日映時代の坂口安吾をめぐるノート (四) -「アッツ島」・「大東亜鉄道」-
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(2) 日映時代の坂口安吾をめぐるノート(四). ツ島の幽霊の出る話だ。うん、いまでも映画化できないね」と. ──「ア ッツ島」・「大東亜鉄道」─ ─. ※ 本 稿 は、 「日映時代の坂口安吾をめぐるノート(一)─徴用. いう安吾の談話が収められている。また、近藤日出造との対談. 小 林 真 二. 号、平一二・三) 、 「同. 「やァこんにちわ─日出造見参」 (『週刊読売』昭三〇・一)に. 逃れ・日本映画社・上田碩三─」 (本誌. (二)─日映の文化映画─」 (同 号、平一八・三) 、 「同(三). も、 「黄河」に加えて「もう一つ「アッツ島」という脚本を書. ─文化映画「黄河」の周辺─」 (同 である。. がね」との発言が見える。. ( 「魔の退屈」 『太平』 日映で安吾は、「黄河」を含めて「三ツ」 昭二一・一〇)の脚本を書いたという。残る二篇に関する情報. 潔に記してみれば、アッツ島玉砕をめぐる概略は次のようなも. ( 『国史大事典第一巻』昭五四・三、吉川弘文館)に基づき簡. 一般的にアッツ島が知られるのは、「玉砕」という表現が初 めて用いられた悲劇の地としてである。秦郁彦「アッツ島の戦」. は「黄河」よりもさらに少ないものの、 可能な限り検討を加え、. アメリカ軍は同島奪回のために上陸戦を決行。圧倒的な戦力に. ウェー海戦の一環として日本軍に占領される。翌一八年五月、. す る 無 人 の 孤 島 で あ る ア ッ ツ 島 は、 昭 和 一 七 年 六 月、 ミ ッ ド. のであった。──アメリカ領アリューシャン列島の西端に位置. ⅰ「アッツ島」. 月二九日に最後の突撃を敢行し「玉砕」を果たす。一方、隣接. 攻め立てられた山崎保代大佐率いる守備隊二千五百余名は、同. 『堕落論』の坂口安吾氏訪問記」 ( 『若草』昭二三・ 飛鳥均平「 一)には、 「日映で、一巻物の芸術映画を撮るっていうんでね。. するキスカ島に残っていた約五千人の守備隊は、同年七月、米. . たい。. 戦時下に安吾が身を置いていた状況にわずかなりとも迫ってみ. Ⅳ.残る二篇の映画. いたが、これも残念ながら作れなかった。傑作だと思ったんだ. 号、平二四・三)の続稿. 38. 素晴らしい脚本を書いたんだがね。 映画にはならなかった。 アッ. - - 47. 44. 50.
(3) 玉砕直後からの国内の反応を『朝日新聞』に追ってみると、 五月三一日朝刊(以下、注記の無い場合は朝刊を指す)の一面. 軍の侵攻を受ける前にぶじ撤退に成功した。──. 橋は「我等此難局に処して、/冷静に、英霊に酬ひん。/一億. き気魄を一日一日の生活の中に溶かし込まねばならぬ」と、高. がない。このうち、たとえば尾崎は「これを永遠に遺して大和. 決死の秋なり」と記している。 単行書では、鶴田知也の小説 『アッ. 民族の原動力たるべき烈々たる精神を祭るとともに、この逞し. に第一報が掲載されたのを皮切りに、連日大々的に報じられて. や、朝日新聞社主催・陸軍省報道部推薦・大日本産業報国会協. 表的な動きとしては、各道県での「アッツ貯金」募集(六月). に応えよ 学徒が街頭で募金」 (同五日)といったように、 アッ ツ島玉砕に「応え」る動きを顕彰する姿勢である。その後の代. いて、アツツ島の英霊に供へ、戦時文学者の任務を果したいと. 揮すべきものである」と、川口は「どうかして、好い作品を書. 文学者は正にそのやうな責任を果すことにおいてその忠誠を発. 民精神の純化と統一のために貢献する機能を持つものであり、. 的である。それぞれの執筆意図について、鶴田は「文学は、国. ツ島』 (昭一九・六、国民図書刊行会設立事務所)や、川口松. 賛による「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」募集・選定・皆唱運. ある、というイデオロギーである。. にはアッツ島の「英霊」に「応え」国民精神を教化する責務が. 