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<インタビュー>高等商業学校と商経学部で学んで : 齋藤昭氏に聴く

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<インタビュー>高等商業学校と商経学部で学んで :

齋藤昭氏に聴く

著者

辻本 由美

雑誌名

関西学院史紀要

24

ページ

87-107

発行年

2018-03-15

URL

http://hdl.handle.net/10236/00026750

(2)

高等商業学校と商経学部で学んで

  

齋藤昭氏に聴く

聴き手辻本

由美

︻はじめに︼   二〇一八年 一一 月に満百歳の誕生日を迎えられる齋藤昭さん︵旧姓橋野、一九四〇年高等商 業学校卒業、一九四二年商経学部卒業︶から学生時代のお話を伺いました。インタビューは辻本 由美さん ︵一九七一年商学部卒業 。お父様は一九三三年に高等商業学部を卒業された小原完三 さんで、長らく同窓会専務理事を務められました︶にお願いしました。私も商学部で学びました ︵一九八〇年卒業︶から、 商科の後輩二人が商科の大先輩の貴重なお話を拝聴する形になりました。 二〇一七年六月六日午前 一一 時、辻本さんと私は大阪市中央区島之内にある株式会社南和をお訪 ねしました。齋藤さんは、今も毎日、ご自分の会社に出ておられるのです。聴き取りは一時間半 以上に及びました。その後、場所を移し、大先輩にランチをご馳走になりながら、オフレコのお 話をさらに一時間お聴きすることができました。   齋藤さんとは、辻本さんは初対面でしたが、私は何度かお目にかかったことがありました。初 めてお会いしたのは 、二〇一一年一〇月 一七 日 、千刈カンツリー倶楽部のクラブハウスでした 。

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KG AA ︵関西学院大学体育会同窓倶楽部︶対抗ゴルフ懇親会で、一九三名の体育会 OB / OG を前に C ・ J ・ L ・ ベーツ第四代院長の話をして欲しいと頼まれたのです。話を終えた途端、 ﹁私 が入学試験を受けた時の面接官はベーツ先生でした﹂と言って走り出て来られたのが、間もなく 九三歳の誕生日を迎えられる齋藤さんでした 。その時の様子は 、﹃学院史編纂室便り﹄第 三四 号 ︵二〇一一年 一二 月一日︶で紹介しました。   以来、齋藤さんから断片的にお聞きする学生時代の話を記録に残したいと考えていました。先 達の言葉を後世に伝えることは、今を生きる私たちの務めです。と同時に、文字に起こすことに より、次の点を明らにする手がかりを得たいと思いました。   ・戦前の関西学院はどのような学校であったのか。官立の学校との違いは何か。何を誇りとし ていたのか。   ・時代は変わっても伝えていくべきもの、変えてはいけないものは何か。   ・ 齋藤さんご自身の生き方 、人生に対する姿勢を形成するのに関西学院がどのように関わっ たか。   辻本さんという心強い協力者を得て、ようやく実現に至りました。         ︵学院史編纂室   池田裕子︶ ︻インタビュー︼ ⋮⋮お部屋に入ってまず気付いたのですが、絵画を何点か飾っておられますね。

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  ︹絵画を示し、 ︺これは、宇治園の息子、重村泰弘︵一九六〇年経済学部卒業︶が描いた。児玉 幸雄さん︵一九三四年中学部卒業、一九三九年商経学部卒業︶の絵もある。美術学校でもないの に、何故か関学出身の画家が多い。 ⋮⋮では、本論に入ります。私は激動の大学紛争世代で、それ以前の関西学院の歴史をあまり知 ることもなく過ごしました。その後は﹁しらけ世代﹂などとも呼ばれ、大衆化された関学は他大 学と似た大学になったような気がします 。本日は 、ご自身の学生生活を通して 、﹁関学で過ごさ れた意味﹂や 、﹁関学らしさ﹂をどう思われているか 、お伺いしたいと思っています 。﹁交通論﹂ の授業が将来の仕事につながったとお聞きしたのですが、それはどういうことですか。   ﹁交通とは人、貨物、又は思想の場所的移動を言う﹂ 。これが小泉又三講師︵一九三二年高等商 業学部卒業、のちに貞三︶の初講義の出だしだった。   私は 、昭和 一五 ︵一九四〇︶年に関西学院高等商業学校を卒業して 、大学の商経学部に進み 、 昭和 一七 年九月に同学部経済学科を大東亜戦争勃発のため 、繰り上げ卒業しました ︵一九四二 年九月 一九 日 、大学 、専門部 、高等商業学校で繰り上げ卒業式が行われた 。時局の緊迫に伴 い 、学校の修業年限を短縮する非常措置がとられたためである 。当時の大学は三年制だったが 、 一九四一年度には修業年限が三カ月短縮された。齋藤さんが最終学年を迎えられた一九四二年度 から一九四四年度までは六カ月短縮された︶ 。   卒業後、一週間だけ浅野物産でサラリーマンをした。しかし、一〇月一日には入隊︵陸軍︶し

