古代律令国家の建設と展開
第四期日本史検定講座第二講
講師 高森明勅
はじめに
第四期第二講ということで、第一回の長浜先生のお話は、日本民族のルーツ について語っていただいていたのではないかと思いますが、私の講座では「日 本国家のルーツ」についてお話をしてみたいと思います。 わたしたちが生きているこの日本の国というのはどういう国なのか。それを 探るためにはルーツにさかのぼっていく必要があります。 ところがこれまでの戦後の歴史教育、小学校、中学校、高校、あるいは大学、 あるいは社会に出て様々に触れる情報でも、いわゆる自虐的な歴史の見方が主 流だったわけです。 「自虐史観」という言葉をご存知の方もいらっしゃるかもしれません。 その「自虐史観」は、近現代史の見方のことをいうと思っておいでの方が意 外と多いのではないかと思いますが、実は前近代においても「自虐史観」なの です。縄文時代と弥生時代に大きな断絶を認めようという捉え方があります。 そのひとつが「二重構造モデル」と呼ばれるものですが、これは「日本列島は 朝鮮半島経由で多くの人たちがやってきて、その渡来系の人々によって日本列 島は席巻され、それが現代の日本につながっている」という見方です。そうい う見方が、一時期非常に勢いを持っていたわけです。 しかしこれに対して、実は大阪府立弥生文化博物館が、絶大な貢献をしてい ます。この博物館は、橋下徹大阪府知事時代に税金の無駄遣いだから潰せとい う話もあったのですが、とてつもなく大きな業績がありました。それが何かと いいますと、全国の考古学者を網羅して、縄文時代から弥生時代にどのように 転換していったのか、九州から東北(沖縄と北海道は弥生時代はありません) に至る各地の縄文から弥生への転換を、現地の遺跡、遺物に密着する形でつぶ さに検証する全国の共同研究を行いました。 その結果、「大量の人間が日本列島にはいって縄文時代から弥生時代に変わっ ていった」などということは、まったく考えられないという結論に達し、縄文から弥生は「しっかりつながっている」という、現在の有力な見方を確立した のです。 これを受けて、古代史における、あるいは前近代史における自虐史観を払拭 するうえで、みなさまのご参考になるようなお話をしようと思います。 そこで以下の4点の論点を用意しました。 1 国家形成の歩み 2 古代律令国家の確立 3 古代統一国家確立期の民衆の実像 4 その後の展開 以前に「律令国家の建設」というテーマでお話したことがありますが、その ときとは切り口を変えて、新しい素材をご提供したいと思います。
1 国家形成の歩み
日本の歴史の最大の特徴は、「持続性」にあります。 日本はたいへん恵まれた素晴らしい誇るべき歴史を持っています。それなの にどうして学校の授業になると、なさけない変な歴史になってしまうのか不思 議なくらいです。世界の中でも日本が持つ歴史は、歴史が長くつながっている という大きな特徴があります。今日お話する時代から、この21世紀の今日ま で歴史がそのままつながっているのです。こんな国は、世界中にありません。 そのことを端的に指摘しているのがフランスの、世界を代表する歴史学者マ ルク・ブロック(Marc Léopold Benjamin Bloch、1886 年 7 月 6 日〜1944 年 6 月 16 日)です。マルク・ブロックがヨーロッパの歴史を語った本があります。 『封建社会』(みすず書房刊)という本です。この本の中でマルク・ブロックは、だいたい次のような趣旨のことを書いて います。
マルク・ブロックはこう述べているわけです。 要するに4〜5世紀以降、西ヨーロッパではずっと歴史はつながっている。 このことが「日本以外のどこの地域とも共有することのない我々の特権だ」と、 こう述べているわけです。 いいですかみなさん。「日本以外の」と言っているのです。このあたりが一流 の学者の一流たる所以です。その一流の世界的な歴史学者が、世界の諸地域の 中でも西ヨーロッパが最も持続性に富んだ地域だといいながら、同時に日本も 歴史がつながっていると書いているわけです。 しかも日本は4〜5世紀よりも、もっとずっと前から歴史がつながっていま す。4世紀5世紀といえば、それは大和朝廷の発展期なのです。もっと前から 歴史がつながっています。 (ゲルマン民族の大移動の終了)までは、西ヨーロッパは外部からの集団 による略奪や民族の大移動が歴史の骨組みを形成していた。しかし4〜5世 紀以降は、ほとんど西ヨーロッパのみが、この種の影響を免れることになっ た。後のモンゴル族もトルコ族も、西ヨーロッパの辺境地域を掠め通ったに すぎなかった。もちろん西ヨーロッパも抗争・軋轢を経験したが、それは西 ヨーロッパの内部事情であった。 これらのことが意味するのは、外部からの攻撃やよそ者の流入に妨げられ ることはなく、はるかに規則正しい文化的社会的発展が可能になったという ことであった。 西ヨーロッパは、他の世界中の地域と違ってゲルマン民族の大移動以降、 内部で争うことはあっても、よそから制圧されて文化や社会が断絶するよう なことがなかった。それによって内部の順調な発展があった。 我々が日本以外のほとんどのいかなる地域とも共有することのない、この 異例の特権を、言葉の正確な意味におけるヨーロッパ文明の基本的な要素の ひとつだったと考えても決して不当ではない。
マルク・ブロックの論にひとつ訂正を加えるならば、実は11〜12世紀に 西ヨーロッパでは、もうひとつ大きな歴史の断絶があります。これは日本の西 洋史学者で、一橋大学の学長を勤められた阿部謹也(あべきんや)博士が指摘 していることですが、当時の西ヨーロッパでは異民族の制圧ではなく、外来宗 教による制圧が行われています。すなわちキリスト教化です。 それまではエリートだけが受け入れていたキリスト教が、11〜2世紀にな ると社会の底辺にまで広がります。そしてこれがヨーロッパ人の精神生活をま ったく変えてしまっています。 日本で11〜2世紀といえば平安時代です。歴史の断絶があるわけがありま せん。4〜5世紀は大和朝廷の発展期ですから、これまた歴史の断絶があるわ けがありません。つまり世界史の中でも「異例の特権」として連続性を保った 西ヨーロッパと比べても、わが国の方がはるかに長い連続性を持っているとい うことです。 そこで倭国から大和朝廷の成立、そして古代律令国家の3つの段階を考えて みます。 まず倭国についてですが、倭国の成立が確認できるのは、西暦107年です。 このことについて、『新しい歴史教科書』38ページには、西暦57年に「倭 の国の奴国王が漢に使いを送り、皇帝が金印を授けた」と書いてありますが、 これは少々誤解を招きやすい表現です。 実はこの場合は「倭国」ではなくて、「倭」というのが地名を表します。「倭」 というところに住んでいた人たちだから「倭人」です。その倭人たちが住んで いた地域の中に、奴国や伊都国など百余国があったわけです。ですからこの西 暦57年の段階では、まだ「倭国」は登場していません。 それが「倭国」として正式に歴史上で確認できるのが、西暦107年です。 ということは、107年には「倭国」が既にできあがっていたということです。
