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保険非商品説再論(ニ)

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保険非商品説再論︵二︶ 四六

保険非商品説再論︵二︶

西

八  まず第一の点。いま保険料と保険金との交換関係を考え、そこから商晶性をみちびき出すとしても、その商品性を保険 金にのみ求めることはできない。いずれも貨幣相互の交換であるからである。すなわち保険料を指して、保険金を価格と する商品と考えることも許されなければならない。保検料のみに価格を求めるのは、別に深い根拠があってのことではな いといえる。半面的な考察というほかはない。  次に第二の点。いったい価格たる保険料は、商品たる保険金の体化として形成されるであろうか。そしてその価格は、 いかなる犠牲と補償との関係において実現されるのであろうか。私見によれば、この事情は全く存在しない。すでに示し たように、保険における体化の道行ぎは、源泉を保険料に、成果を保険金に見出すことができる。しかもこの際、前者の 犠牲に対する後者の補償という関係は、いささかも存在しない。もしそれを考えるとすれば、そのときには考察はすでに 加入者に置かれているのである。  保険料は、加入者にとっては明らかに支出であり、保険金は牧入である。その場合、この加入者における牧支の結びつ ぎにおいて、前者の犠牲は、後者によって補償される。ただこれに関する限り、加入者にとっては外部の機構たる保険資

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本の循環過程を通過するにすぎない。問題のとり上げの立場は、依然加入者に置かれている。しかもその立場が、いつの まにか保険企業のそれにすり替えられているのである。  おそらくこのことは、無意識になされたのであろう。私見によれば、ことほど左様に、保険本質に対する加入者からの 考察が根強いのである。それを私は、効用の側からのとり⊥げといった。技術の面からの考察が全く忘れられている。保 険が商品であるかどうかの問題は、加入者からではなく、むしろ保険企業の技術過程において、体化と対価との関係がい かにあるかということから、判断せられるべきである。  さらに第三の点。保険料と保険金との二つの対立した給付を、交換と見ることがでぎるであろうか。もし交換と見ると すれば、それは現在財としての貨幣と将来財としての貨幣との間に行われると購えられよう。しかしおよそ交換は、特定 の二者間の相互移転である。多数の加入者が保険料を払い込んだ後、その加入者のすべてが保険金を受けとるならば、こ のような交換が、加入者の保険企業との間に行われたと見ることはできよう。しかし、保険金を受けとるものは、すべて の加入者ではなく、蓋然的な一定数の加入者である。蓋然的な相手方への給付を交換とするのは、少くとも正常な用語と はいえない。  いうまでもなくこの蓋然性は、保険事件の発生に関している。そして、一方で保険金の、したがって当然他方でこれに 見合う保険料の、二つの給付が差然性によって規制せられるということこそ、まさに保険技術の根本であり、そこに保険 の本質が見出される。もとよりたとえば生命保険では、加入者のすべてが保険金を受けとる契約が現実に行われている。 しかしその場合は、二つの相反した翼然性がともに含みとられており、実際には異種の保険の混合にすぎぬのである。  かくして私見においては、右の三点から保険の商品性を肯定しがたい。しかし、これもまた結論を急ぐべきではない。 保険金そのものではないが、これに関係する他の何ものかが、すべての加入考において交換されるという考察から、保険      保険非商品説再論︵二︶      四七

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     保険非商品説再論︵二︶ の商品性が是認せられ得ないであろうか。 それが次に問われるべきことがらである。 四八 九  保険の商品性を安全感・安全性・保険金請求権・保証などに求める見解は、保険学においてきわめて一般的である。保 険商品説の主流は、むしろここにあるといえる。この考え方は、さぎの保険金について商品を求める考え方にくらべて、 たしかに洗練されている。しかしその場合でも、本質的には同様の誤りをおかしているというべぎである。  まず第一に、安全感・安全性などは、明らかに加入者における効用を意味する。それらは加入者にとって、ある種の心 理作用を意味するが、それを立場をかえて保険企業から見ると、いったい何を指すであろうか。それについての説明は、 この見解ではいささか、もなされていない。もっぱら加入者における保険の役割をとられて、それが売買されると結論する のである。  そういう吟味の乏しい見解、あえていえば錯覚的な考え方に対して、私はにわかに賛同し得ない。売買したがって商品 を、常識的な日常用語としてとり扱うならば、問題は別である。少くとも理論的に考察せられる限り、それらが商品たる 意味は、現実にそれの供給の側において、いかなる技術過程として成りたつかを論じなければならぬこと、すでに述べた ところで明らかであろう。  いまもし安全感や安全性が商品であるとすれば、それは関係財たる性格をもつ。けだし、一定の人間関係において成立 するからである。その人間関係は、保険においてはいかなるものであろうか。それの説明も、またなされていない。かり に説明されたとしても、その商品の価格は、直ちに保険料と考えられるであろうか。  保険商品説の中で、保険料の算定を原価計算と見るこどによって、保険の商品性を間接に明らかにしょうとする見解が