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ました。徴兵検査は西宮で受けた。一五〇人程受け、甲種合格は私を含め 三〇 人位だった。   終戦後の昭和 二〇 年 一二 月 、北京から戻り 、故郷徳島に帰った 。軍隊で北京から撤収のため 、 部隊を引き連れて天津市に行ったのだが、そのトラック輸送のことを思った。小泉先生の言葉も 心にあった。それで、大阪の輸送の仕事が面白いと思った。家内の親が創業者だった。結婚は昭 和 二一 年六月でした。 ⋮⋮それ以降、物流の世界はどんどん変化しましたね。   もともとは町の運送屋、大八車だった。戦争中に軍の命令で軍事輸送業となった。 ⋮ ⋮私の父は 、原田の森から上ケ原に移って間のない昭和八年に高等商業学部を卒業しました 。 齋藤さんのご入学は昭和 一二 年ですね。学生生活はどうでしたか。   叔父の家に下宿して 、西宮鳴尾から通学していました 。甲子園 、久寿川と阪神電車に乗って 、 今津で乗り換えた。その頃の今津線は一両編成。神戸女学院、小林聖心女子学院、宝塚歌劇団生 徒が乗っていた。徳島の田舎から出てきたから、綺麗な人ばかりで驚いた。天津乙女や雲野かよ 子とかね。聖心の子だけは別列車だったが、年齢が上になると我々と一緒に乗っていた。 ⋮⋮宝塚歌劇へもよく行かれましたか。

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  宝塚歌劇にもよく行った。乙羽信子は深江のお菓子屋の娘とか。桜町君子︵チンナイ︶は甲子 園から、通学時、よく一緒になった。池内信行先生と宝塚歌劇の女性とのロマンスは有名だった。 池内先生は独身を通された。 ⋮⋮なぜ、関学に入学されたのですか。   西宮であった博覧会︵一九三六年四月一〇日から﹁輝く日本大博覧会﹂が阪神浜甲子園を本会 場に開催された︶を見に来た。先輩が徳島商業から関学に進学し、野球部に入っていた。そこで、 関学に行ったら 、あの時計台があって 、綺麗だなあとびっくりした 。﹁ここええで﹂ということ になりましたが、徳島では知名度はない。しかし、鳴尾に住む叔父は﹁大阪では、そこそこの評 価やで﹂と言っていました。   実は、日中戦争勃発の頃で、東京外国語学校︵現・東京外国語大学︶支那語部を受験するため 東京に行ったが 、落ちました 。合格者は一〇人に一人だった ︵当時 、支那語部は独語部と共に 、 多くの志願者を集めていた︶ 。一浪して、 昭和一二年に関学に入った。 関学ラグビー部マネージャー 藤田志郎氏︵一九三八年法文学部卒業︶から勧誘のハガキも来ていたので、そのふたつの理由で 試験を受けた。 ⋮⋮徳島時代からラグビーをされていたのですね。

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  ラグビーでは ﹁トライゲッターであるよりも 、チャ ンスメーカーたれ﹂と言う 。それで面白いなあと思っ た。 日本のラグビーは綺麗。 ワン ・ フォー ・ オール、 オー ル ・フォー ・ワンのイギリス ・スポーツの精神 。ス クラムの時に日本人は悪さをしない 。柔道や相撲にそ の精神がある 。草食人間と肉食人間との違い 、根っか ら違う 。日本のラグビーには 、最後までアマチュア リズムがある 。私の人生はラグビーそのものだ ︵写 真後列中央が齋藤さん 、﹃商経学部卒業アルバム﹄ 一九四二年九月︶ 。   ラグビー部では "Noble Stubbornness とは言わな かった。もともと庭球部のモットー。後になって関学全体に拡大した。関学は下の者を殴って鍛 えることはしない。それどころか、新入生は皆、寄席の落語に連れて行ってくれた。 ⋮⋮話を戻しますが、 高商の入学試験のことを教えてください。面接官はベーツ先生だったとお 聞きしました。   あの頃の関学高商部は難しかった 。一 、 六〇〇人受験して六人に一人の倍率 。高商 ︵現在の 商学部校舎︶の入口で合格発表があった 。通ると 、次は論文と面接 ︵口頭試問︶ 。教室に入る

