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近代日本の家庭教育に関する一考察(そのII) : 明治前期の個人主義的家庭教育

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(1)Title. 近代日本の家庭教育に関する一考察(そのII) : 明治前期の個人主義的 家庭教育. Author(s). 小林, 輝行. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 20(2): 1-15. Issue Date. 1970-01. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4596. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 20 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和4 5年1月. 近代日本の家庭教育に関する一考察 (その虹) -- 明治前期の個人主義的家庭教育 -- 小. 林. 輝. 行. 北海道教育大学函館分校教育学研究室. Teruyuki KoBAYAs日 F A Study o f Ho1 ion t . ・e Bduca. in Modern Japan (Part 口). 目 はじめに 1. 個人主義的家庭教育思想の流入. ( 1 ) 開化啓蒙期. 筋 鹿鳴館期 n, 個人主義的家庭教育の胎動 1 〔 } 西欧的家庭の出現. 次. ( 2 )個人主義的家庭教育. 皿. 個人主義的家庭教育受容の背景 1 ) 明治前期の社会と家庭 ( { 2 ) 個人主義思想に対する抑圧政策 語 結. は じめ に ) 本稿は先の立身興家思想を中心とした 明治期の士族の家庭における 教育の考察に引き続き1 , 近代日本の家庭教育に関する研究の一部として, 明治前期にお する個人主義的家庭教育をとりあ. げ, その受容と展開の過程を中心に考察せんとするものである, 周知のように個人主義的家庭教育は, 子の個性・人格尊重の理念につらぬかれた人格共 同体と しての家庭をその成立基盤とし, 個人主義的親子関係のもとにあっ てはじめて行なわれうるもの である. それは明治維新政府の近代化政策に随伴して, 明治初年に外来思想としてわが国に導入. され, 一部の文化人を通 じて喧伝鼓吹せられ, わが国の伝統的 「家」 制度に内在する封建的価値 規範に対して一大変革を迫るものであっ た. しかし, それは現実には極めて一部の少数の知識人 の家庭にみられたにす ぎず, 一般民衆の家庭に惨透し定着することはできなかっ た,. このように外来思想として流入した個人主義的家庭教育思想は, わが国の伝統的思想に根本的. 革新を与え, それを全面的に変革することはできなかったが, しかし, それが全く無力であった というわけではない, それがたとえ少数の知識人の家庭に限られていたにせよ, 伝統的家庭教 育 からは生まれえない全く新しい型の教育を出現せしめたことは, 近代家庭教育史上, 画期的な出 来事であっ たといわねばならない,. そこで本稿では, 個人主義的家庭教育が明治前期においていかなる形で導入摂取されたか, ま たどのような形で現実の家庭に 惨透し展開したかを究明し, 更にかかる個人主義的家庭教育思想 - 1 -.

(3) . 小. 林. 輝. 行. 受容の社会的背景を考察することによ っ て, それが広く国民の家庭に 渉透し定着 しえなかった因 由を明らかにせんと試みた, なお, 本研究の意図, 方法などについてはすでに先の報告において明らかに したが, 本稿では. 特に外来思想としての個人主義的家庭教育に注目し その 惨透定着化への活動努力が顕著であっ た 福沢諭吉の公私にわたる動 きを中心に, この期の個人主義的家庭教育の特 質, 実態を析出し, 今 後に予定される事 例研究の展望的素描を課題とした, 工. 個人主義的家庭教育思想の流入 1 ) (. 開化啓蒙期. 従来の封建的多元的国家から近代的統一国家への脱皮を図っ た明治政府は, 富国強兵の実をあ げ, 近代国家の内実にふさわしい国民の育成をめざし, 欧米先進文化の摂取に集中的努力を傾注 した. 明治五年には, フラ ンス, アメ リカの教育制度, 内容などを範とした近代的な学制が頒布 され, 同年末には徴兵令, 翌六年には地租改正令といっ た一連の近代化政策が次々と打ち出され た. こうした政府の文明開化の方策の もとに, 欧米近代市民社会に おける個人主義的親子思想, ・みると, 明治四年には, 箕作 家庭教育 思想が多数翻訳紹介されている. その主なものをひ ろっ て - -蒙』 が 繰 れ, 前篇 「巻の下」 第五篇においてフラ ンスの家庭倫理, 親 麟祥によっ て 噛 勧善司. 子思想が紹介された。 また中村敬太郎によ っ てミルの 「自由論」 が 『自主之理』 として翻訳出版 され, その 「巻之五」 において 「児千養育者父母之職分」 「父母之聖務」 が説かれている, 更に i e を訳出 した阿部泰蔵の 『情身論』 enc 明 治 七 年 に は, ウ エ ー ラ ン ドの E1ements of MoraISc. が世に出, その 「後篇・巻二」 において 「親ノ職務及ヒ其権ヲ論ス」「子ノ職 務及ヒ其権ヲ論ス」 2 ) の二章にわた っ て近代的親子 思想が紹介され, 続いて翌八年には, 近藤鎮三訳 『母親の心得』 , 9 ) な どが次々と出されている, 川本清一訳 「子ヲ教育スルハ父母ノ 役ノ 説」. これらの翻訳書の中から明治五年, 文部省の指定修身教科書として当時最も多く使 用 さ れ た. ) 箕作麟祥の 噛 勧善訓蒙』 をみると, そこには 「父母ノ務」 として,( 1 }「父母ノ 愛 といわれる4 2 1「父母ノ看護」 --子どもの健康, 身体の成長に注意を 情」 --子どもへの愛情を持つこと, { 払 う こ と, { 3 }「父母ノ 統制」 --子どもを正 しき威厳に従うように統制すること, 総 「父母ノ養. 6 }「心ノ教」 -- 5 }「体ノ教」 -- 子どもを強健にすること,( 育」 --子どもを養育すること, ( 教」 - 神を敬い神の道の教えを子ど さずけること ” }「 道ノ教及ヒ敬神ノ 子どもに知的教育を , ) もにさずけること, の七つの具体的任 務が掲げられている5 。 こうした父母 の任務は 「能ク其情 ヲ本心二存 シ其子ヲ 教育 シテ其幸福ヲ致スラ己 レノ 務 ト為ス」 ものであり, 親権の行使は子の成 人までとされ, 成人後においては, n唯教誠ヲ加へ慈愛ヲ施シテ其子ノ為資益ヲ計ルノミ」 だと ) 説 か れ て い る6 .. そ して, こうした子 の個性, 人格の尊重の教育は, 成人期においても 「其子ヲ過スルコト厳ナ. ル ニ 過 ギ 其 本心 ラ シテ 自 力 ラ 是 非 ヲ 剖 判 ス ル コ ト能 ハ サ ル ニ 至 ラ シム ル カ 如 ク」 に して は な ら ず. 「宜 シク其子ノ長スルニ従ヒ次第二其権ヲ軽ウ シ漸ヲ遂フテ,百事其子ノ 身二担当スルラ 従ルニ至. ) ラ シム」 よ う に す べ き だ と さ れ る? .. 親を愛慕すること, こうした父母のあり方に対 し, 子のあり方としては,( 1 )「子ノ愛慕」 )「子ノ 2 )「子ノ 尊敬」 --親を尊敬すること, ( 3 )「子の順徳」 --父母の教えを受けること, 柊 ( 顧恩」 --父母に対し感謝の念を失わないこと, とい った四つの具体的内容が掲げられ, 父母が. その子に, 「詐偽ヲ語ラツメ 或ノ ・不潔濃宴ノ所 為ヲ行 ハシムルカ諸悪ヲ命スル ・廟掠或ノ ・慢神或ノ ー 2 -.

