作中人物は生きているかIII : 「ピュグマリオン効果」
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(2) 作中人物は生きているかⅡ −「ビュグマリオン効果」− 西 原 千 博. 作中人物についての考察の続稿であるが、今回は「ビュグマリオン効果」を取り 上げる。「ビュグマリオン効果」(Pygmarioneffeet)という言葉は、近年教育学や. 心理学の分野で使われているが、本稿では元々のギリシャ神話に基づく意味でこの 言葉を使いたい。ビュグマリオンが自ら作った女性の像に恋をし、女神に祈ること でその像が人間となったという神話である。 「ビュグマリオン効果」について、ヴイクトル・ストイキツアほ『ビュグマリオ ン効果J(松居知生訳・ありな吾店)において次のように述べている。. キュプロスの彫刻家ビュグマリオンが、自分の作品に恋をし、寛大さに満ちた 神々がその作品に生命を与えたという話は、西洋文化におけるシュミラークルの 最初の偉大な物語である。その射程は、他の「起源の神話」のそれとはまったく 異なる。ビュグマリオンの物語の特異性は、彼のつくった彫刻が何も(誰も)模. 倣していないという点にある。彫刻は彼の想像力と彼の「技能」の産物であり、 神々が花嫁として彼に与えた女性は、杏妙な存在、魂と肉体を与えられた人工物、 だがそれにもかかわらず、ひとつのファンタスムである。それはまさしく、ひと つのシュミラークルなのである。 ストイキツアは「シュミラークル」という問題に注目して、「ビュグマリオン効果」 について考察しているが、本礪ではこの引用の後半、「魂と肉体を与えられた人工物」 という点に注目して、この言葉を用いたい。ストイキツアはさらに次のようにも述 べている。. 「ビュグマリオン効果」の「発展」は、連動やさらには「生命」のシュミレー ションの諸方法の発展を、意義深い仕方で二重化している。「ビュグマリオン効果」 は−繰り返す必要があろうか−ひとつのテクスト、比類なく巧妙なテクスト、. すなわちオウイデイウスの『変身物語』において誕生した。そこにおいて アニマシオン 「生命賦与」は、言葉、そしてただ言葉のみの力に託されている。 本稿の目的は、ここでいう 「生命賦与」を中心として、「ビュグマリオン効果」 の「発展」についての考察(実際には紹介になるだろうけれど)をすることにある。. 特に、現代のマンガや映画にはこの「ビュグマリオン効果」に影響された作品が多 く見られるのではないかと考えるからである。ただし、それらの作者に「ビュグマ ー1.
(3) リオン効果」の「発展」という自覚があるかどうかは解らない。 なお、最初に述べたようにあくまでもこれは、「作中人物は生きているか」とい うテーマに連なるものである。彫刻も生きていないという点では作中人物と同じあ り、生きていると捉えられる点においても同様なのである。しかも「ビュグマリオ ン効果」においては、まさに命のないものに命を与えることがテーマになっている。 ただし、作中人物は言草であったり映イ象であったりするが、基本的には2次元の存 在であるのに対して、彫刻は立体であり3次元のものである。そこに大きな違いが. あるとも考えられる。けれども、本稿ではその「ビュグマリオン効果」をモチーフ にした小説やマンガ、映画などを取り上げるのであり、その点では作中人物と同様 に2次元なのである。彫刻についての魅力そのものについて述べるなら、3次元の. 彫刻の特徴に注目しなければならないが、その形態的な特徴や魅力といったものに ついてはほとんど言及しない。 Il. まず、ビュグマリオン神話について確認しておこう。オウイデイウスのr変身物 語(下)』(中村善也訳・岩波文庫)によれば、キュプロス島のビュグマリオンは現. 実の女性に失望して、「持ち前のすばらしい腕前によって真っ白な象牙を刻み」女 性像を作る。そして、「みずからの作品に恋を」するのである。その後ウェヌス神 に「象牙の乙女に似た女をいただけますように」と願ったところ、この像が命を持っ て生身の女性となり、さらに、パボスという子供も生まれたというものである。 この神話において、ビュグマリオンがつくった像が、生身の人間となるには3つ. の条件が考えられる。 一つ目は、愛情である。ビュグマリオンが深くこの像を愛したことがこの優に命 を与え、またこの像も彼を愛することになったのである。なお、「ビュグマリオン 効果」といえば、この愛情の相関関係が一番強調されるが、本稿では命のない象牙 の像が命を持ったことを「ビュグマリオン効果」の中心としたい。 二つ目としては、信仰があげられる。女神を深く信仰することにより、女神の力 で命を持つことになったのである。 三つ目は、彫刻家としての腕前である。先にも「すばらしい腕前_lとあったよう. に、ビュグマリオンの彫刻家としての腕前のすばらしさが条件としてあげられる。 中条省平氏は、これらに加えてフェティシズムなどをあげている。 自分で作った條に恋をして子どもまで儲けてしまう男の話で、いくつかのテー マが含まれています。まず一つはフェティシズム、物体に対する過度の愛着です。 言ってみれは、ダッチワイフの愛好者とか、バービー人形を集めるオタクもこれ と同じことで、それを「あいつは変態だよ、いまだにバービーちゃん集めてるん だから」と言って切り捨てたら、皆さんの想像力もそこでストップすることにな る。そこを、これはもしかしたらビュグマリオンの話ではないかと思い至ったら、 バービーオタクを主人公にしてビュグマリオンの現代版が需けるかもしれない。 一2−.
(4) 実際『ビュグマリオン』という戯曲を書いた人もいます。ジョージ■バーナード・ ショー。(中略)『ビュグマリオン』の物語は皆知っていますよね。ミュージカル. や映画では「マイ・フェア・レディ」というタイトルになってますから。自分の 理想の女性を作ろうとした学者の喜劇です。 ビュグマリオンのもう一つのテーマは、純粋な愛情の物語であることです。そ して最後には人間と像が一体になり、子どもまで生まれる。この場合、人間の愛 の純粋さ、強烈さが奇跡を引き起こすまでに高まっているわけです。つまりこの 神訴には、人間の愛は、物体の変身を促し、さらには一体化まで可能にしてしま う超自然的な奇跡を生む強さを持っているのだ、という考えも含まれているので す。 (㌻小説家になる』一ちくま文庫). ただし、中条氏の指摘するフェティシズムは彫像、あるいは人形そのものに対す る愛情であり、先にも述べたようにその点については本稿では詳しく論じることは しない。また、理想の女性をつくるというテーマについても本稿では取り上げない。 人形と言えば、溢澤龍彦は「ビュグマリオニズム」を「人形愛」と翻訳している。 「人形愛」という新造語を初めて文章のなかで使ったのは、たぶんわたしだろ うと思われるが、当初の私の意向では、この言葉は、ヨーロッパで用いられてい るピグマリオニズムの翻訳語のつもりだった。 (『少女コレクション序説』一中公文庫−). 「ピグマリオニズム」という言葉は、当然ビュグマリオンからきており、「ビュ グマリオン効果」と同様の意味を持つ吉葉である。(表記上ピグマリオンとビュグ マリオンとがあるが、本稿では本文ではビュグマリオンに統一したい。)引用に「つ. もりだった」とあるように、「人形愛」という言葉は、ビュグマリオンを離れて、 文字通り人形を愛することの意味として使われたのである。当然、中条氏の指摘す る「フェティシズム」の要素が強い。ただ、彫刻と人形ではかなりそのもののもつ 意味合いが違うかにみえる。彫刻は芸術的なものであり鑑賞すべき対象だが、人形 は愛玩物として捉えられるだろう。けれども、先にあげたストイキツアは、そもそ も彫刻ではなく人形ではなかったかという指摘もしている。とすれば、「人形愛」 と「ビュグマリオン効果」とは同じような意味として捉えられてもよいだろう。特 に、滝澤が当初の意味での「人形愛」はまさに同じような意味であったのだから。 そこで、本稿でも、彫刻だけではなく人形も考察の対象としていきたい。 順番が逆になったが、ストイキツアは彫刻が象牙で作られたことに注目して、「象 牙の中から切りだして加工されたビュグマリオンの彫像は、小型の像であったと想 像しなければならない。」と指摘している。象牙である以上等身大の像など作れる わけはなく、彫刻と言うよりも人形と冒うべきだというのである。また、すでにそ の当時人形を愛玩するという習慣があったという指摘もしている。ここでは、この 指摘を受けて、人形だったとしたい。(ただし、オウイデイウス以外のギリシャ・ロー マ神話について書かれたものでは、等身大の大理石としているものもある。) − 3.
