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ある電気技師のあゆみ―電機学校の校外生制度と社会的上昇―

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日本で重化学工業が発展を遂げたのは日露戦争後であったが,とりわけ工業生産を支える電気 産業は,20世紀に入り大きく躍進した。さらに,第一次世界大戦の勃発は各種工業の勃興を促し,

電力の需要は著しく増加した。当初は火力中心であったが,山間地に水力発電所が急ピッチで建設 されることになり,こうした豊富な電力の供給も日本の工業化を促進していったと言えよう1

しかしながら,発電所の建設作業を行い運転を担う技術者の養成は,事業の進展に追いつかずに 急務であった。そうした時代状況を背景として,電気技師を養成するため,東京神田に電機学校(東 京電機大学の前身,私立)が設立されていく(1907年)。

電機学校は,夜間学校から出発したが,さらに校外生制度も設けていった。この校外生制度は,

上級学校進学の機会を持たなかった多くの青年層に社会的上昇の希望をもたらし,制度創設以降,

校外生の数は急速に拡大していく。

19世紀末から20世紀初頭における近代学校教育制度に伴い,6年制の初等教育が義務化され

(1907年),さらに初等―中等―高等教育へのルートが確立し学歴社会が到来したものの,中学か ら,高校,大学といった上級学校に進学できる者は極めて限定された存在であった。経済的に不遇 な状況に置かれた多くの青年層にとっては,理不尽な時代であったといえよう。こうした人々に唯 一残された学びのチャンスが,校外生といった通信教育の制度であった。

通信教育の目的は,資格や学歴を取得することであり,そして職業に就くことであった。実際に 通信教育によって資格を取得できたのは,1割程度であったともいわれているが,そのルートは確 かに有効な手段であった2

本稿の目的は,近代学校教育の整備の中で,上級学校への進学のチャンスを持たなかった地方の 青年層にとって,電機学校の校外生制度といった通信教育が社会的上昇に果たした役割を,一個人 のケーススタディを通じて明らかにしていくことにある3

本稿で取りあげる男性は,富山県の農家に8人兄弟の四男として生まれ,尋常小学校卒業後に,

家から離れて生計の道を模索した人物である(以下,NM氏とする)。後に,電機学校の通信教育 によって電気事業主任技術者の資格を取得し,黒部第二発電所の建設・運転を含めて水力発電所の

ある電気技師のあゆみ

―電機学校の校外生制度と社会的上昇―

新保 敦子

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技術者として戦前から戦後にかけて電気事業を支えた。

先行研究として,中村(1971)は,帝国大学よりも実業学校卒業の技術者が社会上昇移動ルート として一番大きな移動性を持っていたという事実を,昭和10年前後の最終学歴別の世代間職業移 動から明らかにしている4。また,新谷(1996)は,低学歴の技術者を上昇に駆り立てたファクター として資格試験の存在を指摘し,電気事業主任技術者の資格の導入について,検証を行っている5

本稿は,こうした先行研究を踏まえて,農家出身の尋常小学校卒業者が,電機学校の通信教育を 通じて,いかに発電所の電気技師の道を歩み,日本の電気産業を基層の部分で支える存在となって いったのかの検証を試みる。また,具体的には電機学校の通信教育の実態とともに,通信教育の受 講を通じて電気事業主任技術者資格検定試験(逓試)に合格することが,どのような社会的上昇を 可能にしたのかも提示したい。

資料としては,N家の個人的データや,NM氏が保存していた資料(電機学校・質疑用紙,発電 所関係資料,職務に関わる辞令),当時の時代状況に関わる資料を中心とする。一部,NM氏の息 子(本稿ではnm氏とする)の語りによっている6

1.電機学校における通信教育の概況

電機学校は1907年に,夜間の学校として廣田精一(1871年〜1931年)と扇本真吉(1875年〜

1942年)によって東京神田に開設されている。20世紀初頭,日本の工業は日露戦争終結後の好況 に活気づいており,とりわけ電機工業は将来的な発展が見込まれていた。東京帝国大学工科大学電 気工学科を卒業した廣田(当時,34歳),扇本(31歳)は,ともに産業界で活躍していた。

電機学校設立の背景を「電機学校設立趣意書」から見ていこう7。彼らは,工業の発達において 工業教育が極めて重要であり,「目下ノ急務ハ唯其技術者ヲ養成スル」ことと考えていた。外国製 の機械を実際に動かすことができる技術者が少ないことを遺憾と思っていたからである。しかしな がら,技術者養成所としての工科大学及び高等工業は,高尚なる技術者を養成してはいるものの

「電気及ビ機械ノ普通教育ヲ施スノ学塾ハ甚ダ鮮少ナリ」とする。当時,この種の学校は工手学校

(1887年設立,専門の技術者を補助する技師・職工の養成機関)の他,1, 2校あるのみであった8。 このことが将来的に工業の進歩発展にとって大きな障害となるため,電機学校を設立したと,「電 機学校設立趣意書」には述べられている。つまり,工業教育の普及こそ国家発展の基礎であり,実 際に役立つ「中流の電気技術者」を養成することが必要であるとの認識から,私立電機学校を創設 したのである。

