでしょうか﹂ 。和上 ﹁一 であり三です。憶ゆる無かれは戒律、念ずる無かれは 禅定、妄なる莫かれは智慧なのです。無念であれば戒 定 慧 の 三 学 が 具 わ り ま す ﹂。 相 公﹁ 無 相 和 尚 と 師 と は 同じく ︿妄 ︵忘︶ ﹀ 字を説きますが、 ︿亡﹀ 字の下は ︿女﹀ でしょうか、 ︿心﹀ でしょうか﹂ 。和上 ﹁︿亡﹀ の下は ︿女﹀
51 『歴代法宝記』考 です﹂ ︶。 ︵一八九上︶ 無住はここで師 ・ 無相の三句に二つの変更を加えている。 一つには、三句を三学として同時に実現されるべき境地と した上で、三句の一つである﹁無念﹂を、三句を統べるよ り根本の位置に設定した点、もう一つは、無相条に﹁忘る る莫かれ﹂ と記された第三句を ﹁莫妄﹂ に改めた点である。 この点については、長い対話の最後に杜鴻漸がふたたび感 歎している。 鴻漸遍問諸師僧金和上三句語及妄字、皆云﹁亡下作 心、 三句語各別﹂ 、不決弟子所疑⋮⋮伏願和上不捨慈悲、 與三蜀蒼生、作大良緣︵わたくしは多くの師に金和上 の三句と﹁妄﹂字について質問して周りましたが、誰 も が﹁ ︿ 亡 ﹀ の 下 は︿ 心 ﹀ に 作 り、 三 句 は そ れ ぞ れ 別 である﹂と答え、私の疑いを晴らしてはくれなかった のです⋮⋮どうか和上は慈悲を捨てず、三蜀の民草の ために、 良き仏縁を結んでくださいますよう︶ 。︵一八九 中︶ 諸 師 の 答 と は 異 な る と 杜 鴻 漸 が 言 う よ う に、 ﹁ 無 念 ﹂ に お け る 三 学 の 実 現 と、 ﹁ 莫 妄 ﹂ を 説 く 無 住 の 三 句 理 解 は 無 相門下にあっては独自な説であったと思われる。杜鴻漸が 無住の説によってやっと満足したというのも、あるいは事 実かも知れないがそれをことさらに記すのは無住説に疑い を抱く人々を意識してのことであろう。 実際、無相と無住には明白な師弟関係があるわけではな かった。無相条は、無相から無住への伝法を次のように記 している。 後至宝応元年︵七六二︶五月十五日、忽憶白崖山無 住 禅 師、 ﹁ 吾 有 疾、 計 此 合 來 看 吾 ﹂、 数 問 左 右 人、 ﹁ 無 住禅師何為不来。吾将年邁。使工人董璿將吾信衣及餘 衣一十七事、 密送与無住禅師。善自保愛、 未是出山時。 更 待 三 五 年、 聞 太 平 即 出 ﹂︵ 後、 宝 応 元 年 五 月 十 五 日 に 至 り、 白 崖 山 の 無 住 禅 師 の こ と を 突 然 思 い 出 し た。 ﹁ 私 は 病 気 だ。 こ の こ と を 知 っ て 会 い に 来 る べ き で あ る﹂ 。しばしば周囲の人々に問うた、 ﹁無住禅師はなぜ 来ないのだ。私は老いぼれてしまう。工人の董璿に我 が 継 承 す る 達 摩 祖 師 の 信 衣 と そ の 他 の 衣 な ど 十 七 件 を、ひそかに無住禅師に送らせよ。よく自重せよ、ま だ 山 を 出 る 時 で は な い。 さ ら に 三、 四 年 を 待 っ て、 太 平 の 世 と な っ た こ と を 聞 い た ら 下 山 せ よ、 と ﹂︶ 。 ︵一八五上︶ これによれば、無相から無住への附嘱は面授ではなく人 を 介 し て 行 わ れ て い る。 ﹁ 更 に 三、 五 年 を 待 て ﹂ と は 、 前 述のように無住が白崖山を出て成都入りしたのが、永泰二 年︵ 七 六 六 ︶、 杜 鴻 漸 の 招 聘 に よ る こ と を 指 す だ ろ う。 無
52 住条によれば、杜鴻漸が無住招請の牒を発するや、浄衆寺 と寧国寺の律師らが妨害工作をおこなうが、彼らは無住の 伝承した袈裟を次のように誹謗している。 有 一 人、 於 汶 州 刻 鏤 功 徳、 並 ︶9 ︵ 得 袈 裟 一 領、 計 直 二十千文。被彼禅師奪工人衣、 不還云、 ﹁是金和上与我﹂ ︵ あ る 人 物 が 汶 州 で 功 徳 を 刻 み、 二 千 文 に あ た る 袈 裟 一かさねを得た。かの無住禅師はこの職人が得た衣を 奪い、返さずに﹁金和尚が私にくれたのだ﹂と言って いるのです︶ 。︵一八八中︶ 工賃代わりの袈裟とは、上等な布であれば転売可能とい うことであろうか。ここに言う﹁工人﹂とは先に無相・無 住間の使者として登場した﹁工人董璿﹂であって、おそら く無住が彼から袈裟を入手したこと自体は、それに類する 事実が実際にあったのだろう。しかしその袈裟の性格につ いて、無住本人と誹謗者とがまるでちがう主張をしていた のである。このように、成都の仏教界では一介の山居修道 僧であった無住の出世に際して、その正統性に疑念を向け る 人 々 が お り、 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ は 彼 ら へ の 辯 明 と し て 無 相 の遺言を記したものと思われる。 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ 以 外 の 資 料 に 目 を 向 け れ ば、 段 文 昌﹁ 菩 提寺置立記﹂は、大暦初に節度使・崔寧によって住持とし て招かれこの寺を中興した﹁恵悟禅師﹂なる人物を﹁無相 大 師 之 升 堂 法 子 也 ﹂︵ [ 南 宋 ] 扈 仲 栄 等﹃ 成 都 文 類 ﹄ 三 六 ︶ と 記 し て い る。 ﹁ 菩 提 寺 置 立 記 ﹂ は﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ よ り は やや後の長慶二年︵八二二︶の撰であるから後の評価とい うことかも知れないし、寺院の縁起であるからその住持を 賞賛するのは当然のことではあるが、永泰から大暦にかけ て、成都城内の各寺に節度使の帰依を受けた無相門下が相 次いで住持したのは事実であろ う ︶10 ︵ 。