批判哲学における教育の意義
批判哲学 と称 され るカン トの哲学で批判の対象 とされた ものは何 よ りも先ず心的能力である。感 性 とい うも,悟性 とい うも,あるいはまた理性 と い うも,それはつまるところ心的能力の ことであ る。 この よ うな心的能力を発揮す る主体はい うま で もな く人間であるが, もとよ りカン トにあ って は人間の概念は多義的である。人間の概念には経 験的な個 別的具体的人間の概念 もあれは,また抽 象的な一般的人間の概念 もある。 このことは,教 育につ いて論ず る場合にす こぶ る重大な意味を もつo
教育 の 目的が何であるにせ よ,現実の教育作用 の対象 は具体的人間であ り,またそ うであらねば ならない。 カン トの 『人間学』や 『教育学』をみ ても, このことは明白である。ただ彼にあっては 具体的 な個人の教育が考察 され る場合に も常にそ の背後 には塀 (Gattung)としての人間すなわち 人類が予想 されていた。個(Individuum)として の人間すなわち個人はあ くまでも人類の一員 とし ての個 人であ り,人類に与 って存在 し得 るのであ る。 しか しなが ら個 は直接に類に関与 し得ない。 個 と類 を媒介す るものが種(Art)であるよ うに, 個人 と人類 を媒介す るものは国家である.すなわ ち個人 は国家を介 して人類に与 り,人類の 目的は 国家を介 して個人に伝達 され る。われわれは,教 育の意義を考 える場合に も,常に このことを念頭 におかなければならない。個人は国家において公 氏 (Biirger)として現れ る。それ故にカン トは国 家のことを公民的国家組織 (biirgerliche Ver -fassung)ともい うのである。また個人は人類に 与 るが故に,世界公民 (Weltbiirger)ともな り 得 るのである。 カン トの教育学にあっては,個 と しての人間は究極的には世界公民を 目ざす ものと澁
谷
久
されてい る。またカン トの倫理学では適法性 と道 徳性の問題が しば しば論 じられてい るが,これ ら 両概念の問題は,教育 とい う見地か らすれば,個 人 と公民 と世界公民の問題に置 きか えられ る。 い うまでもな く教育の 目的は人間の 自然 素 質 (Naturanlage)の完全なる展開にある。だが し か し, カン トに よれは,この 目的は過去において 必ず しも十分に達成 されなか った。 カン トに とっ てはあらゆるものが批判の対象であ り,教育 もひ と りその例外ではなか った。彼は当時の教育全般 に大いなる関心を抱いていた。 カン トに よれば, 教育は公的教育 (6ffentlicheErziehung)と私 的教育(Privaterziehung)に大別 され る。私的 教育の典型は家庭教育であるが,彼 自身は家庭教 育に必ず しも高い評価を与 えていない。 カン トに よれば,家庭教育は しば しば家庭の欠点を現すの みか,更にそれを蔓延 させ る(1)。 彼は,世の両親 がいかなる目的をもって,いかなる仕方で子 ども の教育を行 うかに大いに関心を寄せ,当時の世間 一般の両親が もつ教育方法をかな り厳 しく批判す る。 この批判の内容は今 日の教育においてもなお 妥 当性を有す るように思われ る。 カ ン トは例えば 次の よ うにい う。「両親は一般に子 どもを現 在 の 世界に- た といそれが堕落 してい よ うとも-ふ さわ しい ように しか教育 しない。だが両親は, 将来 もっとよい状態が もたらされ るよ うに,子 ど もを よ りよく教育すべ きであろ う(2)。」彼は更に次 の よ うに述べ る。「両親は家を憂 え,君主は 国 を 憂 える。 ともに世界の福祉 とか,人間性の向か う べ き,また人間性がその素質を もつ ところの完全 性 とかを究極の 目的にす ることはない(3)。」家庭教 育のみでは生存 目的を十分に達成す るよ うに人間 を仕向けることはできない。家庭教育にあって も子 どもを未来に向けて教育 しなければならない。 教育は常に未来を指向す るものでなければならな い。ひとは現実に存在す る世界に満足 してはなら ない。