こうして電機学校は夜学として開校されたが,その設立目的は,「家庭の事情や職業を有するた め昼間通学できない青年子弟に,電気工学を教授する」ことであった9。また「人里遠い山奥の発 電所に勤務する人や,お膝元の東京でも時間のないため昼も夜も通学できない人たちがいる」ので,

設立間もない1910年に「篤学の青年たちのため」校外教授制度という独特の通信教育を始めた。

この通信教育は,「バンコク通信学校」(International Correspondence School略して,「I・C・

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S」)に倣うものであった10。同校は鉱山労働者が技術を習得し安全に労働できることを目的として,

1889年にアメリカで設立された(本部は当時,ペンシルベニア州スクラントン,現在の所在地は スコットランドのグラスゴー)。電機学校が,通信教育制度を模索している時に,「I・C・Sの出張 所が麹町区内幸町にでき,その募集広告が新聞に出た」。そこで,電機学校では,2期生を入学させ,

I・C・Sを模範として校外教育制度を新設したという。

I・C・Sは,受講生との質疑用紙のやりとりを特色としていた。当時,日本では通信教育が雨後 の竹の子のように盛んではあったものの,通信教育の代表的な機関である早稲田大学にせよ,大日 本国民中学会(尾崎行雄)にせよ,講義録を送るだけのものが多かった。しかし,廣田は,アメリ カの通信教育は,「質疑に直ぐ答えもすれば答案の添削もする」し,「算術の答案でも,……英語に 誤りあれば微細な点まで添削」してくれる。そして,アメリカ人の精力旺盛得と義務観念の強さに 感心しながら,電機学校は「アメリカ人を感心さす様でなくてはならない」という信念から,校外 教育においてはI・C・Sに倣って質疑用紙をつけ質問者に対して丁寧に解答することを目指した。

そのため,テキストを送るだけの単なる通信教育と誤解されないように,自負を持って「長距離教 授」と名付けたのである11

講義録には毎巻,試験問題と質疑用紙とを添付してあり,何回でも質問することが可能であった。

つまり,電機学校の通信教育の特色は,単にテキストを送るだけではなく,質疑用紙を付け,校外 生からの質問に丁寧に答えることにあったのである。いわば双方向型の授業であった。

こうして試験問題に解答し,全巻平均の得点が合格点に達すれば,校外修業生として修業証書が 授与され,また希望者は卒業試験を受験して合格することで,電機学校の卒業証書が授与された12

校外生の制度開始(1910年2月11日)以来,1912年12月までの入学生は1,300名に上った13また,

1914年頃には,校外生数が約2,400名に上り,校内生数の約2倍となった(校内生 1,271名 校 外生2,416名)14。その後,入学者は1923年末までに校外生8,789人,テキストだけを講読する講 習生5,997人,合計14,786人に達した15。また予科も,1923年末までに,18,291人の入学生がおり,

いかに,全国津々浦々の青年たちが,この通信教育に期待を寄せていたのかを示すものであろう。

1911年には逓試が開始し,この難関合格を目指して,「全国にいた不遇な青年たち」が通信教育を 受け始めたのでであり,校外生制度は「世の渇望を充たした」のである16

『女工哀史』の作者の細井和喜蔵(1897年〜1925年)は,本論文で紹介するNM氏とほぼ同じ 時代に生まれ育ち,紡績工場の労働者となっている。細井によれば,当時,古書店で目につくのは,

電気工学の本ばかりで紡績関係は少なかったと記している17。大正期に,電気ブームとも呼べるよ うな現象が生じていたことを意味しよう。

しかし,扇本によれば,校外生の激増は,質疑応答,答案添削,それに関わる事務の急増を招い た。人手不足のため,校外生の苦情も増え困難に逢着した。ただし,「もし此制度が完成せぬと,

人里遠き山奥の水力発電所勤務の人や御膝下の東京でも学校に通う時間のない,併し知識欲の非常 にある人は永久に葬られなければならぬ。之を思うと是非とも完全無欠の域に達しさせたい。又こ

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れが出来なければ,日本人は米人に及ばぬことを証明するのである」。こうした不退転の決意で,

電機学校では新任の教員を増員し,校外生制度の構築に臨んだのである182.逓試について

電機学校の校外生が急激に増加した背景として,逓信省(現経済産業省)が実施した電気事業主 任技術者資格検定試験(1911年開始,略称は逓試。現在は,電気主任技術者試験)がある。

明治末期に電気事業は将来的に発展の見込みがあり各地に勃興し,逓信省が水力発電の調査にも 着手していた(後に,逓信省『発電水力調査書』(1914年)などにつながる)19。しかし,主任技術 者となる資格のある人はほとんどいなかった。一方,独学等により,相当の知識をもつ青年も多く なってきた。そこで,1911年9月,逓試の制度が布かれ,大学や工業高等学校を卒業していなく ても,検定試験に合格すれば資格を取得できる道が開かれることになった。時代の必要性に対応し,