そうした状況にあって、 律師らのみならず同じ禅門においても、無相の仏法への理 解や教団内での力関係をめぐる対立緊張が存在したものと 思 わ れ る。 こ の こ と は、 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ 編 纂 の 動 機 の 一 つ であったろう。 以上に見てきたように、初期の燈史においては実際に印 可を受け法を嗣いだ人々は複数いるにもかかわらず、教団 の 指 導 者 は 一 人 に 定 め よ う と い う 意 識 が あ っ た よ う で あ る。外面的な正統性と内面的な悟りを矛盾はしないまでも 分 離 可 能 な 状 態 に 置 く こ の 意 識 が、 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ が 慧 能 と神会を法の上で高く評価しつつ、達摩の袈裟によって智 詵 に始まる蜀地の禅に正統性を付与することを可能にした ものと思われる。そして本書にとって、この奇妙な伝衣説 を主張する目的は天下の禅門における正統を慧能後学より 奪取するためだけではない。のみならず、無住一門は必ず しもその悟りを認めていなかった智 詵 や処寂らを仏法を伝
53 『歴代法宝記』考 える媒介とするためにも、必要な措置であったのである。 二 ﹁無念﹂受容と山居修道 無住条では無相の三句が ﹁無念﹂ で統括されたように、 ﹃歴 代法宝記﹄の核心的な主張の一つに﹁無念﹂がある。そし てそれは本書神会条にもこの語が記されているように、荷 沢 神 会 に 影 響 を 受 け た 結 果 で あ る と 従 来 指 摘 さ れ て い る。 本 章 で は 一 歩 を 進 め て、 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ が﹁ 無 念 ﹂ を 受 容 した理由や、神会には見られなかった新たな﹁無念﹂理解 について検討した い ︶11 ︵ 。 ﹃歴代法宝記﹄は神会条において﹁東京荷沢寺神会和上、 毎 月 壇 場 を 作 り て ⋮⋮ 無 念 の 法 を 説 き、 見 性 を 立 つ ﹂ ︵ 一 八 五 中 ︶ と 言 う か ら、 無 念 の 禅 法 は 神 会 に 由 来 す る こ とを自覚していた。そしてこの場合は、念が無ければ性を 見ることが出来ると考えられていたようである。 しかし、無住条に見る次の記載はどうか。無相に見えた のち、印可を待たずにいったん天蒼山に入った無住と、彼 の実践に疑いを抱く人々との対話である。 同住道逸師習誦礼念、和上一向絶思断慮、入自證境 界。 道 逸 共 諸 同 学 小 師 白 和 上 云、 ﹁ 請 六 時 礼 懺、 伏 願 聴 許 ﹂︵ 共 に 修 行 し て い た 道 逸 師 は 経 典 を 読 誦 し 礼 拝 念仏していたが、 無住和上はひたすら思慮を断絶して、 自らの悟りの境界に入るばかりであった。道逸は仲間 の 修 行 僧 ら と と も に 和 上 に 申 し あ げ る、 ﹁ 一 日 六 回 の 礼 拝 懺 悔 を 求 め ま す、 ど う か お 許 し く だ さ い ﹂︶ 。 ︵一八六下 │ 一八七上︶ 山中で無住は自らの悟境を楽しむばかりで、共に住む僧 たち︵弟子なのか道友かは不明︶から日々の勤行の修習を 求 め ら れ る。 ﹁ 六 時 礼 懺 ﹂ す な わ ち 毎 日 定 時 の 勤 行 に つ い ては、 第二恵能条の前半で儀礼を論ずる一段に言及がある。 こ こ で は 東 晋 の 道 安 が 定 め た 規 範 三 例 の う ち 第 二 と し て ﹁常に六時礼懺せよ﹂ ︵一八二下︶が挙げられ、しかし﹁法 に依りて修行するは、諸ろの小乗禅及び諸ろの三昧門にし て、 是 れ 達 摩 祖 師 の 宗 旨 に あ ら ず ﹂︵ 一 八 三 上 ︶ と 否 定 さ れている。もちろん無住も同じ立場だが、彼が儀礼を否定 する理路はどのようなものか。 此 間 糧 食 並 是 絶 断、 并 人 般 運 深 山 中、 不 能 依 法 修 行。 欲得学狂、此並非仏法。 ︽仏頂経︾云 〝狂心不歇、歇 即 菩 提。 勝 浄 明 心、 本 周 法 界 〟。 無 念 即 是 見 仏 ; 有 念 即是生死。若欲得礼念即出山、山下大有寛閑寺舍、任 意出去。若欲得同住、一向無念;得即任住、不得即須 下山去︵ここは食料もまるで無く、深い山の中まで人 が運んで来るような場所なのだから、規定通りの修行
54 は 不 可 能 で あ る。 六 時 礼 懺 の よ う な 儀 礼 を 行 う の は、 狂人のふるまいを真似ようとするようなもの、決して 仏法ではないのだ。 ﹃大仏頂首楞厳経﹄に云う、 ︿狂心 歇まず、歇めば即ち菩提。勝浄なる明心は、本より法 界に周ねし﹀と。無念であれば仏を見、念が生じれば 生死の世界である。もし礼懺念仏したければ山を出る がよい、ふもとには大きな寺院がたくさんあるのだか ら、好きに出て行くことだ。もし共にここに居たいの なら、ひたすら無念であれ。それで良ければ留まれば 良いし、 納得できなければ山を降りるがよい︶ 。︵一八七 上︶ 礼懺の実施を求める声に無住はまず、深山では必要な物 資の調達が困難なことを理由に儀礼の実施が不可能である こ と を 説 く。 つ い で 無 住 は、 ﹁ 無 念 ﹂ で あ れ ば 仏 に 見 え る こ と が 出 来 る が、 ﹁ 有 念 ﹂ た る 儀 礼 の 実 践 な ど は 生 死 輪 廻 の元であると説く。そしてさらに、道逸らにも﹁無念﹂な るあり方を求めるのである。最初の﹁思いを絶ち慮りを断 ち て、 自 證 の 境 界 に 入 る ﹂ と い う の も、 ﹁ 無 念 な れ ば 即 ち 是れ仏を見る﹂ということであろう。 