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内村鑑三の精神形成序説 : 北海道との関連

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(1)Title. 内村鑑三の精神形成序説 : 北海道との関連. Author(s). 榎本, 守恵. Citation. 北海道学芸大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 13(2): 1-16. Issue Date. 1962-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3820. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 13 巻. 北海道学芸大学紀要 (第一部B). 第 2号. 昭和3 7年12月. 内村鑑三 の精 神形成 序説 -- 北海道との関連 -- 榎. 本. 恵. 守. 岩見沢分校史学研究室. ・ Ad。r i ): )Mot ー ( e EN(. i Au .ntroduct ”aki on t。 The ハ ng. ’ i t s Spi lnura r of Uchi. l ,. は. じ. め. に. 周知 のように, 内村鑑三は北海道の札幌農学校 に入学してキリスト教に入信した. このことは 日本近代精神史上大きく評価されている. この場合, 問題は北海道が封建制の前史を持たない新 天地であり, 開拓のためにアメリカの近代科学を採用した地域であり, 札幌農学校において, 内 村は ニ ュ ーイ ン グラ ン ド伝 統 の ピュ ー リ タ ニ ズ ム に 接 し た と い う こ と で あ る, そ こ に は 北 海 道 が. 当時の日本の中で特殊的な地域であ るという, 暗黙な前提があろう. わ たく しは か つ て 「フ ロ ン テ ィ ア ・ ス ピリ ッ ト」 の 問 題 視 角 か ら, 当 時 の 北 海 道 一 般 の 事 情 は. ) 決して近代的とはいえないことを論 じたことがある1 . 内村の精神形成と北 海道的 環境との関係 の仕方は, 決して単純なものではない. 小稿は, 当面この問題を考えるのが日的である, 従って 0年から1 5年の時期を中心とする. もとより, 内村 の精神形 ここでは内村が札幌に滞在した明治1 成は札幌農学校で重要な基礎を培ったとしても, そこで完成したわけではない. 常識的にいうな ら ば, か れ 自 身 も の べ て い る よ う に, 救 世 主 と し て の キ リ ス トを 発 見 し た の は ア メ リ カ 留 学 時 代. である, プロテスタントとしての内村の精神形成を問題にするならば, 少くともその時期まであ つかうのが本当である. この問題については, すでにわれわれは, 中沢拾樹氏や阿部行蔵氏の良 ) を得ている. これらの研究を基本的 に修正する必要は, いまないであろう, しかし, 留学以 著2 前の札幌農学校時代の理解に関しては, なお不十分と思われる点がないわけではない, 札幌農学 至, たしかにのちの内村や新渡戸稲造はなかった かもしれない, けれども, その事実 校なかりせ( は通常いわれてい る意味においてであったかは, なお検討を要するであろう, 捨象された部分が 余 りに も 多 い と 思 わ れ る の で あ る.. 小稿が僅々6年間の時期に限って, しかも精神形成序説と題したのは以上のような理由からで あ る,. .. 2 . 札幌農学校の性格 ) 下村寅太郎氏は, 「内村鑑三と北海道と札幌農学校」 で, 次のようにのべられている3 . 内村鑑三なる一つの魂の生成, 殊にこの魂の覚醒と育成を北海道なる環境とその開拓との関 連に於て考へることは, 余り注意されなかった明治の精神史の一側面若しくは一性格を呈示す る こ と に な る. … … - 1 -.

(3) . 榎. 本. 守. 恵. 氏は, これは内村一人の問題でなく, 佐藤昌介・宮部金吾・新 渡戸稲造ら全日本的人物と事態 を成立させた雰囲気として北海道開拓を指摘され, 日本人の生活できなかった極北の北海道が, 幕末開港 の先端を切ったのち, 辺境は一転して文明の先端地となった意 義を説かれる. 明治の北海道 の形成を可能にしたものは, かく して西欧近代の科学技 術の導入と, それによ る新しき生活様式の形成にある, これを可能ならしめたものは先 づ開拓の指導者たちの達識と T 熱意, これに従事する人々の清新溌束 Jたる積極的な敢為な意志であり, 且 つこれを受け容れる 北海道が既成の伝 統を持たない新天地であり, 寧ろ空虚なる空間であったからである, この北海道の特質を最も集中的に表現 していたのが札幌農学校であり, そこでは, クラークはプロテスタ ント的精神をその教育原理とした. この学校の第一期の学生たちの全 部が署名した所謂 「イ エスを信ずる者の誓約」 は, 正に ピュ ーリタ ンの信条である. 札幌農学 校の学生たちを動かしたものは 西欧の学術を体得している生きた人格へ の傾倒であろう, …… また岡邦雄氏は, 処女地北海道の札幌農学校において, 「プロテスタンチ ズムと資本主義の倫 ) 理」 と が, 何 の懐 疑 も た め ら い も な く 結 合 し た と の べ ら れ て い る4 .. さて, はしがきでふれたように, 北海道社会一般 の事情としては略々旧稿に尽くされていると 思うので, ここでは主として札幌農学校の性格に ついて考えてみよう. 札幌農学校は明治5年の開拓使仮学校に端を発し, 明 治9年専門科を開設 して札幌農学校にな った, 校長は開拓 使幹事調所広丈であるが, 事実上の運営は, アマス ト農科大学長から招かれた 教頭W・S・クラ←ク博士, 及びその後任が行っている, クラークの在札期間は明治9年9月 か ら翌年4月までである, ところで, 札幌農学校が当 時の開成学校・医学校や, 司法省法学校な どと違う点があるとすれ ば, それはどの点であろうか. たしかに, 札幌農学校の技術は新鮮な近代技術であった. だが, このことは東京にあった前記諸学校ととくに差異があるわけではない. 学生は若き開拓の熱意に 燃えた青年であるとしても, 他の学校でも, やはり新しい日本を担う抱負を持っていたはずであ る, タト人教師も同様であろう. そうしてみると, 札幌農学校が他校と違う点は, やはり環境-- 北 海道 - - と, ピ ュ ー リ タ ン の子 孫 に よ る キ リ ス ト教 精 神 教 育 に 存 す る こ と に な る,. クラークが赴任に際して生徒用聖書を購入して行ったこと, 船中で黒 田清隆と激論し, ついに キリス ト教教育を 黒田に認めさせたこと, 着任第一声に Be Gentlman を 以 て 臨 ん だ こ と な ど は 余りにも有名であり, これらのことこそは当時の官立学校としては破天荒の新鮮事であった. そ の精神的感化はやはり認めなければなるまい, このクラークの下で, 第一期生1 6名全員が 「イ エ スを信ずる者の誓約」 に署名した. クラーク去ったのちに入学した内村ら第二期生は, 一期生の 強制的勧誘に1 8人のうち1 5人が署名した. しかし二期生はそのうち8名が受洗し, あとは棄教し た. 三期生は全員アンチ・クリスチャ ンであった. 四期生にはキリス ト教を敵視する国粋主義者 志賀重昂らがいた, すなわち, 札幌農学校とクラークの ピュ リ タ ニ ズ ム と の 結 合 は, た か だ か 二期生まであって, 札幌農学校の伝統になったわけではない. それは札幌農学校初期の一 時期に おける特色であった. このとき生徒に与えられたプロテ スタ ンチ ズ ・もま, 規 則 は い ら ぬ, 紳 士 た れ, という人格的信頼, アルコール類の破棄にみられる断呼たろ態度, 自己の良心の自立といっ た, 宗教というよ りは倫理という べきであった. クラークが牧師でなくて平信徒 であったことが とく に こ の こ と に 関 係 し よ う. 内 村 は ア メ リ カ 留 学 中 は じ め て 会 っ た ク ラ ー ク の印 象 を, 宗 教 家. ) と書いていることからも, 或程度札幌農学校時 代を推測することがで たるよりも軍人であった5 き る. - 2 -.