現在の堕落 した世界を克服 し, よ りよき状 態 の世界を未来に実現す ることは,人撰普遍の課 題 である。 この ような課題の解決には,何 よ りも 先ず人間の教育が必要である。 しか し,カン トに よれは,当時の家庭教育は必ず しも教育本来の使 命を果 していなか った。それ故に公的教育が見直 され,それに新たな照明が当てられた。 「一般に練達性の側面か らだけではな く,公民 の資格 とい う点か ら見て も,やは り公的教育のほ うが家庭教育 よ り有利 なよ うに思われ る(4)。」公的 教育の担い手は国家である。国家は公民に対 して 一方 では 自由を保障 し,他方では強制を与 える。 国家 と公民 との関係は自由と強制をめ ぐって展開 し,国家を構成す る公民の教育に も自由と強制が 要求 され る。「教育の最大の問題の一つは, 法 則 的強制に服従す ることと, 自分の 自由を使用す る 能力とを, どの よ うに して結合できるか とい うこ とである(5)。」自由と強制 とい う相反す る二つの契 機を人間の陶冶において結合す ることが教育の最 も重要な課題である。確かに教育においては個人 の 自由は尊重 されなければならない。 この ことは 他者の自由を侵 してはならない ことを意味す る。 この ことか らして教育に強制 も要請 され るのであ る。人間は教育 されなければならず,また教育 さ れ得 る。 これが教育の前提である。「人間は 教 育 されな くてはならない唯一の被造物である(6)。」こ れがまさに カン トの教育学の出発点である。 人間が教育において成長す ることもまた教育の 前提である。人間が成長す るとい うことは,国家 の立場か らすれば,人間が初めか ら自由と強制の もとにある公民 としては存在 しない ことを意味す る。いかなる人間 も先ず子 どもとして存在す る。 われわれが子 どもにおいて例 えは品性の陶冶をす る場合に,陶冶の対象になるのは公民の品性では な く,あ くまでも子 どもの品性である(7)。 子 ども は教育を介 して子 どもか ら公民- と成長す る。人 間の成長段階に応 じて教育はその内容 を 異 に す る。すなわち 「学課的陶冶が最 も早 く,また第-の陶冶である。なぜ なら,怜帆はすべて練達性を 前提 してい るか ら。怜仲ほ は,自己の 練 達 性 を りっはに売 りつける能 力である。道徳的陶冶は, 人間がみずか ら洞察すべ き原則に基づ くものであ るか ぎ り,最後の陶冶である。 しか し,それが常 識に基づ くものにす ぎないか ぎ り,そ もそ もの最 初か ら,そ して 自然的教育において も即刻考慮 さ れねはならぬ。 さもなければ,とか くいろいろな 欠陥が根 ざして,あとでは, どの ような教育術 も 無効になるか らである。練達性 と怜帆 に 関 し て は,万事年齢に応 じて行なわれなけれ ば な ら な い (8)。」 カン トに よれば,陶冶は四つの段階か ら成 る。 すなわち陶冶は (1)訓 練 (Disziplinierung od. Disziplin)- (2)教化(Kultivierungod.Kul -tur)- (3)開 化 (Zivilisierung)- (4)徳 化 (Moralisierung)と進み,徳化を もって完成す る(9)。 陶冶の これ ら四つの段階は,彼が『人間学』 で論 じた人間の素質 と深いかかわ りを有す る的。 更にまた人間の素質 と彼の歴史観にみ られ る歴史 の発展段階 とは密接な関連を有す る的。 カン トの 教育論で特筆すべ きことは,陶冶の四つの段階が 個 としての人間ならびに類 としての人 間 の 発 展 と完成 とい う点か ら論 じられてい るとい う事実 で ある。 またカン トが人倫の立場か ら人間を諭ず る 場合に も,その板底には教育に対す る深い理解 と 強い関心が秘められている。彼は例えば次のよ う にい う。「(1)人間の粗野な 自然性から,すな わ ち 動物性(quoad aclum行為に関 しては)か ら脱却 して,人間性- それに よってのみ人間は 自か ら に 目的を立てることがで きるのであるが- にま で到 るべ くますます向上に努めるとい うこと,人 間の無知を教えることに よって補全 し,人間の誤 謬を改善することは,人間に とって義務である。 