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家長日記成立考

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Academic year: 2021

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(1)3%. ー. 家. 長. 日 記 八. 島. 長. 成 立. -+.、. 考. 寿. ・家長日記の錯簡に就セ・1での小稿を本紀要の前号に摘伊て本女の整理に関する試案を捷 示じたのであったが,ニこに陣,その成立に関する幾つかの問題について考へたところ 凌述べて,大方め御批正を得たいと恩ふょ特に;筆者源家長の家格が低い為か関係資料 が乏しくて葛へ難い点が多く,且つ資料の吟味に就いても不十分なところがあって誤を 犯してゐるかとも恩ふので,それらの点に就いて御教示を得たいと恩ふのであるo. 「. 作者に就いて. 本日記の筆者がその書各「家長卵己」.冬はr演義長日記」に示されてゐる通り,源家 長であることは疑ふ余地が無く、,∴その例証柱幾つか挙抄られると恩ふが,その-・二卑 掲抄てみるo. (-)本自記の内琴は,長く後鳥羽上皇の側近に在ってその御日常を東口り悉し,叉.新 盲今集の形成されてゆく機運と過程とを十二分に呑み込んでゐる人で革ければ書けない 筈のものである.院の蔵人とtJて側近に在D,和歌所開聞となD新吉今集編集の事務印 な中心人物として活躍した家長にして始めて書き得るものであったと恩埠れる. .. (二)家長は和歌の他に笛と蹴鞠とを能くしたらしく,そのうちの笛について云へば,. 「懐竹抄」に「但馬前司家長朝臣ノ説」なるもq)が記録されてゐて,笛に関する∵見識を 億へてゐた趣が伝へられてゐる。叉,. 静嘉. 「笛相承之血脈記」 (望蔵 )なるものに依ると,家. 長昧英人大神景賢の弟子といふことキこなってゐる0日記のこゝ-かしこに管絃O)道に就い. て記されてゐるの臥そのやうな彼の造詣と関心とがあ?キから.甲こと夜のだと恩昧わ るのである。. 特に,大神景賢の子景畢が上皇の御所で元取の簡を行って頂七、「キ時の革を詳細に熟し,㌔ 恰も彼自身が大神家の一族で㌔もあるかのやうに,その事で一事-憂してゐる記述ぷ歩-. 臥彼にとって昧師家の事なのだから尤もなことだと肯かれることで,それ昧先の血脈. 記の琴すところが倍額出来るものであることを恩昧せ,同時に家長でなくては書け加、 記事なること草深く尽昧せるものである.. (≡)本日記の記事は,枕ね家長中宮接の見聞の範囲のことで,従って・公的な事柄 を書いてゐる場創こも,それを個人的な接触の両からしてゐるのであるoそのPLうな全 体的な傾向の為に際立たないので柱あるが,私人的な事柄が巧みに僅かばかり挿入され 耳ゐるo例へ峠,肉夢で杜兄最盛,..一族で昧妻下野やその同胞の威茂のことなどがそれ であるQ}.

(2) 38. 八. 島. 長. 寿. 最栄の場合を云ふと・建仁三年の春(証-)彼娃定家や聴超・秀能・長明その他和歌 所関係の人々と共に,大内の花見をしてゐるoその時最栄も同行し,花の下で皆々歌を. 詠んだoその際定家と最栄との琴が人hの好評を博したので,と釈明を加へてその二人 の歌を日記に書き留めてゐるのである.定家のその時の詠歌杖後に新吉今集にも入集 し,後h造語題に上った(註二)ものである.それに較べると最栄紘勅放任着でもなく, 歌合などに出詠することも無かった人であるoその最栄の歌を定家の作に並べてわざわ ざ記録したといふの紘,肉親としての菩を抑へ切れなかったからの事に蓬ひないのであ る。. ・次に・本論に必要な部分を中心として, (二)段年並に年令に関する推測とを記す。 (-)寂. 長. (-)彼の生潜を四期に分けてみた伝記と,. 伝. その第一期払後鳥羽天皇の非蔵人として勤仕するに到る迄の二十余年(註三)闇で, その頃の彼に就いて知るべき資料杜殆ど見当らない.僅かに本日記の初めのところに幼. くして父に死なれた事が書いてあるのと,同じく日記の後半に,元久二年(註eg)の朝 奴の行幸の粂によって,勤仕以前から楽(多分笛であらう)を学んでおいたとあるのが 知られる伊のものである。. 胤家長が天皇に勤仕するやうになって間もなく宮中を過下して承仁港親王の御臨終 に侍し,その後引続き五ケ月表に服したことが日記にある(註五)ので,宮中に勤任す. ぬ前の或る時期に同法親王にお仕へしてゐたことがあるに達ひ別、と息紘れる.家長 の兄だけでなく弟も僧侶であったらしいこと(註六)彼が歳入を放とする家を飼いでゐ. ること(註七)承仁法親王が後白河院の皇享であることなどを併せ考へてみると,彼の 同港親王にお仕へするに到った経路が略々肯かれるのである.その法親王払新古今集 に一首その他に二首程勅撰集に撰入ざれてゐる方である。更に,法親王が天台座主にな. られた建久七年十一月(天台座主記によi)といふのをま,■h家長が非蔵人として出仕する やうになづた建久七年峯と時期が⊥致す畠といふ点をも併せ考へ■るならば,′・凄昧家長の 家系やその和歌に対する噂み(註八)などの故を以て港親王から天皇に御推挙申上けた. 結尭勤仕する奉うになったのであるまいれとも臆測され右のである. '嶺二期虹傾度が後鳥羽天皇の非蔵人として勤仕し始めた建久七年多から,新吉今集 が一応形成されて克宴も行練れたそb一元久二年頃迄の∴約十年闇に壷る。彼の全生涯の うちで・上皇に最も療近中上抄た時期ゼぁわ,多彩な充実した期間だったと云へよう. この期闇に,彼は左兵衛尉から右馬助・兵庫頭と累進し(註九),その間,正治二年院. 轟二度百官の作者に適ばh,:'その翌建仁元年にな千哀百春歌含め作者と恵わて,′引,*垂加 歌所顔固に推薦きれ任命きねたd9この時朝礼新吉呑集形成の磯連が醸鹿き兎その仕垂 が進捗し,決定的にやはないが結実しモ待った時顛に当る.凌義旗夫等の凡て0)y融三岳 づて上皇のよき助手役を勤あ,且つ実務由改進行廃でもあづたから-,執ら′く非常な多忙 の連続であったであらうが,その中でかなり丹念に資料を蒐集し記録して率いたら七も,、、o.

(3) 家. 長. 日. 記. 成. 立. 考. 39. (二・、(三)資料の項 そ中らが,後もR=日記執筆に当って非常に役立ってゐるわけである。. 金甲) 叉,彼拭和歌以外の色J&な面でも上皇に接触中上抄たやうであ拳o・上皇の御幸に抹殆 ど常にお供中上抄てゐたらしく,水無瀬や鳥羽の離宮に御滞在の折も,或は宇治。熊野 q)御幸にもお琴申してゐる.更に,日常の勤仕の間にも,或玖御蹴鞠の助手環海どを勤. ・め(翠-○),革は管絃の御稽古のお対手役を勤めなぞして,個朋勺に接触申上捗ろ機会 も・あったやうである?このやうに形影相伴ふ如く側近に在ったので,自m,上皇の激し. い御性格とれ或は御愛情の深さやそれに伴ふ御苦悩の深刻さなどに壊して,人間とし ての上皇をも十分知らされた巧つうであるo 一 彼が後に回想の日記を書くに当って,こ_q)第二期のことにその筆を集中することにな. ったのも,そしてその革事の重点を新吉今集の形成過程と人間上皇のお姿車を弓乳くSと においたのも,蓋し当然恵こ主だったと恩牲れる程多彩で充実した生活の時期だったわ けである.同時に叉,懐しく嘩去を回想して静かに之を筆にするなどと/いふ余裕の無か った,身心共に多忙な期間でもあったと恩縁れるのである.. 第三琴払元久二年の翌建永元年から承久の乱のあった承久三年の頃迄の約十六年橿 で,ニの時期に入ると,それ迄彼の助手的な存在であった清範が彼にとって代って新富 今集切継の事務にも主として当り,歌人との連絡のことにも当るやうになってゐる。家 長にと?ては,従来の華やかな生清に較べて失意の境匪だったとも見えるが,そQ:やう な変化の原因が何であ?たかは知D難い.A ●. 官嘩昧兵庫介東武戒介・備前守・但馬守(註--)などを歴任して考り,ニの但馬守 が彼の経官と患った。彼の娘の女房名たる中宮但馬・藻壁門院但馬などもこれに由来す るもので.参らうし,後年の明月記h事にも前但馬守・但馬前司などと記されてゐる○. 歌人としての活動昧,第二期が専ら匪関係の歌会・歌合にのみ限定されてやたのが,1 この期の後半になると道家邸での歌合或は道堺法親王家五十首(宗一二)革どの作者にな るといふやうに,やゝ活動の幅を広蹄始めてゐる.. ニの時期の初めに拭新古今集の切継がまだ屡々行捻れてゐたが,承元四年四月に縁, 家長によってそれが新吉今集の決定本だと見られたらしい「巌露本」怒るものが出来て. ゐる(この事に就いて紘後述する').第二期を新吉今集の形成期.と見るならば,こq)第 三期の初期はその完成期と見られ家長拭形成期の中心的存在ではあったやミ,こ,の完成 期には仕事の中心から離れてゐたやうに恩はれるのである。然し,.無論その完成に強い 関心を持ってゐたには蓬ひなく,だからこそこの期の後半に入っても,建保四年に,節. 謂家長本新吉今集なるものを書写.したわけで,b・らう.その家長本の奥書に自ら「和歌所. 開聞」と記したり,道助漁法親王豪五十首の附載勅書に「革長和歌所頂也」.と記されて あったりするのを見ると,.一森元四年の経り頃凌境として実質的に昧殆ど和歌所がその仕. 事を経って了ってゐたと恩牲れるにも圃練らず,形式的に昧この第三期を通じて-・彼昧 (叉昧∃賀)の地位に在ったらしい'. 冶,一関閑-、 ∴か.(て,ニの時期の議長娃側近からや>離れ従って在来の多忙さかもも解放された.