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かなり有力である。もとより保険料の算定が、一般の工業原価計算に通ずるものを示してはいる。しかし、それは保険企 業にとっては牧入の計算であり、決して支出の計算ではない。もとよりそれが価格としての保険料に役立つにしても、あ くまで費用の計算でないということに注目すべきである。単に計算技術上の類以のゆえに、これを一般の原価計算と同一 視し、ましてそれを、保険料を価格とする理論に援用すべきではない。  のみならず、さきに述べたように、みずからのものをみずから受けとるという関係に保険企業が介入するとしても、そ のみずからのものたる保険料を、ひとしくみずからのものたる保険金の価格とし、もしくはその保険金によって心理的に 与えられるある種の作用の価格と見ることには、多分の無理がある。その点で銀行を仲介者とする預金関係とも、おのず から機構を異にすると見られるのである。  いずれにしても、このような考察から、これらの安全感や安全性を、保険企業の操作によって獲得された関係財とは見 がたい。そこにおける入間関係は、保険企業の固有の技術過程において、生産によらずして生み出された財ではない。も し人間関係をいうならば、さぎに示した保険関係のほかにはこれを見出しがたく、ただその関係を加入者に即して、心理 的に安全感や安全性としていわば醗訳的に受けとるのである。  いま、醗訳された意識に商品性を与えることは、論理的に正しいとはいえない。商品性は、その纂訳以前の実体そのも のにあると知るべぎである。保険においては、この実体は、あくまで保険関係そのものである。もとよりこの保険関係は すでに保険企業を予想し、それと、それをめぐる加入者との関係を指している。加入者がこれに結ばれるということが、 単に彼の心情において、安全感や安全性として意識されるにすぎないのである。商品としての実体は、そこには見出され ない。経済的なものと心理的なものとは、つねに峻別せられるべぎである。  ところで保険金請求権や保証についても、これと同様のことがいえる。これもまた、人間関係として成立するからであ      保険非商品説再論︵二︶      四九

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     保険非商品説再論︵二︶       五〇 る。ただこの場合に、右の心理的醗訳と異って、法律的森訳がなされたにすぎない。法律的考察と経済的考察とがそれぞ れ峻別せられるべきことは、この場合にもひとしくいい得られるのである。  もっとも、関係財としての権利の売買は、経済的事実として一般に存在する。しかし、それは保険におけるとは全く意 味を異にするといわなければならない。すなわち一般の場合では、売買の前にまず権利関係が存在し、その後それの所有 が移されるのである。その点では、労働の生産物といささかも異らないであろう。そこに権利の商品性が認められること になる。  ところが保.険においては、そのような関係はもともとない。ただ保険企業が、保険料の受けとりによって、将来に保険 金を支払うべき義務を負い、逆に加入者は、保険料の払い込みによって、将来に保険金を受けとるべぎ権利をもつにとど まる。それは、あくまで法律的関係である。したがって、加入者が、保険料の払い込みによって保険関係に結ばれるとい う経済的事実が、彼において法律的に、権利として意識せられると見ることができる。これを権利の売買とするのは、用 語の類似による概念の混同以外の何ものでもない。 一〇  かく見て来ると、保険は、保険関係に対する加入者の参加を意味する。いまこの保険関係を加入老の人間的結合から捉 えて、これを協同杜会と見るべきか利益社会と見るべぎかは、全く別の問題である。それについてはすでに論じつくした ので︵本誌、三五・三八・四五・四六号拙稿︶、ここにくり返さない。  そこで、この保険関係への参加が一定の反対給付をもって行われ、そこに商品性を認めることはどうであろうか。すな わち保険企業が、保険関係への参加をみずからの労務として提供し、これに対して加入者から報酬が支払われる、と見る