「有意不遇の青年に対する登竜門が開かれた」のである20

主任技術者の等級は1級(帝国大学の電気科卒業者)から6級(電機学校卒業者など)に分かれ ていたが,検定試験を受けて資格を得る道が開かれた。逓試は,後に,1種,2種,3種に分かれた

(1種の難易度が最も高い)。

検定試験は,かなり専門的な内容である。試験問題をみてみよう21

たとえば,5級の問題としては,「紡績会社において,発電所(220ボルトの発電機1台所有)を 設置し,発電所から工場に送電する場合,工場の電圧を200ボルトにする場合,発電機の電圧をど のくらいに調整するのが適当であるか」,という出題がされている。

5級は,一番下のクラスの検定試験であるが,物理や電気に関する専門的知識が必要なことがわ かる。こうした逓試に合格者を出すことを目的とした機関として,電機学校が設立されたのである。

逓試は,毎年実施されていたが,たとえば,1922年11月に施行された第12回逓信省電気事業 主任技術者検定試験の合格者は,合計382人,うち3種合格は305人であったが,電機学校関係者 は143名であり,3種合格者の中で電機学校関係者は,かなりを占める。電機学校は,電気産業の プラクティカルな技術者(低学歴の技術者)の養成を担ったことがわかる。

また,電機学校の関係の受験者総計372名に対して合格者は165人,合格率は4割3分で1種は 1名,2種は21名,3種は143名が合格している。3種合格の内,NM氏を含めて校外生は,3人 だけである22

3.テキスト

電機学校の校外生制度で使用されたテキストについて,見ていこう。まず,テキストとして『第 一革新テレゴグ』(1915年)が完成し,日進月歩の技術革新に合わせて,『第二革新テレゴグ』が 出版された(『第二革新テレゴグ』は1916〜20年にかけて出版)23。内容は,「電気通論」(村尾栞),

「水力発電所」(福田豊),「高等数学」(真貝貫一),「重学」(山内友五郎),「電気用英語」(嶺岸久治),

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「電灯及照明」(福田豊),「電気鉄道」(米沢政治郎),「電気磁気測定及測定器」(高津清),「交流理 論」(真貝貫一),「瓦斯力発電所」(松瀬勇雄),「気力発電所」(松瀬勇雄),「電気機械」(清水荘一 郎,加藤静夫,真貝貫一,大河内治),「電話学」(若目田利助),「電気化学」(斉藤正平),「電力輸 送」(村尾栞),「蓄電池」(岩岡茂樹)など,16科目である。この合計頁数は5924頁に達していたが,

これを224頁から256頁の24巻に分けて適当に配分して編集された。NM氏が学んだのは,『第二 革新テレゴグ』であり,NM氏の息子のnm氏によれば,nm氏の少年時代までは,この講義録が N家の棚に並べられていたそうである。

ただし,本業の傍ら勉学を続けるのに,あまりに負担が多く,「志の中途に挫かれる向の少なく なかったのも誠に余儀ない次第」であった24。そのため,内容を精選し,『第二革新テレゴグ』の 半数以下の頁数から構成される『標準テレゴグ』(12巻)が発刊された(標準,昭和)。省略され たのは,物理,英語,力学などである。

たとえば,『電機学校標準テレゴグ』<1>(1926年)の内容は,以下の通りである。

第一部 電力の発生と分配 第一編 発電用水力/1〜72p, 第二部 電気機械器具 第一編 直 流機/1〜6p, 第三部 電気の理論と應用 第一編 電気及磁気/1〜100p

テレゴグは,本科のテキストであったが,予科も開設され,テレゴグへの階梯として,英語,代 数,物理などを一通り授ける簡単な予科講義録を発行し,それに初等電気通論の教科目を加えるこ とになった。予科講義録は1916年4月に第1巻を発行,その後,毎月1巻を発行して,同年9月 に全6巻を完結した。

その後,内容としては,「電気用算術」(柴田治三郎),「電気用物理」(加藤光三),「電気用化学」

(斉藤正平),「電気用英語」(嶺岸久治),「初等電気通論」(真貝貫一),「電気用代数幾何」(加藤静 夫),「電気用三角法」(加藤光三),「電気用国文」(津田貞三),合計8科目,1648頁である。なか でも「初等電気通論」は,特に評判が良かったらしい25

これらは,教授陣が口述したものを,文字化したものである。当時,体系的に知識を教えるテキ ストは出版されておらず,教授陣が授業用に講述したものを元にして,テキストが作成された。

これを編集して,叢書が出版されていく。叢書の内容から,当時の予科通信教育の内容を見てみ よう。

たとえば,『初等電気通論』(電機学校編,電機学校予科叢書第6巻,1919年)をみてみよう26。 第1章 電気,「1(第1項目):電気の応用は極めて広い」においては,電気は2000年前から知ら れているが,実地に応用されたのは,5, 60年前からである。電気は蒸気に比べると若輩ではあるが,

