西院の中島の松に書かれた﹁落首﹂
﹃後撰集﹄一 0九三番歌をめぐつてー
1 ﹃後撰集﹄巻第十五.雑一に、次のような鼎と歌が見出される。藤原定家天福二年書写本を透写した国立民矣博物盲蔵舎同 松宮旧蔵)本を底本とする新日本古典文学大系﹃後撰和歌集﹄(片桐洋一氏校注)から引用しよう0 西院の后、御ぐしおろさせ給て、行なはせ曾ける時、かの院の中島の松をけづりて書きつけ侍ける 音に聞く松が浦島今日ぞ見るむべも心あるあまは住みけり ﹁西院の后﹂は嵯峨上皇の皇女で淳和天皇の后となった正子内親王(八0九S八七九)である0 西院と通称された淳Π院に 居住したのでこう呼ぱれた。その出家生活を作者は﹁心あるあま(海人/尼)は住みけり﹂と詠んで讃えたのである0 淳Π院 は右京の四条二坊十一町から十四町までの四町を占めた広大な邸宅で(八町説もある)、大内裏の南に位置したため勿めは南 池院と呼ばれたが、天皇の後院と定められて淳和院と改称された。退位した天皇は后と共にここに居住し、山ヨ後、この邸宅に徳原茂実
ちなん澤和天皇と謹された。 淳和院(西院)という邸宅については、早く森短氏の﹃日本庭園史詣﹄に遺跡調査にもとづく実測図や紹介文があり、その 遺跡の所在は一般にも知られていたが、近年では﹃平安京と貴族の住まい﹄に、発掘界等にょる最新の矢見がまとめられて いる0 それらにょれば、淳和院は広大な池と中島にょって特徴づけられる庭園を擁していたとのことである璽白に言う﹁か の院の中島﹂とはまさにその中島であり、歌において、有名な奥州の名所﹁松か浦島﹂を今日こそ見ることができたとまで絶 賛されたのは、この庭園であった。残念ながら、往時のおもかげは現在全く残っていない 0 ﹁徐浦島﹂については、かつて拙稿﹁清涼殿東庭の松か浦島﹂においていささか触れたことがあり、その宇怠につぃて﹁肺 密な地点の特定は必要のないことであって、平安時代の都人には、陸奥国の歌枕として有名な塩竃の浦に浮かぶ島の一つと、 漠然七需されていたと考えておけばいいと思うのである﹂と述ベたが、今もこの考えに変りはないなお、新大系﹃後振手 歌集﹄脚注において片桐洋一氏が﹁中世以来、陸奥の歌枕とする﹁松島﹂の異称か﹂と推測しておられるのは私見とは異な るが、歌枕としては島峨を特定する必要性を認めないという点では、共通の理解にもとづいていると言えよう。 以上、この一首と詞書にかかわる基本的なことがらを整理してきたのであるが、残されたのは作者につぃての問學ある 次節において老えたい。 先の引用に見る通り、この歌には作者名が付されていない。定家本では天福二年本のみならず、貞応二年本においても同様 であって、勅撰集の作者表記の原則をあてはめるならば、直前の一 0九二番歌の作者表記﹁素性法師﹂がこの歌にも適用され、 作者は素性ということになる。ところが片桐洋一氏は新大系本脚注において﹁素性の歌とするには、時代的に無理坊門局筆 二 2
本.堀河本.承保本.正徹本は遍昭の作とし、雲州本・中院本は十具静法師の作とする﹂と述ベておられる0 こうして見る限り、 諸本の中にあって、この歌に作者表記を付さない天福二年本と貞応二年木は、むしろ孤立した存在といってもいいだろうし、 初期の定家本とされている中院本に﹁真さうほうし﹂と作者表記がなされているのも注目されるところである0 正子内親王の出家は承和九年(八四己で、素性の父良岑宗貞(のちの語)はこの年二七歳であるから、その子が旧歌を 詠める年齢に達していたはずはない。