(4) . 近代日本の家庭教育に関する一考察 (その口). 時」 は, それは神の教えに背いており順聴する必要はなく, また 「法教ニ於テ父母ノ命二欲セサ ) ル 事 ア ル 時」 も 従 う 必 要 は な い と 説 い て い る8 .. このょぅに 曜 勧善訓際』 に掲げられている親子思想, 家庭教育思想は, わが国の伝統 的な思 想とは全く 異質な西欧近代市民社 会における個人主義的思想であり, こうした思想が, この期に は じめてわが国に紹介されたのである.. ところで, こうした翻訳書類に紹介された内容は, それが法律書, 倫理書などの一部分であり 家庭教育そのものを真正面から取り上げたものでなかったために, 多分に親子思想を中心とした ものに限られ, 家庭教育そのものを本格的にとりあ げたものが極めて少ないのが特徴的である.. ただ, 近藤 鎮三訳 『母親の心得』 という小冊子が, 家庭は 「愛」 による 「心情の教育」 が行なわ れる場所であると説き, 教育者としての母親のあり方に言及しているのがわずかに注目される程 ) 度 で あ る9 ,. 一方, こうした欧米の個人主 義的家庭や親子思想の紹介とならんで, わが国の伝統的な家庭, 家庭教育に対する批判 が, 主として明六社を中心とした文化人たちの間から次々と起っ ている,. 明治七年, 森有礼は 「妻妾論」 を発表し, 従来の親子関係中心の家庭, 男尊女卑の思想, 妾制度 といっ た伝統的思想, 慣習に痛烈な批判を加え, 夫婦中心, 男女平等, 夫婦平等の近代的家庭の ) o 建設を提唱したl ,. また, 小幡篤次郎は, 明治八年の 『民間雑誌』 誌上において, 従来の長子単独の家督相続制 の 弊を指摘し, 家産を子女に均分する分割相続制の採用を主張した=) . 更に, 明治九年には福地桜 2 ) 痴の養子廃止論が現われ, 伝統的家族制度下の家庭の改革が叫ばれている1 。. こうした家庭改革論とならんで近代的家庭教育論もいくつか登場 している, 明治七年の箕作秋 1 3 ) 1 4 ) などがそれであり いずれも家 坪の 「教育談」 , 翌年の中村正直の 「善良ナル母ヲ造ル説」 , 庭教育の重要性を説き, そのあり方を説いたものであっ た, 当時のこのような家庭改革論, 家庭教育論のオ ピニ オン・リーダーは, 周知のように福沢諭吉 で ある.. 福沢は明治三年の 「中津留別の書」, 明治七年の 『学問のすすめ』 第八縞, 明治十一年の 『福沢. 文集』 などにおいて, 伝統的家庭観, 親子観を鋭く批判 し, 夫婦中心の家庭, 男女平等, 夫婦平 等, 個人主義的親子関係に 基づく近代的家庭とそこにおける近代的家庭教育のあり方を提唱して い る,. まず彼は, 家庭を幼児の習慣形成に極めて重要なる場であるとみなし, それを 「習慣の学校」 と呼び, 一般知識を授ける 「教授の学校よりも更に有力」 で 「実効を奏すること極めて切実なる もの」 ととらえ, それ故に家庭の教育を 「人事の最大箇条中に在らしめん」 と意図し, 極めて重 ) 5 要視 して い る1 ,. こうした家庭 教育観に立って, 彼は伝統的な封建的儒教倫理, 親子関係の不合理性をつき, 近 代倫理, 個人主義的親子関係の確立の必要性を説く. まず 「父は子の財を貧らんとし, 姑は鳩の 心を悩ま しめ, 父母の心を以て 子供夫婦の身を制し, 父母の不理屈は尤にして子供の申分は少し 1 6 ) と当時の世 も立たず, 嬢は恰も餓鬼の地獄に落ちたるが如く, 起居眠食自由なるものはなし.」 間一般の風潮を指摘 し, かかる悪弊は 「人の父母たる者其子に対して我生たろ子と唱へ手以て造. り金以て買ひし道具などの如く」 みなす子の人格性無視の児童観, 更には, 「子の孝ならざるを 各て父母の慈ならざるを罪する」 ことが少ない儒教的 「孝」 教説の偏在性とに由来するとし, そ ) 7 の誤りを鋭く指摘する1 . 彼は父母の子の成人に至るまでの養育を 「恩」 ではなく, 「役目」「職 - 3 ー.

(5) . 小. 林. 輝. 行. 分」 であると従来の 「恩」 教説を否定 し去り, 成人後の子の独立, 自由を主張し, そのためには 「子を教るが為には労を偉」 てはならず 「財を愛 し」 んではならず 「よく其子の性質を察 して,. 之を教へ之を導き, 人力の及ぶ所丈けは心身の発生を助けて,其天票に備へたろ働の頂上に達せ」 8 ) しむるように しなければならないと説き及ぶ1 , また, 家庭は 「習慣の学校」 であるから, 「習 ) 9 慣の教師」 たる父母は, 何よりもまずその行状を正 しく保持することが要請されている1 , 一方, かかる父母のあり方に対し子のあり方は 「親に孝行は当然のことなり, 唯一心に, 親と. 2 0 ) と述 べられて いるが, ここにいう 「孝」 はいうまでもなく従来 思ひ余念なく孝行を尽すべし」 ー親に孝行 の封建的儒教的 「孝」 倫理ではなく, 親子の人間的愛情に基 づくそれである, つまり 1 するは固より人たる者の当然……利のために非ず, 名のために非ず, 唯己が親と思ひ, 天然の誠 1 ) というように 「天然の誠」 から自然に出てくる,「孝」 であり 2 を以てこれに孝行をす可きなり」 . 「 それは儒教家族倫理の説く 「対価的性質」 外面的強制 を伴わない 」 , 主体的意志による 自発的 , 2 ) 内面的な決定によ っ てもたらされる無条件的近代家族倫理である2 . このように福沢は, 個人主義的親子関係にもとづく近代 的家庭教育の確立を強調したのである. が, こうした彼の思想の根底には, 家庭を社会改良の基本的なる ものとみる考えが横たわっ てい た, 近代社会の確立には, まずその基底たる家庭の近代化が必要であり, 家庭の改革なくしては 社会の改革もありえな いと彼はみる. 「人間社会は家内の集りたるものなり, 其悪事の元素は早. く家内に在て存するものなり. 家内は社会の学校なり. 社会に在て専制を働く者は此の学校の卒 2 3 ) 業生なり. 故に日く, 社会の有様を改革せんと欲せば, 先ず其学校を改革す可きなり.」. こうした思考様式は, 明治期における個人主義的家庭教育思想の一つの顕著な特色といっ てよ く, 明治末期から大正・昭和初期にかけてのそれが, 児童中心主義的思想を中核とし, そこから 個人主義的家庭教育の強調が叫を れ た の と は 明 ら か に 異 な っ て い る, ところで, このように開化啓蒙期の福沢を中心とした個人主義的家庭教育思想は, 伝統的家庭 や家庭教育に鋭い批判を加えたのであるが, しかしそこには いくつ かの限界があっ たことも看過 しえない. その第一は伝統的思想との対決の不徹底さであり, 第二は現状打破改革の方法論の欠. 除という致命的欠陥 である, 第一の点に関して言えば, 儒教主 義へ鋭い批判を加え, それとの対 決の姿勢を示した福沢にお いてさへ, 論理的には必然的に到達す べ き問題に対決せず, 回避ない. しは対決以前の段階 で止まり, その不徹底さがみられる. 例えば, 男女平等, 夫婦平等の主張 にしても, それが, 真の男女同権論ではなく, 単なる 「男女同等論」 の域を出な いものであっ た 4 ) し2 , また, 儒教主義への批判に対しても, その根底に横たわるわが国の 「家」 制度との真に対 決の中から出てきたものとは言 いがたく, 単に欧米の近代 思想との対比の中でとらえられたとい. う性格を色濃く もつものであっ た. 第二の現状改革の方法論の欠除と いうことも, こうした第一. の性格の必然的帰結であっ た. 欧米の近代思想の直輸入によっ て, そこから前近代的な家庭や家 庭教育の打破を叫ぶことは可能であっ たが, 前近代的なるものとの真の対決のないと ころに方法 論が生まれるはずはなかっ たといわねばならない, 2 1 鹿鳴館期 ( 明治十年代に入り士族, 農民, 都市小 ブル ジョ アを包括した広範な自由民権運動が高まり, ,い わゆる 「政治的熱狂時代」 「政治的疾風怒涛時代」 を迎えるが, この時期には, 自由民権の流れ. にそ っ てスペ ンサーやミルの著作をは じめとした啓蒙書が前代に引き続き数多く訳出され, 男女. 同権論, 権利 義務にも とづく近代的親子関係論, 近代的家庭改革論などが紹介されて いる. 明治十四年に出版されたスペンサー著, 松島剛訳の 『社会平権論』 では, 「児子ノ 権利ハ大人 - 4 -.

