アジア・アフリカ研究所とバンドン会議
著者
松本 誠一
著者別名
MATSUMOTO Seiichi
雑誌名
アジア文化研究所研究年報
巻
44
ページ
193(28)-204(17)
発行年
2009
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00009290/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja1.はじめに一研究所史と創立の頃 東洋大学アジア丈化研究所は
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(昭和3
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年にアジア・アフリカ研究所の名称で発足し た。それから2
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年で5
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周年を迎えた。この間 の研究所の活動記録としては,発足4
年後の1
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(昭和3
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)
年にアジア・アフリカ文化研究 所に改称してからは,ほほ全期間にわたり年度 ごとに記録が残されている。その記録は1
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年 度の『アジア・アフリカ文化研究所研究年報 (以下『研究年報』と略すH
創刊号(
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年刊 行)以降は,巻末のいわゆる葉報欄に掲載され てきた。『研究年報』創刊以前は.
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年度「ア ジア・アフリカ文化研究所日誌j.I
一九六四年 度 研 究 報 告 概 要j.I
一九六五年度研究報告 概要」がある。それはざら紙に印刷された,無 綴じものである。 これらを基に.2
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年に学術フロンテイアの 予算で購入されたドキュメントスキャナを利用 して電子化(画像ファイルをOCR
でテキスト 化)し,年表化する作業を始めた。そうした ファイルから一部を抜粋して略年表が作成され た。その最初のものが,横川伸所長(
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の時に作成された研究所パンフレット (日本語・中国語・英語版の3
種類)に掲載さ れた。そして,谷口房男所長(
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の 下で,データを補充し年表文言の校聞が竹内 洋介院生研究員の協力を得て念入りに進めら れ,谷口所長による巻頭文「創立5
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周年を迎え るアジア文化研究所j(
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年1
月付)を含む 全1
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頁の研究所パンフレットが作成された。そ こには「研究活動(摘録)jと題する年表が載松 本 誠
せられた。基になる年表からシンポジウム,公 開講演会,国際共同調査などを拾って載せたも ので,個々の研究員による発表が行なわれた研 究例会の記録は紙面をかなり増やさなくてはな らないのでカットされた。 こうした年表作成作業の間,研究所草創期に 本研究所の体制が形成されていく経緯に関して は,詳しい記録が残されていないので,どうい うことで、あったかと関心を持つに至った。筆者 は1
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年から研究員に加えてもらい,研究所創 立から2
0
年間は直接知っていない。研究所発足 時に名前の見える先生方の多くは鬼籍に入られ たので,伺う事もできない。恩田彰,高橋統一, 飯塚勝重の3先生は御健在,現役として活躍さ れているが,多少とも稿を成してからと思い, まだあまり詳しくは伺っていない。したがっ て,本稿は主に断片的な記録,回想、記などを元 に当時の状況をできるだけ再構成してみようと 試みるものである。 設立趣意書 ところで,研究所発足の4
年前.1
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年の4
月1
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日から2
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日にかけてインドネシアのバンド ンでアジア・アフリカ会議(バンドン会議)が 開催された。本稿では両者の理念の異同と関連 性についても検討してみたい。なぜ,こういう ことを問題にするかというと研究所に5
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年前 のアジア・アフリカ研究所の設立趣意書が保管 されていて,それを読んでみると,バンドン会 議の息吹も感じられるからである。その構想は きわめて雄大であるが,財政的裏付けがなかっ たためか,会計に関する箇所は未完成のままで1
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-
(
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あった[資料
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参照]。研究所5
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周年の現在, 草創期と比べて研究員数は大幅に増加し各研 究員が調査対象とする地域はずいぶん広がっ た。めざましく発展を遂げてきたとはいえ,5
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年前に広げられた大きな構想, 目標にはまだま だ届いていないように思われる。 「アジア・アフリカ」ないし「アジア」など を冠する国内の研究機関,法人等を現在,イン タ}ネットで調べてみると,以下の表ができ た。 表 日本囲内の「東洋J
