●特集●日本型多文化共生社会とは何か
「日本型多文化共生社会」に沖縄は入っているか?
―米軍統治下の沖縄における「混血児」調査の文脈を中心に―野入直美
key words ……… 「混血児」 アメラジアン 基地 沖縄 ……… 1 沖縄における「多文化共生」 「日本型多文化共生社会」というものがあると仮定して、そこに沖縄は入っ ているだろうか。 何をもって「日本型多文化共生社会」を定義するかということに左右され るが、基本的に、現代の日本における「多文化共生」関連の動向のうち、標 準的なものは沖縄にも存在する。そこには、沖縄県と市町村の多文化共生推 進施策、NPO による国際交流や日本語教育のとりくみ、ボランティア活動 などが含まれる。 沖縄県の外国人登録者数は 11,229 人、人口比 0.78%(2014 年度)である。 1990 年代における外国人労働者の増加やリーマンショック後の減少にあま り左右されず、アメリカと中国を最大グループとしてきたが、近年ではフィ リピン国籍が増えてきている。 沖縄県は 2009 年度に「おきなわ多文化共生推進指針」を、2015 年度に「沖 縄 21 世紀国際交流基本戦略」を策定している(沖縄県,2013, 2015)。「沖縄 県多文化共生推進調査」によって、定住外国人の支援のニーズも調べている (特定非営利活動法人沖縄 NGO センター,2015)。 沖縄には、多文化共生のネットワークも存在する。多文化共生連絡会では、 沖縄県内で日本語教育や外国人支援に携わる NPO、外国人を雇用している 民間企業、県や市町村の担当職員らが任意で集い、隔月の情報交換を行って いる。このような「多文化共生」の動向が見いだせるという意味で、沖縄も 「日本型多文化共生社会」に入っているといえる。2 「混血児」調査―「多文化」でも「共生」でもない論点を読み解く― 一方で沖縄では、現代の日本社会における「多文化」や「共生」の文脈には 収まりがたい現象が、集中的に見いだせる。それは、米軍の駐留によって影 響を受けた人の移動と多民族化、たとえば「基地」や「混血児」をめぐる現象 である。 本稿では、従来の「多文化共生」の動向や議論には位置づいてこなかった 論点のうち、米軍基地の集中を背景として生まれる「混血児」について、と くに沖縄の本土復帰前後に行われた 3 回の「混血児」調査を中心に論じる。 それは、1955 年に琉球政府文教局が、1961 年に中部地区社会福祉協議会が、 そして 1975 年に沖縄県教育振興会と沖縄協会が手掛けた沖縄の「混血児」実 態調査である1)。 この 3 回の「混血児」調査を焦点化するのは、1955 年と 1961 年の調査が米 軍統治下、1975 年の調査が本土復帰の 3 年後に実施されており、沖縄の本土 復帰前後の「混血児」をめぐる問題化の変容をとらえるのに適しているため である。3 回の調査はいずれも、教育または福祉関係の公的機関によって実 施された。2 回目と 3 回目の調査については、調査の意義とデータの信憑性 は社会的に認知されており、調査結果は客観的事実として引用されてきた。 しかし、それらの調査における設問の成り立ちや対象者のカテゴリーなど、 調査自体については問われてこなかった。 本稿では「混血児調査」について、調査データをそのまま研究に用いるの ではなく、調査そのものの文脈、すなわち調査に携わったアクターやイニシ アティブ、設問の構造、その調査に結びつく「混血児支援」の文脈を明らか にし、1950~70 年代における「混血児」問題の成立過程を批判的に読み解い ていく。それによって、沖縄における「混血児」がどのような問いのもとに、 誰によって調べられ、問題化されていったのかを明らかにする。 3 調査以前―「混血児」の出生と性暴力の言説― ここでは、3 回の「混血児」調査に先立って、まだ統計がとられていなかっ た時代における「混血児」出生の始まりがどのように言説化されてきたのか を整理する。
1955 年調査が行われる以前、沖縄において「混血児」の出生や分布を把握 したデータは存在しなかった。一方で、「米軍上陸から 10 か月後となる 1946 年 1 月から混血児が誕生し始めた」という記述が繰り返され、定型となって いる(宮里,1986;高里,1996;若林,2009)。それは、「混血児」の出生を 米兵による性暴力と直截に結びつける言説である。 「米軍の治外法権地帯となった沖縄では、米兵による沖縄女性への強姦 が多発してきた。米軍上陸から 10 か月後となる 1946 年 1 月から混血児が 誕生し始め、望まない妊娠と結果として中絶を望む多くの女性を生み出し た。1949 年時点で、米兵と沖縄女性との間に 450 人の混血児が生まれたと 記録される(参考文献脚注)。 (中略)米軍基地と性暴力の問題はその後も多発した。1995 年 9 月 4 日、 小学生の少女が米兵 3 人により拉致され強姦されたというニュースがでて その後の大規模な県民集会に至ったことは周知のとおりである。県発表に よると 1972~95 年の 23 年間に米軍人、軍属による犯罪件数は、4784 件、 内強姦事件は 110 件を数える。」