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南アジア研究 第21号 003中谷 純江「新しいコミュニティ祭礼の出現」

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(1)

新しいコミ

ニテ

祭礼の出現

─ラージャスターン農村におけるラームデーヴ信仰と巡礼─

中谷純江

1 序論

1-1 本稿の目的 近年、ラージャスターン農村部で聖者ラームデーヴ(

bābā rāmdev

)の 寺院(廟)1への巡礼が人気をあつめている。ラームデーヴ寺院は、デリー から西南に約

600

キロ、ラージャスターン州ジャイサルメール県のラーム デーヴラー(

rāmdevaṛa/Ramdeora

)村にある(

112

頁の図

1

2。ラームデー ヴは

15

世紀に活躍した聖者であり、独立以前まではシンド地方やインド 北西部を中心に、ムスリムや不可触民の間で信仰されてきた。しかし、独 立以降になると、アーメダーバードやムンバイなど都市部を中心に高カー ストの人々の間に広がり、近年ではラージャスターン各地の農村部からも、 カーストを問わず、多くの人々が彼の寺院を参拝する。筆者が調査をする ラージャスターン農村でも、

2000

年頃から村人の間でラームデーヴ信仰 が高まりを見せ、毎年きまった時期に「村の巡礼団」が組織されるように なった。こうして調査村の年中行事となったラームデーヴラー巡礼を、本 稿ではとりあげる3。 巡礼は古くからの宗教実践であり、ヒンドゥー教にとって不可欠の要素 をなしてきた。しかし、それが大衆化したのは近代以降のことである。

Fuller

が指摘するように、マスメディアの発達や教育向上が一般の人々の ヒンドゥー教聖地についての知識や、そこへどう到達するかについての知 識を高めたこと、さらに長距離旅行をより安全に、早く、安価にした交通 機関の発達が巡礼の拡大の重要な要因である

[Fuller 1992: 205]

。つまり、 執筆者紹介 なかたに すみえ●鹿児島大学准教授 社会人類学 ・2008、三尾稔・金谷美和・中谷純江(編)『インド刺繍布のきらめき―バシン・コレ クションに見る手仕事の世界―』、昭和堂。 ・2008、「インド・ラージャスターン農村の民族誌」、金沢大学提出博士論文。

(2)

巡礼の発展は、聖地の発見や巡礼路の整備、人々の経済的余裕などが前提 条件となっている。しかし、調査村においても、これらの条件は少なくと も

1990

年代初頭までに整っていたと考えられるのに、なぜ今になって、 巡礼がこれほど多くの村人の関心を集めるようになったのだろうか? また、いくつかの先行研究は、巡礼の機能として社会的統合を指摘して きた。インドでは、聖地巡礼が地方の土着信仰や部族的信仰(小伝統)を サンスクリット化し、ヒンドゥー教(大伝統)に統合する役割を果たして きたとされる

[cf. Cohn and Marriot 1958, Srinivas 1967]

。これに対し、 本稿の事例は、これら先行研究が対象にしてきたヒンドゥー教の大聖地で はない。民俗信仰の範疇にくくられる聖者廟への巡礼である。よって、巡 礼が果たす機能も異なっていることが予想される。そもそも村の巡礼団は、 なぜ他の聖地、例えば、クリシュナ信仰で有名なドゥワールカー(

dwārakā/

Dwarka

)ではなく、低カーストのクリシュナ神との名をもつラームデー ヴの廟を目的地にするのだろうか4?  本稿の目的は、これらの疑問を念頭にラームデーヴラー巡礼に参加する ことが、村の人々にとって何を意味しているのかを考察することにある。 村落社会に新しく出現した「巡礼」が、カーストやジェンダーなど、村落 の「伝統的」社会関係を離れたところに成立しているにかもかかわらず、 村落社会の人々をつなぎ、「コミュニティ」を実践する祭礼として機能し ている点を指摘したい。 本稿の概要は以下の通り。

1

では、本稿の目的に続き、調査地概況として、 「伝統的」社会構造が流動化している現在の政治経済的状況について述べ る5

2

では、「村落祭礼」と筆者がよぶものを定義したうえで、調査村に おける祭礼の変容について記述する。まず、「伝統的」ホーリーがどのよ うな祭りであったのか、現在どのように衰退しているのかを示す。次に、 ホーリー祭を執りおこなってきた「伝統的」コミュニティの歴史性につい て論じる。ここでは、「伝統的」ホーリー祭もまた、ある時期の政治経済 的状況において創られた「コミュニティ」の祭礼であることが明らかにな る。そして、現在の政治経済的状況において、ホーリー祭が否定される一 方、ラームデーヴラー巡礼が新しい年中祭礼として出現したことを述べる。

3

では、近年、村人の人気を集めるラームデーヴ信仰の特性を分析する。 ここでは、ラームデーヴが宗教的にハイブリッドな特質をもち、それゆえ 宗教、カースト、階級、ジェンダーにおいて異なる人々を包摂する力をもっ

(3)

ていることを述べる。最後に

4

では、ホーリー祭と巡礼の両方において人々 の口から語られた「マザー」(

mazā

)という言葉を手がかりに、村落祭礼 に対して人々が求めているものを明らかにする。マザーの体験において、 両祭礼は共通するが、祭礼への参加原理やそれが体現する社会構造におい てホーリー祭と巡礼は異なる。ホーリー祭では、権力を集中させ、他者の 従属を要求するヒエラルキカルな関係性が体現されるのに対し、巡礼にお いては、参加者ごとに異なる意味をもつ開かれた関係性が体現され、異な る個人や集団をつなぐ結節点の役割が重要となる。2つの祭礼を同時に視 野に入れ、日常生活における権力関係との結びつきを見ることで、巡礼と いう新しい祭礼を通して、村の人々が新しい社会関係を築こうとしている ことを論じる。 1-2 調査地の概況 調査地デーヴァプル村(

Devapur

、以下

D

村)は、インド北西部ラージャ スターン州パーリー県に位置する(図1)。村の人口は

1998

年の調査で

1114

人、

183

世帯を数え、

17

の異なるカーストから構成された。

D

村は 約

300

年前に

1

人のラージプートが藩王から領主権(

jagīr

)を授かり、様々 なサービス・カーストを呼び寄せて設立した「ティカーナー」(

ṭhikhānā

) 領地である。そこでは領主タークル(

ṭhākur

)の主権が認められ、領土と そこに住む人々に対する包括的な支配がおこなわれていた。村落社会の秩 序として、領主層のラージプートを中心に他のカースト成員の序列と役割 が定められてきた(表

1

6。しかし、近年は、職業が流動化し、かつての 被支配者層のなからも、経済力をつけた人々が出現しはじめている。

D

村では、半数以上の世帯が何らかの形で農業に関与しているが、現在、 農業収入が主である世帯はあまり多くない。この地域の年間降雨量は平均

472

㎜で、生態的には半乾燥地帯に分類される。しばしば旱魃におそわれ、 農業のみで生計をたてるのは困難である。伝統的に人々は雑穀農業と移動 牧畜を生業としてきた。現在では、潅漑設備の普及にともなって、天水依 存の雨季作物(カリーフ)から小麦やマスタードなどの乾季作物(ラビー) へと農業生産の中心は変化している。また、灌漑地において緑飼料を栽培 するようになったことで酪農も発展してきた。 しかし、近代農業と酪農において、水は不可欠な生産手段であり、井戸 を所有しているかどうか(

water ownership

)と、その年にどれだけの

(4)

水が井戸にあり、耕作に利用できるか(

water availability

)という

2

種 類の水問題が農業関係を支配するようになった[

Nakatani

2000

]。特に

1990

年代以降、地下水の過剰な引揚げによって水位が低下し、村の井戸 の多くが枯れた。多くの農民世帯が水を失い、水をもたない者は自らの労 働力を貸すか、あるいは水を借りるか、水をもつ者との間で分益小作契約 を結び、耕作をつづけてきた7。これらの世帯では、酪農収入や出稼ぎ収 入によって農業収入を補いながら家計が維持されている。

