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の原点という歴史を持ち 現代でも重要な位置を占める 映画 を考察の主たる対象とする Ⅰ-2 映像の誕生 ~ 動く写真から映画へ 映像の誕生から映画に至る展開を簡単に追う 動く映像には 2 つの原点がある ひとつは ピンホールカメラの原型でもあるカメラ オブスキュラの 暗室の壁面に写る投影像から写真へ

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映像と人間の認識

~人間はどのように映像を見ているのか~

山田 尚

奈良産業大学 情報学部 はじめに 先日、こんな体験をした。空気の澄んだ晴れた日、家の近くの山並み、空、雲、木々といっ た自然の風景を何気なく見た時、奇妙な印象を得て驚いたことがあった。 「HD の映像そっく りに鮮やかで美しいなあ!」 HD テレビが普及し、クリアー(過ぎる)な画像を液晶などの大型ディスプレーで目にする ことが多くなっている。肉眼で見る現実の像をいかに現実に近づき再現するかだったのが、い つの間に現実と映像の立場が入れ替わってしまうようになったのかと。 映像は、かつての、映画館で見る、家のテレビで見るといった時代から、人が映像に触れる 機会も映像の種類も多様化し、映像がわれわれの日常や仕事や学びの場でもそれらを規定する かのように大きな場を占めるようになってきた。 そのように映像の氾濫する時代だからこそ、映像の原点を再確認してみる必要があろう。こ の小論では映像の持つ基本構成要素と見る人間の知覚、意識との関係から映像の基本を認識し ておきたい。 Ⅰ.映像の定義と映像の展開 Ⅰ-Ⅰ 本論の映像 広辞苑によれば、①光の屈折・反射などによって映し出された物の形や姿。また、映画やテ レビなどに映し出された画像。②頭の中に浮かんだ、ものの姿。 となっているが一般的には ①として捉えることが多く、もともとは②の意味に近い「Image」の訳語として位置づけられ ていたという。 各国でも一般的な辞書によれば「外界の事物の光学的再生」とする考え方が中核をなしてい た。しかし今やCG など光学的再生なしの映像テクノロジーが広がりその意味する世界は拡大 している。 その一方、ジェームス・モナコが「映像は視覚的パターンであると同時に知的経験でもある」 とする、システムだけの問題にとどまらず、視覚と結びついた人間の知覚や意識の問題にまで 枠組みを広げた考え方もある。幅広い映像の発展、技術の進歩により、映像の定義そのものが 定められない状況のようだが、少なくとも、映像がこれまで及び今後の人間に及ぼすものは、 再認識されているマクルーハンをはるかに置き去りにしてしまうかもしれない。 この小論では、映像をレンズを通して捉えられた現実の画像であり、その画像を再生する装 置によって映し出された像である、という意味に捉える。そしてその映像の中でも、動く映像