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ことはできぬであろうか。そうすると、その労務は、一般の労務と同様に、ある形の商品として売買せられると見られる であろう。次にはこれを吟味したい。  さて保険関係ぺの参加という労務が、企業固有の技術過程によって提供せられると見ることそのことは、一応不可能で はない。ただその場合に、その報酬を保険料とすることについては、必ずしも問題なしとしないのである。すなわち、い ままで保険料を価格と見たときには、保険料の構成について考慮を及ぼしていなかった。そこでいま、このことに着目し て、この労務の商品性はどのように理解されるであろうか。  周知のように保険料は、純保険料と付加保険料とに分たれる。前者はそのまま保険金に体化.し、加入者においてみずか らのものをみずから受けとるという関係を形づくる。これに対して、後者にはこのことがない。保険金との対応関係にお いてのみ保険料を考えるとすれば、それは本来前者に限られ、後者は、その意味ではもともと保険料とは見られないであ ろう。つまり保険本質からいえば、純保険料のみがとり上げられることとなる。  さぎに保険の技術過程において、資本の体化が対価に結びつかないことを述べ、またその過程に企業利潤が発生しない ことを明らかにした。この考.察においては、当然に商品性の否定にみちびかれる。保険の本質に関する限り、そう見るほ かはない。  しかるにこれに対して、付加保険料については、事情は全く異る。それは、企業本来の意味において、資本の体化が対 価に結びつき、しかも企業利潤を発生せしめる。問題は、この体化がいかなる技術過程において行われ、価格がどういう 実体に対して成りたつか、ということに帰する。そのことが明らかになれば、商品性の意味はおのずから定まるわけであ る。       −       、  さて保険企業が提供するところの、保険関係に加入者を参加せしめるという労務は、保険企業によって行われる、さき      保険非商品説再論︵二︶      五一

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     保険非商品説再論︵二︶      五二 に述べた保険料から責任準備金をへて保険金に至る資本循環の操作のほかにはない。つまりこの労務の実体は、保険本来 の機構の運営そのことである。そして、このことに対する報酬として、付加保険料が受けとられる。価格たる付加保険料 は、商品たるこの労務に対するものとして理解されるのである。  このような商品の提供のために、保険企業は、一定のもとでたる資本を用意し、それに労働を結合せしめる。その点に おいて一般の企業と異るところはない。ただ価格たる付加保険料は、この労務の提供に先だって前上りせられるにすぎな い。しかもその前取りにおいて、すでに企業利潤が含まれているのである。  しかし、この前取りは、付加保険料が価格であり、したがって保険労務が商品であるということに対して、必ずしも特 別の性格を与えるものではない。問題は、このことがまた一つの資本循環を形づくるが、その資本循環が、さきに示した 保険本来の資本循環とならんで、しかも不可分のものとして成立するということにある。そのことを少し吟味しよう。  保険がもともと︵純︶保険料から保険金に至る道行きであり、しかもこの間に利潤の実現があるということに着目して これを資本循環として捉え得る。ただこの場合の利潤が企業に帰属せず、資本の体化が対価に結びつかないという特徴を 示してはいるが、ともかくそれが資本循環であることは明らかである。むしろ保険の本質はそこに見出される。  ところが他方保険企業は、企業本来の利潤を実現するについて、別の資本循環によらなければならない。しかもそれは 資本の体化が対価に結びつくという点で、資本循環として本来のものである。付加保険料は、このような本来の道行ぎに おいて存在する。そしてその付加保険料に対して提供される実体は、右の保険本来の資本循環であり、見方をかえれば保 険関係そのことである。  かくして保険においては、二つの資本循環が成立する。それらは、たがいに不可分︼体の関係で保険を形づくるのであ る。つまり、純保険料に関するものと付加保険料に関するものとであるが、前者は保険の本質を、そして後者は、この本

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質を具体的に実現する企業の操作を、それぞれ示している。重ねていえば、前者は保険としては本質を形づくるが、企業 本来の資本循環ではなく、後者は企業本来の資本循環ではあるが、しかも保険としてはその本質をなさない、ということ になる。  このような場合に、本来的な資本循環ではない第一の系統からは、もともと商品性をみちびき得ない。いきおい商品性 を求めようとすれば、第二の系統にこれを見出すほかはないであろう。しかもそれは、保険の本質を意味せず、ただこの・ 本質を具体化する操作にすぎぬのである。保険がもともと労務提供の事業であるとしても、その労務は、まことは実体を 具えていないといえる。  かくして、保険の商品性をこの労務に求めることは、単に観念上の問題とすればともかく、経済的な実質的意味からは よほど遠ざかる。商品性にそこにまで執着しなくても、おそらくは差しつかえがないのではなかろうか。これが、私にと っては根本的な問題点であり、やがて商品性の否定にみちびくのである。  さて一般の商品にあっては、資本循環はもともと一つの系統に表現せられる。それは生産たると否とに関係なく、金融 もまた本質的には同様である。その場合に、企業の弔事過程は、ともに資本体化の道行きを意味し、その帰結たる対価の うちに、企業に帰属すべき利潤が成立する。商品生成の過程は、企業にとって利潤成立の過程である。そのことが、資本 循環の本来的な意味にほかならない。  もっとも、この際保険企業の抜術的操作がサーヴノ。ス︵労務︶の提供にあるとすることは、そのこととして誤りではな かろう。ただ問題は、それが企業みずからの幻術過程として成立し、それによらなければ保険たり得ないかどうか、とい      保険非商品説再論︵二︶      五三