太郎の戯曲集『アツツ玉砕』(昭一九・一一、非凡閣)が代表. 動( 七 月 ~ 八 月 ) 、のちに戦争画の最高傑作と評される藤田嗣. 念じた」と記している。多くに共通して見られるのは、文学者. いる。早くから目に付くのは、「アッツ精神に応える若人 いざ、 仇討増産だ 燃えたつ産業戦士の決意」(六月四日) 、「 〝アッツ〟. 治『アッツ島玉砕』の国民総力決戦美術展への出品(九月)な どが大きく扱われた。 文学界の反応も早く、たとえば同紙には、五月三一日当日に さっそく吉川英治の談話記事「アッツの死闘こそ天意の指揮刀. (昭五九・八、開窓社)が詳述している通り、尾崎士郎「斯心. の御軍 アツツ島の忠魂に捧ぐ」が掲載された。もちろん雑誌 にも玉砕への悲憤慷慨があふれ返り、櫻本富雄『玉砕と国葬』. 昭一八・一一)との発言は、アッツに「応え」よというスロー. ふ事は許されない」 (伊地裕教「教科用映画の性格」 『文化映画』. は火の玉だ…は教科用映画だつて無関心であつてよいなどと云. 「山本元帥につゞけ、アツツの忠魂に報いよ、空へ進め、一億. 映画界でも、たとえば脚本家の依田義賢はいち早く「私たち は書きつづけよう、映画のアッツ島を守る兵と思って」と決意. 此処に存す─アツツ島の玉砕を聴いて─」( 『週刊毎日』 昭一八・. ガンが映画界も席巻していたことをうかがわせている。. を表明した( 「シナリオ時評」 『映画評論』昭一八・七) 。また、. 六・一三) 、 横光利一「アツツ島を憶ふ」 ( 『改造』昭一八・七) 、. だ 悲涙に誓え邁進の心」が、翌日に斎藤茂吉の短歌五首「神. 高橋新吉「瑞兆」 ( 『大和島根』昭一八・一〇)等々、枚挙に暇. - - 48.
(4) 「完全に霧が拭はれ」全部隊が乗船できた上、乗船し終わった. 収に向かった「艦隊が入港するやキスカ湾だけは奇跡的にも」. 変化をもたらした契機の一件目は、 キスカ島撤収報道である。 『朝日新聞』での第一報によれば、当日は霧が深かったが、撤. と呼称に変化が生じる。. た。ところが、約三ヶ月後の二件の報道を通じ、その意味付け. 通り、アッツ島で玉砕した守備隊は当初「英霊」と称されてい. もう一つ注目しておきたいのは、脚本の内容について、安吾 が「アッツ島の幽霊の出る話」と述べている点である。既述の. することを強く求められたと考えられる。. 以上のような状況を踏まえると、安吾がアッツ島を取り扱う 際にも、いうまでもなく「英霊」たちに「応え」戦意昂揚に資. の加藤軍神」と並べて、山崎を「陸の軍神」と讃え、彼が率い. では、 真珠湾特別攻撃の「海の九軍神」や隼戦闘隊を率いた「空. 定化する。同日の『朝日新聞』記事「盛り上る軍神景仰の熱意」. 崎を「軍神」、山崎部隊を「軍神部隊」と称し、以後これを固. 「英霊」たちの「進級」報道である。八月二八 も う 一 件 は、 日に山崎部隊長の二階級特進および全将兵の進級の恩命が下る. 時神話が軍報道部によって発信されたことが知られる。. て物語られた」とあり(八月二四日夕刊) 、こうしたいわば戦. けられたわけである。なお、『読売報知』には「アツツ英霊の. を授けてくれる神験あらたかな存在として、あらためて位置付. 明の加護」 「天佑神助」と見なしている(昭一八・八・二三) 。. への入港の際には再び霧が晴れたといい、記者はこれらを「神. と言明している。. を加へたと伝へられるのも、何ら怪しむに足りない不動の事実」. た「軍神部隊」が「キスカ撤収の友軍に死してなほ神霊の加護. (1). と、八月三〇日の感状伝達式報道を機に、新聞各社は一斉に山. 加護を物語るにふさはしい実例四つが谷萩陸軍報道部長によつ. 敬すべき戦死兵であるにとどまらず、死してなお友軍に 「加護」. 直後には濃霧が艦隊を包み「守備」してくれた。さらに、基地. 翌日の同紙夕刊には、さらなる「加護」として、キスカ附近で. こうして作り上げられたアッツ島の「英霊」あらため「軍神」 による加護神話は、 以後、キスカ撤収部隊による談話記事 ( 「アッ. のない)日本軍と戦闘したと公表した件、南太平洋方面で米軍. 