(4) 40. 八. 島. 長. 寿`. らし・く恩昧れる.:この時何等かの動教に促_さ串, (静かに回想の筆を執る粂裕を得て;義. る時期(その時期の推定に就いて拭後述す挙が,森元四年多か)に,本日記を書き上伊 たのであらうと考へるのであ'る.. 第四期披,承久三年の乱後彼の没年(後述するが,文昏元年か)迄の十二年程で,こ の時期抜本日記の内容にも成立にも直接の関係をもたないbたil第二期に見られたやう・ な上皇への深い接触がこの期に柱どのやうに推移して行ったかだけを見るoこの時期を 通じて上皇は隠岐に在られたのだから,家長縁直接お仕-中上抄る事は無論出来なかつ たわけであるが,長く院の上を恩ひ申してゐた事は想察される。. 晩年に近い天福元年に,後鳥羽院の発起せられたと風紋れる肝六人撰なるものに家長 も関係してゐたらしいこと,叉同じ年の暮には定家を訪うて隠岐の事などお噂中上抄て ゐることなどが明月記によって知られる。その時から三年後の嘉繭二年の遠島御歌合の. 時旺既に家長の死後と息捻れるが,彼の妻下野及び子息家清が出詠してゐて之拭家長と 院との関係が深かった事の延長と考へられるのである。もし当時家長が生存してゐたな. らば彼も必ず出詠してゐたに達ひないと息はれる.その御歌合の判詞の中で,院杜家清 の歌の婆に杜家長の愛好してゐたそれに通じるものがあると指摘されてゐる(註一三)の. であって,院も亦彼の事を偲んでゐられた趣が知られるのである。 何,この期の家長紘,豪隆や基家などの障岐の上皇に親近中上抄る歌人達との交渉を もつと共'8こ,一面その人hとは対立的な関係に在った定家をめぐる歌人群と呼ぷべき道 家や教実・公経などの歌会にも列席してゐる。第三期に較べて,更に幅広く歌界に清躍 ●. したと見られるわけであるが,その広がりに杜二つのものが交錯してゐる点があると恩 妹れる.即ち,豪隆連との交渉杜それが隠岐に繋がってゐるといふ意味で第二・三期の. 生活の延長の面であり,道家連との交渉はこの第四期の生活の反映の面であると見られ る。この後者については,家長がこの第四期になって道家に仕へ,彼の娘が道家の女. 公経の孫に当る藻壁門院に仕へてゐた事情を考へ合せて首肯されるのである。 (二)声量年並に年令について 本日記が家長の何才位の時に善かれたのであるれ夫hの記事が彼の何才頃の事であ ったのれ之等縁日記を正確に読む上から是非明かにしたいことなので,その生殺のこ. とも突き止めたいのであるが,却h困簸であり,只今のところ結果も亦明確なものが得 られない.仇て,こゝに紘推測の試案を提示しておくことゝする(, (1)後年に就いて 家長の毅年を,文麿元年で昧あるまいかと臆測するのであるが,その根鞄は次のやうー なものである。 ①. 既に述べたやうに,嘉顧二年七月の遠島御歌合に下野や家清拭出詠してゐるのに. 家長はそれをしてゐ患いし,院縁家長を偲んで判詞を書かれてゐる.之はその時既に鍍 が亡かったことを示唆するものであって,その嘉蕗二年は文麿元年の翌h年仁当る. :. ②. 明月記に見られ考家長の名昧,文麿元年の前年たる天隔元年の十二月せ七日の象.

(5) 家丁長. Ef. 記..●成 立. 考. 41. を以て轟後とし,爾後全く所見がな甘、o天宿元年め明月記k事に政十余国家長の名が紀. されてをり,そのうち入国程除定家に面談してゐ竜ものである糾こ,をれが翌女鹿元年 以後重く所見が無いといふの紘如何にも不審な事である.息ふに,乏杜観月記文麿元年・ の初めから六月宋迄の闇にほんの僅かしか記事が無いO)で突き止められないのセあつv て,実はその間に家長汝逝去してゐたので紘あるまいか'.. (註-四) 為家集に「建長四年前但馬守家長朝臣十三年給縁経」云J&の詞書が見られるが,. ・ ⑧. 之によって逆算すると,家長の毅年は仁清元年といふことになる.'然るに,如願法師簸. に「家長朝臣身まかりて第三年に家清歌土ひ侍しに」云hといふ詞書のある歌などがあ り'之に依れば家長の段年は遅く英知願法師の投年たる仁清元年(3:. E)二年以上前でな抄. れば怒ら恵も、。従って,為家集たいふ建衰四年昧誤記叉昧誤写と見るJT'・きものである. 「建 ところで,それが何其何年の誤りであるのか昧何とも断じ難ヤ、とこ'.ら_で畢るカ;.,... 長」の前が「宝治」卓の前が「寛元」であるが,その「寛帝四年」の執りで紘あるま.∼-、 かと臆測される。もし寛元四年に十三年忌が行はれたとすると,家長Q)毅年は文麿元年 とい占,ことになるのである。. 確言捻出来ないので,この文麿元年逝去説を-試案として提出しておかう と恩ふ,A (2)年令に就いて 家長の年令についての推測も困難ではあるが,或る程度の限定捻出来るのでその点を 述べる。. ①. 涜拾遺集奄八(六-八)に「建保二年秋の十首の歌奉9けるに」といふ詞書があつ. て,家長の次の歌が摘繰られてゐる. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ,数ふれば四十あまりの秋の霜身のふりゆかん果をしらばや 之と 同じ歌かと恩昧れるものが統歌仙落書に牧められてゐて,第二・三旬が「八そぢ ●. ●. ●. ●. ●. ●. あまりの秋の月」. (類荘本)とあるが,建保二年に八十余才といふの娃信じられない.. 之抵次の②のことからも云へることであるし,彼はこの建保二年から更に二十年程を生. き,且つその晩年の頃屡h定家の家を訪うてゐるのであってその頃首才を越えてゐたと 柊考√ヽられないからでもあるo. 放て,統歌仙落書にいふところ杖誤りと見れば,建保二年に「由十あまり」であった といふことになるが,それに依って昧明確な年令を捉Jiる土z:が出来難い.当時のこの 「四十あ皇り」では四十五才を中心にし. やうな「-・・・.あ怠り」の用例を調べてみると,. て前後に二・三年の幅を以て考へなければならないからである。 ⑧ 新勅撰集巷十六(-○八九)に, ∵連の「題しらず」歌があって,その中に家長 の次の歌がある。 ●. ●. ●. ●. ●. ●. 忘れじのゆく末かたき世のなかに六十なれぬる袖の月影. 之?i:,その直前に参る歌が豪隆のもので,〝その義隆の衰昧壬二葉によると為豪卿家百 首の詠である.家長も為家卿家首首なるものを詠じたことが夫木抄によって知られるか ら,上の歌も多分同じ時のものと息昧れるo為家卿豪百首の成立年次紘不明であるが,.