(4) . 内村鑑三の精神形成序説 ところがこの特色ある一・二期生で, その将来を文学通 り北海道開拓指導に捧 げた者は, 伊藤 一隆の如きを除いてほとん どない. 大地主の管理人となり, 自らも地主化 して土着したものはい る. 母校の教授になったものも何人かいる, 内村や新渡戸のように, 全日本的国際的に 名を成 し たものもいる. が, 札幌農学校の使命に直接忠実であったものは少いといえる. いうまでもなくこの学校は官立の農学校であり, 生徒は官費で修学 し, 卒業後は開拓使官吏た るべき義務を課されていた. この恩典と義務こそは他の学校と異な り, それだけ開拓使の政策に 関する限定された目的を当初は持っていたのである. クラドクの ピュ ーリタ ン的 精神教育・技術 教育も, 結局はこの日的に集中されていた. クラ←クが開校式に演説した意見は, 『札幌農学校 第一年報』 巻頭に載っているが, 中に次の- 一節がある. 札幌農学校を建設 し, 以て同地の気候・土壌及び資源を熟知 して諸種の生産業の発達に貢献 ) する所の良吏を養成せんとす6 . フロ ン テ ィ ア ・ ス ピリ ッ ト と は, 官 僚 と して の そ れ で あ っ た の で あ る.. ) 第一年級の学課表をみよう7 . 第一期 代数学 (対数ヲ含ム). 週6時. 物理化学及 無機 化学. ″6 ″. 英語. ″6 ″. 国語. ″4 ″. 練兵. ″2″. 農 業実習. ″6 ″. 第二期 幾何学及解析幾何. ″6 ″. 有機 化学及 実 験. ″8 ″. 農学. ″4〃. 英 語・. ″2″. 演 説法. ″2 ″. 自 在 画 及 幾何 画 法. ″3 ″. 練兵. ″2″. 農業実習. ″6 ″. 二年級以上をみると, 農学の外自然科学各分野に亙 り, さらに演説法, 国語, 英文学, 心理学 経済学等かなり幅広い教養を持つように配慮されていること力;分る, これは大いに 注目してよい 点であろう, だがそれとともに, 4年間全8学期を通じて必修になって いる学科に練兵がある. こ れ は, ク ラ ←クが南北戦争の体験からアマス ト農科大学に採用 した制度を, 札幌農学校にも適 用 したものである, 青年の精神教育上兵式体操は極めて有効だと考えられたのである. 普通教育 史では, 明治1 9年森有礼文相が国家主義的精神 の育成上必要であると, 高等師範学校に採用され たのがはじめであるといわれていたが, 実はその栄誉は, それより1 0年前の札幌農 学校が担うべ きであろう. 徴兵令が布かれていない特別地域の北海道であったが, 『札幌農学校 第三年報』 に よると, 陸軍少尉加藤重任が配属されている. また新聞雑誌の類が多く備えられた, 『第二年報』 によれば外国のもの20種, 国内1種であるが 『第三年報』 のときには外国25種, 国内5種が記録されている, 残念ながらイ 可種の新聞雑誌か分 - 3 -.

(5) . 榎. 本. 守. 恵. らないが, 一般新聞な ども含まれていたと思われる. 視野は国際的であった. 以上のように, 札幌農学校は理想的開拓官僚をめざしつつ, その教養技術は決 して狭い技術屋 ′ まさらに衣食住の生活様式にまで 的なものではなく, 西洋近代的なひろがりを持っていた. それ{ 及んでいた. たとえば食事について, 宮部金吾はのべている. 食事に関 しても, 黒 田長官の意見に依 り, 即ち北海道は米作に適 して居らぬため, 主として 土地の物産で賄って行くやうにといふ訳で, 可なり洋食をとる事になり, 朝夕二度は洋食, 昼 は和食であった. 朝はパ ン半斤 を三切に切り, それを焼き, バタと砂糖一皿を附け, それに何 か肉を一皿添へた. 夕食にはその量も多く, スープが添へられ, それに魚及 び肉の野菜類と雑 )… … 煮 した も のな どが 出 た. 肉 と い へ ば 鹿 肉 で8. 北海道の麦作奨励米作否定と相まって, 将来の食生活の先端を意識 していたのである. 当時農 学校が北海道農家の間に農業知識を普及させ るために発 行 していた 『農業叢談』 に, 内村は 「米 の滋養 分」 と題する一文を載せ, 食物の分析 表をもとに米は麦や玉濁素より栄養が劣っているこ ) とを論じて, 食生活の改善をよ びかけている9 . にもかかわらず, 重要なことは, この札幌農学校を中心とする西洋近代技術は, そのまま北海 道開拓一般に 拡大さ才も得なかったことである. 下村氏は, 北海道に日本人が生活できるようにな ったのは西洋近代の 生活技術によってであった, とその意義を強調されるが, 開拓使及び札幌農 学校という官を除いては, それは根づかなかったのである, 西洋式寒地住宅暖房設備でも, 官で 建設 した屯田兵屋ですら僅か1年建築された きりで, あとはみな本州設築と差はなく, 暖房もな い. 況んや一般移民は資本の欠如と出稼ぎ根性とで余裕はなく, 耐寒住宅が云々されるようにな ・後である. 農業部門においても, 一部有力者による牧場と, いくら ったのはようやく太平洋戦争 かの畜力用機械や作物の種類・品種の点 を除けば, ほとん ど本州の延長といってよい. 米作など も, 全く開拓政策や外人教師の意見に逆らったも のといえる. 結局, 開拓使の人目をみはらせた 「西洋式」 は, 官の威力と理想を示した だけで終 ったのであ る. その意味でいえば, 札幌農学校 の開明性も結局は官僚権力の範囲でしかなかったわけである. しかL, 次 のことはいい添えておこう. それは学課表にあ る農場実習に際して, クラークの方 針により実習 した生徒には労賃が支払われたことである. 金銭を重んぜず, 献身奉仕の道徳 しか 知らなかった生徒たちは, かくて正当な労働の価値に対する正当な報酬, 等価交換の市民社会倫 o ) 理を喜んで受け入れ るようになったl . これは学科目の広さと相まって注日されねばならぬ, も っとも黒田長官来校 の折には土産物として金銭を生徒に支給するのは=) , 封建時代大名の引出物 に似て, 前者の意義に水を差す感を与えないわけではない. 3 . 内村の札幌農学校・北海道認識 内村鑑三は, 自らのその時代をどう考えているだろうか. 『余は 如何に して基督信徒となりし 乎』 や, 当 時 の 書 翰 等 を み る と, 多 く は キ リ ス ト教 の こ と, 友 人 の こ と な ど で あ る, し か し, 舎. 3 ) 等, 一般にどこでもみられる青年たちと大差はない. 当時 ) や夜中の馬鈴薯盗み食い1 2 監退治1 4 1 ) と題する一女が を一括した意義 づ けともみられるものに20数午後に書いた 「余の北海の乳母」 あ る,. 。. 余は札幌農学校の卒 業生である, 其事は事実である. 然 しながら余は札幌農学校の産 ではな じやがた し ・ も い. 農学校は余に多くの善き事を教へて呉れた, 馬に就て, 牛に就て, 厭に就て, 馬鈴薯に就 て, 砂糖大根に就て教へて呉れた, 是れ皆な貴し・知識であることは明 かである, 然 しながら農.