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と 、外国人がいた 。初めて外国人を見た 。それがベーツ先生だった 。 "Sit down. What is your name? と聞かれた。ほかに、どこの出身か、両親について聞かれて、 "Yes "Yes と答えた。 卒業してから戦争で北京に行ったが、英語が喋れる将校は少なかったから重宝がられた。 ⋮⋮高商時代、親しくされていたのはどなたですか。社会に出られてからの交友関係についても 話をお聞かせください。   商学部は数年前、百周年の会をした︵二〇一二年、商学部開設六〇周年、商科開設一〇〇周年 を祝った。二〇一四年に発行された﹃世の光たれ!   関西学院高等学部商科開設一〇〇周年記念 誌﹄には、齋藤さんのインタビュー記事﹁繰り上げ卒業となった OB 橋野昭︵現、斉藤昭︶氏の 声﹂が掲載されている︶ 。元学長の平松一夫さん︵一九六三年中学部卒業、 一九六六年高等部卒業、 一九七〇年商学部卒業︶も来ていた。   平松さんの指導教授の増谷裕久君 ︵一九三九年高等商業学校卒業 、一九四二年商経学部卒業 。 一九四六年 一一 月より高商 、経済学部 、商学部で教えた 。一九八七年三月 、商学部を定年退職︶ は同級生だった。杉原信男︵一九四〇年高等商業学校卒業、一九四二年商経学部卒業。一九五三 年から六六年五月まで商学部で教えた︶も同級で、池内先生の教え子だった。杉原は家内の妹と 結婚したので、私の義弟になった。現理事長の宮原明さん︵一九六二年商学部卒業︶は杉原ゼミ の出身。元オリックス・ブルーウェーブの田口壮︵一九九二年商学部卒業︶は杉原と同じ経営学 の水原ゼミ。

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  杉原も増谷も学者になったが、タイプは違った。杉原は学究肌。増谷君は私と仲が良く、軍隊 でも一緒だった 。私は徳島 、増谷は鳥取の部隊だったが 、中国保定の予備士官学校で共に学び 、 将校任官も一緒だった。   ラグビー部では、 先輩に大沢寿邦さん︵一九二九年中学部卒業、 一九三四年高等商業学部卒業︶ がいた。作曲家の大沢寿人︵一九二六年中学部卒業、一九三〇年高等商業学部卒業︶の弟で、私 が入学した年 、ラグビー部の監督だった 。﹁風船﹂と呼ばれていた 。大沢さんは 、その後 、神戸 製鋼のラグビー部監督を務めた︵一九四八年度監督、 一九四九年度から一九五二年度まで総監督︶ 。   後輩の十合道夫 ︵一九四一年高等商業学校卒業︶はそごうの本家 。そごうの水島廣雄社長 ︵一九六二年から一九九四年まで社長を務め 、そごうグル︱プを急成長させた︶は日野原重明さ ん︵一九二九年中学部卒業︶と親しかった。日野原さんと言えば、関学の大先輩で、聖路加国際 病院の名誉院長。原田の森の中学部で学び、第三高等学校、京都帝国大学に進学された。お父様 も関学卒業と聞いている︵日野原善輔、一八九六年普通学部卒業︶ 。   その日野原さんの百歳のお祝いを東京のホテルオークラで行ったのが水島さんだった 。翌年 、 日野原さんが水島さんの百歳の祝いをした。私はどちらにも出席した。水島さんは二〇一四年に 亡くなられた ︵日野原さんは 、当インタビュー後の二〇一七年七月 一八 日 、逝去された︶ 。この ような関係で、うちの大阪南運送がそごうの配送をしていた。今は別会社にしたが、全部宅配し た。だから、そごうが倒れた時︵二〇〇〇年︶は影響を受け、大変だった。   ミナミには関学出身の経営者が多い 。﹁大阪南関学会﹂は今も続いている 。池田裕子さんも総 会に招かれ、話をした︵二〇一三年一〇月 一七 日、 ﹁もうひとつの一二五周年 ∼ベーツ先生と関