(6) 42. 八. 島. 長. 寿. 壬二葉によるとその時の詠歌の中に「七十q)'あま:如云々の歌詞があるので,後述する. やうな無理が生じないやうJhに仮に康隆の七十二・三才頃のことゝ見れば,為豪卿家百官 の成立年次は覚書元年乃至同二年の頃となる。. -その頃家長が「六十なれぬる」と詠じで. ゐることゝなるが,・これ昧不十二・三才位のことと見るべきでも愚らうか.これ以上の 年配と見ようとすると,. ①の「四十あまり」が余りに五十才に近くなり過ぎて,つま`り. 仮に六十五才と見ると「四十あま、り」の時紘四十九才といふ=' とになり.,そこに無理が 感じられる。`仇て,この「六十なれぬる」を六十二J三才と見ることにすると,建保二 年の「四十あま9」昧四十六・七才といふことになるのであって,その辺に限定するの が略々安当なのでは掛るまいかと息ふのである.・. 前述のやうに限定してみると,家長の生年紘六条天皇の仁安二・三年の頃といふこと になり,毅年を文麿元年と見るならば,享年柱六十六・七といふことになるo侍,後鳥 羽天皇に初めて勤任した菟久七年に昧二十八・九才,和歌所開聞となった建仁元年妊三 十三・四才の頃,本日記を書いたかと恩捻れる承元四年紘四十二・三才の頃といふ見当 に怒る. 笹-.日記では元久二年の春の(ことゝ読まれるが,明月記建仁三年二月二十四日・二十五日の粂並 に如国法師集を参照すると事実ほその建仁三年春のことであって,日記の方を誤記と見なけ ればならない。. 賢二. 後鳥羽院御口伝参照。筒,その歌詞は,新古今集と拾遺愚革とがやゝ近く御口伝と日記とが 近いが,相互に少L宛の相違を持ってゐる。. 啓三. 建久七年に罪蔵人となった時ほ二十八・九才。従って,二十余年といふのほ二十七・入牢と いふことである。その事に関しては(二). 課四. (2)の項で触れてゐる。. 日記には「元久元年」とあるが事実は「元久二年」。誤記か誤写か不明のところであるが,誤 写ではあるまいか。. 悪玉. この法弟王を連久七年四月十七日に亮去された定慧法親王と見る説があるが,それは多分誤 ・であらうム建久入牢四月二十七日に亮去された麓仁法親王でなければならないことは,日記 の記述を熟読する時首肯ぎれるであらう。. 謀大. 本日記上田月記建仁≡年二月二十四日の記事とを併せ見ることによって,兄が渓橋景栄であ ると知られる.。叉,明月記天福元年三月二十三日の記事によって,弟も法橋であったと知ら れ,同文暦元年七月十八・日の条に出て来る「東栄法橋」といふのも,多分その人なのであら うと恩ふ。. 苫七. 尊卑分脈によると親父忠光・J父時長共に蔵人であったT-,家長の兄弟についての記載は無く て,家長が家を嗣いでゐる。. 苫八. 家長の歌の年代の知られる最初のものとしてを皇,正治二年冬の院第二度百首で,当時相当の 歌を詠んでゐることから考へて,それより四年前の建久七年の田仕の頃には既に作歌経験を 持ってゐたと見なければならない。. 課九. 左兵衛尉にQ'ま建久八年十二月三十日に,兵庫現にほ元久二年一月二十九削こ,夫為任じられ てゐることが粥月記によLって知られる。右居助に任ぜられた時期は分らないが,明月記建仁 元年三月十六日の集にほ右麿執として記されてゐるo.

(7) 長. 家. 日. 記●成. 立. 43. 考. 蘇-○麓元御鞠羅旺よをと・棄長牽雅韓などを上とし中・下と三階に分ち・屠長ほその下の八. 一人の申に記号軌てゐ畢。これが正味な記録軸長かは掛ましい点もあるが・参考に・使って みると,日記で紘単なる助苧環&/r勤めた頃のことを記してa,るのであろが,後年にほ多少 ′人数に数へられるに到ってゐたのであらうか○. 賢一一-いづれも任官の時を明かにし熟・、が,東元二年の承元御鯨己に、は兵庫介従五位上乗武蔵介・ ′ 建保三年の四十五番歌合には備前守,簸久二年頃のものと推定される房助法親王五十首に. は但患守とある。之等の年次が夫々の官磯記載の古いところであるが,こぁうち兵庫介並 に武蔵介は他の文献に所見なく,尊卑分淑も之を採用してゐない位で・疑ほしいと見るべ きであらうo. 琵-二. 道助法親王家五十首は,拾遺慶事中巻の日録に承久元年と註してあ-ら,塀従本圃五十首の ●. ●. ●. ●. 奥にほ「建保六年御年二十三」などと註しであったりするので紛らほしいo然し,固五十 首の作者の官位を検すると,棄民が春宮権大夫とな?た東久二年正月二十二日以後一雅経 が参議になった東久二年十二月十八日以前で・要するに蔑久二年のものと見るづきだと思. ふ。倍,雅経の官蔵を墳従本の五十首で見ると参誘としてあるが,明日琴井集には左兵衛 督とあり,それは右兵衛督の誤写と恩ほれる(雅騒が左兵衛督になったことほない)が一 その明日香井集に従って,-雅経の参執こなった時よりは前と見るのがよいと恩ふo ●. 琵一三遠島御歌合の家滞の歌(七十九番右). ●.. ●. ●-. ●. rさ示しさは庭の其柴にふく風の卓よ音信て人ほ間. 来ずJに対して「そよをとづれてとよめるちゞき,哀慕が好左よみしすがたにて,あはれ に見ゆれども」云々と記されてゐる。. 詳-四. 明月記文麿元年七月十八日の粂に「東栄法橋為嘗御使来臨仰云.云々の記事があるが・こ の「宮」がどの宵を指すのかは明かでない。それより数日前の七月十四日にも「東栄法橋 為御使来云々」と記され,その時定家は面会してゐないのであり同じ宮の御使として十八 日は重ねての来訪であると知られるo恩ふに,この宮ほ,その前年天福元年三月二十二日. にその御歌を象長に托されれた「三条宮.でをまあるまいかo即ち,向日の由月記に「但患 ●. ●. ●. と記されてゐるその旨ではある剖,か.その時家長の弟法橋も周行Lてゐ. 蘭司謡謂」. るが,名ほ記されてゐないo家長の持参した御歌の始末がどう なったかは分らないけれど. 恐らく入集されなかつたのではあるまいかoそして,猶大集の嘩金があ串かも知れない事. 態であったが,この度は家長が亡くなってゐたので,嘗てその事で家長に周年トた彼の弟 の(承栄)法橋を差遣托され,入集の損金を捉へようとされたのではなからう・か。. (結果. に於てほ入集されてゐないがo)さうとすれば,<家長の逝去はこの文麿元年七月よりは以 ●. ●. 前のことだったと考?られるのである.鼠家長の兄ほ最栄法橋であり・弟かと推測され ●. ●. る人ほ永常法橋であって,その名の類似も,この推測を授けるものである。. ニ. 成立に、就いて. 本月記の内容娃,家長にとってその生涯の第二期の全部と第三期の初めの頃とに亘る 回想的記録と見られる o. ところで,. -rその成立を次の三点から述べてみたいo・,即も執筆. の国数・.その時罰-・並びに資料の三点からであるー..

(8) 44. 八. 島. 長'. 寿. (∵) 、執筆の回数 本日琴柱一却可成に一回的に書かれ,それ声域る意図によ--'て貴かれ統一的に構成さ. れてゐるものと見るべきであるれ表札′'さうセ転恵くて,何回かt=亘って書き麻がれ 1=ものJE・-・格別の意図の下に構成されてゐる次第で杜ないのであるれいづれとも見え る点があるし・他の項目の基敵こもなる問題なので,:・皇づこの項目を採上繰るo. いづれとも見えると申したが,何回かに亘って書き継がれたかと見える点から吟味を 遜めてみたい.. 日記全体を通じて,建久八年・正治二年・建仁三年・元久二年・建永元年及び森元元 年の少く共六回位に亘って書き継がれてゐるやうに見えるのである・0 ●. ●. ・l例へば日記の胃頭に「非蔵人ゆるされて皇ゐりし披こぞの冬ごろのことなり」とあつ. て・日記を草き始めた時現在を,勤仕を許された年の翌年に当る建久八年のことだと我 ●. ●. ●. 々に息枚せるo叉,俊成の九十の賀の記事の葺き出し枚「ことし三位入道はこ、のそぢ ・q)齢になんみち侍」と参り・その記事の結び蛭「ことしは建仁三年になん侍Jとあって, その建仁三年現在を以てその部分を書いてゐることを示してゐる。日記の後段元久二年 あたりからは「元久元(二の誤-筆者註)年正月に」とれ「新吉今の部類おをまりて此 ●. ●. ●. 四月に侍き」. 「元久二年十月廿七日」などと記事毎に年月を示してゐる。かくて何回か. に亘って・その時又はその年現在を以て記したものを集積して行ってゐる観を呈してゐ るのである。. 然し・それら披見掛け上のことにLtまるのであって,実際放さうでは加、. 例へば・日記の胃頭ほ前述のやうに建久八年現在の執筆であるかと息はせるにも関は らず,その年の経りのところ迄来ると,翌建久九年正月には後鳥羽天皇が御譲位される といふので色々とその心積りがされてゐる様子を記し,筆はなだらかに流れて「正月に 怒りぬo御くらゐゆづり伸させ給て」云hと進んで行くのである.その辺の筆のはこぴ. の緊密さ払到底建久八年の記述に翌九年の分を書き継いで行ったQ)-では生れて来ない 電のものである。恩ふに,建久八年現在を以て書いてゐる如くであったのは見せかけだ けに止まるのであって,それ桧葉感を盛り上梓乍ら書いた為の自然の結果だったと云ふ べきで,決して執筆の時を示すものではないo. 次に,俊成の九十の賀の記事軌確かにをの事O)あった建仁三年十一月からやや後の 記録ではある。然し,それは本日記執筆の時期の間頭とは無関係に独立的に作られてあ った記録で,それとして別個に今日も伝存してゐ名もので.ある.そのやうな記録がすつ. 捲りと日記の中に攻め込まれたのだと恩ほれるDその事7(i:,勅撰集が本日記を資料に用 ひた形跡が無いのに当日の賀歌からは統拾遺集以下に七首程収められてをわ,それらを 攻めてあった記録は或紘家長のものだけだったやうにも恩はれ,その家長の記録が勅撰 集の資料に用ひられたので昧あるまいかと恩縁れる点からも考へちれ,.. ((≡)資料の項. ・③の粂の参照を乞ふ)もう一つ,記録の原′形を推定してみるこ,とからも考へられる (註-)oさうだとすれば,記録そのものは建仁三年から暫くの後に倖られたにしても,そ.