(6) . 内村鑑三の精神形成序説 学校は最も善き事を余に教へて呉れなかった, 神に就て, キリストに就て, 永世に就ては, 少 しも数へて呉れなかった, 是れは余が札幌農学校以外に於て学んだことである…… 余の札幌農学校に対する関係は子が其母に対する関係ではない, 乳子が其乳母に対する関係 であ る… … モ ー ゼ は エ ジ プ ト の 地 を 逃 れ 出 て ミ デ ア ソ の 地, ホ レ ブ の 山 に 行 て 最 も 貴 き 黙 示 に 接 した, 余 も 亦 札 幌 の地 を 去 て, マ サ チ ュ ー セ ッ ト の 地, ペ ン シ ル バ ニ ヤ の丘 に 於 て 人 に 由 ら ざ る 教 を. 受けた, 札幌は余を此世の人に して呉れた乎も知れない, 乍然神の子たるの資格を授けた所は 札幌ではない, 余が札幌農学校の産ではないと云ふのは是れが為めである. 内村は札幌農学校を母校とよぶことを拒否 し, 神の教えを受 けたのはアメリカであって札幌で はないという. 内村がこの文章で信仰上問題にしているのは神の黙示の問題であろう. 農学校時 代は宗教的であるよりも倫理的であると先にのべ たが, たしかに, 内村の場合, 倫 理的な反省 主 義から脱皮 して, 救世主としての神を発見したのはアメリカであろう, 従ってこの場合, かれの 農学校における力点は乳母らしさにあるといってよかろう, 先の女に続けてかれはいう, 乳母校 としては彼女は甚だ慕ふ べ き者である, 彼女に精神はなかった, 彼女は純然たる現世 うと さと 的婦人であった, 故に彼女の子供も亦能く彼女に肖て多くは地の事に慧く して天の事に疎い者 である, 然しながら彼女を囲む天然は日本国第一等 である, 彼女の南に鱒ゆるエニワ獄, 彼女 を リどり ア ) ニ の東を流るふ石狩河, 彼女の北を洗ふ日本海, 彼女の西を垣するテイネ山, 彼女を見舞ふ候鳥 彼女を飾る春の花と秋の実, 是れありて彼女の俗気は充分に償はれた, 余は彼女に育てられた は寧ろ彼女を囲む天然に養はれたろ者であると云ふ べ きである, 余は札幌農学校 りと云ふより{ の産なりとの称は拒むが, 北海の天然の子なりとの言は否まない. 然しながら余は摂理の神が余を余の乳母札幌農学校に託し給ひ しを感謝する, 余は余の青春 時期を北海の処女林の中に経過するの機会を与 .へられ しを感謝する, 余にして若し其時帝都 泥 濁の中に留め置かれしならん乎, 余も今頃は多く の学士博士と共に, 心にモー ゼの神を認めず 荷師の類として棲息したであらふ, して単にエ ジプトの学者叉法f 内村は, ここでは北海の大自然に育てられたといってし・る, かれが認めているのは, 科学でも 人間でもなく天然なのである, 幌神社祭日) 内村は東京で植物学を研究 し 5年6月1 5日 (札- 札幌農学校卒業して約1年, 明治1 ている親友宮部金吾に, 水産博覧会の準備旅行した経験について興味深い手紙を書いた. the human Nature) ヲ 学 ブ 豊 ソ レハ 役 所 ノ 仕 事 ニ 関 ス ル 多 ク ノ 経 験 ト, マ タ 人 間 ノ 天 性 ( i l nature) ハ マ タ 限 り ナ ク 美 the phys ca 富 ナ ル 機 会 ラ モ与 ヘ ク レタ ル ガ 故 ナ リ. 物 質 的 天 然 ( シ カ リ キ, 我 ノ札 幌 ヲ 立 チ シ 時 ハ 我 ハ 約 3 尺 ノ 深 サ ノ 雪 ノーヒラ 行 カ ザ ル ベ カ ラ ザ リ キ. 我 ハ 石. ・忽チ我 狩川流域 ノ盆地ヲ去り, 忽チ処女ノ ゴトキ春 ニアへり, 貧弱ナル北海道馬ヲ駆ツテ我ノ 身 ノ 室 蘭 半 島 ニ ア ル ラ知 レリ, 其 処 ニ テ 始 メ テ 草 木 ノマヒラ 見, ナ カ ソ ヅク, 此 地 方 二 形 シ キ 鴛 ノ歌 声 ニ 大イ 二 心愉 メ リ, 雪 白 ノ木 蓮 ガカ ッ ラ ノ 深 紅 ノ 藷 ト対 照 セ ル, 2 種 類 ノ 桜 草 ガ 山 々 ノ. 未ダ生気ナキ路辺ヲ節レル, 蝦夷松ニテ厚ク蔽ハレシ様似, 幌泉ノ濃緑ノ丘陵, コレ我ガ植物 学研究ヨリ 引出シ得ルカノ新鮮ナル魅惑物中ノ 2, 3 ナ リ・…・・ 然 シ ナ ガラ 物 質 的 天 然 ガカ ク ノ ゴ トク 断 然 素 晴 ラ シ ク 充 実 シ, 完 全 ナ ル ト同 時 二, カ ノ 人 間 tur ノ天 性 (人 間 的 天 然 human na e) ノ 部 分 ハ, 我 ノ e) ト 称 バ レ シ 最 モ 崇 高 ナ ル 天 然 (Natur 見 ル 所 ニ テ ハ, 腐 敗 シ 堕 落 シ 居 り, 而 テ 我 ノ確 ヵ 二 言 フ コ トラ 得 ル ハ 獣 的 ナ リ シ コ ト ナ リ, 仏.

(7) . 榎. 本. 守. 恵. 教 ト売淫 ,トハ我旅行中何処ニテ モ見出サル・ 2 ツ ノ 離 し 得 ザ ル 相 伴 者 ナ リ. 徴 ス コ トハ 宿 屋, 駅 逓, マ タ 村 役 場 二 於 テ ス ラ 普 通 ノ コ トナ リ キ, 我 々ノ・我 国 到 ル 処 ニ 腐 敗 ヲ 目 撃 ス ル コ トラ 得. 然しトモ最モ堕落セル姿ヲ実感シ経験スルニハ, 思フニ, 北海道ノ ゴ トク都合ヨキ処ハナキナ リ……. 現在 ノ我役所ノ勤メハ厭ハシク, 息苦シク, 不満足ニシテ, 腐敗セリ, 我ニハ現在 殆 ド為ス 可キコ トナシ, 我々ノ上役ハ学問ノ効用ヲ知 ラズ, 舌 ト筆ヲ器用二 使ヒ得ル人間が役二立ツト 考フルナリ, 我々札幌県ノ基督信徒ノ役人ノ ・県ノ横暴我鰹ナル政道ノ大ナル蹟キナリ, 清キ良 心, 真実ト正直ヲ求メル高潔ナル抱負ヲ懐ク人間ハカ・ル「二堪フル能ハ ズ…… ノ基督教ヲ宜 べ伝ヘ ソ ト欲スルカ, 役人 正直ナル科学ヲ学 バ ント欲スルカ, 札幌県ヲ追払へ, 5 ) 根 性 ヲ 追 払 へ./30円 は 何 モ シ ナ イ 役 人 ニ ハ 多 過 ギ ル1. この手紙は内村の在道時代の, 生々しい現実認識を示している, 先の文章は, 後年の内村が信 仰の立場から青春を回顧 しての一つの結論ともいえるが, この手紙は, いわばその結論の一素材 と い っ て も よ か ろ う,. さて, ここにみられる内村の北海道認識は二つの問題に分けてみることができる. 第一は自然 に対する好感であり, 第二は北海道の社会, とくに 官吏の腐敗に関する認識である, そしてこの 二つは全く正反対である. 第一の自然に対する態度は, 生物学者と しての観察と, 詩人的観賞とを合せ持っているとし・え るかも しれない. 祝 津の海でアワ ビの生殖を発見したような, 冷静撤密な自然科学者と.しての殊 6 )は, 朝な夕なに赤岩 山を仰いでその姿に魅せられていた環境においてであった, キリスト教 勲1 1 7 )と題 し, 顕微鏡下に人間性を発見 しよう1 )とし・うかれであった, 8 講演に 「空 ノ島野ノ花」 内村はもともと自 然に対する感受性が豊かであったと思われるが, とくに本州と違ってまだ人 煙に汚されていない北海道の自然は, 内村の精神形成に大いに影響があったであろう. 「余の北 海の乳母」 でも, 農学校よりもそれを囲む天然に養われたとのべた, それは内村が学ん だ当時の ) の中で, むかし 1 9 北海の天然であって, 開け渡った北海道 ではない. かれは 「岩崎行 親者と私」 の同級生を偲び つつ, 札幌に於て私供を薫陶 して呉れま した最良の教師は人なる教 師に非ず して, 生ける共鱗の天 然でありま した, 共時北海道はまだ造化の手を離れた計りの国土でありま して, いとも美はし き楽園でありました, と往時を語っている. しかし, かれは自分の子どもにも施 したいこのような教育は, いまの北海 道帝国大学にはもはや望めないという. その理由は, 農学校時イヒにあった処女林や, 鳥類や, 魚 類が俗人輩に 取 り尽くされて, 青年薫陶の最良の教師を失なったからだとのべている, 未開拓の大自然 こそが問題であった. 正宗白鳥が 「基轡信徒の慰め」 「求安鎌」 「愛吟」 「月 ) 0 『国民之友』などに載った内村 の文章には, お極りの坊主臭さがなく野性があっ 曜講演」 その他2 た, とほめている野性は, 内村の札幌時代の大自然と, 牧師を持たぬかれらの教会とに一つの起 因を持つであろう. 当時の札幌にはまだ宣教師は居らず, かれらの洗礼は函館から出張してきた 牧師によって行われたのであ る, かれら自らが教会を建てたけれど,それはどの教派にも属せず, 4人, 卒業した年には1 正式には蕪牧であった. 内村が入学した当時の札幌は, 1 ,76 ,001戸2 ,974 2 )と記 録され ) (函 館 の1 1 / 戸8,843人2 4) で あ る, 北 海 道 全 体 で は 明 治11年19万 人 余, 16年25万 人2. ている時代であった. 第二の問題にふれよ う,.

