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日本のエコロジーの流れにおける沖縄の位置: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

日本のエコロジーの流れにおける沖縄の位置

Author(s)

宇井, 純

Citation

沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(8): 79-86

Issue Date

1991-03-25

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/5751

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沖縄大学紀要第8号(1991年)

日本のエコロジーの流れ

における沖縄の位置

宇井純 先に我々は島尻先生を失い、このたび永野先生を失った。教育面でも、大学 の運営面でも大きな役割を果して来られた両先生を失って、教養科の-人とし て深い悲しみに暮れている。この間、校務をはじめいろんな雑用に追われて、 永野先生のお見舞にも行けなかったことを'悔んだものであった。殊に、先生が 大学の経営の激務に当られた時期を知らぬ私が、2年ほど図書館長を勤めてみ て、沖縄大学の最も困難な時期の先生の御苦労を想像してみると、そのことが 先生の寿命を何年か縮めたことになったのではないかと思われる。そして今曰 沖縄大学が生きながらえて、私自身がそこで生きていることが、島尻先生や永 野先生のおかげであると、曰毎に思いが強くなって来るものである。 もはや時は帰らぬものではあるが、この2年余、少しづっ時間を割いて作っ た本の一つを、両先生の霊前に、私の報告として供えようと思う。それは、い いだ.もも氏等の求めによって、曰本近世以来の300年あまりに記された、自 然をいかに見るかという記述の中から、30人ほどの文章を抜き出して編集した 「エコロジーの源流・谷中村から水俣・三里塚へ」(社会評論社.1991)であ る。その編集にあたり、私が沖縄に居ることを反映したためか、沖縄から察温、 謝花昇、徳田球一、安里清信の4人の文章が収められた。別に沖縄を意識して そうしたのではなく、気がついたらそうなっていたのであった。曰本の人口の 1%を占める地域としては、異例に高い比率になるかもしれぬ。おそらくそれ だけの豊富な文化の伝統が、この地域にあるということなのであろう。 この種類の仕事には全く専門ちがいではあるが、一応自分のできる限りでの 解説を試みた。全文は長く、重複することでもあるからここに沖縄関係の4人 分について引用し、執筆後に感じたことについて若干つけ加えて読者各位の批 判を仰ぐとともに、両先生への後学の徒が学恩に酬いるよすがとしたい。 -79-

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沖縄大学紀要第8号(1991年) 〔徳川幕府の全国統一と、石高制の定着、戦乱の終結、平和の到来により、こ の時期新田の開拓が次々に行われる。玉城哲の説によれば、ほぼこの頃、1700 年頃に曰本の新田の開発は、自然によって供給される水の供給量を上回って、 慢性的な水不足の時期に入る転換期に相当するという。当時はまた、他のいく つかの産業にとっても一つの転換期であった。例えば足尾銅山に代表される鉱山 業は、やはり徳川時代の生産量のピークが1700年前後にある。16世紀、17世紀 に導入された西欧の技術が定着し、他方で鉱石採掘の深さが次第に大きくなっ ていくことによる水の汲み上げの困難が、制限因子になって次第に生産量が低 下を始める時期でもある。この時期、曰本は世界有数の産銅国であった。 農業においても、農地の増加と収税の機構の成立が、農民に計画的な生産を 必要とさせるようになったこの時期に、農書が成立したことは一つの必然であ ろう。 沖縄はやや事情が異なり、本土の農書に相当するものは、当時の琉球王朝の 大臣に相当した三司官・察温が書いた「農務帳」や「林政八書」がある。これ はいずれも政府の布令として発布されたものであるが、察温は中国に留学した 時にいわゆる実学として、農業や林業に関する知識を学んで帰り、これを琉球 王朝の中で生かして、農民に指令を発した。既に1609年に島津氏の支配を受け、 琉球王朝は独立した王朝ではなくなり、表面上は中国に朝貢をしたが、実際に は薩摩藩に支配され、重税に苦しんだ時期である。山林も荒廃し、用材が不足 したので、木造船の建造もきびしい許可制のもとにおかれた。察温は表土の流 出を警戒し、開墾にも特別な注意を払って、過度の開墾を行わないように指導 した。また山林の管理についても、地形に応じ山林の状況を把握した上での林 業の実行を説いた。その布告はテキスト中の図に見るように、非常に具体的に 分かりやすく書かれている。沖縄の場合いわば支配層の技術として、農業技術 が上から下に向けて流れたところに、その特徴がある。察温の問題意識の選択 は、現代の第三世界エリート学生の開発理論の選択を考えるとき、興味の深い ものがある。〕 -80-