1990

年代後半 からは、出稼ぎに行く人々の数が急速に増え、以前の出稼ぎは若者が一時 的にお金を稼ぐ手段とみなされていたのに対し、近年では結婚後も出稼ぎ をつづけるケースが多く見られる。一方、水をもつ者は、その多くが旧領 主層のラージプートであるのだが、天候に恵まれた年にはかなりの農業収 入をあげている8。 しかしながら、水所有は土地所有に比べると決して安定していない。な ぜなら井戸の水位は降雨量に依存するだけでなく、年々減少している。農 民は資金をためて、下方向または横方向にボーリングを試みるが、巨額な 序列 カースト 「伝統的」職業 世帯数 上位カースト 1 Rajput Deora Rajput ジャーギールダール(領主) 10 Sindar Rajput ボーミヤー(土地の者) 4 others 3 2 Rajprohit 王家のグル 8 シュードラ層 (その他後進階層) 3 Shami (Goswami) 現世放棄 7

4 Daroga (Rawana Rajput) 使用人 8

5 Chaudhri (Sirvi Chaudhri) 小作人 52 6 Rebari (Raika) 牧畜民 19 7 Banjara (Bhat) 塩の輸送 25 9 Chhipa 仕立て職人 6 8 Kumhar 土器職人 1 10 Vaishnav クリシュナ寺院の司祭 1 低カースト (指定カースト) 11 Meghwar (Bhambi) 皮革職人 10 12 Sargrah (Hiragar) 馬番 16 13 Garg (Gurra) 低カーストのバラモン 6 14 Bhat (Raw) 低カーストの系譜書き 2 15 Dholi 太鼓たたき 1 16 Bhangi トイレ掃除人 2 (指定部族) 17 Mina 夜警 2 合計 183 表1 D村のカースト構造(1998年調査)

(5)

投資にもかかわらず、水が出るという保証はなく、たとえ水がでても、塩 分を含んでいることも多い。このような場合、自耕作の道を絶たれるばか りか、借金だけが残る。旧領主層のラージプートの中にも、水を失ったこ とで没落した世帯がある。水所有の不安定性と利用可能な水量の年ごとの 変動は、村の農業関係にモビリティを与え、農民層の二極分解プロセスを これまで妨げてきた。けれども、水がますます重要性を高める中、農民カー スト内部にも水をもつ者ともたざる者との間の格差が徐々に見えはじめ、 例えば、水をもつ農民の中から、農業と酪農によって得られた収入を貯蓄 し、ムンバイ近郊に布と雑貨の店を開く者が現れた9。そして、こうした 経済力をつけた農民の出現が、旧領主を中心とする古い秩序や権力関係を 揺さぶりはじめていた。このような状況の中、現在では「伝統的序列」に 対する異議申し立てがしばしばおきるようになっている10

2 村落祭礼の変容

この章では、1で述べた政治経済的変化が宗教祭礼にも変化をもたらし ていることを述べる。

D

村には、「大祭(

baṛā tyohār

)」とよばれる年中祭 礼が4つある(表

2

)。これらの祭りは、朝一番に「ラーマ・サーマ(

rāma

sāma

)」(ラーマ神への挨拶)といい、村の各家の男性世帯主が領主を訪 問し、「新年の挨拶」をおこなうことから始まる11

4

つの大祭は、季節の 節目をあらわすとともに、人生の出来事の節目にもなる重要な祭りである 12 。祭礼には、家族や親族を単位として祝うものから、特定カーストが単 位となるもの、そして村落が全体として祝う祭りがある。本稿では、村落 全体の安寧や繁栄を明示的に祈願する儀礼、たとえ実際には参加していな い村人がいるとしても、カーストを超えて村落成員が共同でおこなう儀礼 を「村落祭礼」と呼び

[Fuller 1992: 129]

、その変容について論じる。 2-1 「伝統的」ホーリー祭 筆者が

D

村で調査を始めた

1990

年代初頭、ホーリー祭は年中祭礼の中 で、最も盛大かつ唯一の村落祭礼であった(表

2

13。ホーリー祭は数日に わたっておこなわれ、複数の儀礼からなる。まず、ホーリー祭の口火をき る最初の儀礼は、ファールグン(

phālgun

)月の満月の夜にホーリーと呼ば れる木を燃やす「ホーリー・ダヘン(

holī dahan

)」である。翌朝チャイト

(6)

祭礼(●は大祭) ヴィクラマー ディティヤ暦 主な内容 祭礼主体 領主への 挨拶 近年の変化 ナヴラートリー チャイトラ 白分1∼9 ラート・ジャグラン ラージプート ●アーカーティージュ ヴァイシャーク 白分3 婚姻儀礼 親族 ラーマ・ サーマ チャーマーサー アシャール 白分14 耕起儀礼(雨季開始)農業者 農業者が減少すること で、儀礼も縮小ぎみ ●ラーキー・バンダン スラヴァナ 白分15 兄弟姉妹の儀礼 姻族 ラーマ・ サーマ カーワーリー・ティージュ バッドルワー 黒分3 既婚女性の儀礼 家庭 ラームデーヴラー巡礼 バッドルワー 黒分3∼11 徒歩によるラーム デーヴ寺院参拝 村 2000年から村の年中 行事化。2004年から 巡礼団の結成 レワリ/ ジャルジュールニー バッドルワー 白分11 クリシュナ神と ラームデーヴ神 の沐浴 清浄カースト と 不浄カースト 2006 年にラームデー ヴ寺院の再築(修理) シュラード アソージュ 黒分1∼15 祖霊祭 家庭 ナヴラートリー アソージュ 白分1∼9 シャクティ女神の 儀礼 ラージプート かつてはヤギの供犠 をともなったと聞く ダンテーラス カールティク 黒分13 ラクシュミー女神 の儀礼 家庭 ●ディワーリー カールティク 黒分15 灯明祭 家庭 ラーマ・ サーマ 2000年頃から爆竹の使用が盛んになる マカル・サンクラーンティ 1月14日 (固定) 太陽神の儀礼 家庭 バサント・パンチャミー マーグ 白分5 豊穣儀礼 農業者 シヴァ・ラートリー ファーグン 黒分14 シヴァ神の祭 家庭 ●ホーリー・ダヘン ファーグン 白分15 祝火儀礼 村 2006 年にホーリー (祝火)が分裂 ドゥーンル チャイトラ 黒分1 村落社会への入会 村 ラーマ・ サーマ 村落単位からカースト単位へ シータラー・アシュタミー チャイトラ 黒分8 天然痘女神の儀礼 家庭 ダシャー・マーター チャイトラ 黒分10 ダシャー(状況)の 女神の儀礼 家庭 ヴィクラマーディティヤ暦の新年はチャイトラ白分第1日目から始まる。 白分(上弦)、黒分(下弦)に続く数字はその第何日であるかを示す。 表2 D村の主な年中祭礼

(7)

ラ(

chaitra

)月の第

1

日目に、領主への新年の挨拶「ラーマ・サーマ」が おこなわれる。その後つづいて、「ドゥーンル(

dūnḍh

)」と呼ばれ、旧年 中に生まれた子供を村落社会に入会させる儀礼が各家庭でおこなわれる。 これらホーリー祭を構成する形式的な儀礼の合間には、男性によるゲール (

gher

)という棒ダンス、少女たちのルーンバル(

lūmbar

)・ダンス、さら には色水のかけあいや棍棒による殴打などの儀礼的暴力がおこなわれる。 後で論じるように、これら踊りや儀礼的暴力は、祭りの楽しみや充足感を 人々に与える重要な要素となっている。 この節では、