(9) 家. 長. 日. 記. 成. 立. 45. 考. 軌が日記に採録された時明と柱関捻 りの無いものだと云はなければならない.'現にその 九十の賀の記事よりかなり前のところに,定家の娘(後に民部卿満と呼ばれた人)が院. に触してぁると善かれtゐる(璽違背詫/;) 、が・子の人の院に甲めて伺候一. は元久二年十一月九日のこと(明月記・同日の粂参照)なのであるから,その辺9の青己. 事でさへその建仁三年よりは彼の峯に成ると見られるのである.まして'%れより後に出 -て来る九十の賀の記事紘,当然元久二年十一月より後に採録されてゐるのだと見なけれ ばならない。. 日記の後半が-・々年月を明示して書かれてゐる点に就いて云へば,特に最後の記事は. r承元々年しも月に昧」と春草出して,白河殿御堂供養のことを記し,俄いで景勝四天王 院障子歌のことを述べる筆勢を示し乍らそのまま掴輩して了ってゐる0. 「かゝる怠れな. -I t.I∼. ることのめづらかなる.事陳も、かでかとてo」といふのがその結びの女で,や・L筆勢が弱. く何かCt迷ひを感t;させるので紘あるが,や拭り孝で経ってゐ革ものと見たい.この記 事で日記が経ってゐ考のであitば,. 「森元々年しも月」ニそ本日記の欄筆の時期に遠く. ないものと恩は中るのでb.るが,実放さうでは凱1.少く其,その承元々年十一月より 一年以上紘経過した承元三年二月より更に後に書かれたと見Z'べき徴証が,本日記申に ある, (註二)のだカ?ら。結局日記の後半で一々年月を記してゐるの拭,夫hの記事の執 筆の時期を告拝てゐる_Oで往なくて,それは構成上の必要とか配寒とかの反映と見るべ きなのである.. (その事捻後述する。)かくて,何回かに亘って,少く共六回位に亘って. ・書かれたかとの想定は,夫々を吟味してみると(ここに昧部分的に述づキが,凡てを吟 味した結果も同ぢで)成り立ち難いやうに恩はれるのであるo 簸て,数回に亘る執筆で昧ないにしても,実質的な勧察の上から云って,全体が二回. に壷って善かれてゐるのかとq)推測もなされるのである。 といふのは,新古今集編集の仕事が兎も角も一応の区切わに到達して尭宴も行捻れ, 引続き潮解のこと昧・あったが,やがて元久二年六月の詩歌合の歌も切入れられた.それ らの落果,一度入集した歌を切・EBされた人々が欺き合ってゐる様が見るt羊忍びないと記 し,切出された歌例を-・二掲抄キらしい(その部分ほ本文に晩落があって枚つきりと. 昧分ら凱、琵こ禁書/3蓋歪嘉上)o放て・それに統けて「そのゝよ えしかば,かきとめずなりぬ。」と結んである.. 「そのゝよの歌」のところ披底本に街字. があるので,それを訂して読めば「そのよ(負)の歌」である。. ここ迄で,一つの纏りを持ってゐるやうに見える.日記の胃頭から■読んで来て見 ると, ニこで新吉今集形成の仕事が一段落ついたことを示す形かと恩放れるのである.事実,. ここ迄仕事を拭こんで来たところで,和歌所開園としての家長の清動にをま休止符が打た わた如くであることは先に述べたo. ㌧切鮮の事はなほ断続的に行ほれてゐたが,当時の家. 長娃も縁やその仕事に密接関係はしてゐないのであるナ0従って,その時期に新吉今集形 威迄の過ぎ来し芳彦回想しそれ春歌纏めて記してみようとしたといふ事昧,考へ得ると ころである。.

(10) 八. ・46. 島. 長.寿. 加之,前引の結びQ文Q)形を見ると,之も帝や力露い感娃する′ものq)矢張り-j閥纂c)態. 瀞を示してぁる,と云&,.ベきで旺ある患いかo・つ患り,上に指摘した部分までを経めたも のがまづ出来て前段的なものとなトり,それ以下縁故めて補畢的に華かれて後段を成t/氏 ので蛭あるまいb.o要するに,二回に亘って善かれてゐるのかと推測されろのであるo. ㌘) (定言讐写譜慧警髭冨膏㌘ そこで,次の場合に就いて考へてみよう.それ柱,女房尾張が元久元年十月に逝去し 続々類従本大入. 軍こと及びそれに関して院と慈円との間に御暫答歌のあったことが 入貢下段三行目 以. )に記されてをり,それから一年後の元久二年十月にその尾張の冥醇を. 下. tこL記されてゐる,それに就 れた水無顧甲堂供養のことなどが後段(誓謂聖窮去事). いてであるoその両者を放べてみると,互に有機的な蹄係に率ると見るべき点がある.. 即ち,前段尾張逝去の記事の経り近くに,院が尾張の死を何時迄ち忘れ難く恩杜れて ●. ●. ●. ●. ■. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ゐたことを記して「と-しにそ-てわすれがたきなど御ものがたりのついでにもうけ給事 侍き。」とあって,何年か経過するにつれて益々忘れ難いと申されてゐるのであろ。従つ て,その「御ものがたりのついで」柱,逝去の後一年に当る水無瀬殿御堂供養の頃のそ. れを含んでゐるのは勿論で,もつと後年の折のもの皇でも含んでゐると見るべきもので ある。その忘れ難い御心故に御堂供養を行紘れてゐるのであるし,その供養の日の夜, 院昧色々と御心情を側近の人hに語られたらしいのであるが,日記のその部分には単に 「そのよ仰られし事のあはれにわすれがたく侍る。」とだけ書いてある。この簡潔な表現 紘,先の逝去の時の支があったからこそなされたものと息牲れるのである.そして「あ 牲れにわすれがたく」御言葉をお聞きしたのは,. 「としにそへてわすれがたき」御心構が. 語られたからに蓮ひないoつ怠り,その夜のお話拭「御ものがたりのついで」の一つの. 場合だったと息昧れるのである.そのやうな照応に着眼してみると,元久元年及び同二 年の両記事の間にはまことに紫野な有機的,な関連があるといふべきであるo恐らく之払. 尾張に関杜る和歌関係の資料を読み返して争て,元久元年の分を俊威の真去との連想と 時間的接近とからそれ-続けて前段に置き,聖二年の分を時間的な流れに来せてずうつ と後の後段に位置させるといふ方法が採られた結果であらうと推察されるのである。. かくて,前段を以て-先づ筆を描かうとしたので拭・ある患いれつまり二回に亘って 成立したので昧あるまいかとの推測も,実拭当ってゐないと云ふべきであーらう◆o. 前述のやうに,何回かに亘って書き継がれたのでもな-(. ,叉二回に亘る成立でもない. とすると,で軌或る時期に一回的に善かれたのだと考へる他ないわけである.結論的 に拭矢張り・さうであちうと恩ふし,特に日記の前段が概して緊密な国連に於て流れるや うに想を追うて書き進めちれてゐる趣を見ると,その感性深いのである. ただ径段元久二年の水無瀬殿御堂供養の愚た′歩からの隼のはこび柱,流るる如くとは 行かなくて,.如何にも経つん睦つんと∴書き度してゐる嵐じを免れ潅い.特に,それ昧一 つの記事から次の記事に筆が転ず:る時に一h年月を記してゐるあたりに感じられるもの. であって,夫等の記事を貫く有機的な関連性が感じら-れないのである.この点が,一回.