この57年とか、107年とかいうのは、現代の時代区分に従えば弥生時代で す。弥生時代は「倭国」です。 大和朝廷が成立するのは、3世紀半ば、西暦250年前後のことで、これは ちょうど卑弥呼が亡くなる頃です。卑弥呼が亡くなったのは西暦247年か2 48年の頃です。この頃に大和朝廷が成立したと考えられていまして、ここか ら古墳時代にはいっていきます。 古墳時代という言葉も、実はある面では自虐史観的な言い方です。古墳時代 と呼んでいる時代は、もともとは大和時代と言っていたのです。大和朝廷の時 代だからです。ですから大和時代、飛鳥時代、奈良時代などと言っていたわけ です。 その大和時代という呼び名の根拠は古事記、日本書紀にあります。そこで「古 事記、日本書紀なんか信用できないだろう。考古学こそ信用できるだろう」と いう古事記日本書紀に対する否定的な見方が、古墳時代という呼び方を生みま した。 私も古墳時代という呼び名は講義の中で便宜上使いますけれども、実は、み なさんが何気なく使っている言葉が、実は自虐的に作られた言葉であることは 他にもたくさんあります。 たとえば「明治憲法」という言葉がそうです。戦後の憲法学の主流を作った 宮澤俊義氏(東大・憲法学)が、もう終わった憲法だという帝国憲法否定の意 味で、明治憲法という言葉を使いはじめました。ところがその言葉をいまは保 守陣営も明治憲法と普通に使っています。 ここで言いたいのは、弥生時代から古墳時代に移りましても、国の名前は「倭 国」で連続しています。ですから縄文弥生がつながっているのと同様に、弥生 時代と古墳時代、弥生時代と大和時代というのは、同じ「倭国」の時代です。 ずっとつながっていて、それを背景にして律令国家が成立しています。
ここでもうひとつ 申し上げておくと、奈 良県桜井市に三輪山 という大変美しいき れいな山があります。 その山の麓(ふもと) に大神神社(おおみわ じんじゃ)という日本 でもっとも古い神社 のひとつがあります。 右の図は、私の昔の 著書『歴史から見た日 本文明』の表紙ですが この写真にあるのが 三輪山です。 この三輪山の麓に纏向遺跡(まきむくいせき)という縦横1キロ四方(最盛 期は1.5キロ四方)の大きな遺跡が出てまいりまして、これが考古学上確認で きる大和朝廷の最初の本格的な都です。 そして、ここがちょうど東日本と西日本の接点になります。これは大和朝廷 の成立が、実は東日本の統合に向けて、政治上の本格的な第一歩だったことを 示しています。 大和朝廷が東日本へと勢力を広げた際、三輪山から昇る太陽の方向にずっと 東に直線を伸ばして海岸に達する地に伊勢神宮ができ、そこから伊勢湾沿いに 北にあがった地点に熱田神宮が祀られています。 そういう西日本と東日本の統合に向けた政治的な第一歩が、大和朝廷の成立 です。その後、歴史段階を経て、西日本と東日本という、かなり違う文化を発 展させてきた二つの地域が、統一されていくわけです。
「倭国」の存在は、は西暦107年、つまり2世紀の初めには確認できます。 そして3世紀の半ばには大和朝廷が成立し、全国に大和朝廷の勢力範囲が拡大 していった様子が目に見える形で示されているのが、第一期の日本史検定講座 の際に皆様にお見せしました「全国古墳編年表」(上図)です。 この図が何を意味しているかというと、図の縦軸が時間の経過で、横線と横 線の間が百年です。上から下へ3世紀、4世紀、5世紀、6世紀、7世紀と降 っていきます。そして図の横軸が日本列島の各地方です。時代とともに古墳が どのように広がって行っているか、この図を見ていただくと、大和朝廷の発展 のプロセスが、一目瞭然に客観的に確認できるというお宝資料です。 西暦107年には「倭国」の存在が確認できるわけです。西暦57年にはま だ「倭国」の存在は確認できません。ですから57年から107年までの50 年の間に倭国は登場したと考えられます。
この背景には、弥生時代の稲作による生産力の向上があり、これによって社 会が成熟して、シナからみて「国」と見れるまとまりができました。それを背 景に大和朝廷が成立して、やがて東日本も大きくまとまっていきます。 大和朝廷の登場というのは、東日本も統合の射程にはっきりと入ったという ことです。そしてこの発展のもとに、7世紀に古代律令国家が確立します。
2 古代律令国家の確立
古代統一国家の確立を、ひとことでおもしろそうな言葉で申し上げれば「天 皇から日本へ」といえるかもしれません。どういうことかと言いますと、7世 紀の初頭に「天皇」という称号が登場するのです。それまでは天皇ではありま せん。「王」だったわけです。それが「天皇」になる。そのことが何を意味する のかを、お話します。 そして7世紀の終わりに、いままでお話した「倭国」から「日本国」に替わ って行きます。西暦608年に「王」から「天皇」に替わる。それから689 年に「倭国」から「日本国」に変わって行きます。 ちょっとびっくりする言い方をしますと、「天皇」は「日本」より古いのです。 そのことを一番良く示している文献は古事記です。古事記を見ていただくと、 どこをひっくり返しても「日本」という言葉が一カ所も出てきません。全部「倭」 という漢字を使っています。神武天皇についても「神倭伊波礼毘古命(かむや まといわれびこのみこと)」と称され、そこに「倭」という字が使われています。 倭建命(やまとたけるのみこと)も、「倭」が使われています。 日本書紀ですと、神武天皇は「神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみ こと)」で「神日本」と書かれ、ヤマトタケルノミコトは「日本武尊」と書かれ ています。古事記には一カ所も「日本」という漢字は使われていません。全部 「倭」です。「天皇」は山ほど出てきます。古事記には、天皇が出て来て日本が 出て来ないということは、古事記の原型が書かれた時代を示しているということです。完成した712年には「日本国」なのです。しかし原型のときは、ま だ日本国になっていなかったわけです。ところが712年に完成させたときに は、その記述を勝手に変えないで尊重したから「倭」のままになっているわけ です。 ですから「天皇」という言葉が登場しながら、まだ「日本」という言葉が出 て来ていない時代に、古事記の原型が成立した。天皇は日本よりも古い、とい うことです。7世紀初頭に天皇が登場し、同世紀末に倭国から日本に変わりま す。これがひとことでいえば、古代律令国家の建設の時代を示しています。 教科書の巻末年表の7世紀のところをご覧いただきますと、「おもなできごと」 の欄の下の方の背景が黄色くなっていて、下に実に親切なことに、わざわざ「古 代律令国家の形成過程」と、矢印まで入れて書いています。 新しい歴史教科書 巻末年表より この年表を見ていただきますと、600年というのは6世紀の一番最後の年 です。601年からが7世紀です。前に私の教え子が西暦2000年に「先生 21世紀おめでとうございます」と年賀状が来たことがありますが、2001