(若林,2009:101–103) この一文は、著名な人口社会学者である若林敬子が、著書『沖縄の人口問 題と社会的現実』に記したものである。そこでは、「混血児」が「強姦」によっ て生まれたことが、客観的事実として記されている。さらに、1940 年代の 性暴力による「混血児」の出生が 1995 年の米兵少女暴行事件につなげて記述 されており、「混血児」の出生と現代の基地から派生する暴力が地続きのも のとして描かれている。 若林が一段落目で参照した文献では、以下のような記述が見いだせる。 「地上戦終結は女性たちにとっては一つの攻撃の終わりでしかなく、そ れは新たな戦争の始まりを意味した。米軍は軍靴で島を踏み荒したように 女性の身体を踏み荒した。(中略)性攻撃の凄まじさは、米軍上陸後十ヶ 月目の 1946 年 1 月頃から、目の色や皮膚の色の違う児が生まれ始めてい ることがその証である(参考文献)。」(高里,1996:215–216)
この文章の筆者は、沖縄を代表する反基地・女性運動のリーダーであり、 1989 年から 2004 年まで那覇市議を務めてきた高里鈴代である。高里は、 1995 年の米兵少女暴行事件を機に「基地・軍隊を許さない行動する女たちの 会」を設立し、性暴力に焦点化した反基地運動を牽引した。上記の一文が掲 載されている著作『沖縄の女たち―女性の人権と基地・軍隊』は、その時期 に刊行されている。 さらにさかのぼって、高里が「混血児」の出生について参照した文献をひ もとくと、次のような記述がある。 「戦争から生きのびた女たちにとって、米兵による婦女暴行という新た な恐怖と屈辱の時代が現出したのであった。(中略)人びとも住民地区内 に米兵が侵入してくると、かねをたたいて警戒し、女たちも顔にスミを ぬったり、押入れや床下にかくれて難をのがれるようにしたが、不幸な目 にあう人も少なくなかった(米軍が本島に上陸後、10ヶ月目の 46 年 1 月頃 から青い目や黒い皮膚の児が生まれ始めている…)。」(宮里,1986:18) 宮里悦による著作は、『沖縄・女たちの戦後―焼土からの出発―』と題さ れた女性史である。ここではカッコ書きで記された一文が、10 年後に高里 によって、現代の基地から派生する性暴力と結びつく文脈の中で強調され、 さらに 10 数年後、若林の手を経て「客観的事実」となった推移が見いだせる。 筆者は、沖縄に米兵による性暴力や、その結果として出生した子どもがい たことが事実ではないと主張しているのではない。ここで留意すべきなの は、あたかもすべての「混血児」が性暴力によって出生したかのような言説 が、データの裏づけがないままに再生産され、無批判に定型化してきた過程 である。実際には、1957 年には那覇だけでも 288 組の国際結婚が届けられて いた(波平,1970:112)。しかし、いわゆる嫡出子である「混血児」につい ては、どの文献も言及していない。国際福祉学の専門家である大城安隆は、 「強姦同然の関係」という表現で(大城,2001:7)、社会学者の波平勇夫は、 「戦争犠牲」、占領軍兵士による「強いられた性交渉による出生」という表現 で、当時の「混血児」の出生を描いている(波平,1970:110)。 さらに、「混血児」の出生を直截に性暴力と結びつける言説において、
1946 年の「混血児」の出生と現代の沖縄の状況とがつなげて描かれているこ とには留意が必要である。 高里鈴代は、現代における「米兵と交際する女性たち」を、「基地が暴力を 内在化した組織であることに無自覚になっている」現象として警鐘を鳴らし た(高里,1996:224–225)。 「かつて米兵たちは、力とお金で女を買い、今は甘い言葉か暴力で女を 得る。完全に基地の周辺の様子は変わりました。『なんてあなたはチャー ミングなんでしょう』『君のような人に初めて会った』(中略)…甘い言葉を かけられ、その結果妊娠・置き去りとなってしまうことが現在でも起こっ ています。 それだけではないんです。実は 2 年前の 5 月、沖縄市の路上から 19 歳の 女性が車で拉致されて、基地の中に連れ込まれて強姦された事件がありま した。」(高里,1996:47) このような言説が安易に現代の教育現場に持ち込まれると、教室にいるア メラジアンの子どもは、以下のような体験をすることがある。 「3、4 年生の時、戦争のことを勉強した。…(中略)…沖縄でもアメリカ 人が沖縄の女の人をレイプしたり、そんなことが起こって今では国際結婚 も多くて…と(先生が)説明するから、友達から、お母さんもレイプされ た?とか言われて。」(照本,2001:102) アメラジアンとは、アメリカ人とアジア人の両親を持つ人、とくに米兵の 派兵や米軍基地の駐留を背景として生まれてくる子どもを含意する。この呼 称を沖縄で用い始めたのは、自分の子どものためにアメラジアンスクール・ イン・オキナワを設立した母親たちであった。1998 年に設立されたアメラ ジアンスクールは、英語と日本語による「ダブルの教育」を提供し、アメリ カの文化とアジアの文化を等しく尊重する教育理念を込めて、スクール名に 「アメラジアン」を冠した。母親たちは、自分自身とわが子を「基地問題」や 「被害」の表象から切り離し、「ダブルの教育」を中心とする発信を試みてき