正子は元慶三年(八七九)まで存命するから、正子の晩年に至れぱ素性の詠歌は可能で あるが、出家した女性を 7心ある尼﹂と讃えるのは、出家からさほど年月が経過しないころがふさわしく思われるし、何より もこの歌をめぐる宗仮撰集﹄諸本の作者表記は、作者が素性ではないことを一尓唆しているようである0 では、真の作者は謡であろうか、それとも真静法師であろうか。正子の出家の年に二七歳であった遍照({示貞)が詠作可 能であることは言うまでもない。真静法師は﹃古今集﹄恋歌二の五五六番歌詞書にょって、小野小町や安倍造丁(八二五S九 00)と同時代人であることが知られるから、年代的に問題はないし、﹃古今集﹄に二首、珂候撰集﹄に一首が採られた歌人で もあって、作歌能力の点でも問題はない。つまり、一謡も真静もこの歌の作者たる可能性はあり、いずれか一方に決定する艮 拠はないのである。ヨ器集﹄にこの歌を収める伝本が見られるが、 それはこの歌の作者を畿とする﹃後撰集﹄の一本にょ る増補と見られ、これをもつて遍照作の根拠となすことはできない。 ところで私家集に関して言えぱ、ヨ謡集﹄のみならず、﹃素性集﹄の古写本にもこの歌が見出されることは、注目に値するξ一 ﹃遍照集﹄の場合と同様、これらも﹃後撰集﹄を出典として採歌されたものと判断されるが、すると、この歌に作者表己が付 されておらず、そのため作者棄性と判断される﹃後撰集﹄伝本が、定家以前から存在したことは確かである0 定家書写の﹃後 撰集﹄二本において、この歌に作者表条加えられていないのは、定家の独断でもなければ書溶しでもなく、定家は参照した ﹃後業﹄なり﹃荏集﹄にもとづいて、この歌の作者を五とみなしていたのであろう。﹃{疋家八弌少﹄にも、この歌は素性 作として収められている。定家手沢本であったと判断されている色祭﹃素業﹄(冷泉壽雨亭業二平安私家集区斤収) 3
に、この歌が﹃後撰集﹄の詞書と同内容の詞書を付して収められていることも参考になる。 こうして、﹃後撰集﹄諸本の中には、この歌の作者を遍照とするもの、真静法師とするもののほかに,者表記を付さない 本が、定家本(天福二年本、貞応二年本)以前から存在したことが明らかとなった。作者表記か付されてぃなければ、勅撰集 の常識として、作者については前の歌(一 0九二番歌)の作者表記﹁素荏師﹂が業されることとなる。しかし先に述ベた ように、年代的に見て、作者が素性である可能性は高くない。 ここで思い切った推測を加えてみたい。この歌は松の木を削って書き付けられた﹁落聿巳であったために作者オ明で、その ため本来は作者表条加えられていなかったのではないか。﹁遍照﹂あるいは﹁真静法師﹂というのは、この﹁落書﹂の作者 ではないかと世上にとりさたされた名前が、後に書き入れられたものではなかったか。﹃後撰集﹄の作者表記が、﹃古今集﹄の 作者表記や、﹃古今集﹄を範とする後世の勅撰集の作者表記とは異なり、素材の物語的性格が残存した音分を多く含んでいる ことは、片桐洋一氏にょって明らかにされているが、この歌に関しても、﹃古今集﹄的な作名表記の原則とは異なった発想を 読み取らなけれぱならないのではないだろうか。 、六かの院の中島の松を削りて書きつけ侍ける﹂という詞書の張は、元佐撰集﹄成立当時の常隙らすると、この歌が匿名の ﹁落圭艮であることを明確に物語っていたであろう。したがって、作者表記はありえなかったのではないか。定家本(チ福二 年本、貞応二年本)がこの歌に作者表記を付さないのは、はからずも﹃輪集﹄本来の形を伝えているのではないだろうか。 