そ して このことは,人間に とってただたんに技術 的一実践的理性に よって彼の他の意図 (技巧の) のために勧められ るものではな く,む しろ遺徳的 一実践的理性がそれを彼に端的に命 じ,彼の内に 宿 る人間性にふ さわ しくあるよ うに,この 目的を 彼の義務 とす るのである。(2)人間の意志の開拓を 高揚 して最 も純粋 な徳の心情- すなわちそ こで はつま り法則が同時に彼の義務に適 った行為の動 機になるのである- にまで向上 させ ること,そ して義務からしてその法則に したが うこと, この ことこそ内的なる道徳的一実践的完成 な の で あ
る佃。」 人類 の歴史をみた場合に,国家の成立は画期的 な出来事 である。国家においては人間は単な る個 人ではな く,む しろ公民である。国家の成員 とし ての公民 は国民 と称 され る。国民の法的属性につ いては 『人倫の形而上学』で幾っかの規定がなさ れてい る的。 それ らは20世紀の今 日において もな お十分に法的批判に堪 え得 るもの と思われ る。そ れ らの規 定の依拠す るところは何 よ りも先ず 「自 由」であ る。 確かに カン トの人間観の基調をなす ものは 自由 の概念である。公民は相互に他者の 自 由 を 尊 重 し, 自己 自身は 自由の主体である。 しか し,公民 といえ ども,そのおのおのは紛れ もな く一個 の生 活者であ る。いかなる動物 も生-の欲求を有す る よ うに,人間 も一個 の生活者 としてほ生-の欲求 を有す る。人間は生を維持す るには財を獲得 しな ければな らない。それには練達性が必要である。 カン トに よれば 「練達性 とは,任意の 目的すべて に対 して じゅ うぶんな能力をもつ ことである純。」 それ故に練達性は極めて大 きな教育的 意 味 を も つ。国家の成員である国民は先ず一個 の生活者 と して存在す る。それ故に人間が公民になる前提 と して練達性の形成は必要不可欠である。練達性の 具体的な姿は技術 とそれを駆使せ る労働において 端的に現れ る。けだ し練達性が人間の技術的素質 に深 くかかわ るか らである。教育を論ず る場合に も労働 の意義は大いに考察 されなけれ ば な ら な い。「子 どもが働 くことを学ぶのは,きわめ て た いせつな ことである。人間は働かな くてはな らな い唯一 の動物である。人間はた くさんの用意 をす ることに よって,は じめて生計の資を得 ることが で きるよ うになるのである咽。」子 どもは働 く習慣 を身につけな くてはならない。そ して労働-の傾 向性が教化 され るのは学校においてである。学校 は強制的教化の場所である咽. カン トにあってほ教育の二大契枚は 自由と強制 である。 これ ら二つは互いに相反す る性格を もち なが ら,教育においては常に統一 された形で存在 す る。 また,そ うでなければならない。すでに触 れたごと く学校 は強制的教化の場所であ り,そ こ で子 どもがその意義を学ぶ労働 もまた一種の強制 である。 とか く何事で も遊び と看 なす傾向が子 ど もにみ られ るが,遊び と労働はおのず と異 なるも のである。子 どもの自主性や 自由は大いに尊重 さ れなければならないが,彼 らが社会的に未熟であ るが故に,時には彼 らに強制の意義を理解せ しめ なければならない。 教化 された人間は開化 され,更に徳化 されなけ ればならない。カソ トは と りわけ徳化に大 きな教 育的意義を認めた。 カソ トの教育学においては陶 冶の過程が しば しば 自由との関連で論 じられてい る。訓練は,それが単に過失を防 ぐとい う限 りで は,消極的な陶冶である。 ここでは人間にみ られ る原始的 自然つま り動物的素質が問 題 で あ る。 「訓練は,人間がその動物的衝動に よ り,人間の 本分つま り人間性か らそれ ることのない ように予 防す る。訓練は,た とえば人間が粗野かつ軽率に 危険を冒す ことがない よ う, これを拘束 しな くて はならない。 