さて無住の回答に驚いた道逸らは、天蒼山を降りて成都 にいる無相に無住の非道を訴える。だが意外なことに、無 相は無住を辯護して道逸らを叱るのである。 汝向後。吾在学地時、飯不及喫、只空閑坐、大小便 亦無功夫。汝等不識、吾当天谷山日、亦不礼念。諸同 学嗔吾、並出山去、無人送糧、惟練土為食、亦無功夫 出山、一向閑坐。孟寺主聞諸同学説吾閑坐、便向唐和 上讒吾、 唐和上聞説、 倍加歓喜。吾在天谷山亦不知讒、 聞唐和上四大違和、吾従天谷山来至資州徳純寺。孟寺 主見吾来、 不放入寺。唐和上聞吾来、 使人喚吾至堂前。 吾礼拜未訖、唐和上便問、汝於天谷山、作何事業。吾 答、総不作、只沒忙。唐和上報吾、汝於彼忙、吾亦忙 矣。唐和上知、衆人不識︵君たち、退がりなさい。私 が修行していた時には、飯も食わずにただカラリとの びやかな心で坐るのみ、大小便すらする暇はなかった ものだ。君たちは知らないだろうが、私が天谷山にい た時にも、礼懺念仏はしなかった。仲間たちは私に腹 を立てて山を降りて行ってしまい、食料を送る者もい なくなったのだが、ただ土を練って喰らい、山を出よ うというつもりもなく、ひたすらのんびり坐っていた のである。徳純寺の孟寺主は、私が閑坐しているだけ だという彼らの言葉を聞いて、唐処寂和上に讒言した が、 唐和尚はそれを聞いて、 ますます喜んだのである。 私は天谷山にいたので讒言を知らず、処寂和上の身体 が不調であることを聞いて、天谷山から資州徳純寺へ
55 『歴代法宝記』考 と や っ て 来 た。 孟 寺 主 は 私 が や っ て 来 る の を 見 て、 寺に入るのを許可しなかったが、唐和上は私が来たの を聞くと、人を遣って堂前に呼び出した。私が礼拝も 終 え ぬ う ち に、 処 寂 和 上 は 私 に 問 う、 ﹁ 君 は 天 谷 山 で どんなことをしているのかな﹂ 。私は答えた、 ﹁何もせ ず、 ただ忙しくしていただけです﹂ 。唐和上は答える ﹁君 は あ そ こ に 居 て 忙 し く、 私 も ま た 忙 し か っ た の だ ﹂。 処寂和上だけが私を理解しており、人々は理解してい なかったのである︶ 。︵一八七上︶ 最後に処寂も無相も﹁忙﹂であると述べているのは、 ﹁ 閑 0 坐﹂を否定的に告げる修行者らに対して、それこそが充実 し た 悟 り の 境 地 な の だ と 言 う の で あ ろ う。 無 相 に よ れ ば、 山中で修行する際に礼拝念仏を行わないこと、それが理解 さ れ ず 修 行 者 ら の 批 判 に 遭 っ た こ と は、 自 身 の 経 験 で も あったのである。さらにこの﹁閑坐﹂が認められて処寂か ら印可を受けたことが語られてもいるが、無住条ではこの 記述の後に、無相から袈裟を附嘱されるという記事がある から、これまた無相と無住の関係を予言的に述べるもので もある。 無相、無住二代の言葉には、食事すらままならない耐乏 生活の中で坐禅を続ける山居修道のありさまが語られてい る。注目しなければならないのは、無住は六時礼懺をしな い理由をこうした客観的環境からする不可能にまず求めて おり、しかしその状態こそが仏法にかなうのだと主張する ために﹁無念﹂という概念を持ち出しているのである。無 相も明言してはいないが、食事にもこと缺くほどの経済状 況が勤行や儀礼の実践に障害となっているという含みがあ るものと思われる。 三 頓悟と居士仏教 ﹁無念﹂ほど言葉として頻出するわけではないが、 ﹁頓悟﹂ あるいは﹁頓教﹂もまた﹃歴代法宝記﹄の説く重要な概念 である。冒頭の首題に続いて記される三つの副題のうちの 一つに﹁亦た最上乗頓悟法門と名づく﹂とあるし、菩提達 摩条には次のように言う。 梁朝第一祖菩提達摩多羅禅師者、即南天竺国王第三 子。幼而出家、早稟師氏、於言下悟。闡化南天、大作 仏事。是時観見漢地衆生有大乗性、乃遣弟子仏陀・耶 舍二人、往秦地、説頓教悟法︵梁朝第一祖菩提達摩多 羅禅師は、南天竺国王の第三子である。幼くして出家 し、 若 く し て 師 の 印 可 を 受 け、 一 言 の 下 に 大 悟 し た。 南天竺に教化を開いて、 大いに仏法を広めたのである。 この時、 漢地の衆生に大乗の性質があるのを見て取り、
56 そこで弟子の仏陀と耶舎の二人を派遣して秦地に赴か せ、頓悟の教法を説かせた︶ 。︵一八〇下︶ 達摩は師の下で﹁言下に悟る﹂という頓悟の体験を得て おり、漢土に伝えようとした教えもまた頓悟の教えであっ たというのである。また末尾の ﹁大暦保唐寺和上伝﹂ は ﹁頓 悟大乗禅門門人写真讃并序﹂と署名されており、本書もし くは無住の教えが﹁頓悟﹂の法門とされているのは明白で ある。 ﹁伝﹂の本文には次のように言う。 即我和上、 処其門、 伝其法。示無念之義、 不動不寂。 説頓悟之門、無憶無念⋮⋮時門人得教、如説修行而味 之、 共 相 歎 曰、 ﹁ ⋮⋮ 感 荷 大 師 愍 我 迷 愚、 示 我 正 法、 不 由 階 漸、 直 至 菩 提。 若 遇 諸 学、 我 須 転 示 ⋮⋮﹂ ︵ わ が無住和上は、上述のような法門に住して、そのよう な真理を伝えている。無念の宗旨を示しては、動きも しないし静まりかえってもいない。頓悟の法門を説い ては、心に留めることは無く念ずることさえ無い⋮⋮ 時に門人たちは教えを受け、その言葉の通りに修行し て 法 悦 を 味 わ い、 共 に 感 歎 し て 言 っ た、 ﹁ ⋮⋮ か た じ けなくも無住大師は我らの愚かな迷いを憐れんで、正 しい教えをお示しになり、段階を経ずに、ただちに悟 りへと至らしめた。もし他の求道者に遇えば、我われ も 伝 授 せ ず に は い ら れ な い ⋮⋮﹂ ︶。 ︵ 一 九 五 下 │ 一九六上︶ ここでは﹁頓悟の門﹂が無住の教えとして﹁無念﹂と並 称され、また無相以来の三句のうち﹁無憶﹂と﹁無念﹂が ﹁ 頓 悟 ﹂ の 境 地 で あ る と さ れ て い る。 そ し て 門 人 た ち は 実 際に無住に出逢って頓悟体験を得、人々にもその法門を広 めようと励まし合っているのである。 前 章 で 見 た よ う に、 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ は 無 住 の 嗣 法 の 師 で ある無相や、法系上の祖、曽祖である処寂、智 詵 について は不了義教しか説かないとしてその仏法は認めていなかっ た。 で は、 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ の 基 調 を な す 無 住 の 頓 悟 法 門 は 誰に由来するものなのか。無住条は彼の修学過程を次のよ うに記している。 開 元 年 代、 父 朔 方 展 効。 時 年 二 十 ⋮⋮ 遂 乃 捨 官 宦、 尋師訪道、忽遇白衣居士陳楚璋、不知何処人也、時人 号為維摩詰化身、 説頓教法。和上当遇之日、 密契相知、 黙 伝 心 法。 和 上 得 法 已、 一 向 絶 思 断 慮、 事 相 並 除。 三五年間、白衣修行︵開元年間に父親は北方で軍功を 挙げていた。時に無住師は二十歳⋮⋮かくて官僚の道 を捨て、師を尋ね道を求めたが、白衣の陳楚璋居士に 出会った。陳居士の出身はわからないが、当時の人々 に維摩詰の化身と呼ばれ、頓教の法を説いていた。無 住和上は居士に出逢うと、密かに居士の悟りにかない
57 『歴代法宝記』考 互いを知り、言葉によらず心法を伝えた。和上は法を 得ると、ひたすら思慮を断絶し、教理学や儀礼をすべ て除き去った。このようにして十五年間、白衣のまま で修行したのである︶ 。︵一八六上︶ 無 住 の 二 十 歳 は 開 元 二 十 一 年︵ 七 三 三 ︶、 こ の 年 に 彼 は 修行生活に入るが、最初の師・陳楚璋はその名からも察せ ら れ る よ う に 僧 侶 で は な か っ た。 ﹁ 白 衣 居 士 ﹂ と い う か ら には墨染めならぬ俗人の着物のまま、恐らくは蓄髪してい たのである。彼の説く﹁頓教の法﹂は、頓悟を教える法と いう意味だろう。無住は陳居士の悟境をすっかり自分のも の に し た ら し い。 ﹁ 一 向 に 思 い を 絶 ち 慮 り を 断 ち、 事 相 並 びに除かる﹂という境地は、前章で見た天蒼山での実践と すでに変わるところがない。しかし、無住はなおも参学を 続ける。 天宝年間、忽聞范陽到次山有明和上、東京有神会和 上、 大原府有自在和上、 並是第六祖師弟子、 説頓教法。 和上当日之時亦未出家、遂往太原礼拜自在和上。自在 和上説、浄中無浄相、即是真浄仏性。和上聞法已、心 意快然、欲辞前途。老和上共諸師大徳苦留、不放此真 法棟梁、 便与削髮披衣。天宝八載具戒已、 便辞老和上、 向五臺山清涼寺︵天宝年間、 范陽到次山には明和上が、 東京洛陽には神会和上が、北京太原府には自在和上が おり、みな六祖慧能の弟子であって、頓教の法を説い ていると聞いた。無住和上はその時、まだ出家はして おらず、そこで太原に行って自在和上を礼拝した。自 在和上は、清浄な中に清浄という概念の対象が無いの が、真の清浄なる仏性であると説いた。和上はこうし た教えを聞くと心が晴れやかになり、辞去して次の土 地へ向かおうとした。しかし老和尚とその他の大徳ら はねんごろに引き留め、無住師という真の仏法の棟梁 を手放さないようにし、剃髪し僧衣を着せた。天宝八 載︹七四九︺に具足戒を受けると、自在老和尚を辞去 し、五臺山清涼寺に向かった︶ 。︵一八六上中︶ 次に無住が心を惹かれたのは、やはり﹁頓教法﹂を説く 人々であった。しかも全員が六祖慧能の弟子なのは、本書 が智 詵 よりも慧能を高く評価していることと合致する。無 住は結局は自在和上に参じ、彼に師事している間に具足戒 を受け比丘となることに成功している。自在和尚の頓教と は、清浄という思いも持たないことが真の清浄であり仏性 であると説くものであった。これは神会条で頓悟と見性が 結びつけられていたことに一致し、また後年に無住が説く ﹁ 無 念 ﹂ の 思 想 に も 通 底 す る も の で あ ろ う。 ま た﹁ 亦 た 未 だ 出 家 せ ざ れ ば、 遂 に 太 原 に 往 き ﹂ と い う 書 き 方 か ら は、 無住が行脚を続けた理由の一つには出家受戒の機会を覗う
58 こ と が あ っ た と、 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ は み な し て い た こ と が 知 られる。実際、出家を遂げた無住はもはや他の慧能門人に 参ずることはなかった。 経一夏、聞説到次山明和上縱由、神会和上語意、即知 意況亦不往、天宝九載夏満出山、至西京安国寺・崇聖 寺往来︵五臺山で一夏を経た時、到次山明和上の事跡 や、神会和上の教えについて耳にしたものの、すぐさ まその宗旨を知ることができたので彼らの下に行くこ とはなかった。天宝九載に夏安居を終えて五臺山を出 る と、 西 京 長 安 の 安 国 寺・ 崇 聖 寺 に 出 入 り し た ︶。 ︵一八六中︶ すでにその名は知っていたはずの到次山明和上と神会に ついて改めて耳にしたが、彼らの教えはすぐに理解できた の で 参 ず る こ と は な か っ た と い う の で あ る。 天 宝 十 載 ︵七五一︶ 、長安を出て霊州に向かった無住は、賀蘭山に入 りそこで二年を過ごし、礼参した商人の曹 瓌 なる者から金 無相和尚の噂を聞く。 忽 有 商 人 曹 瓌 礼 拜 問、 ﹁ 和 上 到 剣 南、 識 金 和 上 否 ﹂。 