I
アジアJ
I
アジア・ア フリカ」関係研究所等,創設年表 1872 日本アジア協会 (The Asiatic Society of ]apan.ヘボン,パークス,アーネス ト・サトーなどが創設) 1923 大東文化大学東洋研究所 1924 東洋文庫 1941 東京帝国大学東洋文化研究所 1952 学習院大学東洋丈化研究所 (1955アジア・アフリカ会議) 1957 財団法人アジア・アフリカ文化財団 1958 財団法人アジア経済研究所 国際基督教大学アジア文化研究所 立教大学アジア地域総合研究施設(ア ジア地域研究所の前身) 東洋大学東洋学研究所 1959 東洋大学アジア・アフリカ研究所(ア ジア・アフリカ文化研究所の前身) 1960 アジア文化会館(東京都文京区千石所 在) 1961 特定非営利活動法人アジア・アフリカ 研究所 亜細亜大学アジア文化研究会(アジア 研究所の前身) 1962 長崎大学東南アジア研究所 1963 京都大学東南アジア研究センタ」 1964 東京外国語大学アジア・アフリカ言語 文化研究所 1977 創価大学アジア研究所 1981 成践大学アジア太平洋研究センター 1982 上智大学アジア文化研究所 1984 慶鷹義塾大学地域研究センタ- (東ア ジア研究所の前身) 1987 大阪経済法科大学アジア研究所 1988 社団法人アジア協会アジア友の会 1991 大東文化大学現代アジア研究所 1996 東北大学東北アジア研究センター 1996 21世紀日本アジア協会 1999 中央アジア研究所(中央アジア・コー カサス研究所の前身) 2006 名城大学アジア研究所 財団法人アジア会館 これを見る限り, 1955年のアジア・アフリカ 会議以前は「東洋文化研究所」等が,I
アジア・ アフリカJ
を冠する研究所等は1955年以降の10 年間に創立された諸機関中に見られることが分 かる。東洋大学のアジア・アフリカ研究所およ びアジア・アフリカ文化研究所に限らず,バン ドン会議の影響がここに及んでいたとしても, あながち言い過ぎではないだろう。 福鎌忠恕(1)(ふくかま・ただひろ。生没年1916-9
1)は,この時期の東洋大学について,I
教 員に関しては一般教養の移転問題,職員につい ては事務的錯綜,学校経営上では莫大な財政的 難問を惹起していた。このような大学の危機に 当たって,初めは云わば自然発生的に,のちに は定期的に『学内体制懇談会J
が開催されるに 至ったJ
[福鎌 1990:lOJ
,設立趣意書の「執 筆者が誰であるか,私の知る限りでは確認でき ないが,上記の懇談会のメンバーの合意による 作成できることは間違いないJ
[福鎌 1990 :1
1
J
としている。懇談会メンバ}として,福鎌 忠恕は,大嶋豊学長(座長),千葉雄次郎,田 辺寿利,佐久間鼎,古野清人,馬場文翁,鈴木 栄太郎,鳥羽正雄,市村其三郎らを中心的メン バーとして挙げ,全体の幹事役を「米村先生」 [米林富男の間違いと思われる],横江勝美,実 194-( 27)務的世話役が福鎌自身であったと記述している [福鎌 1990 : 10J。学外で月 1固くらいの定期 的懇談会・会食を行ない,会費は各自自己負担 だ、ったという。この記述内容には,いろいろ問 題が含まれているが,大学の窮状を打開する一 つの策としてアジア・アフリカ研究所の創立が 立案されたらしいと思えてくる。大きな外部資 金の導入を目論んだものであろうか。 しかし大学財政は良くなく,研究所運営資 金は構想通りには行かなかった。 1959年からの アジア・アフリカ研究所の時期には次のように 低額な研究所費であった[船木 1967: 44J。 1960年度は予算額こそ大きいが,支出額はその 10分のlと異常な様子が窺える。この年の6月 には建設会社に東洋大学が約束手形を支払えな くなる財政状況に陥っている[東洋大学百年史 1995 : 152Jので,その背景が推察される。 1959年度 予算無し 1960年度 予算150万円 1961年度 予算10万円 1962年度 予算
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0
万円 1963年 以 降 予 算20万円 1966年度 予算22万円 支出8
万円 支出15,160円 紀要予算15万円 「設立趣意書」に沿った研究所活動は展開で きないとして.1963年度からはアジア・アフリ カ文化研究所に改称し,新たな研究所規定[資 料2
参照]が設けられた。その2
年後に大学附 置研究所規則が制定されるようになった[資料3
参照]。2
.
パキスタンとイクパル祭 「研究活動(摘録)Jの最初. 1959~1963年の 項によると.i
日本パキスタン丈化協会と共催 『イクパル記念祭J開催」がある。また.1963 年4
月20日の項に.i
パキスタン大使を招いて 『イクパル記念祭』開催」がある。このように, 研究所史の初めはパキスタンとの関係を保持し ていたことが明らかであるが,これは何故か。 また「イクパル祭」とは何か。 先ず.i
イクパル祭」とはムハンマド・イク ノfール (Muhammadlqbal.生没年1877-1938) を記念する祭りである。彼はアッラマ・イク ノtール (Allamalqbal)とも呼ばれる。イクパー ルは英国から独立する前のインドで詩人・哲学 者・政治家として活躍し 1930年代に英領イン ドからパキスタンの独立を初めて提唱した。ケ ンブリッジ大学,そしてドイツに留学して,西 洋の学問の影響を受けた上で西洋批判に傾いて いく。イクパールの誕生日.11月9日はパキス タンの祝日となっている。イクパールと親交の あ っ た , ム ハ ン マ ド ・ ア リ ー ・ ジ ン ナ ー (Muhammad Ali Jinnah. 1876 -1948)がイン ド・ムスリム連盟をまとめ,パキスタン独立は 1947年に英連邦を構成するー固として達成され るO ジンナーが初代総督となり.i
パキスタン 建国の父」と称される。 パキスタン史でのイクパールの位置は瞥見で きたが,東洋大学アジア・アフリカ研究所創立 期の関係者とイクパールとの聞に直接的な関係 があったのか。 『東洋大学百年史』の1955年4月21日に「パ キスタン協会・東洋民族文化懇話会,詩聖イク パル記念祭を大講堂で、開催(図書館にイクパル の著書寄贈)J [東洋大学百年史 1995: 132J とある。この日はバンドン会議の開催中 (4月 18~24 日)に当たる。 このうち「東洋民族文化懇話会」については 『東洋大学社会学部30年史]に「東洋民族文化 懇話会規約(案)Jが掲載されている[東洋大 学社会学部 1990: 11-12J。これを見ると, この会は「東洋諸民族聞の文化の交流並びに振 興をはかることを目的としJ
.