(5) さらに、ストイキツアは13世紀に善かれた『番薇物語』に言及し、「ビュグマリ. オンは、自らの腕前を誇示したがる類いまれな才能に恵まれた周き刻家としで性格づ けられている。」と述べている。先に挙げた3つの条件のうちの一つだけが強調さ. れることになる。そして、「一八世紀が、彫刻の隠喩、人間一彫像というモチーフ、 そして肝心なものを言い残したが、ビャグマリオン主題の大流行した時代であった」 としている。さらに、次のようにも述べている。 つまり一八世紀において、生ける像の再流行は、人間による創造に具わった神 的な性格を再び問題化するのに役立ったのである。芸術家が彫像に魂を与えるこ とができるとすれば、生命とはもはや神の専有物ではない、というわけだ。 また、この時期に一方ではラ・メトリの『人間機械論』に代表されるように、人 間を機械として捉える見方が登場することにも注目している。大雑把な言い方をす れば、人形が人間に近づく一方で、人間もまた機械へと近づいていく。さらに、電 気の時代(19世紀)を経て、人形は自動人形となる。それはロボット、アンドロイ. ドと人間に近づいてくるのである。ビュグマリオンは神に祈り、神の力で條に命を 与えてもらったが、今度は人間が人間の力で人形に命を与えようとしているとも捉 えられるのである。この点については、この後具体的に考察していきたい。 また、人形が生きていると見えることについて、フロイトが興味深い指摘をして いるので紹介しよう。フロイトは『不気味なもの』(『フロイト全集 第17巻』一岩 波書店−)の中で、イェンチェの不気味に思う例を紹介している。 E・イェンチェは、「一見したところでは生きている存在が、本当に生命が吹. き込まれているのか疑わしいケースと、逆に、生きていない事物がもしかして生 命を吹き込まれているのではないかと疑われるケース」をその顕著な事例として 際立たせ、その際、蝋人形や精巧に作られた人形、自動人形が感じさせる印象を その拠り所にした。 人形が生きていると思われるときは、不気味さを感じるという指摘であるが(注 1)、フロイトは子供と大人とに違いがあると指摘している。. 誰もが覚えているように、遊び始める年頃にあっては、子供はおよそ生きてい るものと命のないものをはっきり区別したりはしない。ことの他好んで人形を生 きている存在のように扱うものだ。実際、女性患者が次のように物言吾るのが時と して耳にされる。ある決まった仕方で能う限りまじまじと見つめると人形が生き て動き始めると、自分は八歳になってもなお信じ込んでいた、と。そういうわけ で、幼児期の要因はここでも容易に証示できる。 人形が生きていると思うことは、子供にあってはそれほど特殊なことではなく、 大人になると不気味なことになるのであろうか。大人になっても人形を生きている と思うのは、子供のままの何かが残っているということなのか。ここではこの点に ついて詳しく論じている余裕がないが、この後の作品でも「不気味さ」ということ にも触れていきたい。 簡単に「ビュグマリオン効果」という言葉について確認をした。何よりも彫像・ 4 −.
(6) 人形が生命を持つということが中心であり、さらに、その際に3つの条件があった. ことに注目することとしたい。 iii. 具体的な作品について、まず小説から。すでに、永井太郎氏が、「ビュグマリオン・ コンプレックステーマの作品群と時代」(「国語国文」平20.4)において、大正末 から昭和初期について16編の作品を指摘している。また、永井氏は大正期やそれ以. 前のものについても触れている。言うまでもなく、「ビュグマリオン効果」と「ビュ グマリオン・コンプレックス」とは、ほぼ同じ意味の言葉であるが、最初に述べた ように本稿では「生命賦与」という点に注目しているので、永井氏の論と趣旨がい ささか異なるところがある。そこで、本稿では永井氏も指摘している幸田露伴や江 戸川乱歩の作品などに加えて、現代の作家についても取り上げていく。 近代文学における「ビュグマリオン効果」の例の端緒とも言えるのは、幸田露伴 の『風流仏』(明22刊)ではないだろうか。この作品の主人公は「珠遅」という彫. 刻の才能がある若い僧である。「珠運」は旅の途中、木曽で「お辰」という女性に 出会い、お互いに愛するようになり結婚を決意するが、「お辰」の父親である「岩 沼子爵」の使いによって「お辰」は東京に連れ去られ、二人は引き裂かれてしまう。 そこで、「珠運」は「お辰」を思って「お辰」の像を作る。 果敢なや、幻の空に消えて遣るは恨許り、裳にせめては其面影現に止めんと思 いたち、亀屋の亭主に心凍られたるとは知らで自善事考え出せし様に吉兵衛に相 談すれば、(中略)困りしは立像刻む程の大きなる良木なく百方賛したれど見当. らねば厚き櫓の大きなる古板を与えぬ。 「殊運」は別れた「お辰」の面影をとどめようとして、その像を彫る。しかし、 彫刻というよりは「厚き櫓の古板」とあって、レリーフに近いかと思われる。 珠運は段々と平面板に彫浮べるお辰の像、元より誰に頼まれしにもあらねば細 工料取らんとにもあらず、唯恋しさに余りての菜、(中略)恍惚とする所へ著るゝ. お辰の姿、眉付媚かしく生々として晴、何の情を含みてか吾与えし櫛にジッと見 とれ居る美しさ、ア、此処なりと幻像を写して再一整、漸く二十日を越えて最初 の意匠誤らず、花清元の時の檻襟をも著せねば子爵令嬢の錦をも着せず、梅桃桜 菊色々の花綴衣麗しく引纏せたる全身像惚た眠からは観音の化身かとも見れば誰 に遠慮なく後光輪まで付て、天女の如く見事に出来上り、 と、服までも着せている。ビュグマリオンが現実の女性ではなく、あくまでも自 分のイメージである理想の女性をもとに像を作ったのに対して、「疎遠」は「お辰」 というモデルを元に彫っている。ただし、それはあくまでも「幻像」にすぎず、「後 光輪」まで付けるように理想化されている。この後、この像を壊そうとするが、最 後にあたかもこの像が命を持ったか思われ場面がある。 此時雲収り、日は没りて東窓の部屋の中やゝ暗く、都ての物薄墨色になって、 書残りたるお辰白き肌浮出る如く、晴々とした姿、臓月夜に真の人を見る様に、 −5−.