しかし定家は、勅撰集の常N従って、この歌の作者を前の歌の作者と同じ素性法師と認識していたのである さて今、﹁落圭白﹂と言ったが、本準は﹁落圭白﹂について、﹁匿名で、不特定の人々に向けて示される文章や詩歌で、政治批 判や世相風刺、あるいは個人批評の内{谷をもつもの﹂と定義しておきたい。なお、本稿のタイトルに示した﹁落首﹂というの は、中世以後に現れる用雫あり、﹁落圭日﹂の中の、特に和歌や狂歌をさして﹁落首﹂と称したのである。したがって、平安 時代の和歌について﹁落首﹂という言葉を使用するのは、文学史的には正しくないか、本稿か和歌を対象とする弓塗あるこ 4
とをタイトルで端的に示すために、便宜的に使用した。 <護であるが、古代建築や出士木簡等に見出される、古代人にょって記された和歌について、老古学界では﹁落書﹂と説明 されることが多いようである。どうやらこれらは﹁らくがき﹂の意味で﹁落圭凹﹂と書かれているようであり、きわめてまぎら わしい。せめて﹁落書き﹂と表記していただきたいものである。ちなみに、古代人が物に書きつけた文字を﹁響き﹂と認定 することに犠重でなければならないと思う。仮名文字成立以前の古代人にとって、文字を書くのは重大女磊行為であり、 気晴らしや暇つぶしのためになされることは稀れであったのではなかろうか。 平安時代の漢籍における﹁一洛書﹂については、後藤昭雄氏の論考﹁桜島忠信茶閏について﹂、﹁落書拾遺﹂が備わる。まずは これらの御論に依拠しつ?以下の記述を進めたい。 ﹁落書﹂とは日本芳漢雫あるらしく、その初見例は菅原道真の詩に見出される。道轟元奥年(ハハニ)の詩﹁有思所﹂ (﹃菅家文草﹄巻Ξの自注の中で、﹁籍言﹂を誹誘する﹁匿詩﹂があり、その票非凡であるために自分の作ではないかと 疑われたと嘆いている。﹁有思所﹂は、そのような理不尽な中W対する弁明である。道真は翌年、潮海使と詩を応酬したが、 昨年は匿名の詩が巧みな出来栄えであるところから道真作の﹁落書﹂であろうと中傷した世間が、今度は肋海使との贈答詩が 拙劣であると非難することに不快感を表明している(﹁詩地父古調十韻)呈菅著作兼視紀秀才﹂﹃菅家文草﹄巻二)。この場 合の﹁落毒田﹂が、政治批判や個人批判の内{谷をもつた匿名の詩を意味していることは明らかであろう。 ﹃本朝文粋﹄巻十二には二首の﹁落書﹂が採録されている。桜島忠信の﹁落書﹂と、藤原衆海の﹁秋夜書懐、晶文友兼南 隣源処子﹂で、どちらも十世紀半ばごろの作である。いずれも売官が横行する世相を批判し、自らの不遇を嘆く内容となって Ξ 5
いる。藤原衆海は紀在列の変名であるらしいが、﹃水言抄﹄には在列作の別の落書の一樂見出される。その内容は、金で官 職を買った参議大江氏を批判し、抜擢された中納言の清廉さを讃えたものであって、﹃本朝文粋﹄所収の二首の落書と共通性 をもっている。 以上、後藤昭雄氏の御論に依拠しつ?平安時代前中期の落書について略記した。これらは漢詩にょる落書であるが、一方、 和歌にょる落書はといぇぱ、平安時代を通じて、それらしきものの存在は稀れである。和歌(特に狂歌)にょる落書が﹁落首﹂ と呼ぱれて流行しはじめるのは中出の軍記物語からで、中でも﹃太平記﹄における落首のおびただしさは、早くから注目され (注9) ている。 狂歌とは異なり、和歌は杼情の具であるから、政治批判や世相風刺などに適さないことは明らかである。したがって、和歌 にょる落京可能であるためには、和歌の内容のみならず、その和歌を取り巻く政治的・社会的状況とがあいまって、不特定 の人々に工疋のメッセージを発信することができるものでなければならない。