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西学院∼﹂ ︶。桐箪笥で有名だった﹁松山家具﹂や和装小物の﹁心斎橋てんぐ﹂ 、関学出身者が揃っ ていた。今も、 ﹁大寅蒲鉾﹂ 、﹁宇治園﹂ 、﹁小大丸﹂ 、﹁ささや陶器店﹂ 、﹁蓬莱本館﹂ 、﹁食道園﹂ 、﹁今 井﹂など続いている。 ⋮⋮日本は、キリスト教信者は少ないけれど、キリスト教系の学校は多いですね。キリスト教主 義教育の学校で学ぶことを当時どう思われましたか。   うちの宗派は真言宗。入学した時、高商に新しい校舎ができて、そこにチャペルがあった。こ の年になっても、讃美歌はいいなあと思う。入信するとかでなく、キリスト教の教えを全部吸収 していった。これが日本人の優秀なところだと思う。大阪南関学会は﹁父みこみたまのおほみか みに﹂ ︵﹃讃美歌﹄五六八番、一九三二年 一二 月一〇日、第六版︶と今でも歌う。いいものである。 ⋮⋮当時、ベーツ院長は、学生に何を期待されていたのでしょうか。   あの人は学問的にどうであったかということではなく 、﹁絵になる先生﹂やった 。何かを講義 された記憶はないが、式典の時には挨拶をされていた。挨拶が英語で上手であった。人として進 むべき道や心構えをわかりやすい言葉で語られた。ベーツ先生がそこにいるだけで良かった。創 立五十周年の時︵一九三九年︶に時計台前で私が撮ったベーツ先生の写真がある。鼻眼鏡をかけ た、いい写真だ。絵になった。

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⋮⋮ベーツ先生は、 院長として、 理想や夢や信条やビジョ ンなどを学生に語っておられたのですね。   そういうことだ。 ⋮⋮具体的に覚えておられることはありますか。   院長が去られる時に私は歌を詠んだが 、私だけでな く 、みんなそういう気持ちだった 。中央講堂で学生会主 催の送別会が開かれた ︵一九四〇年一二月一二日︶ 。そ の 時 、 ベ ー ツ 先 生 が 強 調 さ れ た 三 つ の 言 葉 "Purity "Confidence "Love を今も大切にしている。 ⋮⋮そのほかに、 印象に残っている先生を教えてください。   先生は著作があることが大事。 ︹昭和十四年度﹃学生便 覧﹄ 一〇三、 一〇四頁を提示して、 ︺ 北野大吉先生 ︵一九一七 年中学部卒業︶も青木倫太郎先生 ︵一九二四年高等商業 学部卒業︶も著書が多い︵両者とも五冊︶ 。 ųųų ș⌴Ȅᨈᧈӊǔ ီ׎ʴƷɤҗ࠰˷Ʒ ૙ǁ ൨ʁƴܣ ǒǜ ༾͛ӸƷോ ܮ ᙸƑƵፅࠗފ ųų ፅࠗފƸș⌴Ȅέဃോ ʻƸᙸǔƤNjƋǒơʶƷ߷ƴ ųų ᩡƓƘ᭟Ǎͧƹǔǔ ɤҗ࠰˷ Ǜီ׎ ƴ ਽ƛ ƠᨈᧈƷ ųų ႉ᭟ˏ ƛ ǔଐ ࠹ଐƧ ٳ׎ᛖ⍅ ȈȄ ǯȋǴ ⍆ Ƴ ǕƲ ƻƠƘ Ꮯ Ǜ৙ƭ ųų ᩉК Ʒ੉ ಅƴ ෤ƔƳ ɤҘ ʴ Ʒ ᛗǍᢒƘ ෙǛ ឭƑ ųų ᘍƘƯܣ ǒǜ൨ʁƴ ųųųųųųų ଯԧҗʞ࠰ җ ʚ உҗʚ ଐ