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の原点という歴史を持ち、現代でも重要な位置を占める「映画」を考察の主たる対象とする。 Ⅰ-2 映像の誕生~動く写真から映画へ 映像の誕生から映画に至る展開を簡単に追う。動く映像には2 つの原点がある。 ひとつは、ピンホールカメラの原型でもあるカメラ・オブスキュラの、暗室の壁面に写る投影 像から写真へと繋がるライン。 もうひとつは、紀元前にも知られていたという残像の存在から生まれたフェナキスチコープや ゾートロープという動画創造から繋がるライン。 写真は初めて映像が定着されたものである。定着された素材は、銀板からフィルムへ展開し、 その後、長いフィルムへのマイブリッジやマーレーによる連続写真が生み出されていく。 一方のゾートロープの動く絵に幻灯機のシステムが組み合わされ、長いフィルムの連続写真が 結び付き、映画の誕生となる。 エジソンも動く写真を作ってはいたが、ソフトよりハードという、物を発明し売るという発 想から抜けられず、映画の始まりは、1895 年、スクリーンに上映するという映画のスタイルで 初めて映し出された、フランスのルイとオーギュストのリュミエール兄弟による映像、シネマ トグラフが定説になっている。自分の工場から仕事を終えて出てくる人たちの姿や、シオタ駅 に列車が到着する様子等を撮影したそれぞれ1 分でしかないが、有名な映像である。 まだカメラを据えたままのワンカットだけのものである。カメラポジション、構図、列車や 人の動きを考え、演出もしているが、手回しのカメラは移動はできず、写真同様の固定された フレーム内だけを捉えていた。だが写真とは異なり画像は動き変化していた。 この時の特許申請書には、映画の定義が、次のように記されている。 ・動く写真であること。 ・動く写真によって物語を物語ること カメラを携え世界各地の風俗や暮らしを撮影したこのリュミエールの映画は、人々が目にす ることのなかった見知らぬ世界を描き出し驚きを与え人気を博した。映像の持つ記録性。現実 の記録とそのありのままの再現である。 そのような記録映像から、映画に新たな世界を持ち込み可能性を広げたのが、ジョルジュ・ メリエス。自らも奇術等をする見世物小屋を主宰していた人物である。彼は、舞台で行う奇術 や仕掛けを映像に持ち込んだ。1902 年、最初の SF 映画とも言われる「月世界旅行」である。ス タジオにセットを組んで撮影した空想物語である。舞台人であっただけに、サイズやアングル を変えることはなかったが、編集を行いオーバーラップや画面の切り取り等の観客が喜ぶであ ろう空想の世界を多くの技法で映し出した。 そして、1915 年、D.W.グリフィスの作品で現在の映画の原型が確立された。 歴史、戦争、社会背景、人間の対立、家族、恋愛、といったドラマの構造を備え、ロングショ ット、アップショット等、被写体のサイズを切り替え、クロスカッティング(パラレルショッ ト、カットバックとも言われる)という手法を使い、時間と場所を操り、見る人間の映像への 同化作用を高める物語、すなわち映画というものを、127 分に及ぶ大作「国民の創生」で確立 させたのである。(その後、音、色彩が付き、光学的映像の映画とは異なる電子映像が生まれ てくるがここでは省略する)

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Ⅱ.映像と人間の視覚 見る・・・感覚器官である眼から、視覚によって感じるものである。 われわれは、ごく当たり前のように目を開ければ見えてくる姿を意識せず認識している。 それでは見るとはどういうことなのか。 「見る」には2 つの意味がある。 われわれ人間の目を通して網膜に映る像(生のままの自然の像)と、人間が「見る」像(人間 が感じるものとして翻訳された像)である。網膜に映る像はヴィジュアルフィールド(視野) と呼ばれ、絶えず移り変わる外界の光の連続するパターンである。一方の人間が見るものはヴ ィジュアルワールド(視覚世界)と呼ばれ、網膜に映り記録された光のパターンを情報として 処理し自らの視覚世界を作り上げていくのである。「見る」という言葉には、英語で言う「I SEE」 と同義の、認知、判断、観察といった意味が含まれるが、人間は外界を視覚的要素として感知 する体験よって見ることを始め、脳内でそれらを組み立て構成し、知覚してそれが自分にとっ てどのようなものであるかを認知しようとする。見ることとは、複雑な認知システムの総称で あり、このシステムが作動することで、人間は自らの意味の世界を作り上げるのである。 人間は、誕生し、成長していく過程の中で「見る」能力を獲得していく。そして獲得された視 覚情報は、ほかの感覚においてもそうであるが、それまでの経験の蓄積としての記憶と照合さ れ、意味を導き出し認識される。そのため、脳が知覚から導き出す意味が、経験や学習から構 築された記憶にも依存している以上、同じ映像を見ていても、人間の理解し、認識する意味は、 人により異なることにもなる。 平面の映像で、この認知・認識のシステムを広げていったのが、いわゆる「遠近法」である。 前項のカメラオブスキュラ、オランダの画家フェルメールも用いたという平面像は、その具体 的方法である。 ピンホールから入り箱に写る外の光景を画家たちはトレースして、その景色 をそのままに絵とした。そこに描かれたのは、フレームという額縁に切り取られた平面である が、遠近法に則った、人間の目に映る景色と同じものであった。絵画の世界に客観性や写実主 義をもたらしたが、それはその後に生まれる映像の持つ視点であり世界なのである。 グーテンベルクの活版印刷もひとつだが、15 世紀頃までは、人間にとって最重要の感覚器官 は聴覚であったという。それまでメッセージの伝達、コミュニケーションは、聴覚を使うこと が主であった。複製技術が生まれ広範に文字が伝達できるようになると、視覚がその位置を取 って代わるようになり、映像が生まれると情報および知覚する要素の多さに、視覚は人間に欠 かせない最も重要な感覚となっていく。 Ⅲ.映像の構成要素と人間の知覚、認識 【映像の構成要素と特質】 われわれは、光がないと何も見えない。光は外界を照らし出し、視覚を可能にする。映像も同 じである。映画のような実写映像は、実世界の光の反射をカメラで捉えた結果であり、それを スクリーンに映写し再現される。映像の要素の最重要なものは光であることはいうまでもない。 それは自明のことであり、ここでは、光を除く2 つの構成要素、空間と時間を、その特質に人 間の知覚、認識の側面を加えて探っていく。