(7) 呼ばヾ答もなすべきありさま、我作りたる者なれど飽まで溺れ切たる疎遠ゾッと 総身の毛も立て呼吸をも忘れ居たりしが、猛然として思い椚せば、凝たる瞳キラ リと動く機会に面色忽ち変り、エイ這顔の美しさに迷う物かは、針ほども心に面 白き所あらば命さえ呉てやる珠運も、何の操なきおのれに未練残すべき、其生白 けたる素首見も構わしと身動きあらく後向になれば、よゝと泣声して、それまで に疑われ疎まれたる身の生甲斐なし、とてもの事方梯の手に情からぬ命捨たしと 云は、正しく木像なり、あゝら怪しや、扱は一念の恋を凝して、作り出せしお辰 の條に、我魂の入たるか、よしや我身の妄執の憑り移りたる者にもせよ、今は恩 愛切て捨、迷わぬ初に立帰る珠運に妨なす妖怪、いでいで仏師が腕の冴、恋も未 練も段々に切捨くれんと突立て、右の手高く振上し銘には鉄をも砕くべきが気高 く仁しき情溢るる計に湛ゆる姿、さても水々として柔かそうな裸身、斬らば熱血 も遮りなんを、どうまあ邪見に鬼々しく刃の酷くあてらるべき、恨も憎も火上の 氷、思わず珠運は銘取落して、恋の叶わず思の切れぬを流石男の男泣き、一声春 で身をもがき、其優ドゥと臥す途端、ガタリと何かの倒る、音して天より出しか 地より湧しか、玉の腕は温く我頸筋にからまりて、雲の贅の毛匂やかに頬を摩る をハット驚き、急しく見れば、有し昔に其優の。お辰かと珠運も抱)しめて額に. 唇。彫像が動いたのやら、女が来たのやら、間ば拙く語らば遅し。玄の又玄摩詞 不思諌。. 「晴々とした姿、糀月夜に真の人を見る様に」と一度はその木像を「真の人」見 ながら、かえってそれが似ているからこそ、「お辰」ではないことが際立ち、その 木像を銘で壊そうとする。このことには先に引用したフロイトの「不気味なもの」 における指摘を思わせる。なまじ生きていると思われるが故にかえって「我身の妄 執」に思いが行き木像を「妖怪」とさえ呼ぶことになる。しかし、そこに生身の「お 辰」が現れる。けれども、ここで注目したいのは、それが木像が命を持ったのか、 それとも現実の「お辰」が東京から駆けつけてきたかが曖昧なままに終わっている ことである。「彫像が動いたのやら、女が来たのやら」解らないままであり、厳密 には「ビュグマリオン効果」といえない点もあるが、先の3つの条件のうち愛情と 彫刻家の技術という2つの点が一致していると言えるだろう。残念ながら、幸田露. 伴が「ビュグマリオン効果」を知っていたかどうかを本稿ではつまびらかにするこ とができない。(注2)紹介にとどめてお〈。. 次にいきなり昭和となってしまうが、「ビュグマリオン効果」というより「人形愛」 を主題とした代表的な作家、江戸川乱歩を取り上げよう。乱歩は『人形』(「東京朝. 日新聞」昭6.1.14∼17.19)という文章で「人間には恋できなくとも、人形に は恋できる。人間はうつし世、人形こそ永遠の生物」とまで述べている作家であり、 ここでは、『押絵と旅する男』(「新青年」昭4.6)と『人でなしの恋い』(「サンデー 毎日」大15,10)をとりあげよう。. 初出の順番は逆になるが、『才甲絵と旅する男』を先に取り上げる。主人公「私」 は蜃気楼を見た帰りの汽車で不思議な老人と出会う。その老人は「押絵」を持って − 6.
(8) おり、その「押絵」は歌舞伎の八百屋お七の吉祥寺の場を描いたものだが、一人は 着物を着た若い女性なのに、相手は洋服を着た老人という奇妙なものであった。し かし、「私が『杏妙』に感じたというのはそのことではない。」のであり、それは「強 いていうならば、才甲絵の人物が二つともに生きていたことである。」と、「押絵」の 人物が生きているというのである。(因みに、「押絵」は棉を入れて絵を盛り上げた、 半立体のものであり、『風流仏』のレリーフに近いがかなり小さい。)それは、もと. もとその老人の兄が、「押絵」の八百屋お七を遠眼鏡で見て一目惚れをしてしまい、 それが人形だと解ってもあきらめきれず、自ら押絵の中に入り込んだというのであ る。「ビュグマリオン効果」のように、人形が人間になるのではなく、人間が人形 となる。そして二人は押絵の中という異空間で生きているのである。兄の愛情によっ て人形が生きたものとなったと捉えれば、これもまた「ビュグマリオン効果」の「発 展」として捉えることができるだろう。しかも、ビュグマリオンは人形を愛したが、 結局は生身の人間を求めた。それに対してこの作品ではあくまでも人形のまま愛し ている。この点に違いがある。いや、そもそも兄にとっては人形ではなく、人間だっ たのだろう。人形だから好きになったのではなく、人形だけれども好きなのである。 しかし、この人間と人形の同居には大きな問題があった。 ところが、あなた、悲しいことには、娘の方は、いくら生きているとは云え、 元々人の掃えたものですから、年をとるということがありませんけれど、兄の方 は、押絵になっても、それは無理やりに形を変えたまでで、根が寿命のある人問 のことですから、私達と同じ様に年をとって参ります。御覧下さいまし、二十五 歳の美少年であった兄が、もうあの様に白髪になって、顔には醜い敏が寄ってし まいました。兄の身にとっては、どんなにか悲しいことでございましょう。相手 の娘はいつまでも若くて美しいのに、自分ばかりが汚く老込んで行くのですもの。 恐ろしいことです。兄は悲しげな顔をして居ります。数年以前から、いつもあん な苦し相な顔をして居ります。それを思うと、私は兄が気の毒で仕様がないので ございますよ 兄は生きているから年をとる、しかし、娘の方は生きているけれど年をとらない。 生きているとは年をとるということではないのか、年をとらないというのは生きて いないからではないのか。しかしあくまでも二つ(二人)は生きているというので. ある。人形とは「永遠の存在」ということなのだろうか。 『人でなしの恋』こそは、「人形愛」を措いた代表的な作品だと言えるだろう。 主人公の「京子」は「門野」と結婚したが、夫は夜中に離れの蔵の二階に出かけて いく。 「このような逢う瀬をつづけていては、あたし、あなたの奥様にすみませんわ ね」細々とした女の声は、それがあまりに低いために、ほとんど聞きとれぬほど でありましたが、聞こえぬところは想像でおぎなって、やっと意味を取ることが できたのでございます。声の調子で察しますと、女は私よりは三つ四つ年かさで、 しかし私のようにこんな太っちょうではなく、ほっそりとした、ちょうど泉鏡花 −7−.