答 云、 ﹁ 不 識 ﹂。 瓌 云、 ﹁ 和 上 相 貌 一 似 金 和 上、 鼻 梁 上 有 靨、 顏 状 与 此 間 和 上 相 似、 更 無 別 也、 応 是 化 身 ﹂。 和上問曹 瓌 、﹁居士従剣南來、彼和上説何教法﹂ 。曹 瓌 答、 ﹁説無憶・無念・莫妄。弟子当日之時、受縁訖辞、 金和上問 瓌 、︿何処去﹀ 。 瓌 答曰︿父母在堂、辞欲帰観 省﹀ 。金和上語 瓌 云、 ︿不憶不念、総放却朗朗蕩蕩、看 有汝父母否﹀ 。 瓌 当日之時、聞已未識、今呈和上﹂ 。和 上聞説豁然、遙与金和上相見︵その頃、商人の曹 瓌 が 礼 拝 し て 質 問 し た、 ﹁ 和 上 は 剣 南 に 行 き、 金 和 尚 と 知 り合われましたか﹂ 。答えていう﹁いいえ﹂ 。曹 瓌 ﹁和 上のお姿は全く金和上に似ておられます。金無相和上 は 鼻 筋 に ほ く ろ が あ り、 顔 か た ち は こ ち ら の 和 上 と そっくり同じで見分けがつきません。必ずや化身であ りましょう﹂ 。和上は曹 瓌 に問う、 ﹁居士は剣南からお いでですが、そちらの和上はどんな仏法を説いていま す か ﹂。 曹 瓌 ﹁ 無 憶・ 無 念・ 莫 妄 と 説 か れ て い ま す。 在りし日、教えを受け終わりましたので辞去しようと すると、 金和上はお尋ねになりました ︿どこへゆく﹀ と。 私は答えます︿父母が家におりますので、帰ってご機 嫌 う か が い を 致 し ま す ﹀。 金 和 上︿ 憶 え ず 念 ぜ ず、 す べ て 投 げ 打 っ て さ っ ぱ り 穏 や か な 心 持 ち に な っ て み よ。 君 の 父 母 は い る か な ﹀。 私 は そ の 時、 教 え を 受 け な が ら 体 認 は で き ず、 い ま 和 上 に 申 し 上 げ る 次 第 で す ﹂。 無 住 和 上 は 曹 瓌 の 話 を 聞 い て か ら り と 悟 り、 遙 かに金和上に見えたのである︶ 。︵一八六中︶ 彼に瓜二つだという無相の存在と、その教えを無住に伝
59 『歴代法宝記』考 えたのは一人の﹁居士﹂であった。彼は無相に参じた商人 であるが、まず﹁縁を 受 う く﹂と記されるのは無相条に彼が 毎年十二月と正月に﹁四衆百千万人の 与 ため に縁を 受 さず け﹂とい う結縁法要のことであろう。無相条によれば、法会では参 会者に声を伸ばして念仏させ、 息が尽きたところで﹁無憶、 無念、莫妄﹂の三句語をたたみかけたという。いま引用し た一段によれば、無相は集団へ向けての説法のほか、居士 に対しても﹁無憶、無念﹂を体験させるための個別指導を 行っていたのである。 無住は曹 瓌 居士の勧めで剣南におもむき金無相に参ずる が、 最終的に達摩の袈裟を譲られ附嘱を受ける際にも、 ﹁居 士﹂が重要な役割を果たしている。 和 上 云 居 士、 ﹁ 達 摩 祖 師 一 支 仏 法、 流 在 剣 南、 金 和 上 即 是。 若 不 受 縁、 恰 似 宝 山 空 手 帰 ﹂。 璿 聞 已、 合 掌 起 立、 ﹁ 弟 子 即 入 成 都 府 受 縁 去 ﹂。 和 上 山 中 知 金 和 上、 山中遙憶彼⋮⋮璿即便辞和上、将所奉上茶芽至、建巳 月十三日至成都府浄衆寺、為和上四体違和、輒無人得 見。董璿逢菩提師、 引見金和上⋮⋮金和上問董璿、 ﹁汝 是 何 人 ﹂。 董 璿 誑 金 和 上 答、 ﹁ 是 無 住 禅 師 親 事 弟 子 ﹂。 金和上向董璿云、 ﹁帰白崖山日、 吾有信去、 汝須見吾来﹂ ︵無住和上は董居士に言う、 ﹁達摩祖師から続く仏法は、 剣南に流れ着いた。金無相和上がそのお方である。も し縁を結ばなければ、あたかも宝の山に入って手ぶら で 帰 っ て 来 る よ う な も の だ ﹂。 董 璿 は そ れ を 聞 く と、 合 掌 し て 立 ち 上 が り、 ﹁ わ た く し が 成 都 府 へ 行 っ て 縁 を結んで参りましょう﹂と言った。その時、無住和上 は山中にいながら金和上の心中を知り、白崖山中より 遙かに金和上に思いを馳せていたのだった⋮⋮董はす ぐ さ ま 無 住 和 上 の 下 を 辞 し、 献 上 す る 茶 芽 を 携 え て、 建巳月︹四月︺十三日に成都府浄衆寺に着いたが、無 相和上は身体不調のため、誰も会見することができな かった。董璿は菩提師に逢うと、金和上に引き合わせ てもらう⋮⋮金和上は董璿に問う、 ﹁そなたは何者か﹂ 。 董璿はいつわって答える﹁無住禅師に親しく仕える弟 子 で ご ざ い ま す ﹂。 金 和 上 は 董 に 言 う﹁ 白 崖 山 に 帰 る 日には、進物をつかわそう。必ず私に会いに来るよう に﹂ ︶。 ︵一八七上中︶ 病を得た無相が無住に附嘱しようと思っていることを無 住が知り、俗人の董璿を使いに立てたのである。この董璿 と無住との関係はよくわからない。無相条では彼は ﹁工人﹂ とされているから、 世俗を捨てた修行者ではない。また ﹁金 和上を 誑 いつわ りて﹂弟子と名乗ったということは、彼は自身が 無住の門人だとは考えていない。さらに奇妙なのは、有髪 白衣だったはずの董璿が無住の弟子と名乗るのを、無相が
