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長歌贈答

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Academic year: 2021

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天徳二年(九五八)七月のことであったろう。﹃煩輪日記﹄の作 者「右大将道綱母」は' 愚 へ た ゞ       音 も 今 も   わ が 心 のどけからでや 果てぬべき と詠み出される'二三句に及ぶ長歌を夫兼家に贈った。すると 兼家からも作者に' 折-そめし 移ろふ色は 時の紅葉の きのみこそ 定めなく あふあきごとに 常ならめ とはじまる'これまた八九句の長歌を返すのであった。結婚後すで に四年の歳月が流れ'結婚翌年に誕生したT子遣綱も数え四歳に成 長していた。日記によれば'兼家が「出づとては'かならず﹃今釆 むよ﹄といふ」のを道綱が「聞きもた-て'まねびありく」までに 西     木   なっていたとのことである。 本敦はこの二大長歌について考察したものである。 町の小路の女のもとでは'「子産みてしよ-'すさまじげ」になり, 加えて「産みの∼しりし子」までも死ぬという事態を招来してしま った。道綱母は「今ぞ胸はあきたる」気分になったとはいうものの, これで夫の足はわがもとにと思ったのとは裏腹に'「今ぞ例の所に ぅち払びて」通っていると聞く有様である.垂れこめた暗雲千切れ て晴れ渡るかと思ったが'やは-彼女の周辺を寧っ雲は7向に切れ 目を見せてはくれなかった。加えて四歳の道綱が夫の帰-際のこと ばを真似るまでになったという。遣綱の罪のなきが却って彼女に宰

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さを思わせるのであった。 こうした日々を過ごすうちに「なまさかしらなどする人」が「若 き御ここ竜に」などという.1万'兼家は「﹃われやあしき﹄など' ぅらもなう'罪なきさま」.P平然と構えている.「なまさかしらな どする人」が古女房なのか'または隣人なのか判別しがたいが'い ずれであっても彼女の胸をひっ掻きまわす言葉であることには相違 ない。なぜなら'彼女の狭量さを的確に言い当てているのだから。 とすると'この発言は隣人とするよ-も古女房とする方がよ-相応ノ しい?たとえば天暦十年(九五六)七月の条と対比してみれば'納 得できる筈である。 それは'作者邸を訪れたものの彼女の磯雄斜めゆえに兼家が「倒 るゝに立ち山」と帰ってしまった折のことであった。その時「近き 隣に心ばへ知れる人」がいて'兼家が作者邸を出るや否や「藻塩焼 -けぶりの空に立ちぬるはふすべやしつる-ゆる愚ひに」と詠んで 来た。この隣人の歌から'やんわ-と制するがごとき心配-が窺え るであろう。 しかし'今回の「若き御ここらに」という発言には辛沸きが見え る。柔らか-諌めるのではな-頭ごなしに叱責する姿勢が見える。 だから古女房をこそ相応しいとするわけである。ところで'兼家は 「われやあしき」と1向に平気でいる。こうなると彼女の憤漕やる かたな-'胸にわきあがる憤怒は彼女を「ものいほれず」の状態に まで追い込んでしまう。彼女は「なは書き続けても見せむ」と思っ て 「 恩 へ た ゞ   昔 も 今 も   わ が 心   の ど け か ら で や   果 て ぬ べ き --」の長歌を「二階の中」 に書き置くまでに至ったのである。「も のいほれず」.の状態に陥った彼女は兼家にわが胸中を表明する術も 見つからなかったようだ。しかし'それを振-切って強いて長歌を したためようとする思いが「なは」にこめられている。 詩情は奔流となってほとばし-出た。時には挑むがごとく'また 時には槌るがごと-詠みあげられた長歌は'7夫多妻制下で苦悶す る女性の心情が吐露されていて'哀切きわま-ない一大長歌となっ たのである。 二 ﹃万葉集﹄には巻一(一) の「嚢もよ み寵持ち ふくしもよ みぶくし持ち--」 (雄略天皇) の長歌 (1七句) から'巻二十 (四四六五) の「ひさかたの 天の門開き 高千穂の 岳に天降-し 皇祖の--」(大伴家持) の長歌(玉九句)まで'二六四首(佐 々木信綱編﹃万葉集事貰ハ﹄) の長歌を数えることができる.中で も'最長のものは巻二(一九九)の柿本人麻竃の長歌で「かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに恐き・・・・・・」と詠み出される'7 四九句に及ぶ長大なものであった。なお'二六四首に及ぶ長歌には' ほぼ「反歌」が見えるが四五首にはそれが見えず長歌のみである。 こうした「反歌」を有する長歌は'いわゆる二期以後である。長歌 隆盛の頂点は柿本人麻呂にあり'以下金村・赤人・家持・福麻呂ら に特色ある作品が残されていった。 だが'﹃古今集﹄に至ると巻十九「雑体短歌」に