た。その意味で「アメラジアン」とは、単なる呼称を超えて、一つの「対抗 的な言説」といえるだろう。 「混血児」の出生を性暴力と結びつける表象は、1995 年の米兵少女暴行事 件を重要な契機として再生産され、反基地・女性運動において言説化され、 アメラジアンスクールを中心とする教育権保障運動にも影響を及ぼしてき た。アメラジアンスクールによる「ハーフでなくダブルの誇り」、「ダブルの 教育」という発信は、当事者が乗り越えねばならなかった「基地被害」の文 脈に照らしても解釈することができる。 4 1955年「混血児」調査 4.1 焦点化された人種と肌の色 1955 年の「混血児」調査には、「混血児」の父親の「人種」、とくに肌の色 の違いと、「遺棄された母子」の多さを明るみに出す文脈が見いだせる。そ れは、現代の日本におけるマイノリティの子どもの実態調査が決して問おう とはしない事項である。一方で、現代的な文脈では重視されているマイノリ ティの子どもの不就学や学校からの離脱については、調査結果がそれを明示 しているにもかかわらず、まったく問題化されていない。問題がそこにあっ て、調査によってその背景が明らかになるというよりも、何を問題とするか という調査の文脈があって、調査を通じて現象が「事実」に、情況が「問題」 になってきていることが読み取れる。 沖縄で初めての「混血児」に関する調査は、1955 年に琉球政府文教局研究 調査課が行った「混血児童調査」(表 1)である。この調査報告書は、「琉球政 府」の文字が付された横書きのレポート用紙 13 枚分の手書き原稿で、修正 箇所が手書きされたままの状態で、沖縄県立公文書館に保管されている。活 字化されたかどうかは不明である。 当時の教育現場では、沖縄戦がもたらした甚大な人的・物的被害からの立 ち直りは見られたものの、それに伴う生徒数の増加に校舎の修復と新築が追 いつかず、茅葺きの小屋や青空教室で学ぶ生徒たちも少なくなかった。この ような時期に、米軍統治下の琉球政府が「混血児」の「教育指導及び施策の 資料にするために」調査を行ったということ自体、記録に値する。 調査対象は小学校に就学している「混血児」で、6 歳から 11 歳までの 386
人が総数となっている。どのように「混血児」を定義し、教育現場で把握し たのかについては記述がない。調査方法の妥当性が確認できないため、数値 をうのみにはできないのであるが、調査項目の構成から、この時代に「混血 児」がどのようにまなざされ問題視されていたかという、「混血児」をめぐる 文脈をうかがうことができる。 1955 年調査は、文教局が実施しているにもかかわらず、学校教育につい ての調査項目は 19 の中の 5 項目だけで、養育・家庭環境のほうが重視され ている。そのことは、当時の「混血児」に対する支援の文脈を考える上で示 唆的である。調査項目の構成は、第一「混血児の様態」(家庭の経済状態、家 庭における子どもに対する態度、子どもの家庭に対する態度、社会の子ども に対する態度、交友関係)、第二「混血児の母について」(職業、年齢、本籍、 子どもの養育者、学歴)、第三「混血児の父について」(父親の氏名が明らか かどうか、年齢が明らかかどうか、人種、父親による生活費援助の有無)、 第四「学校における教育適応状況」(出席状況、学校での態度、成績、級友と の関係、体位)となっている。 児童数は、9歳(4年生)以降に激減している。8歳から9歳でおよそ半減し、 10 歳で 10 分の 1 となり、11 歳はわずか 2 名である。当時、小学校に通って いた「混血児」、とくに高学年の生徒は特殊な「生き残り」というべき存在で あり、大多数の子どもたちは途中で学校を去っていたことがわかる。結果と して、「生き残った」生徒たちの出席状況、成績や「学校適応状況」が良好な のは自明なことだが、調査者にはデータの限定に対する認識がなく、「混血 児は割合、学校教育によく適応している」と結論づけている(琉球政府文教 局,1955:11)。 興味深いのは、母親と父親に関連する設問が大きく異なることである。母 親は「職業」、父親は「人種」が問われ、母親に関する項目の中で「養育者は 表 1 琉球政府文教局研究調査課「混血児童調査」年齢別集計表(1955 年) 6 歳 7 歳 8 歳 9 歳 10 歳 11 歳 計 男 女 男 女 男 女 男 女 男 女 男 女 男 女 計 全琉 59 44 62 58 46 56 24 24 7 4 2 0 200 186 386 琉球政府文教局研究調査課『教育行財政に関する研究調査書類』(1955)。地域別・年 齢別集計表を改編。