(11) 家. 長. 日. 記. 成. 立. 考. 47・. 的に書かれたと見る場合の大きな難点だと恩はれる。 その点に就いて柱次のやうに考へる.本日記払新吉今集の切継が最終的に経って決 定本が出来上ったと家長が考へた時期に達してから善かれたもので,だかちその構想と して杜新吉今其の完成迄の経緯を措かうとしたには達ひない。然し,その完成段階に入. ってからの家長柱殆どその為の仕事に参加してゐないのであるかち,ノ号の過程を十分に 描く事が出来ない.けれども,.現に出来上ってゐる新吉今集に拭十三首といふ大童の切 入歌を、もつ承元元年の最勝四天王院障子歌が撰収されてゐるのやあって,それ以後院の 御歌などが単独に切入れられてゐるのなどに紘一々触れな吋にJしてち,この障子歌のこ とに往昔及しなければならない._もし,. ・さうしないならば新吉今集の完成迄を描いたこ とにはならない.すると,元久二年の後半から翌建永元年続いて承元元年と二年余に亘. る時の推移を示す何等かq)貴族巷執ることが必要になづて来るわけである.そめ際,日 記全体との調和を破らないといふ配慮の上からなるべく和歌に関係の参る事柄を採上伊. ること杜考ぺられたであらう。このやうな必要と配慮との下に,元久二年毎の水無瀬殿 御堂供養・景基の元服・建永元年の祷改良経の責去などが採り上梓られ最後に最堺田 天王院障子歌に開披るも.Oが記されてゐるのだと見られるoそして,之等の記事の性質. を考へて見ると,前段が新吉今其の形成へといふ方向に略々統一されてゐたのに対し. て,この後段の記事拭新吉今集の完成へと方向づけられ統一されてゐると紘云へないの である。. 上のやうな,時の推移を示すといふ必要性が,一々年月凌記して記事に入るといふ形 を採らせ,一面,夫等の記事全体が統一的に方向づけられてゐないといふその性質が,. 有横的な関連性を感じさせないのであらう.本日記が一回自引こ書かれたと見る上の難点・ に就いてはこのやうに考へられるのであって,〉央張・り,本日記71i:一回的に書かれたと見 てよいであ′らうと恩ふのである。 証一. 京都大学蔵r和歌集Jなるものがそれ。これほ,景彼の「ことしは建仁三年になん侍。」と いふ部分を欠いてをり,それが原本の悌を伝へてゐるのだと思ほれ′る-.鳳家長本新古今集 の奥書に「同三年十一月廿三日入道三晶釈阿賜賀九十算永年十一月入滅九十-於和歌所有此 事子細注Brl紙」云々とある。その「労脂氏.に当るものがこの「和歌集Jの如き形のものであ らう。. 謀二. 家隆が塵永元年に宮内卿に任ぜられたことを記した粂に,「家僕三位入遭jと記されてゐる が・. 家俊の出家した申は東久三年二月十八日であるo従って,そのあた′りぼ同日以後に書かれて ゐると見るべきである。詳細ほ次項(二)の①をこ記す.. (二)執筆の時期 本日記が一回的に善かれてゐると見るなら,ば,で拭そYL.1拭何時頃のことであるのか。 ち,Lそれが或る程度推定出来れば,.成立の動横を考へる土に役立つ筈である.ところで, この事を考へる為に軌 凌確かめておく必要が参るc. まづ,日記が現在のやうな形で経ってゐたと見てよいかどう、か. (結論として昧現形な以て終ってゐると見よう:とす■るので.

(12) 48. 八. 島. 長. 寿. 抹あるが.). 日記の最後の記事娃承元元年十一月廿九日に行昧れた白河殿御掌供養に関はるもの で・その記事に昧晩落も、あるらしいが,:それにしても元来の分量も・少かったと恩牲れる。. のみなら97・・何か勲衰の感じられない一向調子申出てゐない感じのする支なのであるが,, その経のところ柱次のやうな女で結ばれてゐる.. 「こよなうふでをつくせりし埠,しらぬ事なれば,かき布かずo歌どもまたさうじにか かれたればたれもみる事なれど,かかるまれなる事披いかでかとてo」. この女の「ふでをつくせりし」といふの柱襖に書かれた絵に関することで,. 「歌ども」,. とあるの柱その絵に配された最勝四 天王院障子歌を持してゐるoその絵に就いて「しら ぬ事なれば」と云ってゐるのk,主として,それ昧自分に昧解らない方面の事だからと. いふ心算らしく'だからここに書かないと云ってゐるのである。次いで歌のこ.とに及ん で,それは証でも見ることの出来るものだけれど,こ、ん忽大規模な障子歌といふの杜事 柄として柱梯有なことで,この日記はそのやうな稀有の事柄J&記録する心算のもので枚. ないから・絵のことと同様に書き留めないといふ趣意と恩はれるo文意をそのやうに解 するならば,最後の「いかでかとて」の次には「筆をとどめぬ」などとあるべきところ をそれが省略されてゐると見るべきであらう。但,その省略されてゐる部分から直接引. き出されるものは,日記全体の筆を収めるといふ心で杜なくて,その障子歌を書くこと をしないといふだけのも.ので紘ある.従って,上の結びの支の筆追ひを以て,それは日 配朝閤筆する態勢を示すものだとも云へないやうである. 然し,何故このやうな形で終ってゐるのかを考へてみると,央張り上の文で日記全体 を鮭へて欄筆してゐるのだと見てよいかと恩ふ。即ち,既に述べたやうに,新古今集の 完成迄を描くといふ上から杜,この時の障子歌のことに言及しなければならないのであ った。けれども,実情を観察すると,家長はその障子歌の作者にも加へられず,歌に関 する戟旋杜清範がやってをり,家長放任かに定家の指図の下にその手伝をするといふ程 度の役割しか果してゐないのであろ。だから,それは新古今集の完成迄を描くといふ構 想の上から杜どうしても書かねばならないものではあるけれど,.事実に於て捻,家長捜. 殆ど関与してゐない事柄だと云はなければならないo量的にも多く書くべきものを掴ん でゐないし,その事への回想の情感も薄く,熱意を以て書く気特には怒り得なかったで あらうと息はれる.別言すれば,書かねばなら恋いが書かうといぶ情熱紘乏しい,然も それを書けば金棒想披描き鮭へることになる,そのやうな段階に到達してゐたのだと云 へるでもあらう。さうだとすれば,前引の女のやうな障子歌に関して潤筆するといふ形 が,その儀日記全体を潤筆することになり得るわけであらうと恩ふ。進皇ない筆を強い. て運んで来たらしい戟筆時の心理を態すれば,そのやうな尻切わ輯蛤的な掴筆の仕方も 己むを得なかったのであらうかと息紘れるo r以上のやうに考へて,一失張り本日記紘現在のやうな形で給うてゐたものと見たいので あるo-. そこで,一本日記が現形のやう忽形で経ってゐた,と昇i7T・ぼ,承元方年十一月廿九日の自.

(13) 家. ー長 日. 記. ′成 立. 考. 、〈紛. 河殿御堂供養の記事が日記申の最も新しいものといふ事になる.庶も-回的に書かれた. とするならば,本日記,0)執筆の時期娃,'まづこの記事の時よ:り昧後-t 見られるわけであ る.更にその時期な限定するとすれば,どの辺までそれが可能なめであらうかoこ1=に 披その上限の線を考へる為に, ■① 「家僕三位入道」といふ寵し方の土pとと'⑧新吉今其の 「清書」のことを採上W・,次にその下限の練を考へ、る為に,. ⑧公定の琵琶のことを採ヒ伊. て,一つの推定説一承元四年四月廿五日以後同年中に善かれたものであらうとの推定 説を述べてみたいと息ふ, ①. 「家俊三位入道」といふ記し方に就いて ●. ●. ●. ●. ●. ●. 日記の中で家隆の宮内卿に任ぜられた経緯を記した`ところに「宮内卿紘家健三位入道 申こともなかりけれど,子息を侍従になされて,めしてなしたびたるなり.」とある.'之 紘,宮内卿の職に昧従来家俊三位入道が在ったのだが,そして家僕からは子息のことで 何等申請があったわけではないが,その家俊の子息を侍従に任ぜられて,その代わに家. 俊の】故を召上抄,家陰にその官職を賜7/i:つたといふのである.家隆が宮内卿に任ぜらね たのも,. -家俊の子息資殴が侍従に任ぜら:れたのも,共に建永元年正月十三日のことであ. るo家俊が宮内卿を辞した点について杜多少の疑義もあるが,-やはり上の記事の通りの 事実であったであ・らうo. (註-). ところで,上の文中の「家俊三位入道」といふ記し方柱注意されなければならないo その部分に杜諸本共に異同が無く,凡て「入道」の文字を記してゐる。その家俊の出家 したのは,森元三年二月十八日のことであるo息ふに,日記執筆の頃に昧既に「家俊三. 位入道」といふ呼び方が行娃れてゐたので,建永元年の頃の事を書くのに執筆当時の呼 び方に引きずられて,うつかりその俸書いて了ったのに達ひないGニのやうに或る記事 に登場して来ろ人物の官位を当時のものではなく後のものを以て記してある例は,本日 記にかなり多く見られる(註二)のであって,家長の不注意に由るものと見倣される。. 扱て家俊に掛、て「入道」として中る所から見ると,執筆の時期杖当然豪俊の出家L, 「豪傑三位入道」といふ呼 た森元三年二月十八日以後の事と見らるべきである.そ或も, び方に馴染んで来てゐた頃のことと恩娃れるのであって,出家の時から更にかなりの障 を経過してゐたと見なければならないであらうと恩ふのであるo ②. 新古今集の「清書」のこと. 新古今集の切継並に清書のことに関連して,日記に枚次のやうに記してある. 「改発宴おはりてもなを清書いそがれず.其後歌どもいだ-され叉いるも侍りo. やがて. 詩歌合のうたもただしいれらる.このいだされたる人々のなゅきあへるさもきくもつみ ふかくこそ捻べれo. もとより恩かよらぬ事拭さる事にて,い皇はと心つよく、ここよgす. こしくちてみえず,心・うく侯見るもいたく3:その袖皇でもしほたるる・までぞ見え侍.これ をみるに,こと人々もさぞなと息ひしらるo されど清書いまだおはらぬ樫抜海恩ひきら ず,願だていたらぬくまな(・いの少参-りとぞo心ふかきのほど,き・(も参は純なりo ●. ●. そののよの歌くだくだしく見えしかば,かきとめすなりぬo」. 放て,ここにいふ「清書」と昧何時窮のものを指すので象らうかo.

