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隆 ( 訳 ﹀ 67一一『奈良法学会雑誌』第2巻4号 (1990年3月〉 目 次 第 一 一 編 私 法 に お け る 普 遍 的 な 法 原 則 の 現 象 形 態 と 法 思 想 の 現 象 形 態 第 一 章 題 目 の 限 界 と 青 山 味 第 二 章 法 律 学 的 な 原 理 の 力 の 場 と し て の 裁 判 官 に よ る 法 の 形 成 ︿ 以 上 第 一 巻 四 号 ) 第 三 章 我 々 の 問 い か け の 提 起 に と っ て の 比 較 法 の 意 味 の た め に 第 四 章 普 遍 的 法 原 理 の 概 念 と 本 性 に 関 す る 暫 定 的 仮 定 ( 以 上 本 号 ﹀ 第三章 我 々 の 問 い か け の 提 起 に と っ て の 比 較 法 の 意 味 の た め に 若干の法域の体系による水平的区切りが、はじめて、法原理は普遍的な意味を持つのか、あるいは、単に特殊的な意味をもつに すぎないのかどうか、法原理の特殊な役割りは垂直的区切りによる特定の実定的な法把握において法形成事象にそって一不されるこ とができるかどうかを認識させる。それまでは、いかなる範囲まで法における根本原理は││ここでは民事法とコモン・ロ l に お ける││文化民族(常設国際司法裁判所の定款第三八条第一項第三号の意味における﹁文化民族﹂)にとって実際に﹁共通の﹂法原 理であるか、また、いかなる範囲までそれらは単に実際的にのみ競合するかということは全く疑問のままにとどまっている。他面第2巻4号一一68 において相異る国民的な組織原理または構造原理のもとにおいてもまたそれに対応して変遷した個々の制度の基礎に同じ法思想が 到なっていることもある。歴史的に条件づけられた構造上の実定的な体系の相違性を共通に承認された規制的かっ内在的な原理をめ S ( 町 田 ﹀ ざして照らすことは徹底して実際的な比較法の課題であり︿閤際私法の法性決定の問題を参照)、このことは、このような原理が ひとしい条件のもとでひとしい意味をもって登場する問題性に際して現実に比較可能な﹁法の背後にある法﹂を形成しているのと 同様であ一明このことは、あたかも共通の原理が単に自然法学派の意義において﹁必然的なもの﹂として﹁人間の本性﹂から演縛 されるようなものではないが││この共通の原理は社会生活の変種によって共通に決定される
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、具体的な実定的制度は国民的 ー ハ 回 却 な解決の詳細なことからひとしい課題における原則と機能のひとしいことに到るのである原理の各々の﹁非歴史的な﹂比較に学 問的に疎一摘する主たる原因は人間的な﹁本性﹂﹁から﹂のあの理性法的な思弁への反動のなかに存在し場つねに固有の法文化の 根本概念は自然法、すべての人が所有するものに一致するという表象は成果のあるものである。そのことを万民法のロ l マ 的 な 基 本的把握と近代的な基本的把握が示している。残念ながらこのことはたしかに非歴史的に規制された概念実定主義によって述べら れていなくて、この実定主義は実体的原理を思考に必要なものと考えるのではなくして、その国民的な法の教義学的な構造を思考 に必要なものと考えるのであり、また、社会発展を通しての継続的変化、したがってまた、事実上の発展を無視するか、または、 それらをその答案を免れた自然のたわむれと主張するのである。当該の制度は﹁民法典﹂または﹁ドイツ法﹂には知られていない というような論拠の出発点は学問的な視野としては完全に役に立たないものである。しかし、この出発点は法典化された法のもと A U 幻に非歴史的にしまいこまれた思考のなかのみならず、伝統主義的なコモン・ローのなかにも見だされる。同様に、例えば、ィギリ ス 法 に お け る 、F
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年以前にはい かななる障碍をも意味しなかった、今なお通用している約因理論の出発点も同様に非歴史的であった。その理由は、この理論は、 約定、動産返還請求訴訟、金銭債務にもとづく古い訴には知られていなかったからである。 普 遍 的 な 法 律 学 は 、 ﹁ 法 律 学 的 な 原 理 論 ﹂ ( 呂 町 ユ 山 口 問5
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は規則性にもとづき、またこの規則性は事物に条件づけられた 共通性によって各々の法形成へもちはこばれるということを正当に認識してきた。この法律学はこの共通性の基礎を法律学的な概 念世界の平面で探し求める誤りをおかしたにすぎないのであり、確固とした問題提供と解決への概念世界の関係をこの法律学はさ ( 川 四 ) らに追求しなかったのである。それとともに歴史学派によって発見された機能関連はその生命を失った。この機能関連は化石とな69一一ヨゼフ・エッサー『原則と規範』同 って単純な概念のカタログ、いい換えれば、記号のカタログと化しい明この概念的に方向づけられた実証主義の意義において法の 形式的な構造原理をとらえることに﹁学問的に﹂限定することは、その場ム尺比較法に対しても機能的に等価の制度のもとでの共通 ( 川 出 ) の前法律学的な要素への視線をさえぎった。
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以来、ウィーン学派の時期に至るまで、これらの原理は﹁自然法﹂として 役に立たないと宣言され、﹁したがって﹂切り離されるのである。ここから国内有σ
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以来否定された普遍的な万民法の概念は ハ間山) 構造的な、また、機能的な比較法の、今なお、さえぎるもののない平面の上でのみみつけだされる。ここで、すなわち、このよう な比較法の歴史的な構造において異っている基本的な形相も、例えば、︿巾円仲円高一との。三円印n p
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仲は譲渡であるが、請求権の譲渡ではなくして、法律 関係の譲渡である。ロ17法におけると同様に、契約関係は、長い問、人的権利の譲渡に対立した。フランスが第一一一一世紀以 来知っており、また、フランス民法第一六八九条、第二ハ九一条第三項において債権売買として規律するところのものは、我 が法でいう﹁抽象的﹂譲渡と教義的にも車内っていることはもちろんであるが、譲渡は相変らず更改を意味しており、﹁債権は第2巻4号一一70 譲渡され得ない﹂という原則は、やはり、コモンローであり、単に実際的に一八七三年以来(裁判所法第二五章第六以下参 照)無差別に適用されることができる衡平法を通して意味のないものである。しかし、一九二五年以来(財産行為の法律、第 一三六章)法律においてもあの原理への公的侵入が存在している。 技術的意義における相違に関するかぎり、裁判所法は他の国、