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7 0 0 1     超 し ら ず   よ み 人 知 ら ず ー ( 五 三 句 ) 一 〇 〇 二     ふ る 歌 た て ま つ り し 時 の も く ろ く の 、 そのながうた  貫之-(六三句) 7 0 〇 三   ふ る 歌 に く は へ て ' た て ま つ れ る な が う た 壬生忠苓-(八九句) 7 〇 〇 五   冬 の な が う た   凡 河 内 窮 恒 -( 二 五 句 ) 70〇六 七条の后うせ給かにけるのちによみける 伊勢-(二七句) の五首が見えるのみで'﹃万葉集﹄から﹃古今集﹄へと時代が移 るにつれてその数は激減している。また'反歌について見ても一〇 〇三の反歌として「君が世にあふきか山の石清水木隠れたりと思ひ けるかな」の7首が見えるのみである。なお'﹃古今集﹄巻十九「 雑体」中に五首が「短歌」として入集していて,古くから疑義を抱 かれて来たところであり'﹃俊頼髄脳﹄﹃古来風体抄﹄などをはじめ として'種々とり上げられて来た。たしかに竹岡正夫氏が「勅撰詩 集をうけて成った最初の勅撰和歌集である古今集に﹃雑体﹄の部を 設け'その中に「短歌」と称する部を立てているのも,多分にこの 雑言体の影響を受けてのものではなかったかと考えられるのである。 --貫之ら撰者が新し-設けた和歌の﹃体﹄の種数名であったと考 (注1) ぇられるのである」とされているが'「実際には長歌を収める。﹃短 歌﹄と記す理由は'平安末期以来諸説あるが、夷に納得できる説は ( 注 2 ) ない」というのが現状であろ告やはり「不明」とする以外になか ろ う 。 因みに'﹃古今集﹄以下﹃新古今集﹄までの「八代集」を見ると' ﹃拾遺集﹄巻九雑下に「ながうた」として、 五 六 九   よ し の の 宮 に た て ま つ る う 五七一 身のしづみけることをなげきて'勘解由判官にて 五 七 二     返 し   よ し の ぶ -( 六 1 五 七 三   あ る を と こ の も の い び 侍 侍-て'としごろありてせうそこして侍-けるにを とこのよみ侍-けるよみ人しらずー(六1句) 五七四 円融院御時'大将はなれ侍-てのちびきしくまゐら で'そうせきせ侍-ける 東三条太政大臣I(7〇九句) の五首がみえ'五七一と五七二は贈答歌である。また五六九のみ 「見れどあかぬよしのの河の流れてもたゆる時な-行きかへ-見む」 を反歌として五七〇に入集している。 次 に ﹃ 千 載 集 ﹄ 一 六 〇 1 五 七 一二ハ二