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  北野先生は運動部に対する理解が深かった 。畑歓三先 生 ︵一八九九年普通学部卒業︶も慕われていた 。矢内正 一先生 ︵一九二四年高等商業学部卒業︶は学生が好き 。 畑先生と矢内先生は英語の先生で 、全学生に接していた 。 高中部の前は、高商の先生だった。   矢内先生とは勤労奉仕にも一緒に行った ︵一九三九年 夏 、満州での勤労奉仕を目的に興亜青年勤労報国隊が結 成された 。全国の男子学生を対象に文部省が計画したも ので 、関西学院では 、大学 、予科 、専門部 、高等商業 学校から 三五 名の学生が選ばれ 、五名の教師が引率し た 。作業地で予科生が一名病死 。写真右から二人目が 齋藤さん 、﹃高等商業学校卒業アルバム﹄一九四〇年三 月︶ 。ちょうどノモンハン事件が起こった年で 、移送さ れる大勢の負傷兵を見た 。あんなに大勢の負傷兵が出た のに、 ﹁事件﹂はないだろう、戦争だと思った。   満州での日々を矢内先生は 、詳細な絵日記に残しておられる ︵一九三九年七月三日から九月 一日まで︶ 。学院史編纂室で見せてもらった。私も日記をつけていたので、懐かしかった。   実は 、満州に出発する前 、自分の覚悟を文章に認めた 。誰にも見せたことはないが 、今も日 記にはさんである 。親にも見せなかったが 、日記は長らく実家に置いてあったから 、私の知ら

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ない間に読んでいたかも知れない。 聖戦第二年も愈々最後の月も終へとする六月中半吾々五名母校の名誉と伝統を荷ひ栄ある興亜青年 勤労報国隊の一員として勇躍渡満の足を運ばんとする日は日一日と迫る 。あまた優秀な学生の中から 特に不肖を選出下され 、身に余る光栄と存ずると共に興亜青年として新しき世紀の建設者として微力 ながら国家の施政方針に則する機会を得し事は幸甚の至りと存ずる次第である 。我々学生の今回の大 きな勤労報国は日満親善のみならず東亜永遠の和平確立の一階段なる事を意識する時その責任の重且 つ大なるを痛感せざるを得ぬ。 高商三ヶ年の最終学年に於て勤労を以て我々あこがれの満蒙の曠野に鍬をふるつて尊き汗を流し 、 血を以て我々日本民族の為め活躍された幾多勇士の眠る満州の土に親しむ機会の与へられた事は大な る感動であり必ずや一生涯有意義な思ひ出となり 、兎角平々凡々の学生生活に一大光輝を残す事が出 来る事を確信する次第である 。我が心は最早や一足飛びに満州へ ! !   満蒙の地図を見ては希望に輝き 胸を躍らせてゐる。 満州は所謂大陸性の気候 、昼夜の気温の差の激しき事想像以上なりと聞く 。唯だ一つ心配なのは気 温の変化により咽喉をおかされるか 、或は又高温にやられるか兎に角肉体の留意にあるのみ 。炎熱の 下にあつて汗にまみれ土に埋れ 、五〇日近くの尊き汗の生活を送るのだ 。麗しの満州 、我々の祖先の 血の脈々と通ふ曠野は温き広き胸にて我を迎へてくれるらん。 男児立志出郷関だ。身体の続く限り、 精神の燃えつきるまで頑張らう。その後は Act of God 天の神 の知り給ふ事のみだ 。勿論死しても悔無し 。寧ろ満州の土となる事が望しいくらいだ 。然し母校の為 めにも又愛する両親並懐かしき兄弟等の心配せぬ様病気に犯され初志の貫徹を遂行するを得ざるが如 き事件起つた時に我何の顔せか父母にまみえん 。母校に帰れやる故郷の山河を仰ぎ見るを得やるや此 の事を慮るのみ。かかる事態の発生せんよりは満州の尊き土となるを願ひたい。

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戦闘帽をかむり国旗を胸に出発する我々だ 。学生ならざれば戦地に行くべき吾々なる事を思へば兵 士と代りはない 。天皇陛下に奉げた命だ 。鴻毛より軽き自己の運命なるを明に知る 。国の為め 、民族 の為め、陛下の為め粉骨砕身、興亜の精神の体得に努力する覚悟である。    昭和十四年六月十七日   私たちが六〇歳になった時、宝塚グランドホテルで同窓会があり、荻野目博道先生、加藤秀次 郎先生 、矢内先生の三人が来てくれた 。おかみが宝塚歌劇団出身で 、﹁パール﹂という名のミナ ミのクラブのママと同期生 。その時 、﹁お前たちは六〇になったが 、これから一〇年 二〇 年生き ていかねばならない。夫婦でも一緒に死ねない。これからはわがままが出てくるから、打ち込め る趣味を持て。夫婦は道が違ってもいい。私は、毎日聖書を読んでいる﹂と矢内先生が言った。   ちょうど妹が西川流の踊りをしていて、その友人から小唄をしないかと誘われた。三越に小唄 劇場があり、五人のお師匠さんが教えてくれて蓼派にはまり、祇園や先斗町や宮川町に引っ張り 出された。神戸でも国際会館でやりました。大阪では証券会館で。今でも月四回レッスンに通っ ています。 ⋮⋮関学らしいとは、どういうところでしょうか。国公立の学校に行っていたら⋮と思うことは ありませんか。   国公立なら、矢内先生のようなことを言ってくれる先生はいないだろう。   うちは男の子が五人もいたので、一人ぐらい軍人にしろと言われた。弟は九六歳で亡くなった