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こそ契約ではなく して、トラストである。この国でもフランス(フランス民法第一六九O
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九六条、スイス債務法第一九六条以上、スペイン民法第一五二六条l
二七条は原理からのみみちびか れ る の で あ る 。 沈黙﹁何人も自己の過失を抗弁に供することを得ず﹂、及び﹁本来の事実に反する言及﹂の法思想としての多様な効果をと もなっている失効及び﹁法廷外の禁反言﹂の機能の平等と原理の近親性のためには第一八章以下を参照。実際的な到達距離は、 しかしながら、意思表示の際の信頼保護をもとらえ、また、善意不実表示の際、別異の保護形式に代るのである。即ち、意思 表示者は反証をあげて覆し得ない﹁権利推定﹂によってこれらの事実を否認することは禁止されており、これらの事実は、表 意者の明らかな表示から発生するのであり、たとえ、これらの事実が必要な、明示の表示から生じないとしても、また、反対 ( 釘 ) のことを結論に定めているとしても変ることはないのである。 沈黙は、以前の能動的な容態が話すことを命じたときにのみ、この衡平法上の救済方法を与える。 HC 吉 田 C ロ 4 ・P
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・ぉ・﹁話すための権利と機会は存在しなければならないし、加うるに、そうする債務、 もしくは、義務も存在しなければならない﹂とあまり概念的に厳格でないアメリカの実務家がこの原則を我々の教義の意義に ︿ 同 四 ) おいて精密に文言化している。 ( 川 町 ) ここでは、その場合、我が国とは異なって、取得時効もしくは沈黙はひとしい基礎の隣人制度である。 我々はここによい事例を持っている。それは、歴史的に狭い制度(例えば、狭義における失効のための制度、 S.33 ﹁ 際 怠 ﹂ の 失71一一ヨゼフ・エッサー『原則と規範』同 効のための制度﹀を完全に後方に押しやり、また、法倫理的思想をも全く異る体系から適当に実現するこのような思考の膨張 力のための事例である。このようにして、この禁反言の理念は双務契約問題のような異質な問いかけを不能によって不利益を ( 川 川 ) こうむる者の自己責任のもとで解決し、あるいは、あきらかでない代理意思の成り行きをひとしくよく、また、驚くほどに、 ( 削 ︺ 我々の民法第三二四条あるいは第一六四条第二項の特別規定と同じ結果をもって解決している。そして、すべては構造上単純 ( 問 ) な証拠規則としての事例である。 実体法上の位置づけの教義学上の外観上の障碍を、既に、円。問。回 0 4 司自ムが上述の事案ド 0 当 対 ∞ OC42 日 刊 に お い て あ き らかに述べた。﹁あなたは訴訟を禁反言にもとづいて創設することはできない。﹂と。ここにおけると類似して、今や、構造範 囲は、それ以外においても、ひとしいかもしくは類似の法の基本思想のもとで互に交互している。約因は原因概念のなかでは
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﹀ 発生しないが、双務契約原理のなかでも約因は消滅するものでもないし、したがって、相異る結果はひとしい傾向のもとにお いても避けられないものである。だからして多数のまずはじめに不合理と思われる帰結が存在し、この帰結が徹底して、別異 であるが、我々にとって固有の観点から正当化されるということは、いっそう思いを深くさせるのである。このようにして、 ( 川 ) 例 え ば 、ω
己 保 対 冨 背 広 W の決定は、我々の文献がこの決定の理論を設定しているように、私には全く不思議であるとは思 われない。我々はまた、その逃亡した同僚のためにその代役をつとめながら義務をつくした水兵に要求された特別俸給のため の訴を与えなかったが、それは、約定に原因が欠如していた、という理由づけをもってするのみではなかった。さらに、コモ ( 問 ) ン ・ ロ l において第三者のための契約は欠如しているが、それに代る多数の異質の救済方法は教訓のゆたかなものであり、ま た、この救済方法のもとで、いかに、返還(不当利得)の問題のもとで信託、もしくは、法定信託が主たる役割を演じている ( 川 ) かは教訓にみちている。 4 ( 川 ) ( 川 ) ;契約法におけるように、体系の同化のための緊急の統一の必要が押し迫らないところでもまた、我々のために根源的なものにお q u ける著しい一致が目的的に同義の制度の一賞する原理を見ることを開くのであり、この制度は我々に比較法的な制度論を機能から あきらかにするのである。そのための出発点が、既に述べたように、国際私法を発展させたのであり、ここでは、本国法につきそ のおりおりに単にフランス的な形相、アングロサクソン的形相、または、ドイツ的形相が存在するとしても、いかなる唯一の法概 念をも本国法は持つことはできないのである。さて、しかし、多数の個々的制度によって世界法的原理の意義における有効な一致第2巻 4号一一-72 5 ( m v j が示されるのみならず、外国法の各々の適用は﹁自然的な正義の原理﹂による外国法の機能意味の理解にもと e ついており、これな ( 川 ﹀ くしてはいかなる裁判官も当該制度が法廷地法にとって本質的に合わないものであるかどうかを決定することはできない。したが って、その基礎の上に実定的な国民法的制度の承認と法性決定が行われる普遍的な法表象は法現実の一片であり、これは、たとえ つねに形式的に法性決定問題に対する、いわゆる法廷地法の支配が構成されうるとしても、国民法的な狭さの彼方に存在するもの であ鵠ここに世界法のための構造的に独立した法原理の具体的な意味がある。だからして、ここから、宇宙的な教理のみならず、 たとえつねに歴史的な構造が区別され、また、歴史学派と裁判所が﹁外国法の支配﹂に対してさからおうとも、﹁超国民的な概念 装置﹂が形成される。統一的な教義学的概念はこのような発展がっくりあげる最後のものであり、その理由は、つねに、技術的│ 公理的な固定は﹁原理的なもの﹂における物的一致に大きい距離をおいて追随するのである。これは自明のことである。 他の存在の証明は、国民の共通の法の事実と承認、すなわち、﹁文明化した国民によって承認された法の一般原理﹂の国際法的 意味のなかにある。ハ I グ常設国際可法裁判所(または国連の司法裁判所﹀の定款第三八条第三号はこれらの原理を国際法上の契 8 0 日約と国際法上の慣習法にしたがう国際法の法源と名づけているが、しかも、先例の有する副次的霊源に優越する順位をもち、また、 ハ
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公平による任意の決定の授権に対して完全に独立している。したがって、ここには真の法秩序が存在するのであって、単なる列挙 門 出 ﹀ は存在しない。この法秩序のなかで法原理はそれ自体いつもとらえられていなくて、すべての法源の以前に名をあげられた地位を 取っており、この地位は︿刷局 U H N。 ∞