年からが21世紀です。 600年という6世紀最後の年に第一回遣隋使が送られました。これが古代 律令国家の建設の大きな節目です。そして689年に日本という国号が定まり ますが、この600年から、701年の大宝律令がつくられた時代までが、古 代律令国家の建設期です。 では、その古代律令国家の中身はどのようなものだったのか、『新しい歴史教 科書』が私の歴史の整理を実によくまとめていただいているので、教科書に即 してお話を進めていきたいと思います。 ちなみに教科書は今年検定があって、来年からまた新しい内容になりますが、 この教科書のどこがおもしろいのか、解説しながらお話してみます。 まず、50ページに、「聖徳太子の新しい政治」と書かれています。この時代 のリーダーは、第33代推古天皇(すいこてんのう)です。その下に聖徳太子 と蘇我馬子(そがのうまこ)がいて、天皇を支えていました。 ここが実は律令国家建設に向かってのスタート地点です。スタートは推古天 皇の時代です。6世紀の末から7世紀のはじめにかけての時代になります。 そこから、ホップ、ステップ、ジャンプです。 ホップは、大化の改新です。これが54ページに書かれています。 ステップは、白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、663年、教科書5 6ページ)の敗北です。 ジャンプが、壬申の乱(じんしんのらん、672年、教科書57ページ)で す。古代史上最大の内乱です。 この3つを通じて、古代律令国家が確立されてまいります。この3つを、急 ぎ足ながらお話してまいります。 まず推古天皇の時代です。『歴史で読み解く女性天皇』(ベスト新書)という 本にも書きましたが、推古天皇は、中継ぎの女性天皇として登場したわけでは ありません。当時の皇族の中で、もっとも権威ある存在でした。内外の政治が
たいへん困難な時代に、最適のリーダーとして第33代の天皇の地位に即(つ) かれました。 この時代の特筆すべきことは2つあります。 ひとつは「対外的な自立」です。 もうひとつは「公(おおやけ)の統治」という構想の登場です。 この2つが、古代律令国家建設の意義です。なかでも大切なことは我が国の 自立自尊の立場を打ち立てたということです。 ではそれまではどうだったのかといいますと、たとえば有名な邪馬台国の卑 弥呼は、魏蜀呉の三国時代の魏という国から「親魏倭王」に任命されているわ けです。つまり冊封体制下に置かれていたわけです。おそらく冊封体制につい て説明している教科書は、つくる会の教科書以外にはないのではないかと思い ます。どれだけよくできた教科書なのかということですが、教科書の39ペー ジにあります。 ここに書かれているように、「王」というのは、原則としてシナ皇帝の家来の ことです。要するにシナ皇帝の家来には、王公侯伯子男というランクがありま す。そのいちばん上のランクが「王」です。ですから王様は偉いと思ったら間 【華夷秩序(かいちつじょ)と倭国】教科書39ページ 中国には自国が唯一の文明国で、周辺諸国を蛮夷(ばんい、野蛮人)とす る中華思想があった。皇帝は、朝貢してくる蛮夷の支配者を臣下として「王」 の称号を与え、その国の支配権を認めた。皇帝からの任命書である「冊書(さ くしょ)」によって王に封(ほう)じられたので、これを「冊封体制」といい、 こうした東アジアの秩序を「華夷秩序」という。 倭国は多くのクニに分裂していたので「漢倭奴国王」や「親魏倭王」の称 号は、大国の後ろ盾を示して他を威圧する意味を持った。 ただし国内をまとめあげた日本は、大陸文化の吸収のために朝貢はしても、 冊封はされない国(不臣の朝貢国)となり、華夷秩序から離脱した。
違いで、皇帝の家来です。周辺国の支配者を「王」などと冊書によって封じた ので、「冊封体制」といいます。 教科書のこの記述は、実によくまとまっている文章です。これがわからない と、その後の歴史がぜんぜんわかりません。東アジアの歴史もわからない。つ まり、東アジアの国際秩序は、シナの一方的な価値観にもとづく“中華”と“蛮 夷”による「華夷秩序」体制下にあったのです。 倭国という名前自体も、シナ側がつけた名前です。日本も倭国を名乗ってい ました。その倭国が「漢倭奴国王」や「親魏倭王」の称号をもらったのは、ま だ王権の力が弱いので国内政治を治めるのに後ろ盾、つまりたとえていうなら、 暴力団のバックがついているといような形式が必要だったわけです。 その日本は、国内をまとめあげ、大陸文化の吸収のために朝貢はしても、冊 封はされない国(不臣の朝貢国)となって、華夷秩序から離脱しました。 この「不臣の朝貢国」という言葉は、たいへん高度な学術用語です。普通なら 中学生の教科書に出てくるような言葉ではありませんが、歴史の実態を性格に 知るのに必要な言葉です。 なぜかというと、「朝貢国だったじゃないか」とか、「いや服属国ではなかっ たのだ」などと、不毛の議論をする人がいるのです。朝貢国であったことは事 実です。けれど日本は家来ではありません。ですから臣下ではない。だから「不 臣の朝貢国」です。かなりデリケートな事柄ですが、そのことをこの教科書は ちゃんと書いています。 こういう関係にあったので、まだ冊封体制下にあった卑弥呼は形式上、名分 上は魏の皇帝の「臣下」だったわけです。なぜなら「王」に任命してもらった わけですから。 それから有名なのが倭の五王です。すなわち讃、珍、済、興、武(さん、ち ん、せい、こう、ぶ)の日本の5人の王です。この名前が『宋書』倭国伝に出 てきます。これらは全部、宋の皇帝から王に任命されています。