(8) . 内村鑑三の精神形成序説 だますことi これは近世のメノコ勘定以来といってよかろう, これは封建商人の特徴的なやり 方であるが, 資本主義商品を目標とした開拓使 時代にあっても, 事情はきして変らなかった. も )を廃止して漁場を解放 し 自由移民を奨励し, 旧土人 3 ちろん開拓使は弊害の多い場所請負制度2 , を保護した, しか し商人や移民たちが, かつてのメノコ勘定式もうけを夢みたが故に渡道 したの ではないと, だれが保証できようか, 農業移民では資本主義商品作物が奨励されたわけだが, そ れには市場ルートが前提されねばならぬ, しかし交通路なき無人の原野に入った移民は, 生活必 需品や原料購入にもこと欠き, 折角生産された作物は販売市場を容易に求め得ない. 奥地であれ ばあるほど生産費は高く, 逆に販売価格は商人に値切られることになる, そうした事情は 流通過 程に介在する商人に依然として 中間利潤を押さえられ, かつ死命を制せられることになる. 権力 によって強力に開拓が進められ, 移民が保護されねばならない状況のもとでは, 官の委託を受け る商人の役割は大きく,かつ官僚と政商との結托は必然的といってよい, 初期開拓使御用達として 3円で大利潤がある. 00右の運賃9 運輸をほとん ど独占 した保任社の話によると, 小樽札幌間米 1 その上1俵2升位の桝切れは公認で,また紛失米をつくってそれを無償で御払米に してもらう, こ の ピンハネ した米を, 米のとれない北海道で横流して大もうけをする, この商人に開拓使は毎月 200円宛手当を支給するのだから, まるで月 給払って泥棒を雇っているよ うなものである. 隙粕肥 料を農民に渡すにも人足に下請けさせてさやをかせぎ, かっ量を ごまかす, この場合, 農民も無 4 ) 償配給を受けるの だから少 し位量が 減っても女句はいわない2 . これは北海道的大らかさだろう か. 悪質なこと, まさに植民地的である. 官と商人との腐敗した関係は容易に想像できる. 官有 物払下事件はその 一例に過ぎない. また新開地の地価は急騰するので土地投機がはげしく 行われ た. 開拓長官黒田以下の官僚が職権を利用 して大地積払下げをもくろみ, 物議をかも している. 内村は仏教と売淫はどこにでもみられたと書いた. 仏教は ともかく, 売淫もまた北海道的であ ったといえる. いかに封建時代 といえども売淫は善ではなく必要悪に過ぎない, 明治2年根室で 場所請負人が官許女郎屋を請うたとき, 一吏係は, 「草創の地須らく風俗を正しうせざる べから ず, 何ぞかかる婿商を許さんや」 といったのに対し, 判官松本十郎は, 「遊女屋を開いてのち人 民亦喜び随って移り一村落をなす, 然らば女郎屋亦開拓の一端にあらず や」 と笑って許可したの である, 明治5年, マリヤ・ルーズ号事件が起きて 政府は芸娼妓解放令を発布 した. そのとき開 5 ) 拓使は, 開拓地という特殊事情を 考慮して特例を認めて欲しい, と歎願して認められている2 . 以上の事 柄は何も北海道特有とはいえないかも しれない. しかしフロ ンティア の実体はかくの 如しで, むしろ全国的にみられる弊害が, 北海道に集中的に表現されたものといえる. 内村は開拓使奉職後3ヶ月 目の宮部宛書翰で, 「追従ト賄賂ガ官吏生活ノ有力ナル要素ナリ ト ノ 事 実 ハ 我 ノ 既 二 経 験 セ シ 所 ナ リ」 と 書 き,. 「コ ノ 坂 ノ 喬1 ・闘 フ 唯 一 ノ 途ノ・ 『左 右 二 在 ル ト コ ロ. 6 ) と 決 意 を の べ て い た そ して 7 ヶ月 ノ 義ノ 武 具』 ニ 依 ル ノ ミ」2 , ,. かれはさらに多くの腐敗を知. っ た の で あ る.. 内村も開拓使官僚である, エリートとして, 新技術を以て開拓の抱負に進もうとするとき, か れの周囲の官 僚群は科学の効用も知らぬ腐敗せるエリートであった. かれの問題意識は, そこで 開拓という技術的使命よりもまず先に, キリスト教的立場からの人間倫理の問題に向けられる. 同じ官僚内部の問題とするから, 倫理的問題に帰着 しやすいわけである, 内村が札幌農学校時代 に得たものは科学 とキリス ト教倫理である, しかし 「義ノ武 具」 を以てしても 「坂ノ蕎」 は容易 なものではなかった, ともに 「義ノ武具」 をとって立つ べき 「イ エスを信ずる者の誓約」 に署名 した盟友も, 必ず しも信頼おけなかった, かれに署名を強要した上級生たちの一人であった佐藤 - 7 「.

(9) . 複. 本. 守. 恵. 昌介は, 北海謎学会 (あとでまたふれる) に参加 して, かれらの教 会から足が遠のきかかってい )が 伝 た. 佐藤の結婚式に芸妓をよんだことを聞きつけて内村がどな りこん だというエピソ ← ド27 えられているが, 内村の書翰にはときに佐藤批判がみえている, 内村はさらに自分一個の問題に 内部的に入る傾向を強める. それだから客観的大自然が, よけい新鮮に内村には写ったに違いな し・,. 科学も良心もこの札幌県には春るるところがない. 開拓使から三県一局時代へ, 開拓 政策の縮 少と不統一のうちに, 内村のあとから巣立った第三期生は北海道内に就職できず, 切角の技術も 空 しく本州の諸方に散らばって行ってしまった状況である. かくて, 「 30円ハ何モシナイ 役人ニ ハ多過ギル」 と書いてから半年後, 内村は腐敗している北海道を去って東京に帰った, 在任僅か 一年半に満たなかっ た, 4 . 自由民権運動と北海道との関係 ところで, 北海道は当時の日本社会の中でどういう位置にあったのであろうか. 内村が来道 し 7才から22才の間である. すなわち西南戦争から愛国 0年秋, 退道が1 5年暮, 数え年1 たのは明治] . 社再興・国会期成同盟・開拓使官有物払下事件・自由党成立を経て福島事件に至る, 全国的に民 0年代を特徴づ けるこの自由民 権運動が盛り上った時期に内村は北海道にいたわけである. 明治1 権運動は, 当 時青雲の志を抱いた青年たちに影響を与えずにはおかない. 高田早苗や天野為之ら は東京大学から 改進 党に身を投じた. 北村透谷は大阪事件に間接に関係 したのち政治を捨てて文 学に走った. キリス ト教が政治に無関心であったわけではない, むしろ自由民権運動の社会的地 ) 8 盤とキリス ト教 のそれとは多く の点で同一ですらあった2 . 弘崎教会の牧師本多庸一は自由党領 袖として活躍した し, 立志社の片岡健吉もキリスト教に入信 している. そのような大きな時代の 潜 もの中で, 内村は どうであったのだろうか, かれの当時の書翰類をひもといてみると, 不思議な ほ ど自由民権に対する関心がみられない, i 後年, 内村が不敬事件を経たのちであるが, アメリカ 時代の学友で に宛てて, 「政治的自由 (L ‐ fr dom of consc berty) ト信 教 ノ 自由 ( i ) 何 ナ 国 於 ソ 献 トハ 如 ル ニ テ モ 身 セ e ノ ル 間 e e e n c 子 等 ノ , 9 ) と のべて い る ニ ハ カ ・ ル 試 錬 ナ・ク シ テ ハ 購 ハ レ ザ リ シ コ トラ」2 . こ れ を 直 ちに 抵 抗 と か革命 と. 速断するわけにはいかぬが, 自分の体験の結果, 政治の問題が内村の関心に 上ってくるのはこの ころからであろう, 自由党が伊藤博文の政友会に転身したとき, かれは自由党を批判 しながら, 0 )と書いた. 後年になって自由民権運動を或程度評価 初期の自由党はまだ自由らしい自由だった3 しているが, 当時にはみられなかったものである. 第二節で掲げた札幌農学校学課表に 演説法があり, 生徒たちはときどき公開演説会を行った. 演説は慶応義塾や明六社が唱導 し, 自由民権の主張と相まって当時全国的に盛ん であった, 明治 11年小樽量徳 学校に赴任 した浅野源蔵は, そこでも自由民権の演説を したと 『小樽市史』 は伝え f Dependence ている. 札幌農学校 第二年節 (明治11年7月 3 日) 演説会で 渡瀬寅次郎が Sel 3 1 ) の題で論じている . 内容に民権論の影響があるかどうかは不明だが, 自主自由は札幌農 学校 で. も 合言葉であった. ともあれ. ここの演説会は道徳論・農業論が圧倒的であったところに. 札幌. 農学校 の傾向をみることができる, 明治i 3年, 北海道でも歴史の古い函館では区会設置運動が行われて区会が設けられたが. 新聞. の中心地札幌ではそのような動きはみられない, 函館は11年から新聞が発行されたが 札幌はよ 3年6月になって札幌新聞が発刊され, 1年でつぶれて いる. それも大部分を開拓使に買 うやく1.