二五九

二六三

一二ハ○ に巻十八「雑歌下雑体短歌」として' 堀河院御時'百首歌たてまつ-ける時'述懐のう たよみたてまつ-侍-ける 源俊頼朝臣-(五7句) 百首歌めしける時'よませ給うける 崇徳院御製-(四≡句) おなじ百首歌たてまつ-ける時のなが歌 待貿門院堀河-(五三句)

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の三首が見え'「よのなかほうき身にそへるかげなれやおもひすつ れどはなれざ-け-」を 六 〇 五 七 の反歌として入集している。 以上'﹃古今集﹄以下の「八代集」から長歌を抜き出したわけで あるが'ここでそれぞれの長歌の作者を確認しておこう。つま-' 男女に分けてみると' 古今集-男性三名'女性7名'不明1名 拾遺集-男性四名 千載集-男性二名へ女性1名 となって'男性九名に対して女性二名ということになる。(なお' 「よみ人知らず」は不明ということで'この際は埼外にしている。) この九対二という比率はやはり男性に偏っているといえよう。 次に﹃三十六人集﹄を見ると'次の通-である。 窮恒集 伊勢集 赤人集 源噸集 小町集 忠寄集 能宣集補遺 伊勢集補遺 忠寄集補遺 となっていて' いる。 二首(1首古今集入集'他1首出所不明) 二首(一首古今集入集'他7首出所不明) 三首(三首とも万葉集入集) 1 首 ( 拾 遺 集 入 集 ) 1 首 ( 小 大 君 集 入 集 ) 一 首 ( 古 今 集 入 集 ) 1 首 ( 拾 遺 集 入 集 ) 一 首 ( 出 所 不 明 ) 1 首 ( 出 所 不 明 ) 計二二首中他歌集入集九首'出所不明四首となって ﹃散木奇歌集﹄巻十にも三首(千載集二首、新勅撰集7首)見え る。 以上で'一応和歌文学を終え'物語文学に視点を変えてみること にする。 ﹃ 字 津 保 物 語 ﹄ で は 「 菊 の 宴 」 の 巻 に 母君(実忠妻)ト(九一句) 源宰相(実忠)-(三五句) の二首が見えるが'ともに反歌がない。なお'同物語は男性作者に よるものであることを確認しておこう。 ﹃多武嘩少将物語﹄には このひめ君-(五五句)-やま (小少将の君・高光)-四九句 の二首あ-'ともに反歌がない。 ﹃ 平 仲 物 語 ﹄ で は この男-(玉九句) が見え'「しるしあらむものならなくにあしびきの山の山すげやま ずかなしき」を反歌としている。 ﹃ 栄 花 物 語 ﹄ 巻 九 「 い は か げ 」 に 左衛門督頼道北の方1山九九句 内大臣殿の北の方(義子)-1〇五句 が見え'前者は「水茎に愚ふ心を何事もえも書きあへぬ涙な-けり」 後者は「君もさば背の人と愚はなん我もかたみに頼むべきかな」を それぞれ反歌としている。