教科書の年表の古墳時代のところを見ていただきますと、「478年、倭王武 (雄略天皇)が宋に使いを送る」と書かれています。これが日本史上、日本の 君主がシナの皇帝から冊封を受けた「最後」です。これ以降、日本史上二度と 再びありません。 足利義満が日本国王に任命されたり、その前は皇族の一人である懐良親王が 日本国王に任命されたりしていますが、日本の君主、つまり国家統治上の最高 権威である天皇ご自身が、シナの皇帝から冊封を受けるということは、478 年以降、ありません。これが最後です。 そして478年から、600年まで、日本はシナとは一切没交渉でした。ま ったく交流がないのです。教科書の年表の記述から洩れているのではなくて、 この間、まったく交流がないのです。ですから600年の遣隋使というのが、 非常に大事なことになってきます。 なぜ大事かというと、478年には日本は冊封を受けましたが、それ以降、 一切のシナとの交流は絶っていたのです。それが600年になってシナと再び 交流を持つ。それは再び冊封を受けるのか、それとも冊封を受けないのかとい う、いわば日本史上、最大の分岐点が、ここにあったのです。 ここから日本は現代の日本に、直につながります。その前からのつながりは もちろんありますが、21世紀と同じステージに、ここからつながるのです。 600年の第一回遣隋使は、冊封を受けませんでした。478年以降の日本は、 交流そのものをしていません。つまり外交関係自体を持っていません。その日 本が、再びシナと外交関係を復活させるにあたって、冊封体制を受けるか受け ないかが、重大事なのです。600年の遣隋使は、はっきりと冊封を受けませ んでした。これが日本の対外的な「自立」ということです。 二回目の遣隋使が小野妹子です。このときに国書の冒頭に書かれていたのが 有名なのが「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日 没する処の天子に致す。恙無しや、云々)です。
第一回遣隋使でも「王」ではなく、「阿毎多利思北孤(アメタリシヒコ)」と 名乗っています。ですがこれは「やまとことば」の称号であって、隋からした らなんのことだかさっぱりわからない。 そこで第二回の遣隋使では、わかりやすく「天子」を名乗ったわけです。こ れは要するに「タメ口」です。「あんたも天子、私も天子、よろしく!」みたい な口をきいたわけです。これに隋の煬帝は烈火の如く怒ったと『隋所』に書い ていますが、それでも日本は、シナとあくまで「対等」であると、ここで宣言 しているわけです。 なぜ日本がこのとき隋と対等なタメ口をきけたかというと、隋が高句麗と戦 争を控えているという弱みがあったことが理由です。このように相手の弱みに つけ込むのが、外交の要諦です。相手の弱みをじっくりと観察するのが大切で す。6世紀の末に隋という巨大な帝国が登場します。これは恐ろしい存在です。 シナの巨大帝国というは、必ず周辺国を侵略するからです。 隋が登場したとき、朝鮮半島の高句麗、百済、新羅は、みんな冊封を受けま した。そのときに日本は、じっと我慢していました。ビビってすぐに交渉に乗 り出さない。というのは隋と国境を接している高句麗と隋は、必ず戦争を始め ると読んでいたからです。高句麗は、当時の朝鮮半島にあって最大の軍事強国 です。しかも隋と国境をじかに接している。だから必ず隋と高句麗は戦争をは じめる。そのことを日本は見越して我慢している。これは指導者である推古天 皇の胆力であり、外交に携わっていた聖徳太子の見識です。 そしていよいよ隋と高句麗が戦争をはじめたとき、日本は遣隋使を派遣して 「ヨロシク」とタメ口をきいたのです。そうすると日本が高句麗側につかれる と隋は困ります。高句麗はすごい強国で、隋は何回も攻めるのだけれど、結局 攻めきれなくて国力を使い果たし、高句麗戦争が原因で隋は滅んでいます。そ の高句麗と日本がガッチリと手を組まれると隋は困るんです。逆に日本が隋に 付くと隋は一挙に有利になる。つまり日本はキャスティングボードをにぎる位 置に立ったのです。そういうことをわかって隋との交渉をはじめているのです。
高句麗との戦争が始まったところで第一回の遣隋使を派遣し、第二回ではお もいきり高飛車に交渉に行き、隋の煬帝は怒るのだけれども、しかし裴世清(は いせいせい)という人物をわざわざ付けて、小野妹子を丁重に日本に送り返し ているわけです。これは日本の外交の勝利です。 そして第三回の遣隋使が、翌年の608年です。このときも小野妹子が行き ました。これは、きわめて微妙な外交です。前回、煬帝を烈火のごとく怒らせ たときと同じ人間をまた派遣しているのです。これは小野妹子がよほど優秀な 外交官だったということです。 このときに小野妹子が持って行った国書が、「東天皇敬白西皇帝(東の天皇、 敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す)」です。「私は天皇、あなたは皇帝」 という、要するにそこに上下関係はないのだけれど、天子と天子というように 100%ぶつけることはしてない。「あなたは皇帝でしょ?、それなら私は天皇 ですよ」と言っています。それまで「天皇」というのは、シナでもまったく使 われていない言葉です。これが「天皇」が使われたはじまりです。つまり、「天 皇」というのは、対外的な自立を示す称号なのです。それまでの「王」という のは名分上の属国の証です。 「天皇」になったから、そのあと大化の改新、大化元年(645年)という のは画期的な意味を持っています。なぜなら日本が自前の「元号」を作ったと いうことだからです。そして「大化」以来「平成」まで、ずっと日本は独自の 元号を使っています。これをあたりまえと思っては行けません。朝鮮半島など ではごく初期などの例外を除きシナ皇帝による元号を使っています。自立した 立場にある「天皇」だから自前の元号を定めることができるのです。 そして律令国家にしても、自前の律令をつくれるのは、「皇帝」と「天皇」だ けです。「王」は作れないのです。「天皇」になったから大化から始まる自前の 元号をつくれるし、「天皇」になったから近江令(おうみりょう)にはじまる、 飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)、大宝律令(たいほうりつりょう)、 養老律令(ようろうりつりょう)という独自の律令を定めることができたので す。そういう意味で、「天皇」を名乗ったということ、それが対外的な自立であ
るということが重要なのです。 そして日本は、600年の第一回遣隋使の派遣の後、603年に官位十二階 を定め、604年には十七条憲法を定めています。この十七条憲法が、実は日 本人の言葉ではじめて「公(おおやけ)」という言葉が使われたはじめです。十 七条憲法では、実に5か条にわたって「公」が使われています。ここで「公」 VS「私」という対立がはっきりと自覚されたのです。 特に重要なのが、役人の勤めは「公に向かい、私に背を向けることだ」とあ ることです。いまの官僚に読んでもらいたいくらいです。この十七条憲法の中 身は非常に深いものです。これだけで1時間話しても終わらないくらい深いも のですが、ひとことでいえば、ここではっきりと「公」という概念がはじめて 打ち出されて、しかも国家は公共のための統治をしなければならないという理 念が示されたことです。 それまでは、国家は豪族の利益を代表すればよかったのです。ところが十七 条憲法では、豪族の支配下にある民衆の生活に対しても国家が責任をとらなき ゃいけないとされました。