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由 ﹀ NC 叶・に関していえば実定的意義において﹁民族の共通の法﹂に高められた、普 遍的に承認された法原理、あるいは、物的に重なりゆく国民的な法原理と区別されるのである。後者は取引法のなかで妥当するに すぎなく、その理由はこの国民的な法原理は一致して個々の法において、実定法秩序の一部として妥当する。しかし、その場合、 ( m v それらは第一の国際法の法源であり、今なお現代の国際法の教科書で読むことができるように、第二次的な国際法の法源ではない。 ( 市 ) それに反して、古典的ドイツの把握、すなわち普遍的法原理は国際法上の契約に対して優位を持ち、第三八条第三号による一般的 原理が問題であるのではなくして、国際法自体の基本原理││例えば、中立原則が問題であるところでのみ正当化される(しかし、 中立宣言は単に一方的な性格を持つがゆえに、裁判所が﹁契約﹂は優先する、と決定したところでは、不運な混同である)。第三 八条第三号に列挙された実定的な国民の法の原理は、第三番めにはじめて効力があるのであり、これらの原理が﹁文化国民によっ て承認されて﹂いるがゆえであり、また、その範囲においてのみ効力があるにすぎない。混乱は、﹁承認された﹂制度をいつも無 差別にとりあげることのなかにある各々の体系的な観点の欠如によってうながされる。承認された制度(例えば、遅延利息、時効、73一一ヨゼフ・エッサー『原則と規範』同 緊急避難、訴訟費用の補充のように)は、真の国際法的原則と並存し、また、第三八条において言及されていなくても国際法の構 ' t 日成要素である法的に必要な原則︿例えば契約は守られなければならない、権利濫用の禁止、﹁既得権﹂の原理、既判力原理﹀と並 存し、そして、最後に、純粋に問題解決に役立つ規則ハ例えば、解釈規則、立証責任規則、何人も、自身がもつよりも多くの権利 を他人に移転することはできない、というような﹁法律学的論理学﹂の規則﹀、常設裁判所(また、一部は、既に常設仲裁裁判所) によってすべて区別なく実定的な国際法として適用され、また、今や、同じく混然と教科書のなかにある問題解決に役立つ規則と ハ 凶 ) 並存している。限界づけは、じっさいに、困難である。その理由は、多くの原理は、例えば、法取引における信義誠実の原理、あ るいは、過失相殺、あるいは、所謂利得思想は、歴史的に実定的な詳細なことから発生しており、また、しかし、今日の法倫理か らみれば、自然の理法という公理の序列を取っている。それにもかかわらず、教義学的に、また、実践的に、提案された区別は欠 ハ 町 ) か さ れ な い も の で あ る 。 ( 問 ) 法原理は第三八条第一項第三号にあげられており、国際法原理ではなく、またそれとともに民事法原則もまたここで可能な法源 としてとり扱われるのではなく、しかも、文化国民本国の法廷におけるこれらの原則の実定的妥当により自然法的原理、前提、絶 ( 削 ) 対要件としてとり扱われるのではない。種々様々に構造づけられた国民に関する法の下におけるひとしい実定的整理の一致は、広 ハ
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判所の実践によって純粋に規則第三八条第三号の継受規範の助けをもって使用されている。一方では、まさに民事法秩序は共通に 妥当する教理と問題解決に対して高く関与しており、これらは構造を異にする大陸法集団とア γ グ ロ サ グ ソ γ 法集団へ基本表象と n y 幻してはいりこんでいるということは驚くほどのことではない。それゆえ、この部分を持つ私法は公法の発展のためのすぐれた化粧 ︿m
﹀ ︿ 邸 ﹀ 部屋であり、また、それこそ国際法においても変遷根拠である。密度の少い間際法、問題解決にしたがって整理され、特定の体系 にしたがって整理されていない構造を持つ国際法は、教理と教理によって発展させられた普遍的原理及び格率に園内法、殊に法典 化された法よりもより高い有効度とより広い自由判断の余地を与えているにすぎない。じつに、人々は普遍的法原則の機能のなか でまさに二つの段階を区別しなければならないであろう。すなわち、法典編纂前の段階と法典編纂後の段階である。これら二つに おいて原則利用の方法もまた種々さまざまであり、また、我々は判例法と制定された法のもとにおける法発見の過程において規範第2巻4号 74 を形成しゅく事象のなかでの原理、または、﹁思想﹂の役割を分離して考察しなければならないであろう。 このようにして、全部で我々の研究のために三つの思考方向が生ずる。一、私法秩序の構築における法原理、二、裁判官による 発展形成における法原理、しかも、料、法典化された法における法原理、刷、判例法における法原理、一二、若干の体系の間にある 場のなかの法原理、とくに、制度上の比較法の基礎としての法原理。その際、我々は、私が既に述べたように、裁判官による法の 発展過程における法原理の現実の機能を今目的法(現に働いている法﹀形成のための基礎として注目するであろう。使用の種類及 び使用目的からのみある現実的なことが法原理の沿革と運命につき言明されるし、また、実際的に比較の価値を有する類型学もし くは分類がうみだされる。 第四章 普遍的法原理の概念と本性に関する暫定的仮定 国際法と国際私法のなかにある問題状況に眼をやることは我々に若干のことを教へてきた。たとえ実定的な秩序の原理が実体的 な法秩序の一部であるとしても、もしくは、裁判官による法形成の思考原理、及び、論理操作の一部であるとしても、それを﹁単な A U 一いる﹂法倫理的原理から分離することは最初から可能ではないであろう。分離の糸が、整理の﹁学理的な﹂原理と我々が問題に条件 づけられたものとして、したがって、制度に必ず﹁内在的﹂のなものとしていいあらわす原理との聞にひかれうるのはより一層困 難であろう。そうだとしても我々はすくなくとも切れ目を捜さなければならないであろうし、この切れ目が単純な前提または﹁指 針﹂を現行の法秩序の実定的・拘束的かつ裁可的(検査!﹀部分から分離するのである。まさにここにおいて実務(それのみでな いが)は原理を民街
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間味に検討しないままに帰属させることをもって満足するのである。しかし、この意味自体が法律であるか どうか、または、倫理的意識にすぎないかどうかは、精神的及び政治的立場に従って非常に様々に答えられる問いかけである。そ こから、例えば、キリスト的法律観の倫理化傾向は概念的に硬直化された教義学自体を構成主義の代表者のもとで再び﹁メタ法律 ( 間 ) 学的なもの﹂に解消されることができるということはあきらかになる。一方において、非教義学的体系一般は、今日北米のコモン( m )