(6) . 近代日本の家庭教育に関する一考察 (その1 1). ノ 権利 ト等シク同等自由ノ 法則ヨリ湧出スルモノニ シテ, 其広狭軽重室モ大人ノ 権利 ト異ル「ナ. シ.」と子どもの権利の正当性を主張し, 子女の親への服従を正理に惇るとし, 子女の教育につい ては, 「抑制スル」 方法は 「其ノ道義教育ノ 主眼 ナル同情ノ開発ヲ全クラ 参クル「能ノ ・」 ず 「其ノ 惇逆及ヒ怨恨ノ 感情ヲ激昂スル」 ことになり, 「其ノ至貴至重ナル自制力ノ発達ヲ遭 遇スル」 結 果を招来するが故にこれを排し, 「寛和ノ待遇」 は 「常二高尚ノ感情ヲ喚起 シ, マタ其感情ヲ作 用セシム ガ故二必ラズ小児ノ 性質ヲ改良ス」 ることが可能だとして これをとるべきだ と強調して 5 ) い る2 .. と こ ろ で, こ う し た 主 張 が, 当 時 どれ ほ ど の 影 響 力 を 持 っ た か は 明 ら か で は な い が, こ の 本 の 6 )こ と を 考 え る と か な り こ う し た 主 張 が 広 ま り つ つ あ っ た と い て よ 売 れ 行 き が 極 め て よ か っ た2 っ い で あ ろ う.. こうした自由民権期の傾向は, 治外法権の撤廃と関税自主権の獲得をめざした明治十六年の鹿 鳴館の完成にはじまる欧化主義時代を迎えて一層助長され, 家庭改革論, 教育論に関す る啓蒙的. 著作論文が次々 と世に出てきた, 社会の西欧化という政 府の方策が, 必然的に家庭の西欧化 近 , 代化の風潮を醸成したの である,. この期における顕著な動向は, なんといっ ても言論界における社会改良論 の袷頭とそれに伴う 家庭改革論, 家庭教育論の出現である, 「東京日日新聞」 「朝野新聞」 といっ た政論を中心とし た当時の大新聞をはじめ, 「読売新聞」 「絵入自由新聞」 などの大衆紙に至るまで, こぞ って家 庭改革論をその社説や投書に とりあげ, また, 明治十七年六月 に創刊された 「女学新誌」 をかわ. きりに, 「女学雑誌」 「女学叢誌」 などの婦人雑誌が次々 と刊行され, それらはいずれも家庭改 革論, 家庭教育論を論じていた, 更に, 「大日本教育会雑誌」 「教育報知」 「教育時論」 といっ た教育界誌も家庭教育の問題にわずかながらも言及している,. こうした言論界における近代的 家庭教育論は, 西欧の家庭教育論の断片的紹介な いしは それ , に類したものが圧倒的多数を 占めている, 「女学雑誌」 に掲載された記事をひろっ てみても, アメ リカの婦人, アベリ著 尾崎春耕訳 「児 ,. ) ス ペ ンサ ー の 著 書 の 一 部 を 訳 し た 「子 供 を 育 つ る 心 得 の 事」 2 7 育 て草」,2 8 ) , デ フ レス ト夫 人 の 「子 ) 内 村 鑑 三 の 「ク リ ス チ ャ ン・ ホ ー ム」 3 9 0 ) ペ ス タ ロ ッ チ ル ソ ー フ レ← ベ ル な ど 供 の 教 育」,2 , , ,. 3 1 ) など, いずれもそうした西欧ブル ジョア市民社会の家庭教 の教育論をもとにした 「家庭の母」 育諭の紹介記事である, また, 「大日本教育会雑誌」 に掲げられた小池民次の 「家庭教育」3 )長 ,2 3 3 ) 「現時児童養 育ノ 弊害」 3 4 ) といっ た論説も すべて欧米 の教育論の影 田勝吉の 1児童ノ 養育」 , ・そ の 域 を 出 る も の で は な か っ た 響 下 に 生ま れ て き たも の で ,. こうした時代風潮の中にあっ てひとき才づ注目されるのが, 小崎弘道と植木枝盛の 親子関係に関 する所説である, 小崎弘道は明治十九 年の 『政教新論』 において, . 「社会尚幼稚なる時は, 父母の権勢甚だ強大 にして, 子女たる者は何の権利を有することなく, 父母の存在中は-己人たるの資格なく 奴隷 , と一般, 生殺与奪, 唯父母の意のま まなり, ゆえにその教も唯 子女の父母に事るの訓誠のみにて 更に父母の子女に対する教あるを見 ず,」と述 べ, 伝統的家族制度下の家庭における親子関係が , 「奴隷の倫理」 でささえられていることを指摘し, 「然れども開化の国にあっ ては然らず 子女 , 一己人たるの権利を有せざるは唯十 年未満幼稚の間のみ. 己に人となるに至 ては 父母と同等 っ , の権利を有し, 一己人たるの資格に更に差異あるを見ず,」 と親子同等の権 利を有することを主張 5 ) キ リス ト教 徒 で あ る 彼 は そ の キ リ ス ト教 の 人 間 理 解 に た て わ が 国 の 精 神 的 伝 L てい る9 。 , っ ,.