本稿で問題としている﹃後撰集﹄の歌について、 そのよ、つな観点から検討を加えてみょう。 6 ﹁音に聞く業浦島今日ぞ見るむべも心あるあまは住みけり﹂という歌は、西院の苑池の見事さに感嘆し、その邸宅のある じである正子内親王の道心をたたえた一首である。歌枕(松が浦島)と掛詞(海人/尼)にょってあやなされ復美な和歌で あって、これだけ見れば、何らの政治批判も世相風刺も読み取ることはできない。 ところで、これが正子内親王ヘのメッセージであるならぱ、作者は歌を紙に書いて内親王の侍女に託せばいいわけだし、そ れがかなわぬ卑賤の身であれば、ひそかにそれを縁側にでも置いて、侍女が見つけてくれるのを待てぱよかろうと思う。作者 四
がこの歌を、西院の中島の松を削っ亙白き付けたのは、不笠疋の人々の目にとまることを期待したからにほかなるまい。不特 定の人々へのメッセージというのは、系国たる条件のひとつである。 では、正子内親王の出家生活をたたえる内容の和歌を、匿名で、不特定の人々の目に触れる所暑き付けるというふるまい に、何らかの政治批判・世相風刺の目的があったとするならぱ、そこにはどのよ、つなメッセージが隠されていたのであろうか。 まっ先に思い浮かぶのは、正子内親王が、承和九年(八四二)七月のいわゆる承和の変で廃太子となった恒貞親王(八二五 S八八四)の母であるという一事である。内親王が出家したのは、その年の十二月五日であって、息子の廃太子事件が出家の きっかけであったろうことは容易に想像できる。恒貞親王自身、その年の八月十三日から、淳和院オ、西院)に居住していたの であった。 近現代の研究者の間では、承和の変が藤原良房τ派にょるでっちあげであった可能性が大きいとされているようであるが、 事件当時においても、そこに陰謀の匂いをかぎとって、誓<親王の廃太子に憤り、母正子内親王や事件に連座した多くの人々 に同情するむきがあったにちがいない。内親王の出家生活をことさらに賞賛するこの歌を、母子が住む西院の中島の松に書き 付けて不特定の人々の目にさらすという行為は、事件の被害者ヘの同情にとどまらず、事件をあやつった人物や政治勢力に対 する批判に直結するであろう。 ここで承和の変について、教梨臼的なおさらいをしておきたい。承和九年(八四二)七月十五日に嵯峨上皇が崩御、その直 後の十七日、春宮坊帯刀舎人伴健岑、但属荏寸橘逸勢ら倫反の企てが八怨兌し、直ちに彼らは捕えられ、尋問された。そのきつ かけとなったのは、阿保親王から皇太一得瓢日子(嵯峨后、仁明母)に届けられた璽臼で、それは直ちに中納言良房に手渡さ れた。そこには﹁今月十日に伴健岑が来て﹃まもなく嵯峨上皇が亡くなられれぱ、必ずや国が乱れましょう。東宮を奉じて東 国ヘ向かおうではありませんか﹄と言った﹂二臼かれていたという(﹃続日本後紀﹄承和九年七月十七日条)。尋問の末に、伴 健岑は腰国ヘ、橘逸勢は伊豆国ヘ配流となったが(逸勢は配流の道中で死去)、事件はそのレベルにとどまらなかった。東 7
宮恒貞親王は廃太子のうきめを見、大納長原愛発は職を奪われて京外ヘ追放され、中納言藤原吉野は太宰権帥として、参議 春宮大夫文屋秋津は出雲権守として左遷({夫質は沸)された。連座して器された者綣熨十余人に及んだという(同七 (注玲) 月二十六日条) 0 承和の変ののち、貴族社会においては、事変を企てた人々はもとより、それに加担した人々や、保身のために傍観した人々 の中にも、かなり後味の悪い思いにとらわれるむきがあったろうことは、{谷易に想像がつく。