(10) . 内村鑑三の精神形成序説 い上げて貰って経営 したのだから, 反政府的言論は容易に掲げ得なかったといってよ い, 1 4年7 月に至って開拓使官有物払下事件が勃発 し. ついに政変を結果した. このとき函館では抵抗運 動 が組織さ れ, 首謀者は投獄された. 札幌でも何人かが動いた. 10月 の自由党創立大会には北海道 ) 2 から 1人 参 加 して い た3 .. 内村はこの事件の直前, 札幌農学校を卒業 して上京帰省 していた, 二期生去ったあとの農学校 の演説討論会は, さすがにこの問題を中心にして いた, 志賀重野 10月 1日によれば, Jの日記男) ◎ 関西貿易会社設立之可否 説明者 志賀重昂 ◎. 廃 使置 県 ノ 可 否. ⑥. 現今ノ北海道ヲ治ムルニ自由・干渉両主義執レカ是ナル ズ. 同. 説明者. 大町. 信. ・時間之不足ヲ以テ討議セ 此題ノ. 山口荘二. と記されている, @は討議されなかったが, 田口 卯青や 福沢諭吉らが開拓 使の政策を 保護干渉主 議と非難し, 開拓は経済の法則に従って自由主義でなければならぬ, と説いていたこととかかわ りがあろう. このよう ・な後輩に比べて, 内村は, 干渉主義か自由主義かといった政策問題につい て全くふくれていない, このとき内村は当の開拓使官吏になったばかりであり, 「我 ガ托セラ レ タル事業 --北海道ノ漁業 --ノ ・我1人ニ取テハ余り二大キ過ギルモノナリ. 300万円以上価値. ア ル 1 国ノ 産 物ノ・我 手 中 二 在 り, 同 ト 我ノ・30円 ノ 官 吏, ソノ 仕 事 ハ カ ・ ル 広 大 ナ ル 事 業 ヲ 取 締 ル 4 ) と抱 負 に 胸 を ふ く ら ま せ て い た の で あ る ニ ア リ」3 .. 北海道は自由民権運動と, 全く無縁であったわけではない. しかし中央の1青勢に 比 べてみたと き, あきらかに真空地帯であるといい得る. すでにふれたように, 北海道移民は大 部分無資本の 窮民であ り, 従って官の保護を受けざるを得なかった. 官の保護を受けて反政府言論を弄するわ けにはいかない. その上, 苛烈な開墾の労苦は農事以外に目を向ける余裕を与えず, また天下の 形勢を伝え, 新知識をもたらすジャ ←ナリ ズムをも欠いていた, 地租は当分免租である. 民選議 院が, 「夫れ人民政府に対して租税を払ふの義務ある者は 乃其政府の事を与知可否する の権理 3 5 ) という論理に立つとすれば 北海道はた しかに縁が薄い. 民権家の北海道へ の呼びか を有す」 , けに対して, 函館新聞は, 当道は世の人の知る通り百般の事内地とは事易り, 未だ開けぬ処にして 御政事も特別 の事 なれば, 昨年地方官会議にて定められたろ事 (榎本注, いわゆる三新法) も漸く郡区改正のみ を取用された許り. 其も行政区域を郡区の上に限りて町村は人民の自分特だといふでもなけ れ ば, 町村会は勿論の事, 況 して県会の府会のといふにおいてをや9の と答えている, 北海道が特別地区だというのが, 民権運動に自ら参加しない理由である. また函 館地区が官有物払下事件で盛り上ったとき, 赤心社 (キリス ト教を中心とする開墾結社といわ れ 浦河の荻伏に入植した) による農談演説会に対し, 函館新聞は次のように称揚した. 中にも鈴木氏 (榎本注, 赤心社長鈴木清) の説は確切にして, 実にこの精神にあらざれば不 毛荒蕪の開拓に従事するは成まじと人々感じ合ヘリといふ. 徒らに過激なる政談よ りは当道に 7 ) とりては緊要的切なるかかる演説会は此後とも催ありたき事にぞある3 函館新聞の以上の二評は, 当時の自由民権運動と北海道との基本的関係意識を最もよく示して いると思われる. しかも注意すべ きは, その特別意識は西洋近代技術を採用したとか, 資 に主義 的商品生産を目標にしたとかいう意味で本州より優れているとい うのではなく, 官の強力性-- 保護干渉政策や, 道民の自立民権意識の欠如が当然だという点である, 民力の自覚においては, むしろ後進性の弁明である. 自由民権運動の社会的基盤たる べき豪農中農層は, ようやく農業開.

(11) . 榎. 本. 守. 恵. 拓がはじまったばかりの北海道ではまだ形成されていなかった のである. 内村鑑三はしかも札幌農学校出たてで, 300万円の仕事を一人で切り盛りする (官有物払下事件 の出願総価格は38万円で, 無利息30ヶ年賦であった) 官吏であった, つまり, かれの青春時代は いわば民権運動の真空地帯北海道で過したことによって, 自由民権という強烈な政治的課題に直 接影響されることなく, キリス ト教唯一神信仰という内面的問題を専心掘り下げることができた わけである. 換言すれば, 北海道が先進地帯になったからではなく, 反って植民地的後進性とで もよびた いような状態にあったことが, 内村の内面性の, 深さを規定する契機になった といえよ う.. ‐. 民権運動の階層的地盤の欠如は, 逆にいえば, キリス ト教の社会的基盤をも北海道は欠いてい ることを意味するであろう. これと関連する共同体の問題は後述するとして, 海老名弾正が指摘 8 ) とい うこ とは し た 札 幌 バ ン ドは 「イ ン デ ヴヰ ヂ ュ ァ リ ス チ ッ ク」3 , 社 会 的 基 盤 を欠 い た とこ ろ. では けだし自然であ ろう. 5 , 科学と宗教の問題 山路愛 山は, 明治10年代キリスト教が敵としたのは, むしろ儒仏の反動派ではなく, キリスト 教同様西洋から輸入され 福沢らによって唱導されたミル, ベ ンサ ム, バ ックルの徒, モ←スや 加藤弘之ら大学派の理論ダ←ウイ ソ, スペ ソサ ←の徒であったとのべている. 当時の耶蘇教徒が理論として正面の戦を挑みたるものは 所謂英国経験派なりき, 既にして久 しく勢力の集中に従事しつつありし東京大 学は趨かに起って活動を始 め 進 化論不可思議論を鼓 吹し, 此に精神界に新 しき感動を起し耶蘇教徒をして更に一敵国を生じたろ感あらしめたり. -はモールス博士に依 蓋し明治1 3 , 4年以後の大学 が日本の精神界に寄与 したる活動二あり. ← る進化論なり. 二は加藤弘之に依れる人権否定説なり3の・ ・…・ 「 モースのキリスト教攻撃は, 日本でのキリスト教の特殊な役割 りに, かれはまったく無理解 ) ことに起因すると筑波常治氏はの べているが とにかく 明治1 4 0 であった」 0年代英国経験派と , , 4 D キリス ト教徒とは理論的に対立した . キリスト教攻撃派は福沢一派と大学派であり, 当時は一 括して体制側といい得よ う. 従ってそこではキリス ト教は自由民権派と同盟し得る. 明治1 3年キ リ ス ト教 雑 誌 『六 合 雑 誌』 は, 「自 由 民 権 ハ 実 二 貴 重 ス ヘ キ モ ノ ナ リ ト難 モ 此 ヨ リ 高 尚 ナ ル 念 ア リ テ 之 ヲ 統 御 ス ル ニ ア ラ ズ ン バ 此 自 由 民 権 モ 真 成 ノ 自 由 民 権 タ ル 「 能 ハ ズ … … 能ク人心ヲ統御シ. 4 2 ) と発刊趣旨をの べている. かれらは自由民 テ社会ノ治安ヲ維持スルノカハ宗教 ノー念是ナリ」 権を方便とみて目的とはみ ていないが, とにかく自由民権を支える基礎のつもりであったと思わ れる. 『六合雑誌』 は屡々民権論を載せたが, また多くのスペースを科学と宗教との衝突問題に 割いている. そ こにたしかに当 時のキリス ト教の理論関心があったといえよう. そ のような理論 の中で, たとえば高橋吾良は次のようにのべる. 人類が心上ノ種々ノ意見即チ神明ヲ尊信スルノ心道徳義気ヲ重スル ノ念等ハ 皆人ノ妄造ニハ 3 ) 非 ス シ テ 彼 ノ 断 滅 ス 可 ラ サ ルラミ禦 ノ 性 中 ヨ リ 自 然 二 生 ジ 起 ル 者 ナ ル 事 明 カ ナ リ4. と, 人間の天性の中に宗教性を認めるという解決の仕方であった, 近代日本最高の正統派プロテ スタ ントと目される植村正久が, 唯物論・不可知論・進 化論等からの攻撃をうけとめて, 『真理 一班』 を著したのは明治1 7年であった. 植村は人間を本来的に宗教的存在と把握 し, 有限, 自然 を認めるならば無限, 超自然をも認めね ばな らぬという 注目すべき形而上学的論理を展開してこ の時期のキリス ト教の課題に答えている. これらの科学と宗教との衝突論争に 関して注意されね ー 10 -.