同「北千島にて」 『中央公論』昭一八・一一、柴田賢次郎『霧. き書き(里村欣三「キスカ撤収作戦」 『文学界』昭一八・一二、. ツの英魂を偲ぶ キスカ撤収部隊勇士に聴く」『朝日新聞』昭 一八・九・二九・三〇)や、従軍作家による撤収部隊からの聞. (2). 米軍が不可解な同士討ちを起こした件や、撤収部隊がアッツ島. に熱病が流行している件が加えられる。その上で、記者はそれ. の基地』昭一九・六、晴南社) 、読売新聞社派遣陸軍報道班員. 付近を通過する際に日章旗をかざして見送る日本兵の姿や万歳. らを、今度は一般的な「神助」には帰せず、 「アッツ島玉砕部. の声を見聞きしたという件、撤収後も米軍が同地で(いるはず. 隊の英霊の加護による」と断定する。もはや「英霊」たちは畏. - - 49.
(5) 安吾のいう「アッツ島の幽霊の出る話」とは、当時の文脈に おいてみれば、当然こうした「軍神」神話の再生産と無縁では. く。. 惣明調社)等々により、さらに補強を受けつつ再生産されてい. による戦記(佐野康『アツツ島軍神部隊闘魂記』昭一九・四、. 遺 芳 風 の も の 児 童 向 の も の 以 外 に は 許 可 が な か っ た ら し い。. る出版企画は、聞くところに依ると、二十種近く提出されたが、. に「統一」的に「聖戦完遂の信念」の「強固」化に資するべし、. ることで「純化」「統一」を妨げてはならず、公的資料に史実. 扱うに際しては、個人の「小主観」を通し「想像を逞しう」す. (3). あり得なかったはずである。. ツ島』刊行時に付された解説も、これを裏付けているだろう。. 従って、文学作品としては本書一冊きりである」という『アッ. (4). という判断を示したのだと考えられる。 「アッツ島玉砕に関す. では、これを映画化するに際しては、いったいどのような要 請が働いたと考えられるだろうか。手掛かりの一つとして、近 年平山周吉『戦争画リターンズ 藤田嗣治とアッツ島の花々』(平. の時期を待つよう命ぜられ」 、代わりに「戦闘詳報」や米紙記. などにおいて事実と異なる「全然虚構の風説」であったため、. 東京から出発したという点、 (三)伝書鳩で通信したという点. に流布した。だが、 部隊が(一)軍旗を拝受したという点、(二). 当局の姿勢は、昭和一八年六月二六日『朝日新聞』記事「英 霊冒涜の造言」にも見て取れる。記事によれば、玉砕を知った. 事などの「資料」を載せることになったという。詳しい事情は. 関与した社員ら計七名は検挙された、とある。記事を読む限り. 二七・四、芸術新聞社)により照明が当てられた、鶴田『アッ. 伏せられているものの、 「読者諸君は著者の小主観の濾過器に. では、冒涜を意図したというよりは、玉砕に文学的想像力をか. 会社事務員が「突撃寸前の状況を想像しあたかも山崎部隊の将. さまたげられることなく、 直接『原典』につくことが出来る」 、. き立てられたに過ぎないように見える上、流布させた範囲もき. 校の通信文の如く作成し」同僚に見せたところ、同僚がこれを. 「現有の資料によっても、将又今後得られるに相違ない新資料. わめて限定的であるため、当局がいかに「虚構」/「統一」に. ツ島』における原稿差し替え問題に注目してみたい。同書中の. によっても、みだりに想像を逞しうするが如きことは厳につゝ. 鶴田自身の言によれば、 彼が当初用意した全三九章の原稿の内、. しまねばならぬ」 、 「ただ著者の念願たるや、已むことを得ずし. 対して神経を尖らせていたかをうかがわせている。. 書き写して社内で回覧、うち一名はさらに書き写して家族友人. て発する国民の想像が純化され統一されんこと、聖戦完遂の信. こうした当局の厳しい目が光る中で、かつ、ほかならぬ日映 ──「国家」のための「宣伝」を最優先し、「個人」による「芸. 米軍上陸以降を記した三二章以降は「その筋」から「暫く発表. 念が更に強固にされんことにある」などという彼の言から、お およその察しは付く。要するに当局は、 「軍神」の最期を取り. - - 50.