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     保険非商品説再論︵二︶     .       ’   五四 うことにある。そのことが究明せられなければ、たとい商品性が説かれても、、その商品性は実体から離れることとなり、 その点で観念的であるといえる。少くとも本来の意味においてではなくなる。  すでに触れたように、本質的には、保険の成立に企業の介在を必要としない。多数の加入者の間において、大数法則の もとで一定の保険事件をめぐって、保険料と保険金との全体的均衡が保たれることを以て十分とする。その意味で保険関 係は、もともと技術関係である。ただ資本主義経済組織のもとでは、この技術関係に企業が入りこみ、それがやがて企業 自体の技術過程とせられる。そこに保険企業の成立の意味がある。  この場合保険企業の技術過程は、もとよ.り責任準備金の運用を含み、むしろそれを中核とする。いわば保険本来の技術 関係は、保険企業の介入によって、資本的技術過程に高められることになる。いまそういう高められた技術に結びつくこ とによって、現実に保険関係が形づくられる。しかもそこに商品性が成立しないこと、すでに述べたところで明らかであ る。  資本主義組織のもとでは、商品形成の技術過程は、つねに企業によって支えられるそれでなければならない。ただ保険 ・においては、企業の介入以前に、すでにもともと保険関係が考えられるにとどまる。いま必ずしも、保険の歴史的発展の 跡をたどってそうであるというのではない。歴史的考察は歴史的考察としておのずから意味をもつが、ただ現実に存在す るものの奥に、もともとそういう実体が見出されるというのである。そういう意味で、少くともこの抜術過程において、 商品性が成立しないと結論されよう。  しかるに一般の場合には、このような事情は存在しない。生産においても、商業や金融においても、それらを支える技 術関係は、何らかの意味で、企業の存在をその前提とする。企業が本来的な関係に介入するのではなく、まず企業の成立 によって、生産は生産たる固有の技術過程をもつ。商業も金融もすべて同様である。そこで、その技術過程がそれぞれ固

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有の資本循環として表現せられ、それらはいずれも、支出から中入に至るところの体化の関係を示し、しかもその体化は 対価に帰着することとなる。商品性はそこに成立するのである。  ところで、このような過程をもたない保険にあっては、介入した保険企業の資本循環は、別個の系統を形づくり、独立 した道行きを示す。その道行きは、いうまでもなく付加保険料に見出されるのである。かくして企業本来の技術過程は、 さきに保険本来の技術過程を形づくった純保険料に関する資本循環を、現実に企業a経営として具体化するところの道行 きを意味する。そういう関係において二つの系統の資本循環は、ともに不可分のものとして一廉的に結合するのである。  もっともこの場合には、体化の関係は、まず細入が現われ、支出がこれにつづくという順序を示すが、その順逆はいま は問題でない。付加保険料が対価たる性格をもつことに変りはないはずである。しかもその対価のうちに企業利潤が含ま れるという点から見れば、それもまた資本循環として表現せられ、かつそれが企業本来のものとして理解できる。  保険の商品性を説くとすれば、それをここに求めるほかはない。それは、企業によるある種の操作、すなわちサーヴィ スという意味においてそうである。しかしながら、それが商品たる実体は、実はこの系統のうちには存在せず、実は別個 の系統、しかもそれが保険本来のものであるところの第一の系統、いいかえれば保険関係のうちに見出されなければなら ない。一般の商品にあっては、商品性が、みずからの技術過程において、ただ一つの資本循環の中に見出されるのとは、 事情を全く異にする。  そういう場合に、商品性の概念をここ・まで拡張することはどうであろうか。たといそれが許されたとしても、その商品 性は、多分に抽象的・観念的であるといえる。少くとも保険本来の実体、すなわち保険関係そのものを説明していない。 ここでは、むしろ商品性を否定するに如くはないこととなる。 保険非商品説再論︵二︶ 五五 、