・ ロ I 実務におけるように、また、より多くの抵抗をともなっているが、イギリスにおいて、最近、崩壊しゆくように急速に、ひ とたび歴史的形態の拘束力がこわれはじめるならば、倫理的前提を法原理として導入することにいかなる困難もみないのである。 このような体系において、﹁この種、(すなわち、道徳)の受け入れられた理想は法の一部であるか﹂という問いかけに、とらわれ ることなく、﹁:::訓令と同じく法律の一部であるところの権威的に受け入れられた理想が存在する﹂ということが答えられてい75一一ヨゼフ・エッサー『原則と規範』白 る。また、﹁自然法の古い体系におけるように││法律の上に独立的な妥当性を有するあるものとして理想的な要素を分離するこ
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とは誤りである﹂ということが答えられる。この説明の到達距離及び方法学的問いかけの深さは、個々の事案が倫理的なものと ( m a ) ﹁法的確実性﹂の二律背反をひとしくあきらかにしないままに、また、本質的にぶつかりあわせるまで、かくされたままである。 原理を単純な﹁指針﹂として価値のないようにすることが問題であるのではなくして、固有の実定化事象を明るみにひきだすこと が問題であり、この事象は原理の現実的形成作用に対 L て基準を与えるものである。他面において、差異を設けゆく考察は、すベι
ての原理は﹁自然法の要素﹂として実定的な国家的な形成から独立な形成を持つという統一的判断に道を譲らなければならないで S ( 悶 ﹀ あろうollaなぜかといえば、ここでは法律学的妥当要求が語られるべきであり、認識論的妥当要求及び論理的妥当要求が語られ るべきではないからである。法の存在論、あるいは、法の実質的価値哲学は、おそらく、﹁最高の法の価値﹂の尺度に到達するこ ︿ 問 ﹀ ︿ 問 ) とはもちろんであり、この価値につき哲学者は、それは﹁すべての時代とすべての場所において真実である﹂と述べてよいもので ( 問 ) あるが、哲学者が││残念ながらよきものしりにも気づかれていないことであるが、1
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﹁原理﹂のすべての範鴎を混同しないか ぎり、また、これらを区別を設けることなく﹁法源﹂と宣言しないかぎり、何人も実定的に承認された原理の歴史的変遷性をその 法的妥当において否認しないであろう。人々が司2
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各のことばにしたがって、﹁実定的なもののなかへはいるためには、実 定的なものから出てゆかなければならない﹂というように批判的な点にふれないならば、法の安定のためにも、また、法の発展の ためにも利益にならない。我々は現行法である原理と、はじめてl│裁判官により創造された規範の範囲において││特定の事案 領域のために判例を通して現行法になる原理との間を区別しなければならない。多くの原理は論理的に﹁妥当する﹂かも知れない が、しかし、実定法ではない。原理の存在論的優越性もまた原理の妥当のために何も詳しく述べていない。実定性はむしろロl マ 法大全へ歴史的に組み入れることに依拠している。たとへ我々がスコラの現実主義の意義において、原理が最初のものであり、そ こから他のものが生ずるということができるとしても、我々は、﹁我々の立場よりも先きに存在するものは先でないということを 意味しているということ。また数世紀にわたり具体的な問題解決として全く分離され、また、﹁原理的な﹂意味なくして行使され るものが法律学的に﹁原理﹂としてはじめて承認されるというアリストテレスの区別を承認しなければならない。 以上のことは、原理の学校らしい文言化とともにはじめてより広い﹁共通法﹂が可能になるということを排除するもので はない。この点に註釈学派と註解学派の法を形成しゅく力がなかんづく第一五世紀中葉以後存在している。このためには第2巻4号一一76 5.42 同 ) ﹀ 垣 間 。 Z ( Z ・叶・)の不当利得原則の発展の事例をこそ参照。アリストテレスの原因
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概念がそのスコラ的な変遷のなかです べての知識形式をとらえ、また、宇宙的な学問方法を始めたのち、人々が相違した事案群の代りに、今、﹁原因﹂の範時を導 入することができたということは媒介的にはたらくのである。原因の新しい範鴎から人々ははじめて法源を体系化したし、ま た、合理的な体系をもって原理及び教理の開拓者的作業が特殊から普遍への煩墳な解釈の狭さから解放された。このことは大 陸の﹁学派﹂の生産期を開始する。第十九世紀はその教理の成果がゆたかであったので、その終りに存立している民法典編纂 はこの成果を営養素としているのみならず、国際法にとっては一般的に承認された意見が、また、﹁普遍的に承認された法原 ( 問 ) 理﹂にとっては制定法がやはり同じ割合で証明カを持っている。有名な Z 開 司 、 H d z 事件において既に一七九五年、緊急状態概 念が法律要件的に正確に限界づけられ、また、使用される。この概念はやはり慣習によるのではないが、教理による共適法で ある。最後に特殊な国際法原理に関するものであるが、古典的な発生源のみが存在する。すなわち、の問。己E
がいっしょに 案内を引き受ける教理の発生源である。 ︹ 胤 ) そのかぎりにおいて、民族の共通法は原理の実定化であるという主張は哲学的に一致することはもちろんであるが、法律学的に は一致しない。││この事実が承認された原理は体系の実定法の一部であるかどうかは、いかなる事実に依拠するかという研究に 我々を強いるのである。けだし、我々は、何時から原理の実定化が始まるか、いかにして、また、具体的な実定的規範からのいか なる帰結が必ず実定法としていっしょに考えられなければならないか、また、いかなるものが実定法の彼方に単純な格率、前提、 あるいは、基本思想としてさらなる実定化を﹁待たなければならないか﹂を同じく問いかけることができる。法典化された法にお ( 郎 ) いて解説問題として、判例法において類推形成の問題のなかに登場するのは基本的な体系への問いかけである。この問いかけの背 後に認識論的な二律背反また実際的な二者択一が存在しているのではなくして、我々が﹁民事法秩序の構成における原則と規範﹂ の題名をもって示唆しようと欲したように、両要素の同一秩序事象への機能的依存性が存在している。この同一所属性の観察の際、 もちろん﹁目的の異質性﹂(者d