(12) . 内村鑑三の精神形成序説 ならないのは, 筑波氏が指摘 したようなモ スの日本におけるキリス ト教の特殊的 役割に対す る無理解--たしかに当時のヨーロ ッパ宗教界においては 科学と宗教との衝突が関心事 であった --といった問題の表面ではない. 明治初年以来の神道回教 政策, 大教宣布・大教院工作等が宗. {. ) 4 教自由論等の前に後退したのちの段階である4 . 侍補元田永年らは執勘に国教諭を主張しつづけ 5 )のである. 政府 部内 に お い て, は反って伊藤博文--井上毅ライ そ ンの反撃をうけた4 たが, れ 0年代の段階で, 直接政府内 すでに固瞳な国教 諭の段階を過ぎていたのである. このような明治1 部からではなく て大学教授の側 から, 科学の名においてキリスト教に攻撃を加えてきたの であっ た. 帝国憲法体制への途上の科学とキリス ト教の衝突は, それなりに政治外的理論で争われねば ならなかったのである. ひるがえって札幌の事情をみよ う. 札幌においても科学と宗教との衝突が問題になった. これ は む し ろ 中 央 の キ リ ス ト教 界 の 動 向 が 反 映 し た も の と い え る で あ ろ う, だ が こ こ で は, 中 央 に お. ける如き, 大学対在 野クリスチャ ン, 学者対宗教家という対立形式 ではなく, 等しく開拓官僚内 部の多数派対少数派, 科学者対科学者という形をとっていた, 2月, 眼病治療に東京に 行った太田稲造に宛てて内村は書いている. 明治蝿年1 「ジ ョ ソ, ス チ ュ ア ー ト, ミ ル」 汝 ハ シ バ シ バ 彼 二 信 頼 ヲ 置 ク, 然 シ 記 憶 セ ョ, 彼 自 身 ス ラ. 己ノ打チ建テシ説二必 ズシモ満足セ ザリシナリ…… 汝 ノ 限 ヲ 上 二 向 テ 開 ヶ, 汝 ノ 視 力 ヲ 際 カ ナ ラ シ メ ョ, 其 ヲ 所 謂 『謬 レ ル 科 学』 ヲ 以 テ 傷 ク ル ) 6 ナ カ レ4. 学者的懐疑的と当時いわれた太田には, 多少そ の傾向があったのでもあろうか. 翌年1月 内 村は宮 部に宛てて, キリスト教 反対の農学校生徒や卒業生佐藤昌介らや, 役人たちが 組織した北 海講学会について, 汝 等 「ミ ル」 ョ 「ス ペ ン サ ー」 ノ 玉 子 ョ, 取 ル ニ 足 ラ ヌ 「バ ッ ク ル」 ョ, 汝 等 ハ 科 学 ニ 依 り )… … 7 テ基督教ヲ否認セ ン ト図ル 何 ?科 学 ニ 依 テ ナ リ ト ?4. , と書いている. 北海講学会は北海道民に科学を普及させること を目的とするが, 内村からみると ・役所ノ仕事ニ就テ専断ナル見 解ヲ伝播スルコ ト き, そ の目的は名日上であり, 「彼等ノ真目的ノ ソウ シ テ マ タ 基 督教 反 対 ヲ 説 ク コ トニ ア リ ト 恩ノ・」 れ た. し か も キ リ ス ト信 徒 は 会 員 た る こ と を. 許されないのに佐藤昌介が会員になっている, ということも, 内村が佐藤に不信を抱く 理由であ った, しかし内村は北海講学会の実力は, 自分たちの仲間の実力の敵ではないと宮部に報じてい る, そ の一便前には, かれは年 末の札幌教会員親睦会で, ミルやスペ ンサ ーを奉ずる物質 主義者 を敵役とする劇をしたこと, また新年の基督教青年会では, 伊藤一隆が 「仏蘭西革命, 一 名無神 ) 8 論ノ結果. 」 の演説をしたことを, 宮部, 太田に書いてい る4 . 内村はその演説会で 「帆立貝ノ基 督教二対スル関係二就テ」 という題で演説しているが, その真意は科学 と宗教との関係 づけを科. 学的具体性において行ったものであろう. これらの書翰をみると, 内村入学時, 昇天の勢だった 札幌農学校も, このころ早くも, 反キリスト教的風潮が支配的になってきていること を推側させ る,. ) が研究課題であるとの べている. 当時 0 ) 生物学と神との関係5 9 内村は当時有神論的進化論4 , l ogy 2巻も o 東京の宮部に依頼して購入した書物には進化論関係の書物が多い. スペンサーの Bi ある, 内村の 進化 論に対する研究関心ははる か後年まで, 生物学者たることを断念したのちまで 続くのである が, ここに中央にみられない 特徴がある. 東京ではモースのような進化論を奉ずる 生物学者や, 社会進化論を奉 ずる加藤弘之らから宗教否定論が唱えられた, そして宗教家 の側か 一 11 -.

(13) . 榎. 本. 守. 恵. ら反論が行われたの であった. 札幌では進化論に関心を寄せる生物学者が, キリス ト教 擁護の論 ・内村も 陣を張ったのである. 札幌農学校は農学士, その意 味で自然科学者を養成 したのである. 農学土である. 従って進化論の研究はそ れ自体として科学的であり, 生物学的である. 植村の進 ′ 化 論研究は宗教家の側 1からであって, 形而上学的理解で納得がつ けばそれでよかった. しかし生 物学的研究 は進化論そのものを深めなければならぬ, そ れは綾秤的に推論を進める態度ではなく て, 観察・実験を通しながら直観に至る態度である. 植村ら 横 浜 バ ン ドや, 熊本 バ ン ドが同志社 で神学を修めたのとは違っ て, 札幌 バ ン ドは精神的 (思想的というのではなく) といった内村の 言は, そ れなりにたしかであると思われる50. 自由民権運動に関して真空地帯であったことが, この場合, 内村の科学者経歴に加えて, 科学 と宗教との衝突を科学自体の深さから究めようとする傾向を強 めたと 思われる. 前 引の北海諦学 会を報じた書翰女は, 「科学ニ依テナリ ト?」 に続けて, 亥ロ同 ナ ル 科 学 ニ 依 り テ ナ ル カ ? 植物学二依テナルカ ?我 々 ニ ハ 東 京 二 汝 等 ノ 相 手 ア リ, 彼ノ・ 直 ニ 帰 り 来 リ テ 我 々 二 合 セ ン, 天 文 学 二 依 テ ナ ル カ ?我等二汝等ノ好敵手アリ, 若シ汝ニシテ 「フ ホ ← ク ト」,「モ レ シ ョ ッ ト」 ノ 名 ニ オイ テ 来 ラ バ, 我 等ノ・ 「ハ ド シ ェ ル」 「ヤ ン グ」 , 「ブ , ラ ウ ン」 ニ オイ テ 答 ヘ ン, 歴 史 ニ 依 テ ナ ル カ ?我等ニハ汝等ニ答フル者一人アリ, 彼ハ今ハ眼. ヲ患ヒ居レ ドモ, 直チニ帰り来リテ汝等ト闘ハ ソ, 進 化論 ト物質論ニ依テナルカ ?… … と書いているのは, まさに上述の科学者的態度とよべるであろう, 6 . 唯一神信仰の形成 開拓使は明治政府と異なる性格のも のではない. しかし, 開拓は政治の要請から発したとして も, 現実の植民政策は本州各県の政策とは異ならざるを得ない. 開拓使は大幅な権限を保有し, かつ現地の抵抗 をもみないだけ, 西洋技術の輸入にも大胆であった. しかし客観的にみれば, 保 護は同時に干渉と束縛であったし, 人民のI H りの自由・主体性は存在しなかった. 植民地的特色の 一つは, 300万円の仕事を内村一人に釆配させる自由さがあったところに 内村に権 力の性格を , 考えさせる余地をなくしたともいえる. 内 村の精神形成が北海道の特殊的環境の下で, とくに人格的内面的方向へ掘り下げられる傾向 があったと考えられること は, 前述の通りである. それは同時に 先にふれた官僚の腐敗に対す , る認識が, 専制とか, 政策とか, しくみという面 で問題にされる のではなく 官吏の道徳心とい , う面で問題 にさ れ ることになる. 官が移民保護や西洋技術を採用 している事実から 同じ官僚の , 一 員 である内 村が圧 政問題 を感ずることなく, 倫理の問題と認識 したのも 決して不思議ではな , い. だからかれは, 「清キ良心, 真直 ト正直ヲ求メル高潔ナル抱負ヲ懐ク人間ハカ・ル「二堪フ 2 ) と’ やが て個人的に北海道を去 らねばならなかった いま一つ注意されるの は と ル 能 ハ ズ」5 . ,. くに北海道の ような官と民との関係の中で, 権力が最も有効 に作用 するところで 内村が官僚腐 , 敗の問題を内面的倫理問題として採 り下 げたことが 官僚でありながら権力意識を持たない結果 , に な っ て い る こ と で あ る,. 内村のキリス ト教受容が多 分に倫理的であったということは 恐らく かれのはげしいキリス ト , 教精神が, いわゆる武士道精神と容 易に重なって行 ・ったことの原因であろう. 内村が多分に 日本 的武士的倫 理を保有していたことは, 多くの人びとによって注意されている とくに家族関係に . おいて--, それは若き内村の 書翰や結婚問題な どにすでに見出されている 農学校在学中 太 , , 田の病気見舞に, 一 12 「.