したが って,訓育は消極的な ものに す ぎず,つま り人間か ら野性を取 り除 く行為であ る附。」カン トの論述か らも明らかなごとく,訓練 は教育の最初の段階であ り, したが って教育 とし てはす こぶ る不完全な段階である。「それで 訓 練 はその機能を主 として,子 ども自身にまだ分別が ない最初の時期 に果すのである的。」人間は 自己 自 身に よって 自己の行動の計画をたてなければな ら ない。「だが人間はす ぐにそ うはで き ず,未開 の 状態で生まれて くるのであるか ら,他の者が代わ ってそれを してや らな くてはならない伯。」人間は と りわけ幼少時には他者 の意志の影響を受けなが ら成長す るが,それで もなお 自由を求めている。 訓練は教育における受動的な部分を さすが,それ とは対照的に徳化は教育のす こぶ る自発的な部分 を さし, ここでは教育は 自由との関連において問 題にされ る。 徳化は教育の最終的段階であ り,教育の究極的 課題である。徳 化 とは,理性に従 って行為す る習 慣を人間が身につけ ることである。訓練 と徳化 と は本質的に異な る。徳化は先ず格率に基づかなけ ればならない印。 徳化における第一 の 目的は品性 を樹立す ることにある。品性 とは,格率に従 う行 為に熟達 してい ることである糾. 徳化の可能性に は,人間の自由意志の自発性が前提 と さ れ て い る。 自由意志の 自発性 と徳化は密接不可分 の関係 にある。 カン ト倫理学の根本原理か らすれば,前
者 は後者 の存在根拠 であ り,後者は前者 の認識根 拠である。徳化は 自己の自由意志に基づ くもので あ り,他者 の意志に基づ き得ない。徳化は 自己陶 冶である。 道徳の問題は心術 の問題 である。われわれの行 為が道徳的であるゆえんは,何 よ りもその動校に 求められなければな らない。端的に義務の念か ら な され る行為のみが道徳性を看す る。 もとよ り義 務 と強制 とは異な るが, このことは教育における 強制の意義を無視す るものではない。教育 とい う 観点からすれば,子 どもは未熟者であ り,それ故 に,彼 らがやがて公民 として公民的国家組織 の構 成員になるには,その品性を陶冶 しなければなら ない。 カン トに よれは 「子 どもことに生徒の品性 には,まずなに よ りも従順が必要である。 これに は二通 りあって,第一は指導者 の絶対的な意志に 対す る従順 であ り,第二は指導者 の理性的かつ善 と認められた意志に対す る従職である田。」前者は 絶対的従順であ り,後者は 自発的従順 と 称 さ れ る。遵法の精神を養 う点において両者はいずれ も 重要な意味をもつ。けだ し人間は公民的国家組織 において公民であろ うとす る限 り,自己の屈す る 共 同体 としての公民的国家組織 の法に従わなけれ ばならないか らである。法の遵守は 自己の単なる 好みによるものではない。人間が公民 として生 き るためには,自己の好まざる法で も遵守 しなけれ ばならない場合があ る。 このよ うな場合に対する 心構 えを子 どもの時か ら養わなければならない。 すでに触れた ごとく教育の二大契按は 自由と強 制である。 自由と強制 とはおよそ相反す るもので あるが,広 く陶冶の 目的はまさに この両者を結合 す ることにある。次にカン トの考 えを要約 してみ よ う。- 児童の品性を陶冶す る場合に,あらゆ る事物に一定の法則が存在することを児童に認め させ るとともに,児童を法則のもとに立たせなけ ればならない。例 えは学校教育において教師は総 ての児童に公平でな くてはならない。 もし公平を 欠いて特定の児童を偏愛すれば,教師 自身が一般 的法則に反す ることになるからである。児童を一 定の法則の もとに立たせ,教師自身 も一 定 の 法 則に従 って教育活動を行 うならは,公的教育は家 庭教育 よ りもは るかに勝 ってい る的。 公的教育に あっては,ひ とは 自己の力を測 ることを習得 し, 他者の権利に よって自己が制約 されていることを 学ぶのである朗。 