そして日本の君主は、ただひとりだけだとしました。 そのただひとりの君主に、豪族たちは仕えている臣下(しんか)だとしたので す。そしてその下にいる民衆に責任をとらなきゃならないという、おそらく2 1世紀の現代においても、こういう政治理念をちゃんと掲げられる国は、どれ だけあるのでしょうか。 この「公」に責任を負う国家、すなわち「公民国家」ということが十七条憲 法によって、はっきりと示されました。君主、これに使える臣、そして民、「君、 臣、民」という三層構造がこの十七条憲法にはっきりと打ち出されています。 そして天皇だけが、唯一の公の統治の体現者であると定められています。 つまりここにおいて、単に天皇という日本独自の称号が対外的な自立の証(あ かし)として登場しただけでなく、十七条憲法によって「天皇」の国内的な定 義も明確に定められたのです。そして民衆は、豪族たちの持ち物のようにされ てはいけないという、後の「公民」の理念が出ています。その公民の思想の先
駆けが十七条憲法にあります。ですから推古天皇の時代の十七条憲法が、その 後の律令国家形成、さらには今日の日本のスタートなのです。 理念・構想は示されました。しかしそれが制度化され、定着するには時間が かかるわけです。スタートは推古天皇の時代で、その後、律令国家の建設はホ ップ、ステップ、ジャンプと3つの段階を踏んでいます。最初のホップが大化 の改新になります。 ひとつ自虐的な戦後の歴史学を象徴するのが、一連の著作で「聖徳太子はい なかった」という論の大山誠一先生です。 そのようなことを 作家が言うのは良い のです。しかし古代 史の文献史学の歴史 学者が「聖徳太子は 虚構説」というのは 問題です。 その論が成り立た ないことは、以前の 講義で申し上げまし た。 簡単に申し上げま すと、教科書の64 ページにある法隆寺 のご本尊、金堂にあ る釈迦三尊像の光背 銘(こうはいめい) の(像の背中にある のが光背です)裏側
に、どうしてこの仏像を造ったかという由来が刻んであるのです。この釈迦三 尊像は、聖徳太子が亡くなった直後に完成していて、この釈迦三尊像は、聖徳 太子の等身大に作ったと書かれています。 みなさん、聖徳太子のお姿を、お釈迦様の像に仕立てているということは、 当時の人たちがいかに聖徳太子を尊敬していたかということがよくわかるわけ です。この事をもってしても(他にもいっぱい反論はあるのですが)、聖徳太子 の実在は明らかです。 大化の改新についても、「大化の改新はなかった」という説がありました。静 岡大学名誉教授の原秀三郎先生による「大化の改新否定論」です。これも見事 に否定されました。ひとつは当時の国際情勢を見ていない。当時の国際情勢は 隋から替わった唐が周囲の国々に侵略政策をとっていて、その危機感から高句 麗に泉蓋蘇文(せんがいそぶん)という大臣があらわれ、貴族たちを宴会をす るからと呼び集めて、みんな殺すわけです。そして国王を自分で絞め殺して体 を三つに断ち切って溝に投げ捨てるというとんでもないことをやって、傀儡の 国王を立てて独裁権力をふるいました。これは唐の圧力に対抗するために国内 をガッチリ固めようとしたわけです。一方、百済では国王の義慈王(ぎじおう) を中心に反対派を粛正して、国王中心の強権体制をつくったわけです。 また新羅では、金春秋(こんしゅんじゅう)という王族、後に武烈王となる 人が、やはり、高句麗も強いし、百済も強かったので(新羅は一番弱かった)、 生き残るには唐に近づくしかないと、唐にべったりの親唐路線を選ぶわけです。 このように、朝鮮三国が同じ7世紀の半ば、大化の改新の頃に、必死に国内改 革をやっているのです。こうした情勢下において、日本だけがのんびりしてい るわけにはいきません。 それだけでなく難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)という 日本書紀に出てくる都が発掘されました。これがそれまでの都とまったくスケ ールの違う、大きな宮でした。要するに政府の統治機構を拡充したことをはっ きりと裏付ける考古学上の遺跡が出て来たのです。
さらにこの時代に、地方の行政組織である「評(こおり)」が整いました。「こ おり」というのは、後に「郡」という字が充てられますが、この「評」という 組織が日本書紀に出てくるわけですが、「評」という組織が全国に整いました。 「そんなわけないだろう」と戦後の歴史学者は思っていました。日本は遅れた 国だから、そんな立派なものはできるわけないだろう、日本書紀の編者がデッ チ上げたに違いないと勝手に推測したのです。 ところが木簡(もっかん)が出て来たのです。同時代の木の札に、地名が書 いてありました。そこに「なんとかの評(こおり)」と書かれていました。ここ でも考古学が、日本書紀の信憑性を証してくれたのです。 戦後の偏向した左翼的な自虐史観の歴史学は、古事記、日本書紀なんかダメ、 これからは考古学だと言っていたのだけれど、その考古学が日本書紀の記事の 信憑性を証明してしまっているという証拠が次々と出てきまして、「大化の改新 はあった」というように学説は変わりました。 ステップは「白村江の戦い」です。 みなさん想像してください。最近の研究によると5万人を超える水軍が、朝 鮮半島に渡っているのです。当時の人口は、いまの30分の1くらいです。と いうことは、いまでいうなら150万人の大軍を半島に送ったようなものなの です。いま自衛隊が陸海空を合わせて24万人です。その陸海空の全軍をあげ た数の、さらに6倍以上のとてつもない軍勢を朝鮮半島に送って、ぺしゃんこ にやられたのです。 このことは、単なる歴史上の年表の一項目だと思わないでほしいのです。当 時の日本人にとって、これは国が滅びるぞというものすごい危機感を生んだの です。 白村江の戦いは、660年に滅ぼされた百済の再興のために軍勢を送ったも のです。その百済は、新羅に滅ぼされました。なんとこのとき、新羅は唐を巻