その進歩は著しく,電灯も,電車も,電話も,すべて電気の応用である。以上のような内容が紹介 されている27

また,電流は電気の高い方から低い方に流れるなど,わかりやすくかつ具体的に電気についての 説明がなされている(第12項目)28。「馬力と云ふ名前は馬から起きたものであるが,今は無関係 である」などもあり(第40項目),興味を引く内容となっている29

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また,『予科用叢書 電気用化学』(斉藤正平述)の場合,化学変化,酸素,オゾーン,水素,気 体の拡散,水,電解質,硝酸,硫黄といった物質に関する内容が列挙されている30

たとえば化学方程式の説明で,水素と酸素から水を生じる反応について,2H2+O2=2H2Oと いう式で表示されるとしている。また,ナトリウムと水の反応式については,2Na+2H2O=H2

2NaOHという説明がなされている。内容としては,現在の中学校化学の内容とほぼ同レベルであ

るが,より詳細と思われる。

こうした叢書の出版は,私立学校である電機学校の財政を支えるものでもあった。電機学校の設 立当初,私立学校は,国家からの補助を受けることもなく,「極めて惨めな立場」にあった31。そ のため,電機学校出版部が設置され,電気関連書籍が出版された。単行本として出版されたものも 多く,体系的に電気について学ぶことができる本が,当時,まだ出版されていなかったこともあり,

全国の多くの学校で教科書または参考書として広く採用されるようになったという324.質疑用紙の内容

電機学校の校外生教育の最大の特徴とも言える質疑用紙であるが,具体的にどのような質問が校 外生からされ,それに対して教員たちはいかなるコメントをしていたのであろうか。

本論で取り上げているNM氏は,電機学校の予科から本科まで,電機学校に質疑用紙を送って いる。送りかえされてきた質疑用紙には,質問に対するきわめて丁寧な答えが記されている。この 質疑用紙は,NM氏にとって宝物のようなものであったらしい,NM氏はこれを製本して蔵に保存 していた。

1919年春卒業(昼課程)の土屋収によれば,「当時私の質疑に対する先生がたの解答が如何にも 親切で,しかも肩の凝らないのが何よりも嬉しかった。殊に幹部諸先生が直き直き回答又は添削を して下さるので,「俺は学校の偉い方方に見て貰っているんだ」といふような優越感が起(まま)っ た」33という。NM氏の質疑用紙を見ると,高名な教授陣が,丁寧に指導をしてくれることを励み として,必死に学び質問を考えたことがうかがわれる。

まず,NM氏の予科講義質疑用紙は,1918 年12月19日が最初である(1918年12月21日受付 印あり)34。予科講義質疑用紙は紙が本科のものより小さい(本科はB5版)。NM氏は,どういっ た内容を質問していたのであろうか。予科での質問内容としては,数学では「√」は,どういった 意味なのかといった質問がある(1919年1月28日提出,1月29日受付印)。英語では,「f」の筆 記体はどのように書くのかといった基礎的内容の質問である(1919年4月21日提出。4月23日受 付印)。また,fiveをhveと勘違いしていて,添削者から,これでは,予科修了とは言えない,と いうコメントが付けられている(第6巻,1919年7月29日提出)。尋常小学校卒業で,基本的な 知識も学んでいなかったため,最初から躓いていたことを示すものであろう。

また,本科においても,問題の解法に関する質問がかなり多い。たとえば,〇番はどうやって解 くのかという問いである。あるいは本人の理解不足からくる計算間違いに伴う質問も,かなり散見

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される。しかしながら回答者は極めて忍耐強く,丁寧に答えている。

たとえば,質問として,「80頁上ヨリ4行目カラ13行目 Pニハ電気力無シマデ(1)(2)(3)

に分ケテ説明シテアリマスガ,是ハナンノ理に依ルノデスカ」という質問に対しては,「読書百遍  意自ラ通ズトカ 未ダ勉強が足リナイ思フ」と述べられている(福永の押印あり,電通,1921年1 月26日提出)。

勘違いの質問もあったようで,勉強が足りないとか,読み方が足りないといったコメントもある

(「質問ハ勉強サヘスレバ解ル筈ノモノデス」(電通,1920年12月25日提出))(「貴君ハ全文ヲヨ マナイカラコンナ事ニナッタノデス」(電気機械,1921年9月29日提出)。しかし,それでも丁寧 に答えている忍耐力は,正直感嘆すべきものと筆者は感じた。

NM氏は,当初,金沢の兄のところに寄寓していたが,その後,金沢市電気局福岡発電所,増泉 発電所,黒部建設所へと転居していくが,転居先でも,この質疑用紙のやりとりが電機学校とそれ ぞれの場所とを郵送でつないで行われた。

NM氏にとっても,この質疑用紙に対する教授陣の回答は,宝物であったのであろう。だからこ そ,製本までして,一生大切にとっていた。一般的に考えるならば,テキストや教科書の類は保存 しておいても,ノート類は廃棄処分にするようにも思われる。しかしながらN家の蔵には,講義 録は保存されていなかったものの,証書(卒業証書,資格証書)の類と,電機学校の質疑用紙だけ は保存されてあった。