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その他'﹃伊勢物語﹄ ﹃大和物語﹄などには一首も見えず'﹃源 氏物語﹄﹃夜の寝覚﹄﹃狭衣物語﹄﹃と-かへばや物語﹄﹃堤中納言物 語﹄﹃浜松中納言物語﹄の諸物語にも長歌は7首も見えない。日記 文学では﹃土佐日記﹄﹃和泉式部日記﹄﹃紫式部日記﹄﹃更級日記﹄な どに見えず'中世の﹃十六夜日記﹄の1五1句に及ぶ長歌1首と反 歌丁首とを待たぬばなるまい。 因みに「八代集」以後を見ると' 新勅撰集 巻二十(四首) 源俊頼朝臣(1首)'皇太后営大夫俊成(叫首)'活輔朝臣(7首)' 上 西 門 院 兵 衛 ( 1 首 ) 新千載集 巻十八(三首) よみ人しらず(1首)へ大炊御門右大臣(1首)'参議雅経(7首) 新拾遺葉 巻二十(五首) 赤人(1首)'よみ人しらず(f首)'大納言経信(1首)'花山 院(7首)'左京大夫顕輔(一首) 新続古今葉 巻十九(四首) 大納言経信(叫首)'後小松院(1首)'頓阿法師(1首)'大納言 雅縁(1首) と入集していてやは-女性作者の作品は﹃新勅撰集﹄の「上西門院 兵衛」 1首のみである。 ここで'﹃万葉集﹄における主たる長歌の作者の長短両歌数を表 示してみよう。 ︹ 各 歌 人 の そ れ ぞ れ の 歌 数 は ' ﹃ 万 葉 集 歌 人 事 典 ﹄   ( 大 久 間 喜 一 郎 ' 二 五 二 ≡ 三 九 ≡ 二 四 森浮司'針原孝之編。雄山閣出版株式会社)によった。︺ 右の表で'長歌の作者がほぼ男性歌人達によって占められている ことがわかろう。額田王へ倭太后'持統天皇'大伴坂上郎女の女性 歌人が長歌1二首(平均三首)'男性歌人は10人1二九首(平均 1二'九首)である。平均値の開きはあま-に大きいo ﹃古今集﹄に至って長歌衰退は否めぬ事実であって、その理由につ いて曽田文雄氏は「長歌とは'つま-'散文では表現し得ないがた め'止むを得ず採られた方式であった。散文というものが練-上げ られ'自由に書き表わせるようになる暁には'長歌は所詮消え去る べき運命におかれていたのである。長歌とは'散文形式がいまだ発 達しきっていない時代の産物だったのである」と述べられ、また'

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高木市之助氏はいくつかの理由をあげられたが'その中で「五七調 から七五調への推移によっても'歌の調がやわらかになってゆくが' 強く逗しい格調によって長い緊張が維持されていた長歌が」なだら かでやわらかい調子によってその単調性と無力さとを1層増すこと ( 注 4 ) になり'これもまた長歌衰退の原因となったとみるべきである」と 述べられた。 私は'長歌はもともと男性歌人がその主流をなしていたと考える。 それが平安時代の女流文学時代に入るにつれて'当然にして衰退し て行ったのである。そうした中で長歌を詠みあげた女性(つま-' 額田王や大伴坂上郎女に続-女性)は'伊勢・小野小町・道綱母で あった。私が'本節で時折物語作者が男性であること'勅撰集の長 歌の作者が男性に偏っていることなどを確認してきたのは'こうし た事実を証するためだったわけである。 村上・冷泉・円融朝あた-までは細々ながらも詠まれてきた長歌 も'それ以後は衰退の7路を辿るにつれて'男性歌人さえもあまり 長歌を詠まなくなって行ったのである。 ﹃煩輪日記﹄の作者は'安和二年(九六九) に あはれいまは かくいふかびも な け れ ど も     恩 ひ し こ と は   春 の 末 花なん散ると 騒ぎしを と詠み出した二七句に及ぶ長歌を源高明夫人「愛宮」に贈ったこ とが'﹃鯖輪日記﹄中巻に記されている。天徳二年の兼家との長歌 贈答からすでに十1年が過ぎていた.700句を越える長歌を二首 詠みあげた彼女は'さすがに歌の名手だったわけである。 三 長歌衰退の時期に道綱母が長歌形式を採ったのは'三十1文字で は表現しえぬ胸中の思いがあったゆえであろう。申西進氏によれば 「公的な歌は長歌に'個的な歌は短歌に偏る傾向が認められ」て, ( 注 5 ) 「長歌は晴の文学であ-'短歌は嚢の文学であった」とのことであ る。長歌の作者に男性偏向が見えることは'前節で述べたところで あるが'公的な場に関わる機会が女性に比して男性の方がより多い ゆえの結果であろう.争フした女性に関わ-の薄い長歌を強いて採 ったところに'彼女の1途な思いが潜んでいたわけである。 作者詠出の長歌を形式上から眺めてみよう。まず'「思へたゞ 昔も今も わが心 のどけからでや 果てぬべき」の五句が序とし て冒頭に据えられてお-'「愚へたゞ」と詠み出しておいて'「音も 今も--果てぬべき」と整然たる七五調で詠んでいる。しかし' ( 注 q > ) 「以下このままの調子で進んで行-」というのではなくて、 また古里に 帰る列にやと 産れどかひなし わが身空しき いましも人の か-がねの 愚ひっ∼ か く し っ ゝ 蝉 の 羽 の 薄からず の「かくしっ∼」が本来ならば「経れどかe)なし かくしっゝ」と