誰か」が問われるという構成は、1960~70 年代にかけての「混血児」調査に おいて定型化されるのである。 その調査結果は、「遺棄された母子」の存在を顕示する。子どもの養育者 は両親が 10%、母親のみが 50%、祖父母または血縁者が 30%、その他が 5% である。この数値について、調査報告書は「実父母に育てられないで親の愛 情を知らずに育つ子どもたち」の存在を問題としている(琉球政府文教局, 1955:7)。しかし父親に関しては、その氏名すら不明である者 77%、経済 的援助がない者 75%であり、愛情うんぬん以前の問題状況であることが示 されている。「養育者は誰か」が母親に関する設問に含まれていることは、 母親に「愛情をかけた子育て」を求める養育規範があったことをうかがわせ る。 母親の職業は「軍作業勤務」が最多で 27%であり、その他の職業は「民間 関係労務」「事務職員」「商業」「農業」「洋裁」「接客業」「家事」と分類されて いる。1955 年調査の時点では、まだ「混血児」の母親を「売買春」と結びつ けるスティグマは見いだせない。 父 親 の「人 種」別 集 計 は、「ヒ リ ピ ン 人」(マ マ)23%、黒 人 6%、白 人 60%、中国人 2%、その他 5%、不明 4%である。国籍と人種が混然としたこ の分類は、名前も年齢も 7 割以上が不明という「混血児」の父親が唯一、子 どもに刻印した身体的特徴である肌の色を焦点化したものであるように思わ れる。この「人種」属性は、1961 年の「混血児」調査においては、父親では なく「混血児」自身を分類するカテゴリーとして用いられるようになる。 当時、児童福祉司をしていた幸地努は、「学校では『シルー(白人の意)、 クルー(黒人の意)』などと級友から呼ばれ、…(中略)…家族からは『そん な黒い手で先祖を拝まないでくれ』と墓参りを拒否される」状況があったと 記している(幸地,1975:276)。人種、とくに肌の色の違いは、これらの子 どもたちに対する差別の引き金となっていた。 4.2 1955 年当時における「混血児支援」の文脈 国際福祉の専門家ある大城安隆は、沖縄の本土復帰前後の「混血児」「国際 児」をめぐる動向を、以下の 4 期にわたる時期区分をもってとらえている(大 城,2001)。第一期(1945~1957 年):米軍の上陸からハーフウェイ保育院
(Halfway Home)の閉鎖まで。第二期(1958~1971 年):ISS 沖縄設立から本 土復帰まで。第三期(1972~1997 年):本土復帰から国際福祉相談所の閉鎖 まで。第四期(1998~2001 年現在):国際福祉事務所の閉鎖から現在まで。 大城自身は、第二期から第三期のおよそ 40 年間、国際福祉の中核的な担い 手として2)、これらの子どもと母親に対する支援を牽引してきた。 大城の時期区分によれば、1955 年の「混血児」調査は、第一期の終盤にあ たる。1955 年は、沖縄で最初の「混血児」支援施設であるハーフウェイ保育 院が開設された年でもある。大城は、当時、とくに「黒人系の子どもたち」 が多数、アメリカ人との養子縁組によって渡米したと記している(大城, 2001:9)。ハーフウェイ保育院は、1955 年に現在の嘉手納町水釜で設立さ れた、アメリカ人両親と養子縁組が成った「混血児」を一時預かりする施設 であった。それは、在沖退役軍人の組織 VFW(在郷軍人会)と米軍の将校 婦人クラブによって運営されていた(大城,2001:8)3)。所在地である水釜 は、保育院設立の 10 年前、米軍が沖縄本島への上陸を開始した歴史的な地 点でもある。 さらに 1950 年代において、もともとは戦争孤児や、戦後の混乱期に親が 養育できなくなった子どものために設立された社会福祉施設に、「混血児」 の姿が見られるようになっていた。大城はそのような施設として、首里厚生 園、コザ女子ホーム、愛隣園を挙げている。このうちコザ女子ホームは、本 稿でとりあげる 1961 年調査を実施した、「沖縄社会福祉の母」として著名な 島マスが設立した施設である。第一期には、第二期以降における調査や支援 の展開につながる萌芽が見いだせる。 一方で、これらの「混血児」支援のアクターたちが、1955年の「混血児調査」 に関与したり、調査結果を実践や政策提言に用いたりするようなことはな かった。そのような調査と支援の緊密な結びつきは、1961 年調査以降に見 いだされるようになる。 5 1961年「混血児」実態調査 5.1 福祉イニシアティブによる養育状況の焦点化 1961 年調査の特徴は、米軍基地が集中する沖縄本島中部を中心とする地域 をカバーする形で、社会福祉団体が担い手となって実施されたことである。
1955 年 調 査 の 3 年 後、1958 年 に、国 際 社 会 事 業 団 沖 縄 代 表 部(ISS: International Social Service Okinawa)が設立された。大城は、この年から 国際児支援が本格化したと位置づけ、「国際児」への対応の第二期をここか ら始めている。 国際社会事業団(ISS)は、1920 年代から難民や移民を支援してきた国際 組織である。ISS 沖縄は、米軍の将校婦人クラブによる寄付を基金とし、民 間の社会福祉団体として、現在の沖縄市山里に設立された。主な業務は、「混 血児」とアメリカ人養父母との養子縁組であった4)。 この時期に活動した著名な人物に、前述した島マスがいる。島はコザ女子 ホームを立ち上げ、戦争孤児や、戦後の混乱期に親が養育できなくなった子 どもたちを育んでいた。