さて,カン トは教育に関連 して しば しば 自由に ついて語るが, この自由は 『純粋 理 性 批 判』や 『実践理性批判』の先験的 自由とはい ささか趣を 異にす る。先験的 自由は一つの理念である。 した が ってそれは経験 の うちに現れ るものではない。 しか し,彼が教育学ない し教育論で語 る自由は必 ず しも先験的 自由ではない。いな,む しろそ こで は 自由は経験的なものとして しば しば語 られてい る。けだ し教育学は教育 とい う経験的営為を問題 にす るか らである。 カン トが現実にな されている 子 どもの教育に閑適 して説 く自由は,他者 との閑 適における自由である。子 どもを 自由に させてお くことは,教育においては確かに重要であるが, その自由は他者の自由を妨げるものであってはな らない。或 る者 の自由は他の者 の自由と共存する ものでな くてはならない。 このことを 考 え あ わ せ るな らば,公的教育の方が私的教育に比べては るかに勝 っている。教育においては総ての人間に 先ず 自由が保障 されていなければならない。 自由 が保障 されて こそ総ての人間が平等であ り得 る。 自由の もとにおいてのみ総ての人間は対等の人格 の所有者である。公民的国家組織 の構成員たる人 間は公民 として対等の人格を有する。学校 とい う 組織 も公民的国家組織 との塀比において理解 され る。大宇宙に対 して小宇宙が考 えられ るごとく, 公民的国家組織 との類比において学校は 「小規模 の公民的国家組織餌」 と称 して もよいであろ う。 ところで,教育の 目ざす ところは人間における 自然 を文化の状態-高めることにあるO もとよ り ここでい う文化は最広義の文化である。人間は 自 らの内的原理によって 自己を文化の状態へ と促す が,文化の状態に達す るには, これのみでは末だ 不十分である。 カン トは,人間を 自然 の状態か ら 文化の状態へ と促す ものを人間相互の関係の うち に も求めた。 これがすなわちAntagonismusで ある。彼は人頬の歴史 の うちに,人間の不和を通 じて和合を実現 させ よ うとす る合 目的 性 を 認 め た。Antagonismusは非社交的であるが故に却 って社交性を求める。Antagonismusは結局, 人間の非社交的社交性のことである糾。 人類 の歴 史 にみ られ る進歩の原理がAntagonismusに求
め られ る よ うに,公民的国家組織における進歩 の 原理 もまたAntagonismusに求められ る。 カン トは公民 的国家組織 との類比において公的教育を 理解す る。彼は家庭教育をその典型 とす る私的教 育 よ りも公的教育が優れているとしたが,両者 の 相違は一 つにはAntagonismusの有無にかかわ る。公的教育における競争心が進歩の要因をなす のであ る。教育には適度な競争心が要求 され る。 徳化は教育における最終 の段階であるが,カ ン ト に よれば,私的教育は これをゆるがせ に し て き た。公的教育 と私的教育 との相違点の一つは徳化 の有無にある。「完全な公的教育 とは,教授 と 道 徳的陶冶 の両者を結びつける教育である餌。」 公民には道徳的陶冶は欠 くべか らざるものであ る。道徳 性の欠如す る社会は不完全な 社 会 で あ る. ところが,カソ トに よれば 「われわれは訓練 と教化 と開化の時代に生 きているが,まだまだ徳 化の時代に生 きているとはいえない餌。」公民的国 家組織 は公民の幸福のために道徳的陶冶を要求す る。道徳的陶冶に与 る人間のみが公民たるに値す る。道徳的陶冶 と公民 とは不可分 の関係にある。 しか し,道徳的陶冶の実現は必ず しも容易ではな い。それを阻止す るものが至 る所に存在す る。道 徳的陶冶 の障害 となるものは取 り除かれなければ ならない。 もしそ うでなければ,道徳的陶冶の実 現は と うてい不可能であろ う。公的教育における 道徳的陶冶には長い歴史的経過が必要である。道 徳的陶冶を含めて一般に公的教育の問題は国家の 歴史ない し民族 の歴史 の問題 と深 く関連す る。広 く一般 に人類 の歴史的発展は教育 とい う面か らも 考察 され る。