西院倉仔和院)において行い済 ましている正子内親王と恒貞親王(法名恒疲)母子は、彼ら貴族層の良心を痛ましめる敕のような存在であったに違いない。 このような状況の中で、西院の中島の松の落書(落首)は、人々の前に示されることとなったのである。 五 8 本節では、平安貴族社会において、承和の変の記憶が長らくの聞、一種のトラウマとなって底流し、陽成天皇から光孝天皇 への不可解な皇位継承にまでそれが影を落としているのではないかという憶測を述ベる。日本史研究の専門家でもない私が、 (注Ⅱ) このような問題について論じるのはおこがましい限りだが、かつて和歌史上における光孝天皇について論じた時から気にか かっている問題について、ひとつの仮説を提出しておきたいと思う。なお、陽成天皇の退位と光孝天皇の即位に関しては、河 (注2) 内祥輔氏の﹃古代政治史における天皇制の論理﹄から多くの知見を得た。 元慶八年(八八四二月、陽成天皇が退位した。その直接の原因となったのは、前年の十一月十日、殿上に持していた源益 が﹁格殺﹂されたという事件である。益は帝の乳母である紀全子の息子で、おそらく帝の側近の一人であったろう。事件を伝 える﹃日本三代実録﹄は﹁禁省事秘、外人無知爲﹂として犯人を明記していないが、このようなもってまわった書き方自体、 帝の犯行であることを強くにおわせていると言えよう。
天皇にょる殺人というとんでもない事態は、このような天皇を生み出した責任は誰にあるのかという深刻な反省を、貴族層 に突きつけはしなかったであろうか。一体どこでボタンを掛け違ってしまったのか。その時、彼らの脳裏に浮かび上がったさ まさまな歴史的事件の一つが承和の変の悲劇であり、そのため西院で出家生活を送っている恒貞親王(恒寂)ヘの冊促たる感 情が増幅されたとする推測は、次にあげる事実からして、かなりの妥当性があるのではないかと思う。 事件を受けて、藤原基経を首班とする台閣の人々は、ほどなく後継天皇の人選に取りかかったであろう。陽成天皇に近い皇 胤としては、天皇の同母弟である貞保親王(母は二条后高子)、異母弟である貞辰親王(母は基経の娘佳珠子)がおり、いず れも母方の血象らすると、これ以上ない好条件の持ち主である。後世の目から見ると、この二人のうちいずれかを選ぶのが、 いわゆる﹁摂関政治﹂の常道ではなかろうか。ところ鳶局皇位を洪だのは仁明天皇の皇子・時康親王(光孝天白悪であっ たし、さらに驚くべきは、時康親王に白羽の矢が立つに先立ち、恒貞親王に対して即位が鴛ぎれたという一件である。 その事実は正史には記し留められていないが(﹃三代実録﹄は陽成天皇9織者選びに関しては一切記していない)、﹃恒貞 (逹]3︺ 親王伝﹄にょれぱ、太政大臣基経は左大臣源融、右大臣源多と共に親王のもとに赴き、皇位に即くよう從類したが、親王は僧 籍にある自らが還俗して帝位に即くことなど考えられないとして謝絶し、絶食して意志の固さを示したので、基経たちはあき らめて時康親王を迎えたというのである。 承和の変において廃太子の処分を受けた親王に即位を需tたというこのエピソードは、承和の変が無実の人々を罪に落と した陰謀事件であったことを台閣の人々が認めたという、重要な意味をもつている。天皇にょる殺人というシヨツキングな出 来事に深刻な反省を迫られた台閣の人々は、このような事一き立ち至ったそもそもの淵源は、承和の変において当時の政権担 当者が犯した巨悪にあると判断し、陽成天皇のル輪者淫にあたっては、承和の変にょって契に東宮となり即位した文徳天 皇の子孫(すなわち霜天皇や陽成天皇の兄弟)は視野の外に置くとYつ条件のもとで、承和の変において退けられた恒貞親 王を第一候補としたのであろう。親王が承引する可能業ほとんどないことは承知の上での鴛共ろうが、親王の名誉回復の 9