(9) さんの小説に出てくるような、夢のように美しい方に違いないのでございます。 「私もそれを思わぬではないが」 と、門野の声がいうのでございます。 「いつもいって聞かせる通り、私はもうできるだけのことをして、あの京子を 愛しようと努めたのだけれど、悲しいことには、それがやっぱりだめなのだ。若 い時から馴染を重ねたお前のことが、どう思い返しても、思い返しても、私には あきらめかねるのだ。京子にはお詫びのしようもないほどすまぬけれど、すまな いすまないと思いながら、やっぱり、私はこうして、夜毎にお前の顔を見ないで はいられぬのだ。どうか私の切ない心のうちを察しておくれ」 (中略). そして、極度に鋭敏になった私の耳は、女が門野の膝にでももたれたらしいけ はいを感じるのでございます。それから何かいまわしい衣ずれの昔や、口づけの 青までも。 倉には誰か他の女性がいるのではないかと思い、「京子」は倉の中かを捜すが見 つからない。そこで見つけたものは人形だけであった。 それほど私を驚かせたものが、ただ一個の人形にすぎなかったと申せば、あな たはきっと一なあんだ」とお笑いなさるかもしれません。ですが、それは、あな たが、まだほんとうの人形というものを、昔の人形師の名人が精根を尽くして、 こしらえ上げた芸術品を、まだ御存知ないからでしょう。 (中略). 俗に京人形と呼ばれておりますけれど、実は浮世人形とやらいうものなそうで、 身のたけ三尺あまり、十歳ばかりの小児の大きさで、手足も完全にでき、頭にほ 昔風の島田を結い、青染めの大柄友染が着せてあるのでございます。 それは名人人形師立木の作の人形であった。そして、それこそが倉の2階の女で. あったのだ。 まあ、なんということでございましょう。私の夫は、命のない、冷たい人形を 恋していたのでございます。 夫は生身の「京子」ではなく、人形こそを愛していたのである。まさに「人間に は恋できなくとも、人形には恋できる。」のである。またここに「命のない、冷た い人形」とあるように、「京子」にとって人形はあくまでも人形にすぎない。因みに、 先の引用にあった女の声は「夫が人形のために女の声色を使っていた」のだった。 そして、人形にすぎないと思っている「京子」はこの人形を毀してしまう。 しかし、その当時の私は、恋に眠がくらんでいたのでございましょう。私の恋 敵が、相手もあろうに生きた人間ではなくて、いかに名作とはいえ、冷たい一個 の人形だとわかりますと、そんな無生の泥人形に見替えられたかと、もう口惜し くて、口惜しいよりは畜生道の夫の心があさましく、もしこのような人形がなかっ たなら、こんなことにもなるまいと、はては立木という人形師さえうらめしく思 われるのでございました。 −8一.
(10) ええ、ままよこの人形めの、なまめかしいしゃっ面を、叩きのめして、手足を 引きちぎってしまったなら、門野とて、まさか相手のない恋もできはすまい。そ う思うと、もう一刻も猶予がならず、その晩、念のために、もう一度夫と人形と の逢う瀬を確かめた上、翌早朝、蔵の二階へ駆け上がって、とうとう人形をめちゃ めちゃに引っちぎり、眼も鼻も口もわからぬように叩きつぶしてしまったのでご ざいます。こうしておいて、夫のそぶりを注意すれば、まさかそんなはずはない のですけれど、私の想像が間遠っていたかどうかわかるわけなのでございます。 ところが、その人形を見た夫は自ら命を絶つのである。 そこには夫のと、人形のと、二つのむくろが折り重なって、板の間は血潮の海、 二人のそばに家重代の名刀が、血を畷ってころがっていたのでございます。人間 と土くれとの情死、それが滑稽に見えるどころか、なんともしれぬ厳粛なものが、 サーッと私の胸を引きしめて、声も出ず涙も出ず、ただもう茫然と、そこに立ち つくすほかはないのでございました。 妻の「京子」にとって人形は「無生の泥人形」にすぎないが、夫にとっては生き ていたのである。妻は人形を毀したと思っているが、夫は人形が死んだと思ったの である。しかも、「人間と土くれ情死」は「なんともしれぬ厳粛なもの」だったの であり、そこに純粋な愛情を感じ取ったのではなかったか。作者・乱歩の人形に対 する愛情がそこから窺えるのである。先にも述べたが、ビュグマリオンは人形を愛 したが、結局それを人間にしてもらった。所詮は人形より人間の方がよかったとい うことなのである。しかし、乱歩のこの作品は最後まで人間より人形を選ぶのであ る。それはまさに「人形愛」と呼ぶべきものだが、夫は愛情によって生きていない 人形を生きていると見ているのであり、「ビュグマリオン効果」としても捉えられ るのではないか。無論、人形を愛するという点では、こちらの方が徹底している。 ビュグマリオンは人形を愛したが満足できなかった。『押絵と旅する男』では、人 形だけれど愛し続けた。『人でなしの恋』では人形だから愛したのである。 同時期に人形を愛する男を描いた短編に牧野信一の『夜の奇跡』(「文蛮春秋」昭 6.11)がある。 毎晩こんな処に来て、明方までも人形に戯れてゐるのか!と雪江は思った。そ. れにしても奇怪な人だ。神話時代にはピグマリオンという人物がある、またホフ マン物語の中にも人形に恋する博士の話がある、乃至は左甚五郎の「京人形」の 噺などが伝はっているが、そんな、無生物に切実な肉感を覚ゆるピグマリオニス トなんて称う変質者はおそらく伝説か、荒唐無稽の芝居の中の人物のみと限られ ているのかとばかり思っていたのに、斯んな眼の先にも、ちゃんと、あの通り存 在するなんて、何とまあ見るも気の毒な光景だらうか!. 人形を愛する青年を見た「雪江」の思いである。しかも、「雪江」はその青年「滝 尾」に関心があった。ここの「ホフマン物語」というのは、E.T.ホフマンの『砂. 男』を指すのだろう。この作品では自動人形を人間だと思って恋をする青年が登場 する。しかし、人形だと解ったとたんに恋が冷めるのであり、「ビュグマリオン効果」 −9−.
(11) と言い切れない作品である。(とはいえ、インターネットで「ビュグマリオン」で 検索すれば必ずヒットする作品でもある。)また、ストイキツアは先の著書の「日. 本語版への後書」で、「左甚五郎」の「京人形」についても触れている。 作品の最後で、人形があたかも命を持ったような描写があるが、それは「雪江」 が人形に成り代わっていたのであり、人形自体はばらばらに毀されていた。ある意 味では人形が人間になっているので「ビュグマリオン効果」がモチーフの作品とい えるのだが、「滝尾」の反応が充分に措かれておらず、人形を選ぶか生身の人間を 選んだのか、はっきりしない終わりかたなのが残念である。 次に、山川方夫のショート・ショートの一つである『菊J(「ヒッチコック・マガ ジン」昭38.11)を取り上げたい。この作品ではこれまでのものと男女が入れ替わっ. ている。像を作るのは女性である。舞台は平安時代で、中宮に便える「二十を大幅 に越えた」年齢の「女」が、若い無位無冠の武士に恋をし、その男に似せた等身大 の人形、木の彫刻を作らせる。 眠られぬ夜がつづいた。女は、すべてのおつとめに手かつかなかった。武士を 思い出すことはいらなかった。杯に目を落して、「うつくしい」と呟くようにいっ たときのまだ若い武士のすがた、恥じたように目を伏せたその横顔が、まぶたの 裏に鮮明に貼りつき、それはひとときも消えることがなかった。 (中略). ご想像はあたっていた。たしかに、女は人形をほしいと思ったのだ。が、その 人形は、中富のお考えのような、小さな、いわゆる女子供のもてあそぶそれでは なかった。女が木彫職人にたのんだのは、等身大のあの若者のすがたに肖せた木 の彫刻であった。 秋に入ろうとする頃、ようやく木彫職人の苦心の作は女の部屋に運びこまれた。 退紅の狩衣、標色の袴、毛抜形の太刀、靴、それに緑のついていない烏帽子など は、すでに女が手をまわして部屋にそろえていた。女はまず生命のない生木の彫 像に、いかにそれらを生あるもののごとく巧みに着せかけるかに専心した。女は、 やがて職人から数種のノミを借りうけ、彫像に手を加えはじめた。あの若者のす がたは、自をつぶればたちどころに浮かんでくる。まぶたの裏に焼きついている その「彼」を仔細に追い、女は、けんめいに人形を若者に肖せることに没頭した。 幸田露伴の『風流仏』と同様にこの作品でもモデルとなる相手がいる。その男に そっくりの人形を作り、衣装を着せたりして、「肖せることに没頭する」ことでと きどき、「その人形がうなずいたり、あのときの若者の声で答えたりするような気 がすることもあった」というようになる。人形は愛情によってあたかも生きている かのようになるのである。 そして、人形は完成する。 やっとその人形が完成したのは、ちょうど仲秋の名月の夜であった。人形は、 ふつうの人形とはちがって、顔などもあの若い武士と寸分違わず、色つやから毛 穴まで丹念になまなましく模写され、耳や鼻の穴、ロの中、鼻白い歯の敷からそ −10−.