(7) . 小. 林. 輝. 行. 統としての儒教との対決と批判を通して, キリスト教を中心とした人格共同体としての一夫一婦 6 ) の家庭生活と人格としての子どもの尊厳と自由の確立とを強調したのである3 , 一にするのが植木枝盛の親子論である 一方, 立場は異にする が, かかる主張とその方向を 。明 治十九年九月九日から 九月十九日わたっ て 「土陽新聞」 紙上に掲載された八編の親子論に関する ) 7 論説をみると3 , 彼の親子 思想が端的にあらわれている. 彼は 「孝は百行の本葬倫の道なり」 と. い っ た当時の社会を支配してい た儒教道徳に対し, 子の孝のみを殊更に強調する不合理性を先 ず 指摘し, かかる儒教道 徳の説く親子関係を 「全体尊きを親に 与へ卑きを子に与へ親を以て一種上 幅卑」 な親子関係であるとき 位に在るものとし 子を以っ て別段下位に在る者」 とする 「頗る堀尊・. 「子は 8 ) めっける3 , 更に彼は, 「子は親を食ふ為めのものなり」 「子は親に附属したろ者なり」 必ず親に従ふべきものなり」 とい っ た伝統的児童観に 対し, 「親の権威を以て過甚に重きものと 為し子と云へは余程に軽きものとして下げしむることは吾輩の大に 悪む所なり. 親に於て子を擢 私するは吾輩の大に 悪む所なり.」 と述 べ“) , これを真正 面から否定する. いうまでもなく彼の こうした鋭い批判は子 どもの人格, 人権の尊重という思想より発している. 「子とは親に対する の名のみ天地若くは社 会より之を視る則ち天地若く は社会の一人なり」「子は子の為めの子にして 親の為めの子にあらず」 と述べ, 従 っ て 「親の子に対するは只た只た之れを養育する に 在 る の み」 「親とは子を養育する為めのものなり」 と親の職分を規定し, 「之れを養育して一応独立の こでは親の扶養は, 親の 人間とならしむ れば親たろの職分は終らんのみ」 と主張する, そしてそ). 養育に対する恩の反対給付として親の側から要求される子の義務とい っ た性質のものではなく, 0 ) 「子は親と最も親近の間柄なるを以て」 する 「臨機の事」 と考えられている4 , 度下の家庭生活様式 ところで, こうした親子関係を 樹立するためには, 当時の家父長的家族制. 及び意識の変革が必要であることは自明の理である. 彼は 「親権過大子権過小の隔習」 を打破す るためには, 先ず父母が其の子に依頼し, 独 立後の子が親に依存するという親子相互の依存心を とり除くことが先決の問題であるとし, その具体的方策と して, 子の独立後に おける親子の別居 1 ) しか しな が ら, か か る 変 革 は 一 朝 一 夕 に達 成 しう る も の で は な い, 従 っ て 制 を 提 唱 して い る4 .. 過渡的なものとして次のような段階を設定する, 「今日に在っ ては親子互に相 ひ譲合ひを為し親 たろ者も成る べくは其子の給養を受け ざるやうにし 子たろ者は叉出 来る丈け都合を付けて且つは 後来の用意を為し 且つは現在の老父母を養 ひ而 して目からは決して旧習を踏襲する」 ことのない ようにす べきだとし, かかる時期に生きる子どもたち に改革への勇気と犠牲とを要望しているの 2 ) で あ る4 .. 以上が植木枝盛の親子論の骨子であるが, このよう な主張が当時の社 会に どれほどの影響力を もちえたかは明らかではない. しかし, わが国の伝統的な 「家」 制度, 儒教倫理と堂々と対決し それを批判し克服せんとした点で先の小崎弘道と軌を 一にしており, 開化啓蒙期の個人主義的家 庭思想, 親子思想の限界を乗り越えた点で高く 評価されうるのである, ロ. 個人主義的家庭教育の胎動 1 ) 西欧的家庭の出現 ( 明治政府の上からの諸制度の改革および文明開化策は, 一般の欧化的風潮を助長させ国民生活 に著 しい変化をもたらした. 郵便制度の開設, 鉄道の施設による交通通信機関 が発達し, 風俗に. おいても, 洋服洋装 が登場し, 断髪が文明開化の文化 人の象徴として意識され, 食生活において も牛肉豚肉などの食用 がはじまり, 西洋料理の流行がみられた. 更には, 太陽暦の採用, ガス燈 - 6 ー.

(8) . 近代日本の家庭教育に関する一考察 (その1 1). の出現, 端幅傘や懐中時計の流行, 洋風建築, 家屋の出現があり, 衣 食住にわたっ て欧化の風が 3 ) とり入れられ, 生活様式の著しい変化があらわれた4 , こうした風潮は, 官吏, 軍人, 警官, 洋 学者, 実業家といっ た欧化の最先端におかれた人々の, 家庭に集中的にみられたのが特 徴的であ る,. 福沢諭吉が地方で同窓会が行なわれた折, その世話役に出した手紙に 「もしできれば食事前に. 牛 乳 を ち ょ っ と 入 れ た コ ー ヒ ー と バ ンと バ タ ー が あ れ ば い い が, こ れ は 家 でや っ てい る こ と で ,. 4 4 )とい っ た一節があるが, 当時の文化 旅行先ではそんなことはいわないから何もなくてもよい,」 人の家庭生活の一端がうかがわれる, こうした家庭への西欧的なるものの流入は, 鹿鳴館期に入ると一層助長され, 地方にも伝播し て行く, 『女学雑誌』 は当時の様子を次のように記 している, o貴婦人某々等毎月三回上野精養軒に会して, 西洋料理の飲食法を研究す. (明治十八年八月) o福岡に婦人同伴会あり, 夫婦手を携へて宴会に望む, (十九年一月). o海軍々医の妻女姉妹等毎月三回相会して洋食会を開く, (同年十二月) o京都府知事, 自今婦女は荊眉浬歯することを廃し, 結髪を過緊ならざらしめ, 且数々毛髪を洗渡すべ しと訓 令す. (同年十二月) o愛媛県庁の判任官以上の妻娘とも自今洋服を着することの協議をなす. (ニ十年三月) o仙台軍営の将校の妻女は, 米国教師を時して英語を修め, 洋食調理法を学ぶ, (同年三月) 4 5 ). こうした時代風潮に助長され, 西欧風の家庭が上流社会に広がっ てい った, ドイツ留学 を経て 会計検査院の官吏として活躍した父をもつ平塚らいてうは, 当時の家庭の様子を次のように語っ. ている, 「三番町の家は万事が山の手風 で, しかも欧化主義の全盛時代のことでもあり, 住居も なかば洋風で, とりわけ父の書斉は洋式に装飾され, 天井からは大きな釣ラ ン プがくさりで下が 4 6 ) であり り, 母は洋服を着てハイ カラな刺繍や編物をするという雰囲気」 「母は文明開化の尖. 端を行く官吏の家庭の主婦として, 自分を再教育するため, 父の意見に従 っ て姉を乳母に, 私を 4 7 ) 祖母に託して, 父の留守の間, 桜井女 塾 (後の女子学院) に通い, 英語を勉強していました」. 「日曜になると, 父の役所も母の学校も休みなので, この日は両親そろっ て, 私たちを遊びに連れ てい っ てくれました, 上野の動物園や小石川の植物園, 氷川田園の蓮華草つみ 、 , 団子坂の菊見, 4 8 ) 向島の百花園など…・三. このように平塚らいてうの回想は, 当時の欧化風家庭の実態がいかなるものであっ たかを明ら. か に し て い る.. 2 ( ) 個人主義的家庭教育 明治前期におけるこうした西欧的家庭の出現は, ただちに個人主義的家庭教育と直結 していた わけではなかった, 当時そうした家庭においてどの程度個人主義的家庭教育が行なわれていたか. はその資料的制約から必ずしも明らか ではないが, それらの大部分は単なる外形的模 倣の域を出 なかっ たものと思われる, 平塚らいてうの例をみても, そうした西欧的家庭においてなされた教 9 ) 育は, 依然として伝統的な厳しい行儀作法の教育であり, 金銭蔑視の儒教的教育であった4 . し かし, この期に個人主義的家庭教育が, 極めて一部の家庭に限られていたにせよ, わが国にはじ めて出現したことも事実である. ここでは, その典型として福沢諭吉の家庭教育をとりあげ, 当 時のそうした個人主義的家庭教育 がいかな るものであったかを窺い知る手だてとしたい.. 福沢の家庭教育を知る資料はいく つかあるが, 中心をなすのは明治初年の 「日々のをしヘ」 と 十年代後半のアメ リカ留学中の二人の子どもに出 した一連の手紙である. 前者は, 明治四年に当 - 7 -.