i
事務所は,東洋 大学院社会学研究室におかれる」とする条文を 含み,昭和30 (1955)年に起案されている。こ の規約案は故米林富男の遺品中のもので,米林 家から東洋大学百年史編纂事業に当たって大学 に寄贈された丈書の中にある。 どういう経緯でバンドン会議の最中に東洋大 195-(26)学でイクパル祭が開催されたのか。これについ ては直接的な手がかりを見出せないが,
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年 に東洋大学はイクパールに次の名誉学位を贈っ ている。 称号記 サー・ムハマッド・イクパル (一八七三一一九三八) 東洋大学名誉文学博士 の称号を授与する 昭和三十五年四月二十一日 東 洋 大 学 学 長 大 嶋 豊 第参号 Diploma Apr.2
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Sir Muhammad Iqbal Born: Feb.2
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Died: Apr.2
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This is to certify that the above-mentioned has been awarded the degree ofEMERITUS DOCTOR OF LITERA TURE by Toyo University, Tokyo, ]apan File No. 3 Y. Oshima{signed) Yutaka Oshima President Posthumous degree of Emeritus Doctor of Literature awarded to Iqbal by the Toyo University, ]apan 上の学位記に記載されているイクパルの生年 月日は,現在一般に示されているものと異なっ ている。 また,大学院事務室のファイルには
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年9
月にNHKアジア部の初野雅彦氏から寄せられ た手紙と英文図書 (Letters and Writings of Iqbal, edited & compiled by IQBAL ACADEMY P AKIST AN)からのコピーが保管されている。
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頁のその記事は名誉学位 に関する内容であるO 以下にその拙訳文を掲載 する。 日本の東洋大学がイクバールに文学博士を追贈 日本パキスタン文化協会は東洋大学でムハン マド・イクパール博士の没後2
2
年祭を催した。 東洋大学は近年続けてこの集いを開催してき た。大学は1
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年1
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月2
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日に,著名な仏教哲学 者,井上円了博士によって設立された。大学は 主に教養教育に携わっている。法学部・経済学 部・社会学部・文学部の4
学部がある。学生数 は5
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人 を 少 し 上 回 る 。 大 学 は ア ジ ア 事 情 (Asian affairs)に関心を持ち,強い関係 (high concern)を持つことで知られる。アジア・ア フリカ研究所という研究グループはアジア事情 研究者の間で非常によく思われている。戦前, 大学は図書館にムスリムの歴史・文化関係書を 約4
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冊有していた。これらの書籍は戦争に より焼失した。大学の現学長は以前,ムスリム の歴史・文化研究プロジェクトを指揮していた。 大学は故人に名誉文学博士号を初めて贈っ た。囲内の他の大学はラビンドラナ}ト・タ ゴ}ルやM
.K.ガンジーに学位を追贈したこと はあるが,東洋大学としては初めてである。 パ キ ス タ ン 大 使 が 講 演 (speech)を行い, イクパールの生涯の多彩な側面に光を当てた。 大使の講演に続いて,著名なウルドゥ学者,蒲 生教授, 日本ムスリム協会会長の今泉氏が講演 をした。蒲生教授は講演で, ヨーロッパ,西洋 文明の理解に努めるほど,ムスリムの歴史・文 化を近く,深く知る必要があると強調した。彼 はまた,イクパ」ルの初期の知識はヨーロッパ とその文化に向き,それから感銘も受けたが, そこから彼の心に新たな問題意識が生じ,イス ラムの宗教思想を再組織する試みへ導いた,と 語った。日本ムスリム協会会長の簡潔な講演で は, 日本の精神状況が空虚になっていることに 触れ,イスラムがそれを満たせるだろうという 考えを述べた。そして,最初に学生や学者がイ1
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(
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スラムの教え・原理に馴染むことが大事だと示 唆した。それは直ちにイスラム教を受け入れた り,改宗すべきだというものではない。 式典は
2
時間半に及び,東洋大学学長,大嶋 豊氏が司会をした。 上の文中の「蒲生教授J
は蒲生礼一(
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)
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I
今泉氏」はサデイーク・今泉で,1
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年発足,1
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年に宗教法人として認可された日 本ムスリム協会の初代会長であり,今泉氏はこ の1