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七五調になる筈であるが'「経れどかひなし」で句切れにな-'「か -しっ∼」「わが身空しき」以下に係ってい-のである。また' く る 程 を だ に     待 た で や は すくせ絶ゆべき 阿武隈の 逢ひ見てだにと 愚かつゝ の「阿武隈の」が次の「逢ひ見てだにと」の句に係っていて'前句 「 す く せ 絶 ゆ べ き 」 と で 1 ま と ま -に は な っ て い な い . こ こ は 「 待 たでやは すくせ絶ゆべき」とまとまっていて五七調になっている。 1万'兼家の長歌は'第1句「折-そめし」が二句「ときのもみ ぢの」の「とき」に係-つつ'まずは七五調で詠みあげられる。た だし'贈歌に見えた調子の崩れが返歌に見えないというのではな-' 「嘆きの下の この葉には いとゞいひお- 初霜の 深さ色にや なりにけむ」の'「いとゞいひお-」で一応切れていて'揺れはあ るわけである。「道綱母の方が百二十三句を七五調で流麗に作って ゐるのに対して'兼家のは八十五句で息切れがLt五七と七五と混 ( 注 7 ) 用で倍属である」との評は酷である。 次に長歌の内容について考えてみよう。まず贈歌について'宮崎 荘平氏は「叙されている内容の事象は、いずれも長歌以前の記事に 見出せることであ-'長歌以後後年のそれは7切含まれていない」 ときれ'「この長歌はやはり記事の進行どお-の時点=天徳二年(九 五八)頃に詠出され'兼家との間に交されたものとみるべきであろ ( 注 8 ) う」とされた。西原和夫氏の日記執時の創作とする説に対する反論 であるが'西原氏推論の根拠を川作者の宿世観・死へのあこがれ・ 仏のこころみ'佃作者の出家志向の二点を検討された結果'導き出 された結論であった。 道綱母の死を思う心と出家志向については'私もすでに検討した ( 注 9 ) ところである。死への憧れはすでに天暦十年(九五六)の町の小路 の女の出産前後の記述に見える。ただし'それほど強いものではな く ' 「 た ゞ 死 ぬ る も の に も が な と 愚 へ ど --」と記されていて'彼女激怒の結果ふと思わせたものだといえ る。次に見えるのは康保元年(九六四)の母の死の条であって'「あ またあるなかに'これは'遅れじ遅れじとまどはるるもしるく'い かなるにかあらむ'足手など'ただすくみにすくみて'絶え入るや ぅにす」とあり'彼女は死を意識している。なお'出家志向は安和 元年(九六八)初度初瀬詣での条に'「言ひしやうに三夜侯はむず るか'帰るべからむ日間きて迎へにだに」との兼家の文に対して、 「かかるついでにこれよりも深くと思へば'帰らむ日をえこそきこ え定めぬ」との返事をしているが'「これよ-も深-と思へば--」 は'夫兼家に対するおどしであって真に出家を意識したものではな かった。とはいうものの'「時には彼女の念頭をかすめることがあ ( 注 _ o ) ったかも知れない」と私は述べておいたところである。念頭をかす めることがなかったとも'あったとも断定出来ない。 ﹃蛸輪日記﹄の天徳二年までには記されているとはいえないという 事を確認しておけば事足-るであろう。 ﹃晴輪日記﹄の成立は上・中・下巻をそれぞれ別個に考えられねば ならない。「序」と「験」が見事に呼応している事実から'作者の