(6) を書き上げたとしても、それが「芸術映画」を志向していた時. だ。したがって、 たとえ安吾が自負する通り 「素晴らしい脚本」. 間違いなく「統一」的な国策啓発宣伝を厳密に求められたはず. 霊の出る話」=「軍神」神話をめぐる脚本を書くに際しては、. において映画化を図るわけであるから、安吾が「アッツ島の幽. 術」を圧殺するイデオロギーが支配的だった国策映画機関──. 『現代文学』昭一八・七)にお ばからず、安吾は「巻頭随筆」(. 上田は昭和一八年末頃まで「芸術」へのこだわりを公言しては. 篇などを空想し」ていたという。当時の発言を見ても、確かに. 篇映画ということを考え、伊勢物語などにその素材に手頃な短. ると語り、安吾は「能の感覚の頂点だけを綴じ合せたような短. の短篇小説「巴」が「短篇芸術映画の筋になるような気」がす. を交わした。約束はその後やや具体性を帯び、上田は室生犀星. (5). 点で、すでに映画が実現する可能性は皆無に等しかったと考え. いて、アッツ島玉砕に触れつつ次のように述べていた。. 葬の次第を撮影、併せてその座右銘「常在戦場」の意義を説」. ことは小説家の筆をまつまでもなく、小説家必ずしも適任. の文学といふものを考へられぬ。宣伝とか戦意振興といふ. 戦時体制の文学と云ふ人もあるが、人各説あり、僕の考 へは又違つて、僕自身だけの考へで云へば、僕は戦時体制. て国難に赴くときになつた。 (中略). 山本元帥の戦死とアッツ島の玉砕と悲報つづいてあり、 国の興亡を担ふ者あに軍人のみならんや、一億総力をあげ. (8). られる。参考までに確認してみれば、日映では、アッツ島玉砕 直前に戦死し国葬がなされた山本五十六長官をテーマにした文 化映画『常に戦場に在り』 (昭一八・八封切)や、 アッツ島「軍 神部隊」の合同慰霊祭の様子を伝えた時事映画『日本ニュース. 後者は 「誓って遺烈受け継がん決意に粛然として襟を正す」 き、. 一七四号』 (昭一八・一〇封切)を制作していた。前者は情報. 市民などを撮した後、最後に再び「我ら一億、誓ってこの遺烈. ではない。 百万の空文ありとも何の役にか立たんや。(中略). 局監修の元「山本元帥の生ひたちより、日比谷斎場における国. 受け継がん」というナレーションで締め括るなど、関連映画に. (6). おいてもやはり事実性と啓発宣伝性を重んじていたことがうか. 飛行機があれば勝つ、さうきまつたら、盲滅法、みんな で飛行機をつくらうぢやないか。そんなとき、僕は筆を執. 筆を握つてゐる限り、僕は悠々閑々たる余裕の文学を書い. るよりもハンマーをふる方がいいと思ふ。その代り、僕が. 「芸術」へ もっとも、日映次期社長格の専務・上田碩三は、 (7) の強いこだわりゆえに安吾を嘱託に採用したとおぼしく、「日. てゐたい。文学の戦時体制は無力、矛盾しやしないか。. がえる。. 映の思い出」 ( 『キネマ旬報』昭二二・二・一〇)によれば、採 用時に両者は 「二巻ぐらいの純粋な芸術映画を作るという約束」. - - 51.