人頬の歴史は人間に よる人間の教育 の歴史 である軸。 公民的国家組織の発展は公民の教育に負 うとこ ろがす こぶ る大である。公民の教育で先ず問題に なるのは公民の 自由である。国家が発 展 す る に は,国家は公民 の自由を承認 しなけれ ば な ら な い。国家の発展は第-に富の増大を意味する。国 家が富 を増大せ しめ よ うとす るならは,国家は産 業の振興 と発展を図らなければならない。それに は先ず公民の自由の東詔が必要である。 もとよ り この自由は先験的 自由ではない。それは外的 自由 である。外的 自由について,カン トは 『人倫 の形 而上学』で再三論述 している。 さて,共 同体 の成 員はだれ しも,共 同体におけ る身分階級のいかな る段階に達す ることも許 されていなけ れ ば な ら ず,いかなる者 も自己の才能 と勤勉 と幸運に よっ てそれに達 し得 るのである的. 公民 も,国家 とい う共 同体 との関係を離れてみ るならば,それぞれ 一個 の個人である。個人の自由はあ くまで も尊重 されなければならない。 カン トの教育論の背後に は類が予想 されているが,現実にな され る教育 の 具体的対象は個人であ り, 私人 (Privatmann) である。「すべての教化は私人に始ま り,そ こか ら 広が ってゆ くのである。 よ り広い傾 向性を もち, 世界の福祉に関心を寄せ,未来のよ りよき状態 と い う理念を感得す る能力ある人々の努 力に よって だけ,人間性が しだいにその 目的に近づ くことが 可能 となるのである糾。」 カン トに よれば,当時の権力者には 自己の意 図 を国民が実現す ることを望む ものもあ り,国民が 自然界の一部にす ぎない と看 なされ ることもあ っ た。 このことに関連 してカン トは次の よ うに い う。「その場合に も,せいぜいなお練達性は 望 ま れているわけであるが,それはただ臣民を 自己 の 意図のための道具 として,ますます よく利用 し う るためである。 もちろん,私人 もまず 自然 目的を 念頭に置かな くてほならないが,次はまた特に人 間性の発展を も念頭に置 き,また練達性を備 える ばか りでな く礼節を も備 えるよう心がけ,最 も困 難 なことではあるが, 自分 自身が到達 した ところ よ りも子孫を前進 させ よ うと努める, とい うこと を心がけな くてほならないのである的。」公民が さ まざまな職業で活躍す るには確かに練達性は必要 である。そ して公民の繁栄 と国家の富 の増大 とが 相即の関係にあるならば, このことは ま さ し く 国家の願 うところである。 しか し,教育は この段 階で終 ってはな らない。人間が徳化 され ること, すなわち人倫にかなって人間性を展開す ることが 更 に要求 され る。教育は徳化をもって完成す る。 もし国家やその支配者が教育におけ る徳化の重要 性を等閑に付す るな らば,公的教育の健全なる展 開は期待で きないであろ う。徳化は公的教育の究 極的 目標であ り,一つの理念である。 お よそ教育 活動が存在す る限 り,それには何 らかの 目標がな ければならない。教育は現在 よ りも,む しろ未来 を指向す るものでなければならない。「子 ど も は
単に人質の現在の状態だけにふ さわ しく教育 され るべ きではな く,む しろ人炉 の将来可能なよ りよ き状態にふ さわ しく,換言すれば,人間性の理念 とその全使命 とにふ さわ しく教育 され るべ きであ る的」 とカン トはい う. ところで,カン トの倫理観によれは,道徳性 と 幸福 とは必ず しも一致 しないが,幸福であるに値 す るには,人は少な くとも遺徳性を行為の原理 と しなければならない。道徳性 と幸福 とが直接に結 合 しない故をもって,道徳性を断念 し適法性に趨 ることがあってほな らない。教育 とい う営為は確 かに経験的な ものであ り,教育の対象 となる人間 もまた経験的な存在である。 しか し,それだか ら とい って教育の原理を経験のみに求めることがあ ってはならない。常に教育は高速な理想をもたな ければならない。