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Ⅲ-1 空間 映画(動く映像)は、空間と時間の芸術だと言われる。 しかし、空間といえども、映像は、フレームで限定された平面画像である。 スクリーンは平面である。テレビやPC のモニターも平面である。3D やフォログラムも、 何らかの視覚的トリックを用いて立体的に像を浮かび上がらせる映像装置であるが、立体像で はなく、立体に見える平面に過ぎない。 カメラの前にある現実は3 次元の世界である。平面の世界ではない。が、われわれはカメラ を通してその撮影された映像が平面に再現されているにもかかわらず、現実の3 次元の世界の ままであるかのように認識できている。 しかも、撮影された映像は、われわれが肉眼で見ている上下左右約180 度の外界そのままで はなく、カメラが捉えた四角いフレームに区切られた画面だけが映しだされる。フレームの外 のものは見られない。フレームの外は映像とは別の現実の世界が見えている。そのような限界、 制約があるからこそ、映像表現にはさまざまな手法が使われる。 レンズで捕らえる映像のサイズやアングル、カメラワークにより各フレームの構図から描く べき全体像を作り上げる。 そしてひとつのショットとショットの積み重ねから平面に空間を 描き出す。また、そこにスペースが存在することを示す、人(もの)が動くという要素も空間 を表す大きな要素にもなる。 ところで現実空間を捉える各ショットの構図には3 つのコードがかかわっている。(図1) ① 平面である映像にかかわるもの・・・映像は結局2 次元なので、ここで作られたものが 最も重要で支配的になる。 ② 空間の地理的な面(地面や地平線との関係)にかかわるもの・・・人間が日常見ている 世界は水平面に平行なものである。基本的に地面に並行に立って見ているが、カメラマ ンの立つ場所は必ずしも水平とは限らない。斜面をとる、斜面に立つこともある。 ③ 奥行き方向の面に関するもの・・・①と②と垂直に交わりその交差具合で空間認識や奥 行きにも影響を与える。 (図1)構図の三つの平面

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これらが組み合わされた中で映画的空間が生み出される。平面は奥行きはないが、限界があ るとはいえ上下左右には幅を持つ。①が支配的であるといったのはその意味である。必要なの は奥行きである。前項で紹介した「遠近法」もその役割を持つが、2 次元での表現に奥行き(3 次元的認知)を知覚できるかどうかは、②と③が大きく影響を与えるのだ。 【奥行き知覚】 奥行きを感じる知覚の要因(図2)には、われわれの目の動きによる生理的要因と、もうひと つの心理的要因とがある。 (1) 水晶体の調節 網膜上に投影される像のピントを合わせるために水晶体の厚みが変化するが(近くのもの を見るときは厚みが増し、遠くのものを見るときは減少)、その時の毛様体筋の動きの感 覚。焦点調節によるレンズの厚みの差のことである。 (2) 両眼の輻輳 人間は水平に 6~8cm 離れた 2 つの目を持っている。奥行き距離に応じて各眼の中心部に 像が投影されるようにするため両眼を内転させるが(近くのものを見るときはそれ以外に 比べより内側に向け角度をつける)、その角度の差。目にアングルをつけることである。 (3) 両眼視差 (2)同様、離れた2 つの目を持つため左右それぞれの目の網膜に写る像は異なっている(角 度がついて少しずれる)。中枢神経系の処理過程においてそれらは 1 つに融合され奥行き 知覚を成立させる。 平面に映し出されている3D 写真、映画等の立体映像は、この両眼 視差を利用して作られている。 (4)運動視差 たとえば、動く車(列車)の窓から景色を眺めている時、近くのものは早く後方に飛び去 っていくが、それより遠方に位置するものは、より遅くなり、ずっと遠く(奥)のものは、 列車の進行方向に動いて見える。これもわれわれに奥行き感をもたらすものである。 (5) 明暗・陰影 絵画や写真などに見られるように明暗や、陰影は立体感を強める。 (6) 線遠近(収斂) 奥行き方向に伸びた平行な線路や道路を写真に撮ると、並行なのにだんだん細くなり、1 点を目指して収束するように見える。 (7) 大気遠近 遠方のものほど霞がかかったようにぼやけて見える。 (8) 肌理の勾配(密集度の変化) (6)と同様だが、例えば、田植えの終わった田んぼを見てみよう、近くにある苗は隣の苗 との間隔は離れているが、遠くになるほど苗は重なり、密度が大となる。これを肌理の勾 配と言うが、われわれに奥行き感を与える。 (9)重なり合い ある物が、別の物の一部を隠している場合、隠しているものが隠されているものより前方 に位置している。 (10)相対的大きさ 同一の対象物が、大きさを異にして提示されている場合、大きいものほど近く、小さく見