(7) わば自らのイデオロギーにより実現性を失うことに対し、無自. 戦況悪化による撮影上の困難を抱えた「黄河」とは異なり、い. 画」を夢想していたのかもしれない。ただし、その場合にも、. れば、あるいは上田と共に実現性を等閑視し、本気で「芸術映. 時体制」的な「余裕の文学」への信念を言明していた安吾であ. 層「宣伝とか戦意振興」に注力した時勢にあって、 かくも非「戦. 者」(川口)や「映画のアッツ島を守る兵」 (依田)として、一. アッツ島玉砕を受け、多くの文学者や映画人たちが「戦時文学. だったので、文献資料などを参考にしてデッチあげた、と. 見聞してくる必要があったのだが、情況が悪くイノチガケ. ②安吾は「大東亜鉄道」の脚本を書き上げた。現地を歩き. 俺はアキレてモノが言えないね」と安吾は苦笑し(中略). いるのに、とうてい実現しそうもないバカらしい空想さ。. 画を立てているのだろうが、戦局がこんなに敗勢になって. 敷かれていない。軍部ではそこに鉄道を建設する遠大な計. 南のサイゴンとカンボジアのプノンペンとの間には鉄道が. ように、広東省の広州から仏印国境の竜州までの間と、安. ただし、 ②・③は「魔の退屈」における「黄河」執筆のエピソー. 同書は若園の回想に安吾の文章や周辺資料を織り込んでいく 様式から成り、②の末尾でも引用であることが示唆されている。. 脚本を依頼したのではないか、と彼は私に言っていた。. 給を貰うのはつらい思いであろうと察した専務がわざと大. ある。 (中略)③何もせず、日映にもあまり出社せずに月. 覚でいられたと考えることは至難である。 ⅱ「大東亜鉄道」 安吾が執筆したという残る一篇に関する彼自身による言及 は、現在までのところ確認されていない。残されている情報は、 昭和一九年「六月下旬」頃の次の回想のみである(丸数字と中. 若園清太郎『わが坂口安吾』 (昭五一・六、 昭和出版)における、 略は小林が施した) 。. ことになっているんだ。朝鮮の釜山を起点として満洲に入. 今度、 ①「たぶん情報局あたりの命令だろうと思うんだが、 ぼくは日映で《大東亜鉄道》という文化映画の脚本を書く. これについて検討を加えてみたい。. 具体性に富み、現時点では唯一の情報でもあるため、以下では. ずしも十全に信頼できるとはいいがたいものの、①はきわめて. ドとほぼ完全に重なっており、若園は両脚本のエピソードを部. り、北支・中支・南支を縦走して仏印に入り、タイ国を横. 大東亜縦 原田勝正「解説」(『十五年戦争極秘資料集第七集 貫鉄道関係書類』昭六三・三、不二出版)によれば、大東亜鉄. 分的に混同しているのではないかと疑われる。その意味では必. 断してマライに入り、 南下してシンガポールを終点とする、 例の東絛か誰かの誇大妄想的な構想さ。地図を見ても判る. - - 52.