(12) の輝きまで、そっくりそのままの出来であった。女にあの一言を呟いたときのよ うに、目もともほっと報くほんのり紅を捌かれ、怒ったような眼陣が伏目がちに 高濃緑の畳の目をみつめている。 女は、ほっと呼吸をついて、飽きもせずうっとりとその人形を眺めやった。わ れしらず、女のロから言葉がほとばしった。 「そなたが恋しい‥…■そなたは、あの一言とともに私をそなたの中に嘆みこみ、 私をそなただけのものにしてしまった。私を、そなたの熱いわかわかしい血汐と 肉の中に、強引に閉じこめてしまった…… 私は、そなたが恋しい。この胸のうち を、この火を、そなたは知らぬといわれるのか……?」. あたかも人形が、生身の人間・本人であるかのように「女」はかき口説く。ビュ グマリオンと同じである。ところが、ここから大きく違ってくる。 女が、久しぶりに半前の板戸をかかげたのは、自らのあまりの息苦しさからで あった。が、するとおどろくほど明るい満月の光がなだれ入って、部屋の奥の薄 暗い凡帳とともに、人形に蒼白い光を浴びせかけた。 月光に照らしだされた烏帽子に狩衣を着けた人形、それは、まごうかたなき本 物の若い武士のすがただった。思わず女はにじりよって、喘ぎながら人形をかき 抱いた。顔をあげて、まじまじとその人形の顔をながめた。 そのとき、ふいに女の背に、氷をあてたような悪寒がすべり落ちた。女は叫び、 夢中で人形を突きはなした。人形は、重い生木の音を立てて床に倒れた。 女は顔をひきつらせて、倒れたままびくとも動かない人形、その表情のない顔 を、もう一度まじまじとみつめた。女に来ていたのは恐怖だった。生身をそのま まにうつし、再現している人形、動かない人形、たしかに恋人とこの人形とは、 心のあるのと無いのとの違いだけだったが、それは生きているものと死者との違 いだった。女は、ふたたび総毛だつようなうそ寒いおぞましさが、全身を走り抜 けるのをおぼえた。 身を硬くしたまま、女は、自分から急激に一つの熱狂が失われてゆくのをかん じた。けんめいに現身の若者に肖せることに熱中し、じじつそれに成功したとい うのに、いまは見れば見るほどその肖ていることじたいが浅間しく、自分を怖気 だたせるのだ。女は、その人形に、いまは贋ものの恋人というより、その恋人へ 自分の執念のうす汚なさ、不潔な汗と垢にまみれた自分のその妄執のかなしさだ けを見ていた。そして、そのおぞましさへの嫌悪といっしょに、女はさしものあ の若者への自分の恋までもが、急にあとかたもなく消え、さめ果ててゆくのがわ かった。……まるで、夢からさめたように。 もう、その人形をそばに置いておくのもいやであった。女は、凡帳の上からや にわにいちばん大きなノミを取ると、人形の頭に突き立て、椎の袖を撮って恨か ぎりの力でそれを打った。人形はたちまち二つに割れ、水の底のような月光の満 ちた部屋の中で、破壊され、すでに亡骸と化した女の恋そのままのすがたに、生 木の白い裂けめをあらわにしてころげた。 −11−.
(13) 人形がまさに人間となろうとした瞬間に、「女」はその人形を拒絶する。『風流仏』 にも同様の意識があった。人形が人間に似れば似るほど人形であることが際立つの であり、それは「不気味さ」(フロイト)にも通じるのである。人形と人間との差. は「心のあるのと無いのとの違いだけだったが、それは生きているものと死者との 違いだった。」のである。「本物の若い武士のすがた」にすぎず、心がなかった。こ の心が人間と人形との差になる。これは後で述べるロボットヤアンドロイドにおい て重要なテーマともなる。また、人形に心がなければそれは「死者」なのであり、 ここには死体愛好(ネクロフィリア)に通じる「不気味さ」もある。死体を抱いて. いたという恐怖である。さらに、人形はここでは「女」の執念の鏡のようにもなっ ている。ここで「女」が見るのは単なる生きていないのに生きているように見える という不気味さではなく、人形を鏡としてみた自分の執念の醜さ、不気味さなので ある。人形は生き物とならず、止まったまま鏡となっているのである。この作品に は「ビュグマリオン効果」の3つの条件のうち、愛情と芸術家の腕前はそろってい. るが信仰はない。無論、生身の人間が他にいるのだから、ビュグマリオンのように 神に祈ってこの人形を人間にしてもらう必要もないのだが。 ただし、この作品はショート・ショートであり、むしろ、この作品は「ビュグマ リオン効果」のパロディとして善かれているのではないかとさえ考えられる。ショー ト・ショートにおいては、作品の最後で読者をあっと言わせるような落ちが必要で あり、この作品も途中までは「ビュグマリオン効果」そのままの展開にしておいて、 最後に逆転して読者を驚かせるという趣向ではなかったか。 さらに、自動人形が登場する作品を一つ取り上げよう。長野まゆみの『三日月少 年漂流記』(河出文庫オリジナル、平5.1)である。ここでは「三日月少年」と. 名付けられた自動人形が登場する。 三日月少年というのは人形に付けられた名前だが、人形といってもたゞの人形 ではない。充電式のニッカド電池で動く精巧な自動人形だ。 この「三日月少年」が盗まれたのだが、それは盗まれたのではなく、「逃亡した」 のであった。言うまでもなく、逃亡となれば「三日月少年」には意志があったこと になる。単なる人形ではなく、生きているということになる。 「三日月少年のまなざしだよ、きりツと鋭く動くんだ。」 「だって彼の晴は披璃だろう。」 「きみ、確かめたのか。」 銅貨が首を横に振るのを見て水蓮は満足そうに微笑した。 「僕は気づいたのさ、≡日月少年には意思があるんだ。たヾの自動人形ぢゃない。」 「え、」 「だから試してみたんだよ。夜中に電池を仕掛けたまゝにしておくとどうなるか。」 「銅貨」と「水蓮」とは「三日月少年」を追いかけている二人の少年の名前であ る。「水蓮」は「三日月少年のまなざし」に気づき、「意思」があることを確かめよ うとしたのである。「意思」があるのは、生きていることに繋がる。そして、自動 −12−.