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えるものほど遠方に位置して見える。 (図2) 奥行知覚の約束事 (1)~(3)については、人間自身の生理的な動きであり認識である。これらは現実の世界 のように遠近(奥行き)のあるものを見て初めて生理的に反応し認識するものである。(生理 的要因) (5)~(10)については、われわれの体が認識するものではなく、視覚で捉えた形を見ての 認識である。したがって、遠近のない平面でも、これらの要素があれば、それは遠近(奥行き) があると考えることとなる。このようなことを教えてられたことはないが、経験によりわれわ れは、(5)~(10)の写真や映像を見たとき、そこに、現実を見ているのと同様に奥行きを 認識するのである。(心理的要因) なお、(4)は、動く映像に限られるが、平面映像でも同 様の認識が得られる。それゆえ、これまでわれわれは、(4)~(10)から平面映像でも、 奥行き(遠近)は十分感じていたことになる。 小津安二郎監督は構図にこだわった映画監督である。まるで額縁のようにシーンが変わろう とそのフレームはまったく動いていないように見える淡々とした絵作りと会話。ローアングル が有名であるが、それはよく言われる畳に座ったときの目の高さが基準、ということだけでな く、奥行きにも関係している。廊下を縦の位置からまっすぐ捉え奥行きを見せ、またセットの 部屋はどの部屋でも奥の障子や窓が開けられ庭か外が見え時には奥から人が現れる。そして手 前は畳が広く見え、置かれた座敷机の手前が大きく、人物配置も含め、すべてが線遠近法や重 なり合いの構図で表現されていると言ってもよい。これはカメラ位置を高くすると描けない。 他方、映像で遠近、奥行きが表しにくい状況がある。宇宙空間である。何もないまったくの 空間は、宇宙船があろうと、多少の天体があろうと、対比するものがなければ、前述の要素か ら見ても奥行きを出すことは難しい。 【レンズによる表現】 別の面から空間を描く中での映像の遠近感や強調の表現を見てみよう。