校外生への添削は,教授及び嘱託された講師が担当しており,NM氏の質疑用紙への添削に押印 されている印鑑,およびサインを当時の電機学校のスタッフと照合すると,添削者の中には,以下 の教授陣がいたように思われる35。①徳永二郎(嘱託・教授,工学士,「開校以来の顧問職員及び 講師」24頁参照),②波田諄三(J.Hのイニシャルあり,嘱託・教授,工学士,担当科目:電気通論・

電力輸送,「現在<昭和2年>の教授及び講師」63頁参照),③山口生知(講師,理学士,担当科目:

数学・物理,同上書32頁参照。その他,④日高淳一:(教授,工学士),⑤具志堅実成(JGのイニ シャルあり,教授,工学士),以上もいた可能性がある。一流の教授陣による丁寧な添削が,いか に地方在住の青年を励ましたかは,想像に難くない。NM氏が本科入学後,約2年半で逓試に合格 できたのは,こうした一流の教授陣の辛抱強い指導のおかげに他ならない。

また,成績が優秀であると,賞与が与えられたたことも,校外生のモティベーションを高めた。

これは,第6巻,第12巻,第18巻の終了の校外生に臨時試験問題を出し,その成績がよければ次 回分の授業料を免除し,賞品を授けるというものである(ただし,連続6巻の修業年限が1年を越 えた場合は,臨時試験を受ける資格を失う)36。たとえば,NM氏は,①1921年9月28日,第一 回校外生臨時試験成績優等につき賞与,授業料1巻分(第8巻),②1922年11月13日,第二回校 外生臨時試験成績優等につき賞与,授業料1巻分(第14巻),③1925年10月22日,第三回校外 生臨時試験成績優等につき賞与,授業料1巻分(第21巻),以上,3回の成績優秀賞を受け,テキ スト代金が免除されている。

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電機学校の場合,検定資格試験の合格で,大卒資格を得られることになっていたが,NM氏は,

合格後にも継続的に校外生制度を使って,テキストを学習していたし,質疑用紙のやりとりも残さ れている。やはり東京の学問的にも優れた先生方が,自分の質問に丁寧に答えてくれるのが,嬉し かったのではないか。こうして,NM氏は1926年4月に,電機学校第35回卒業生として卒業証書 を授与され,当時の勤務先である黒部建設所に卒業証書が郵送されてきている37

5.NM 氏のこと

NM氏(1899年〜1974年)は,富山県F(福光)町の出身であり,六男二女の四男である。N家は,

一般的な農家で,水田を持っていた。父(1860年〜1913年),母(1870年頃〜1956年)の間には,

長男,長女,次男,三男,本人(四男),五男(生まれて直ぐ死亡),六男,七男,次女が生まれた。

NM氏が13歳の時に父が亡くなった。

NM氏の自慢は,親戚が西南の役の時に出征したため,以後N家は「へいたい」と家号を呼ば れた事である。しかしNM氏の兄弟の男6人の中には,兵役経験者がいなかった。N家では,長 男が早くに家督相続をしたが,それ以外は,他に生計の道を模索する必要があった。そのため,次 男,四男(NM氏),五男が別の家へ養子に,六男が分家というように養子へ行ったのが多い。

NM氏は西太美尋常小学校での学業成績も良かったようで,二年次(1907年11月9日)に西砺 波郡の教育品展覧会において,二等賞,三年次(1909年3月1日)に一等賞,四年次(1910年3 月20日)に,西砺波郡小学校児童成績審査長・富山県視学・傍田弥三郎の推薦を受け,一等賞の 褒状を授与されている38。さらに五年次には,「行啓記念教育展覧会」において,成績優良のため,

褒状が贈られ(福光区小学校校長会長,1910年9月29日),また1911年3月1日には,西砺波郡 優良児童審査長・富山県西砺波郡視学・吉田佐市郎からの推薦で,一等賞の褒状が富山県西砺波郡 長・従六位勲五等・廣瀬昌柔から送られている。六年次にも,1911年10月28日に,西砺波郡教 育会主催教育品展覧会において二等賞を授与され表彰されており,卒業時にも,「学業優等品行方 正忍耐能ク命令ヲ確守ス」ので,「新撰書簡文」一等賞を,小学校校長(川原忠孝校長)から贈ら れている。

このように小学校時代の学業成績は一貫して良く,郡の中でも優秀な成績をあげていると言えよ う。しかし,農家の四男として,上級学校への進学は望むべくも無かった。出身地域の富山の農村 部では,小学校を終えるとF町より山を越えて出られる金沢市へ丁稚奉公するのが例であったが,