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年に逝去している。 大嶋豊は1
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年2
月から1
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年まで,現在の 東京都新宿区にあった善隣高等商業学校(
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年に善隣外事学校と改称)校長を勤め,公職追 放に遭った。同校は1
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年,財団法人・善隣協 会によって設立された善隣協会専門学校の後身 で,同財団は内蒙古における医療・教育援助, 外地で働く人材養成を目的とした。善隣協会が 経営に関わっていた回教圏研究所に蒲生礼ーが 研究員として関わっていたので,大嶋豊自身も 蒲生礼ーと近い関係にあったと窺われる。大嶋 は1
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年1
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月から1
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年1
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月まで二期にわた り,東洋大学学長を務めた。東洋大学のイクパ ル祭は1
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年には始まっているので¥大嶋がイ クパル祭の提唱者であったかどうかは定かでな いが,学長でいた聞は熱心な理解者・推進者で あったかと思われる。 他にアジア・アフリカ文化研究所の研究員で あった内藤智秀(
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も関係していた 可能性が高いように思われるが,詳らかでな い。内藤には1
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年のアジア・アフリカ会議以 前に,東西両陣営に属さない世界の「第三勢力」 の動向を扱った論文が数本ある。内藤は山形県 庄内の余目町古関の玄通寺の生まれで,同じ庄 内酒田出身の大川周明(
1
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)
とは庄内 中学(現県立鶴岡南高校),東京帝国大学で同 窓である。内藤は旧制七高(鹿児島),大川は 旧制五高(熊本)と高校は別で、あった。東京帝 大では内藤は西洋史学科,大JlI
はインド哲学科 で所属は異なった。 パキスタンとの関係について小考を加えれ ば,1
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年にパキスタンが日本をアジア・アフ リカ会議に招請するよう強く主張したという事 実がある[宮城2
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1:
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J
。宮城によると, パキスタンはインドのリーダーシップが強大に なるのを恐れて, 日本を加えることで相対的に インドの勢力を抑える意図があった旨,解説さ れている。パキスタン独立の翌年,1
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年に日 本パキスタン経済協会(財団法人 日本・パキ スタン協会の前身)が発足しており,経済界が パキスタンとの交流を促進し文化交流面での 協力を東洋大学関係者にも求めたか,という想 像も覚える。第2
次大戦中に日本軍が進出した アジア各国との戦後賠償問題,平和協定が未締 結の国がまだ残っていた中では,国際舞台に復 帰できたことへのお礼の意をパキスタンに表す るという意味がこもっていたであろうか。前掲 の日本パキスタン文化協会と日本パキスタン経 済協会との関連の有無も分かつていない。 いずれにせよ,遅くとも1
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5
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年に東洋大学で 始まったイクパル祭りは,1
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年以降はアジ ア・アフリカ研究所の催しとして続き,1
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年 にアジア・アフリカ文化研究所となった4
月2
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日のイクパル記念祭には「講演と映画により記 念行事を飾った。パキスタン大使が出席され たJ
[アジア・アフリカ文化研究所1
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3
J
と あり,数年間継続された。1
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4
年度以降の研究 所日誌,活動報告には見えない。 1959~60年頃は「対外的にはイスラエル・パ キスタン・ガーナなどとの友好親善をはかり, 各種機関と提携して講演会などが開催された」 [船木1
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:
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3
J
とある。発足したばかりの 研究所はパキスタンばかりと交流していたので はなかった。ガーナとの関係については明らか な資料を見出せないが,イスラエルとの関係は 倉内史郎により,次章のような経緯が残されて いる。-197-(24)
3
.