(8) 月、大東亜建設審議会答申「大東亜交通基本政策」のために、. 一六年八月号所載の辻豊「蘭印へ汽車で行く」に見え、翌年四. 的とした。その構想は、早くは満鉄社員会機関誌『協和』昭和. 本帝国主義によるアジア支配のためのアウタルキー強化」を目. なアジア圏の動脈」の形成により「ひとつの完結した軍事 経 ・ 済圏を確立すること」 、すなわち「大東亜共栄圏」という「日. 道(または大東亜縦貫鉄道)は、 「日本を支配者とする統一的. あたりの命令だろう」と疑われる形で映画化するのであれば、. ていたと考えられる。それを、日映において、しかも「情報局. 道は重要な国策事業の一つとして、当然啓発宣伝の対象となっ. 以上のように、大東亜共栄圏の「動脈」として構想され、断 続的に国民の期待を喚起していた状況を踏まえると、大東亜鉄. ほいでいた。. ふ、永い間の夢が夢ではなくなるのだ」と、その実現性をこと. 一九・二・四夕刊)は、「東京、昭南間を僅か八日で走破する. 大東亜鉄道工事が共栄圏各国の協力で着々進捗しつゝあるとい. 南満州鉄道株式会社東京支社調査局により『大東亜縦貫鉄道ニ. (9). 就テ』としてまとめられた。. 各紙が一斉に報じたことによる。また、ちょうど一年後にもや. れに関し泰国とは既に具体的交渉に入つてゐる旨」を答弁し、. の計画」を「主題に大規模な鉄道映画が文化映画ででも劇映画. 太が『協和』掲載の論説(前出)について述べた、「大陸縦断. 旬報』昭一七・一〇・一一)において、映画批評家・清水千代. (昭一八・七封切)を制作したが、そこで描かれた浙贛鉄道復. - - 53. いうまでもなく啓発宣伝の忠実な履行が求められたはずだ。. 実際の日映の動きを確認してみると、大東亜鉄道を直接取り 上げた映画に関する情報は、管見の限りでは他社も含めて皆無. 構想が一般的に知られるようになるのは、翌一八年二月の国 会において、大東亜省次官が「釜山、奉天、天津、南京、広東、 ハノイ、バンコック、昭南を結ぶ大東亜鉄道の一貫線完成計画. に等しい。唯一確認できたのは、座談会「鉄道と映画」 (『映画 (. はり国会において、同次官が「関係各国とも密接に連絡を採り. でも出来ますね」という発言のみである。もっとも、日映は昭. (. につき、政府において調査研究の進みつゝあることならびにこ. つゝその目的に向ひ施策が進んでをり、昨年の議会でお答へし. (. 旧工事について華中鉄道東京支社長は、 「東亜大陸縦断鉄道た. (. 和一八年夏以降、大東亜鉄道の支線にあたる泰緬鉄道工事を記. (. 構想は、この頃には釜山・下関間に海底トンネルを掘り東京へ. (. たより更にある程度の進捗をみてゐる」と、鉄道総局施設局長. た、 中華電映と共同で戦記映画『大陸新戦場─浙贛作戦の記録』. 録した文化映画『泰緬鉄道建設記録』の制作を進めていた。ま (. が「関釜海底隧道」の「調査」を「なるべく早く」 「完了して. の延伸を図るまでに肥大化しさらに難易度を増していたが、こ. (. とそれぞれ答弁し、 話題を集めた。 具体的に予算に計上したい」. (1. る上海昭南直通鉄道実現への第一歩として愈々その重大性を認. (1. (1. れを受けて、たとえば『読売報知』の一面コラム「波長」 (昭. (1.