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当初執筆予定は上巻のみにあった筈であ-'その後の世評に支えら れて申・下巻が書きつがれて行ったと考える立場を採る私は'次の ごと-考えている。天徳二年に長歌は作者も兼家もともに詠出した。 その折のメモらしきものをもとに安和二年初めに(上巻を)執筆し たが'その際作者は長歌に修正を施した。彼女の胸中を再度詠出す るに至って'ほとばし-出る詩情が安和二年の時点における心情を 詠み上げさせたのである。 兼家の長歌に対して'「作者の長歌に比較して極言するならば' この長歌には激しく渦巻-感情の流れが見られず'兼家の自己弁護 と作者に対する非難との発展性のない繰返しがあるのみだというこ ( 注 目 ) とができよう」との評も見えるが'「突き放し1点張りでなく'作 者に変らぬ愛情をいだいていることや'道綱の将来を案ずる思いを ( 注 1 2 ) 明言して'妥協の手をさしのべる用意を忘れ」ずに'八九句ながら も充分に立派に詠み上げている。兼家の詠歌の力量は決して劣るも のとは思えない。贈歌を受けて立つ詠みぶ-はやは-賞すべきであ り'かつ﹃拾遺集﹄巻九人集の長歌を思い出すまでもなく'﹃鯖蛤 日記﹄上巻に見える兼家の三十首を越える歌を見ても'そのことは 首肯されるところである。まして'兼家の返歌を作者による日記執 筆時点における創作であるとするのは'あまりに兼家の力量を過小 評価する結果であるといえる。 さて'作者は〓1三句に及ぶ長歌を'日記によれば「二階の中に 置 」 い た と の こ と で あ る 。 そ し て ' 「 例 の ほ ど に も の し た れ ど ' そ なたにも出でずなど」という態度を採っていた。作者はなぜ「二階 の申」に置くという出方をしたのであろうかo宮崎荘平氏は「使い に届けさせることもできず'といって来訪した兼家に侍女などをし て手渡すこともまたできず'このようなわざとらしい措置をとった ところには'よそゆきのことをするための気恥ずかしさ'こそばゆ ( 注 1 3 ) さのあったことが感取きれる」と述べておられる。 侍女に手渡せたならば兼家と作者の間に他人が介在することにな る。つまり'それは作者邸における公的行為となる。作者はそれを 避けた。自分と夫兼家との二人だけの問のや-とりにしようとした のだ。しかLtもし兼家が目にとめなければ'折角の長歌は無駄に 終わり'読まれることもなければ当然返歌の届く筈もない。だから' 作者としては兼家に是非読ませようとするものではなかった。読む もよし'読まぬもそれはそれでよLtとするところがあったのであ る。大袈裟に騒ぎ立てる程の事件ではなかった。だが'幸い兼家は 目にして読み'反歌を届けたのである。以上の事実を﹃蟻輪日記﹄ (上巻)執筆時に'天徳二年の記事として記すに際Lt 作者は自分 の贈歌にいささか修正を施した。修正した内容は天徳二年以後安和 元年までの'十年間の彼女の心中が加わっていたのであった。 四 兼家の返歌に続けて日記は' ㈱封. 0 0 使 ひ あ れ ば ' か く も の す .