イスラエル調査団 倉内史郎(2)によると,社会学科の「米林先生 がこれからの学問研究は世界的な視野に立って 進められなければならず,r
東洋J
大学は名称 からしでもアジア研究の拠点になるべきだと, つねづね説いておられた。さらに発展の緒につ いたばかりのアフリカ地域に早くも目を配り, これをも包含したアジア・アフリカ研究のセン タ}を設けたいとの干茸想を口に出されていた。 東洋大A.A
研の発端はこうした米林先生のア イデアにはじまるものであったと私は思ってい るJ
[倉内史郎 2000: 1]0r
米林先生」とは前 述の社会学科・米林富男のことである。 1958年の夏頃に,社会党筋からイスラエルで 聞かれる‘A
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への日本からの参加者を求めているという話が 伝わり,それを米林富男が東洋大学から参加者 を送り出そうと,r
東洋大学イスラエル調査団」 を作り,倉内史郎を調査団長に指名し文学研 究科博士課程民族社会学専攻の渡辺博史(3) 東 京教育大学坂戸農場主任の飛田徳三(4)助教授を 団員として送り出した[倉内 1-2J0 1958年 11月15日に飛行機で出発し, 1959年3月 7日に 帰国した。セミナーは1958年11月から1959年2 月までの2
ヶ月間行われた。倉内と渡辺はイス ラエルまでの片道航空券を渡されて行ったが, セミナー終了日までに帰国旅費の送金もなく, セミナー当局に旅費のない窮状を訴えて,ホス ト側の労働総同盟の理解と厚遇を受けて,帰国 できたという[倉内 3J。往復航空券を持って いた飛田は支障なく帰国していた。倉内と渡辺 の帰国はアジア・アフリカ研究所創立の2
ヶ月 前のことである。 倉内はアフロ・アジア・セミナーで知り合っ た印象深い人として,ナイジエリアのアヨリン デ父子,インドの青年・アプテ氏について記し ている。ガ}ナ人については言及がないが,そ のセミナ}にはアジアから5
カ国,アフリカか ら12カ国が参加しており,ガーナも含まれてい た。同行した渡辺博史か飛田徳三がガーナ人と 親しくなって研究所の交流に結び付けたもの か。 イスラエル滞在中はセミナーに参加するだけ でなく,イスラエルの実際を調査した。キブツ 調査も行なわれた。筆者は東洋大学社会学部の 学生であったときに,非常勤講師・渡辺博史先 生から「国際関係論」の講義を受けたことがあ る。 1970年度,木曜5時限であった。その際, イスラエルのキブツでの共同体形成の実践を, 理想的な新しい社会っくりのモデルのーっとし て注目し,そこを訪問,滞在したことがあると 聞いた覚えがある。併せて渡辺自身が東洋大学 社会学部の卒業生であること,学部在学時に国 連の国際関係に関する懸賞論文に応募して,当 選し受賞したというエピソードも耳にした。ま た,r
今や,アジア・アフリカだけの連帯では なくて,アジア・アフリカ・ラテンアメリカの 連帯が必要だ。エ}アラ(AALA)
の時代だ」 とこぶしを振り上げて,熱弁をふるわれたのを 覚えている。 1964年5月26日にアジア・アフリカ文化研究 所で「イスラエルアジア・アフリカ労働問題研 究所長アキパ=エゲール氏を迎えて『イスラエ ルのキブツについてJ
の公開講演会を聞いたj [船木 2000 : 43J。これは上記のような関係か ら答礼の意味もこめられていたろうと推察され る。4
.
アジア・アフリ力会議 アジア・アフリカ会議は「アジア・アフリカ 連帯会議J
,r
バンドン会議」とも称される。会 議はインドネシア・バンドンの独立記念館で開 催された。バンドンはジャワ島に位置しジャ カルタから南東へ100キロメートルほど離れた 高原盆地都市である。ここに独立記念館があっ たのは,インドネシア独立戦争時に1945年はス ラパヤで, 1946年はバンドンで,連合軍側と 戦った象徴的な都市[村井 1963 : 30Jだ、った からであろう。この独立記念館は日本軍政期に 198-( 23)は大東亜会館であったという[村井 1963 : 41J
。
2005年8月に,学術フロンテイア計画によ り,インドネシア・スマランに滞在していたア ジア文化研究所の西野節男客員研究員およびユ ニアルソ氏らの案内・同行を得て,筆者はバン ドンのアジア・アフリカ会議博物館を訪問する 機会を得て,同館で作成し,販売しているアジ ア・アフリカ会議に関する資料を少し入手し た。そのうちの同館案内リーフレットは, 日本 人訪問者も多いのに, 日本語版がないので,作 成してくれないかと館長さんより依頼を受けて いた。法学部の中国有紀助教の協力で本年ょう やく日本語訳ができたが,その一部の同館の由 来を説明している箇所は,以下のようである。 アジア・アフリカ通りに位置する独立記念 館は, 1895年,まず, ヨーロッパ人が集会な どで活用した場所であり,当初は, Societeit Concordiaという名称だった。 