(14) 人形に電池を入れたままにした。その結果いろいろな場所にいた「三日月少年」た ちは集まってきて、月に向かって旅立ったのである。それは彼らの「意思」の表れ ということになる。しかし、月に向かうのは「三日月少年」だからだというならば、 それは「意思」ではなくプログラムの可能性もないわけではないだろう(「三日月」 というのは人間が付けた名前だろう)。とはいえ、ここではそれを確かめることは. できない。 この作品には愛情や信仰はない。精巧な腕前だけがある。そして、最初から命を 持っていたようにも見えるが、電池がないと動けないというのは、その前に生きて いたのか疑問も残る。あるいは囚われの身であったということなのだろうか。自動 人形は、最初から動いていて、外側からでは生きているかどうかの判断が難しい。 先に述べたように、心や意思といった内面が判断の基準になるのだろう。その場合、 命がなかったものが命を持ったのか、最初から命を持っていたのに気づかなかった のか、あるいは途中で心を持つようになる場合もあり、その点を確認していかなけ ればならない。また、この作品の場合、その命の源が電池ということになり、電池 で命が生まれるのか、という疑問も残る。とはいえ、この作品も「ビュグマリオン 効果」の「発展」した形として捉えたい。 本稿は日本の近代文学を対象としているが、当然外国文学には「ビュグマリオン 効果」をモチーフとした多くの作品がある。それらについては簡単に触れるだけに しておこう。 代表的なものとして、ストイキツアも先の著書であげているヴイリエ・ド・リラ ダンのF未来のイヴ』をとりあげる。この作品ではエジソンが電気の力を使って理 想の女性を作る。ここでは電気が命の源となっている。エジソン(いうまでもなく 発明家エジソンがモデル)の恩人エワルド卿は、外見は理想的だが中身は最低な女. 性、女優のアリシア・クラリーに出会う。そして、エジソンにこの女性の魂がなけ ればいいと告げる。エジソンはそれを実現すべく、すでに作成していた人造人間を この女性そっくりに作り上げる。この作品についてストイキツアは次のように述べ ている。 しかし、このスターには(エジソンが作成した人造人間一筆者注)「魂」がない。. そして、読者が立ち会うよう誘われるのは、この「魂」の探求である。われわれ がここで前にしているのは、ビュグマリオン神話の「技術的ヴアリアント」であ り、それはオウイデイウスによる神話の創設的ヴァージョンにおいてすでに見い だされたのと同じ諸要素とともに作動している。 生身の女性の中身に失望するというのは、ビュグマリオンと同じである。しかし、 簡単には人造人間を選べない。 諸君は、生きている女よりも、それをモデルにした人造人間の方を選ぶなんて 不可能だ、と、主弓長されるのですね!生命のない物体が相手では、おのれ自身も、. おのれの信念も、おのれの人間的愛情も、何一つ犠牲に出来るものではないと仰 有るのですね?霊魂と、電池から出て来る蒸気とを、混同するようなことは断じ −13−.
(15) てあるまいと仰有るのですね?. (『未来のイヴ』斉藤磯雄訳・創元ライブラリ。本文は新字・新仮名になおした。). 人はなかなか人造人間を愛することは出来ない。生きている人の方を選ぼうとす る。ビュグマリオンは自分の理想を人形にした。つまり、ビュグマリオンは選べな かった。エジソンの人造人間にはモデルがいる。外見はそっくりの生身の人間かい るのである。人形を選ぶのはなかなか難しいのである。しかし、最終的には人造人 間の方が選ばれる。これは外見よりも中身が選ばれたということになる。それはま た、人間の心は人造人間にも劣る場合もあるということにもなる。 ただし、この人造人間は生きていると言えるのか疑問も残る。エジソンはこの人 造人間が完成するときに「では明日、『生命』を!」とも言っているが、本当に生. きていると考えていたのだろうか。 自然は移ろいゆかん、されど「人造人間」は移ろうことなし。我々人間はみな、 生きて、死にますな、一致し方ありませんよ「人造人間」は生を知らず、病を 知らず、死も知りません。(中略)断じて心変りは致しません。心を持たないか. らです。 江戸川乱歩の『押絵と旅する男』にもあったように、人形は年をとることがない のである。しかも、心もない。ということは生きているといえるのか。さらに、こ の文に続けて「ですから、あなたの為すべき義務は、死に臨んでこれを破壊するこ とにあります。」とさえ言っている。「破壊」とあるように、生きているとは認めて いないのである。それでは「ビュグマリオン効果」とは言えない。この作品では心 のある人間よりも、心のない人造人間が選ばれたという点では「ビュグマリオン効 果」に類するが、生きているかという点については疑問が残るのである。ただ、選 んだエワルド卿は愛情をもって選んだのであり、「ビュグマリオン効果」の2つの. 条件、愛情と優れた技術というのはここにも認められる。ただ、この後この自動人 形は船の火災により焼失してしまうので、愛情の行方は解らないままになってしま うのだが。 もう一つ、人形をモチーフにした作品としてポール・ギヤリコの『七つの人形の 恋物語』(矢川澄子訳・角川文庫)をとりあげよう。この作品には題名にもあるよ. うに七つの指人形が登場するが、女主人公「ムーシュ」が恋をするのは、結局人形 ではなく人形遣いの方である。その点では「ビュグマリオン効果」とは言えないが、 この作品で注目すべきなのは、この「ムーシュ」が人形たちとあたかも普通の人と 同じようにおしゃべりするところである。しかも、それを多くの観客が見ている舞 台の上でも行う。観客は彼女があまりに自然に人形と話しているので、あたかも人 形が生きているものと見てしまうのである。彼女は生身の人間であり、その生身の 人間と同じように話をする存在は、同じように生身の人間として捉えられるという ことなのである。これは小説における作中人物と読者の関係に似ている。江戸川乱 歩の小説で、人形を生きているとする作中人物を読みながら、読者もまた同じよう に生きているのではないかと思うことはないだろうか。いわば、舞台で′ト説の読み 14.
(16) を先取りしているのである。「ビュグマリオン効果」というには当たらないかもし れないが、「ムーシュ」が人形を大好きだから人形を生きている人と同じように扱 うのであり、そこには「ビュグマリオン効果」に類似するものがあるのではないか。 SF小説にはアンドロイドを描いたものが多い。その代表はフィリップ・K・ ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(ハヤカワ文庫)が有名である。. これは後に『ブレードランナー』という題名で映画化されている。この作品の中で アンドロイドのレイチェルは「アンドロイドは子供を生めないわ。」と言った後に 次のように言う。 わたしたちは生まれもしない。成長もしない。病気や老衰で死なずに、蟻のよ うに体をすりへらしていくだけ。 さらに、「わたしは生きていない」と言う。これまで見たように人形や自動人形 は年をとらない。それは生きていないとも言えるが、乱歩の場合はそれでも生きて いるとしていた。いや、この作品でも主人公の「リック」は「生きていない」とい う「レイチェル」に次のように答えている。 「法律的にはな。しかし、ほんとうは生きている。生物学的にだ。きみを作り あげているのは、人工動物みたいなトランジスタ一回路ではない。きみは有機的 な生き物だ。」 進化したアンドロイドは「生きている」と捉えることもできる。この作品ではア ンドロイドにも寿命が設定されている。また、死ぬということは、生きていたこと の証でもある。 また、タニス・リーの『銀色の恋人』(ハヤカワ文庫)は「シルヴァー」という. 名前のアンドロイドに少女が恋いをするという、現代のマンガとテーマがよく似た 作品であるo. iv. 次にマンガを取り上げよう。人形の登場するマンガはとても多く、そのすべてに 触れることはできないので、ここでは最初にも触れたように現代の作品について紹 介することとする。また、表現上でも人形とわかるものと、アンドロイドのように 全く人間と同じように措かれているものとがあり、二つに分けて紹介していく。(注. 3) まず、人形そのものが登場するものとして小畑健の『からくり左近』(集英社文庫)。. これは名人の作による「左近」と呼ばれる文楽人形が登場している。操るのは「右 近」である。文楽では3人によって操られるがこの作品では一人で、しかも右手だ. けで操っている。文楽人形は人形師が黒子としてそのまま見えているので、はっき り人形として操られていることが解る。しかし、文楽の舞台で人形が生きて見える ということはよく言われていることである。このマンガではその人形が舞台から離 れて日常生活において生きて見えるのである。まず、第1に二人の会話である。こ のやりとりは「右近」が一人で声色を変えてやっているとも見えるが(乱歩の『人 でなしの恋』のように)、判然としない。一方で「左近」が「右近」の手から離れ −15−.