(9) 和一九年六月に「大東亜的構想に基づく啓発宣伝の達成をあく. するなど、関連する複数の映画に取り組んでいた。さらに、昭. 二千粁(在支米空軍基地覆滅記) 』 (昭一九・一一封切)を制作. 大東亜鉄道建設に不可欠な大陸打通作戦の戦記映画『大陸縦断. 識されるべきだろう」と位置付けている。この他にも、日映は. 送機能を発揮することはできなかった」上に、中国内縦貫線は. 弘文館)によって確認してみると、泰緬鉄道は結果的には「輸. たに過ぎず、実状を原田勝正『日本の鉄道』 (平三・三、吉川. ていた。もちろん、以上はあくまでも当時の啓発宣伝をなぞっ. 僅か一箇年間内に完成されるであらう」と楽観的な結論を下し. 敷設すれば問題はないとし、最終的には両者とも「着工すれば. た。が、その上で、 「タナプ=タケク=バンコツク」ルートを. (. まで主眼とする」新社是を宣言していたことも考え併せると、. (. 日映が同月「下旬」頃に大東亜鉄道の啓発宣伝を目的とする文. 大陸打通作戦が果たされて以降も占領状態を「確保し続けるこ. (. 化映画に着手することは、 至極当然な趨勢であったと思われる。. 軌間のちがいによって直通運転不能の区間や、線路未開通の区. (. では、肝心の鉄道そのものは、はたしてどの程度実現性を有 したのだろうか。 当時具体的な進展として誇示されていたのは、. 能に近い作業であった」という。. 間があり、これを一貫性のある鉄道として整備することは不可. とはできなかった」 。そして何より、 「東南アジア諸地域では、. 主に二点であった。一つは、昭和一八年一〇月にタイ ビ ・ルマ 間を結ぶ泰緬鉄道が一年間の強行軍で完成を見たこと、もう一 (. (. したがって大東亜鉄道は、少なくとも戦局が悪化して以降は、 もはや安吾のいう通り「とうてい実現しそうもないバカらしい. つは、翌一九年一二月に「中国大陸の北から南までを通貫しイ 「大陸打通作戦」 ンドシナに接合する鉄道網を確保する」ための. 空想」に堕していたと考えられる。つまり、安吾の脚本は、今. した。ただし同時に、 まだ「支那=仏印、 仏印=泰両国境連絡」. パー・プランから実現への着工を待つばかりになつた」と言明. 打 通、 い は ゆ る 共 栄 圏 列 車 実 現 」 の「 計 画 は 今 や 机 上 の ペ ー. れぞれの問題により同様の思いを痛感したのではないかと想像. る。以上の検討を踏まえると、他の二篇の執筆を通じても、そ. 如何に不可能なものであるか、厭といふほど思ひ知つた」とあ. 「黄河」執筆を通じて、「人間は目的のな 「魔の退屈」には、 い仕事、陽の目を仰ぐ筈がないと分りきつた仕事をすることが. 度は撮影対象の不成立という根本的な問題を抱えたわけである。. (一号作戦)が成功したことである。このうち後者を受け、「時. の二区間が残されていることを認め、特に後者については「サ. するに難くない。. 事解説 大東亜縦断打通成る─大東亜縦断鉄道─」 ( 『支那』昭 二〇・一)は、 「従来夢物語とさへ見られた大東亜縦断大鉄道. イゴン=プノンペン四百粁の間にはメコンの大河を横断せねば ならず、実現は困難である」と、安吾と同様の問題点を指摘し. - - 54. (1. (1. (1.
(10) 前稿補遺 」では、 「魔の退屈」における、 「立教大 前稿「ノート(三) 学の校内に亜細亜研究所とかいうものがあり、こゝに詩人で支 那学者の、これが又、名前を忘れた、私は三好達治のところで. (. (. 人物は、立教大学構内「亜細亜文化研究所」の田中克己であっ. たと確定できる。同時に、同文の記述通り、安吾が「昭和十九. 年の暮」以降「黄河」執筆のために調査を進めていたという事. 実も裏付けられた。貴重な研究成果の公開に深謝申し上げる。. 例が散見されるが、各紙記者が固定的に使用を始めるのは. (1)これ以前にも寄稿家を中心に「神」 「軍神」と表現した. 〈注〉. 聞いており、亜細亜研究所にこの詩人がつとめているときいた. 八月三〇日以降である。. 一度会ったことのある人で、信頼できる支那学者であることを ので、訪ねて行って教えを乞うた」という記述について、若干. 