彼女は、中部地区社会福祉協議会の事務局長として 1961 年の「混血児実態調査」を実施するのであるが、ISS 沖縄の理事にも名 を連ねていた(国際福祉相談所,1983:96)。 1961 年調査では、現在の西原町、北中城村、うるま市、沖縄市、嘉手納町、 読谷村、宜野湾市、浦添市を含む沖縄本島中部に居住する 0 歳から 15 歳ま での「混血児」1,584 人(うち就学年齢 929 人)が把握された(国際福祉相談所, 1983:98–99)(表 2)。1955 年調査との相違は、調査主体が教育行政から福 祉団体へ移行し、本島中部地区が焦点化されたことである。米軍の嘉手納飛 行場に隣接し、ISS沖縄が事務所を構えたコザ(現在の沖縄市)は、沖縄の「混 血児」問題を象徴する空間となっていた。 1955 年調査と同様に、学校をやめていく「混血」の子どもたちが相当数、 表 2 中部地区社会福祉協議会「混血児実態調査」集計表(1961 年) 小学校 中学校 小計(0~6 才)幼児 総計(%) 男 女 小計 男 女 小計 白人 151 185 336 51 54 105 441 330 771(48.66) 黒人 13 21 34 6 4 10 44 16 60(3.79) ヒ人 204 189 393 14 13 27 420 255 675(42.66) その他 8 15 23 1 0 1 24 54 78(4.91) 計 376 410 786 72 71 143 929 655 1,584(100.00) 国際福祉相談所(1983:98)の第一表を一部改編した。人種表記は原典のままにとど めている。「ヒ人」は「比島人」の略でフィリピン人を指す。
存在したことが見いだせる。中学生は、小学生数のおよそ 18%しかいない。 しかし 1955 年調査と同様に、不就学や学校からの離脱はまったく問題化さ れていない。 5.2 「差別はない」という言説 島が問題視したのは、「混血児」の母親のうち、結婚している女性は 3 割 に満たないこと、実父母または母親による養育が約 4 割しかなく、扶養の義 務を果たしている父親も約 4 割しかいないことであった(国際福祉相談所, 1983:96)。 一方で、総じて「校友関係や社会に於いても人種に於いても何等差別なく権 利が守られている事が結果に表われ喜ばしい事であった」(前掲書:79)と述 べ、「但し彼等児童については一般児童と差別することはないが、混血児とし ての特殊な事情から外国人で養子縁組を希望する適切な里親が得られたら、 彼等児童の福祉のために望ましいことである」(前掲書:96)とも記している。 「差別がなかった」ことを裏づけるデータは、少なくとも調査報告からは 見いだせない。しかし「差別はない」という島の言葉は、データよりもむしろ、 米軍統治下の沖縄で国際福祉が直面していた矛盾と葛藤の文脈において解釈 される必要があると思われる。島は、沖縄で「混血児」が生まれるのは「戦 後米軍駐屯」によるものだと述べている。一方で、島が理事を務める ISS 沖 縄は、将校婦人クラブの寄付によって設立され、主な業務はアメリカ人養父 母と「混血児」との養子縁組であった。問題の原因と解決の展望のいずれも がアメリカからもたらされるという端的にコロニアルな状況において、養子 縁組は差別からの逃避ではなく、「児童の福祉のため」という文脈で語られ ねばならなかった。「差別はない」とは、「差別があるからアメリカに逃がす のではない、子どものよりよい福祉のためにそうするのだ」という島の意思 表明ではなかっただろうか。それは、米軍統治下の沖縄における国際福祉の 担い手の、制限された状況下でのぎりぎりの主体性の発露であったように思 われる。 ISS 沖縄が所在したコザは、戦後、嘉手納飛行場の建設に伴って急速に肥 大化した、米兵向けの歓楽街であった。そこに住む沖縄の人びとは、戦前に 居住していた集落を米軍基地の建設によって接収され、歓楽街における、米
兵を相手にしたサービス業によってしか生計を立てられない状況に置かれて いた。1961 年調査当時、米軍当局は、性病防止と風紀粛清のためとして「オ フ・リミッツ」、米兵が基地の外へ出歩くことを禁ずる命令を出しており、 それがコザの地域経済に深刻な打撃を与えていた。「混血児」はアメリカに 移住したほうがよりよい人生が拓けるという考えは、アメリカ人養父母だけ でなく、島のような福祉の担い手を含む、当時の沖縄の人びとの実感であっ たと思われる。 6 1975年「混血児」実態調査 6.1 売買春のスティグマと階層分化 1975 年調査は、沖縄の本土復帰から 3 年後に実施されたものであり、教育 と福祉の領域をカバーした包括的な「混血児」調査となっている(国際福祉 相談所,1983:122–196)(表 3)。沖縄県教育振興会と財団法人沖縄協会によ るものだが、実質的な調査主体は「混血児問題調査研究委員会」であり、委 員長の大城安隆と幹事の福地曠昭がイニシアティブをとった(前掲書: 195)。大城は、ISS が沖縄の本土復帰に伴って改組した組織である社団法人 沖縄国際福祉相談所(ISAO:International Social Assistance Okinawa)の 事務局長として、国際福祉の中核を担っていた。