き込んで、唐の軍勢で百済を攻め滅ぼしてしまったのです。朝鮮半島というの は、非常に不幸な歴史です。この高句麗、新羅、百済が統一するにあたて、新 羅が何をやったかというと、自分では勝てないから、唐の軍隊で百済を滅ぼし、 高句麗を滅ぼして、最後、統一しているのです。 これはものすごい歴史だと思います。その660年に百済が滅ぼされ、百済 を復興したいから助けてくれ、日本の軍隊を送ってくれということで、日本は 5万人の軍隊を送った。そしてぺしゃんこにやられた。 このことで、当時の日本の社会に激震が走りました。このままでは日本が滅び るかもしれない。だから防人が北九州に向かいました。そして水城(みずき) を設け、烽(とぶひ・のろしのこと)を設け、鉄壁の防衛体制をひき、都も、 奈良盆地では危ないということで、琵琶湖のほとりの近江の大津に都を遷し、 敵に備えたのです。この敗北が律令国家建設の「ステップ」につながったので す。 なぜこのとき負けたのかというと、軍勢の数では劣っていなかったのです。 けれどそれでなぜ負けたのかというと、わかりやすくいうと、陸上自衛隊と暴 力団の戦争だったのです。日本が暴力団です。唐の軍勢が陸上自衛隊です。同 じ数、同じ装備で戦ったとしても、絶対に陸上自衛隊が勝ちます。これは普段、 節制しているとか、訓練しているとかいう話ではなくて、組織原理が違うので す。唐の軍隊は、指揮命令系統が整っています。これに対し日本の軍は豪族連 合体でしかありません。指揮命令系統が統一されていない。 「これではいけない!」 白村江の戦いの敗北は国内の豪族たちの意識を変えました。そのことが古代 律令体制の発展のためのステップとなったのです。ここで近江令という最初の 令(りょう)ができました。要するに大宝律令、養老律令といいますけれども、 これは年号です。ところがこの時代には、まだ年号が断続的にしか使われてい ないのです。そこで都が近江の大津にあったので、近江令と呼ぶわけです。 この時代には、まだ「律」ができていません。「令」だけです。「律」は刑法 です。「令」は行政法です。統一的な刑法がなくても、それまでの慣例があるわ
けです。また、「律」はきわめて高度な知識を必要とするので後回しになりまし た。 ところがシナでは、「律」がいちばん重要です。シナは「律」でビシビシやら ないと秩序を保てない国だからです。日本の「律」とシナの「律」を比べると、 シナの方がはるかに厳罰です。そうしないとみんな言うことをきかない。何を するかわからない。 それと戸籍です。庚午年籍(こうごねんじゃく)という最初の全国規模の戸 籍が作られました。戸籍が整うということは、豪族の支配下にあった民衆が国 に直接属することになった、公(おおやけ)の民(たみ)になったということ です。大化の改新のときに掲げた公民制が、白村江の敗戦によって大きく前進 しました。公地公民というのは口で言うのは簡単ですが、豪族たちにしてみれ ば、これはたいへんなことです。豪族というのは、自分の土地と民衆を支配し ていることで、それが自分の権力のもとになっているのです。土地と人民を取 り上げられるということは、独自の政治的、経済的基盤を失って丸裸にされる ということですから、ものすごく抵抗をするのです。 ですからなかなか豪族たちの既得権益には手を出せなかったのですが、白村 江の敗戦で、いままでの体制にしがみついていて、日本そのものが滅んだらど うなるのかという危機感をバネにして、「令」がまとめられ、戸籍が成立すると いう流れになるわけです。 そして「ホップ、ステップ」に続く「ジャンプ」が「壬申の乱」です。 壬申の乱については、私が『日本の10 大天皇』という本を幻冬舎新書から出 しているのですが、この本の中で天武天皇についてとりあげたなかで、壬申の 乱について、かなりつっこんだ議論をさせていただいていますが、この壬申の 乱によって、それまで抵抗していた豪族たちの発言力がドカンと落ちます。 なぜかというと、たとえば大伴氏のようなひとつの豪族が、近江朝廷の側に 付くのか、それとも大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)の側に付く のかで分裂するのです。そして旧来の大豪族は、全部近江朝廷にいるわけです。
その近江朝廷が滅んだのです。 この672年の壬申の乱も、とてつもない出来事です。日本史上最初で最後 の出来事です。なにかというと、武力で朝廷が滅ぼされたのです。このあと戦 国時代も、こんなことはありません。武士の時代にもありません。万葉集には、 この近江朝廷の滅亡を悲しむ貴族たちの作品が多く収録されています。 壬申の乱では、中堅豪族たちがその豪族の内部で二つに分裂し、また大豪族 たちは近江朝廷側にいて没落しました。一方、一皇族の立場から、朝廷を倒し た大海人皇子の人望は、ものすごいカリスマとなります。その大海人皇子がリ ーダーシップをとって律令国家確立にひた走るわけです。 ということで、ホップ、ステップ、ジャン プというお話をいたしました。この一連の動 きの締めくくりが、689年の飛鳥浄御原令 (あすかきよみはらりょう)、このとき、倭 国の国名は日本に変わります。 日本という国号のはじまりは、私は689 年であるという学説を堅持してきたのです が、中国の西安から「袮軍墓誌(でいぐんぼ し)」が発見され、674年から678年の 間に「倭国」から「日本国」に変わったので はないかという意見が出てきました。私も以 前の日本史検定講座で紹介しました。 その後研究が進みまして、「どうも袮軍墓 誌に出てくる日本という名は、国の名前では ないらしい」という説が有力になってきてい ますので、そうするとやはり689年でいい のかなあということで、「689年、倭国か ら日本国に国号が変わる」ということです。 袮軍墓誌
ここで重要なのは、「倭国も日本も同じ国だ」ということです。 第41代持統天皇の時代に、天武天皇の志を受けて、天武天皇の時代からま とめられた飛鳥浄御原令が二番目の令として班布(はんぷ)され、そこで「倭 国から日本に変わった」のです。しかも天武天皇と持統天皇は夫婦です。そし て持統天皇は天智天皇の娘でもあります。そして都は同じ飛鳥浄御原宮です。 ですから倭国から、誇り高い、太陽の恵みの最も豊かな国という意味の日本 という国号となったわけです。「倭」というのは、チビとか従順なという意味で す。それを太陽の恵み豊かな日の本(ひのもと)国という国名にかわりました。 ただし訓で読む場合は、倭も日本も共に「やまと」です。 689年に飛鳥浄御原令ができて、その翌年に持統天皇が正式に即位をし、 そしてこの年、庚午年籍のときに一部残っていた隷属民も公民へと編成替えし たは統一的な完備した戸籍ができました。庚寅年籍(こういんねんじゃく)で す。これが最終的な公民制の確立です。 そして690年が、第一回の伊勢神宮の内宮(ないくう)の式年遷宮です。 つまり、日本国ができた翌年が、第一回の式年遷宮だったわけです。 この第一回式年遷宮の翌年が、第一回大嘗祭(だいじょうさい)です。大嘗 祭のいちばんの中心点は、それまでの新嘗祭では、天皇陛下に直属した特別な 神聖な(屯田、官田)田んぼから稲が献上されていました。ところが大嘗祭で 重要なのは、天皇陛下の直属田の稲を一切つかわなくなり、その代わりに天皇 のお膝元の畿内の外側にある地方の百姓(ひゃくせい)、地方の公民、おおみた からの田んぼの稲が、天皇に直接献上される。これが大嘗祭の成立の一番の意 味なのです。天皇の公民の関係を祭式的に総括し更新する、公民制が成立した ことを証立てるお祭りが、実は大嘗祭なのです。 この大嘗祭が、時代とともに形が崩れ、戦国時代に中断し、江戸時代に細々 とよみがえり、そして本来の形の大嘗祭に戻るのは、明治4年の廃藩置県を踏