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沖縄大学紀要第8+j(1991年) 多少舌足らずな表現になったが、何を学ぶかという選択は、今日、曰本も含 めた工業先進国へ留学する青年にとって共通な問題である。その対象が一見価 値中立的に見える自然科学や技術の世界においてさえ、青年の出身地の条件に 合った体系的な選択があることは、多少科学史を学んだ者にとっては常識とな っている。しかしその事実は沖縄ではあまり知られていなかったと見えて、多 数の留学生を送り出した割合には、実学が沖縄の現実に生かされているとは思 えない。察温の教訓は、今日でも真剣に学ばれなければならぬ。同じことは、 大学の教育の中味についても言えることである。我々は、学生の要求にこたえ ているであろうか。学生から明示されなくてもそこに存在する、地域の要求に 応じているであろうか。 たとえ一介の技術者であっても、その間に答えようとすれば、自分の技術の 分野の中だけでは答えが出せず、時には自分の存在を賭けた行動が必要になる。 その典型例が謝花昇であろう。 〔謝花昇は琉球王朝の首府であった首里郊外東風平村の人、琉球処分後最初の 県費留学生5名のうちの只一人の平民として学習院に当初入学、途中東京山林 学校(駒場農学校と合併して、東京農林学校、後に帝国大学農学部となる)に 転じる。1891年ここを卒業し、沖縄最初の農学士となる。沖縄に戻って県技師 となり、農業振興のために努力したが、時の県知事、奈良原繁と衝突し、やが て野に下り自由民権の活動家となる。1901年、過酷な'情況の下における精神の 消耗、過労から発狂し、その後正常に復することなく1908年43歳の短い一生を 終える。 明治初期の農業技術者の技術水準と問題意識の例として本書に収録した謝花 の帝国大学における卒業論文「讃岐国糖業実況およびその改良策」は砂糖キビ の裁培、特に肥培管理の問題点について論じたものであって、今日の沖縄でも この論文の理論的な方針を適用する必要があるほど先駆的なものである。すなわ ち当時外人教師フェスカ等によって導入された、肥料の三要素理論を砂糖キビ の在来肥料に適用し、窒素と燐酸の比率が伝統的な肥料の配合では好ましくな いことを指摘している。現在の沖縄でも家畜の生の糞尿を砂糖キビへ肥料とし -81-

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沖縄大学紀要第8+〕(1991年) て使うことはあまり思わしくない結果をもたらしているが、窒素と燐酸のバラ

ンスを部分的な処理によって合わせれば、おそらく沖縄の水質汚濁源の過半を

占める豚舎の排水は肥料として利用できるであろう。またこの論文の中には静

岡県三保村の砂糖キビの裁培の記述があり、大蔵永常の「広益国産者」の砂糖 キビ適地論と考え合わせると興味のある記述である。 沖縄で最初に高等教育を受けた謝花昇と奈良原知事との衝突のきっかけにな

ったのは杣山払下げ問題である。沖縄県は廃藩置県に遅れること8年、1899年

にいわゆる琉球処分でそれまでまがりなりにも独立国(これより先の75年に「琉 球国」から「琉球藩」へと冊封されてはいたが)の形をなしていた琉球藩の壬 を東京へ護送し、その後強引な併合が行われた。ここで失業した下級士族は地 方に分散して開墾等に入ったが、この救済のために琉球王朝周辺の一部、貴族 やとりまき連中に広範囲の山林がただ同然に払い下げられた。察温以来沖縄の 山林の過剰開墾は常に濁水の流出によって農業を不安定なものにしたので、山 林の伐採開墾の現状について謝花昇は現地を調査し、現実が建前と合わないこ とから次第に奈良原知事の開墾政策に疑問を持つようになった。 県庁内部における謝花は配置転換の後昇任し、農事試験所長となるが、知事 との対立のため1898年についに辞職することになる。その対立の最初のきっか けとなったのが脚注部に引用した謝花の報告書である。彼はのちに自由民権運 動に奔走する中で田中正造にも接触し、国会での質問を依頼し、田中正造はそ れを実行している。 ともあれこの偉才を不遇のうちに若くして失ったことは沖縄にとって大きな

損失であった。以後長く沖縄は知的従属の中に沈み、第2次大戦と米軍支配と

いう二重の苦しみを味わうことになり、復帰後の今日もその回復を得られない。〕 ちなみに、この卒業論文の水準はかなり高い。今日の東大で、これだけのも のが書ければ、上位一割の中には入るだろう。田里修氏の最近の報告(琉球新