60 すんなり信じていることである。 第一章に見た律師らの讒言の中では、この董璿は石工と されているようである。恐らく、寺院の発注を受けて石碑 などを彫る職人の中には熱心な仏教信仰を持っている人々 もいたのであろう。董璿はこの時、白崖山の修行者集団か ら何らかの仕事を受けており、山中に彼らと共に寄宿して いたものと思われる。そして彼が無住の弟子であると無相 が 信 じ た の は、 先 に 見 た 陳 楚 璋 や 若 き 日 の 無 住 の よ う に、 出家受戒せず居士形のままで修行を続ける仏教者が当時は 普通に見られたからであろう。 かくして無住は董璿を通して達摩伝来の袈裟を授かるの だが、無住の出家から嗣法に至るこうした記述を振り返る に、彼の参学の過程では﹁居士﹂と呼ばれる人々が大きな 役割を果たして来たことが知られる。 彼の安心は最初の師 ・ 陳居士の下で確立しており、次の自在和上は出家者として 彼を剃髪し、嗣法の師である無相は彼の悟りを認めて伝法 袈裟を授けるためだけに登場するかのようである。また無 相 と の 出 会 い に あ っ て は 曹 瓌 、 董 璿 と い う 二 人 の 居 士 が、 紹介あるいは仲介役を果たしていた。 また﹃歴代法宝記﹄では、 次のように六祖慧能も﹁居士﹂ と 呼 ば れ て い る の が 注 目 さ れ る。 弘 忍 の 法 を 得 た 慧 能 が、 南海︵現・広州︶の制止寺に現れた場面である。 問、 ﹁居士従何処来﹂ 。恵能答、 ﹁本来不来、 今亦不去﹂ 。 法師下高座、迎恵能就房、子細借問、一一具説東山仏 法及有付嘱信袈裟。印宗法師見已、 頭面礼足歎言、 ﹁何 期 座 下 有 大 菩 薩 ﹂。 語 已 又 頂 礼、 請 恵 能 為 和 上、 印 宗 師自称弟子、即与恵能禅師剃頭披衣已、自許弟子及講 下 門 徒、 嘆 言 ⋮⋮ 印 宗 法 師 領 諸 徒 衆、 頂 礼 能 禅 師 足、 恐人疑、 及請所伝信袈裟、 示衆人、 并自身受菩薩戒︵問 う﹁居士はいずこからおいでですか﹂ 。恵能は答える ﹁も ともと来るということはないし、今も行くということ は な い ﹂。 法 師 は 高 座 を 降 り て、 恵 能 を 自 室 に 招 き、 詳しく問いただすと、恵能は東山法門の仏法と附嘱の しるしたる袈裟についてつぶさに語った。印宗法師は 袈裟を見ると、頭をつけ足を押し抱いて感嘆した﹁聴 衆に大菩薩がいたとは、どうして予期したであろう﹂ 。 そう言うとまた礼拝し、恵能を和上とし、印宗法師は 自ら弟子と称し、恵能禅師のために頭を剃り僧衣を着 せ、自らの弟子と講義に列席の信徒らに向かって感嘆 した⋮⋮印宗法師は門人らと共に恵能禅師の足を押し 抱いて礼拝し、人に疑われるのを恐れ、伝法の袈裟を 人 々 に 見 せ る よ う 願 い、 ま た 自 ら 菩 薩 戒 を 授 け た ︶。 ︵一八三下 │ 一八四上︶ 初めに﹁居士﹂と呼ばれているのは、慧能が正式な僧侶
61 『歴代法宝記』考 ではなく、黄梅山の厨房で労役に住持する 行 あん 者 じ ゃ だったから で あ る。 剃 髪 を 伝 え る 一 文 か ら﹁ 禅 師 ﹂ と 呼 ば れ る の は、 出家の姿となったからであろう。印宗法師による剃髪のこ と は 敦 煌 本﹃ 六 祖 壇 経 ﹄︵ 八 世 紀 後 半 成 書 ︶ に は な く、 王 維︵六九九 │ 七五九︶ ﹁能禅師碑﹂ と﹃曹渓大師別伝﹄ ︵七八一 年成書︶にあるが、 王維碑文では﹁禅 師 ︶12 ︵ ﹂、﹃曹渓大師別伝﹄ は﹁ 廬 行 者 ﹂ と 呼 ん で お り ︶13 ︵ 、﹁ 居 士 ﹂ は﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ 独 自の呼称である。 また﹃歴代法宝記﹄では、慧能は印宗より菩薩戒を受け ている。慧能の受戒について、王維碑は剃髪とのみ伝えて 明 言 せ ず、 ﹃ 壇 経 ﹄ は 自 己 と い う 仏 に 帰 依 す る﹁ 無 相 戒 ﹂ を説くから菩薩戒すら必要としないという立場だろ う ︶14 ︵ 。﹃曹 渓大師別伝﹄は﹃壇経﹄とは対照的に、法性寺の戒壇に智 光律師らを招請しての受戒儀礼を行っているから具足戒を 受けて比丘となったのであ る ︶15 ︵ 。菩薩戒を受けたという﹃歴 代 法 宝 記 ﹄ の 説 は、 ﹃ 壇 経 ﹄ ほ ど 過 激 で は な い も の の、 慧 能は生涯具足戒を受けて正式な比丘となることは無かった とみなしているのであ る ︶16 ︵ 。 さ て、 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ に お け る﹁ 居 士 ﹂ と は ど の よ う な 存在なのか。まず商人・曹 瓌 や工人・董璿は職業と恐らく は家庭を持った在家信者であるが、時に遠隔地間を、ある いは山寺と都市寺院とを往復して禅師らに情報提供し、あ るいは仲介役ともなっていたようである。慧能の場合は寺 院の構成員でありながら、 剃髪はしていないために﹁居士﹂ と呼ばれたもののようである︵あるいは、董璿もそれに近 いかも知れない︶ 。﹁白衣居士﹂陳楚璋については判然とし ない。維摩詰長者の化身と呼ばれたからには俗人同様に家 庭生活を営んでいた可能性もあるが、しかし弟子を取り法 を伝えるような人物であるから、有髪のまま寺院や石窟な ど に 寄 宿 し て い た 修 行 者 と 思 わ れ る。 ﹁ 居 士 ﹂ と は 呼 ば れ な い が、 ﹁ 白 衣 修 行 ﹂ し て い た 頃 の 無 住 が ま さ に そ れ で あ ろう。 注目すべきは、無住に頓悟体験を得させた師が僧侶では な く 居 士 だ っ た と い う 点 で あ る。 こ こ で 想 起 さ れ る の は、 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ に や や 先 立 つ 八 世 紀 前 半 に 編 ま れ た 禅 文 献 の 中 に、 ﹁ 居 士 ﹂ を 撰 者 と し て 頓 悟 を 標 榜 す る 作 品 が 見 ら れることである。まず﹃頓悟真宗金剛般若修行達彼岸法門 要決﹄は、先天元年︵七一二︶に劉無得なる者が撰した序 文を持つ禅文献であるが、その内容は侯莫陳琰居士、法号 智達なる者と、智達禅師なる者との問答である。この侯莫 陳 居 士 の 経 歴 は、 崔 寛 撰﹁ 六 度 寺 侯 莫 陳 大 師 寿 塔 銘 并 序 ﹂ によれば次のようになる。 年甫弱冠、便入嵩山、初事安闍梨、晩帰秀和上。並 理符心会、 意授口訣、 二十餘年、 遂獲道果。和上曰、 ﹁汝