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映像表現の場合、肉眼では見ることのできない映像をレンズの作用で見せることができる。 標準レンズと広角レンズと望遠レンズ。レンズには3 つの基本型があり、焦点距離によって分 類される。 標準レンズは、人間の目が現実を知覚するのに近いもので、35 ミリフィルム使用のカメラで 言えばおよそ35 ミリから 50 ミリの焦点距離を持つもの。われわれが見ている姿とあまり変わ らず対象を捉える(前述の小津安二郎監督は標準レンズとスタンダードサイズのフレームにも こだわった)。 そしてわれわれが見ているものを違った映像として捕らえるのが、広角レン ズと望遠レンズである。 広角レンズ。・・・遠近感の強調 名前のとおり広い画角を持っている。したがって広い範囲の映像を捉えられ、絞りとも関係す るが、遠近幅広く焦点を合わせることもできる。その代わり直線が歪曲する効果を持ち、遠近 感が強調できる。レンズに近いものほど、飛び出してくるように大きく強調される。 望遠レンズ。・・・焦点の合う範囲が狭い 焦点距離の長いレンズで、画角を狭め遠くの被写体を拡大する働きがある。遠近感を圧縮 させるが、逆に言えば焦点の合う範囲が狭いだけに、その前後のものはぼけ、対象物を際 立たせる効果を持つ。 平面映像における空間の、特に遠近(奥行き)の知覚をどのように得ているのかを見てきた が、次に動く映像だからこそ持つ要素「時間」を見る。 Ⅲ-2 時間 動く映像には時間が伴う 動くということは変化すること、そして変化するということは、そこに時間の経過が伴って いることである。 たかだか 1 分だが、「リュミエールの列車の到着」には、駅のプラットホ ームに列車が到着して客が乗降する様子が、その当時の現実のままの時間で記録されている。 しかし、「メリエスの月世界旅行」になると、20 世紀初頭に撮影されたものだが、そこで描か れているのは特定不可能な(未来)時間、しかも 10 分余ほどの上映時間の中に、月へ行くと いう計画から、月を往復する時間までが詰め込まれている。われわれは日常、一方向に進む時 の流れの中にいるが、映画の中に描かれる時間は、自在に展開する。見ている人間はスクリー ン以外は何も見えない闇の空間で映像の世界と同化し、変化する時間にも違和感なく対応でき る。映画は、見る人(観客)を前提にした映像である。そして観客はスクリーン上の映像は現 実でないことを認識しつつ、その虚構の世界に身を任せるという姿勢が不可欠で、それにより 登場人物や展開に同化する作用が生み出される。それ故、映画の中の時間の変化にも、あたか もそれが現実時間のままのように受容することになる。 ここで、映画の中に存在する時間について分析してみる。 ① 映画に存在する時間(時間の重層構造) 1) 上映時間 映画の長さである。劇場映画は1 時間 30 分~2 時間程度が多いが、作品によっては 15 分程度の短編から、3 時間を超す長時間のものまである。

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観客が映画とともに過ごす時間といえる。 2) 描かれている物語の時間 先に紹介したグリフィスの「国民の創生」は、アメリカ南北戦争前、1860 年頃から、 南北戦争を中心に、リンカーン大統領暗殺、KKK(クー・クラックス・クラン)出現後の 1866 年頃までの約 6 年間が描かれている。ちなみのその上映時間は 127 分。大長編であ るが、その中に6 年間の出来事の時間が凝縮されている。もちろん編集により時間が操作 されているのだが、観客はその間の時間を同時代的に体験しているといえる。 3) 記録としての時間 前項の作品を再び例にすると、この映画が公開されたのは 1915 年。撮影されたのは 1914~5 年と思われる。この映画に映し出されている映像が記録されたのは、描かれてい る南北戦争時代の 19 世紀ではなく、紛れもなく 1914~5 年の姿なのである。監督のグリ フィスも出演者も南北戦争当時にはいなかった。これは 20 世紀に記録されたという、前 項の時間、時代とは別の時間を持つ映像なのである。 時間の経過がある映像には、物語が伴う 時間を使い変化を示す映像であるからには、そこには物語が生じる。映画に限らずニュース 映像でも、CM 映像やミュージックビデオでも、それらの映像には始まりがあり終わりがあり、 たとえ短くても、意識していなくても、その間にはストーリーといえるものが存在する。物語 をより多く語りたいときには映像の時間は長くなり、そこに描かれる変化は大きくなる。技術 の発達も必要だったが、映画が1 分から次第に上映時間が長くなっていったのは、映像の作り 手の意識とともに、より物語を味わいたい観客(見る人)の存在からも必然の流れである。そ れは作り手と観客とのコミュニケーションに必要な時間とも言える。 もうひとつの時間 映画は、観客(見る人)がいて、初めて成立する。人が見なければそれはフィルムであれ DVD であれ、記録されている物でしかない。すると映画には見る人、観客が必要となる。そ こで、上記に挙げた映画の時間とは別のもうひとつの時間が存在する。見る人自身の時間であ る。そのひとつが今見ている人の今の時間。退屈で実時間より長く感じた人もいれば、登場人 物と同化し、時間の経過を早く感じ、終っても席を立てない人もいるだろう。ちなみにエンド クレジットが音楽とともに長く流れるのは、一つには映画館という非日常で虚構の世界に没入 していた観客を現実の時間へ戻すクッションの役目もある。 もうひとつ、観客はいつ、どんな場所で、どのような状況で見ていたのかによる異なった時 間体験がある。1 つの作品は不特定の多く人が鑑賞する。そこでスクリーン(モニター)に繰 り広げられる、閉じ込められていた重層した時間の開放。人それぞれは映像を見て何らかの思 いを得る時間を持つ。2 回、3 回と見た人もいるだろう。その時々で状況も異なり、受ける印 象も理解も異なるかもしれない。見る人にとってのその時々は、映画(映画館という場)だか らこそ持てる重要な体験時間といえるだろう。 (映画と時間については、映画技術から、逆回転の映像、高速度または微速度回転による撮影 などでの操作もあるがここでは省く)