(14) 右0. 八. 上の女の経り近くに「そののよの歌」. 島■- 長一. 寿. -とあるの縁故述の母うに街字があるので,それ. 凄訂して琴めば「その余の歌」であるべ(I,それ軌切出された倦も土患って了ったそれ 以外の歌の例の意味と恩捻れる.従って,前に同様なものの具体的な例が摘をテてあって. .それを受けて善かれてゐるわ抄であるが,その具体的な例が摘抄てあったと恩はれろ部 分が晩落になってゐて諸本共に略々前掲のやうな註記を持ってゐる侍≡)。ところで, 切出された優になって了った歌が幾首もあって,一々柱煩はしいから書き留めないこと. にすると書いてゐる前引の文から察すると,も杜や時期は切継作尭の最終段階に来てゐ るのだといふ印褒を強く受ける.そして,その最終段階の云はば決定本的な「清書」も 故に出来上ってゐるのだと息はれるのである。 で臥. そのやうな決定本的な段階を,家長杜どのやうな時期として考へてゐたのであ. らうかoそれを推察する上に手鋳りになるかと恩はれるのが,家長本新古今集の奥書と して伝へられてるものの次の部分である。. 「建保二二丙子十二月廿日戊辰清書了o. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. (中略)度々出入筏,重承元四年四月廿五日披. 霧畢。其後申出御本於和歌所手自書写之(」 上の奥書に関連して,小島青堆博士も,家長が建保四年十二月に書写した本も承元四 年四月廿五日の披露本と殆ど変らないものであったのではないかと推測されてゐる(「新 古今和歌集の研究」参照)が,矢張りさう見るべきであらう.少く共,家長放その披露 本を後々まで決定本と見てゐたらしい趣が,上の奥書から察せられるのである(註四)。 かくて,家長披この東元四年四月廿五日の披露本を新古今集切継の決定的な段階のも のと見てゐたやうに恩はれる。従って,先に問題として採上抄た「清書」は,この披岸 本の成った時のものを持してゐたのではあるまいかと息はれるのである。 もし上の推測が許されるならば,本日記の執筆の時期杜この承元四年四月以後と見ら れるわけである。これは前条①で述べた豪俊の出家した承元三年二月十八日からは既に. 「家僕三笹入道」といふ呼び方に馴染んでゐた頃とい 一年余を嘩過し7=時期であって, ふ前条の推定とも合致して来ろと恩ふのである。 ⑧. 公定の琵琶のこと. 本日記執筆時の下限の練を考へることも資料が乏しいので甚だ危い感がするが,凡そ 森元四年中といふ線を出してよいので杜あるまいか.. ニこに,何時頃までには書かれてゐたらうかを考へろ手掛りとして,新古今集の寛宴 の夜の管絃のことを記した,日記中の次の部分に注意してみたい。 ●. 「扱も御遊にびわのいかにもしらべあは平られざりし,さばかりみちにたけたる人の, ●. ●. ●. ●一. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. いかなるもののくるほしにか侍けんo御ぜんにてびわをひかるる事も度々侍りきoはじ ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. めたる事ならばやおくしてもはべるべきoただごとにはあらじ.その.i:の事ためしすく ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. なきことなれば,ちやうもんの∧々産も見え奉なみゐ㌍る,ナいゃー奉る事いひあへりけん ●. 激.それにうむじて,い患はぴわをとりてだに昂ずとこそ_o」 この時琵琶を璃奏したのが参議右大弁公定7:・・あったと昧本日記に,も記すところであ.

(15) 家. 長. 日. 記. 成. 立. 考. 5垂. り,. 1御妥抄忽どの記録も之に合致するので,公定の上として考-て誤はないと恩ふ. ところで,このやうな失策談を意味あり桝こ,叉無遠慮に書いてゐるのは何故であら. うか。. 恩ふに,公定が廉廉に処せられてゐた人であることが関係してゐるのではあるまいか.. 即ち,公定は建永元年九月十八日にその砂を解かれて佐渡の国に配薄され,そこで四年 余を喝し,建暦元年正月廿一日に柱許されて非参議となってゐる。流罪に処せられたの. 披彼の子息某基の過畢に就いて茸を間柱れた為で,爾後四年余の闇社会的に葬られてゐ アニわけである.. その期間に家長が本日記を書いてゐるとす孝と,前掲の丈のやうな扱ひ方になったこ とが背かれるやうに恩ふのである.即ち,. 「いかなるもののくるほしにてか侍けん」と. か「ただごとに時あらじ」とかの言葉で家長自身の感想を述べてゐるあたり娃,単に琵 琶の弾奏に失敗したことの偶然の不幸に就いてだけ云ってゐるのではなくて,公定の上 にのしかかつてゐる,もつと大きな運命的な略さを想ってゐるやうに恩はれてならな い。のみならず,. 「いかなる事いひあへりけんな」と,聴衆が非難の声を放ったこと迄書. いてゐるの杜,残酷な位無遠慮な筆遣ひだと云紘なければならない.そのやうな述べ方 をしてゐるの札公定が社会的に葬られてゐる人でその人の上に就七IJては筆を障る必要 を感じなかったからのことであると恩はせる。公定は許されて非参議となった後,氏. 卿に任ぜられ更に権申約言にも任ぜられたのであるが,そのやうに彼が許されて以後な らば当酪障られたであらうと恩昧れる書き振りがされてゐるわけである。本日記申の何 処にも,この場合のやうノに特定の個人の失策について救ひの無い書き振りをし/Tゐると ころ紘他に無い(琵五)のであって,全く異例のことだと云はなければならないo. このやうに考察してみると,本日記の善かれた時期は,或は公定の配流中のことだっ たのではあるまいかと臆測さわ.ち.即ち,流罪に処された建永元年九月以後その許され. た建摩元年一月までの間といふことになる。そして,その建麿元年の前年が森元四年で あるから,日記執筆の下限の線昧承元四年末といふことになるわけであるo. 以上,執筆の時期に就いて考-たのであるが,結局,その上限を,まづ③に於て家俊 三位の出家した承元三年二月以後と推定し/次に⑧に於て新古今集の切継彼の披露本の 成った森元四年四月以後と考へ,その下限に就いて拭,. ③に於て公定の流罪申と見て森. 元四年禾あた-りとーいふ風に推定してみたわけであるo 琵-. 公卿祐任によると,家産はその出家した麓元三年蓮引続き宮内卿であったやうに記されてゐ. るo一方,同書は,家陰に?いて元久三年(産永元年)正月かち東久二年三月迄宮巧卿であ った如く記してゐる.いづれかゞ誤なわけであるが,明月記にほ既に建永元年の記事に「宮. 内.と書いて衰隆を指してゐ、るのであるから,補任は家僕に関する記載の方を誤ってゐるの だと見るべきであらうo 許二. 廟へば, iE冶二重院初度胃嘗の意家の歌を記すIt'-ころぞ「中将定象薗臣」.と亡でゐるが,由 家の中将となったのほそれよ'り二年後の建仁二年閏十月二十四日o支,建仁三年ゐ俊成卿九 十賀記の中位,. 、隆房のことを大嗣言文ほ棒大嗣育と言己し忠良のことを前大約育と記してゐる.