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が、 一六 歳で陸軍士官学校に行って、 私とは全く違う。軍隊というところは、 下には偉そうにする。   関学はどうか知らないが 、一般的に大学教授も扱いにくいところがある 。﹁百万円の利益を得 ようと思うたら 、一千万円稼がなあかんのです﹂と言ったら 、﹁一般常識は学内では非常識﹂と 言われた。学校関係者には思い当ることがあるだろう。稼ぐ人が偉い、という世界で私は生きて 来た 。私は中小企業の親父ですが 、 五〇 万円の金がなくて首吊った人をいくらでも知っている 。 そんなことは、なんぼでも見てきた。 ⋮⋮戦争真只中、当時の政府から関学はにらまれていましたか。その時の様子はどうでしたか。   最初は、日本と中国との戦争で、まだ穏やかでした。眠れる獅子︵中国︶は寝かせておけ、起 きたらえらいことになるぞ、と言われていた。しかし、太平洋戦争になると大変だった。   日独伊の三国同盟を結んだ時 、ベーツ先生が ﹁ジャパンは大変なことになる﹂と言っていた と小泉先生から聞いた 。青木先生の出身コロンビア大学 ︵一九二七年六月 、商学修士 MS ︶と かでは 、これは日本にとって大変な戦争ですよと言っていたらしい 。先生方は 、アメリカとい うものをよく知っていた。   特に、日本の陸軍はだめ。海軍は卒業の時に世界一周をさせてくれ、世界を見ているから優れ ておる。   私は昭和 一七 年九月に大学の商経学部を繰り上げ卒業し、一〇月に入隊した。私の入隊後、大 学も日本国民も大変なことになった 。私は軍隊に入ってしまったので 、その様子はわからない 。

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しかし、同じ世代が一番多く戦死した。 ⋮⋮今の関学は 一一 学部あって、他校との競争も激 しく、優秀な学生を多く取り込まないといけなくな りました。その中には、関学の何たるかを知らない 人も多くいます。   それは教えていないから。私学を守るのは卒業生 ですよ。卒業生がそれくらいの気持ち、母校愛がな いとだめですよ。私は、この歳になっても関学に行 きたいと思う。 ︹高等商業学校の卒業証書を取り出し、 ︺ これを見てください。私の卒業証書は特 別ですよ 。ベーツ先生の名前が書かれているのだから 。ほら 、﹁シー 、ゼー 、エル 、ベーツ﹂と 。 学校のトップの名がカタカナという学校は他にはないでしょう。 ︹この他 、文部省からの賞状 ︵満州国における集団勤労訓練に対する︶ 、コミッティ ︵学級副委員︶ 任命書 、創立五十周年関係書類 ︵記念式典式次第 、記念プログラム 、阪急電車割引券付入場券等︶ 、 ESS 発行の英字新聞

Kwansei Gakuin Observer

, No. 12 ︵ June 30, 1939 ︶をお持ちになり、全て学院史 編纂室にご寄贈くださった。 ︺   ︹池田裕子﹃関西学院のエスプリ﹄ 三〇 頁を示しながら、 ︺ 中島重先生の天皇機関説事件の時は、