1921年,同館 は建築設計士ウオルフ・シューメーカー(c. P. Wolf Shoemaker) によって建設され, アール・デコ風の近代的な会館となり, レ ジャー施設として活用された。 1940年には, 国際的な建築デザインを取り入れて,建築設 計士のA.F. Aalbers(アールベルス)が改 造した。 日本軍政期には,同館は大東亜会館とな り,文化の中心とされた。アジア・アフリカ 会議の前には改築され,スカルノ大統領に よって独立記念館(グドゥン・ムルデカ. Gedung Merdeka)とされた。アジア・アフ リカ会館は,アジア・アフリカ会議の会場と して活用されただけでなく,以下のように, インドネシア共和国憲法会館 (1955-1959) として, また,国家計画会議 (1959年),暫 定国民評議会 (1960-71),アフリカ・アジ ア(アジア・アフリカ)イスラ}ム会議 (1965 年)などとして活用された。 1955年のアジア・アフリカ会議には鳩山一郎 首相の代理として,高碕達之助が団長をつとめ た。高碕団長以下,一行は次の13名を含む28名 以上であった。 高碕達之助 (1885-1964):国務大臣経済審 議庁長官 谷正之 (1889-1962):外務省顧問 加瀬俊一 (1903-2004):大使 太田三郎:ビルマ大使 朝海浩一郎 (1906-1995):公使 倭島英三:インドネシア公使 灘尾弘吉 (1899-1994):衆議院議員 高田儀三郎:石原産業顧問 植原悦二郎 (1877-1962):衆議院議員,民 主党 佐多忠隆:衆議院議員,社会民主党 曽根益.参議院議員,社会民主党 梶原成嘉:参議院議員,独立党 藤山愛一郎 (1897-1985):日商会頭 この中にアジア・アフリカ研究所と直接関係 を有した人物がいたかは明らかでない。 1955年アジア・アフリカ会議であの「バンド ン10原則J
(平和10原則)[資料4参照]が宣言 された。これによる「バンドン精神」はアジア・ アフリカ研究所規定の第2
条に凝縮された形で こめられていると解される。 1955年のアジア・アフリカ会議から25周年の 1980年4月24日に,スハルト大統領により,そ こにアジア・アフリカ会議博物館 (Museum Konperensi Asia Afrika)が開設され,現在に 至る。 2005年5月には50周年記念式典が挙行さ れ,日本からも小泉純一郎首相一行が出席した。 以上,研究所50周年の機会に旧アジア・アフ リカ研究所とバンドン会議の関連性について, 接近してみたが,まだゴールには届いていな しミ。 199-( 22)資料1.東洋大学アジア・アフリカ研究所設 立趣意書 アジア・アフリカの諸民族は,永い間欧米各 国の植民地としての犠牲と隷属を強いられてき た。つまり西欧文明の繁栄の陰には,こうした 運命に泣く多くの民族の血と汗が絞りとられて いたのである。この欧米への隷属からこれらの 民族を解放する道を聞くことは,実に世界史的 な大事業でなければならない。そしてこの大事 業に真先に火を点じたのは日露戦争における日 本の勝利であった。不幸にしてその後における 日本の歩みは,かならずしも後進民族解放の使 命に副うものではなかったし逆にこれらの民 族に犠牲を強いるような過誤を犯した場合もあ るとはいえ,結果においては, 日本の行動を契 機として,アジア・アフリカの諸民族は欧米列 強のきずなを断って独立の機会をもつことがで きたわけである。日本の敗戦は日本人自らをし てアジア・アフリカ諸民族と共同の立場に立た せ,これらの諸民族と提携して民族解放運動に 共同の戦いをなしうるに至ったことは,われわ れにとってむしろ絶大の感激を覚えるものでな ければならない。 アジア・アフリカの諸民族がやがて自主独立 と繁栄の道を辿ることは歴史の必然であろう。 しかし現在のアジア・アフリカは決してそ の準備ができているとは考えられない。むしろ 準舗未了のままに,今次の戦争を契機として独 立しあるいは独立しようとしている民族が大 部分ではあるまいか。しかもこうした契機をつ くったのが日本であったとすれば,アジア・ア フリカのいわゆる,後進民族解放に対する日本 民族の責任は重大で、あるといわなければならな い。のみならず,全アジア・アフリカの自主繁 栄のうちにのみ日本の自主繁栄があり,全アジ ア・アフリカの解放のうちにのみ日本の運命の 開拓が約束されていることを思うとき,われわ れは改めてアジア社会近代化の最大最高の経験 者である日本の使命の重大さを痛感するもので ある。 民族の独立とアジア人の自覚を促すことを建 学の精神とするわが東洋大学においてはこの 「護国愛理」の精神にもとづいて,アジア・ア フリカの指標を日本の指標とし日本の指標を アジア・アフリカの指標として,アジア・アフ リカの近代化を妨げる一切の障碍を克服し新 興諸民族の自主繁栄のための建設方策を探求す る目的をもって,ここに東洋大学アジア・アフ リカ研究所を設立するものである。 東 洋 大 学 長 アジア・アフリカ研究所 第 一 章 総 則 第一条 東洋大学に東洋大学アジア・アフリカ 研究所(以下本研究所)を置く。 