「教育の理論-の構想は, り っ はな理想であるがた とえわれわれがそれをただち に実現で きな くて も, さしつかえない。た とえ, それを実行 してゆ く場合障害が起 こって も,われ われはただちにその理念を幻想的 と考 え,それを 美 しい夢 とけなす ことだけは してはならない朗。」 もともと理念は経験 の中にまだ存在 しない完全性 の概念にはかな らないか らである軌) 教育の 日ざ す ところは人間の完全性でなければな らない。結 局,それは人間が内にもつ 自然素質の完全なる展 開にはかな らない。 「ともあれ人類 はそれ 自身が 自己の幸福の創造 者であるべ きだ し,またあることがで きる。 しか し人類がそ うなるだろ うとい うことは,人穎 にづ いて私たちに知 られている自然 の素質か らア ・プ リオ リに推論 され るとい うものではない。それは む しろ経験 と歴史 とか らしてつ ぎのごとき期待を もって推論 され るだけである。すなわち,よ りよ い ものに向か っての人類 の前進 に絶望す るのでは な く,あらゆる怜I利と道徳的模範 とを も っ て し て, この 目標に (各人ができる限 りにおいて)接 近す ることを促進す るのに必要なだけの,根拠の ある期待である印。」国家が完全なる公民的国家組 織へ と発展す る過程は教育 とい う人間的営為の過 程 と相即の関係にある。教育がいかなる形態 をと るにせ よ,その成果は歴史 の過程において徐 々に 現れ る。人類 の進歩への教育成果の現れ方は極め て緩慢である.現実にな され る教育の対象は個 で あって類ではないが, しか し単なる個 の完成が歴 史 における教育の 目標ではない.個 の完成は類 の 完成につなが るものでな くてはならない。教育は 類 の完全性を 目ざしてなされ る。個 に関するいか なる教育 も茄 の完全性につなが るものでな くては ならない。 カン トが教育 とい う場合に先ず念頭に あったのは,理念 としての,人類 の教育である。 この理念に導かれて具体的な教育が展開 され るの である。歴史 におけ る教育が人類 の教育 として上 か ら下に向ってな され るといわれ るのも,まさに この意味においてであろ う餌. それでは教育 とい う営為を推進す るものはい っ たい何であろ うかo思 うに人間は個 として も類 と して も不完全性を免れ得ない。 この不完全性 こそ がまさに教育の推進 力である。お よそ完全なるも のには進歩はあ り得ない。停滞ない し衰退がある のみである。現実の人間は不完全であ り,まさに それ故に教育が存在す るのである。不完全 とは, 可能性が末だ十分に開発 されていない ことの謂で ある。つま り,それは人間の自然素質が末だ十分 に展開 されていない ことを意味す る。 カソ トに よ れは,人間の 自然素質には善への萌芽 しか含まれ ていない。人間の自然素質に関 して彼はす こぶ る 楽天的である。 この ことは,彼が絶大なる確信 と 信頼を人間性に寄せていた ことに由来す るのであ ろ う。彼は例 えは次のよ うにい う。「よき教育 こそ は,まさに世界のすべての善が生ず るもととなる ものである。人間の中に潜む萌芽が,ますます発 展 させ られ さえすれば よいのである。なぜなら, 人間の自然素質の中には,悪への根拠は兄いだ さ れないか らである。 自然を規則で終 らないとい う こと,それだけが悪の原因なのである。人間の中 には善への萌芽だけが潜んでいるcg。」自然を規則 で縛 らない ことに悪の原因があるとい うことは, 逆にいえば,教育にあっては人間の自然を規則の もとにおかなければならない ことを意味す る。 カ ン トが教育における強制の重要性を説 くのも, こ の点か ら理解 されなければならない。教育 とは人 間の自然を規則のもとにもたらし,それを征服す ることである。 自然を征服することは 文 化 で あ る。 したが って教育は文化の一形態である。それ はまたあ らゆ る文化の源泉である。
註
◎
この研究 ノー トは, Ursula Krautkr五mer,Staatund Erziehung,JohannesBerchmans Verlag,Munchen 1979の カン トに関す る論述に 即 しなが ら,自分な りの考えを まとめた ものである。