(9) . 小. 林. 行. 輝. 時九歳の長男一太郎と七歳の次男捨次郎に 対 して 彼が朝食後自分の書斎において教育 した内容記 録であり, それは加賀半紙四ッ 折の帳面で一太郎, 捨次郎各々に二冊作り 与え, 毎日 一個条づつ 書き与えたものといわれる. 二人に与えた 「日々のをしヘ」 を比較 してみると下表の ごとくであ り, 初編におい ては桃太郎が鬼の所有物たる宝物を盗むのはげしからぬという 「桃太郎話の反道. 徳性」 を説いた話 が一太郎のものに欠け, そのかわり 「日本における 一日の時間」 の呼び方が教 えられている. また第二縞においては, 時間や広さ, 長さなどに関する知識が捨次郎のものには 記されていない. こうした差異は, 一太郎, 捨次郎の年令の相違から生まれたものと解され, 子 どもの成長発達段階に意を配した福沢の姿がうかがわれる. 一太郎用と捨次郎用 「日々のをしヘ」 の内容比較表 (×印は欠) 初 編 内 容 おさだめ七ヶ条 お. ら し・. さ. 〔 博. 愛. 独. 立. 人 と の 交 際 ′も の 力・ た jっ. 清. 潔. 勇. 気. ゴッ ド(造物主). 一太郎捨次郎 初 編 内 容 ー太郎捨次郎 第二綱 内 容 一太郎捨次郎 0. 0. 人間と他の動物. 0. の相違 0 桃太郎話の反道 0 徳性. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 嘘言と盗みの戒 め も の の 数. 日本の1日の時 間の数へ方 柔. 和. 善き人と卑しき. 人. 尊 き 人 と なれ. o. 0. x. o. o. o. o. o. o. x. o. o. o. o. o. o. おさだめ六ヶ条 てんとうさまの おきて 年 月. 日 時. 0. 0. 0. 0. 0. 日本と西洋の時. 0. 西洋の時間の数 え方 日本の長さの単. 0. 日本の広さの単. 0. 間. 位 位. 0. 7~77頁. (備考) 一太郎用は 『福沢諭吉全集』 第20巻 (昭和38年)6 11頁. 0 3~4 捨次郎用は 『続編沢全集』 第7巻 (昭和9年)4. 次に 「ひゞのをしヘ」 の内容面をみると, 初編の冒頭には 「おさだめ」 として次の七ヶ条が記 さ れ て い る.. 一, うそをつくべからず. 一, ものをひらふべからず.. 一, 父母にきかずしてものをもらふべからず. , ごぅじゃ うをはるべからず. 一, 兄弟けんくわかたくむょふ, 一, 人のうはさかたく無用. 0 ) 一, ひとのものをうらやむべからず5 .. こうした 「おさだめ」 の事項からも看取される ように, 総 じてその内容は道徳的訓話からなっ ており, それに卑近な知識に関する内容が若干加えられている, いうまでもなくその道徳は西欧 近代社会にお・ける個人主義的倫理であり, 封建的儒教的倫理のそれではない. しかもこうした道 徳的訓話が陥りがちな退屈さを彼は 持ち前の話術で巧みに回避し, 子どもたちに興味深く説き聞 1 ) か せ て い る5 ,. このように福 沢は, その主張どおり現実生活においても幼少時から子 弟教育に極めて力を入れ ていた. そしてこうした彼の家庭教育への努 力の傾注は, 子の独立まで続く. 明治十三年八月 三. 日, 多分に内気で 非社交的性格を持つ長子 一太郎に対し人との交際の心得を説き, 「人二交ルハ ー 8 -.

(10) . 近代日本の家庭教育に関する一考察 (その口) 馬 二 乗 ル ガ如 シ. 某 人ニ ハ 交 り 難 シ ト云 フ ハ 某 馬 二 乗 ラ レヌ ト云 フ ニ 異 ナ ラ ズ 騎 馬 達 人ノ 眼 中 ,. ニハ天下悪馬ナシ ド …・汝ノ後来ヲ案スルニ 人二交 ル事ノ拙ニシテ 自力ラ不平ヲ 抱キ 叉随 , , , テ 人 二 不 平 ヲ 抱 カ シム ル コ ト多 カ ル 可 ツ ト懸 念 唯 此 事 ナ リ 謹 テ 忘 ル ル 勿 し 」5 2 , . ) と 戒 め 訓 し てい る,. このような子どもの個性に応 じた教育, 個性尊重の教 育は, 随所にみられる 明治十六年 四 , , 男大四郎が他家で養育されることになった折, 養家との間にとりかわされた 「福沢大四郎養育に 関する取極書」 の中には, 「一, 小児は如何なる場合にても叱るを要せずまして肉体の苦痛を覚えしむるが如き全く無用の事なり ,. 一, 小児も成長すれば一男子たるべ し男子の志は親たりとも傍よりこれを左右すべきにあらず故に此子を養 育するも成長の後目から方向を定めて独立を謀 る等の事あるときは其志を成さしむべし何れとも小児成長 5 ) の後本人の意に任すべき事……」 3. と書き記されており, また明治十七 年二月二十二日付のアメ リカ留学中の一太郎・捨次郎宛の手 紙にも次のような一節が ある, 「学課は必ずしも農学叉電気学と限るにあらず, 一太郎は農学も宜しからん. 其農学に兼て女学語学● を勉強. 致し, 会話自由英文見事に出来候得ば則一芸にて, 急度今後ライ フの基と可相成, 逆も親より譲受る資産は常 に不致可, 詰り自分の腕にて一家を保つの覚悟なかるべからず, 叉捨次郎も電気学とは拙者が思付なりしかど. 吃度限りたる訳にもあらず, シヴィルイ ソゼニールも甚大‐ も, 是も- 切なり, 殊に日本にも追々土木の工興るべ ければ, 最も可然存候. 何れにも学業は本人の所長にあらざれば進歩も遅し, 宜しき]約 / こ可被考, 拙者に対し 4 ) 5 て遠慮に不及事なり. 」. ところでこうした個性尊重の教育の根底には, 子 どもの幸福, 子どもの独立自活 という究極的 目標があっ たことに注意せねばならない. 福沢は子どもたちに向っ て 「拙者の所望は唯貴様生涯. の幸福にあるのみ. 幸に拙者は達者にして, 且生涯子供 の賄を持て生活せんとは思はず 唯願ふ , 所は子供が独立の生活を為すを見んと欲するのみなり 」 5 )と再三再四説き聞かせている 福沢の .5 . 家庭教育は, このような個人主義的親子関係, 教育目標のもとで行なわれたの であっ た .. 以上, 福沢の家庭教育がいかなるものであっ たかを瞥見してきたが こうした福沢の家庭教 育 , は, 封建遺制が根づよく残存していた当時の社会にあっ ては極めて異色のもの であり 伝統的家 , 庭教育に対する実践か らの挑戦として大きな意義を有している. しかし, こうした家庭教育は福沢のごとき高度な知的生活, 経済生活を営む 家庭においては じ. めて可能であったといわねばならず, 知的にも経済的にも劣悪な状況におかれた当時の庶民の 家 庭に惨透することができず, 総 じて個人主義的家庭教育は極めて不振であったといわなければな ら な い.. m, 個 人主義的家庭教育受容の背景 1 ) 明治前期の社会 と家庭 ( 個人主義的家庭教育思想が流入し, m旨まれ続けたにもかかわらず 社会における個人主義的家 , 庭教育は, 文明開化の最先端に位置した人々の極めて一 部の家庭に入 てい たにす ぎず 広く っ っ , 国民の中に惨透できず低 迷状態にあっ た, そこには種々の要因が複雑にからみあい そうした外 , 来の新思想の惨透と定着を妨げていたのである, まず当時の社会的背景をみると, 幕藩体制 を倒し政権の座についた西南雄藩の下級武士層を主. 体とした明治政府の直面した課題は, 対外的には先進列強による植民地 化 従属化の危機を克服 , することであり, 対内的には軍事的, 権力的基礎をかため 多元的な封 建体制を打破 し一元的統 ,.