第二条 本研究所は東南アジア,中近東,アフ リカ,その他の地域の政治,経済,宗教,民 族,社会文化教育等の実態を研究,調査し その成果を発表し友好,親善の増進を図り, 相互の繁栄に寄与することを目的とする。 第三条 本研究所は必要に応じて日本・および アジア・アフリカに支部を設ることが出来る。 第 二 章 事 業 第四条 本研究所は第二条の目的を達成するた め左の事業を行う。 一,東南アジア,中近東,アフリカなどの諸 地域圏における現地調査,研究 二,研究,調査の指導及び助成 三,右記諸地域における調査,研究,に必要 なる資料の収集整備 四,同地域への移民,技術協力実施並びに開 発協力等平和的発展に必要な専門家,技術 者の派遣また技術研修生・留学生の受入斡 旋および業務の受託 五,同地域への移民,派遣調査,研究員,技 術者の教育を行う 六,各前項の成果発表のため,研究会,講習 会の開催および出版事業 七,教授,学生の交換 -200-(21)
八,その他目的達成に必要な事項 第 三 章 会 員 第五条 本研究所の目的に賛同し,規定の会費 を納入し積極的に本研究所の事業に協力す るものを会員とする。 第六条会員は左の四種とする。 一,維持会員(経済事業を営む法人) 二,団体会員(経済団体,文化団体およびこ れに準ずる機関) 三,個人会員(本会の目的に賛同するもので あって本会役員の推薦する個人) 四,特別会員(外国人,外国法人,またはこ れらによって組織された団体であって前各 号のーに該当するもの
2
維持会員および団体会員は会員権を行 使するものー名を本会に通知しなければ ならない。 第七条 会員はそれぞれ左の会費を負担する。 第八条 会員は本研究所主催の会合に出席し刊 行物の配布を受ける外,本研究所を優先的に 利用することができる。 第九条会員は理事会の承認を得て脱会するこ とができる。 第十条理事会の議決による除名 第十一条会員は左の権利を有する。 一,議決権二,事業,財産の状況について 理事の説明 第 四 章 役 職 員 第十二条本研究所に左の役員をおく 会 長 一 名 副会長 若干名 理事長 一 名 理 事 若干名 監 事 若干名 評議員 若干名 第十三条 会長,副会長,専務理事および常任 理事は,理事の互選によってこれを定める。 2 評議員は会長が委嘱する。 3 理事および監事は評議員会において選出 する。 4 理事長は理事の互選とする。5
専務理事一名および常務理事 名は理 事長の指名とする。 6 会長並びに副会長は理事会の推薦とす る。 第十四条役員の任期は二年とする。但し重任 を妨げない。2
本会の役員として不適当であると認めら れる者は,その任期満了前にあっても総会 の議決によりこれを解任することができ る。 第十五条 理事長は本研究所を代表し所務を総 理する。2
専務理事は理事長を補佐し理事長事故あ るときはその職務を代理する。5
監事は本研究所の業務および会計を監査 する。4
評議員は理事長の諮問に答申しまたは意 見を具申する。 第十六条 理事長は必要ありと認めた場合は顧 問および参与を委嘱することができる。2
顧問および参与は理事長の諮問に応ずる ものとする。 第十七条 理事長は本研究所の目的達成のため 研究員を置き,事務処理のため職員をおくこ とができる。 第 五 章 会 議 第十八条 会議は会員総会,評議員会,および 理事会に分ける。 第十九条 総会は通常総会および臨時総会に分 ける02
通常総会は毎年事業年度終了後二月以内 に聞き,臨時総会は左の場合にこれを開 く。 一,理事長が必要と認めたとき 二,評議員の三分の二以上から会議の目的を 示して請求のあったとき 第二十条 会員総会は理事長が七日前までに会 議の目的である事項を示してこれを招集す る。 -201一(20)第二十一条 会員総会には左の事項を附議す る。 一,定款の変更 二,評議員会が会員総会に附議するものと決 定した事項 三,その他理事長の必要と認めた事項 第二十二条 会員総会の議長は理事長がその任 にあたる。 第二十三条 総会は会員の過半数が出席したと き,成立し,出席者の過半数をもってこれを 決する。可否同数のときは議長がこれを決す る。 第 二 十 四 条 評 議 員 会 予 算 会費,負担金 第 六 章 会 計 資産から生じる果実 事業に伴う収入 第 七 章 解 散 , 清 算 附則 事務組織,および職員に関する規定はこれを定 める。 資料2. 東洋東学アジア・アフリカ文化研究所 規程(昭和38年4月 1日施行) 第1条 東 洋 大 学 ( 以 下 本 学 と い う ) に ア ジ ア・アフリカ文化研究所 (Asia-AfricaC叫tur
a
1
Research Institute of Toyo University 以 下「本研究所」という)をおく。 第2条 本研究所は.アジア・アフリカ地域の 文化の諸相について,基礎的かっ総合的な研 究調査をおこない,その成果を発表しこれ らの地域との友好・親善をはかり相互の繁栄 に寄与することを目的とする。 第3