ためにも必要なプロセスと判断されたにちがいない。 恒貞親王の拒絶を受けて、台閣の人々は改めて人選に取りかかったのであろうが、文徳天皇の子孫を除外するという条件の もとでは、秀良親王(嵯峨天皇の皇子、仁明天皇の弟)、時康親王、国康親王(いずれも仁明天皇の皇子)の三人しか残らない。 この中から、年齢、母系、人柄などが勘案されて'原沢子(基経の母の姉妹)を母とする五十五歳の時顎王が淫れたの (注N) であろう。 陣の定の席上、左大臣源融が﹁近き皇胤をたづねば、融らもはべるは﹂と自薦したという﹃大鏡﹄上巻のエピソードは、き わめて興味深いものである。陽成天皇の後継選びが、文徳天皇の子孫を除外し、仁明天皇を起点とするという条件のもとで話 し合われたであろうことを、この融の発晉は明瞭にあらわしているからである。仁明天皇の弟にあたる融は、臣籍降下してい ものの、まさに一﹁近き白^情L﹂一にほかならない。^ブくt尭臣一の言己述のイ言東頁悩ーカゞ問陌^となろう力ゞ、同じ言舌を (注5︺ 伝える﹃古事談﹄にも融の発言として﹁近々の皇胤を尋ねらるれば、融等も侍るは﹂とあり、これが確固たる伝承であったこ と力知らオーよう。
ホび
ヲ長集﹄雑一に収められた一首﹁音に聞く条浦島今日ぞ見るむべも心あるあまは住みけり﹂分 0九三)を取り上げ、そ の県白の張や諸本間の作者表記の異同についての検討を通じて、それ至名で不特定の人々に示された荒白であったろうこ とを推測した。承和の変が多くの無実の人々をまきこんだ陰謀事件であったことは、おそらく当時の貴族社会における常識で あり、そのような時代相の中で、正子内親王の出家生活を賛美するこの一首は、事件に連座した人々への同情にとどまらず、 ひいては当局者ヘの批判にもつながりかねない落書であったと考えてみたのである。-10-ところで、和歌・狂歌にょゑ索白(落首)についての従来の研究においては、平安時代の和歌が注目されることは、ほとん どなかったようである。実際、一釜国と判断できる平安期の和歌は多くない。本稿で取り上げたえ佐撰集﹄の一首は、和歌にょ る荒目倫矢と位導けることができるであろうが、それ蝶難文の政教性の彫鄭下における和歌の可能性の萌芽ででもあっ たのであろうか。そして、その後の平安誤史における﹁落首﹂の器お乏しさは、その可能性の頓挫を物語っているのであ ろうか。これらについての検討は、今後緑題としたい。 、 (1)森短﹃日本庭園史話﹄(昭和五六年五月 NHKブツクス)五二ページ以下。 (3 西山良平・藤田勝也編著﹃平安京と貴族の住まい﹄(平成二四年六月京都大学学術出版会)一六ページ以下(西山氏執笵)、二九七ペー ジ以下全口川義彦氏執築)。 (3)拙薯﹃古今和糖(四崇﹄(平成一七年四月和泉ψ匡所収届保殿東庭の松が浦島1西本願寺本躬恒集の本文校訂1﹂。初出は﹃和 歌解釈のパラダイム﹄示成一、 0年一一月笠間、匡。 (4)冷条時聖文庫蔵,築=料祭﹃花山僧正条﹄。一私'系大成﹂冠照Ⅱ﹂の条た1稔蔵(五一 0 ・一二)本はその写し。 (5)西本願寺本﹃素性集﹄、冷泉家時N丁文器・色紙本﹃素性染﹂(﹃条染大成﹄﹁素性1﹂の底木)、同文庫密紙本﹁素性集﹄(﹃私家 集大成﹄﹁素性Ⅱ﹂の底本たる尊経瀏文庫本の親本)など。 (6)片桐洋一﹃古今集以後﹄(平成三年一 0月)所収﹁﹃後撰集﹄の否﹂(初出は昭和二年五旦、あるいは新日本古典文学大系﹃長 和系﹄解説など。 (7)後礁雄一平安朝漢斈W﹄(顎五七年九河桜楓社)所収﹁桜島忠得書について﹂。初出は昭和四二年。 (旦ル傑昭雄︻平安朝漢文文献の研究一(平成五年吉川弘文館)所収﹁落冉拾遺﹂。初出は昭和五七年。 -