(11) . 小. 林. 輝. 行. 一国家を実現することであっ た, 明治四年には廃藩置県 が断行され, 翌五年には近代的 「学制」 が頒布され, また近代的な国民軍 の創設をめ ざした徴兵令が公布された. こうして 「殖産興業富 国強兵」 のスローガンを掲 げ 近代的国民国家への転化が上から急速に推進されたのである, 内に. は封建的身分制の改革, 土地売買の自由, 職業選択の自由といっ た封建制改革への努力が行なわ れ, 外には関税自主権の獲得, 治外法権の撤廃という民族的主権回復への試みがみられた. 「文 明開化」 「欧化主義」 といわれるものも, こうした方向に展開された明治政府の苦肉の策にほか な ら な い.. このように明治前期は, いわば近代国家の基礎確立期であり, 近代国家体制の確 立に集中的努 力がはらわれ, 家庭教育への関心は総 じて薄かっ たといわなければならない. 家庭への関心は一 部の人々によ っ て強く喚起されはしたが, それとて社 会改良的志向が濃厚で, 家庭教育その もの. を本格的にとりあ げたものは政論に比し極めて少なか っ たのである. 一方, こうした社 会の表層の動きに対し, 底辺における状態をみ 、ると, その動きは極めて緩慢. であり, 徳川封建社会の伝統的制度, 慣習, 規範が, ほとん どそのままの形で存続し, 旧態依然 たる姿を呈していた, 東京に生まれた長谷川如是閑は,. 「『文明開化』 の風は, 生活面の末梢を吹き扉かせていたが, 私たちの社会の どこに, 歴史に語られている 如き, 搬烈の政治運動をうらづけるような, 人間の動きを見ることができたであろうか. チョ ソ髭がざんぎり となり, 峠がフロックコートとなったに比すべきような, 大きい変革が, 日本の政治史に起っているとい った 6 5 ) ′ 様子は, 私達の世界には殆んど見られなかったのである.」. と当時の様子 を回想している し, また高畠亀太郎も, 宇和島市の商人の社 会の様子を次のように 述 べ て い る.. J Y者との間柄は先天的に定まったもののように感ぜられ, 酒造家や蝦座のお嬢さん 「同じ町内でも旦那衆と′ や坊ちゃんは横町の子とは初めから段があり, 職人は職人, 小商人は小商人と各々分があって, そこに越すべ からざる垣が存し, それに対しては何の不平もなく反抗もなく, 却 って身分相当といったような観念で, 一種 7 5 ) の従属的安定感, それなりの日常生活に甘んずる安易な気分が濃厚であった,」. こうした回想は当時の社会の一面を端的に示しているとい っ てよく, 類似の回想は他にも数多 くみられる. こうした状態はその家庭においても全く同様であっ た. 明治維新の変革によりその経済的基盤の喪失によ っ て 最も大きな変動がみられた士族の家庭を. みても, その伝統的な 「家」 意識は依然として根強く存し, そこでは家長は 「家」 の永続発展の 最高責任者として家の内部を支配し, 「家」 を代表して対外的交渉の任にあたっ た. また 「家」 の永続のための組織・制度として長子単独相続 制, 養子制などが存し, 親子関係が中核的位置を. しめ, 家族員相互における上下, 尊卑の身分秩 序の観念によ っ て, 支配統制がなされていた. 子 は父母に対し孝を尽す べきものと観念さ れ, 家名・家柄・出自とい っ た系譜的な ものが尊重され て い た,. 従 っ てそこにおける教育は, 「家」 の永続発展, 「家」 の再興という目標価値を中核とし, そ れへの志向性を常 に保持し, その内面構造においては, 学問, 粋持 (士としての幹特, 「家」 の し これらを支え補完するもの 一員 としての論特) , 勇気・気概, 独立的態度という四つを支柱と , として, 長幼の序をはじめ, 従順, 祖先崇拝・ 家名の尊重, 誠, 卑怯・嘘言の戒め, 忍耐, 分限 ) 8 意識, 礼儀, 金銭蔑視, 勤倹, 清貧, 漢籍の学習な どが教育の内容として教えられた5 . て君臨し 子はその自由 が 「 家 」 の統率者とし このように儒 教的士族の家庭にあっ ては, 家長 , ,自主性を喪失し, ひたすら親への服従を強いられ, 「家」 の中に埋没せしめられ, そこには 「人 9 ) 間人格の相互尊重」 という観念が存在せず5 , 個人主 義的家庭教育の展開 する余地はなかったの - 10 -.

(12) . 近代日本の家庭教育に関する一考察 (その1 1) で あ る.. こうした士族の家庭に対し, 国民の大多数を占めていた中小農民, 商人などの庶民の家庭をみ ると, それは儒教主義的士族 の家庭とはその生活構造, 価値規範を異にし, いわゆる 「民衆の家 6 0 ) といわれる性格を持っ ていた, 農民の家庭を例に とればその生産活動 経済生活から 族制度」 ,. 必然的にもたらされた, 家長の権威の労働指揮権的性格, 主婦権としての, 主婦の独自の地位の 確立, 相続形態の多様性, 協同的・情緒的雰囲気, 非規範意識的行動 とい った諸特徴が指摘され 1 ) る6 , そこでは伝統的家族秩序が家族成員に対し人情的情緒的性質を帯びた絶対的権威として君 臨し, 「外から」 成員を拘束する. 従っ て成員は, すべて個人として行動する ことはできず, 協 2 ) 同体的な秩序の 雰囲気の中で, 独立な個人とー て 自 己 を 意 識 し え な い6 ,. こうした農民の家庭における教育は, 子の教育と生活の必要性から幼少時から働く ことが教え られ, 殊に長子単独相続制をとるところでは, 次三男や女子は他家にゆく準備的意味からも厳 し. い労働が課せられたのである.. (補注) 明治四年, 徳島県の小農の家庭に生まれた害田貞吉は, そうした次三男の生活を次のように語 って. い る.. 「自分は風邪を引き易い, 度々腹痛を起す様な, 至って躍弱い小さい子供ではあったけれども, 健康な時に ボンヤリ空しく時を過ごすということはなかった, ……学校から帰ると毎日必ず姉と共に労働を課せられたも のであった, それには日曜日も祭日もない. 休みは病気の時と正月三ヶ日, 毎年四度の節句と盆, 氏神の三社 の祭礼, 宅に法事のあった時位のもの. 労働の種類としては, 平日は裏の山に上って枯枝を取る事, 雨天その 他の事情からそれが出来ぬ時には, 必ず縄を三十尋ずつ締わされる. 時には農時の手伝いをやらされる. 田植 ・田草取・稲刈から, 水車で用水堀の水を田へ踏み送る作業など,/ ・学校高等科卒業の十四歳までに, 農事の 」 一通りは仕込まれたものだった, ……殊に二・三男と生まれた者は, 必ず他家へ養子に行かねばならぬ. 養子 に行けばどんなつらい辛抱をせねばならぬかも知れない。 それに堪へるだけの訓練が必要だといふのが我が両 親の教育方針だったのだ, 従って嫁へ向の訓練を受けた姉と, 養子を予定の自分とは, 殆んど日雇人と同様の 6 3 ) 待遇を受けて, 所謂 『次男の冷飯喰ひ』 をつくづく体験したものだった, 」. また, そうした農事の実践の間や, 日常生活の中で伝統的行動様式が教えられ, 「家」 意識, 4 ) 共同体的秩序の教育がなされていたのである6 . このように庶民の家庭にあっ ては, 儒教的士族の家庭とはその生活構造, 価値規範, 子弟教育 を異にしていたが, しかしそこにも独立した個人という意識は存せず, 個は集団の中に埋 没し, 個人主義的家庭教育の苗床とは なりえなかっ たのである. ) 個人主義思想に対する抑 圧政策 2 {. 個人主義的家庭教育不振の背 景として看過しえないいま一 つは, 明治政府による, 上からの個 人主義的思想に対する抑圧であり, その普及を阻止するための儒教的イデオロギー教化政策であ る,. 周知のように, 当初の近代化路線上においてもた らされた欧米の近代思想は, 士族の没落, 農 村不況という社会情況の中において自由民権運動という士族, 農民, 都市小 ブルジョ アを包含し. 5 )精 た広汎な国民運動として展開した. これに驚博した明治政府は, 政治的方途をとるとともに6 神的にも自己の立場を強化するため天皇制絶対主義倫理の確立整備を企図する, 明治十二年には, いちはやく 「教学大旨」 が出され, そこでは 「道徳ノ 学ノ ・孔子ヲ主 トシテ」 行うべきことが強調され, 君親間の道徳である 「忠」 と親子間の道徳である 「孝」 とを自我確立. 前の 「幼少ノ 始メ ニ, 其脳髄二感覚セシメ テ培養」 す べ きことが力説された6 6 ) , もとよりそれは 儒教道徳をもっ て天皇制絶対主義国家の精神的支柱とし, 欧米の近代的個人主義思想の惨透を阻 - 11 -.