D

村におけるホーリー祭が

1990

年代初頭までどのような 祭りであったのかを、

1992

年と

1994

年の参与観察と人々の語りにもとづ いて記述する。ここでは、ホーリー祭が豊饒祈願、イニシエーション、秩 序転倒という

3

つの要素をもつ複合的な祭りであること、また、各々の儀 礼を通して「コミュニティ」や「ヒエラルキー」の概念が明示化され、更 新されることを明らかにする。 まず、ホーリー・ダヘン(祝火儀礼)は、

1

ヶ月前、つまりマーグ(

māgh

) 月の満月の夜に牧畜カースト(

Rebari

)の青年たちが森から木を切りだし、 村の広場に建てることから始まる。ホーリーの木が設置されると、太鼓カー ストのドーリー(

Dholi

)によって祝いの太鼓が打ちならされ、その夜か ら村の少女たちが毎夜、木の周りや家の路地で歌をうたって踊るようにな る。少女らの歌と踊りは、身体全体で春の到来や収穫の喜びを表現するも ので、祭りの当日が近づくにつれて、踊りは徐々にはげしさをまし、長時 間つづくようになる。 ホーリーの木は、ファールグン月の満月の夜、定められた時刻に定めら れた人物によって点火される。ホーリーの木の正面に領主タークルと親族 男性のデーヴラー・ラージプート(

devaṛā/Deora Rajput

)がすわり、その 他の村人たちが広場をとりかこむ。太鼓を合図に、ボーミヤー(

bhomiyā

) 長老とチョードリー(

Chaudhri

)長老の

2

人によって点火される。ボーミ ヤーとは、「土地の者」を意味し、

D

村ではシンダル・ラージプート(

Sindar

Rajput

)を指して使われる。彼らは領主のデーヴラー・ラージプートがこ の村に入植する以前の支配者である14。チョードリーは農民カーストであ り、デーヴラー・ラージプートが領主権を得て、この村に入植するときに いっしょに来たといわれる。彼らは領主のために大地を耕し、ティカーナー を繁栄させる重要な役目を担ってきた。これら

2

人の人物によって点火が

(8)

おこなわれるのは、征服者ジャーギールダール(その右腕チョードリー) と被征服者ボーミヤーとの同盟を表現していると考えられる15。 次に、燃え上がる煙の方角によって来年の豊作が占われ、その年に結婚 した若い男性が燃えている木を素手で押し倒す。この役目を担うと、年内 にその男性は子供が授かるといわれ、もし火の粉が飛んでターバンに火が つくと、半年以内にその男は死ぬともいわれる。この言い伝えには、木を 倒す、つまり破壊することによって、木からあふれる聖なる力、豊饒力を 獲得するというテーマが見られる。聖なる力はコントロールされると豊饒 力の源となるが、コントロールに失敗すると人を死においやる危険な力で ある。木の正面にすわる領主は、聖なる力を吸収し、村を守護するための 力を強化すると考えられる16。 祝火儀礼がおわると、低カーストのサルグラー(

Sargrah

)が後片付け をし、燃え杭をもちかえる。祝火の場所には、火が完全に消えないように 牛糞がくべられる。他の人々は領主屋敷の門前に移動し、村の男性たちに よるゲールという棒ダンスを鑑賞する。屋敷前には、領主をはじめ村の長 老がずらりと並ぶ。村の男性たちは、大きな輪をつくり、円の中心部では ドーリーが太鼓をうち、足につけた鈴の音と手に持つ棒が打ち合うリズム にあわせて踊る。一説によれば、ゲール・ダンスは擬似的な戦闘である。 踊りは交代で朝まで続けられ、すべての村人が広場に集まって踊りを楽し む。ある村人によれば、「昔はホーリーの夜に寝ている者がいると、村の 女たちがやってきて、その家のドアに外から鍵をかけ、家人を閉じこめて しまったものだ。朝起きると家から出られないため、その家の者は女たち にお金を渡し、鍵をあけてもらわねばならなかった」そうである。 翌朝、各家の男性世帯主は領主屋敷を訪問し、新年の挨拶(ラーマ・サー マ)をする。領主タークルを囲んで村人がすわり、オピウムとお茶がふる まわれる。旧年中に男児が生まれた家は、その男児の入会儀礼(ドゥーン ル)をおこなうことを報告し、自分の家で開催する集会に村の各家の代表 者を招待する。人々を呼んで集会をひらくことで、その子供は村落成員の

1

人として認められる。通常は、領主の側から村人を訪問することはない が、この日ばかりは領主も村人の家で開かれる集会に出席する。男たちの 集会と並行して、まさにドゥーンルとよばれる儀礼が女たちを中心におこ なわれる。その儀礼は、男児を広場まで連れてゆき、昨夜の祝火の後の聖 なる空間で、女神ホーリカーとの擬似的な結婚式をおこなうものである。

(9)

ドゥーンルをおこなう家々では、男児に晴れ着をきせて、ドーリーがやっ てくるのをまつ。ドーリーは

1

軒ずつ順に、赤子の花婿行列を広場まで先 導する。聖なる場につくと、まず母親が子供の額に聖なる灰と赤い粉で印 をつけ儀礼をおこなう。次に子供を抱いた父親がホーリーの燃え跡を4周 する。儀礼がおわると、またドーリーを先頭に太鼓をうちながら居住区ま でもどり、そこで親族やカースト・メンバーにお茶やお菓子がふるまわれ る。ドーリーはお礼の金品をうけとると、次のドゥーンルの家へ向かう。 このようにドゥーンル儀礼は、カースト序列にしたがって高いものから順 に、赤子

1

人ずつにおこなわれるため、朝から夕方までかかる17。 夜になると、今度は農民男性(チョードリー・カースト)の有志が「ゲ リヤー」と呼ばれる隊を編成し、旧年中にうまれた子供の家々をまわる。 彼らは赤子の頭上にかかげた棒を別の棒でたたきながら、子供の成長を祝 福する歌をうたう18。各家で開催されるドゥーンルの集会や儀礼が男児の みにおこなわれるのに対し、ゲリヤー隊による祝福は女児にもおこなわれ る。しかし、男児と女児では歌をうたう回数(=祝福をうける回数)が異 なる。ゲリヤー隊による祝福は、子供が村落成員として認められた証であ り、こうして子供は村落やカーストやジェンダー構造の中に位置を得る。 ゲリヤー隊が家々を訪問する順番もまた、伝統的なカースト序列に従う。 注意深くみると、彼らは「清浄カースト」19とよばれる人々の家々しか訪 れない。「村のゲリヤー」と呼ばれているが、ここで出現する儀礼の単位 には、「不浄カースト」の人々は含まれない。不浄とされる低カーストの人々 は独自にゲリヤー隊をつくり、低カーストの子供の祝福をおこなう。 以上のように祝火儀礼ではカースト別の役割分担が、ドゥーンル儀礼で はカースト序列が明確に示される。また、儀礼のいくつかの場面では、不 浄とされるカーストや女性は参加が制限され、周辺的な位置を占める。こ うしてホーリー祭は、村人にカーストやジェンダーに基づく、村落社会の 「伝統的」構造を再確認させる装置となってきた。 2-2 「村落コミュニティ」の創出と喪失 この節では、毎年ホーリー祭で明示化され、再確認されてきた「コミュ ニティ」や「伝統的序列」と語られるものが、いつ頃どのように創られ、 維持されてきたのかについて述べる20。次に、これらの概念が正当性を失 い、人々に受け入れられなくなる中で、ホーリー祭が衰退している今日の

(10)