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(     (     (     (     (     (     (     (

注注注注注注 注注

8 7 6 5 4 3 2 1 )     )   ー   )     )    )     )    ) なつくべき人も放てばみちのくのむまや限-にならむとすら む いかゞ恩かけむ'たちかへり' われが名を尾願の駒のあればこそなつくにつかぬ身とも知ら れ め 返 し ' ま た ' -と記されている。紬「とぞ」を「とか」とするのが大勢であり'そ れに従えば「作者はこの兼家の長歌の返事をまるでよそごとのよう に'﹃--とか﹄と書き記す。あるいはそれは'この返事に彼女が 心底から満足できず'かれの返歌はせいぜいこんなところか'とい ( 注 1 4 ) った気持なのであろうか」との説も見えるが'私はすでに触れたご と-'「二階の中」に置いただけに'それほど兼家の返歌を期待し ていたわけでもない。ただこうした返歌があったという程度の記述 なのである。強いて「とぞ」に本文を改訂する必要もなくて'「と か」で通じる箇所である。却って「とか」とすることによって'兼 家の返歌の出来ばえが見える作者の採る'無視とも思える態度が窺 える。しかし'内心作者は兼家の出来ばえにぎく-としていた筈で ある。だから'日記執筆時に自分の長歌に修正を施すことになった のであり'そのことが長歌詠出時に関する疑問・兼家の返歌に関す る作者の疑問などの問題を残すことになったわけである。 続けて日記は㈱「使抄あればかくものす」とあって'「なつくべ き人も放てばみちのくのむまや限-にならむとすらむ」'「われが名 を尾駿の駒のあればこそなつくにつ.かぬ身とも知られめ」の贈答を 記している。この贈答以下においては'愛息道綱に関してはいささ かも触れていない。贈答した長歌はいずれもそのしめくくりは道綱 にあったというのに'「以下の贈答には遺綱のことは詠まれていない」 との指摘があるごとく'ここでは見事に遺綱を切り捨ててしまって い る 。 そ れ で い て 「 な つ く べ き -」 の 家返歌の「速見の御牧のある∼馬」を受けてお-'続-「われが名 杏--」の歌中の「尾駿の駒のあればこそ」に継承している。つま り'歌の用語から見れば長歌贈答とそれ以後とが一連のものとなっ ている。「長歌の末部と類似した素材の'別の時点の贈答歌を書き ( 注 _ 6 ) っいだとみるべきか」との推測も見えるが'やは-上巻執筆時に何 らかの改正の手が加わっているのであろう。 本文引用は角川文庫﹃購輪日記﹄ (柿本奨校注)によった。 ﹃ 古 今 和 歌 集 全 評 釈 ﹄ 下 ( 九 二 1 奥村恒哉氏﹃新潮日本古典集成古今和歌集﹄ (三四〇貢) ﹃論集日本文学・日本語﹄2中吉(三三貢) ﹃ 和 歌 文 学 大 辞 典 ﹄ の 「 長 歌 」 ﹃万葉集の比較文学的研究﹄(五三八貢) 喜多義勇氏﹃全講晴輪日記﹄ (六三貢) 岡 一 男 氏 ﹃ 道 綱 母 ﹄   ( 二 九 貢 ﹃ 論 叢 王 朝 文 学 ﹄   ( 二 1 九 貢 )

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(注9) 拙稿「死を思う道綱母-﹃蟻輪日記﹄における-」 (「滋賀大国文」第二十二号昭和59年6月)。拙稿「 道綱母の出家志向」 (「文学研究」第五十八号,昭和58 年 1 2 月 ) ( 注 1 0 )   注 9 ( 「 道 綱 母 の 出 家 志 向 」 ) 参 照 ( 7 貢 ) (注1 1) 秋山・上村・木村三氏「崎輪日記注解」 (「国文学解釈 と鑑賞」昭和38年6月) (注S) 柿本奨氏﹃墳輪日記全注釈﹄上(〓二頁) (注S) 注8参照t(二二四貢) (注S) 木村正中・伊牟田藤久氏﹃日本古典文学全集」 ﹃ 晴 輪 日 記 ﹄ ( 一 五 五 頁 ) (注ほ) 注1 4参照(7五五貢) ( 注 1 6 )   注 1 4 参 照 ( 7 五 五 貢 )

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