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,)が一度承認された原理をしばしば著しく議離した課題に使用させるということは混乱を呼び おこしている。したがって、ひとしい﹁原理﹂の嫡出子としての著しく異る個別的規範が登場するのみならず、歴史的に確定され た教理とその時代おくれのものもまた、のぞまれずして、新しい意味をもつことができる。その場合、二つの﹁原理﹂はそのよう ( 邸 ) に異る機能と体系形成においてやはり﹁同一﹂であるであろうか。77一一ヨゼフ・エッサー『原則と規範』仁) 必したがって、原理の﹁法的性質に関する意味表明のために、我々は二つの関連する問いかけを究明しなければならないであろう。 (剛山﹀ S付、はじめに、原理の沿革と機能におけるその範時。このことから、閏際法的に重要な原理のために、︿何回巴同。訟は始めた。彼は 次の分類を提案する。すなわち、理念的に必要な原理(﹁法の理念に直接に引張られている原理﹂、彼は、なかんづく、信義誠実の 原理及び、ひとしく争いのあるところであるが、﹁そのようなことが無に帰するよりもむしろ有効となるように﹂のようなある種 の解釈規則をそのなかに数え入れている)、次は、制度的に具体化している原理︿制度とともに黙示に与えられる原理、第三一は、 ハ l グ常設国際司法裁判所の定款第一二八条第三号の意義における原理(﹁文明国民の実定法によって承認された原理﹂﹀である。最 初の二者の原理は定款が同一の意味をもっ規範に変化することから独立して妥当するが、これらの二者の原理は﹁超実定的﹂であ り、また、それらを使用する際、判例は法創造的な実定化審であるということを一般に︿何回ロ回。協とともにいうことはできない であろう。この自然法的構想は多くのことをそれ自体含んでいて、制度とともに実定法である﹁内在的な﹂制度的原理にとっては ふさわしくないものである。ここには、その場合もまた︿何回巴問。協が意味を与えているように、いかなる欠依も存在しない。制 度それ自体も、また、第三号の意義において考えが一致しゅく実定的な文化問題に関する法も原理を確認せしめない場合、また、 今から不明なものを避けるためにそれは自由に﹁正義と公平の一般原則﹂にしたがって決定されなければならない場合、事情は異 ( 別 ) なるのである。したがって、これらすべての原理は実定法の基礎であるがゆえに、これらは実定法によって廃止されることはでき ( 悶 ﹀ ないという一般的な主張は承認されない。しかしながら、いかなる影響を法律学的体系の構成類型が外観的に同義にみえる原理の F h d 心一意味の変遷と機能の変遷に対して有しているかという研究はまだ始められなかった
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したがって、比較法的考察は、第二に、 ひとしいと思われる原理、あるいは、異ると恩われる原理の作用方法を理解するために、法律学的体系形成の範鳴を分離しなけれ ばならない。ここにおいて私は上述したところにしたがって、二つの構成形態を区別するであろう。すなわち、法典編纂の理念に よって代表される﹁閉ざされた体倍、及び、弱かれた体きであり、この現代的原型としてイギリスとアングロ、アメリカの判 例法の方法が妥当してよいであろう。すなわち、法体系の公理的に﹁閉ざされた﹂構築の仕方、あるいは、問題をもって﹁聞かれ た﹂構築の仕方に、アリストテレスの意義における基本思想が﹁原理﹂であるかどうか、この思想は原理から﹁閉ざされる﹂かど うかということが依存しているのであり、あるいは、実体的正義もしくは﹁法政策的﹂目的設定の実利的観点公030が依存する のであり、この観点は閉ざされた演縁関連を放棄し、また、古代的意義において論証の﹁修辞学的﹂出発点として外見的に分離さ れているかにみえる存在のなかの問題を理性の普遍的に承認された命題すなわち、常識から﹁聞いて﹂とり扱うのである。第2巻 4号一一78 S.45 古典的な法思考は﹁閉ざさ﹂ないのであり、。包
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の学派体系はこの法思考にとって縁遠いものである。解答は論証しゅく 思考の問題にむすびつけられた解決であり、スコラ的な﹁このようであり、また、このようでない﹂という性質による流動的 な﹁解釈﹂である。論争することは教義学的に否認されたり、また、﹁克服されたりする﹂のではなくして、あきらかに議論 におかれ、﹁むしろ、、と思われる﹂、または﹁さまざまであるが、、のようでもある﹂というようないいまわしをもって導入 される﹁意見﹂をとりつけられる。しばしば我々はやはり二者択一の一部を所持しているにすぎないことがわかるのである。 な ぜ か と い え ば 、 同 ,E
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の学説集纂委員会は、今や、じっさい、権威ある﹁解決﹂が法によって創られたので、これをあ きらかにする﹁成果﹂を存立せしめるために、このような議論の大部分を削除した。皇帝の法律家の計画的に法典編纂しゅく 思考にとって修辞学的問題究明の、このようであり、また、このようでないは克服された法的統一解決の前段階であるすぎな いように恩われたし、この解決は、﹁多くの多様さのあとにそれはみとめられている﹂という若干の進歩を裏切りゆくきまり 文句をもって、せいぜい思いだされた。しかし、これらの古典的解決は、しばしば我々の﹁学説﹂と同様に、分離された発見 として相互に併存しているのである。││このことがまさに法源の研究と体系探索の対立をつくり、また、ローマ法学の類型 的な解説の苦悩を理由づけるのである。我々はここで論証不可能な思考と修辞学的論証について語ることができる。なぜかと いえば思考態度はアリストテレス的l
スコラ的類型に一致するからである。後期古典期にはじめて修辞学と観点寸 O切符は法 律学的思考においてあのアリストテレス的構造を経験することはもちろんであり、この構造はスコラ的﹁交叉道路﹂からヨー ロッパ的思考のなかで﹁古典的﹂として市民権を与えられ鳩分類すること、例えば、行為の本質的なもの l 自然的なもの│ 偶然的なものl
﹂は、したがって、事物の﹁本質﹂(自然的なもの)に関するアリストテレス的表象の特殊な観点であり、こ れらの観点は既にピザンチンの法律家によって彼等の概念世界に移されるのである。決して問題的意義において﹁普遍的﹂原 理は古典期の法律家の労作ではない。これらの原理は﹁傍論﹂として力を弱め、また、その場合﹁古い人々の法の規定﹂にお いて爾後権威を形成したかも知れない。有名な HVO 冨8
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章 U m 0 ・ ロ ・M
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を参照。この章はあの不当利得の原則を含 んでいるが、古典的な不当利得が決して不当利得それ自体をいいあらわしているのではなくして、確定物、あるいは、確定し ( 凶 ) た金銭を目的とし、しかも引渡においてのみこれを目的としたということを除いて、この不当利得原則それ自体古典法一般に おいて存在していなかった。古典法には普遍的な原因なき不当利得は存在していなかったし、また、﹁法的原因﹂は倫理的原 理であったという回出﹀同 U 吋のひとしく﹁原理をよろこぶ﹂論題を反駁するために ( 4 包 ・ 0 ・ 自 ・ N -N日 記 ロ S H N 旬 刊 同 ﹀ 、79一 一 ヨ ゼ フ ・ エ ッ サ 『原則と規範』同 S.46