(1) Vgl.Ⅰ.Kant,P左dagogik.In:I.RantsWerke, hrsg.V.ErnstCassirer,Band VIII,S.4671
(以下,本著作集を K.W.と略記す る。訳文 は 理 想社版 『カソ ト全集』に よる。以下同様。)
(2) I.Kant,PZidagogik.In:K.W.,Band VIII,
S.463. (3) Ibid.,S.463. (4) Ibid.,S.467. (5) Ibid.,S.468. (6) Ibid.,S.457. (7) Vgl.Ibid.,S.492. (8) Ibidリ469. (9) Vgl,Ibid.,S.464f. (lq このことについては次の拙稿を参照 さ れ た い。 「教育 とその理念- カソ トの教育 思 想-
」(
『長 野大学紀要』第9号- 1979年3月- 所収)〔2〕 の部分。 (ll) このことについては以下に掲げる拙稿で多少論 じ たが.いずれ稿を改めて詳細に論 じた い と思 う。 「カン トの哲学体系 における人間学の多 義 性」(日 本哲学会 『哲学』第26号- 1976年5月- 所収), 「カン トにおける目的論 と歴史哲学」(『長野大学紀 要』第7号- 1977年12月- 所収)0的 Ⅰ.Kant,DieMetaphysikderSitten.In:K.
W.,BandVII,S.196f.(訳文は理想 社 版 『カ ソ ト全集』に よる。)
(1う カソトが国民の法的属性 として挙げ るものに(1)汰 則的 自由 (gesetzlicheFreiheit),(2)公民的 平 等
(burgerlicheGleichheit),(3)公民的独立(burger・
liclleSelbstZindigkeit) がある。Vgl.Ⅰ.Kant,
DieMetapIlySikderSitten.In:K.W.,Band V
I
I,S.120.(14 I.Kant,P去dagogik.In:K.W.,Band VIIT,
S.464.
89 Ibid.,S.483. 的 Vgl.Ibid.,S.484. 的 IbidりS.457f.
姻 UrsulaKrautkr五mer,StaatundErziehllng
,
S.87.89 Ⅰ.Kant,P註dagogik.In:K.W.,Band VIII,
S.457. 餌 Vgl.Ibid.,S.491. (2D Vgl.Ibid.,S.492. (掴 Ibid.,S.492. 餌 Vgl.Ibid.,S.492f. 朗 Vgl.Ibid.,S.468.
餌 UrsulaKrautkr謹mer,StaatundErziehung
,
S.93.¢q Vgl.I.Kant,Idee zu einer allgemeinen GeschichteinweltbiirgerlicherAbsicht.In: K.W.,BandIV,S.155.
鮒 I.Kant,P畠dagogik.In:K.W..Band VIII,
S.467. 銅 Ibid.,S.465.
倒 Vgl.Ⅰ.Kant.Anthropologieinpragmati -scherHinsicht.In:K.W.,Band VIII,S.219.
朗 Vgl.Ⅰ.Kant,UberdenGemeinspruch:Das maginder Theorierichtigsein,taugtaber nichtfiir die Praxis.In:K.WりBandVI
,
S.375.糾 Ⅰ.Kant,P畠dagogik.In:K.W.,BandVIII,
S.464. 餌 Ibid.,S.464.
陸中 Ibid.,S.462f. 糾 IbidりS.460.
鯛 Vgl.Ibid.,S.460.
(姻 Ⅰ.Kant,Anthropologie in pragmatischer Hinsicht.In:堤.W。BandVIII,S.223.(訳文 は理想社版 『カ./ト全集』に よる。)
抑 VgI.Ibid.,S.223f.
88 I.Kant,P畠dagogik.In:K.WりBandVIII,
S.463.