(16) 5:a. ・八、. 島. 寿. +長・. ・が,準房が棒大嗣冨となり,忠良が大岡雷を帝して前大約言となづたのほ共に翌元久元年三 月六日。当時ほ隆房は前申約言,忠良梓現職の大嗣言であった。この事は同九十賀記がやi 時を隔て、ゝ記壕されたことをも示すo. 諜三・註記の野が「こiよりすこしくちてみえず心う・く供Jとあるのほ,図書寮乙本静嘉宝蔵∵本 (聾者ほ乙本と呼ばうとしてゐる)の南本のみ。. 「心うく供Jのところ,他本では話中∵部と. Lて扱はず本文と見てをり,然も「心うつゝ.となってゐるので意味不明。こ-ゝほ底本の形 が`よいと慮はれる。. 雷四. 森元四年九別こ最後の切田しがあったらしい,その事を家長はどう見てゐたあであらうか。 建保四年の書写本の輿書でそれに触れてゐない点は不審で,筒吟味を要することである。. 琵五失策談としてほ,他にもう一つ,瀕具動機脊の席7)途中から多発奉病の為と属ほれるが退 出した・それを上皇が遺憾に慮はれて召寵めにせられた話が記されてゐるo然し・′それは・ 風雅な-挿話として述べられてゐるめであって,公定の場合とほ異った扱ほれ方である。. (≡)資. 料. 本日記が一回的に善かれ1=ものであり・そ′の執筆の時期が東元四年のことと見られる ならば,本日恩の最も初め.q)時期である建久七年の頃払執筆の頃から怯十五年程も前. のことと云ふことになるoそのJP,うな遠い過去に筆を起して,承元元年(註-)迄の十 二年間に亘る様hの憶ひ出を記してゐるわけであるから,何か記憶を弓【出す手掛りやそ れを確かめる資料が必要であったに違ひない。 そのやうなものとして,まづ新古今集がそれかと恩杜れもするが,多分さうで枚ある まい.新古今集の決定本的なものが出来たといふこと払執筆の動機の主要なものでは あらうoその他にも承元四年十月の初め頃既に土御門天皇の御譲位が行はれるだらうと の流説があったらしい(啓二)こと,同年九月の末に和歌のことで家長が昇叙せられた らしい(証三)、こと,同年中に家長に男子出生のことが・あったと思はれる(註円)ことな. ど様々の動機ら↓いものが絡み合ってゐることが記述の腐舶-ら察せられる.けれども, 央張り新吉今集の完成といふ事態が最も主要な動機であらう.従って,それ凌播き或は. 書写した時の家長にとって,それ桧嫌J5の回想を蘇らせる横線となったに披違ひない.. 然し,日記U)中には計二-八首もの歌が収めちれてゐるのに,そのうも新古今集に見ら れるもの昧僅かに一九首にしか過ぎないし,新吉今集と桧直接何等繋がりのない出来事 や歌も多く記されてゐることであるoのみなもず,後述も■するやう七,日記が歌合と新. 吉今集とのいづれを資料としたかを検討してみると歌合の方に拠づ七ゐたと見られる場. 合もあり,更に日記歌の歌詞と新吉今集のそれとが違ってゐる琴合(註五)などもあつ て,日記の資料としての新吉今集昧寧ろ考小難いやうである.. そこで,他に然るべき資料を案じてみるに,矢張り和歌関係のものが大部分であった らうcその証拠に,. (胃頭の部分を除いて)本日記h事の殆どが必奉と云ってよい位に和. 歌を何首.か宛食んでゐるのである..新古今築に全く鱒係を持た恋い,楽人大神景基の元 服の記事さへも,し最後のところ牲景基の叔父式賢達家長との暫答歌で結んで象る程であ. るoをれら資料に使放れた歌の軽′ヽには何等かの詞書が付されてゐ1=かと恩捻れ. それ.

(17) 家. 長. 日. 記. 立. 成. 53'. 考. は簡単な-ものであちう七も記憶を引出すのには役立ったで参らう′bそれらの詞書などの 凡てに正確な年月まで一々記載さオtてゐたと'按恩はれず,その為か義春の年次に誤を生 じてゐるところもある(註六)けれど,中にはそれの明かに記載されてゐたらしいもの. もあつで(註七)それによって記憶を確実たものとして書き進めてゆくといふ事もありI 得たであらう。. そのやうな資料に柱,和歌所開聞といふ職責上から書き留あたものと,公人として見 開叉昧伝聞し或柱自詠したも、ので埠あっても,それを私的な立場七億忘録として記して おいたやうなものノとがあったらう.と恩拭れる.敵童上,歌合や歌会などの記録をI-t/てお くことをまー当然甲;とであつキらラIL,劇tな生活のヰでよく心鋳けてそれを.したらし七′)。 日記中の俊成卿九十賀記や春日社歌合在ど柊,明かにその種のも.のとして記録しておい たものに拘ってゐると見られるD叉,蔵人といふ職に在ったが故に内々の歌を見聞叉昧 伝聞する機会も多かったかと恩はれるのであるが,日記にJ放められてゐる院と慈円との 葺瞥答歌などはその種のものの代表的なものであらう。以上に拳抄た三っの記録類の歌の 集計は-五七首となるから,日記歌の級数二一入首から之を除くと,残るところ昧僅か. に六一首程である.それらは約二○の場合のもので,少数宛の群をなして産り,家長が 他人と,q昏答したものや見開叉拭伝聞したものなどの備忘録だったと恩はれるものがその 大部分であ'る。 ここでは,之等の資料のうち,特に量的にも主要な位置を占め■,且つ本日記の特性を. 夫々の角度に於て形成してゐると恩縁れる上記三種の記録に就いて述べてみたいLo ①. 俊成卿九十賀の記. 之に就いては既に大略述べた((-)執筆の回数の項)ので;. -ここに梓重複を避ける. が,計四三首の歌を含んでゐる.1特に,この記柱それが記録とLして単独に伝存してゐる 位独立性の強いものである点は注意を要すると恩ふ.ニの記事の前後昧甚だ文学的な叙. 述で,記録的な感じ拭寧ろ薄いのであるが,そこへ感触の違った記録性のかなり強いこ の資料をその恵ま挿入したの昧何故で参 らう・かo 恩ふに,本日冒己T/i:新古今集の完成恵での経滞在回顧記述するといふ意図で貫かれてを. り,特にその形成迄の経緯に就いて臥それが豪喪にとっては半生をか抄.7=仕事であづ ただ-馴=・情熱射噴けて書いてゐる趣があ担,そこに本日記の大きたと障陸が参ると恩娃れ ら_ので.ある。その形成過程に於て,. ,この賀.宴の事は誠に忘れ難い程重要な▲出来事だった. に違ひないし,ニの事を逸してはその過程を措いたことに紘ならないとLも云ぺさうであ. ら.然し,そればかりで拭ない.その賀宴の記録を書き改めることをせずそ.のま'患_日記 に収めたのは,端的に云ふと,家長がその記鑑を愛惜して措かなかったからであらうと ●. ●. ●. ●. 恩ふ。現に,後年の家長本新召今集の奥書に於ても冶「於和歌所有此事;子細珪別紙」 と記してその記録のことに言及.してゐる程のもので参り,.云披ば自讃のものであったと さ.へ見られるものであるoこの賀宴蘭係の記録拭,他に九条良経の.. 「筏京極記」. (註八). (詳九)けれど,全歌を網藤tj カ予あり・, rfFl_・家にもこの時の賀の敢の記録があったらしむ.、. 卑-ものとしては或紘家長の記録だ汐が存在したので昧あるまいか。.だからこ・そ家長本新.