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保険非商品説再論︵二︶ 五六 =一  もっとも、これに対してさらに反論がなされるであろう。それによると、保険という商品は、将来において保険金の支 払いをするという約束の提供を、サーヴ旨スの内容とするというのである。ここで問題は二つに分たれる。その一は、こ こにいう約束とは経済的に何を意味するか。その二は、その場合にサーヴィスはいかなる意味で商品となるか、というこ とである。  まず第︸の点。さきに保険金請求権や保証について述べたところですでに明らかであるが、約束そのことはすでに法律 的概念である。その約束が売られるというならば、その際の価格は純保険料であるか、付加保険料であるか。もし前者で あるとすれば、みずからのものを受けとるために予め支払うところのものが、いかなる関係において価格たり得るであろ うか。約束が参加によって与えられると見るとしても、同様の問題が起る。かりに保険企業の仲介を前提としても、右の ことに変りはない。  みずからのものをみずから受けとるということは、ある意味において蓄積の行為である。その点で、保険関係は預金関 係と一連をなすであろう。ただ預金の場合は、蓄積の額は、それの預金者において、これがために予めなされる払い込み がこれを定める。それは、払い込み以上に出ないのである。もっともその際、銀行における運用利潤は除かれている。い ま保険において責任準備金の運用を除いて考えれば、結果は同一である。  しかし保険においては、この蓄積は、加入者個人について成りたつのではなく、加入者を全体としてのことである。い わば保険は杜会的な蓄積の制度として理解ぎれる。保険の本質を貨幣準備に求める見解も、またこの点から肯かれること である。それは、二つの保険事件をあわせ持つ養老保険はもとより、その他の保険とくに損害墳補を目的とする保険にお

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いても異るところはない。  第二の点。いまこの反論的見解は、このようなことが保険企業のサーヴィスとしてなされることに着目して、それを商 品とすることにおいて、たとえば証券業が証券の売買を手数料によって行うのと同様であるとするようである。しかし、 この場合の証券業は、すでに別の経済関係から成立し、それが証券の形に表現せられるところのある種の関係財について それの所有の移転を仲介するにとどまる。この仲介の労務を商品と見ることは、この手数料を価格と見る限り、もとより 誤りではない。  これで明らかなように、証券業は、それによらずしてすでに成立している有価証券としての財に、単にその流通関係に おいて参与するにすぎぬのである。もとよりこの参与なくしては、この財の価格の成立は現実には考えられない。しかし それは、このような流通機構の発達・整備によって、価格がより精確に需給を反映し、その意味で商品性を高めるという ことを意味するにとどまり、有価証券の商品たる性格は、証券業の外において、未成熟ではあるが、すでに定まっている と考えられるのである。その点で一般の仲介業と異ならないし、商業がすでにその外において生産を前提とするのと、本 質的に異ならないといえる。       −  しかるに保険においては、保険が商品たる性格が、保険企業の介入以前すでに定まっており、その需給関係を円滑なら しめることに保険企業が参与するのではない。保険の労務がサ.ーヴィスたる意味で商品であるとしても、それの実体がす でに未成熟な商品として成立することによって、重ねてその労務が商品たり得るわけではない。有価証券においては、そ れ自身とそれの取り扱いとの両面において、成熟度を異にしたそれぞれ別個の商品が、いわば二重的に成立する。保険に おいてはそれが認められない。その場合に、後の面において商品性を考えるのは、少くとも保険の本質にふれた見解とは いえないのである。      保険非商品説再論︵二︶       五七

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     保険非商品説再論︵二︶      五八  そこで、前稿に述べたところが再びここで引出される。すなわち、保険がたといどのような意味であれ、それに商品性 を認めようとするのは、単に宇戸的であり、すすんでいえば慣習以上の何ものでもないということである。経済はたしか に交換の機構であり、商品がそこに成立することはいうをまたない。しかし、およそ商品の生産・流通のみが経済であり それを直接にとり上げることが経済学であろうか。私は、むしろそのことに疑問をもつのである。 一三   経済がもともと交換の機構であり、それにおいてそれぞれの企業が、それぞれ固有の技術過程をもち、それらが資本循  環に表現せられる。生産も商業も金融もこの技術過程から見た分類である。いずれも有形・無形の商品に関係している。  かくして経済は、﹂商品の生産・流通の機構として理解される。しかしおよそ交換の機構が経済であるとしても、直接に交  換そのことによらなければ経済でない、いいかえれば交換関係のみが経済学の対象とせられる、と考えてはならないので  ある。   生産が経済であることに疑いはない。それならば消費はそれに対応して、経済と考えられるであろう。しかし、これに  は一つの条件が加わる。すなわち、それが企業によって、利潤追求の過程として行われるということである。その点で家  計における消費は、少くとも一面ではこの枠からはみ出す。しかしそれがやはり経済として理解せられるのは、交換の関  係に結ばれているからである。   生産もまた、その技術的な意味で財の生成過程にのみ着目するときは、経済そのものとはいえない。もとよりその過程 ’は企業において存在するけれども、それを交換から離れて見る限り、単純に技術関係であるといえる。いまその関係が交  換によって支えられ、それに結びつくことに着目して、やはり経済であるとせられる。