状況を述べる。

D

村で「村落コミュニティ」が、今日「伝統的」と語られる形をとるよ うになったのは、

20

世紀前半のことである。それまでは、村落成員の出 入りが多く、流動的であり、固定化された「コミュニティ」は存在しなかっ た。現在の

D

村の地に最も早い時期に移住したと語られている、シャーミー (

shāmī/Swami

)カースト21の長老によれば、現在

D

村に住む人々は、①領 主(ジャーギールダール)のデーヴラー・ラージプートが入植する以前か ら村に住んでいたカーストの子孫、②領主といっしょにティカーナーの設 立時に村に来たカーストの子孫、③領主の命によってここ

100

年の間に

D

村に呼び寄せられたカースト(新参者)の子孫に区別することができる22。 また、彼によれば、かつて村にはたくさんのムスリムやジャインが住んで いたが、

1848

年の大地震で家が壊れたことをきっかけに、これらの人々 は村を出て行ったという。つまり、彼らが移出し、さらにヒンドゥー専門 職カーストが移入した後に現在の「村落コミュニティ」は創られたことに なる。新しく移入したカーストには、例えば、ヴァイシュナーヴ (

Vaishnav

)があげられる23

1900

年頃にラージプートの守護神である クリシュナ神を祀る司祭として、バイサー(支配階級のラージプート娘) によって嫁ぎ先の村から呼び寄せられたと語られている。 ところで、クリシュナ神の奉仕をおこなう特別なカーストがなぜこの時 期に必要になったのだろうか? クリシュナ神は戦士カーストのラージ プートにとって軍師である。この地域のほとんどの領地では、タークルの 屋敷のそばに、クリシュナ神を祭る寺院がある。

D

村では、領主屋敷とク リシュナ寺院との屋根が同じ銃眼をデザインした形につくられており、 「タークル=王=神」イデオロギーを現すものとなっている。「タークルに 拝謁するときは、寺院に入るときと同様に、必ずターバンをかぶって、く つをぬがねばならない」や「タークルは毎日、クリシュナ神を拝謁してか ら食事をとっていた」という語りが聞かれた。これら「ヒンドゥー王権」 を象徴するハードとソフトの装置が熱心に創り出されたのが、

19

世紀の 終わりから

20

世紀初頭にかけてであった。 このいわば「ヒンドゥー小王国」化を

D

村で進めたのは、第

9

代タークル、 ボーパールシン(

bhopālsinh/Bhopalsingh

)である。彼はラージプタナ 各地の藩王国がイギリスの保護下で政治的に安定し、表向きには藩王国が もっとも繁栄し、その権力が誇示されていた時代、

1904

年に生まれた。

(11)

彼の時代に専門職カーストが呼びよせられただけでなく、領主屋敷やクリ シュナ寺院の建て直しがおこなわれていることから見て、ティカーナーは 経済的にも安定していたと考えられる。そのような時代に、ホーリー祭は、 現在「伝統的」と語られている構造をもつようになった。インド独立時に 藩王国制度は廃止され、

1950

年代に土地改革も実施された。にもかかわ らず、

D

村ではタークルとしての彼の存在は大きく、

1990

年代前半まで「村 落コミュニティ」が祭りを通して生き続けてきたのである。 しかし、ボーパールシンが亡くなった

1993

年以降、ホーリー祭は役目 を終えたかのように徐々に衰退しはじめた。

1

で述べたように、ちょうど その頃は、出稼ぎにでる者が増え、村落内の農業関係が流動化した時期で ある。ボーパールシンは、

D

村において「ヒンドゥー王」を象徴する人物 であり、彼の死は

D

村にとって

1

つの時代の終焉を意味していたと思われ る。まもなく村人たちは、カーストに与えられた「伝統的役割」を放棄す るようになった。例えば、皮革カースト(

Meghwal

)は、死んだ家畜の 処理を放棄し、不可触民の中で最も地位の低いトイレ掃除カースト (

Bhangi

)にその役目を与えた。牧畜カーストは若者が村にいないことを 理由に、村人の牛を放牧する仕事をやめ、同時にホーリーの木を切りに行 く役目も放棄した。このように伝統的役割分担はくずれてゆき、

2005

年 のホーリー祭では、祭りの

1

ヶ月前に木が準備されることはなかった。少 女たちはかつて

1

ヶ月間も楽しんだダンスをほとんど踊らなくなっていた。 当日の夜に、農民男性たちが木を切りにゆき、祝火儀礼は実施されたが、 参加者の人数はあまり多くなかった。また、祝火の夜に男たちが踊るゲー ル・ダンスは、踊手が少ないばかりか、一晩中つづくはずのものが、たっ た

30

分で終わりになった。翌日おこなわれた子供の入会儀礼(ドゥーンル) は、各世帯を単位として祝われるため、村を単位として共同でおこなう儀 礼の衰退に比べると、あまり変化していないように見えた。一方、かつて ホーリー祭の主要テーマであった秩序の転倒や儀礼的暴力は、完全に失わ れていた。 例えば、

1990

年代の初頭には、祝火儀礼の翌朝には、朝から色水の掛 け合いが広場や路地、家の中でもおこなわれ、安全な場所はどこにもなかっ た。少年たちと彼らの兄嫁との間では、特に激しい戦いが繰り広げられ、 領主タークルもまた、村人の攻撃をうけて、顔や衣服を真っ赤に染めてい た。中でも、バンジャーラー(

Banjara

)・カーストの女性たちが長い棒を

(12)

手に男たちを追いかける姿は壮観であった。男たちは必死に逃げまわるが、 そのうちに捕らえられ、棒で背中を強くたたかれる。ゲームなのか、本気 なのか、観察者にはその境目が全く分からないほど、

1994

年にはエキサ イトしていた。しかし、

2005

年には棍棒による殴打はおこなわれなかった。 その他にも、以前は、祭りの前後数日間、低カーストの女性たちが手に棒 をもって、村の外へとつづくメイン道路を封鎖し、行き来する車をとめて、 お金をまきあげることがおこなわれていた。それは車やバイクやトラクター などに乗った金持ちに対する貧乏人による公に認められた襲撃であった。 ホーリーの夜に寝ている者を家の中に閉じ込める、高カーストの男性に 色水をかける、棒で若い男性をなぐる、道路を封鎖してお金をむしりとる など、日常生活ではありえない「女たちによる悪戯」は、

2005

年のホーリー 祭には完全に姿をけし、女性の元気な姿が全くみられなくなっていた。そ れとともに、「近年のホーリー祭には、マザーがない」という言葉があち こちで聞かれた。「マザー」とは、喜びや笑い、充足感を指す言葉である24。 人々にとって祭りに参加することの積極的な意味は、カーストやジェン ダー構造を越えて共に楽しむこと、非日常空間において一体感を得ること であると考えられる。社会的弱者が強者に対してふるう儀礼的暴力、秩序 の転倒はマザーの源である。しかし、それは日常生活の抑圧をガス抜きす ると同時に、再び社会構造を強化する役割がある。旧領主層を頂点とする 社会構造が受け入れられなくなる中で、ホーリー祭への関心も失われて いったと考えられる。 ホーリー祭の数日後、

1

人の村人男性は「

2

月に実施されたサルパンチ (

sarpanch

)選挙25で村が分裂したため、その影響で今年のホーリーでは、 村が

1

つになることができなかったのだ」と筆者に語った。この語りは、 旧来の政治的権力のゆらぎが祭りに表れていると、村人自身が考えている ことを示している。

2005

2

月に実施されたサルパンチ選は、「その他後 進階層」に指定されていたため、タークルを初めとする旧領主層は、

D

村 の代表として、仕立てカースト(チーパー)の男性を推薦した。しかし、 近年、経済力をつけてきた農民カースト(チョードリー)の男性が自ら立 候補し、同じ農民カーストの票をあつめて対抗した。