収加護神話による補強がなされたと考えられなくもない。. の功績は玉砕行為そのものといえ、だからこそキスカ島撤. い戦績を挙げた上で戦死を遂げたのに対し、アッツ島部隊. (2)うがった見方をすれば、他の軍神たちがいずれも輝かし. の考察を加えた。その際、研究所と詩人について、①慶応大学. http://. 内「亜細亜研究所」の西脇順三郎、②明治大学隣接「東亜研究 その後、 中嶋康博がウェブサイト「田中克己文學館」 (. 所」の神西清、という二つの可能性を挙げた。 . ことを知った。同サイト「年譜」によれば、田中は昭和一五年. 口安吾。黄河のこと教はりたしと。 」と、 同一二日の項に「 11:00 坂口安吾氏来り黄河のこと書く参考書をと。 」と記されている. 神話を合理的に捉え直している。一方、平山周吉『戦争画. 常な心理状態にあった人々の幻聴」と推測するなど、加護. な計算の賜物だったことを跡付け、万歳の声は緊迫時の 「異. (3)阿川弘之「私記キスカ撤退」( 『文藝春秋 臨時増刊』昭 四五・一一)は、霧の晴れ間の撤収作戦は気象将校の緻密. より「新設された亜細亜文化研究所(立教大学構内)に勤務」 、. 芸術新聞社)は、「玉砕はけっして無駄ではなかったのだ」. リターンズ 藤田嗣治とアッツ島の花々』(平二七・四、. ) 内 で 公 開 し て い る「 田 中 克 cogito.jp.net/tanaka/tanaka.htm 」において、 昭和二〇年一月五日の項に「〒坂 己日記 1943-1945. 昭和一七年に南方へ徴用されるが、帰還後昭和一八年より「復. と「思いたかった」人々の心理が神話を支えたと判断して. 職」したという。田中は、第二次『四季』編輯同人を共に務め るなど三好とつながりを持つ詩人であり、かつ中国古典文学に. (4)平山前掲書。 『アッツ島』刊行時に差し込まれた「推薦. いる。. 以上により、 「魔の退屈」で安吾が「教えを乞うた」という. 造詣の深い東洋史学者である。 . - - 55. (1.
(11) の辞」中に、編集部の言葉として記されていたという。 ・. ・. 年』 (平一. (5)拙稿「日映時代の坂口安吾をめぐるノート(三) 」参照. ( (. の反攻にともなって危険にさらされるような状況に対応す る」代替輸送手段としての役割に追われ、当初の「積極的 な意味を失ってい」ったという(原田『満鉄』昭五六・一 二、岩波書店) 。 )「〝大東亜鉄道〟の建設 関係各国と折衝 山本次官答弁 調査機関設置も考慮」 ( 『読売報知』昭一八・二・二八). )「東京と昭南を繋ぐ 大東亜鉄道進捗 関係各国と緊密 に協力」 ( 『朝日新聞』昭一九・二・四). )「可及的速かに実現 下関、釜山間の海底隧道 三浦局 長言明」 ( 『読売報知』昭一九・二・四夕刊). 七、 ユ ニ 通 信 社 ) 。編集中に日映練馬スタジオが空襲で消 失したため、完成には到らなかったという。 ( )北原信夫「 「大陸新戦場」と浙贛鉄道」 ( 『新映画』昭一八・ 七). ( (. 画』昭一九・六・一). )芳井研一「大陸打通作戦の意義」( 『環日本海研究年報』. ) 『南亜細亜学報』第一号(昭一八・二)によれば、南亜. 平二六・三). 16 ある。. でに二つの研究所は亜細亜文化研究所に集約された模様で. 四月同時発行の各『学報』第二号奥付によれば、この頃ま. 北亜細亜文化研究所も同館内に置かれていた。昭和一九年. 『北亜細亜学報』第一号(昭一七・一二)奥付によれば、. 「立教学院校内二号館」に昭和一四年四月に設立された。. 説・社会等の人文一般に関する研究調査を為すを目的」 に、. 「 南 亜 細 亜 諸 民 族 の 歴 史・ 宗 教・ 言 語・ 習 俗・ 神 話・ 伝. 細亜文化研究所は、外務省や情報局等の「補助」を受け、. 17. (6)『戦時下映画資料 映画年鑑 昭和 八・四、日本図書センター) (7)注5に同 (8)注5に同. 20. (9)もっとも、戦況が悪化するに従い、 「海上交通が連合軍. 19. ( )社団法人日本映画社「啓発宣伝映画の新生面」 ( 『日本映. - - 56. 18. ( )岡本昌雄 『文化映画時代─十字屋映画部の人びと』(平八・. (. 10 11 12 13. 14. 15.
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