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 いうまでもなく資本主義経済組織は、生産を複雑化しそれを迂回的ならしめる。経済機構は、そのまま商品生産の機構 として理解せられる。それは決して、生産の技術的構成の分化や高度化を意味するのみでなく、実はそれを然らしめる交 換関係の多様な深化に裏づけられている。そういう点で生産は、経済の基礎であり中心である。富が生産を離れてあり得 ず、もろもろの所得が生産に根源を求めるのも、またこのゆえにほかならない。  かくしておよそ経済は、すべて交換関係において成立し、またそのように理解される。しかし、それは交換そのことの みを直接に指していない。商品は、もともと交換そのことにおいて直接に獲得される資格であるが、間接に交換関係に結 ばれるものは、商品の概念を持たずして、なお経済として理解されぬであろうか。  いったい交換は、その相手方を貨幣にもつ。物々交換は、少くとも資本主義経済組織における交換を意味しない。した がって交換の手段たる貨幣は、それを価格とするいかなる財をも獲得する能力を、社会的に認容される。貨幣が購買力で あるというのはそれを指している。いまそう購買力が企業に所有せられて、利潤実現の過程に登場するとき、貨幣たる形 において資本の資格を獲得する。すなわち資金である。  この購買力は、あるいは単に貨幣とし℃、さらにとくに資金として移転し、所有をかえる。その移転は必ずしも直接に 交換の形をとるとは限らない。交換の形をとるところの移転は、それが資金としてなされるとき、いわゆる金融の概念を 形づくる。その場合には商品性が成立することすでに明らかである。しかし、必ずもし交換の形によらない場合でも、そ れが資金の移転たることに着目して、これを金融と呼ぶことを妨げぬであろう。つまり、金融の概念としては広義のもの を形づくる。保険は、本来このような金融の一つとして理解できるのである。  この場合には、もともと直接に交換関係に置かれていないが、何よりも交換の手段たる貨・幣に関するという意味で、間 接に交換に結ばれている。むしろ貨幣の移転という点で、金融の基盤を組み立てるのである。もっとも、国民経済的な作      保険非商品説再論︵二︶       五九

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     保険非商品説再論︵二︶      六〇 用の中核をなし、金融市場を実質的に動かすものは、概念としては狭義のものであるところの、交換の形をとると解せら れる資金の移転すなわちいわゆる貸借であるけれども、それはここでの問題ではない。  ここで問題となるのは、貨幣とくに資金の移転が直接に交換の形をとらないからとて、それが直ちに経済の外であると は考えられないということである。日常経験が何よりもよくこのことを知っている。学問は、日常経験がすなおに受けと ることを吟味し、しかもこれを究明することにその使命をもつべきである。それは決して、便宣的・慣習的な概念の使用 を意味しない。  かく考えると、このような貨幣や資金の移転は、商品たる性格をもたずして、なお根本的に経済そのものの実体を具え ている。経済は、商品性の外にも広くこれを見出し得るという、きわめて大胆ではあるが重要な結論を、いま改めて反省 しなければならなくなる。保険がもともと︵純︶保険料と保険金との形で、みずからのものをみずから受けとるという貨 幣関係であることは、すでに述べた。これに下陰企業が介入することによって、これらの貨幣はともかく利潤発生の過程 に置かれ、資金たる性格を帯びる。しかもその場合、この保険企業を中心として、加入者との間の資金移転の関係が浮び 上ることになる。  この考察において、商品たることなくして保険の本質が形づくられるというべきである。ただこの本質を現.実に企業の 操作とする付加保険料の過程において、すでに触れたような商品性を老えるとしても、それは経済的実体から離れた観念 にとどまる。保険はそれ自体経済の大きな部門を形づくりながら、しかも商品性によることなくして理解されるのある。  いま保険を商品と見ないということは、保険の本質に対するいわば消極的な理解であるが、これを積極的にいえば、金 ・融と見ることができる。もとよりそれはいくつかの特徴を具え、重大な制限のもとにそのようにいえることである。その 特徴も制限も、すべて右に述べた考察に結びつくことであり、またその当然の帰結にほかならない。それについては、い