(14) . 内村鑑三の精神形成序説 国ノ タメ, 神 ノ タメ, 汝 ノ 家 名 ノ タメ, 汝 自 身 ノ タメ ニ, 立 派 ナ 有 用 ナ 仕 事 ヲ 為 シ テ 亡 キ 御 両 親 ヲ 喜 バ セ ソ コ トラ 努メ ョ“) と 書 き, さ ら に, (身 ヲ 立 テ, 道 ヲ 行 ヒ, 父 ノ 名 ヲ 後 世 二 挙 ル ハ 孝 ノ 至 り ナ リ) を 引 用 し て い る. 書翰を例に挙げることができる. これは立身出世主義とすらいい得るかもしれない, しかし, 人 日士族の出身で官費の 間の思考は一ど きにその 全てを変えることは至難であろう, まして不遇の1 学校に学んだ かれが, 多少なりとも立身出世を夢み, また親の期待に応えたいと思ったことを責 めるわけにはいかない. 最終的には, かれは親の期待を自分の良心において無視し, 官界を去っ またしかに立身出世して支配階級たろうとした. しかし, 権力をまさに倫理的問題とす た. かれ{ ることによって官僚腐敗の現実を明らかにし, 自己の神かけた良心に従って官界--支配階級を 去ったのである. それにしても, 内村の倫理には 「古さ」 がやはり認められるといわれる. しか し, それは 「古さ」 であるとしても, 人間行動の個々の場における倫理の問題だからこそ, 新し し・倫理とも場合によっては接合し得たのであろう, 内村の場合, 家族道徳の孝が 目立ってみえる のには, 当時の理由があったと思われる. 武士道徳の忠は本 来直接の封建君主への忠であったた め,明治の初年においてはまだ天皇への忠が明確に実感的ではなかったこと, 従って家族が道徳の 基盤であったからであろう. キリス ト教倫理はそういう段階に入ったわ けである, 「国ノタメ,神 ・…・ ノ タ メ・ 」 は そ う い う 段 階 を 示 す も の で は な か ろ う か. ま た キ リ ス ト教 受 容 が 倫 理 的 ・知 的 で. あったことは, 内村に限らず, 当時の日本のキリス ト教受容にみられる一般的傾向であったとい っ て よ い. 内 村 の 場 合, 少 く と も アメ リ カ で 決 定 的 向 心 に 到 達 す る ま で の か れ の キ リ ス ト教 は,. 例えば浅田タケとの離婚に示される, 「人ハ為ス トモ為サ ぐルトモ 基督信者ノ為ス ベキコ トハ人 4 ) と い うよ うな も の で ニ 義 務 ヲ為 ス ニ ア ラ ズ, 神 ニ 為 ス ニ ア リ」5 , 救 世主 であるよ りは審判者 で あ る.. ・キリスト教に接したとき, 旧習のうち最大の欠陥としてまず 内村が厳格な武士の家庭に育って 5 ) 挙げているのは, 儒教における性道徳と, 多神教の問題であろう5 . 内村が旅行経験でしきりに 売淫 .を云々していたこともうな づけよう, それはともかく, かれが農学校に入学してキリスト教 徒の上級生から襲撃されたとき祈ったのは, 「その地方の鎮守の神として 政府に依りて権威を与 『異教徒』 えられている」 札幌神社の神前であった. かれははじめ 「 , 憎むべき偶像崇拝者, 度し ) であった. が ついに屈服して 「イ エスを信ずる者の契約」 に署名 したの 5 6 難き木石の礼拝者」 , ちのかれは, 神社の多い街でも廻り道をする必要 がなくなっ たし, それまで八百万の神の禁忌に ふれていたかれの好物も食べることができるようになった. 八百万の神は唯一人の神になった, 異教の迷信から解放されたのである. これらの事柄は 「余は如何にして基督信徒となりし乎」 に 興味深く叙述されている, 内村の屈服・署名前後の物語は, とりあえず, われわれに偶像拒否に関する二つの問題を提供 々の禁忌, 換言すれば科学的根拠なき迷信からの解放である, これは近代実証科 する, 第一は神. 学への道である, その意味で, プロテスタ ソチ ズムは近代自然科学と結び 合ったのである, 内村 が農学校時代 『農業叢談』 に 「米の滋養分」 を書いたとき, それは開拓政策の忠実な使徒ぶりで はあったが, 同時に, 栄養価分析を以て実証してみせることによって旧習を打破するものであっ た, 開拓使の大胆な西洋技術採用は, 内村において, ここに精神的裏づけを得たのである. 第二はいわゆる共 同体的条件の問題である, 北海道には本州における如き意味の共同体は存在 しなかった. 移民は本州の没落士族や共 同体から脱落した窮農民が大部分であった, すなわち共 同体から脱落したところから, 北海道ははじまっている. その代わり, 官権力が共同体の媒介な - 13 -.

(15) . 榎. 本. 守. 恵. しに直接移民を把握する. 札幌 バ ン ドの場 合, 共同体の欠如が入信への促進的契機をな したと同 時に, 個人的傾向や, 民権運動 への切実感の稀薄さとなって表現されたと考えられる. もっとも 北海道の地には欠いていても, かれらの故郷の家を通 して共同体的制約が多少あったことは否定 できないであろう. しかし, これが多くは没落士族--従って共同体解体の切実さと, 逆により 最少の単位である家を 強く意識するし, しかも新天地への出かせぎ的形態をとったことが, 先に みたような 「孝」 の問題を強く意識させたと思われる, 孝は, 実はその意味で個人的であり, 個 人の良心の問題になる, ところで, 日本の神々は 「いろいろの段階における共同体の 『長』 の権 威 を シ ン ボ ライ ズ し て, そ れ を さ え」 共同体構成員の 「自我の確立をはゞむマジカルな」 働き , をし, そ の意味で 「人間の製造によるものであり, かつ, 人間の権威を代表するところの偶像的 5 7 ) あった. 内村がそういう偶像から解放されたことが重要なのである. しかもかれが, 性格が」 「政府に依って権威を与えられている」 神社, といみじくも暗示したように, 共同体的地盤を欠 いていたのが北海道の神社, 札幌神社なのであった, 当 時の札幌には, 開拓判官が政治的に持ち こんだ札幌神社以外の神社樋堂は存在しなかった. それだけ内村は, 少く とも北海道にあっては 共同体的制約がなくてキリスト教に接し得たわけである. 以上の二つは必ず しも二つではなく, 唯一神を媒介とした二 つの面であろう, してみると問題 は結局唯一神の絶対価値に帰着する. 偶像崇拝から解放され, 宇宙は唯一神によってしか創造さ れ, 支配されないことを 教えられたことは, 内村にとって大きな驚きであったに違いない, かれ を規制するのはその唯一神 しかない, 甲の神と乙の神との矛盾に悩む良 心は必要なくなったので ある, 絶対価値は唯一なのだから, 良心はそ のまま神に直結する, はじめは 「幾分余の良心に 反 して」 キリス ト教に入ったかれは, やがて最も熱心な信者になった. 札幌神社祭の当日, かれは 8 ) 偶像崇拝反対の強い演説を行っている5 . これが, のちの教育勅語礼拝拒否事件に発展すること はいうまでもない. 宇宙唯一神による価 値判断は絶対的である. 従ってかれの判断には妥協がな い. 以後のかれの論理の 特徴はここに騰胎している. 新開地札幌にようやく 聖公会とメソヂスト の二教会が設立されたとき, 札幌 バ ン ドは教派主義の弊害を感じた. 「主一つ, 信仰一つ, パ ブ 5 ) を真剣に考えた内村らは, 資金や, 宣教師の迫害に堪えて, ついに自分たちの教 9 テスマ一つ」 会--独立教会を建設したことは有名である. キリス ト教がいくつもの教派に分れて対立してい る のは, そ も ど う い う こ と な の で あ ろ う か, 絶 対 価 値 は 一 つ で あ ら ね ば な ら な い. 良 心 的 に も,. 経済的に も独 立自主において, 神にのみ直接しようとした態度は, そ のまま妥協もゆるさい純粋 な絶対価値追求であった. 二の 『弁妄』 を批評して政治とキリス ト教の関係を論じたとき 新約馬太伝 平 山 宣保は安井息軒 , 0 ) との Iク 汝 カイ ザ ル ノ 物 ハ カイ ザ ル ニ 帰 ヘ シ, 神 ノ 物 ハ 神 二 帰 ス ベ シ ト」6 を 引 い て, 「耶ぼ派叉E. べた. 内村は科学と宗教の衝突を単純に二つの面に分けたわけではなかった. 生物学とキリスト 教との関係, 進化論と神との関係という研究課題は, 実は相異なる両者のかかわる点の研究とい )とのべた真意は 6 1 ・進 化論二依テ美シク説明サレ得ル ト思フ」 った単純なものではない. 「聖書ノ , を予想していたのであった. それは宗教が高次で科学が低次だという意味 ではなく, 換言すれば, 最高の神は, 最高の科学的真理に内在することを証明したかったのであ る. 当時の内村の読書のほとん どが生物学関係であって, 神学ではない, そこに宣教師的一人よ 高次のところでの統. がりの解決ではなく, 具体的, 即物的に, すなわち科学の真理性の中に神をみようとしたもので ある. この具体的即物的--当時は自然科学, のちに社会も対象になったことはいうまでもない. 一 態度こそ 重要であろう. 若き内村はこの問題を直ちに解決したわけではないが, 後年まで進 一 14 -.