まえて、なのです。 つまり、藩を取り潰して天皇統治の行政単位の「県」に置き換えたのは、公 民制の再建なのです。それで本来の大嘗祭に復活をしました。これが近代統一 国家の成立です。つまり、近代統一国家は、古代統一国家を反復しているので す。このあたりのことは、私が最初に書いた『天皇と民の大嘗祭』(展転社)と いう本の中で詳しく展開しました。
3 古代統一国家確立期の民衆の実像
右にあるのは、日本書紀の巻30持統 天皇紀の項に書かれているものです。西 暦690年の出来事で、これは第一回の 式年遷宮が行われた年でもあります。倭 国から日本国となった翌年の記事です。 ここに大伴部博麻(おおともべのはか ま)という人物のことが書かれています。 持統天皇4年(690年)9月23日の 出来事です。 この日、「唐の学問僧である智宗(ちそ う)、義德(ぎとく)、淨願(じょうがん) ならびに新羅の送使(そうし)の大奈末 (だいなま=位のことです)の金高訓(こ んこうくん)らに連れられて、軍丁(い くさよほろ=兵士のこと)であった筑紫 國上陽咩郡(かみつやめのこうり=いま の福岡県八女市あたり)出身の大伴部博 麻が帰って来た」と書かれています。この場合の軍丁(いくさよほろ)とは何かというと、白村江の戦いに出た兵士 です。 これが古代律令国家建設の時代の日本人の姿なのです。 すこし詳しくみてみます。 持統天皇が、大伴部博麻という無位無官の人物、しかも部姓(べせい)です。 部姓というのは、もともとは隷属民だった人ということです。ですから無位無 官の庶民であり、もともとは大伴一族に仕えていた召使いのような立場の人で あり、もっといえば私有民、非常に身分の低い人です。その身分の低い大伴部 博麻に対して、持統天皇が直々に詔(みことのり)を下さっています。 何が起こったのかというと、天豐財重日足姬天皇(あめとよたからいかしひ たらしひめのみこと、斉明天皇(さいめいてんのう)のこと。斉明天皇となる 前に皇極天皇(こうぎょくてんのう)の名で天皇になられています。つまり二
回天皇になられた方で、天智天皇、天武天皇のお母さんです)の7年(661 年)に、白村江の戦いのために九州を中心として庶民が兵員として動員された のですが、そのときに大伴部博麻は、兵士として海を渡って新羅と唐の連合軍 と戦ったわけです。 その兵士に持統天皇は「汝(いまし)」と呼びかけています。持統天皇が無位 無官で一般の庶民にすぎない大伴部博麻に、「汝(いまし)」つまり、「そなた」 と直々にお声をかけていらっしゃるのです。 その大伴部博麻は、661年の白村江の戦いの際に、唐の軍に捕虜にされま した。天智天皇の3年(670年)のとき、土師連富杼(はじのむらじとよ)、 氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻(つくしのきみさつやま)、そして弓 削連元寶兒(ゆげのむらじがんぽうのこ)、の4人が(それぞれ「連(むらじ)」 とか「君(きみ)」とかの姓(かばね)を帯していますから博麻より身分の高い 人たちです)、唐の国が日本を攻めようとしているということを察知したのです。 4人はそのことを早く日本に伝えたいのだけれど、670年ですから、もう 捕虜になってから7〜8年経過していて唐の国内でも捨て置かれ、お金がない。 そのときに大伴部博麻が、「自分も一緒に祖国に帰りたいです。けれど衣料も食 料もなく、一緒に帰ることができません。ですから私の身を奴隷に売りさばい て、みなさんの帰国のための路銀にあててください」と、この4人に言うので す。4人は、大伴部博麻を奴隷に売ったお金で日本に帰り、唐が攻めてくるか ら防衛体制を整えてくれという情報を、日本に伝えました。 ここで持統天皇は、ふたたび博麻に「汝(いまし)」と呼びかけます。 「そなたは、そのまま30年唐の国にとどまった。祖国の危機を救うために自 らの身を奴隷に売って、その情報をもたらす路銀を作り、そのために30年、 そのまま唐の国にとどまった。」 そして、「朕、その朝(みかど)を尊び、国を愛し、おのれの身を売ってまで 忠(まめなるこころ)をあらわせることを嘉(よみ)す」と大伴部博麻にお言
葉をかけられたのです。これは天皇として最大限のお褒(ほ)めの言葉でしょ う。 大伴部博麻が日本に帰国したのは690年です。出発が661年です。です からまる30年が経過しています。当時の平均寿命を考えれば、もう年寄りで す。大伴部博麻は若い盛りに軍隊に行きました。両親はきっと博麻が帰ってく るのをずっと待っていたはずです。父もいたでしょう。母もいたでしょう。そ の他の家族いたことでしょう。さらに親戚もいたことでしょう。みんな待って いたのです。 けれど30年です。当時の寿命を考えれば大伴部博麻自身の寿命が尽きても よいくらいなのです。20歳で行っても50歳なのです。 このまえまで「人生わずか50年」と言っていました。いまの寿命で考えな いでいただきたいのです。大伴部博麻は、当時でいえば、もう晩年です。その 晩年になって、やっと日本に帰ることができました。 両親たちも、みんな亡くなっていたことでしょう。しかし大伴部博麻は、祖 国のために自らの身を売って、30年奴隷としてシナですごしたのです。 持統天皇は、このとき「朕、その朝(みかど)を尊び、国を愛し、おのれの 身を売ってまで忠(まめなるこころ)をあらわせることを嘉(よみ)す」と、 こうおっしゃられました。原文ですと「朕嘉厥、尊朝愛國、賣己顯忠」です。 これが「愛国」という言葉が日本の文献に出てくる最初です。 持統天皇はそのように申されて、大伴部博麻に、務大肆(むだいし)という 位(のちの従七位下)、あしきぬ五匹、綿(わた)を10屯、布を30反、稲を 1000束、4町の水田を褒美として与えました。そしてその4丁の水田は、 曾孫の代まで受け継ぎなさいと、そして三族に至るまで、税金を全部免除して、 そなたの功績を世に顕彰したいと、述べられたのです。 これが7世紀、つまり倭国から日本国に変わる古代律令国家が建設される、