(13) . 小. 林. 輝. 行. 止することを企図したものであっ た. こうした方向に沿って, 翌十三年には, 儒教主義道徳の濃 厚な教科書といわれる 『小学修身訓』(西村茂樹編) が文部省から刊行され, 従来教科書として使 ) 7 用 されていた多くの翻訳書, 政治書の使用 が禁止される一方6 , 教育令の改正が行なわれ国民 道 徳, 国民精神の涌養が明確に打ち出された. 更に十四年フ 月 には, 自由民権運動に対する抑圧政 策の 一環として 教員の政治的活動の拘束をねらいとした 「小学校教員心得」 が制定され, 「尊王 愛国ノ 志気ヲ振起シ」 「国家ノ 安寧福 祉ヲ増進スル」 ために, 教員は道徳教育に力を 入れ, 「生. 徒ラ シテ皇室二忠ニ シテ国家ヲ愛 シ 父母ニ孝二 シテ長上ヲ敬シ朋友ニ信二 シテ卑幼ヲ慈ツ……人 8 ) 倫ノ 大道二通暁セ ツメ」 ることがそ の任務だと規定された6 . こうして個人主義思想抑圧策としての儒 教主義的教育は, 天皇の承認という権威を背景に教育 『 ) 9 界に不動の位置をしめて行く6 , 十五年には, 幼童を対象とした 幼学綱要』 が地方官を通じて. 国民に下賜され, そこでは前近代的な儒 教道徳が若干の修正をもっ て説かれ公式に承認された, かくして十六年から十七年にかけて文部省から発 行された 『小学修身書』 では, 欧米の書物, 人 名, 格言な どが全く姿を消し, 『論語』 をは じめとし た儒書や 『六諭桁義大意』 『大和俗訓』 から の引用でうめられており, それは 「全く儒教 主義に統一された前近代的;苔徳」 でぬりつぶされた 0 ) 修身教科書であ った7 .. ところで, こうした儒 教主義的教育政策が, 個人主義思義惨透の阻止力としてどれほどの影響 3 力をもつかむ 二 , その資料的制約もあ って必ずしも明らかではない. 当時こうした政策が地方に十 1 ) 分徹底していなかったことは, 役人の地方教育視察の記録な どで明らかにされている7 . しかし, それが個人主 義思想の惨透阻止を明確にうち出した天皇制絶対主義国家の教化政策と. して君臨し文化的先進地域においてはかなり徹底していたこと, 更にはその地方への定着化の努 力が終始続けられたことなどを考慮すれば, やはりそれは個 人主義的思想の渉透の大きな妨げと して機能したことは確かであろう. 結. 語. 以上, 明治前期の個人主義的家庭教育の受容と展開の過程をみてきたが, これを要するに, 明 治初期には じめてわが国に導入さ れた外来思想としての個人主 義的家庭教育思想は, 福沢諭吉を 中心とした明六社同人, 植木枝盛に代表される民権論者, 更には小崎弘道のようなキリス ト教者. たちによっ・ てその定着化への努力がなされた. しかし, それは文明開化, 欧化の最先端に位置し た官吏, 軍人, 警官, 洋学者, 実業家などといっ た職業の上層の極めて限られた一部の人々の家 庭に 渉透したにすぎず, 国民の大多数を占める農民, 商人, 職人などの民衆の家庭とは無縁であ 1 )近代国家体制の確立という国家的課題に集 っ た. こうした個人主義的家庭教育不振の原因は,( こも経済的にもそれを受容する 2 )知的を が薄か たこと 総 じて家庭への関心 中的 努力が払われ, っ ,( )徳川封建社会の慣習・価値規範 が社会及び庶民の 3 条件が庶民の家庭には存在しなかったこと, (. 家庭に色濃く残存していたこと, 柊に うした国民に内在した伝統的家族秩 序が, 天皇制国家の支 配原理とL て明治政府によ って温存され, 維持強化せられたこ と, の四つにその主因を求めるこ と が で き る, し か し こ う し た っが国における個人主義的家庭教育受容の主体的条件の欠除という. ことのほかに, その導入摂取のしかたそのものにも問 題がなか ったわけではない. 「東洋ノ道徳 西洋ノ 芸術」 「和魂洋才」 とい った幕末から 明治時r代を貫いての西欧思想の一般的受容方法は, 個人主義的家庭教育 思想の場合も例外ではな かった. 欧化主義的風潮のもとに, 文化的先進地域. の上層家庭には, 欧米の家庭の模 倣が少なからず出現したが, ほとんどそれらは個人主義的家庭 - 12 -.

(14) . 近代日本の家庭教育に関する一考察 (その1 1). 教育の精神か ら切り離されたク ト形的模 倣の域を出るものではなかっ たのである. こうした当時の西欧思 想受容の一般的傾向とともに, 更に, 個人主義的家庭教育思想それ自体 の導入上の問題も指摘されなければな らない. 当初におけるその紹介が 主として政だ 書 法律 , , 書, 倫理書などの翻訳書を通じてなされ, 本格的家庭教育論の紹介がほとんどみられなかっ たこ とである. それは鹿鳴館期に至 りようやく姿をみせはじめたが, それとて雑誌記事などによる断 片的な紹介であり, 体系的なものはほとんど存在しなかったとい っ てよい こうした本格的 体 , , 系的紹介の欠除という導入上の性格も看過しえない一面 であろう , 明治初期にわが国に導入された個人主義的家庭教育思想は このようにさまざまな要因が複雑 , にからみあい, その定着化の努力にもかかわらず不振をきわめたが しかし それが全く無力で , , あったわけではない, 福沢の家庭教育にみるように それはわが国の伝統的家庭教育からは決し , て生まれえない全く新しい型の家庭教育を生起せしめ, 子どもを一個の人間としてその人格的存 在を確認し, 儒教的倫理や伝統的家族秩序からの解放を喚起し た点で 極めて大きな意義を有し , ていたのである. それは以後のわが国において, たとえ一部の知識人の家庭 に限られていたにせ. よ, あたかも湖水に投 じた小石のごとくに, 福沢を中心として同心円的に 徐々に広がっていっ た 2 ) の で あ る, 7 註. ,. 1)才 H縞 「近代日本の家庭教育に関する一考察--士族の家意識, とくに立身奥家思想との関連を中心として I --」 横浜国立大学教育紀要, 第八輯. 2 ) 近藤鎖三訳 『母親の心得』 (売弘書麟, 明治8年) は, ドイツ人, クレソケの 「ムッテル・アルス・ヱル チーヘリソ」 とハルトマソの 「養生法」 を翻訳したものである. 3) 「万国叢書」 第2号, 明治8年 『明治文化全集』 第18巻, 3 7~8頁参照, 6 4) 唐沢富太郎 『教科書の歴史』5 7頁. 5~8 ) 『蓄勧善副r蒙』 前篇, 『日本教科書体系』 近代篇, 第1巻 修 身け, 14 2~14 8頁. 9 ) 註2 ) の書, 26丁~28丁, 10 0号, 明治7年5月~11月. ) 「明大雑誌」 第8号~2 1 1) 「民間雑誌」 第11編, 明治8年6月, 1 2 ) 「東京日日新聞」 明治9年2月4日社説. 13 ) 「明六雑誌」 第8号, 明治7年5月. 14 ) 同, 第33号, 明治8年3月. 1 5 ) 「福沢文集」『福沢諭吉全集』 第4巻, 39 04頁, 9~4 , 19 1 6 ) 「学問のすすめ」 第8編, 全集第3巻, 84頁, 1 7 0 0巻, 5 ) 「中津留別の書」 全集第2 1頁. ,2 18 98頁. ) 「福沢文集」 全集第4巻, 3 2 1 ) 「学問のすすめ」 第8編, 全集第3巻, 8 3頁, 2 2 ) 川島武宜 『日本社会の家族的構成』 日本評論新社, 125頁以下参照. 2 3 ) 「福沢文集」 全集第4巻, 401頁. 2 4 ) 福沢は 「明六雑誌」 第31号誌上において 「近日男女同権ノ議論甚喧シク熟 しカ是非ナルラ剣 ーラス. …今日 ノ処ニテハ同権ナトムツカシキ話ノ ・止メニシテ男一人女数人ノ交際ノ ・十露盤ノ勘定二合ハヌコヘ宜 シカラ ストノミ云テ, 之ヲ同権ノ初段ト為シ其余ノ議論ノ・学問ノ上達スルマテ延引ト定ム可シ」( 『明治文化全集』 07頁) と述べており, また森右礼も 「明六雑誌」 第32号誌上で 「余髪キニ妻妾論ヲ著シ夫妻ノ間 第18巻,2 ・同等ニシテ尊卑ノ差ナキコトラ述べタレドモ, 同権二至テハ絶テ之ヲ論ゼシコトナシ」(前掲書21 ノ 1頁) と述べ, その主張が同権論でないことをことわっている. 2 5 ) 松島剛訳 『社会平権論』 明治14年, 『明治文化全集』 第5巻, 3 08頁. 26 ) 外崎光広 『明治前期婦人解放論史』18~9頁. 2 9号, 明治20年7月3 7 0日, 17 1頁, ) 「女学雑誌」6 0年1 0月15日, 1 28 94頁。 ) 同, 80号, 明治2 1年5月26日, 1 2 1 1号~1 12号, 明治2 1頁. 9 ) 同, 1 1年9月15日, 15 0) 同, 127号, 明治2 1頁. 3. - 13 -.