11-(9)島津忠夫﹃中世文学史論﹄(昭和五四年十一月和泉書院)所収﹁響・落首﹂(初出は昭和四四年)など参照。 (W)川尻秋生﹃平安京遷都﹄(平成二Ξ年六月岩波新書)の次の一節は、承和の変の歴史的意義につぃてのわかりやすい解説となっている。 ﹁この事件の背景には、﹁淳和1恒貞﹂対﹁仁明1道康﹂という父子どうしの対立があった。本人たちはともかく、恒貞親王の周りには、 春宮坊の官人、そして淳和天皇の近臣であった愛発(希朝の蔵人頭、娘右貞の妃Y吉野(淳和朝の蔵人頭、正子の皇后宮大夫)・秋 津(恒貞の春宮大夫)などが集まって派閥を形成する一方、道康の周辺には、良房をはじめとする藤原北家とその縁者が集まっていた。 こうした人々は﹁藩邸の旧臣﹂とNれ、もし、親王が即位すれぱ、その縁故で高位・高官に抜擢されることが期待された。いわぱ、白 分の将来をかけて派閥を形成していたのである。/事件の真相は不明な宗多いが、この事件でもつとも利益を得たのは藤原良房であり、 彼の策謀であった可佐は拭いきれない。史業掲載されている﹃曾本後紀﹄は、良房らの手にょって編纂されたため、自身の立場を 悪く書くはずもなく、真相は不明だ七言うこともできる。,ノ、小ノなくとも承和の変の結果として、以後、皇位は父子相続ヘと変化すること になった。これにょり、しぱらく皇位継承は比較的安定することになる﹂(県白五四ページ)。 (Ⅱ)拙稿﹁和歌史上における光孝天皇の位置﹂。注(3)の拙著所収。籾出は昭和六二年二月。 (口)河内祥輔一古代政治史における天皇制の論理、(昭和六一年四月吉川弘文館)﹁第六光孝擁立問題の視角﹂ (W)﹃続馨類従﹄伝部所収。なお、河内祥輔氏は注(泛)書におい工この話を伝える﹃恒貞親王伝﹄の一一即と﹃扶桑略記﹄元慶八年二 月四日条との比較検討にょって、﹃恒貞親王伝﹄の本来尋名は署〒強王伝﹄であった可能性鳶いこと、作者は紀長谷雄であろうこと、 この件に関する一伝﹄の器については十分に信頼できること等を述ベておられる。 (H)即位ののち、光孝天皇が全ての子女を臣籍に降下させていることなどを根拠に、光孝天皇は一代限りの中継ぎとし途ぱれたとする河 内氏説(注馨)は馨力がある。なお、光孝天皇の後継について、基経はじめ台閣の人々がどのような見通しをもつていたのかにつ 11 ては、よくわからない。想像するに、光孝天皇の在位がしばらく続く冏に何らかの△星忌が出来上がるのを待とうという心づもりであった ところが、まだ△昼忌が形成されないうちに、わずか三年<永で崩御という結果となったのではないか。宇夕夕天皇の登極は、まさに瓢箪から -
12-駒という事態であったろう。 (巧)古典文庫﹃古亊談上、(昭和五六年三月現代思郡)の小林保治氏にょる読み下し。 (玲)﹃和歌大謎﹄(昭和六一年三河明治轡院)の﹁落首﹂の項(県忠夫氏執笆あるいは鈴木巣三編﹃落首辞典﹄(昭和五七年九月 東京堂出版)など参照。 (W)たとえぱ一千載集﹂雑中(一 0七0)に﹁都移りなどきこえけるまたの年の春、白川の花ざかりに、女の手にて花の下に落しおきて侍 りけるよみ人しらずかくぱかりうき世の中にいかにして春は桜のなほにほふらん﹂とあるのは、その一例。これは前年に福原遷都を 強行した平家政権ヘの批判を嘗苫する落書であろう。 (とくはら・しげみ本学教授) -