D

村から

2

人の候補 者が出馬することになり、村人の票が二分されたことで、結局、別の村の 候補者にサルパンチの職を奪われることになった。 この出来事は人々の心に様々な形で陰をおとした。実際には、祝火儀礼

(13)

はおこなわれたが、現タークルは祝火儀礼が今年のホーリーでは実施され ないかもしれないと、心の内で考えていたことが後の本人との会話からわ かった。また、サルパンチ選に出馬した農民男性は、村のホーリーの木と は別に、自分の家の前にホーリーを立て、独自に祝火儀礼をおこなった。 このように先代タークルの死、経済構造の変動、対抗するリーダーの出現 などを背景に、ホーリー祭は衰退し、タークルを頂点とする「村落コミュ ニティ」は失われていった。 2-3 新しい年中祭礼としての巡礼 ホーリー祭の衰退と時を同じくして、

D

村ではラームデーヴラーへの巡 礼が人気を集めるようになった。聖者ラームデーヴは、低カーストのクリ シュナ神とよばれ、かつては高カーストの間では全く人気がなかった。し かし、彼が生前におこなった病気の治療や奇跡が伝説化、誇張化され、現 在では彼の恩寵を期待する多くの信者を引きつけている。ラームデーヴ ラーの年間参拝者は数十万人とされるが、特にバッドルワー(

bhadrawā

) 月に参拝者は集中する。この

1

ヶ月間には、ラームデーヴの誕生祭やサマー ディを記念する祭があり、祭市(メーラー)がたつ。デリーやラージャス ターン各都市から特別列車や直行バスが仕立てられ、歩いて巡礼する人々 のために、道路の左右にいくつものテントが張られ、食事や給水の設備が 図1 Devapur(D村)からRamdeoraまでの巡礼路 Jaipur Delhi Ramdeora I N D I A Rajasthan Devapur ● ● ● ● ● ● ● ● ● 巡礼路 県境 県都 ( )内数字はDevapurからの 距離。斜体は県名 Agolai (185km) J A I S A L M E R B A R M E R J O D H P U R P A L I Shaitrawa (250km) Jodhpur (135km) Jaisalmer Dechu (280km) Lawan (320km) Pokaran (335km) Pali (60km) (350km) Ramdeora Devapur 0 50km

(14)

つくられる。国道沿いは、つねに巡礼者の姿がたえず、ラージャスターン 州の地元メディアはこの時期、巡礼者の様子を毎日記事にとりあげる。 聖地ラームデーヴラーは、

1986

年にジョードプル(

Jodhpur

)のマハー ラージャーが徒歩巡礼をおこなったとき一躍有名になった。マハーラー ジャー巡礼団の様子が毎日メディアに映し出され、注目をあつめた。しか し、メディアでの加熱報道とは対照的に、農村部では、

D

村に限っていう なら、

1990

年代初頭でさえ、多くの村人はラームデーヴを低カーストの 神であるとみなしていた。上位カーストの女性たちが、メーグワールを陰 でデール(

dheḍ

26という差別的名称でよび、「ラームデーヴはデールばか りを(信者に)集めた」という古くからの諺を筆者に語ったことがある。 この言葉にも表れているように、少なくとも

1990

年代前半までは、村人 の意識の中でラームデーヴは「彼らの神」であった。

D

村のラームデーヴ 寺院は低カーストの居住区にあり、メーグワールの者が管理してきた。彼 ら自身の間でも、特に信仰心のある年配男性がラームデーヴラーを一度参 拝したことがあるだけで、村の寺院にはラームデーヴの像と彼を象徴する 布製軍馬と旗が埃をかぶり、色おちた状態で祀られていた。 当時としては例外的に、

1993

年にシャーミー・カーストの家族が低カー スト以外では初めてラームデーヴラーを参拝した。この家族は

7

人もの娘 がうまれたあと、ラームデーヴに祈願してやっと

1

人息子を授かった。こ のためその翌年から毎年参拝するようになった。

2000

年になると、農民 カーストの中から徒歩で巡礼するものがあらわれた。結婚後

10

年しても 子供に恵まれなかった女性の兄たちがラームデーヴに祈願し、

4

回の徒歩 巡礼を果たすと誓った。こうして複数の家族が継続的に徒歩巡礼をはじめ ると、徐々に巡礼に参加する者が増えていった。

2002

年には、

D

村のラー ジプート女性が数人集まり、近隣の町からの女性も加わって徒歩巡礼を決 行した。日常生活ではパルダーを遵守し、外出することがほとんどないラー ジプート女性27が、

350

キロも離れたラームデーヴラーまで徒歩で行くこ とは多くの者を驚かせた。しかし、原因不明の病気で、立って歩くことさ えできない孫娘のために、ラームデーヴに祈願したいという

1

人の女性の 強い望みによって実現した。ラームデーヴの恩寵によって、シャーミーの 家族に男児が産まれ、農民女性が子供に恵まれたことも、彼女の巡礼を家 人に許可させる助けとなった。巡礼後には、実際にこの女性の孫娘は学校 に通い、走ることができるまでに回復した。これらの話は

D

村のますます

(15)

多くの人々を巡礼に駆り立てることとなった。

2004

年になると、

1

人の裕福な農民男性が中心になり、村の巡礼団が 組織された。彼が随伴するトラクターを提供したことで、巡礼者の荷物の 運搬、大勢の人々の飲み水の確保、途中で歩けなくなった人の運搬などが 可能になり、誰もが巡礼に参加できるようになった。それまでの巡礼者は 比較的若い健脚な人々のみで、集団の規模も小さかった。しかし、

2004

年には年寄りや子供も巡礼団に加わり、総勢

70

人にまでふえた。メンバー は成人男性

38

人、成人女性

25

人、子供

7

人から構成され、村からラーム デーヴラーまでのおよそ

350

キロの道のりを8日かけて歩く行程の巡礼が 実施された(図

1

)。大きな巡礼旗が用意され、出発に際しては、『ラージャ スターン・パットリカー』(地方新聞)の取材があった。巡礼団のリーダー を中心に首に花輪をつけた村人が大勢ならんでいる写真が、「

D

村からの 徒歩巡礼」というキャプション付きで掲載された。 巡礼団の中心メンバーは農民カーストであったが、低カーストの男女も 多く参加した。村の祭礼に必ず必要とされる太鼓カーストの人々も参加し、 巡礼団が村から出発する時や寺院を参拝する時に先頭に立って太鼓をなら し、巡礼の途中には、掛け声によって人々を活気づけた。村では、最下層 に位置づけられているトイレ掃除カーストの女性も参加していた。日常生 活では、彼女への接触や水の授受などは考えられないことであるが、巡礼 中は別のコップをつかっていたものの、同じ水筒から水をのみ、眠るとき も同じ場所で地面にならんで眠っていた。 毎日

50

キロのペースで歩く巡礼は決して楽ではない。しかし、「

2

日目 がもっとも辛かったが、歩き続けていると、

3

日目、

4

日目となるうちに 慣れてきて、徐々に疲れを感じないようになる」、「近くの町までも歩けな いのに、バーバー(ラームデーヴ)の所へなら、こんなに遠くても歩いて いける」と人々はいう。歩き続けるうちにペースがおちてくると、「大き

い声で叫ぼう! ラーマーピールの勝利を!(

Jor se bolo! Rāmāpīr kī jāy !

)」 と掛け声がかかる。すると残りの者は「ラーマーピールの勝利を! (

Rāmāpīr kī Jāy !