氏は1912年に尋常小学校を卒業後,1914年5月から,京都市の「服部捺染工場」(1843年創立,

1909年捺染工場建設))で「火夫見習」として働き始めた39。富山から,どういったきっかけで京 都へ働きにいったのかは不明である。しかし,ここでの勤務期間は1年半であり,1915年12月に 同社を辞職している。もともと,NM氏は幼少期に体が非常に弱かった(nm氏による)こともあ り体力が必要なボイラー工としての勤務は厳しいものがあったと思われる。また,故郷の富山を離 れての一人暮らしは,つらかったのではなかろうか。

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6.金沢での学業

その後,NM氏は,金沢市に出てきていた次兄の元に身を寄せることになった。年齢は,15〜16 歳の頃である。加賀藩旧城下町である金沢は,北陸地方の中心都市であり,第四高等学校が置かれ ている学都でもあった。様々な情報が行き交い文化教育も発展していた金沢に来たことが,NM氏 にとって一つの転機となったことは間違いない。

金沢で当初,NM氏が何をしていたのか,詳細は不明である。病気の療養をしていたのか,ある いは商店員として勤務していたのかもしれない。

しかしながら,ここで特筆すべきことは,NM氏が1918年5月から,高橋氏が主宰する塾(私 立中等教育院)に通い始め英語,漢文,数学を学んでいたことである(1920年1月まで通塾)。

こうした学業に対する努力もあったためか,1918年11月に,金沢電気瓦斯株式会社に「臨時雇」

として入社している42。また,この頃,電機学校の校外生予科で学び始めている(予科講義質疑用 紙,1918年12月19日が初回)。当時,出版されていた『各種学校入学案内』に電機学校の紹介が あり,電機学校予科は,尋常小学校さえ卒業していれば学ぶことは可能で,一般的な学習期間は,

予科1年であり,予科を修了していれば本科に進学が可能ということが記載されている。勤労青年 に,広く門戸が開かれており,こうした各種学校案内を見て,NM氏は心を動かされたのではなか ろうか40

電機学校予科の学習内容には,数学,力学,英語などの内容が含まれている。また電機学校の通 信教育は,質問に対する懇切丁寧な指導を特色としていた。予科で学んでいた時に,NM氏が電機 学校に送り,返信されてきた質疑用紙を見ると,当初は,「√」の記号はどういった意味なのかと いう初歩的な質問がされていた41。尋常小学校しか卒業していないNM氏にとって,予科の内容は,

かなりハードルが高かったのではなかろうか。物理,化学,英語などを通信教育だけで学ぶことは 非常に難しい。そのため,塾が通信教育におけるいわばスクーリングや補習の役割を果たしたと考 えることができる。

1919年の8月9日には,電機学校の校外生予科の修了証も取得しており,電気の分野で身を立 てることを本格的に考え始めたと思われる。そのため,電機学校本科へ1920年1月には,入学し ている。NM氏が学んだのは,『第二革新テレゴグ』(24巻)である。かなり高度の量的にも多い 内容であった。NM氏は,また1920年3月から11月に私立高井数学塾で三角法と高等数学を学ん でいる。本科の内容は高度であり,通信教育だけではわからない点を,高井数学塾で学んでいたと 推測される。

高井数学塾は,豆腐の製造販売,豆腐製造機の製造をおこなっていた高井商会(高井製作所の前 身)が開設していた塾である43。高井商会は,明治初期に,高井伊左右衛門が金沢市で豆腐店を始 め,それがきっかけとなって創業された。二代目の高井亀次郎(1872年〜1960年)が家業を引き 継ぎ,豆腐製造機の開発・販売などを行った。

(10)

高井亀治郎は,小学校卒業後に家業の豆腐屋の手伝いをしていたが算術や計算が得意で,私塾で ある梅沢教習館(梅沢儀三郎)に通っていた。代数学に興味を持ち,師匠の勧めでチャールズ・ス ミスの代数学などを学んだ44。算盤などは天才的な才能があり,師の梅沢儀三郎亡き後,梅沢塾の 生徒を引き取り,高井数学塾を開設した(1899年)。昼までに豆腐作りを終え,午後3時頃から数 学塾の教員になったが,「教室には大きな黒板,大きな算盤などがあり,机は寺子屋風の長机で黒 板の前に並べてあった」という。高井数学塾は,多くの門人を輩出し,県立第一中学の生徒で第四 高等学校の受験ではトップクラスの合格者が少なからずおり,後に大和百貨店社長,北國新聞社社 長になった者もいた。

小学校卒業の学歴しか持たなかったにもかかわらず,家業の傍ら教鞭をとった高井亀次郎の開設 した私塾であったため,尋常小学校卒業のNM氏も気兼ねなく学ぶことができたのではなかろう か。また当時の私塾が,尋常小学校しか卒業していなかった有為の青年に,貴重な学びの機会を提 供していたこともわかる。

こうしてNM氏は,電工見習として金沢電気瓦斯に勤務をしながら,高井数学塾に通い電機学 校の通信課程(本科)で学んでいたことになる。その向学心の背景には,地方の農家の四男で尋常 小学校卒業の学歴しか持たない者にとって,電機学校の通信教育が,資格取得によって社会的上昇 を計る蜘蛛の糸のような唯一の手段であったという事情があったのかもしれない。そして,NM氏 は1922年に逓試に合格し,1926年に電機学校の卒業証書を取得している。