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Ⅲ-3 時間と空間の表現と意図 【モンタージュ】 空間と時間の表現ができるメディアが映画、映像の特質であるが、ここで、その空間と時間 の両者を操作する映像表現手法を見てみよう。 シーンとシーン、ショットとショットを繋ぎ組み立てる作業を編集と言う。ハリウッドのある アメリカでは、カッティング、あるいはエディティングと言われ、前者は不要な素材を排除す るトリミングの意味を持つ。これは、編集によって無駄や邪魔を省き、より滑らかで自然でわ かりやすいものを求めることを意味している。一方ヨーロッパでは組み立てを意味するフラン ス語のモンタージュという言葉を用いることが多い。われわれも日常その言葉に接する機会が ある。モンタージュ写真のように。 モンタージュは映像に対して使用される言葉で、一般的には、写真(映像も)で、複数の像 を組み合わせてひとつの画面を構成することや、前述したモンタージュ写真として目撃者の記 憶を基にして、目、鼻、口、髪型などの部分写真を合成して作り上げる顔(似顔絵)写真、そ して映画では、各ショットのつなぎ方で、単に足したもの以上の新しい意味を作り出す技法、 といわれる。 映画においても、ショットとショットを結合することを、一般的にモンタージュと呼ばれる ことがあるが、厳密には、前後のショットが持つ2 つの内容(意味)から、第 3 の内容(意味) が生み出される過程を指しているのである。この考え方は、映像の編集の役割をカッティング の意味だけでなく、映像は構成されるべきものという見方から行われる作業と見ているからだ。 この考えが生まれ実践されたのは革命後まもなくのソ連であった。社会的背景もあったが、そ の映像研究から、クレショフ、プドフキン、エイゼンシュテインらソ連の映画人が、クレショ フ効果、モンタージュ理論といった考えを打ち出す。映像の断片は、言語における単語のよう なものであり、言葉は文字を羅列するだけでなく新たに意味を創造するが、映画も同様に映像 編集を加えることで実在しない空間(意味、概念も含む)を生み出すという考えである。 よく承知されているものだが、クレショフの実験について少しページを割こう。 「モザイク人間の創造」の実験 カメラに背を向け鏡に向かっている女性 唇のクローズアップ 眼のクローズアップ 足のクローズアップ の4 つのショットがある。これらはすべて別人が別々の場所で撮られた映像だが、これら 4 シ ョットをこの順につないで見ると、「1 人の女性が鏡の前で化粧し、靴を履いている」様な印象 がえられたという。現実に存在しない、見る人にとっては映像上に意味を有する、新たに創造 された人間が誕生する。人はそう見てしまうのだ。