(17) て動いているかどうかも怪しい。図1のように人形は. 煙草を吸いながら左手を動かしており、右手一本でで きるのか疑問がある。ただ、逆に、「左近」が自分で 動いているともみられるということである。読者が「左 近」を生きているのではないかと思うのは、「左近」 に感情や意思があるように見えるからである。先にも ふれたように、この感情と意思、あるいは魂があるか どうかが生きているかどうかの一つの指標となるので ある。外見は全くの人形ではあっても、一見自分の意 思で、自分の声で話しているように見える「左近」は 生きていると見えるのである。ここには精巧な人形作 図1『からくり左近』. 者と天才的な人形遣い、そして「右近」の「左近」に 対する愛情(それは友情や兄弟愛に近いものであった としても)という、「ビュグマリオン効果」の2つの. 条件が認められるのである。 もう1作品人形が登場する永吉たけるの『スミレ17 歳』(講談社)をとりあげよう。ここには等身大の女. 子高生を模した人形が登場する。それを操るのは中 年の男性で、あくまでも生身の女子高生として高校 に転校してくる(図2)。最初は、当然気持ち悪いと. 敬遠されるが、徐々に仲間として認められていく。 図3には注目するところがある。それは「スミレ」. 図2『スミレ17歳』第1巷. 図3『スミレ17歳』第1巻. があたかも涙を流しているように見えるところであ る。これは川に落ちた後の場面で、涙ではなく川の 水が目にたまっているにすぎないという設定だが、 涙に見えなくもないように措かれている。というの も、涙を流すというのは感情の表れであるとともに、 人形には当然涙腺などがないのだから、涙を流すの は人形を超えて生きていることを示すことになる。 これは何もこの作品に限ったことではなく、このよ うな人形や自動人形を描く作品においては常套手段 ではある。そして、学校の仲間に友達として受け入 れられていくのは、その友達からすると「スミレ」 は生きているということになるのではないか。愛情 ではなく友情ではあっても「ビュグマリオン効果」 の発展として捉えられるのではないか。なお、この マンガはアニメ化、実写化されており、特に実写版 では人形だけを使うのではなく、「スミレ」役を生 −16−.
(18) 身の女優が時々演じている(口のところに人形のような線が措かれていた)。実写. 版ではまさに「ビュグマリオン効果」と言えるが、無論パロディとして捉えられる だろう。 人形といっても宇宙人が人形に入っていて、あた かも人形が生きて見えるというこれまた異色の作品 に小沢真理の『苺田さんの話』(講談社)がある。. 宇宙人なのだから生きていると言えるのだが、外見 は完全に人形であり、人形が生きて動いていると言 える。あるいは、魂の部分に宇宙人が入っていると も言えるだろう。また、ここでも人形が泣いている 場面があり、人形が生きていることの証として使わ れている。(図4)「ビュグマリオン効果」とは人形. が生命を持つことだが、こここでは、人形が生身の 人間になることを望むのではなく人形のまま命を持 つことをこそ望んでいるということなのだろう。文 字通り人形が生命を持つということである。これは「ビュグマリオン効果」という よりも、まさに「人形愛」と言えるが、フェティシズム的な要素のあまりない作品 でもある。 さらに、人形やロボットを措いているマンガ家として業田良家を取り上げよう。 図4 r苺田さんの話』第1巷. 英田には『ロボット小雪」(竹帯房)という、図像は人間そのもののロボットが登 場する4コママンガがある。この「ロボット小雪」には感情があり、死ぬときには. 「私 怖い」と言うのである。それに対して「修理すりゃ直る」と言われる。ロボッ ト本人は人間のような感情を持っていても、人間はあくまでもロボットとして対応 しているのである。ここには「ビュグマリオン効果」のもつ、人間の愛情によって 変わるということではなく、ロボットが進化することで感情を持つということであ る。業田にはまたロボットや人形が登場する『ゴーダ哲学堂』(竹書房)という作. 品もある。例えば、感情制御装置を持ったロボットが登場する。すべての感情はボ タンによって決まる。ただし、怒のボタンは異常に小さく、愛情に関するボタンは ない。にもかかわらず、妻と子供がいたりする。ま た、『空気人形』という作品は、最初の場面で空気 人形が自分の体に空気を入れている。自分で空気を 入れているように動いているし、意思もある。そし て、家を出てレンタルビデオ店に働きに行く。けれ ども、その途中で腕が破れて空気が抜けてしまう(図 5)。一見生きているように見えて、やはり人形に. すぎないということが示される。しかし、そこにい 図5 け空気人形J. るF夫君に惹かれているし、F夫君もまた人形だと. 解っていながら、惹かれていて、「合コン」の約束 −17−.
(19) をしたりもするのである。しかし、持ち主は新しい人形を買ったために、この人形 をゴミとして捨ててしまう。持ち主からすれば、それはただの人形であって生きて いないということである。ブラック・ユーモアといえばそれまでなのだが、この空 気人形が心を持つというのは、自動人形に対するパロディなのだろう。ロボットヤ アンドロイドには中身が詰まっていて、横械として感情を持つこともある。しかし、 空気人形は文字通り中身は空気だけである。それなのにどうして心を持つことがで きたのか。しかも、作者はバイトの途中でビニールの腕に穴が開いて空気が漏れる 場面を措くなど、あくまでも人間にしないで人形のままにしている。心を持っても 人間としないで最後はゴミとなる。「ビュグマリオン効果」は、現代ではすでに意 味を持たないとでもいうかのよう作品である。心を持ったとしても意味はあるのか、 と問うているのかもしれない。 ∨. 次に、ロボットヤアンドロイドの登場する作品をと りあげよう。ロボットと人間との恋愛を措いたものの 代表にCLAMPの『ちょびっツ1(講談社)がある。こ の作品では人型のコンピュータが登場する。そのコン ピュータを人が愛することができるかどうかが、作品 の主題となっている。コンピュータは悲しみの表情や 愛情表現などはできるが、感情はなくすべてはプログ ラムにすぎない(図6)。つまりは愛情がない。それ. でも、人がコンピュータを愛せるか。究極のコンピュー タである「ちょびっツ」(コンピュータのコードネーム). が選んだ一人の男性(ヒデキ)が、「ちょびっツ」を 図6「ちょびっツ」第7巷. 唯一の相手として選ぶかどうか。そして、それができ たときに人間とコンピュータとの新たな関係が生まれ. るのである。人とコンピュータが全く同じものとなるのである(図7)。これもま. た一つの「ビュグマリオン効果」と言えるのではないか。天才的な科学者の作成に よるコンピュータ、そして、愛情。信仰こそないが「ビュグマリオン効果_」の2つ の条件がそろっている。ビュグマリオン神話においては、彫刻(人形)だったので、. 動くかどうかが生きていることの証となった。しかし、自動人形では、動くことも できるし外見は人間とそっくりであ る。(マンガではコンピュータと人. 間とは全く同じ絵であり、読者はそ れがコンピュータであることを忘れ がちである。)先に述べたようにそ. の場合は、魂や感情、意志があるか どうかが生きていることの証とな. 図7『ちょびっツ』第8巷 ー18−.