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ベーツ先生が文部省に呼びつけられて弁明したとある。私の関学入学前のことだが、新聞で読ん だ。学会で凄かった。入学後、中島先生の憲法の授業を受けた。   私は入学時の成績が良かったのか 、高商入学試験の論文は ﹁現代青年の覚悟﹂ 。今覚悟するこ とは何か。しかし、その時の覚悟は本当だったのか、疑問を感じている。戦争に行かないとだめ、 ということを書かなければならない。それが本心か否か。人間として、国の方針で自由が奪われ ることはいいことなのかという疑問がある。私は疑問を持っていた。 一五 歳くらいでこういう教 育を受けた人は 、その影響を強く受ける 。学校では陸軍から配属将校が来て 、軍事教練がある 。 これは点数に入ってくる。だから他人には負けるかいと、それも必死に頑張る。だから教練でも 優秀だった。   北京にいた頃、見習士官として、軍刀下げて内地に帰りたいと思った。内地では将校が必要だ と言われた。しかし、帰ったらどこへ行かされるかわからない。陸軍に入った限りは負けるもの かという気持ちはあったが、疑問は常にあった。結局、中国の保定にあった陸軍予備士官学校卒 業後、中国に残る決意を固め、予備士官学校時代のものを内地に帰る友人に託した。   私は内閣総理大臣を務めた中曽根康弘さんと同じ年齢。中曽根さんが大阪に来る時は、徳島出 身で陸軍同期の森下元春氏︵元厚生大臣︶が同行した。だから、いつも一緒に会った。中曽根さ んと田中角栄とは人間が違う。陸軍同期には、気象解説者として活躍した福井敏雄氏もいた。森 下、福井、私の三人はずっと親しくしていた。 ⋮⋮今、お考えになって、関学にしかないものとは何でしょう。

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関学らしいというのは、

"Mastery for Service

の精神だ。それは浸透していると思う。残念な のは、ルーツを大事にしないことだ。今、自分があるのはご先祖のおかげ。      私が名誉理事 ︵一九九六年七月から一九九九年六月まで理事長︶をしている追手門学院は 、 二〇一八年 一二 月七日に創立一三〇年を迎える。その時、私は満百歳。こういう嬉しい巡り合わ せも、ご先祖様のおかげと思う。   私が理事長代理を務めていた一九九四年、追手門の祖である高島鞆之助先生の生誕一五〇年の 記念碑をその生誕地︵鹿児島︶に建立した。卒業生と共に現地を訪れ、盛大な催しを執り行った。 また、学院の創立一二〇周年記念事業︵二〇〇八年︶として、高島先生の東京青山の墓所︵青山 霊園。ここの外人墓地には、関西学院で教えた宣教師の墓もある︶の整備を行った。高島先生は 乃木大将の先輩。追手門学院小学校は、昔、陸軍の大阪偕行社付属小学校だった。   こうした積み重ねにより、高島先生の名が意識されるようになった。学院のルーツを大切にす る運営・教育へと変わって行った。   追手門は高島だが、同志社は新島襄、早稲田は大隈重信。じゃ関西学院は?   ベーツは?   そ ういう人をきちんと知らなあかん。ルーツを大事にしない学校、家庭、会社はダメになる。ルー ツがあって、 我々がある。関西学院は、 上筒井︵原田の森︶をちゃんと見ること。何がそこであっ たのか。   上本町の大阪国際交流センターで、昌平塾︵塾長は関学 OB ︶へ勉強に行っている。司馬遷の 勉強とかしている。 子孫には金を残してもダメ。 書物を残しても子孫は読まぬし、 冥 々の裡 に ︵ ﹁ 知 らず知らずのうちに﹂の意︶陰徳を積んでおくと子孫に残っていくものである。世の中のために、

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皆さんのために尽くす。今、私があるのはご先祖がいいことしてくれていたのだ。会社の正月の 年頭挨拶では、これを言うようにしている。小さな会社やけど、未だに辞めないで続けてくれて いる。学校もそう。 ⋮⋮まだまだお聞きしたいことはたくさんありますが、長時間になって参りましたので、場所を 移し、ランチをいただきながら、もう少しお付き合い願いたいと思います。本日はありがとうご ざいました。 ︻インタビューを終えて︼   齋藤さんは九九歳の現役経営者、 細身でスマート、 姿勢がよく、 柔和な笑顔で迎えてくださった。   会話の中で、ふっと﹁関学の何たるかを知らないのは教えていないから﹂ 、﹁私学を守るのは卒 業生﹂ 、﹁

"Mastery for Service

は浸透しているのに、 残念なのはルーツを知らないこと﹂ 、﹁原田 の森をちゃんと見ること、そこで何があったのか﹂ 、大先輩から大事なご指摘をいただく。   齋藤さんは強いラグビー部と美しいキャンパスに魅せられ徳島から受験した。戦争直前、時代 の空気に疑問を覚えながらも軍事教練に励む成績優秀な学生。繰り上げ卒業で入隊、戦後は今に 至るまで大阪経済を盛り上げた立役者である。そしてどこから見ても典型的 K G ボーイ。   KG ボーイはどのように作られていったのだろうか 。お話を伺いながら頭の中はその思いで いっぱいになった。知る由もない戦前だが、お話から想像が膨らんでいった。   齋藤さんが学んだ高等商業学校︵高等商業学部︶は上ケ原移転後も原田の森の私塾の伝統を色