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ずれ稿を改めたいと思う。 [四  右で私は、保険の非商品性をめぐって、いくつかの点で老妻を重ねて来た。この.考察において、予想し得られる疑問を 提出し、みずからこれに答えるという方法によったのである。もとより説明の冗長にもかかわらず、問題のとり上げが十 分でなく、意をつくし得なかったこととともに、盲断におちいっていないかをおそれる。しかしそれらの考察において一 慣するところがほぼ諒解されたであろう。そういう理解によって、保険学の私なりの体系はほぼ出来上るといえるのであ る。そこで最後に、この結論から、なお一、二のことにふれたいと思う。  まず第一の問題。保険がすでに、すべて貨幣に関することであり商品に関することでないということは、その資本循環 に着目して、保険資本が商品取扱資本でなく、貨幣取扱資本であることを意味する。これについてさきに紹介した庭田氏 は、次のように述べている。   保険商品説が否定せられる以上、保険資本の商品取扱資本説は正しくない。保険が商品でないから保険資本は商品取扱資本ではない  のであり、保険資本の運動形態が商品取扱資本の運動と相違することから、保険は商品にあらすとする結論が生するのである、保険資  本は貨幣取扱資本の一種であると規定するのが正当である。   商品取扱資本と貨幣取扱資本とは、ともに商業資本の分裂肢体であって、その資本はどちらも商業資本であるという点で一致してい  る。貨幣取扱資本は貨幣の流通に.関係をもち、商品取扱資本は商品の流通に関係をもつ。そして貨幣取扱資本家は、商品取扱資本家が  自己の資本の一部を流通資本に投下するように、その資本をば流通費に投下する。つまり商品取扱資本家は、たいていの場合、資本の  大部分を商品の購買のために投下し、他の一部をそのほかの商晶売買上、簿記上の純粋流通費のために支出するのに対して、貨幣取扱  資本家は、産業資本家や商人たちの流通内にある貨幣資本を取扱い、決して流通に必要な貨幣量そのものを貨幣資本として投下するの  ではなく、貨幣流通の技術的媒介に必要な貨幣量だけを投下し、これを貨幣の純技術的諸操作のために必要な事務所、その敷地、事務 保険非商品説再論︵二︶ 六一

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保険非商品説再論︵二︶ 六二  上の諸要具や労働力などの諸費用、つまり純粋流通費用として支出するのである。この貨幣取扱資本と商品取扱資本の諸相違点を比較  し、かつその運動形態や性格を考潔してみれば、保険資本が商品取扱資本では決して、実に貨幣取扱資本なることは分明である。   ︵庭田、前掲、商学年報、一四三∼四頁︶  右で、貨幣取扱資本が商業資本の一種であるとすることについては、もう少し吟味が加えられなければならない。それ が金融資本と考えられぬであろうかという問題が、ここに残されている。しかしいまの課題ではない。  この見解は、明らかにマルクス経済学に立っての結論であり、その立場からの保険経済学の発展のためには、保険商品 説の克服が絶対に必要であるとするが︵前掲、一三八頁︶、私見はやや趣を異にする。まず一定の学説的立場をとってのこ とではない。もしそれのみであれば、ある意味では機械論となるであろう。私の根本的な態度は、現実に経済として存在 するところのものを、すなおに受けとりながら、疑問を重ねることによって深く吟味し、既製の表現や概念に無反省に固 執しないということである。それがどの学説に属するかは、全く別の判断に属するといわねばならない。  第二の問題。これは保険の将来性に関するいわば予言的立論である。もとよりこれについては十分な検討をへなければ ならないので、いまは大綱を述べるにとどめる。  すでに保険の本質が、保険関係にあることを明らかにした。つまり、それの技術機構に大きな特徴をもっている。いま この技術機構にのみ着目すると、それが必ずしもいわゆる保険の独占ではないことを知り得るであろう。ここにいわゆる と、とくに述べたのは、今日保険と名づけられないままに、あるいは保険として次第に近代化し、かつ保険にきわめて近 似した機構が顕著となり、保険との競合関係を来たし、保険の領域をおかしているからである。ひろい意味では、すべて 保険として理解して差しつかえがない。いわゆるというのは、その狭い意味であり、資本主義経済組織のもとで、近代的 な経営として行われているものを指す。右ではもっぱらこれをとり上げたのである。