(16) . 内村鑑三の精神形成序説 ・のためにのみあったのではな 化論を研究したことは, 札幌 時代の関心が料 .学と宗教との衝突論争 いことを証明している. 科学的真理の中に神の意志をみるとは, つまり神は審判者であることを 意味する. まさに, 審判者であることによって真理の追求, 絶対価値の追求が生ずるのである, 啓蒙思想家福沢諭吉の価値多元 化, 機能の相対化とは, そ の意味で極めて対照的であった. 北海道なる環境で内面的にのみ掘り下げて, 現実を規定してくる日本の政治の重みに 気づかな かった内村も, 否応なしに天皇制とぶつかったとき, かれの眼は外に, 現実の社会に, 政治に向 けて見開かれる, それには 時と, 所とをもう少し待たねばならなかったのである. 註 1) 「北海道 『開拓精神』 の成立」 03号, , 歴史学研究第2 2 ) 中沢治4 耐著 『若き内村鑑三論』 , 阿部行蔵著 『若き内村鑑三』 , 3 ) 下村寅太郎著 『精神史の一隅』 所収. 4 ) 岡邦雄著 『内村鑑三』 . )1885年9月10日, 太田 (新渡戸) 稲造宛書翰 『内村鑑三著作集』 第1 5 8巻 (以下単に 『著作集』 と略す) . 6) Fi i l ICo l tofthe Sapporo Agr t l t AnnuaI Repor r s cu ura ege .. 7 ) 『北海道帝国大学沿革史』 . 8) 『宮部金吾』 第一部自叙伝. 9 ) 『北海道帝国大学沿革史』 所収. 10) 前掲 『宮部金吾』 及び, 大島正健著 『クラーク先生と其弟子達』. 1) 同前. 1 ) 「余は如何にして恭督信徒となりし平」 『著作集』 第1巻, 12 13)18 82年1月20日, 太田及び宮部宛書翰 『著作集』 第18巻, 14 ) 聖書之研究, 第92号, 明治40年, 『著作集』 第17巻, 15 ) 『著作集』 第18巻. 尚, 明治15年2月開拓使庭」 1 根室の3県設置になり, 内村は札幌県御用掛となった, 月俸 : , 札幌・函館・; 30円であった. 16 ) このことによって, 内村は日本水産学史上不滅の功績を残 している, 17 ) 明治16年5月 6 日, 全国基督信徒親睦会演説 『内村鑑三全集』 第2巻所収. 18) アメリカ留学中宮部金吾を訪れての話, 大島正健著前掲書, 19 ) 聖書之研究, 第3 18号, 昭和2年, 『著作集』 第1巻, 2 0) 正宗白鳥著 『内村鑑三』 2 1) 『札幌市史』 政治行政篇. 22 ) 『新選北海道史』 第7巻統計, 2 ) 高倉新一郎著 『アイヌ政策史』 参照, 3 ) 奥山亮著 『新考北海道史』 参照, 24 ) 『新選北海道史』 第3巻, 25 26 )18 81年11月10日, 宮部宛書翰 『著作集』 第1 8巻. 尚, 『義ノ武具』 とは 「コリント後書6 ノ7」 と, 山本泰次郎編 「内村鑑三」 の注がある, 27 ) 中島九日 ”著 『佐藤昌介』 , 2 8)臨 場谷三喜男著 『近代日本の形成とキリスト教』, 29 )1 89 1年7月 9 日, A, ストラザース宛書翰 『著作集』 第18巻, ) 「自由党」 方朝報, 明治33年 『著作集』 第3巻, 30 1) 『札幌農学校第三年報』, 3 尚, 内村はこのとき 『魯西亜悪むべからず』 という題で演説している, ) 拙稿 「函館における自由民権運動」(地方史研究第32号) 及び 「道民意識の形成」(歴史家第4号) 参照, 32 ) 北大北方女化研究室所蔵, 『志賀重昂全集』 にも所収, 33 )1881年11月10日, 前掲書翰, 34 ) 「民撰議院設立建白書」 『自由党史』(岩波文庫版) による, 35 36 ) 函館新聞, 明治12年11月 6 日, 詳細は前掲拙稿 「函館における自由民権運動」 参照, ) 函館新聞, 明治14年10月2 37 8日, 8) う村が海老名らの集会に来て, 「横浜から来たものはエクレジァスチカル, 札幌はスピリチュ アル, 熊本 3 はナショナル, 国家的キリスト教だ」 といったのに対し, 海老名が, 「内村君, 君のは君の方によい月刊雷. - 15 -.

(17) . 榎. 本. 守. 恵. かり取って居る, 横浜はエクレジァスチカルで熊本はナショナル, それはどうもさぅだ. が君の方のスピ リチュアルが問題だ, 精神的といふのは三者共通で, 君等の独占ではなし・ . 君等のはインデヴキヂュアリ 『 スチックだ」 と反論したという, (『とも しび』 昭和11年1月) 明治文化史 』 第4巻思想・言論編より, , 39 3 ) 所収による. ) 『現代日本社会史論』 山路愛山 『史論集』(昭3 40 ) 筑波常治著 『日本人の思想』. 4 1) 隅谷三喜男氏によれば, 当時, キリスト攻撃書と してインテリ間に読まれたものは, ドレイ パー, バック ル, ミル等であったといわれる, 隅谷前掲書 p ,63の注 (3) . 42) 大台雑誌第1‐号, 明治13年10月11日. 43) 「論下宗教与二理学一之関渉及其要緊上」 六合雑誌に連載したもので, 引用文は第 号よりとる. 44 ) この点に関しては森有礼・中村正直・福沢諭吉らを含む明六社の活動の意義を考えねばなるまい, また仏 教家島地黙雷らの活動も同様である, 45 ) 元田の 「国憲大綱」 , 「教学大旨」 , 伊藤の 「教育議」 . 46 )18 8巻, 81年12月, 太田宛書翰 『著作集』 第1 47 )1 882年1月3 0日, 宮部宛書翰, 同前, 4 0日, 太田及び宮部宛書翰, 同前, 8)1882年1月2 49) 同前, 0 )1 882年6月15日, 宮部宛書翰, 同前, 5 1) 注3 8) を参照, 5 52 )18 82年6月15日, 前掲書翰. 5 3)1880年8月 3 日, 太田宛書翰同前. )1 54 885年6月16日, 浅田. 信芳宛書翰, 中沢治櫛前掲書による, 55 ) 「余は如何にして基督信徒となりし乎」 第一章, ) 同前第二章, 56 ) 武田満子 「日本の精神的土壌とキリスト教」 同著 『人間観の相池』 所収, 7 5 8)1882年6月15日, 前掲書翰. 5 9) 「余は如何にして基督信徒となりし乎」 第三章. 5 ) 「弁妄批評」 六合雑誌第9号, 60 61 )1 882年1月2 0日, 前掲書翰。. - 16 一.

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