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濃く残していた。 高商部は大学の前身であるが、 自由で民主的、 キリスト教の建学精神のもと、 ベー ツ院長はじめ教師と学生の一心同体の学生生活が営まれていた。キリスト教と人格者教師からの 教えは ﹁すべて吸収﹂ して巣立っていった。学生時代に知らず知らずに染み込こんだものはすごい。  

"Mastery for Service

を、 齋藤さんは ﹁冥々の裡に子孫のために積む陰徳﹂ という形で実践した。 一九四〇年 、ベーツ院長が日本を去る時に学生に残した "Purity "Confidence "Love も、 当 時三千人の教え子の胸深くに永く刻まれたようである。   関学には、この精神が今も底流にあるものの、随分と薄められている。古き良き時代を歴史だ けにせず、この私塾だった原田の森の学生生活の中にこそ︿関学の良さ﹀があったのだと知るこ とが今、大切なのではないだろうか。   また KG ボーイは見た目のことではない。神戸の自然やモダニズム、阪神間のライフスタイル、 それら多彩な文化がミックスされて独特のスマートさ、趣味人の遊び心あるおしゃれな雰囲気が 備わっていったと思われるが、 KG ボーイとは極めて︿関学の良さ﹀を体現した人間のことなの だと思う。   スポーツや趣味に仕事と同様の価値をおく。最も肌に合わないものが序列や権威。齋藤さんの お話の端々にも出てきたが 、官立学校とは別の誇り 。よく使われる "Noble ︵高貴な︶はスポー ツの戦いにおいてこそ大切だというのも関学らしい。いずれも、きっと私塾時代の教え、そのも のであったのだろう。   まじかに接したベーツ院長はどんな先生であったろう。齋藤さんは﹁絵になる人﹂という。英 語の上手な挨拶や演説、立ち姿、その声、言葉、温かさ⋮。憧れの先生の言葉の数々を私たちは

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今も忘れてはならない。   齋藤さんより七つ年上の私の父は上ケ原の最初の入学生 。存命なら一〇六歳 。父の母校愛を 、 中でも恩師の話は事欠かなかったが、 今理解できたような気がする。 長い間の宿題が解けたように。 齋藤さん、いいお話をいっぱい、ありがとうございました。またお訪ねします。お元気でいらし てください。        ︵辻本由美︶ ︻関西学院の変遷︵戦前︶ ︼   関西学院は、一八八九︵明治 二二 ︶年にアメリカの南メソヂスト監督教会宣教師 W ・ R ・ラン バスによって創立された。創立時は神学部と普通学部だけであったが、一九一〇年にカナダ・メ ソヂスト教会が経営に加わり、二年後、高等学部︵文科・商科︶が開設された。一九〇八年に専 門学校令による認可を受けた神学部と一九一二年開設の高等学部は、一九二一︵大正一〇︶年か ら専門部となった ︵神学部 、文学部 、高等商業学部︶ 。高等商業学部は一九三五 ︵昭和一〇︶年 に高等商業学校として独立し、専門部は二学部に。大学開設は一九三二年だった︵予科一九三二 年、法文学部・商経学部一九三四年︶ 。   キャンパスは、創立時から一九二九年三月まで原田の森︵現在の神戸市灘区︶にあったが、同 年四月、上ケ原︵現在の西宮上ケ原キャンパス︶に移転した。

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●普通学部︵予科 ・ 本科︶⋮⋮︵普 通 科︶⋮⋮⋮⋮⋮中 学 部⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮   一八八九            一八九四       一九一五 ●神学部︵英語神学科、邦語神学科等変遷あり︶⋮私立関西学院神学校⋮⋮︵次の行に︶   一八八九           一九〇八         ⋮ ⋮私立関西学院神学部⋮ 神 学 部⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮            一九一二   一九二一         ●高等学部 ︵文科︶ ⋮文 学 部⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮        一九一二      一九二一              ︵商科︶⋮高等商業学部⋮高等商業学校         一九二一   一九三五        ●大学 ︵予科︶⋮           一九三二        ︵法文学部︶⋮            ︵商経学部︶⋮               一九三四

参照

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