条本研究所は,前条の目的を達成するた め,つぎの事業をおこなう。 (1) アジア・アフリカ地域の文化に関する研 究および調査 (2) 必要な資料の収集整備 (3) 研究調査の指導および助成 (4) 研究成果の発表および研究会・講演会・ 講習会などの開催 (5) その他必要な事業 第4
条 本研究所につぎの役員および職員をお く。 所 長 I名 運 営 委 員 若 干 名 研 究 員 若 干 名 助 手 若 干 名 事務職員 若干名2
所長は研究員の互選により選出し学長が裏 議し理事長がこれを委嘱する。 3 運営委員は研究員の互選により選出し,所 長がこれを委嘱する。4
研究員は本学専任の教員で,アジア・アフ リカ地域の文化の研究に従事し,研究所にお ける研究の分担を希望するものにつき,運営 委員の協議を経て所長がこれを決定する。た だし特別の事情ある場合は,運営委員会の議 を経て,専任教員以外のものを研究員とする ことカ宝できる。5
所長・研究員の任期は2
カ年とし中途よ り就任の場合は,次期の改選までを任期とす る。ただし重任を妨げない。6
所長は研究員の任期満了の1
カ月以前に運 営 委 員 会 を 招 集 し 次 期 の 研 究 員 を 決 定 す る。7
助手は本学助手と同等以上の有資格者中よ り,運営委員会が選び,所長の推薦を経て学 長が菓議し,理事長がこれを委嘱する。 8 事務職員は本学職員に準じ,所長の推薦に より学長が菓議し理事長がこれを委嘱す る。 第5
条 所 長 は 本 研 究 所 を 代 表 し 所 務 を 総 括 する。 2 運営委員は所長の命をうけ本研究所の運営 に従事する。3
研究員は所長の命をうけ,研究その他の事 一202-(19)項を分担する0 4 助手は所長の命をうけ,研究その他の事項 を補佐する。
5
事務職員は所長の命をうけ,事務に従事す る。 第6
条 本研究所の運営に関する事項を審議す るために運営委員会をおく。2
所長は随時運営委員会を招集して,その議 長となる。 3 運営委員会は委員過半数の出席により成立 し,出席者3分の2以上の同意により議事を 決定する。 第7条 本研究所の経費は本学の予算およびー 般の助成金・補助金・寄附金その他をもって これにあてる。 2 本研究所の経理は本学の経理の例による。 第8
条 この規程の改正は,運営委員会の議を 経て,本学所定の手続きをとり,理事長の承 認を得るものとする。 附 則 この規程は,昭和3
8
年4
月1
日から施行する。 資料3.東洋大学附置研究所規則(昭和40年4 月23日施行) 改 正 昭 和40年4月26日 昭和41年4月7日 昭和62年4
月1
日 平成8
年4
月1
日 第1条 東 洋 大 学 に 学 術 お よ び そ の 応 用 を 研 究 し 世 界 の 文 化 に 貢 献 す る た め に 附 置 研 究 所 (以下「研究所J) という)を置く。 第2条 研 究 所 の 設 置 に つ い て は 学 長 が 次 の 各 号の事項を記載した書類について学部長会議 および大学協議員会の意見を聞いて理事長の (6) 研究成果の報告方法 (7) 設置年月日 (8) その他必要と認めた事項 2 前項各号の変更は第1項の手続きを経なけ ればならない。 第3条 前 条 第1項第3号の所員および研究員 については本学の教授,助教授,講師および 助手をもってこれに充てる。ただし学外から 専任または兼任の所員および研究員を置くこ とができる。 2 所長については学長が所員会議学部長会議 お よ び 大 学 協 議 員 会 の 意 見 を 開 い て 申 し 出 て,理事長がこれを任命する。 第4
条 前条第1
項の但書の所員および研究員 の任免給与および定年等の処遇についてはす べて本学の教員の規定による。 第5
条 所 長 は 研 究 お よ び 事 業 の 状 況 を そ の 年 度終了後2
ヶ月以内に学長に報告しなければ ならない。 第6
条 研 究 所 の 廃 止 に つ い て は 所 長 が 所 員 会 議の決議を経て学長および理事長に届出なけ ればならない。 第7条 学長は研究所相互の連絡調整のため所 長会議を招集することができる。 第8
条 研 究 所 の 経 理 は 大 学 の 経 理 の 例 に よ る。 第9条 研 究 所 の 総 括 事 務 は 学 長 室 の 分 掌 と す る。 第10条 この規則の変更は所長会議および大学 協議員会の意見を聞き理事長の承認を得るも のとする。 承認を受けなければならない。 附 則 (1) 目的 1 この規則は,昭和62年4月1日から施行す (2) 研究および事業 る。(
3
)
研究所員(以下「所員」という)研究員2
この規則施行の際現に存する研究所につい および事務職員(以下「職員」という)の で は こ の 規 則 に よ り 設 置 さ れ た も の と み な 構 成 す。 (4) 所員会議の構成および審議事項 附 則 ( 平 成8年規程第104号) (5) 会計および予算 この規則は,平成8
年4
月1
日から施行する。 203-( 18)資料4. DASA SILA BANDUNG (バンドゥ ン