(15) . 小. 林. 輝. 行. 19頁. 1年12月15日, 2 0号, 明治2 1) 同, 14 3 0~30頁. 1号, 明治18年7月31日, 2 32 ) 「大日本教育会雑誌」 第2 2~28頁. 0年2月16日, 2 9号, 明治2 3 3 ) 同, 第4 33頁. 32~3 34 ) 同, 第58号, 明治20年6月30日, 3 35 ) 小崎弘道 『政教新論』 明治19年 『小崎弘道全集』 第3巻. 3 6) 小崎が, 儒教思想といかに対決 したかは, 武田清子が 「日本の精神的伝統と小崎弘道」 において論 じてい る, 『人間観の相旭-近代日本の思想とキリスト教』65~88頁参照, 3 7 ) それは 「東洋人親子の思想及ひ其の習慣」 「親子の本理」 「親子互に相依頼するの弊」 「親子同居の弊」 「親子別居の利」 「国の組織上より親子の事を論ず」 「親子の事に於て現今日本特殊の事満」 「親子の事 に就て将来の希望弁に本論の終局」 という構成をとっている. これらはすべて外崎光広 『植木枝盛家族制 度論集』 に収録されており, 本稿の以下の引用はこの書による. 9年9月 8 日, 前掲書17頁. 38 ) 「土陽新聞」 明治1 3頁. 39 ) 同, 明治19年9月11日, 前掲書2 1頁, 0日, 前掲書20~2 9年9月1 40 ) 同, 明治1 1 4 ) 同, 明治19年9月25日, 前掲書38頁. 9頁, なお, 植木枝盛の思想に関しては家永三郎 『日本 近代思想史研究』 『植木枝盛研究』 42 ) 同上, 前掲書3 参照. 43 ) 『日本庶民生活史』 ”)明治時一代, 河出書房新社, 昭和37年参照, 44 ) 福沢大四郎 『父・福沢諭吉』 東京書房版, 20頁より引用. 1頁. 45) 「女学雑誌」 第463号, 1 46) 平塚らいてう 『わたく しの歩いた道』17頁. 47) 同上書, 4頁. 48 ) 同上書, 6頁, 49) 同上書, 20頁, 0) 「ひゞのをしヘ」『福沢諭吉全集』 第20巻, 67~8頁, なお, 「ひゞのをしヘ」 第二篇の冒頭に掲げられて 5 いる 「おさだめ六ヶ条」 の内容は次のごときものである‐ だいー てんとうさまをおそれ, これをうやまひ, そのこころにしたがふべ し. ただしここにいふてん こちりんのことにはあらず, 西洋のことばにてごっ どといひ, にほんのことばにほんやく とうさまとは,≧ すれば, ざうぶっしゃといふものなり. だい二 ちちははをうやまひ, これをしたしみ, そのこころにしたがふべ し, だい三 ひとをころすべからず, けものをむごくとりあつかひ, むしけらをむえきにころすべからず. だい四 ぬすみすべからず, ひとのおとしたるものをひらふべからず. だい五 いつはるべからず, うそをつ ひてひとのじゃまをすべからず. だい六 むさぼるべからず, むやみによくぼりてひとのものをほしがるべからず. (『続福沢全集』 第7. 巻, 40 9~410頁) , 1) 福沢大四郎は 『父・福沢諭吉』 の中で, 「子供たちはむずかしい徳義の議論な どは好まぬかわりに, これ 5 を何か面白く聞かせる工夫をすることは抜け日のない父であった. 子供たちは朝起きて御飯を食べてから 父の書斎の机の前に席をならべ, 今日は何を書いてくれるであろうかと, 楽しみに文章の出来上がりを持 6頁) と兄たちの当時の話を記している. 」(7 っていたということである. 52 ) 福沢諭吉 『愛児への手紙』 岩波書店, 昭和28年, 3頁. 65頁. 53 ) 「福沢大四郎養育に関する取極書」『福沢諭吉全集』 第20巻, 2 54 ) 明治17年2月22日付一太郎・捨次郎宛 『愛児への手紙』60頁. 55 ) 同上書, 86頁. 6~7頁. 56 ) 長谷川如是閑 『ある心の自叙伝』6 5 7) 高畠亀太郎 『七十七年の回顧』60~61頁, 58) 拙稿 「近代日本の家庭教育に関する一考察-- 士族の家意識, とくに立身興家思想との関連を中心として --」 横浜国立大学教育紀要, 第8輯参照. 5 9) 川島武宜, 前掲書, 10頁参照, 0) 同上書, 5頁, 6 61) 同上書, 11~15頁, 山村賢明 「近代日本の家族と子 どもの社会化」 「教育学研究」 第28巻4号, 63~4頁 参順. 62 ) 川島武宜, 前掲書, 13~15頁参照. 63 ) 喜田貞吉 『六十年の回顧』37~8頁. 64 ) この問題に関しては稿をあらためて論ずる予定である,. - 14 -.

(16) . 近代日本の家庭教育に関する一考察 (その1 1) 5) 明治1 3年には集会条例が公布され, 15年には更にそれが強化され, 翌16年には新聞条例, 出版条例が改悪 6 され権力による抑圧をはかると同時に, 士族授産金制度の新設, 地主・自作農の地租の取り扱いにおける 優遇といった懐柔策をもって士族上層農民に対したことは周知のとおりである. 5頁. 66) 「教学大旨」 『学制八十年史』 資料篇, 71 9頁参照. 67 ) 唐沢富太郎, 前掲書, 107~11 4 4~5頁. 68 ) 「小学校教員心得」 『学制八十年史』 資料篇, 8 きに対し, 「今回文部省学制諸般 69 引 -幅岡孝4 ) こうした一連の改革に対 して天皇は元田永妥を通じて時の文部卵 . ノ規則ヲ熟覧 ゼシニ …… 朕ガ …… 趣意達セ シモノト看ル故二其教則等二方 テモ総テ朕力異存ヲ措ク所ナ ・園ヨリ一時二遂グベキモノニ非ズ, 仮令現在文部脚ヲ替ルトモ シ」 と満足の意を表し, 更に 「教育ノ事ノ 文部省ニ於テハ此趣旨ヲ一貫シ, 徹底セシムベキノ覚悟アルベシ」 と伝えている, (「学制二付勅論」 『教 育勅語換発関係資料集』 第1巻, 22頁), 17頁参照, 4~1 7 0 ) 唐沢富太郎, 前掲書, 11 1 7 ) 例えば, 江木千之の山梨, 長野, 岐阜の諸県の学事視察の談話(明治17年) , 渡辺幾治郎 『教育勅語の本義 1頁以下参照. と換発の由来』22. 2 7 0号 )拙稿 「明治後期における個性尊重主義家庭教育の展開」北海道教育大学函館人文学会 『人文論究』第3 参照.. - 15 -.

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