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U 司 君 ﹄ 同 N 一が引用している個々の事案でさえ法的原因の意義における技術的原因の構成的原理を証明していないのであり、こ の原理というのは理由なき﹁財産移動﹂の普遍的訂正を述べてきたものであろう。この個所は程度が過ぎていることを推定さ ( 凶 ﹀ せるし、同時に、種々様々な皮膚からの論証をもたらすのである。古典的な指導思想は道具的な力をもたないままであり、そ れは基礎をなす純粋の観点である。﹁基礎をなす﹂原理に従って整理することは現代的であり、それは公的政策の目的のため に事案にむすびつけられた発見を意識的に道具的に使用することと同様である。このような戦闘は古典期の法律家によって、 ︹ 川 出 ) かくされることなく、正当化されていることは有益である。古典時の﹁原因﹂ということは専門語ではなくして、いとわしさ のない裁判上の修辞学の普遍的概念である。原則の意義における不当利得の禁止と原因!概念へのその効果は目白 ZC 宙 開E
の ( 凶 ) 叙述によればキリスト教の影響に負っているというべきである。しかし、回号問、キリスト教と後期古典期の法発展をも参照、 (Mm) 彼はこの点においてストア倫理学とそのなかでC
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にさかのぼることを示している。 既 に 、OB
問。が対話的なものへ導入している発見の概念は、我々が︿問者同の ( Z ・お﹀に従ってよいとすれば、修辞学をそ の古代的様式から縁遠くしている。この様式はコモン・センスのもつ真理へのいやおうのないみちびきであり、この真理はア リストテレス的名声がよいという意義において﹁すべての人、あるいは、多くの人、あるいは賢者にとって真実と思われるの であり、また、賢者によって、再び、すべての人、あるいは、多くの人、あるいは最もよく知られた人と最もよく尊敬されて ( 叩 ﹀ いる人によって真理とみられるのである﹂。古典的法思考はこの特徴をつねに示したのであったし(また、このことは我々 に、アングロ・アメリカの問題思考における合理性と自然的正義と同じ出発点を示すために興味をもたせるのである)、ま た、訴済請求の訴権のような、厳格法の形相が公平考慮を排除するところでさえ、﹁てらしだしゆくもの﹂すなわち﹁なぜな らば、自然の公平が存在するまで、何人も他方の不利をもって利得がなされてはならない﹂ ( D ロ ・ 6 ・ U ﹀への復帰は中止 することはないであろう。あることが﹁自然﹂であるか、あるいは、﹁公平﹂であるか、あるいは、﹁普遍的に承認﹂されて いるということを強調することは、l
たとえこの強調が副文のなかえ隠くされているとしても、(例えば、﹁一般的にみとめ られているものにみとめられているヘ︿包・﹄目、z
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・ 品 目 -u w ω 3 、やはり公平の領域を市民法のなかえ﹁押し入れること﹂ ではなくして U 共通の同意、及び、あきらかなこと、あるいは、取り消されなかったことへ必然的にさかのぼることであり、 これは、ひらかれた体系のなかで公理的演鐸の義務に代わるものである。したがって、また、擬制の暗示的な力、また、他の 技術の暗示的な力(例えば、﹁準﹂としての、よく知られたもの、また、解決されたものの単純な亜種としての表現の暗示的第2巻4号一-80 S.47 な力)、また、決して教示的意味のない教材、この教材にもとづき﹁質ねること﹂をもって(あるいは﹁仮定﹂をもって)新 ハ 凶 ) ( 別 ) しい事案の解答がみちびき入れられる。市民法は﹁体系家にとって幻滅﹂のままであり、なぜかといえば、その﹁原理﹂はピ ハ 悶 ﹀ ザンチン法律家の学校技芸であるにもかかわらず、いかなる公理的意味をも所持していなかった。同じ根から技芸という専問 用語の演縛価値自体に対する深い不信が生れでているのであり、この価値を固定化することは問題思考に危険な損害を与えた こ と で あ ろ う 。 し た が っ て 、
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における警告、﹁市民法におけるすべての定義は危険である。なぜな ら、根拠を覆すものは稀であるか、また、全くないからである。﹂は意味がある。はじめて真に規則という共通則に対する抑 ( m v 制が効力があるのであり、この規則は古い規則の権威においてさえ、また、教団規則法律学に奉仕して、単に観点的意味に対 して法のために﹁原理﹂の意味、いいかえれば、公理的意義における演縛価値を有していないのである。同E
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はいう、﹁規則によるものは何も法とはきれない﹂、﹁しかしその点において法によって規則はつくられよう﹂。けだし規則 は指導原理(﹁短い事件は口述された物語)のみを与えるにすぎない。しかし有名な d q H h p Z の 一 一 一 つ のF
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(法的規則)は決して D ・叩・げのなかにある知名RS
町冊目(目録!訳者)の意義における指導思想ではなくして、本来、 円 一 間 ) カントの意義における格率である。このような格率はストアの通俗哲学に一致したが、後期古典時代にはじめて法律学的威信 ( 胤 ) を取得したのであり、この時代の﹁宗教的l
道徳的精神﹂にこの格率は一致したのであった│それは、ちょうど現在もまた衡 ( 師 平に関する修辞論が決定基礎として実質的意味を持っているのと同様であるぐ目当阿のが上述の労作のなかで挙示している ように、公理的に固められた体系思考の時代において観点の古典的意味を常識に対する観点の関係において﹁おそらく﹂の領 域において手さぐりしながら再発見することは52
に残されていた。(我々の時代の合理的な研究のために、討。8
。現代 の﹁学問論﹂の先駆者が、ここの﹁第一の真理﹂の出発点のあたりで、いかにして﹁原理﹂からの演鐸思考が多くの、また、 実りある観点的思考に割りあてられているかを示している。このことは、また、法における﹁原理﹂思考の特性と二重の地位 をあきらかにするのであり、しかも、ひらかれた体系におけると同様に、閉ざれて体系化された法において行われるのである。 あきらかな平行線は、問題解決が間違って﹁解決の﹂問題を分離されたものとして主張するという Z ・ 国 ﹀ 河 吋 冨 ﹀Z Z
の 洞 察 の ( 邸 ) なかにある。なぜかといえば、この問題は、もちろんそれ自体たとえ、あからさまに述べられていない体系 ( H 演縛関連﹀か らであるにせよ、一つの体系からのみ自にみえるようになり、また、一つの体系への﹁正当な﹂整理から解決されるようにな る。ここでは、すなわち、問題提起にもとづいて、体系をさがすことが行われるのであり、それはまた、反対に体系の選択が81一一ヨゼフ・エッ+ー『原則と規範』同 問題をさがすことをともなうのであり、また、どこに確定した要因があるか、どこに可動的要因があるかが関われるにすぎな い。法律学において、ぐ自宅帽のが強-調しているように、問題の恒常性が、前体系的存在関連と前学問的理解を呼ぶ確固たる 出発点としてあらわれるのであり、││﹄それは、先行構造的法原理が法比較の指針として保持されている平面である。全くあ きらかに体系の﹁完全化﹂を伴う国民的特性の刻印を一つの体系にすることは常識から観点的思考にさかのぼること、及び、 構造に親しまない沿革をもっ発明にさかのぼることを無くてすませることができるものとするのである。なぜかといえば、い かなる問題も、じつに、この一つの体系の一回的にして片面的問題ではない。しかし、体系にとってさえ演緯関連からの公理 的思考は、公理の基盤が充分に広く、また、帰納的に証明されるならば実りあるものでありうるにすぎない11│現代の常識に のぞんで。それゆえ殆んど確定されていない体系の優越性がある。﹁帰納は演緯にまさらなければならない。なぜかといえば、 演縛することができるためには我々は演鐸するための帰納的一般化を持たなければならない﹂と