福地は、沖縄の人権運動の 中心的な指導者で、『沖縄の混血児と母たち』(1980)の著者でもある。調査 当時は沖縄県教職員組合書記長として、県内の公立学校からの情報収集を 担った。「混血児」問題には 1950 年代半ばから関わっており、当時は沖縄人 表 3 沖縄県教育庁指導課「混血児童生徒の実態」「国籍別混血児童・生徒数」(1975 年) 幼稚園 小学校 中学校 特殊学校 高等学校 米人学校 計 米国 9 91 10 0 2 143 255 フィリピン 0 15 11 0 5 69 100 日本 45 392 197 9 83 72 798 中国 2 4 0 0 1 25 32 その他 5 31 16 0 4 10 66 計 61 533 234 9 95 319 1,251 国際福祉相談所(1983:129)の表(5)を一部改編した。
権協会の事務局長として米兵の「妻子置き去り」の相談を受け、法務省の人 権擁護局に訴えてきたという(福地,1980:234)。1975 年調査は、沖縄にお ける国際福祉と人権活動を牽引する指導者たちが関与した調査であった。 調査報告書は、二部構成となっている。前半が沖縄県教育庁によって行わ れた 1975 年調査であり、後半が ISAO によって行われた 1970 年時点での相 談件数の取りまとめと事例紹介である。ここでは、前半の教育庁による調査 をとりあげる。 そこでは福地の指示のもと、沖縄県教育庁指導課の職員が幼稚園、小・ 中・高校、特殊学校、アメリカンスクールを訪問し、「混血児」の実数と母 親の職業を調べ、1,251 人の「混血児」を把握した。その集計は、学年、居住 地、国籍、父親の国籍、養育状況、母親の職業別に行われている。 1955 年調査、1961 年調査との大きな相違は、「混血児」を分類する指標が 「人種」から「国籍」へと転換していることである。「混血児」本人の国籍別集 計では、日本 64%、アメリカ 20%、フィリピン 8%で、父親の国籍別集計で はアメリカ 70%、フィリピン 18%であった。 1975 年調査の特徴は、学校調査、それも公立学校だけでなく、「米人学校」5) 1 校を含んでいることである。外国籍の「混血児」の多くは「米人学校」に通 い、日本国籍の子どもは日本の学校に集中していることがわかる。日本の学 校における「混血児」の小・中学校生数に比べて、高校生の数が大幅に少な い。加齢に伴って就学者数が減る現象は、1955 年の調査以降、一貫して見 いだせる。 もうひとつ、1975 年調査において特徴的なのは、社会調査としては極め て特異ともいうべき母親の職業分類である(国際福祉相談所,1983:130)。 「サービス業」とは別に「ホステス」という分類があり、それが最多のカテゴ リーとなっている。さらに「店員」とは別に「ウェイトレス」、「軍雇用」とは 別に「メイド」が設けられ、著しくジェンダー化された分類となっている。 このような調査デザインのもとで収集されたデータは、「混血児」の母親を 売買春と結びつけ、「基地周辺の歓楽街で米兵の周囲にいる女性たち」とい うスティグマを生み出していくことになる。 一方で、児童の国籍と学校のクロス集計(表 3)と母親の職業と学校のク ロス集計(表 4)をデータとして見た場合、「混血児」の中の階層分化が浮か
びあがる。頂点には、アメリカ国籍を持ち、両親と同居している「混血児」 がいる。そういう子どもの母親は主婦であり、多くの子どもは「米人学校」 に通って英語教育を受けている。底辺には、日本国籍で、母子家庭で、母親 が「ホステス」「ウェイトレス」「メイド」をしている「混血児」がいる。そう いう子どもは「米人学校」には行かず、日本の学校に通っているのはまだよ いほうであり、加齢に伴って学校に来なくなる子どもが増え、高校進学率は 極めて低い。「混血児」の中に、階層分化が生じていたことがうかがえる。 学校にとどまり、調査の対象となった「混血児」は「生き残り」であるのだが、 調査者にはデータの限定性についての認識がなく、「非行児は案外少ない」 (国際福祉相談所,1983:162)、「(学力は)標準分布を成しているように見 えるので、特に良いとか、悪いというようなことは読み取れない」(前掲書: 166)という記述がなされている。 表 4 沖縄県教育庁指導課「混血児童生徒の実態」「母親の職業」(1975 年) 幼稚園 小学校 中学校 特殊学校 高等学校 米人学校 合計 家事・無職 26 151 77 2 45 241 542 軍雇用 5 47 12 1 4 5 74 会社員 2 27 14 0 2 12 57 雑貨店経営 0 2 0 0 2 0 4 飲食店経営 0 9 5 4 1 4 23 店員 0 11 16 0 1 0 28 ウェイトレス 5 42 7 1 3 6 64 メイド 0 17 13 0 2 0 32 洋裁業 3 13 7 0 3 6 32 労務 0 20 9 0 2 0 31 商業 5 23 11 0 17 4 60 ホステス 0 98 37 0 0 0 135 サービス業 9 27 2 0 0 0 38 その他 0 10 4 0 4 3 21 不明(未記入) 6 36 20 1 9 38 110 合計 61 533 234 9 95 319 1,251 国際福祉相談所(1983:130)の表(8)を一部改編した。