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’  このような広義の保険として、共済組合や画会補償などが考えられよう。いまそれらの定義を述べ、それらと保険との 相違を明らかにするつもりはない。いずれにしてもこれらの制度が発達して、保険が現に果している機能に影響を与えて いることは事実である。そういう際に、そのことから保険の将来性をトするのは、はたして早急であろうか。  さらに別の面では、自家保険が考えられる。もともと自家保険は、いうまでもなく俗称であって、厳密には保険そのも のではない。それに大数法則がはたらくとしても、企業本来の経営において、それに所属する同種の多数財産について、 減価償却のある形として行われるからである。これもまた企業の大規模化に伴って、その領域を拡大しでいる。このこと が保険に与える影響もまた、冶と同様にとり上げられるのである。  いずれにしてもこれらの制度や経営の機構は、あるいは家計の立場から、あるいは企業経営の面から、少くとも保険の 領域をおかし、これに代るべき道程にある。そこでまず家計の立場からいうと、将来にわたる生活設計は、死亡・疾病・ 傷害のみならず、老後の安定のた夢の年金についても、かなり広汎の保証がこれによって与えられ、すべてを保険に求め る必要が乏しくなる。  ところで、保険が貯蓄としての機能をもつことについては、すでに述べた。もっともこの場合の貯蓄性は、聖遷的な意 味においてであるが、個人的な意味においてもある種の保険は、明らかにその役割をもっている。この役割は右の諸制度 でも果されているし、信託などの金融的方法でもまた満たされる。保険はこの点においても競合せざるを得ない。  さらに自家保険について見ると、技術⊥の革新がいちじるしくなると、機械設備の保全や損害の防止は、経営内部にお いて合理化され、ことに資本蓄積が大となるにしたがって、その傾向を強くする。あえてこれを保険に頼らずとも足るよ うになる。現に一部の産業では、それが支配的となっているのである。  資本の蓄積が大となるに伴って保険の領域が逆に制限されるということは、反面で、保険が、企業の経蛍基礎が弱少の      保険非商品説再論︵二︶      、      六三

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     保険非商品説再論︵二︶       六四 場合に要求せられる、ということを意味していないのであろうか。家計の部面でも、蓄資保険は、貧困のゆえに成立する といえぬわけではない。企業にとっても家計にとっても、それの基礎が充実すると、逆に保険への依存はそれだけ減少す ると考えられるであろう。これはまことに奇妙で皮肉なことであるが、そのような傾向を無視することはでぎない。  のみならず保険企業の側から見て、責任準備金の運用は、ぎわめて重要な要件であったが、それもまた多分の影響を受 けるであろう。産業における資本の蓄積が堅実となると、大産業への投資に頼った保険資本の運用は、かなりその分野を 狭められ、諸産業との結びつきは、むしろ銀行との間におけるそれに移向を顕著にするであろう。いぎおい好むと好まざ るとにかかわらず、保険は中小企業に向わざるを得なくなる。ここにおいても、共済組合との競合が考えられることにな る。  さらに注意すべきことがある。いったい企業が保険に結びつくのは、損害の墳補に出発する。しかし、経済と政治との 一体化が強くなると、大規模の損害やそれによる経営上の障害が重大である場合には、国がこれに関与し、政治の上でこ れを救う手段が講ぜられる。あえて、それぞれの企業の責任だけでこれを処理する必要はないであろう。ここにもまた保 険への影響を見ざるを得なくなる。  もとより右のような可能性が、いま直ちに存在するというのではない。保険は今日まで、あらゆる部面で発展し、また それを続けている。しかしその発展の中にも、なお右のことを窺うべきである。その意味で保険は、転換期を迎えつつあ るといえるであろう。このような見解が、すでに学者のうちに見られるということは、十分に吟味せられなければならな い︵たとえば佐波宣平博士︶。 一五

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 右で私は、保険をもっぱら資本主義経済組織においてとひ上げ、その技術過程に着目した。社会主義経済組織について は、これを考慮の外に置いたのである。そこで、この組織のもとでは保険はいかに理解せられるであろうか。このことが 結びとしてとり上げられる。  社会主義経済組織のもとでは、経済は政治と密着して不可分をなしている。そこで、資本主義経済組織のもとにおける と同じ意味では保険を考え得ぬかもしれない。しかし、すでにくり返したように、保険がその技術過程において特徴を持 つとすれば、それはこの場合にも支配している。そして、そこではもともと商品性を考え得ないこと、おのずから明らか である。のみならず、資本主義経済組織のもとで考察した右のことは︽多かれ少かれ姿をかえて、祉会主義経済組織のも とでも老えられる、とせねばならない。  保険が、少くとも現存の形において、商品と見られ得ないことは右の如くである。まして、将来における変化を考慮に 入れると、これにのみ執着して保険を理解することについては、多くの問題と疑問とが残される。それは、保険を商品と しないことによって、理論づけるほかなくなるであろう。保険を金融と見ることは、あるいはこれに答える途となるかも しれない。ただ、いかなる意味でそう理解するか、そこにおいて何をとり上ぐべきか。それらは後に与えられた課題であ る。 保険非商品説再論︵二︶ 六五

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