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叶 。 巴 ﹀ 同 は 大 陸 の 法 律 学 に ( 即 ) は決して家族を持っていないあきらかに周知の事実を文昔同化するのである。58
にもかかわらず、我々の﹁方法に厳格な﹂ 思考はやはり最近、最も迷信的な﹁純粋法学﹂の公理的偉業をうみだしたのであり、この業績は、アングロサグソン理論がそ の経験的伝統を忘れ、また、︿円。の、﹁さらにすすんで、演鐸と帰納とは、アンティテーゼであることからはなれて、じっ ( 問 ﹀ さい、補充的な手続きである﹂という彼の洞察をはじめて新しく発見しなければならないとすれば、この理論に強い影響を与 え る の で あ る 。 我々の現代の法典編纂思想のなかには多くの、本来、﹁関かれて﹂考えだされた原理が教義学のなかえ巣をつくっていたので、 教義学はその概念装置をもってあきらかに純粋の公理的思考の一部になったのであり、この思考のなかえ﹁法政策的﹂考慮と問題 に拘束されたカズイスティクll
普遍的・包括的な法律要件から出発するのではなくして、できうるだけ多くの個々的事案を規律 する法律要件から出発する法発見の方法(筆者)││とが一般条項・白地規定、また、新しく創造された制度の枠内で、あきらか に体系になじまない島興として場所を与えられていたのである。このようにして我々は並存する三種類の原理を観察するのである 0 0 0 一 一 す な わ ち 、 近 代 的l
構成的意義における公理的原理、修辞学意義における問題原理または根本思想及び教義学的原理である。これ らは、第一に、歴史的問題状況から発生したことはもちろんであるが、今日は実定的体系の法律学的構成、あるいは、論理と融合 されたので、これらはあきらかに独立して有用な演緯価値を持っている。我々が問題思考の大きい断絶として(﹁利益﹂は真の観第2巻4号一-82 ︿ 瑚 ﹀ 点である)我々の法典編纂思想のなかで体験している利益法学が、はじめて、その純粋に実用主義的構成価値を示したのであり、 その﹁論理﹂を物的に問題を意味づけることに限定した。我々の民事法の公理的原理は、例えば、契約自由、あるいは、また、債 ( 削 ) 権法的拘束の相対性であるであろうし、﹁利得思想﹂の修辞学的原理、あるいは、また、法取引における所謂﹁信頼原理﹂、教義 学的(元来、教義化された)原理は、例えば‘履行行為の抽象性の原理.あるいは、担保の従属性であるであろう。 S.49 さらなる現代の観点は論理的に機能しゅく演鐸関連の概念的要素になったのであるが、この観点は充分に証明される。対概 念、本質的構成要素と附属物、遅滞と不能などを参照。しかし、つねに、体系はあきらかに閉じられているにすぎない。﹁経 営の危険負担﹂とともに前法律学的に与えられた問題の統一からの発明は我々の民法││思考のなかえ侵入するのであり、こ の思考はそれが体系になじまないことを、あきらかに全く変造された﹁積極的契約侵害﹂と同様に、もはや否定することはで きない。同様に、﹁行為基礎﹂の発明は、﹁錯誤﹂と同じく﹁法的根拠﹂において我々の思考の演鐸関連になじまないもので ある。いかに人為的に民法第七七九条のための演繕関連が OE 口髭﹀ ZZ によってつくられたがわかるのである。じっさい、す べての根源的に問題に拘束された、発明にもとづく原理に関しても同様である。しばしば、実際的に決定的基準を与える観点 に原理的性質を賦与することが放棄される。この観点は、その場合、我々の概念﹁法益﹂と同様に、それが学説及びその構造 図式から、徐々に、適法の概念を新しい意味をもってみたすまで、それほど長く公的な体系とならんで排廻するのである(ア メリカ合衆国において既にあきらかになっている不法行為における平行してゆく体系過程のための次に述べる第一八章を参照 せよ)。アングロ・サクソン法において歴史的概念、例えば、不法行為と過失、錯誤と不実表示は公理的にめんどくさくなっ たままであり、││'このことは我が国の法律家をひとしく驚かすことである
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、それゆえ、この概念の歴史的関連において のみ固定しうるのであり、この概念の﹁原則的﹂関連において固定しうるのではない。したがって、歴史的概念の││我々の 体系需要にとってしばしば耐えられない異質の│i個々の図式の差異性がある。共通のll
相互の││片務的錯誤は﹁体系的 に﹂我々のもとにおける行為基礎││意思と表示の不一致│ii表示錯誤と同じ平面にあることは殆んどないのである。歴史的 にみちびかれた概念への実用主義的接合のみが確認されうるにすぎない。また、不能論と契約基礎論との﹁間にある﹂契約目 的の達成不能の地位、双務論と原因論との﹁間にある﹂約因の地位、及び、不法行為法と相隣権との﹁間にある﹂不法妨害の 地位(以下の第一八章を見よ)を参照。83一一ヨゼフ・エッサー『原則と規範』白 第三章 (Mm﹀法律学が︿巧ヨロ回目﹀ZUの意味における﹀個性記述的なものを規範創造的な思考を理解するための単なる手段として使用するならば、そ れ は 、 は じ め て 、 規 範 的 で あ る 。 ぐ 包 ・ 同 k F U 回 同 百 円 出 ( Z ・ 回 ∞ ﹀ ω ( H S N ﹀ H H 由 ¥ H N O 。 い な 、 ま た 、 法 律 学 は 、 そ れ が 、 特 殊 な も の に 限 界 を 与 え 、 また、文化的に説明するために、形式を実体から分離すること、また、共通なものを事物の必要な前提にもとづいて建設するができるとき、 は じ め て 、 規 範 を 述 、 へ る こ と が で き る 。 ︿ 四 日 -E R S W O 回 国 H 0 ・ m a g s o 件 。 g 山 口 同 品 。 円 ι E 2 0 Q 8 3 ・ (凹引 ) U H Z n E Z 印 O Z の N 由 。 。 日 ロ B F U F ・ 悶 2 ・ Q S S N ∞ 印 の 研 究 の こ の 題 目 に 関 し 、 す べ て の 問 題 が 示 唆 さ れ る 。 ︿ ω ∞ ) ︿ 四 -︿ ・ 回 目 噌 同 V開 H L ︿ Z -H C Y 田 口 円 四 回 何 回 印 何 回 切 開 宮 崎 C F H -E 口 間 宮 島 町 ゅ の 吋 ロ ロ 円 四 F O 間 同 ・ 目 見 白 血 2 河 o n F Z ω ロ ロ 品 会 話 回 g m 件 。 ω ( 回 定 申 ) H N R -色 白 N O 戸 支 出 = ロ 件 。 = 同 曲 目 u -M 門 ︿ ロ ・ ( ∞ ∞ a ﹀ ︿ 四 -河 ﹀ ロ 国 同 d n F K 戸 口 同 日 O E K F B R K 田 口 ﹄ ロ ユ 名 吋 ロ 母 国 円 。 円 F g E 岡 田 同 ︻ U O ロ 立 ロ g s -開 可 2 日 目 N F ・