この頃,NM氏は,物理学や電気学の当時としては最新の本を購入して熱心に学んでいたようで ある。N家の蔵には,工学士・小川芳太郎著『機械製図独習 図工になるまで』(東京工学書院,

1917年),工学士・寶来勇四郎『交番電流とヴェクトルの応用・後編』(電気之友社,1919年),理 学士・田中三四郎『改訂増補 物理学講義』(金刺芳流堂,1921年)などの本が保存されていた。

写真

1  豆腐作りを終えた後,「高井数学塾」の教壇で学生

と一緒に撮影された写真(1917年の写真)45

(11)

7.電気技術者へのあゆみ

こうした通信教育の努力の甲斐があったのであろう,NM氏は,1918年11月には,金沢電気瓦 斯株式会社の臨時雇,さらに1919年7月には電工見習に採用され,「内設課電灯係」に配属された。

日給は42銭であった。この時の辞令がN家の蔵には残されており,氏にとって見習であったとし ても,正式に採用されたことが,よほど嬉しかったのではないだろうか。

また,電工見習以降,NM氏は辞令を保管している。NM氏が電気技術者の道を歩んでいく経緯 を,NM氏が保存していた各会社の辞令をもとに見ていこう(日給,月給などは辞令に記載されて いる金額)46

1918年11月に,金沢電気瓦斯株式会社に雇用された頃から,NM氏は電機学校予科の通信教育 を受講するとともに,塾でも学んでいる。電機学校予科の課程を修了するころに,「電工見習」と して正規に採用されている(1919年7月,日給42銭)。こうしてNM氏は電気技師の道を進み始 めた。予科終了後は,電機学校本科の校外生として学び,その途中で「電工」として採用されてい る(1920年12月,日給1円14銭)。

NM氏が金沢電気瓦斯株式会社での勤務を始める時期は,民営事業であった電気瓦斯事業が,金 沢電気瓦斯株式会社から,金沢電気軌道株式会社,さらに金沢市営へと公営に転換しつつある時代 にあった47。公営化は,第一次世界大戦後の1920年の経済界の恐慌が電気事業界に影響を及ぼし た結果,逓信省が救済策として事業の合同を進めたという社会的背景もある48

電機学校の通信教育の利点として,電機学校では,「日本全国どこにいても通信教育が受けられ る,また転居しても受けられる」と謳っている49。まさしくその通りであり,福岡発電所への勤務 に伴い金沢市から福岡発電所に転居した後も,福岡発電所から電機学校へ,また吉野発電所に移っ たあとも吉野発電所から電機学校へ,NM氏は質疑用紙を送り続けたのである50

その後,NM氏は1922年11月に実施された第12回逓試(第三種)に合格した。この回の合格

写真

2 電工見習採用の辞令 Ⓒ新保敦子

写真は遺族の許可を得て,著者撮影。以下同様

(12)

者は,総計382人(1種0人,2種60人,3種305人)であった。うち,電機学校は165名の合格 者(1種1名,2種21名,3種143名))を出している51。3種合格者の約半数が電機学校出身者で あり,逓試に合格者を輩出することを学校の大きな目的として設立された電機学校が,電気事業の ための技術者養成という任務を果たしていることがわかる。

また,3種合格者・143名のうち,ほとんどは,昼間部,夜間部の出身であり,校外生として 合格したのは,NM氏の他に2人のみである。通信だけで合格するのは,やはり至難の業であっ

1 金沢電気瓦斯株式会社から金沢市電気局を経て金沢紡績へ

年 月 日 会社・勤務先 身 分 給 与 その他(教育歴など)

1918年11月

金沢電気瓦斯株式会社 臨時雇 私立中等教育院で学ぶ

1919年 7

1

日 金沢電気瓦斯株式会社〈屋内

外の電設工事〉内設課電灯係 電工見習 日給

42

1919年 8

9

日 電機学校予科修了証

1919年12月 1

日 金沢電気瓦斯株式会社 電工見習 日給

54

1920年 7

1

日 金沢電気瓦斯株式会社 電工見習 日給

62

銭  

1920年

高井数学塾で学ぶ

1920年,21年頃

電機学校本科の校外生

として学ぶ

1920年12月18日

金沢電気瓦斯株式会社 電工 日給

1

14

1921年 7

1

日 金沢電気瓦斯株式会社 電工 日給

1

18

1921年10月 1

日 金沢電気軌道株式会社(

9

の合併に伴い)  電工 日給

80

銭 電線路監査,電気機械 の試験

市内派出所勤務 臨時手当日額

38

1921年12月 1

日 金沢電気軌道株式会社 電工 日給

1

20

1922年 1

月21日 金沢電気軌道株式会社依頼

解雇

1922年 1

月26日 金沢市電気局技術部発電課福

岡発電所 電工 日給

1

18

銭 所属,金沢市役所

1922年 3

月11日 金沢市電気局技術部発電課福

岡発電所 電工 日給

1

22

1922年11月 8

日 逓試 合格

1922年12月31日

電気局 工手

6

級下俸給与

1922年12月31日

金沢市役所電気課吉野発電所 工手

1923年12月20日 6

級上俸給与

1924年 9

月13日 電気局増泉変電所 工手

1924年 9

月13日 金沢紡績株式会社 電気主任技

術者嘱託

1924年 9

月29日 金沢紡績株式会社 技手 電気

科担任 月給

65

1924年 9

月30日 金沢市電気局工手 依頼解職

1925年 2

月20日 金沢紡績株式会社 依頼解雇

(新設変電所の竣工に伴い)