)」と応じて、こぶしを握った片手を高くあげる。この ような巡礼中の掛け合い言葉は何種類もあり、即興で作られることもあ る(表

3

)。語尾が韻を踏む言葉の掛け合いをしながら、声をだして互い を元気づけ、ラームデーヴのところへ近づく喜びをわかちあいながら、人々 は歩きつづける。今回の巡礼団には、

70

歳をすぎた女性が最年長で参加

(16)

していた。彼女は目もあまりみえておらず、娘に手を引いてもらいながら、 杖をついて歩いていた。巡礼団の人々は、彼女のペースを気遣い、必要な ときには男性たちが後ろから彼女の体を支えた。筆者は、そのようにして 最後まで歩きとおした彼女の熱意に驚き、何か重大な願いがあるにちがい ないと推測し、「こんなに苦労して、どうして徒歩でいくの?」と尋ねて みた。すると彼女からは「喜んで歩いているのだよ」という答えが返って きた。目的地につくことでなく、まさに歩くこと自体が喜びであった。 さらに巡礼道中には、カーストやジェンダー規制の緩和、性的ジョーク の応酬など、日常の秩序の緩和もしくは逆転がしばしば見られ、「マザー」 という言葉が何人もの口から聞かれた。マザーは、非日常的空間で共有さ れる一体感から生まれており、ターナーのいうコムニタス、境界状況にお ける根源的つながりが体験されていると考えられる

[cf.

ターナー

1976]

。 村人たちは、巡礼を明らかに楽しんでいた。巡礼は日常生活によくあるラ bābā kanno ? aparo ! バーバー(ラームデーヴ)は誰のもの? 我々のもの!

darja kanno ? bābāro !

扉は誰のもの? バーバーのもの!

kursī kannī ? babarī !

椅子は誰のもの? バーバーのもの!

ek kiro ālu maen bābā re chaḍhāū

1キロのジャガイモ バーバーにお供えします

ek kiro lahsun bābā derā darshan

1キロのニンニク バーバーが拝謁させてくださいます

ek kiro murchī bābā derā kharchī

1キロのトウガラシ バーバーが出費を出してくださいます

ek takaṛī mīngnī bābā derā bīnanī

1 のヤギのうんち バーバーがお嫁さんをくださいます

maen chaḍhāū peṭhā bābā derā beṭā

私はお菓子をお供えします バーバーは息子をくださいます

maen chal sethī bābā derā beṭī

私は遠くまで歩いてゆきます バーバーは娘をくださいます

paedar panthī āyā hae bābāne bulāyā hae

歩いて遠くからきました バーバーが私をよびました

kiro mīṭar āyā hae bābāne bulāyā hae

何キロも向こうからきました バーバーが私をよびました

tīn jaerābī tel men bābā baeṭhā rel men

3つのジェラビー(お菓子)が油の中にある バーバーが列車にすわっている

āyar bābā pradeshī narā khāra bardeshī

遠くの国からバーバーがきました 国を池や井戸でいっぱいにします

(17)

イバル意識や近所づきあいのごたごたから解放されて、困難の中で互いを いたわりあい、笑いや喜びを共有する機会となっていた。

3 ラームデーヴ信仰のハイブリッド性と包摂力

この章では、巡礼地ラームデーヴラーに祀られている聖人ラームデーヴ がもつ特質について考察し、なぜ他の聖地ではなく、ラームデーヴラーを 巡礼目的地とするのかについて明らかにする。 現在、一般的なラームデーヴ聖人伝によれば、ラームデーヴはポークラ ン地域を支配するタンワル・ラージプートの王、アジュマルの息子として

1404

年に生まれた。アジュマルには子供ができず、聖地ドゥワールカー に巡礼した後に、

2

人の息子をクリシュナ神から授かった。兄ヴィランデー ヴの寝ているゆりかごの中に、弟ラームデーヴが突然あらわれたため、ク リシュナ本人の化身であると言われた。生まれたとき以来、さまざまな奇 跡を演じ、困った人を助け、悪魔を倒し、悪い人々を改心させたと語られ ている。ラームデーヴは、あらゆるカーストや生まれの信者をまわりに集 めた。

1458

年にラームデーヴラーで生きたままサマーディを得たとされ る

[Census of India 1961]

。 ラームデーヴ信仰の伝統的な地域は、マディヤ・プラデーシュから、グ ジャラートやラージャスターンなどの西インド、パキスタンのシンド地方 に及ぶ。皮革を生業とするカースト(

Meghwal, Bhambi, Kamad

)の人々 が伝統的信者の中心で、メーグワールがラージャスターン各地の村々に ラームデーヴ寺院(祠)をつくった。また、彼らがこうした村々の寺院の 司祭をつとめ、ラームデーヴのバジャン(賛歌)を歌い伝えてきた。この ためラームデーヴ信仰は「不可触民の宗教(

dheḍiyā panth

)」と呼ばれる。 ラームデーヴ信仰は、儀礼や専門家の関与を最小限にし、信者と神との直 接的関係を重視する点、経文よりも賛歌の役割を重視する点などにおいて、 バクティ運動と共通する特徴をそなえている。 しかし、ラームデーヴ信仰には、同時にイスラームの要素がおおくみら れる。例えば、ラームデーヴの伝統的信者である不可触民やムスリムの間 では、ラーマーピールやラームサーピールという呼称が用いられている。 寺院内部や中庭にある廟は、ラームデーヴやその子孫のものとされるが、 それらはムスリムの墓の形をしている。その中の1つでラームデーヴの母

(18)

のものであるとされる廟には、「すべてが神の業であり、人の手には何も ない」というコーランの一節が刻みこまれている。 こうしたイスラーム的要素を

Binford

は、ラームデーヴが活躍した時代 的背景から説明する。彼女によれば、ラームデーヴの時代のマルワールで は、ムスリムによる文化的挑戦を経験していた。ラームデーヴの信者は改 宗を避け、自らの信仰の正当性を証明するために、イスラームの要素を取 り込んだ

[1982: 127]

。一方、

Khan

はラームデーヴやその中核的信者が、

14-15

世紀にインドに拡大したイスマーイール派のニザール使節(

Nizari

dawa

)の流れをくむと論じる。しかし、そのつながりは現在のラームデー ヴ信仰において忘れ去られ、集団のアイデンティティを区別するのは非常 に困難になっている

[Khan 197: 35]

28

Khan

によれば、ニザール使節は改宗を促進するためにヒンドゥー的な 用語やローカル伝統や神話を積極的に採用した29。このためニザール派の 教えは地域社会に溶け込むためにヒンドゥー化し、イスラームとヒン ドゥー教のダイナミックな統合がおきた

[1997: 60-96]

。しかし、こうし た現象をシンクレティズムという用語によってとらえるのはふさわしくな いと彼女はいう。それは原型(正統)の存在を前提にするためである。イ スマーイール派はヒンドゥー教に同一視されたのでも、混合されたのでも なく、ニザールの教えは、改宗者たちにとっては、以前からの宗教伝統の 頂点にあり、真実のより深い層を明らかにするものだった

[1997: 33]

。 ラージャスターン各地で、ヒンドゥー的信仰の内部に埋め込まれて発展 したイスマーイーリズムは、非常にハイブリッドな信仰であったと思われ る。

Khan

自身はこの言葉を一度も使っていないが、ラームデーヴ信仰が もつあいまい性や包摂力を表現するには、「ハイブリッド」がふさわしい と筆者は考える30。ところで、

Khan

はラームデーヴ信仰からイスラーム・ 不可触民・タントラとのつながりが払拭され、ヒンドゥーのバクティ伝統 の中に位置づけられている現状について、「ラームデーヴがもつあいまい 性や包摂力が失われ、再ヒンドゥー化されようとしている」と述べている

[1997: 61]

。彼女のこうした見解は、歴史的客観的には正しいと思われる。 しかし、筆者は伝統的信者の側からは、「我々の宗教」の拡大と映ってい ることを付け加えたい。 なぜなら、

D

村のメーグワールは、ラームデーヴの人気が他の村人たち の間で高まっている現状を、上位カーストがラームデーヴ信仰を領有した

(19)