6.2 「日本」になった沖縄、「日本国籍取得」という「混血児」支援 沖縄の本土復帰に伴って、米軍統治時代には存在しなかった問題が発生し てきた。日本国籍のある子どもは公的な福祉や教育の対象となり、日本国民 として包摂される一方で、そうでない子どもは基本的な市民権から排除され るようになったのである。人種ではなく国籍がこれらの子どもの市民権を左 右する決定的な属性として焦点化され、その過程において、彼らの呼称も「混 血児」から「国際児」へと転換されていった。 日本国籍を持たない「混血児」6)である外国籍児と、まったく国籍のない 「無国籍児」7)は、本土復帰によって沖縄に導入された国民健康保険に加入で きず、児童扶養手当を受給できず、義務教育の対象外となった。大城安隆を 中心とする国際福祉の専門家たちは、外国籍児童の国民健康保険への加入を 認める市町村条例の制定を、福地曠昭を書記長とする沖縄県教職員組合は、 外国籍児童の小・中学校への受け入れを強く要請した。その結果、1975 年 の沖縄市を皮切りに、1980年時点までに25の市町村が条例を定めた8)。また、 1975 年には厚生省が児童扶養手当法を改正し、一定の基準を満たす外国籍 児の母子家庭にも児童扶養手当の支給が行われるようになった。同年、沖縄 県教育庁は、「本県の特殊事情やむを得ないものとして、(外国籍をもつ「混 血児童」の)小中校への入学を認める」と回答した(沖縄県,1975:3)。「や むを得ない」という、迷惑さの実感を露呈させた回答は、外国籍の子どもの 公立学校への受け入れをめぐって、1990 年代の日本「本土」で繰り返される ことになる。沖縄では、日本「本土」がグローバリゼーションの影響による 外国人の増加に直面するよりも四半世紀前から、先取り的に問題現象が顕在 化していた。 沖縄の本土復帰直後、「混血児」への支援運動は、日本国籍がない子ども も日本国民と等しく扱われるべきであるという「平等の原則」に根ざしてい た(国際福祉相談所,1983:114)。しかし、無国籍者が就学、就労、結婚な どで直面する諸問題を、市町村の条例制定で解決することには限界があっ た。そのため「混血児」支援運動は、抜本的に無国籍児が生まれることのな い法制度を求めて、国籍法の改正運動へと収斂されていくのである。 転機は、1979 年に大城が「日本の国籍法を改正して、無国籍児の発生をな くすこと」を訴えた、「国際児童年―沖縄からの提言」であった(前掲書:
62)。国籍によらない平等を求める理念は、日本国籍によって平等を得る、「混 血児」の日本国民への包摂をすすめる戦略へと転換するのである。「沖縄か らの提言」の影響もあり、1985 年に国籍法は改正され、日本で日本人母親か ら生まれた子どもは、原則的に日本国籍を取得するようになった。 無国籍児問題が法的に一応の解決を見た後、沖縄における「混血児」/「国 際児」支援運動は急速に求心力を失い、下火になっていく。大きな使命を果 たした国際福祉相談所は、1998 年に閉鎖するに至る。そのおよそ半年後、 アメラジアンスクール・イン・オキナワが 5 人の母親らによって設立される のである。 1970 年代の「混血児」支援運動は、「国籍の有無にかかわらず平等である べき」という平等原則の理念から、「無国籍児が生まれることのない法整備 を」という国籍法改正運動へと転換してきた。その背景には、沖縄の本土復 帰に伴って、日本国籍の有無が「混血児」の市民権を左右する死活の要件と なってきたことがある。沖縄が「混血児」に先立って日本に包摂され、その 社会変動から取り残された「混血児」を「国際児」と呼び変えて、沖縄の支援 者・活動家たちが「日本国籍取得」に支援を焦点化していったプロセスが見 いだせる。1975 年の「混血児」調査において、人種でなく国籍による対象者 の分類が行われ、人種、肌の色の違いが表象されなくなったことは、そのプ ロセスを象徴している。しかし、肌の色の違いを引き金とした差別の問題は、 潜在化しただけで消滅したわけではなかった。日本弁護士連合会は、沖縄の 家族や地域社会に、「国際児」とその母親に対する排除や差別があることを 指摘している(日本弁護士連合会,1981:25)。 「日本国籍取得」という支援の文脈がとりこぼしてきた論点、それは、「日 本国籍の有無にかかわらず『混血児』は平等に扱われるべき」という、市民 権の平等であった。さらに、言葉や文化、容姿、国籍などが周囲と異なる子 どもたちを、その違いを日本国民への包摂によって埋めていくというより も、その違いを前提として、どのように共存していくかという〈共生〉の課 題であった。 国際福祉と人権活動の指導者たちによる支援運動が幕を閉じた後に始まっ たのは、アメラジアンの母親たちが、自身と子どもたちを被支援者や基地問 題の被害者であることから切り離し、当事者として声をあげ、アメラジアン
