Posted at the Institutional Resources for Unique Collection and Academic Archives at Tokyo Dental College,
Available from http://ir.tdc.ac.jp/
Title
咀嚼と「おいしさ」
Author(s)
山下, 秀一郎
Journal
歯科学報, 112(2): 2i-2i
URL
http://hdl.handle.net/10130/2762
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咀嚼と「おいしさ」
山 下 秀一郎
近未来的にこれまでにない少子高齢化社会を迎える我が国の大きな課題は,健康長寿をいかに確保
していくかにある。身体的,精神的な健康にとって,おいしく食事をすることは,不可欠の行動であ
る。したがって,咀嚼の遂行にとって具体的な基盤となる健全な咬合は,必須の条件となる。損なわ
れた咀嚼機能の回復とその維持を主な目的とする歯科医学は,今後の健康,医療,福祉の面から重大
な責務が求められているといえよう。
近年,健康に対する一般の関心は,マスメディアによる喧伝もあっていっそう高まっているように
思われる。しかし,一方においては,食事時間が短く軟らかいファーストフードの摂取過多,安易な
健康補助食品や栄養剤などの多用,さらに,多くの病院や介護施設における個人の摂食機能を考慮し
ない食事形態の選択などにより咀嚼が著しくおろそかにされ,相矛盾した健康志向として社会問題の
様相を呈している。ファーストフード頼みの食生活が,肥満や添加物による味覚障害を増加させてい
ることも報じられている。我々歯科医師は,咀嚼の特徴と重要性,そのための咬合の役割について認
識を深め,社会的に重要な責務と役割を担わなければならない。
咀嚼は顎口腔機能の中で最も日常的であり代表的なものの一つであるが,顎口腔機能には,コミュ
ニケーション機能や呼吸機能などの様々な生理機能が同時に含まれる。そして,これらの機能は,た
とえば会話を楽しみながら食事をし,食事中にむせるなど,複数を同時に進行することが可能であ
る。通常我々は,食物を口腔に取り入れ胃や腸へ移送し,そこから栄養素を吸収する。食物を咀嚼し
嚥下する一連の過程で,咀嚼運動は一定の基本形をベースに進行するが,食物の物性に応じて変化す
る。たとえば,噛み切りにくい肉は,口の中で何度も噛みしめながら線維を引き裂きやわらかくして
から飲み込みこむ。しかし,クラッカーやクッキーのような食品は,軽く噛み砕いたのち唾液に馴染
ませてから飲み込み,柔らかなゼリーのような食品は,口の中で2,3度簡単に舌で押しつぶして飲
み込んでしまう。このように,我々は食物の物性に応じて「食べ方」や「噛み方」を変えて咀嚼する
が,同時に食物の味や風味,歯ごたえ,舌触りなどから「おいしさ」を感じている。
咀嚼は狭義には,食物を臼磨粉砕するリズミカルな顎運動を指すが,広義には食物を口腔内に取り
込んで嚥下に至るまでの全ての生理的過程を含む。咀嚼運動は,口腔内に摂取した食物を切断・破砕
し,唾液と混ぜ合わせ,嚥下に適した食塊を形成する顎・舌・顔面のリズミカルな協調運動である。
咀嚼中には脳幹の神経機構で発生するリズム運動の基本プログラムと,咀嚼に関わる効果器(歯,
筋,粘膜など)と食物の相互作用から生じる末梢性感覚情報による調節機構,さらに高次脳(大脳皮
質,大脳基底核)の関与,という複雑な神経調節機構が営まれている。つまり,咀嚼中の咀嚼筋の活
動特性は,食物の物性が生体内の神経調節機構を経て最終的に反映された表現形ともいえる。そし
て,食品に添加された味の違いによって咀嚼運動の特性が異なるという報告がある。この咀嚼運動の
変化が,脳幹レベルで行われるのか,高次脳レベルで行われるのか,また両方のレベルで行われるの
かはよくわからないが,咀嚼運動制御と味覚情報処理の間に何らかの機能的相関が存在する可能性が
推測される。このように,咀嚼中に口腔内で生じる味や風味・噛みごたえ・舌触りなど食物の持つ多
面的な感覚的要素が,食物のおいしさを決定するうえで重要であることから,咀嚼は,高次脳におい
て食物のテクスチャーに関わる感覚情報と味覚情報の cross-modality integration(感覚間統合)を促す
役割を果たしていると考えられている。 (東京歯科大学口腔健康臨床科学講座 教授)
巻 頭 言 ②