とは捉えておらず、むしろ自分たちの信仰が彼らを取り込んだとみなして いた。例えば、

D

村では、低カースト以外の村人たちの間にラームデーヴ ラー巡礼に参加する者が増え、村から最大規模の巡礼団が組織された

2004

年、村の古くなったラームデーヴ寺院の修復、塗り替えの作業が実 施された。メーグワール・カーストの代表者が村の各世帯から寄付金をあ つめ、労働力は彼らカーストの者が無償で提供した。こうしてラームデー ヴ寺院は新しくなり、寄付者の名前が天井に刻み込まれた。この作業を通 して、メーグワールの人々は、ラームデーヴ寺院が「我々の寺院」であると いうメセージを自他ともに向けて発し、自分たちが寺院の管理者かつ信仰 の継承者であることを再確認した。こうした下からの再定義、再確認の動 きに表れているように、まさにラームデーヴ信仰の特徴は、上から規定さ れる特定の表象に抗して、下から別の意味を与えることが可能なことであ る。ハイブリッドな性質によって、複数の読みの可能性が開かれており、そ れがラームデーヴ信仰に異なる集団を包摂する力を与えているといえよう。

4 結論

ラームデーヴラー巡礼は、筆者自身が参加した

2004

年以降も毎年実施 されてきた。巡礼団のリーダーは、

2005

年にラージプート男性が務めた 以外、

2009

年まですべて農民カーストの中からトラクターを所有してい る者が交代で務めてきた。参加人数は、

50

人から

70

人前後で推移してい る。

2000

年に始まったラームデーヴラー巡礼は、

10

年を経て、村の新し い年中行事として確立した感がある。最後に、旧来の村落祭礼であるホー リー祭が著しく衰退している中で、なぜ巡礼が人気をあつめてきたのか、 そして、巡礼の目的地がなぜラームデーヴラーなのか、この

2

点をふりか えり、本稿のまとめとする。 まず、巡礼人気が示すように、

D

村でおきている近代化や社会関係の流 動化は、宗教祭礼への無関心を導いていない。それどころか、村人は積極 的に巡礼という新しい祭礼をうみだし、「マザー」の要素、つまり、非日 常的空間における根源的つながりや一体感や楽しみを求めてきた。ホー リー祭で得られなくなったマザーが、巡礼で得られる理由は、両祭礼の参 加原理やそれが体現する社会構造のちがいにあると考えられる。前者は「村 落コミュニティ」のメンバーシップやカーストにもとづく「伝統的役割」

(20)

に従うのに対し、後者はあくまで個人の自由意志にもとづく。カーストや ジェンダーや年齢の規制もない。前者に参加することが、伝統的ヒエラル キー構造を認め、強化することになるのに対し、後者に参加することは、 神の前での信者の平等性や個人による自由な選択を体現することになる。 巡礼を通して、新しい社会関係を前提にした共同性が求められているとい える。 次に、

D

村の巡礼は、ラームデーヴの廟を目的地にしていたからこそ、 聖人ラームデーヴがもつハイブリッドな性質によってこそ、カーストを越 えて多くの参加者を集めることができ、分裂しつつある村落社会で、異な る属性や意図をもつ人々を

1

つにすることができたと考えられる。今回、 巡礼団を組織した農民男性は、宗教目的に私財をつかうことで、自らの権 力を人々に示すことを意図していた。数ヶ月後に実施されたパンチャーヤ ト選挙に彼が出馬したことや、ホーリー祭で別のホーリーを燃やしたと噂 されたことなどが、新リーダーとして権力を得たいという彼の野心を表し ている。しかし、巡礼への参加者は神へのバクティ心に支えられて参加す る者から、何かしらの現世御利益を求める者、誓願成就のお礼参りや物見 遊山など、様々に異なる動機をもっており、そこで表現されるのは多様な 価値観であった。こうして巡礼を組織した彼の意図は、参加者によって限 りなくずらされ、巡礼団のリーダーと参加者との関係も、幾通りもの読み の可能性が開かれたものになっている。また、ラームデーヴラー巡礼を通 して実践される儀礼的コミュニティは、ゆるやかな境界をもつものの、ホー リー祭のように明示的でも固定的でもない。このため巡礼団を組織するこ とが、彼に権力を集中させることには必ずしも結びつかない。けれども、 彼は新しいリーダーとして、異なるカーストやジェンダーや目的をもつ参 加者をつなぐ結節点となり、1つの祭礼を成功させたといえる。 最後に、

D

村の全員が巡礼に参加していたわけではないのに、どのよう に他の村人までをつなぐことができたのだろうか。巡礼団には、リーダー がおり、旗もち役や太鼓役など、儀礼的役割分担があった。これらの人々 は、ホーリー祭と同様に、役割にもとづいて村を代表して参加していた。 また、参加者は、道中、町に到着するたびに村の家族に電話をかけた。家 に電話のない者も近所の人に呼び出してもらい、無事な様子や現在位置を 伝えた。一方、村に残っている家族は、電話で聞いた話をもちよって、う わさ話を楽しんだ。村のあちらこちらで巡礼団の様子が語られ、夜には路

(21)

地で巡礼者の無事を祈る歌がうたわれた。地元の言葉で「ホーンスを与え る」といい、家族が帰るまで毎晩うたいつづける。このように、実際に巡 礼に参加していない人々も、巡礼の時間や空間を一部共有していた。さら に巡礼団の帰村後には、おみやげ話や品を通して巡礼体験が共有された。

D

村の人々にとっては、ホーリー祭の衰退とラームデーヴラー巡礼の人 気は、たまたま時期を同じくしているだけであり、両者を同じ村落祭礼と して論じるのは、分析者の視点にすぎない。しかし、どちらの祭礼でも聞 かれた「マザー」という言葉を手掛かりに、両者を比較することで、村落 社会の権力構造のダイナミズムが明らかになることを指摘したい。表

4

は、

D

村のホーリー祭と巡礼について、その変容を整理した。ここからわかる のは、「伝統的」序列の否定であり、新しい社会関係の創出である。村の人々 は、近代的価値観にもとづき「伝統的」祭礼を否定しつつも、バラバラに なるのでなく、新しい祭礼を通してマザーを共有し、新しい形でつながろ うとしていると言えるのではないだろうか。 ここでいう新しい社会関係とは、

1

点に集中するヒエラルキカルな権力関 係とは異なる。しかし、新しい関係は決して平等なものでなく、カースト自 体を否定するものでもない。巡礼はこれらの差異をずらし、参加者に多様 な価値やつながり方を示す。こうして人々をつなぐラームデーヴラー巡礼 は、「コミュニティ」を実践する村落祭礼の機能を果たしているといえよう。 1 バーバー・ラームデーヴは、ラームシャー・ピール(rāmshā pīr)とも呼ばれ、ヒンドゥー聖者とム スリム聖者の2つの顔をもつ。ヒンドゥー教徒にとって、ラームデーヴ寺院は、彼が生きたまま土 中に入り、サマーディ(samādhi)を得た場所、つまり忘我の境地に達した場所である。一方、ム スリム信者の間では、寺院の内部にあるのは自らを生きたまま埋葬させたラームシャー・ピール 1990年代前半までの状況 1990年代後半以降の状況 祝火儀礼 (ホーリー・ダヘン)カーストにもとづく 伝統的役割の順守 伝統的役割の放棄、 序列の否定 儀礼的戦闘、秩序転倒 (色水、棒、ダンス) 積極的参加、マザー享受 不参加、マザーなし 入会儀礼(ドゥーンル) 村を単位に実施、 カースト序列の順守 カーストを単位に実施する傾向 ラームデーヴラー巡礼 低カーストのみ、個人単位、 不定期 カーストを超えて「村の巡礼団」結成、 年中行事化、マザー享受 表4 D村におけるホーリー祭とラームデーヴラー巡礼の変容