(20) る。ところが、この作品では感情は最後までない。それでも愛することができると いうのである。それによってコンピュータと人との違いが乗り越えられるというこ とになる。さらに、作品の最後にはコンピュータ同士の愛情も描かれている。感情 を持たないコンピュータにおける愛情とは、常にプログラムの優先順位の第一位に 相手がいる、ということになる。あるいは人間の愛情も理論的には同じことなのか もしれない。 また、このマンガにはあたかもノート・パソコンに匹敵するような′ト型の人型コ ンピュータも登場する。それはまさに動く人形である。しかも、コンピュータとし てメールのやりとりやインターネット検索ができるし、人とのコミュニケーション も可能である。㌻苺田さんの話』もそうなのだが、人形が人間になるのではなく、 まさに人形としてのかわいらしさを持ったまま、動くこともできるし、人とコミュ ニケーションができるということは、人形好きには理想なのではないか。これも 「ビュグマリオン効果」というよりも「人形愛」と言うべきだろう。 次に永野護の『ファイブスター物語』(角川書店)をとりあげたい。この作品に. は「ファティマ」というアンドロイドが登場する。中心となるのは女性の「ファティ マ」だが、すべてが女性の形をしているわけではない。「ファティマ」はモーターヘッ ドと呼ばれる15メートルぐらいの大きさの人聖戦闘兵器を、騎士(人間)と一緒に. 操縦する。ガンダムと形態的には似ているが、ガンダムは基本的には一人の人間が 操縦するのに対して、モーターヘッドは「ファティマ」が操縦のアシストをしてい るのである。「ファティマ」はマインドコントロールがされており、騎士=マスター の命令に服従するように設定されている。しかL、天才科学者で「ファティマ」の 設計者であるバランシュによって制作された最後の3体にはマインドコントロール. がされておらず、自らの意志で相手を決めるのである。つまり、意志や感情を持っ ているのである。その中の「ラキシス」がこの作品の主人公である「アマテラス」 と結ばれる。「アマテラス」は一応男性であるが、光の神であり、不老不死である。 不老不死の主人公には同じく不老不死の「ファティマ」こそがふさわしい。しかも、 最後には二人の間に子供も生まれるらしい。(単行本に付属の年表による。)アンド. ロイドに感情や意志があれば、それは生きていると言えるのではないか。ましてや、 最後には子供も生まれるのである。「ラキシス」は生きていると言えるのである。 この作品も、アンドロイドと人間(?)との新たな関係の可能性を追求したものと. して捉えられるだろう。また、「ビュグマリオン効果」の 2つの条件も備わっている。 このほかには、あらゐけいこの『日常』(角川書店)に. は外見は人間とそっくりの女子高生ロボットが登場する。 ただし、背中にはゼンマイを巻くようなおおきなねじがつ いていて、見るからにロボットとわかる(図8)。けれど. も本人はクラスメイトにロボットとばれないように苦労し 図8『日常』第1巻 ている。時々手がとれたりとロボットらしさが現れる。ニ ー19−.
(21) のロボットには意志や感情もある。つまり、背中のねじなどがなければ他の生徒た ちと区別がつかず、腕がとれたりすることでロボットであることを強調しなければ ならないということでもある。 もう一つ、人形、ロボットとは言えないが、機械が. 愛情によって生命を持つというものとして、楳固かず おの『わたしは真情』(′ト学館文席)をとりあげたい。. これはオートメーション・マシーンの一部にすぎない アームが意志や感情を持ち、自分で動き出す話である。 その理由は「憎」と「真理」という愛し合っている子 供(小学生)の愛情のおかげである。彼(それ)は自. 分が二人の子供であると思っている。「真情」とは二人 から1文字ずつとった名前である(図9)。ここには技. 術はないが、違った形の愛情がある。これもまた一種 の「ビュグマリオン効果」ではないだろうか。 先にも述べたが、ビュグマリオン神話では、もとも と動くことのない彫刻・人形であった。それが動き、 命を持った。ロボットやアンドロイドはもともと動く ものである。またマンガの場合他の人物たちと同じよ うに措かれることが多い。外見的には区別がつかない。そこで問われるのが、意志 や感情があるか、ということである。すなわち、アンドロイドなどがモチーフになっ た物語においては「ビュグマリオン効果」とは、感情をあるいは魂を持つことを指 すということになる。人間とものとの違いは最終的には心の問題ということになる。 しかし、マンガの人物たちはそもそも生きていると言えるのか。逆に言えば根ら を生きていると認めるのは、我々が彼らに心を見いだすからではないのか。マンガ に措かれたアンドロイドたちが生きているということは、実はマンガの中の人物た ちが生きていることの証明にもなっていたのである。その意味では、マンガの人物 たちはみなアンドロイドなのだと言えなくもないのである。 図9『わたしは真情「 第3巻. Vi. 次に映画について、海外のものを中心にごく簡単に紹介する。まず先にもふれた リドリー・スコット監督の「ブレードランナー」から。この中でアンドロイドはレ プリカントと呼ばれている。レプリカントには数年たつと感情が芽生える。ただし、 そのた捌こ4年という寿命が安全装荷として設定されている。レプリカントは乱歩. の「押絵」の中の美少女のように、老いたりすることがない。にもかかわらず、勝 手に人間に設定された寿命により死ぬことになるのである。それは不条理と言える だろう。感情を持ったレプリカントは愛情を持つようになり、自分や、なによりも 自分の愛するレプリカントの死が耐えられなくなる。そこで反乱が起こる。その結 果レプリカントたちは「ブレードランナー」によって殺される(破壊される)。た 一20一.
(22) だし、常に先に攻撃するのはレプリカントたちであって、「ブレードランナー」の 方が先に攻撃することはない。それは虐殺ではない。 この作品には、自動人形が人間に近づきすぎて、感情を持ったことの悲劇が描か れていると捉えられる。すでに述べたように感情・愛情をもつというのは、生きて いる証であり、この映画では愛情によってではなく、科学の進歩がそれを可能にし ている。まさに人間が魂を作り出している。それもまた「ビュグマリオン効果」の 一つの「発展」として捉えられるのではないか。けれども、生きているからこそ死 の恐怖があるのであり、感情がなければ死の恐怖はない。どちらが幸せなのだろう か。あるいは、この映画は人間の寿命の不条理さをレプリカントに仮託して表現し た映画としても捉えられるのである。アンドロイドが命を持つということは、人間 になることでもあるが、同時に人間の持つ悲劇も受け入れると言うことにノ他ならな い。けれど、人間とて自分で自分の寿命を決められるわけではない。寿命が4年か ら80年になってもその悲劇性は変わらないのである。人間に近づきすぎたレプリカ. ントの悲劇とするのは簡単だが、それはそもそも人間の持っていた悲劇に他ならな いのである。 また、映画の場合、アンドロイド役も排優がやるので、当然マンガと同じくアン ドロイドと人間の間に外見上の差はあまりない。このような映画は「A.I」など SF映画に多く見られるものである。しかも、最近このようなアンドロイドを描い た映画がまた作られ、例えば「僕の彼女はサイボーグ」(クァク・ジュヨン監督). などがある。またテレビドラマでも「絶対彼氏」という、渡瀬悠宇のマンガが原作 のアンドロイドの彼氏が登場するものがある。 一方で、まさに人形をモチーフにしたものが ある。クレイグ・キレスピー監督の『ラースと ∩÷ 守. 瑠. その彼女』(2008年公開)である。これは主人. 公の内気な青年ラースが、ビアンカと名付けた リアルドール(空気人形)を、あたかも本当の 恋人のように愛する物語である(国10)。この. 図10 Fラースとその彼女』. 作品の注目する点は、それが単にラース個人の ことで終わらずに、周りの人々が同じようにあ たかもビアンカを普通の女の子のように扱うの. である。例えば、お店のバイトとして雇ったり、 幼稚園で読み聞かせをさせたりするのである。見ている側もだんだんそのことに違 和感を感じなくなっていく。ラースがその人形を愛することでその人形があたかも 生きているものとして扱われることになっていくのである。これもまた一つの「ビュ グマリオン効果」として捉えられるのではないか。しかも、人形が生きているとい う見方は、その人形を愛するものだけであi)、『人でなしの恋』のように、それ以. 外の人にとっては人形は人形にすぎないのだが、この作品では周りの人たちまでも 生きているものとして付き合うところに特徴がある。ラースの周りの人たちの優し −21−.
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