報1991.2)によれば、彼は最後まで農業技術者としての問題意識を持ちつづけ

た宮沢賢治と通ずるものがある。 日本共産党書記長であった徳田球一が沖縄出身であることを知っている人は、 -82-

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沖縄大学紀要第8ナナ(1991年) もう沖縄でも少数かもしれない。私たちの世代では、八方破れではあるが憎 めない大衆政治家として人気のあった「徳球」に関東地方の治水に関する論文 があることは、土木技術者の間では割合に知られていた。内容的にもその水準 は高い評価を受けていたと、先輩から聞いた記憶がある。今読み返してみると、 戦後間もなくの政治的熱気のこもった文章がなつかしく感じられる。さあこれ から仕事だぞ、という気合のこもった文章は、共産党だけではなく、曰常生活 の到るところにあった。 〔また戦後きわめて早く曰本共産党の日本再建案において「農業の将来につい て」と題する提案が出ていることも注目される。この文章は徳田球一がいわゆ る獄中18年の拘束の間に起草したことはほぼ確実である。18年間徳田球一が考 えていたことは利根川を中心とする日本の治水案である。この案については別 に徳田球一の「利根111水系の総合改革一社会主義建設の礎石」と題する詳 細な論文もある。自然条件と歴史的経過を重視している点でこの論文は先駆的 な意味を持っていたが、この考え方は日本共産党内でさえも当時の政権奪取第 一主義の中で忘れられてしまった。利根川の総合治水の提案が、田中正造が晩 年提案した利根111の東京湾江戸川流路の拡張案と一致しているのは興味深いと ころである。 占領軍による弾圧によって、このような現実を直視した政策を伸ばしてゆく条件 がないままに、権力を取れば全ての問題は解決するという政権奪取第一主義が、 その後も長く日本の左翼を支配し、現実の問題に取り組む習慣をなくしてしま ったことは残念であった。この頃はソ連の自然改造計画が曰本に伝えられ、技 術者の人気を集めていた。その巨大技術信仰は危険だが、徳田球一の考え方の 総合性には学ぶべきところがある。〕 これほど大胆な国士改造計画は、その後まともに提出されたことがない。今 曰まで、資本の論理にもとづいて、なしくずしに全国総合計画が何度かくり返 され、国土改変の規模は大きくなったが、その思想的な基盤は国土の切り売り から脱け出せない。また、その後日本の野党の側も、これだけの大きな構想を -83-

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沖縄大学紀要第8蹄(1991年) 提示することができなかった。この本を作るにあたって、日本の左翼野党陣 営の公害・環境問題に関する論説を-通り参照したが、徳田球一ほどの具体性 をもつ論文をみつけることができなかった。悪いことはすべて資本主義のせい で、権力を取れば明日にも正しい理論がすべての問題を解決するという中心テ ーゼを、手をかえ品をかえ繰返していたのが日本の戦後左翼であり、この分野 での論争はまことに不毛であった。例外として、庄司光・宮本憲一の「おそる べき公害」と、晩年の荒畑寒村の足尾鉱毒事件からつづく言論活動での行動のす すめがある。そして実質的な行動と理論化はむしろ地方の公害の現場で進められた。そ の中で得られた経験は、政治の経路を通らずに、主として人々のネットワーク を通じて伝えられた。その典型的な一例が、住民運動のピーク時に日本復帰を 迎えた沖縄であった。 〔戦後長く米軍に占領され、軍事基地として不沈空母の役割を果たしてきた沖 縄は1972年に曰本に返還されたが、この返還の前後から日本の資本は残された 手つかずのフロンティア辺境としての沖縄を工業開発の目標とした。その第一 歩は東海岸の金武湾に作られた石油精製工場とその工場のために作られた海中 道路であった。続いて広い金武湾の3分の2近くを埋め立てる巨大な工業地帯 の計画が発表され、基地経済から脱却しようとする当時の革新知事もこの計画 を支持した。その第二段として、石油精製工場を既有する平安座島と、これに 隣接する宮城島の間を埋め立てて、そこに石油備蓄基地を作ろうとする計画が 出発した。 この計画に地元で反対運動を起こした退職学校教諭の安里清信は、海中工事 によって破壊され、さらに埋め立てによって破壊が進行した金武湾のかつての 美しさを語っている(「海は人の母である」)。これは青年たちに語った安里清 信の話の聞き書きである。温帯とは違ったサンゴ礁を基盤とする沖縄の海岸部 の美しさと脆さをよく表現している上に、運動の中での地域の自活運動の重要 性を強調している。元来沖縄には字公民館という伝統があり、戦後何もないと ころから自分たちで作りあげた集会所である公民館が同時に自治組織の一つと して機能をしてきた。その自治組織を、開発を推進する行政に妨害されたこと -84-