(22)

の廟(墓)であるとされる。 2 本稿では、人名やカースト名や場所については、ヒンディー語表記(イタリック)と一般的に用 いられるアルファベット表記を、両者が異なる場合に併記した。それ以外の現地語は基本的に ヒンディー語表記に従った。 3 本稿の議論は1992年から2006年までの15年間に実施したフィールド調査にもとづく。調査日 数は述べ18ヶ月間。調査時期は、1992年2月から3月まで、1992年9月から1993年2月まで、1994 年3月、1995年9月、1997年3月と9月、1998年3月から9月まで、2001年9月、2003年8月から9 月、2004年2月、2004年9月、2005年3月、2005年9月、2006年2月から3月まで。これらの調査の うち、ラームデーヴ信仰と巡礼についての調査は、主に2003年から2006年の間に、2003-2005 年度の科学研究費補助金[基盤研究B(1)15401035、研究課題「インド北・西部における都市 型祭礼の変容に関する文化人類学的研究」、研究代表者:国立民族学博物館准教授・三尾 稔]によって実施した。 4 グジャラート州南部ドゥワールカーへの巡礼をおこなったことがある人は、調査村にもかなりい る。しかし、ラームデーヴラー巡礼のように、毎年、継続して繰り返しおこなう人はなく、巡礼団 が毎年組織されることはない。主に青年たちが一生に一度、親に内緒であつまって、巡礼を実 行することになっている。ラームデーヴラー巡礼のように、複数の異なるカーストのメンバーが1 つの巡礼団を構成することや、女性や年寄りや子供が巡礼団に参加することもない。 5 本稿で「伝統的」という表現をもちいるとき、それはある特定の時期(およそ100年前)の政治 経済的コンテキストにおいて創出されたものを指すと同時に、現在の人々が「伝統的」と語って いるものを指す。 6 1は、「伝統的」序列として旧領主層のラージプートによって語られているものである。実 際 、近 接 するカースト間 の 序 列 は 、語り手 によってし ばし ば 順 序が 逆 になる 。例え ば、RajpurohitとDarogaとの間で、ChaudhriとRebariとBanjaraの3者の間で、Meghwarと

Sargrahの間で順位をめぐる意見の相違がある。しかしながら、大枠では村人の見解は一致し ており、1から2までが上位カースト(upper castes)、3から10はシュードラ、11以下が低カース ト(lower castes)として区別される。独立以降インド憲法に規定された枠組みでは、3から10 が「その他後進階層」、11から17が「指定カーストと部族」に区分される。 7 1998年時の分益小作契約では、収穫分は5等分される。土地の所有者が1、水の所有者が2、ト ラクターと種の提供者が1、そして農作業全般における労働力の提供者が1を得る[Nakatani 2000]。 8 例えば、1998年の比較的天候にめぐまれた年におこなった調査では、水をもつ世帯のうち最も 収穫量の多い世帯と、水をもたない世帯の中から最も収穫量の多い世帯を比較した場合、約8 倍の差があった[Nakatani 2000]。 9 この農民は、以下に論じるように2004年の8月にラームデーヴラー巡礼を組織し、その翌年2 にはパンチャーヤト選挙に出馬する。 1020018月にサムッドラ・プージャーと呼ばれ、1人のタークルの在位期間に一度だけおこなわ れる村落祭礼が、46年ぶりに開催された。この儀礼では、バラモンによる儀礼のあと、村の女 性たちが池の中にはいって沐浴をすることになっている。しかし、2001年には、祭礼の数日前 から、沐浴の順番をめぐって論争がおきた。村のパンチャーヤトが開かれ、各カーストの代表 者が集まって話し合いがなされた。しかし、近接するカーストが互いに自らの上位を主張しあう

(23)

だけであった。旧領主層の男性が「伝統的序列に従わないなら、祭りを開催しない」と発言 し、パンチャーヤトはお開きになった。しかし、当日の儀礼では、領主の妻(ṭhakurānī)に続い て、上位カーストの女性から順に池に入る予定のところ、先に低カースト女性が池にはいった。 その他の女性たちも、順番を無視して我先にと池に入ったため、混乱が生じ、騒動がおきた。 11村では大祭がくるたびに、新年(nayā sāl)がくるといわれている。1年を365日とする暦からは、 明らかに矛盾しているが、ここでは現地の表現を採用した。 12祭りによって人は再生し、新しい状態になると考えられている。例えば、家族が亡くなると、そ の家の成員は定められた期間の喪に服さねばならず、食事やその他の行為において規制をう ける。定められた期間をすぎた後、4つ大祭のどれかがくると、その家の喪は明けるとされる [中谷 1995a]。また、村の行事や諸活動は大祭にあわせて決められている。例えば、結婚後の 最初の年は、女性は大祭にあわせて実家と婚家を行き来する。ディワーリー祭は婚家で、ホー リー祭は実家で迎えるという慣習がある。 13春のナヴラートリー(navrātrī)は、領主の家にラージプート女性があつまって、夜通しバジャン をうたう(ラート・ジャグラン)。翌日は、領主の家で村人が手伝いをし、お菓子を大量につく り、村の各家庭にくばる。秋のナヴラートリーは、かつてヤギの供犠がおこなわれ、クラン女神 にささげられたと聞いたが、1992年の筆者の調査時にすでにおこなわれていなかった。オスの ヤギをラージプート男性が殺し、死体の処理をサルグラーがおこなったという。ヤギを外で調 理して、主にラージプート男性が食し、残りをサルグラー他の低カーストが食したと聞いた。現 在は、ラージプート男性がクラン女神の寺院を参拝するだけになっている。いずれにせよ、ナヴ ラートリー祭は、どれだけ盛大におこなわれようとも、ラージプートの祭りであり、村落祭礼と は、明確に区別されている。大祭にも含まれていない。よって、領主への挨拶もない。ラーキ ー・バンダンは、姉妹と兄弟の祭りであり、姻族との間で贈与交換がおこなわれる。ディワーリ ー(diwarī)祭は、各家庭を単位にお菓子の交換やラクシュミー女神への儀礼がおこなわれ る。かつては領主屋敷には、村の子供がたくさんきてお菓子をもらっていたという。しかし、調 査時には親戚の子どものみであった。また、村人が共同でおこなう儀礼はみられない。これに 対し、ホーリー(holī)祭は、村全体の幸福や安寧のために、ホーリーの木が燃やされ、各カー ストの代表がそれぞれの儀礼的役割を果たし、カーストの違いを超えて共に参加する。 14村人によれば、シンダル・ラージプートの先祖は、15世紀にメーワール王国を支配していた Rana Mokhal(1397-1453)からD村の領地を授かった。デーヴラー・ラージプートがジャーギ ールを授与されたのは、17世紀の終わり頃といわれているため、15世紀前半から17世紀末まで のおよそ250-300年間、シンダル・ラージプートがD村の支配者であった。 15この解釈は、Narain&Mathur[1990]を参考にした。彼らによれば、ラージプートの王やジャー ギールダールの戴冠式は、バラモン司祭ではなく、先住民の代表者、つまりその土地の以前の 支配者によって行われた。この儀礼は本来、征服者と被征服者の同盟のシンボルである。ウダ イプルやジャイプルの支配者たちは、この慣習をずっと維持していた[1990: 34]。 16 D村のコミュニティ祭礼では、村は王国と、領主は王とアナロジーをなし、王が王国の領土とそ こにすむ人々を守護するというテーマが明確に表現される。王権を確実なものとする宗教祭礼 の詳細は、中谷[1995b]を参照。 17例えば、2006年のドゥーンルでは、ラージプート1名、チョードリー5名、ラバリ1名、バンジャー ラー3名、チーパー1名、メーグワール1名、ガルグ1名の合計13名の男児がドゥーンルをおこなっ

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