62 已智達、辯才無礙、宜以智達為名。道在白衣、吾無憂 矣 ﹂。 既 承 授 記 之 音、 復 転 秘 密 之 蔵。 欲 導 引 迷 俗、 故 往来人間⋮⋮因而得度者、歳有其人焉⋮⋮直示総持之 要、宏開頓悟之宗⋮⋮開元二年六月十日入涅槃︵二十 歳にして嵩山に入り、 初め老安阿闍梨に仕え、 その後、 神秀和上に帰依した。どちらの師についても理は心に 体認し、宗旨は口訣によって授かり、二十年餘りにし て、果報を得た。神秀和上は言う﹁そなたはすでに智 慧が通達しており、辯舌に妨げが無い、智達と名乗る がよかろう。道が俗人の姿にあるのも、私は憂いはし な い ﹂。 す で に 印 可 の 言 葉 を 承 け た の で、 つ い で 秘 密 の法蔵を開陳した。迷える凡夫らを導こうと、世間を 往来し⋮⋮救済される者は、年ごとにいた⋮⋮あらゆ る法門の要点をずばりと示し、頓悟の宗旨を広く開い たのである⋮⋮開元二年︹七一四︺六月十日に入滅し た ︶17 ︵ ︶。 今の場合に見逃せないのは、彼が神秀の印可を受けなが ら ﹁白衣﹂ のままで教えを説いていたこと、 その教えは ﹁頓 悟之宗﹂ であったことである。そして ﹁六度寺侯莫陳大師﹂ と呼ばれるからには、彼は有髪のまま寺院に寄宿していた はずである。さらに注目されるのは、塔銘末尾に列挙され る弟子四人の名を見ると﹁弟子崔寵、弟子裵炯、弟子崔玄 哲、弟子僧重瑩﹂とあって、身分は居士ながら僧侶を弟子 として養成していたことである。これは、陳楚璋居士の下 で開悟した無住が自らは受戒して僧侶となれたことと同じ 状況であろう。 ま た﹃ 大 乗 開 心 顕 性 頓 悟 真 宗 論 ﹄ は、 ﹁ 沙 門 大 照・ 居 士 慧光集釈﹂との署名を持ち、李恵光、法名大照なる人物が 問答体で撰した禅文献である。この李居士は侯莫陳琰と同 じ く﹁ 雍 州 長 安 人 ﹂ を 本 貫 と し、 ﹁ 前 に 安 闍 梨 に 事 え、 後 に会和尚に事う﹂ ︵大正蔵八五、 一二七八上︶という。これ は侯莫陳居士の経歴における神秀を神会に変更したもので あって、居士慧光とは侯莫陳琰をモデルにした仮託の人物 で あ る と 考 え ら れ て い る ︶18 ︵ 。 し か し そ う で あ れ ば な お さ ら、 論 書 を も の し 頓 悟 を 説 く 居 士 と い う 形 象 が、 唐 代 中 期 の 人々には有り得べき存在として受け入れられていたことが 知られるのである。 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ の 描 く 禅 宗 教 団 は、 具 足 戒 を 受 け た 出 家 僧のほか、 剃髪したものの菩薩戒しか受けていない修道者、 有髪のまま修行する者、また完全に俗人の生活を続けたま まの信徒など、出家在家の二分法には収まらない多彩な構 成員が出入する場である。そして本書に先立つ開元年間に は、 六祖慧能や侯莫陳琰のような未受戒の修道者が活躍し、 こ と に 頓 悟 を 宣 揚 し た の で あ っ た。 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ が 標 榜
63 『歴代法宝記』考 する頓悟も、こうした﹁居士﹂仏教を背景としているので ある。 おわりに 八世紀の禅宗教団には、各分派共通に同じ人物を禅門の 領 袖 と 仰 ぐ 風 が あ り、 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ も こ の 気 風 を 継 承 し ていた。そのことによって、 慧能、 神会師弟が称揚した﹁無 念﹂や﹁頓悟﹂を受容しながら、しかも剣南の禅門こそが 正統な法系であると主張できたのである。 その﹁無念﹂説は荷沢神会に淵源するが、山居修道を事 とする無相、無住一門にとっては、儀礼の廃止を正当化し 得る格好の教説として受容されたものと思われる。近年沖 本克己氏は、中国仏教史を﹁都市仏教と山岳仏教が交互に 入れ替わるダイナミックな図式でとらえる﹂という視点を 提示され た ︶19 ︵ 。少なくとも神会から ﹃歴代法宝記﹄ への展開、 また﹃歴代法宝記﹄の記事内部に見られる山居修道者の都 市部寺院への招請という動きについては、沖本氏の説は重 要な示唆を与え得るものと考える。 ま た 開 元 年 間 以 来、 ﹁ 頓 悟 ﹂ 説 の 確 立、 伝 播 に お い て は 正式な比丘ではない﹁居士﹂たちが大きな役割を果たして い た ︶20 ︵ 。﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ の 無 住 も そ う し た 時 代 背 景 の 下 に 修 学していたのだし、六祖慧能が行者の身分で嗣法したこと の意味も、居士仏教という視点から理解することが必要で あろう。 注 ︵ 1︶ 拙 稿﹁ ﹃ 伝 法 宝 紀 ﹄ の 精 神 ﹂︵ ﹃ 集 刊 東 洋 学 ﹄ 八 五、 二 〇〇一年︶ 、﹁﹃楞伽師資記﹄ 考 │ ﹃ 楞 伽 経 ﹄ と ﹃ 文 殊 般 若 経 ﹄ の 受 容 を 手 が か り に │ ﹂︵ ﹃ 集 刊 東 洋 学 ﹄ 一 一 一 、 二 〇 一 四 ︶ 参照。 ︵ 2︶ 柳田聖山 ﹃初期禅宗史書の研究﹄ 第四章 ︵一九六七年、 ﹃柳 田聖山集 第六巻﹄法蔵館、二〇〇〇年︶ ︵ 3︶ 注 2前 掲 柳 田 書 の ほ か、 塚 本 善 隆﹁ 南 岳 承 遠 伝 と そ の 浄 土 教 ﹂︵ 一 九 三 二 年、 ﹃ 塚 本 善 隆 著 作 集 第 四 巻 中 国 浄 土 教 史 研 究 ﹄ 大 東 出 版 社、 一 九 七 六 年 ︶、 吉 川 忠 夫﹁ 唐 代 巴 蜀 に お け る 仏 教 と 道 教 ﹂︵ ﹃ 唐 代 の 宗 教 ﹄ 朋 友 書 店、 二 〇 〇 〇 年︶など。 ︵ 4︶ 注 1前 掲 拙 稿﹁ ﹃ 楞 伽 師 資 記 ﹄ 考 ﹂ 参 照。 ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ が 浄 覚 を﹁ 玉 泉 神 秀 禅 師 の 弟 子 ﹂︵ 一 八 〇 中 ︶ と す る の も、 ﹃楞伽師資記﹄の内容からする誤解かも知れない。 ︵ 5︶ ﹃ 伝 法 宝 紀 ﹄ の 引 用 は 柳 田 聖 山﹃ 禅 の 語 録 2 初 期 の 禅 史 I﹄︵筑摩書房、一九七一年︶による。 ︵ 6︶ 従 上 相 伝、 一 一 皆 与 達 摩 袈 裟 為 信。 其 袈 裟 今 在 韶 州、 更 不 与 人。 餘 物 相 伝 者、 即 是 謬 言。 又 従 上 已 来 六 代、 一 代 只 許 一 人、 終 無 有 二︵ 楊 曽 文 編 校﹃ 神 会 和 尚 禅 話 録 ﹄ 中 華 書
64 局、一九九六年、二七頁︶ 。 ︵ 7︶ ﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ の 引 用 は﹃ 大 正 新 脩 大 蔵 経 ﹄ 第 五 一 冊 に よ る。 柳 田 聖 山﹃ 禅 の 語 録 3 初 期 の 禅 史 II﹄︵ 筑 摩 書 房、 一 九 七 六 年 ︶、 W endi l. A damek, The Mystique of T ransmis-son : on a n e ar ly C ha n h istor y an d i ts c on te xts , C olum bi a uni -versity Pr ess, 2007 収 録 の 校 本 を 参 考 に 文 字 を 改 め た 箇 所 もあるが、注記はしない。 ︵ 8︶ 注 2前掲柳田書参照。 ︵ 9︶ ﹁ 並 ﹂、 底 本、 柳 田 校 本、 A damek 校 本﹁ 平 ﹂ に 作 る。 文 意が通じないため、 ﹁並﹂ ﹁并﹂などの誤りと見て改む。 ︵ 10︶ ﹁ 菩 提 寺 置 立 記 ﹂ は、 徐 文 明﹃ 中 土 前 期 禅 学 思 想 史 ﹄︵ 北 京 師 範 大 学 出 版 社、 二 〇 〇 四 年 ︶ 二 四 五 │ 二 四 六 頁 が す で に紹介している。 ︵ 11︶ 小 川 隆﹃ 神 会 敦 煌 文 献 と 初 期 の 禅 宗 史 唐 代 の 禅 僧 2﹄︵臨川書店、二〇〇七年︶第五章も参照。 ︵ 12︶ 南 海 有 印 宗 法 師、 講﹃ 涅 槃 経 ﹄、 禅 師 聴 于 座 下 ⋮⋮ 遂 領 徒属、尽詣禅居、奉為掛衣、親自削髪。 ︵ 13︶ 明 日 講 次、 告 衆 人 曰、 ﹁ ⋮⋮ 昨 夜 請 廬 行 者 過 房 論 議、 猶 如 金 玉、 諸 人 信 否 ?⋮⋮﹂ 。 諸 人 永 不 信、 請 行 者 将 伝 法 袈 裟呈示諸人、 諸人見已、 頂礼生信重。儀鳳元年正月十七日、 印 宗 与 能 大 師、 剃 髪 落︵ ﹃ 六 祖 壇 経 諸 本 集 成 ﹄ 中 文 出 版 社、 一九七六年、四一二頁︶ 。 ︵ 14︶ 善 知 識、 総 須 自 聴、 与 受 无 相 戒 ⋮⋮ 自 色 身、 帰 依 清 浄 法 身 仏、 於 自 色 身、 帰 依 千 百 億 化 身 仏、 於 自 色 身、 帰 依 当 身 円満報身仏。 ︵敦煌博物館〇七七号︶ ︵ 15︶ 能 大 師 受 戒 和 尚 西 京 総 持 寺 智 光 律 師 ⋮⋮ 後 時 三 師 皆 於 能 大師所学道、 終于曹溪。其證戒大徳、 一是中天耆多羅律師、 二 是 密 多 三 蔵。 此 二 大 徳 皆 是 羅 漢、 博 達 三 蔵、 善 中 辺 言。 印宗法師請為尊證也︵四一二頁︶ 。 ︵ 16︶ 菩 薩 戒 と﹃ 歴 代 法 宝 記 ﹄ に つ い て、 在 家 菩 薩 の 戒 を 説 く ﹃ 決 定 毘 尼 経 ﹄ と の 関 連 が 要 検 討 で あ る。 本 書 冒 頭 に 列 挙 さ れ る 典 籍 の 中 に﹃ 決 定 毘 尼 経 ﹄ が 見 え る し、 副 題 の﹁ 亦 名 定 是 非 摧 邪 顕 正 破 壊 一 切 心 伝 ﹂ が、 本 経 末 尾 に 言 う﹁ 此 経 名 為﹃ 決 定 毘 尼 ﹄、 亦 名﹃ 壊 一 切 心 識 ﹄﹂ ︵ 高 麗 蔵 六、 一一七〇下︶を想起させるからである。 ︵ 17︶ 周 紹 良 主 編﹃ 唐 代 墓 誌 彙 編 ﹄ 上︵ 上 海 古 籍 出 版 社、 一九九二年︶開元〇〇八︵一一五四 │ 一一五五頁︶ ︵ 18︶ 伊 吹 敦﹁ ﹃ 頓 悟 真 宗 金 剛 般 若 修 達 彼 岸 要 決 ﹄ と 荷 沢 神 会 ﹂ ︵ 三 崎 良 周 編﹃ 日 本・ 中 国 仏 教 思 想 と そ の 展 開 ﹄ 山 喜 房 仏 書 林、 一 九 九 二 年 ︶、 田 中 良 昭﹁ ﹁ 神 会 塔 銘 ﹂ と﹁ 侯 莫 陳 寿 銘 ﹂ の 出 現 と そ の 意 義 ﹂︵ ﹃ 敦 煌 禅 宗 文 献 の 研 究 第 二 ﹄ 大東出版社、二〇〇九年︶参照。 ︵ 19︶ ﹃ 沖 本 克 己 仏 教 学 論 集︿ 第 二 巻・ シ ナ 編 一 ﹀﹄ ︵ 山 喜 房 仏書林、二〇一三年︶八二 │ 八三頁。 ︵ 20︶ 注 18前 掲 伊 吹 論 文 も﹁ 侯 莫 陳 居 士 の 存 在 は ⋮⋮ 禅 宗 に お け る﹁ 頓 悟 ﹂ 思 想 の 起 源 を も 窺 わ し め る ﹂︵ 三 〇 六 頁 ︶ と 述べる。