スクールをつくっていくプロセスであった。その運動の文脈は、アメラジア ンスクールが目指している展望だけでなく、それが乗り越えようとしてきた 戦後 70 年間に及ぶ言説構築の過程からも解釈することができる。 「日本型多文化共生」というものがあるとして、沖縄はそこに入っている のか。その問いは、現在と未来を問う射程だけでなく、過去の軌跡を丹念に 読み解く作業を伴うことで、逆説的に、今日的な意義を帯びていくように思 われる。 〈注〉 1) この他に実施された「混血児」「国際児」「重国籍児」を対象とする調査の報告書として、 国際福祉沖縄事務所「混血児調査報告書(1970 年 4 月現在)」(沖縄福祉相談所, 1983:102–121)、沖縄県生活福祉部児童家庭課『国際児世帯実態調査報告書』1989 年 3 月 31 日発行、沖縄県教育委員会「外国人の子弟及び重国籍児等就学状況に関する実 態調査」1999 年がある。本稿では、沖縄の本土復帰前後、1950~70 年代の「混血児」 問題化について考察するために、その時代に実施された調査の中で調査項目が包括的 である調査を選んだ。 2) 大城は、沖縄の本土復帰前後にわたって、国際社会事業団沖縄代表部(International Social Service Okinawa: 以下、ISS 沖縄と表記)と国際福祉相談所の事務局長および 施設長を歴任してきた。ISS 沖縄は 1972 年に国際福祉沖縄事務所(International Social Assistance Okinawa:ISAO)に、さらに 1980 年に国際福祉相談所に改組され てきた。 3) 他に、沖縄で「混血児」の支援活動を行った国際的な支援団体としては、作家のパー ル・バックの設立によるパール・バック財団がある。 4) ISS 沖縄は、第二期においては毎年 200~400 弱の養子縁組・家庭調査を扱っており、 その数は総取扱件数の約半数に及んでいた。国際福祉相談所『平成 6 年度事業報告書』 (1995:5)。 5) これは、「米人学校」の中で 1 校だけ調査に協力した Christ the King International School(通称キングス・スクール)を指す。同校は、米軍属のフィリピン人男性と沖 縄女性の間に生まれたフィリピン国籍の子どもの受け皿として設立されたカトリック 系のインターナショナルスクールであり、基地の外に所在していた。 6) 1985 年の改正までは、日本の国籍法は父親から子どもに国籍が伝わることを原則と する父系血統主義を採っており、アメリカ人男性と沖縄女性の間に生まれた子どもた ちは、しばしばアメリカ国籍あるいは無国籍となった。1977 年に国際福祉沖縄事務 所が衆議院に対して行った陳情では、混血児数約 3,500 人(0~31 歳)のうち日本国籍 64%、米国籍 20%、その他の国籍 14%、無国籍 5%とされている(国際福祉相談所, 1983:53)。 7) 父親がアメリカ人であっても、アメリカ国籍法が定める居住要件を満たさなければ子 どもは無国籍となる場合があった。当時の居住要件は「アメリカ国内に 10 年間、う ち少なくとも 5 年間は 14 歳以後」というものであり、帰化によってアメリカ国籍を取 得し、海外で勤務についてきた兵士や 19 歳未満の兵士は、子どもに米国籍を継承さ せることができなかった(日本弁護士連合会,1981:10)。
8) 沖縄市、浦添市、宜野湾市、具志川市、石川市及び中頭郡老人福祉センター運営協議 会『中部地区社会福祉の軌跡・第 1 巻』(1986:263)。 〈引用文献〉 福地曠昭(1980)『沖縄の混血児と母たち』青い海出版社. 国際福祉相談所(1983)『創立 25 周年記念誌』国際福祉相談所. 幸地 努(1975)『沖縄の児童福祉の歩み』広研印刷株式会社. 宮里 悦(編)(1986)『沖縄・女たちの戦後―焼土からの出発―』ひるぎ社. 波平勇夫(1970)「混血児の研究(Ⅰ)」沖縄大学『沖大論集』10(1),77–160. 日本弁護士連合会(1981)『沖縄無国籍児問題調査報告書(案)』日本弁護士連合会第 6 次沖 縄調査団. 沖縄県(1975)『陳情の処理経過および結果報告』沖縄県総務部財政課. 沖縄県(2013)『おきなわ多文化共生推進指針』沖縄県知事公室広報交流課. 沖縄県(2015)「沖縄 21 世紀国際交流基本戦略」沖縄県知事公室広報交流課. 大城安隆(2001)「国際児に関する問題と対応の時代区分試論」沖縄地域福祉学会(編)『沖 縄地域福祉研究』日本社会福祉学会第 49 回全国大会開催記念号,3–29. 琉球政府(1955)「混血児童調査」『教育行財政に関する研究調査書類』琉球政府文教局研究 調査課. 高里鈴代(1996)『沖縄の女たち―女性の人権と基地・軍隊―』明石書店. 照本祥敬(編)(2001)『アメラジアンスクール―共生の地平を沖縄から―』蕗薹書房. 特定非営利活動法人沖縄 NGO センター(2015)『平成 26 年度沖縄県多文化共生推進調査事 業報告書』沖縄県知事公室広報交流課. 若林敬子(2009)『沖縄の人口問題と社会的現実』東信堂. (のいり なおみ 琉球大学法文学部 准教授 社会学)