その時代の庶民の気持ちなのです。大伴部博麻は、インテリでも指導者でも政 治家でもありません。ただの一介の庶民です。 このことは、私は信じがたいような出来事であり史料であると思います。 なぜなら「愛国心」というのは、世界史上、18世紀の後半以降でないと出て 来ないといわれているのです。18世紀の後半以降とい うのは、アメリカの独立革命、フランス革命、そして民 主主義的な国家ができて、それでやっと「国は俺たちの ものだ、俺たちが背負っているのだ」というナショナリ ズムが生まれたとされているのです。 それまで国というのは、皇帝や国王のものであって、 庶民にとっては「俺たち関係ない」。ですから国が危なく なれば、強制的に徴用されない限り、先に逃げちゃう。 世界におけるナショナリズムは、18世紀の後半以降と いわれているなかで、この大伴部博麻の行動はどうでし ょうか。どう考えてもナショナリズムです。愛国心です。 実際、持統天皇の詔には「愛国」という言葉が使われて います。 ですから日本人というのは、国を愛するという面で、 世界で一番最初に国を愛するという心をはっきりと持っ て、しかもそれを実践できた国民なのかもしれないので す。 世界史の中においてみたとき、この大伴部博麻の行動 は、すごいことです。18世紀半ば以前では、自分の忠 誠を尽くす相手は、領主様のため、ご主人様のためです。 ところが大伴部博麻は、国のため、日本のために忠義を つくしています。本当は両親に会いたいはずなのです。 家族のもとに帰りたいはずなのです。それでも、国を護 るために、自分の身を売っているのです。
またそれを大切に持統天皇は、その大伴部博麻の行為を顕彰されたわけです。 そして日本書紀という、国家の正式な歴史書に、名もなき庶民の功績を、特筆 大書したわけです。これも是非、注目していただきたい事実です。 前のページの記事は、朝鮮半島の歴史書である『三国史記』の記述です。こ こに668年頃に、唐が倭国を征伐するといいながら、実は新羅に攻めてくる んじゃないかと言って、新羅が大騒ぎをしていたという記事です。 これは、ちょうど大伴部博麻たちが、「唐が日本を攻める」と言っていた時代 なのです。その傍証として、右の文を掲載しました。 左にあるのは、『令集解(りょうのしゅうげ)』という平安時代の、養老令の 注釈書の一部です。 この『令集解』に、『古記』という738年頃に成立した大宝令の注釈書が断 片的に引用されていて、その中に引用されている、ある文献(「一云」)です。 書名が伝わっていないのですが、これが実におもしろい史料で、めずらしく庶 民の実情、実態が書かれています。 大伴部博麻のお話は個人の実例ですが、こちらは地方の村の庶民の実情を描写 したものです。 日本の村の連続性ということで申しますと、弥生時代の村落が古墳時代にも 続いています。そして古墳時代の村落を、行政が手を加えないで、律令制下で も続いています。村落の自立制が、ずっと尊重されているのです。
これがシナですと、国が手をいれて村落を解体し たりするだけでなく、家の中、つまり家庭の中にま で皇帝の権力が及んだりしています。これに対し日 本ではどうだったかというのが、この『令集解』で す。 「一云(あるにいわく)」とあります。続けて次のよ うに書かれています。 「村ごとに、非公式に神社をお守りする人を置き、 村の人たちは、公私にかかわりなく他国に行くとき、 その神社で神様にお供え物を する。収穫の時期には各世帯 の収穫高に応じて、神社に一 定の作物を納める。それを神 社に蓄え、それを春には村人 に貸し与えて利子を取ったり して、神社の経済基盤として いた。 春と秋のお祭りの日には、 その蓄えで神様に供える食べ 物や飲み物や、村人たちの食 べ物などを準備し、年2回の お祭りのときに村の男女こと ごとく神社に集う。神社では、 年齢ごとに席を決め、若者た ちが給仕係をし、そういうこ とが春と秋の二回のお祭りで 行われている。そしてその神 社では、社首が、国家の法を
みんなに告げている。」 村の社首(やしろのおびと)というのは、他の史料では、村の首(おびと) とも書かれている人物だと思われます。村のリーダーが、神社の社首であった ろうと思われます。 その神社の社首から、国法に関するさまざまな公の情報が、村人たちみんなに 伝えられる。 これが日本における庶民の連帯感と公の意識を支えていた核にあたるもので す。そしてそれが「非公式」ということですから、律令体制が敷かれる以前か ら、日本でずっと行われてきた習俗であり、慣習であることがわかります。
これが国家の法令が全国津々浦々、庶民に至るまで到達していた理由です。 国家意識が生まれるわけです。 しかも村人は、男女の差別もなく集まり、席順も貧富の差や政治的に有力か どうかなど一切かかわりなく、平等にただ年齢の順番で決められていました。 実に平等です。 前のページにありますのは、魏志倭人伝の記述です。 「その会同、坐起には、父子男女別なし。人性酒を楽しむ」とあります。 日本人は、男女別なくみんな集まってお酒を楽しんでいるよ、ということです。 これが2世紀、3世紀の日本の様子です。
おそらくこれは『令集解』におさめられていることと共通する場面ではない かと思われます。祭りの日には神社に集まって、みんなで酒を飲む。このこと はごく最近までよくみかけた光景です。あるいは地方によっては、ほどんどそ のまま残っているのではないでしょうか。 そういうなかで、国家とのつながりも「公」の感覚も、実は、こういう場所 で実感することができたわけです。
4 その後の展開
実は、律令の体系は、その後も生き続けています。 たとえば、戦国時代においても、戦国大名たちの支配の単位は、律令制下の 「国、郡」を前提としています。 その手前の鎌倉時代の御成敗式目、貞永式目も、これをまとめた北条泰時は、 式目を作ったからといって、律令を変更しようとは思っていません。彼は、律 令制度があくまでも公の制度であって、式目は、あくまでも武家の内々のもの であると、わざわざことわっています。 戦国大名たちも、国司に任命されることを求めています。 江戸時代でさえも、大名たちは中納言などの律令の官位をいただいています。 たとえば有名な水戸黄門、徳川光圀は、権中納言(ごんちゅうなごん)の官職 をいただいています。「黄門」というのは、中納言の唐名です。 征夷大将軍そのものも、律令制下の官職です。 武家権力は最後まで、律令という仕組みを乗り越えることができなかったの です。時間になってしまいました。 巻 末 資 料 の (8)と(9) は、大化改新に ついての資料で す。 公民というも のがなぜできた のかということ の背景について、 推古天皇の時代 から古代律令国 家建設に至る最 大の動機がどの ようなものであ ったかを知る上 で欠かせない資 料です。
(8)は、大化元年の9月19日の孝徳天皇の詔です。(9)はそれを解説した 私の文章です。 われわれは、めぐまれた、そして誇るべき見事な歴史を持っています。その ことを、わたしたちは、もういちど振り返る必要があるのではないでしょうか。 21世紀の日本は、実は7世紀の日本の延長です。 そして7世紀の日本は、それ以前にさかのぼる倭国の看板を換えただけです。 その倭国は、2世紀の初頭にはすでに登場していたのです。2世紀初頭、ある いはもうすこしさかのぼって一世紀の後半に登場した国が、21世紀まで続い ているのです。世界史上、唯一の国です。 しめくくりにそのことだけを申し上げたいと思います。 (了) (文責:日本史検定講座教務担当小名木善行)