(18) 54. 八. 島. 長. 寿. 古今集の奥書でもわぎわざ言及してゐるので杜ある患いか.或軌、当時に於ても家長の 賀の記柱重きをなしてゐたかとも思捻れ,・さうだったとすれば,之を自融こ収めるに当 っても筆を加へること急くそ0)隆の形で収めたいとした気持が肯かれることのやうに息 ふのである。. ②. 院と慈円との御厨答歌. 歌数枚-○七首程で,三回を羊亘るものである.そのうち最初のものは元久元年十月女 房尾張の逝去に当ってのもの二○首で,之杖伝聞による記録であることが,その結びの. 部分「とぞきき侍し」によって知られる。当時家長は水無瀬に院のお供をしてゐたやう であるが,院のお悲しみの深さの故に,側近にも漏らされず,極く内hに厨答されたも のだからなのであらうか.次はその翌年十月の水無瀬殿御堂供養の後の約一七首,第三 杜更にその翠建永元年の良経克去の後の七○首で,この場合は夫々直接に漏れ承った形 である..之は,院の御哀しみにも多少のゆとりが生じられ,或は哀しみの主体で昧あら れなかったりしたので,側近に御自ら御歌などを示されもしたのであらうか。. ところで,この尤大な量の御販答歌から新古今集に収められたのは僅かに二首に過ぎ ず,文事柄から云っても新古今集め形成や完成に直接関はるところは無い0.従って,之 杜俊成卿九十賀の記の場合などとは違った意味で採用された資料と見るべきであらうo 息ふに,本日記に杜上皇の人間象を描き申してゐるといふ特性が観取されるのであるが, その特性を形成する上で主要な資料だったと見られるのである.即ち,日記杜,上皇の. 烈しく強い御性格をもそ申となく措き申す(註-○)と共に,当面の御暦答歌群を含む記 事などによって,上皇の泌々とした優しい一面,つまり人間的な深い愛情や苦悩更に無 常の悲哀感などに,或紘自ら身を投じられ或娃深い同情な表明されてゐるそのやうな御 姿を,熱意を以て描写中上抄てゐると云ってよいo特に,女房尾事の逝去に閑適しては, 恰も源氏物語桐壷の巷に於ける帝の倖を上皇の上に感じ申してゐるところが見られ(証 一-),事実上皇と女房尾宗との御関係は,帝と桐壷更衣との関係に余りにも似通ってゐ. ると申さなければならない.多少文学的に葉化してゐる傾き旺あるものの,之等の御厨 答歌を含む記事によって上皇の人間性の一面を描き申してゐると見てよいかと恩ふ。ニ の点杜,艮経の尭去に関する記事をも含めて云Jtると恩ふのである。 ⑧. 春日社歌合. 元久元年十一月の歌合であるが,この時の疏部成茂の歌を始め・として御教書を賜はつ た七首の歌を含んだ挿話的な記事がある。 ここの記事に出て来る七人の歌人名札伺しじ時に御教書を賜拭った人として明月記 (十一月十日の条)に記されてゐるのLt多少の喰達ひがあるがi多分之紘本日記・明月記. の双方が夫々全部を悉して書いてゐるわ伊で綾ないからであらう。家長は,本日記から も察せられるやうにその時直接御教書の伝蓮にも当ったらしいので,まづこの記事紘信 じてよい主恩ふ.をして,彼紘多分御教書を賜はった歌(人で敷く歌)にそ由旨の註を. 加-セぉいたに達ひない。そめ時敵人徳各i三首宛詠んでゐる由であ畠から,1歌に註し.

(19) 家. 長. 日. 記. 成. 55. 立、考. ておかなかったとすれば,せいぜい件著名位しか日記に書けなかったであらう。それら h勅撰集自体にそのやうな註を加へ 日記にある七首杜全部新吉今集に攻められてゐるが, ておいたとは考へられないから,之は歌合の手超への方にそれをしておいたものと考ら、れろ。∼(註-二). 放て,本日記で歌合の歌を特に掲むテてゐるのは誠に異伊如こ属することで,だからこの 春日社歌合を資料に用ひたのに杜格別の意味があらうと恩はれる.この歌合のことを言己. してゐるのは,寂蓮を始め相次ぐ敵人の死の為に歌界が危機に頻してゐることを述べ, 上皇が特に歌道御奨助の為に配慮された趣を述べようとするところに於てである。つま 歩,上皇から御教書を賜はって歌人連を激赦されようとした場合を描いてゐるわけで,. 新吉今葉形成過程の重要な歌合セあったことになり,俊成卿九十賀の記などと同様な意 味をもつ資料だと云へないことも・ない。けれども;さうした意味でならば干五首番歌合 或は三体和歌など触れられるべきものが他にも多くあるのに,それをしてゐないのだか ら,や法りもつと別の意味が考へられなければならないo. 息ふに,本日記に私見最栄・垂下野・婁の同胞成茂など肉親や家族など私的な関係の. 人々のことを適当に持ち込んで来てゐる点があって,それもーつの特性として準目して よいと恩ふのである.さり抄ない表現の裡に巧みにそれらの人々の上を記述してゐると 見られる節があるのである.当面の歌合に就いてみても,央張り威茂のことを記したい. が為に採上むチてゐるらしいのであって,他の六人の歌をも併せ摘抄てゐるの柱,成茂に縛 する記述を余り際立ったものにしない為に巧みにそれ草してゐ.る甲だ車さ-風早まれるo 以上述べたやうな享穫の資料カ.てもってゐる夫々q)意味,即も新市今集形成-の過程 甲描写,人間上皇の具象イり,草れに私人家長をめぐる人hの記述などが,そq)まま本日 記の内容の主要な傾向を示してゐるやうに恩縁れるのである. 賢一. 続々類従本乃本文によると,日記の最後の記事・白河殿御堂供養の土とが森元二年のことゝ なつ写ゐる為に,本日記に音及してゐる藤巻には凡て,本日記には承元二年迄の記事がある と奮いてある。一之ほ,岡本の誤写に誤られてゐるのであって,他本によって「森元元年Jの ことゝ訂正さるべきである。. 註二. 重卒・森元四年十月一日の条に「慧星今夜も見西方,可恐々々,或人云,俵天変可有御譲位 事云々」とある。. 琵三. 十訓抄第十に,栗田社歌合の時家長が詠歌の賞として「五晶の一階をぞくほへられける」と -いふこrtだったと記されてゐる。それは如願法師集その他によって森元由年九月二十二日の 歌合だったと知られる.この伝泉が正Lいならば,家長にと?ては異数の早い昇進だったP であり,その事は執筆動既を考-る上の参考となる.. 註四. 明月記嘉緑二年三月∵日の琴によると,家長ほ当時十七才であった子息家清を帯同して定家 を訪れてゐる。それによって家清の生年を求めると,親元四年である。家清出生のことは, 家長にその半生を回顧さやる損漆となったのではあるまいか。 ●. 琵五. ■. ●. 経仁三年春大内の花見の記事にある定家の歌ほr年をへてみゆきになれしはなのかげふり行 ●. ●. 身をもあほれとやおもふ」であるが,新市今集(-四五四)では第一・二旬「春をへて御.

(20) 56. 島. 八 ●. ●. 長-. 寿. ●. 宰になるゝ」篤四句「ふりゆく身をば」とあり,拾遺愚革も略々新古今集に同じい。従つ で,日記ほ新古今集に拠らず,家長白身の手控へに拠ってゐたと見られる。 註六. 記事の年次に誤りがあると題ほれるのほ,. (1)建久九年から正治二年乃至建仁元年へ移つ. (2)建仁二年から元久 てゐるやうに見えるところ(続々苓従本六七一貫下段十行目以下) 元年へ移ってゐるところ(同上六七九三下段十大行目以下) (3)元久元年から建仁三年に 逆転してゐるやうに見えるところ(同上六九○真上殴九行目以下)などである。掛土(2) (3)ほ錯簡かとさへ慮はせるところで,之に就いてほ別に稿を成したいが,結論的には資料 に明確な年月の記載が無かった為資料の整理をするに当って誤を犯したのかと屈ほれる■。 琵七. 夫木和歌抄に家隆の歌を掲げて「この歌家長朝臣集云貞応二年三月八幡臨時祭に云々Jと 註してあるo家長の家集が伝存するか否か不粥であるが,このやうに年月を明記してあつ 七備忘録もあって,日記を書く時にも屑ひられたであらうし,後年家集編集の時にも詞奮 を書く上に役立ったであらうと思ほれる。. 証八「複京極記」は「俊成卿九十賀記」として群書替従にも収められてゐて,近衛基通の作とな つでゐるが,艮荘の筆に成ったものであり,歌は女房宮内卿の袈裟の歌・有家朝臣の枚の 歌の二首だけである。記録の内容ほ甚だ正確で,本日記の記述の誤りを訂正する手掛りも 得られる。 註九. 静嘉堂蔵家長日記(乙本と仮称)の犀風歌中綴改良縫の歌の朱の傍証に「此賀歌京極黄門 御自筆にほ」云々とあって,本日記とほ歌順の異ることを注意してある。それほ,定家の 事控へが家長の記鐘とは別に伝存してゐたことを示してゐる。断言は出来ないけれど定家 のものほ或は犀風歌十二首だけのものであったのでほあるまいか,拾遺愚革にも犀風歌は 中巻,当日の詠は下巻に分戟してある。. 許-○. 大神景基の元服に関する記事(続々類従本七00貢下段一行日以下)参照。. 賢一一. 女房尾張が皇子をお産みして間もなく亡くなられた前後の条(同上六八八貫下段十三行目 以下)参照。. 註-二. 春日社歌合(久曾神氏疲本・山岸徳平教授転写本による)の歌順と本日記のそれとは合致 しない○然し,それほ日記に於て官位順に整理して幸いたからのことであって,歌合が資 料でなかったと断ずる根拠にはなるまいと屈ふ。倍,その歌合には年月の記載が存Lない が,之ほ註六の(2)と関係あることである。. (備 考). .. 日記の本文は凡て図書寮乙本に拠った.イ乱大方の御吟味を乞ふ意味で続々群書賛従の本文の位 置を便宜註しておいた。. 昭和二十九年十一月稿. Summary ln. this. report,. I investigated. Therefore,. that. I. studied tile. I concluded. diary that. the. character. bad the. been diary. of Ienaga's written. should. at be. the. called. diary. third. Owing tarn. to in. reminiscences.. study. his. life. the. sub]・ect,. all at. once..

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  東電は、2013 年 4 月末日時点で、6,013 件の和解仲介手続申立書(以下、 「申立書」と いう。 )の送達を受けている。これらのうち

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