(8)

沖縄大学紀要第8号(1991年) から、改めて自分たちの自治会館を作るきっかけとして、私が関与できたのは 光栄であった。この伝統は、新石垣空港の臼保部落の反対運動の拠点がやはり 公民館であることに見られるように、復帰後18年経った今曰1990年でも生きて いる。 また金武湾を守る会の運動そのものは革新県政の基盤を崩すものとして、革 新政党や労働組合の一部などから強い妨害を受けて、結局埋立て地は出来上が ってしまったが、その流れは新石垣空港の反対運動に引き継がれ、さらに沖縄 の各地でお上の言うとおりにはやらせないという運動が増えてきているのだか( 80年代を通じての沖縄の一つの新しい動きになった。12年後の1990年に県政を 奪い返した沖縄の革新勢力が、この教訓をどれだけ生かすことができるかは、 今後の課題である。〕 革新政権下で曰本に復帰した沖縄は、その行政のモデルを曰本の革新自治体 に求めた。このとき、美濃部知事の東京都政と、飛島田市長の横浜市政には微 妙な差があった。前者は制度としての公害防止条例に重点をおき、後者の方杁 より技術官僚の作る企業との協定に信頼をおくやり方であったが、沖縄は公害防止協定 に重点をおく横浜モデルを選んだ。住民運動の立場からすれば、自分の行政能力に自信 をもつ飛島田市長の善政主義と代行主義は、公害をppm論議にとじこめてしまう ものとして迷惑なものであった。沖縄の場合にはそれに加えて、行政能力の弱 体な県行政に、多くの技術官僚をかかえた横浜市と同様な期待をかけたことも 無理であった。そこへ初めて権力を手中にした革新政党や労働組合の保守化が 加わって、公害対策としては最も悪い組合せが出来上がってしまった。運動の 行動面では日本より進んでいた沖縄の状況は一変し、住民を排除して、出来も しないことを行政がかかえこむという形である。これが保守県政に引きつがれ て、公害曰本一ともいえる沖縄が出来上がってしまったのである。 しかし安里清信に代表される自然への畏敬は、白保の新石垣空港反対運動に 引きつがれて、遂に国際化するに到った。長い沖縄の歴史的な伝統が、現代に よみがえる可能性が見えて来たのである。沖縄の政治勢力が、この状況をつか み得るか、民衆の中に生きている自然への畏敬を、政策の基本におくことがで -85-

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沖縄大学紀要第8号(1991年) きるか、保守、革新を問わぬ課題となるだろう。特に4年間の革新県政が、公 害日本一の沖縄からどうしたら脱却できるか、注目して待つことにしよう。 これまでの二次振計などに関する交渉などで感じられることは、12年にわた る保守県政のもとで形成された、秘密主義と情報の不足は一朝一夕には改涛が むずかしく、特にl]分の足で歩いて,調べることがほとんどない点はやく変わっ ていない。沖縄の従属の膝史は400イド近いために、そこから脱却するにも長い 時間がかかるであろうことは-f想されるが、それにしても「Iらの欠陥を'1$〔視す ることがなくては、その改蕃の可能1Vtも/上れて来ないのであって、この点でii1I1 縄の知識人に課された責任は極めて大きいものがあるだろう。’111熱帯の'1然に 対して、温帯で発達した科学技術の適川できる範ljlHは忠ったより狭いものであ るらしいことが最近わかって来プこ。オニヒトデの異附発/tはその-|タ11である

(BirklandMarineBiology,処175-185,1982)。そこで、沖縄の場合

にも、既存の科学技術に依存するのではなく、llliiiの科学技術の体系を作りI= げなければならぬ。 しかも、アジアの''1で、’1前で科'学技術の独「1の体系を作り得る条件を持っ ているのは、科学者のゼロからの錘成の緤験をもつ1MKと|哲インド、部分(1リに マレー半島ぐらいのものであると山われろ;'[拠がある。これについては別のI幾 会に詳しく述べることにしたいが、|]本につながるIiil1縄には、有利な条件があ ることも事実である。 実は現在世界の注目を集めている地球環境の悪化も、原因は多数の特定地点 からの汚染物質の排出の集まったものである。これを地球人口のすべての責任 に拡散させてしまうのは、ずるいたくらみであり、発生源において手を打たな ければ、その解決策は見えないであろう。その点でも、沖縄で何がなし得るか、 何がなされるかは、小さな島であるだけに、世界の手本になるものである。そ の現場に私たちは立っている。 -86-

参照

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