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「意味の創造」の実験 これも4 つのショットの実験。 ① 湯気の立つおいしそうなスープ ② 死んでいる男 ③ セミヌードの女性 ④ そして、無表情な男の顔のアップ これらの映像を ①→④とつないで見ると、無表情な男の顔が空腹の印象を見た人に与え、同 様に、②→④とつなぐと、男は哀れみの印象を与え、③→④では男は欲望を秘めた表情を与え たという。事前にどのようなどのようなショットを与えられるかによって、同じ表情なのに異 なった意味づけをされて見えたのである。人は映像のつながり次第で一定の意味を見出すので ある。 エイゼンシュテインはこれをさらに拡大して、「衝突のモンタージュ」の理論を打ち出し有 名な「ストライキ」や「戦艦ポチョムキン」で表現している。衝突のモンタージュは、対立す る概念の映像をカットバックで編集することにより弁証論的に強調された効果が生み出され るという考え方である。有名なのが「戦艦ポチョムキン」のオデッサの階段の、政府軍兵士が 市民に襲い掛かる一連のシーンである。銃撃する側、逃げ惑う側をカットバックで描き、かつ、 その中にその場とはまったく関係のない牛が殺されるショットを挿入したり、政府の建物を砲 撃するシーンにライオンの石像、それも、眠っている、目を開ける、立ち上がって吼える、の 3カットをつなぎこみ、シーンの意味するところへの効果を生み出そうとした。「編集」の意 味の中でモンタージュが弁証法的な捉え方をされているのは、エイゼンシュタインの作品が出 発点になっているといっていいだろう。 人間が映像を見る、ヴィジュアルワールドは個々の人間によって異なる。映像の制作者は、 映像の目的に合わせて、人間のヴィジュアルワールドを、どのような対象に合わせて表現する べきかを常に考えているのである。 Ⅳ まとめ 映像は、見る側も作る側も人間である。本論の映像の構成要素は映像の中心であり基盤であ るが、そこに多様な技法や表現が加わり、われわれが日常見る映像が生み出されている。人間 が脳の知覚からその意味を認識するには経験や学習から構築されるものによることは述べた が、映像に対しても、コミュニケーションを求めている制作者との対話が成立するためにはそ の能力が必要である。他のメディアの表現より、より人間の心に深く入り込む映像だけに、映 像に身をゆだね心地よい時間を持つためにも、また、批判的に見るためにも、自らの経験の場 をいかに多くするかが大きな要素となろう。 最後に、これまで述べてきたことにも関係する2 本の映画を簡単に紹介しておく。 それぞれの映画には、想像力、イメージする力、それに経験、知識を必要とする。これらは特 にそれを要求するものだが、一般の映像を見る場合にもそれらの多寡より理解や解釈に影響が あることを認識してほしい。

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「2001 年宇宙の旅」 1968 年 スタンリー・キューブリック監督 SF 映画のシンボルともいえる作品。アポロ計画の成果も組み込んだ映像はまだ CG のない 時代だがリアルで迫力のある映像(音楽の要素も大きい)を作り出した。描かれている時代は 400 万年前と 2001 年。その時間と空間のつなぎを骨と宇宙船のマッチカットという編集で行 い、時空を超えたモノリスという物体や知能を持つコンピュータの反乱など、リアルさと哲学 性でも話題になった。当時のリアルタイムの観客には、30 年余り後の現実世界を想っていたが、 現在すでに未来のシンボルとして使われた2001 年は過去である。しかしその映像は、2001 年 は未来として存在し今見てもやはり未来なのである。 「旅芸人の記録」 1975 年 テオ・アンゲロプロス監督(ギリシャ) 1シーン、1 カットの長回しとカメラワークにこだわり、フレームの外も表現、時間空間の 展開は大きな話題を呼んだ、ギリシャの現代史を独自の視点で描く4 時間近い大長編の代表作。 1 シーン 1 カットを通じて時間と空間の統一を狙うという手法は、シークエンスショットと も言われ、編集もしていない 1 ショットの中で、たとえば、1952 年の旅芸人の一座が歩き去 っていくとそのままの空の絵の中にナチスの車がやってくる、そこは時代を遡った 1942 年に なっている。とか、人が去った無人の画面が続き、しばらくすると画面の外の音(声)が聞こ え、それが時間の経過と状況の変化を描き出すなどといったシーンがある。モンタージュの概 念も採用しているが、伝統的な編集の代わりに、さまざまな要素をひとつの場面内に結びつけ、 カメラや人物の動きを通じて観客の想像力を刺激している。 参考文献 ヴァルター・ベンヤミン 複製技術時代の芸術 晶文社 1990 年 マーシャル・マクルーハン メディア論 みすず書房 1987 年 植条則夫編 映像学原論 ミネルヴァ書房 1990 年 今村庸一 映像情報論 丸善 2003 年 大田智朗 映像とコミュニケーション れんが書房新社 1998 年 中島義明 映像の心理学 サイエンス社 1996 年 ジェームス・モナコ 映画の教科書 フィルムアート社 1988 年 佐々木成明 情報映像学入門 オーム社 2005 年 池内 了 時間とは何か 講談社 2008 年 山田宗睦 コミュニケーションの文明 田畑書店 1972 年 一川 誠 大人の時間はなぜ短いのか 集英社新書 2008 年

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参照

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