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﹀ ( H 2 3 ・ H H U F ・ 吋 ・ 河 ・ M g ・ ( m 別 ) 戸 開 印 叫 ︿ Z -N ∞ ) は 、 ﹂ ロ ユ 丘 町 ω n E O の g B S 向 凶t r ・ -︿ 法 律 学 的 文 法 学 ) に 関 し て 語 っ て い る O 公 印 可 ロ S H 3 ︿ 文 章 論 ﹀ は 現 代 の 法 律 学 的 規 範 形 成 の際それと著しく注目すべき一致する問題設定とその解決をもって、じつに、はじめて、充分にあきらかになるのであり、問題解決の承認は ﹁ 原 理 ﹂ ε 司 江 口 也 、 ( 例 え ば 、 ﹁ 信 頼 保 護 ﹂ J 1 0 5 円 E E 由 回 n F ロ R J と し て 、 そ の 場 合 、 構 造 的 に も 同 質 の さ ら な る 形 成 の た め の 結 品 核 を 与 え る。教説に富む事例は、私が他のところでQNH申8・HNS検討したものであるが、ドイツ法、フランス法及びア γ グロ・アメリカ法におけ る 危 険 責 任 の 発 展 で あ る ( 巴 R O H 2 2 5 z p 剛 内 田 司 -M 2 H H ) 。 し か も ま た 祖 円 三 宮 古 円 。 三 E Z E 。 ヨ の 声 を 持 つ 我 々 の 判 例 と コ モ ン ・ 戸 1 教 理 の E H O H E 5 0 山 口 Z 吋 O z -と の 平 行 線 も 教 説 に 富 む も の で あ る 令 聞 ﹁ 司 C F F 何 回 ロ ロ ι H J W 同 U C 開 ・ 怠 d ﹁ 同 -o F -﹄ -Q 8 3 S R S U 同 ・ ﹀ 。 ( 川 出 ) こ の す ば ら し い 比 喰 を 河 ﹀ ロ 国 間 口 町 田 ( Z 吋 -g s g で か 使 用 し て い る 。 は じ め に 、 規 範 で は な く し て 、 す で に 、 そ の 要 素 、 法 概 念 が 前 実 定 的 沿革の利益評価を通して性質決定されるという証明、何がまさに﹁体系﹂の再統合を表見的に概念の単なる論理的な合成と概念のなかに前提 的に秩序づけられた問題解決の演鐸的な﹁意味表明の検討﹂ご百ω 唱 22ロ汽を通して、はじめて可能にするかを、私はwhzsgzE 丘 円 目 立 。 E 一 Z S Z ロ 己 司 σ 白 色 R O 岡 山 口 門 戸 品 。 ι 。 問 自 由 Z 8 3 H ( Z -ロ ﹀ H R -区 間 ・ に お い て つ く り だ す こ と を 試 み た 。 ( m 出 ) 品 -k r = 戸 ( 回 定 申 ) 旨 田 Z P U 申 l H 8 ・ ( 前 回 ) ︿ 岡 山 ・ 目 。 口 F K 戸 国 間 同 H L P Z 包 = 口 o n F 件 。 品 。 同 司 F口 O ω 。 司 E o ι 2 知 。 門 町 件 。 ω ロ ロ 仏 印 仲 田 陣 件 。 ω J Q ∞ 吋 C ) ロ ロ 品 品 目 白 白 口 問 。 回 目 ロ ι E 出 向 N 当 日 m n F O ロ の 叩 B 0 ・ Z B n z a o r 丹 江 口 町 ロ ロ ロ ι -5 8 5 但 巳 丘 町 n F O 口 辺 ロ ロ O A E o -o ロ 片 足 自 己 g H J d t r o z g 品 目 立 。 ロ ω ロ 品 。 吋 口 印 E E -m s t o -︿ 川 出 ) し ﹃ ロ コ ω 司 円 白 色 。 口 N ロ ロ ι 問 。 n E Z H ︾E H O 由 。 司 E O ( 同 ∞ U N ) A M M O H 哨 ・ (Mm﹀それは、必然的に、商品売買・有価一証券法・営業上の権利保護・海上航行法及び内水航行法の緊急の取引領域に限定される課題であり、ま た 、 そ れ に も か か わ ら ず 、 そ の つ ど 、 制 度 的 、 ま た 、 原 理 的 比 較 可 能 性 の 一 般 的 問 い か け に 立 ち い た る 課 題 で あ る 。 ︿ 悶 -H N K F 回 何 回 、 ( Z ・ 主 ﹀ ∞ 印 ∞ υ ﹁我々は、全西洋的文化圏にとって有効性を持つ確認を必要とするのである。﹂。実際的な統一作業のためのこの原理比較の意味のために は 、 ︿ 悶 -国 K F 沼 田 よ 阿 M m w g 司 0 2 2 2 0 昨 日 目 B X 2 ι o -J H 民 間 g t 。 ロ 品 匡 品 円 。 日 仲 間 以 円 Z A r k F 2 2 ι ロ 口 。 口 四 円 伊 田 町 田 件 。 吋 出 巳 ・ 品 。 ι g H 昨 日 V円 z b ( 問 。 自 H 由 回 目 ﹀61 ff. V g I. auch PILOTTI ebda. 335 ff. 峠ム主撃事量制 SCHERRER , Zur Frage der internationalen Vereinheitlichung des Privatreshts (Basel 1939)' 制,{..:!'覇軍~程包:'J:$厚 ~0 .;2:Q ll 士~ MOSSA , Di un diritto generale dell'.Europa , Nuova Riv. Dir , Comm. 6 (1953) 1 ff. 組鍵誕 0 .;2:Q 以:t! .:I ¥l':ll' NIPPERDEY , Gesetzgeberische Vereinheitlichung des Rechts der Schuldverhaltnisse (1939) 役時^I-C点。 (~) 1'¥ 11'-λK 低五区銀 0 ..,9..IJ以品会的組終榊選捕監 Q 官税:lli時有国主 0 .;2:Q ll :t!' vg I. SCHUMANN , Die Forderungsabtretung im deutschen , franzosischen und englischen Recht (1924) 162 ff , und ARNDT , Zessionsrecht 1. Teil: Rechtsvergleichung (1 932) 76 ff. (~) Low v , Bouverie. (1891) 3Ch. D. 106. (g;) 19 Am. Jur. 664 , ad vocem Estoppel , ~55 , mit 5 Seiten judizieller Zitate. (8;) Ebda. 661 “ Estoppel by silence or inaction" , lli!::..l v