(13)

写真

3 福岡発電所

写真

4 吉野発電所

写真

5 検定の種別第三種合格証書,1922

年 写真

6 電機学校卒業証書 1926

写真

7 電機学校質疑応答用紙

写真

8 電機学校質疑応答用紙

(14)

52。NM氏が,通信教育を熱心に受講したのは,1920年〜1922年にかけてであるので,約3年 弱で,逓試に合格したことになる。

ちなみに電機学校では,逓試に合格できれば,申請によって卒業資格を授与された。ただし,

NM氏は,逓試合格後も,継続的に電機学校での通信教育を続けており,1926年に卒業証書を授 与されている。

そして,逓試の合格に伴い,NM氏は電工から「工手」へと昇格している。さらに,この合格 がはずみをつけたのか,NM氏は,1924年9月に金沢市電気局から,金沢駅近くの金沢紡績(三 井財閥の重鎮である早川千吉郎〈はやかわ・せんきちろう,1863年〜1922年〉が,出身地金沢に 1917年創業,後に錦華紡績と改称)に転職し,「技手」(自家用電気主任技術者)となっている53。 金沢紡績が新工場を建設するにあたって,富山から送電線を引くことになった54。NM氏はこのあ たりの業務に関わったのかもしれない。

金沢紡績での給与は,月額65円であり,5年前の電工見習時期と比べると給与は約5倍となっ ている。資格の取得に伴い,見事なほどに技術員としての地位が向上し給与が上昇していることが わかる。学びによる資格の取得が,農家の四男として生まれ身体も軟弱であったNM氏の社会的 地位を押し上げていった。

NM氏はその後,新設変電所の竣工に伴い金沢紡績を退職することになるが,その直後の1925 年に日本電力株式会社の社員として,当時,水力発電所の建設が進められていた黒部川流域での電 源開発に携わることになる。そして電気工手として黒部土木建設所に勤務し,黒部第一,黒部第二 発電所の建設,その完成後は黒部第二発電所の運転に従事する。

8.水力発電所の技術者としての活躍

電気産業は,当初は,都市への電灯供給の役割を果たしていたが,次第の動力源としての電力の 重要性が高まり,電気産業は基幹産業となっていった。とりわけ,中山間地での自然の落差を利用 した水力発電が発展しつつあり,水力発電所の建設と遠距離送電によって立地条件に恵まれた平野 部での大工場経営が可能になった55。たとえば,大正期は,電気事業が隆盛を誇った時代であり,

発電力は,1914年の255,826キロワットから,1921年には,1,065,136キロワットへと急増している。

また,水力は,1914年366,243キロワットから,1921年852,823キロワットへ,汽力(蒸気機関)は,

217,967キロワットから,461,144キロワットへと発展した56。とりわけ水力発電所の事業所数も増 加し,それにともない,電気事業主任技術者が必要となっていた。

黒部川流域の電源開発に携わった後のNM氏の経歴を見ていこう。

大正の後期は昭和不況の直前であり,一方,電力事業の発展時代で,富山県の黒部川電源開発は 黒四の前の前,黒二(猫又発電所)の建設が計画されていた。NM氏はこの建設を担当していた日 本電力(株)に入社することになった。

まずは黒部建設所に勤務し,黒部川第一発電所(柳河原,森石,木屋平)の建設に当たり,黒部

(15)

2 日本電力株式会社での勤務状況

年 月 日 会社・勤務先 身 分 給 与 その他(教育歴など)

1925年 4

月12日 日本電力株式会社・黒部

土木建設所 電気工手 日給

2

円(ただし所定 の在勤手当を支給)

1925年

黒部柳河原建設所(黒部

第一)

1926年 1

月21日 電気工手 日給

2

56

銭 同年

4

月電機学校卒業

1926年12月21日

電気工手 日給

2

63

1928年 4

月 鐘釣建設所

1929年 4

月 黒 部 建 設 所( 愛 本, 出 平,森石,鐘釣各変電所 建設)

1929年12月21日

電気工手 日給

2

73

1933年 3

月 小屋平変電所

1933年 7

1

日 電気工手 日給

2

50

1934年11月

黒部第二建設所

1936年11月21日

黒部第二発電所

3 日本拓業から日本発送電を経て北陸電力へ

年 月 日 会社・勤務先 身 分 給与 その他(教育歴など)

1938年

日本拓業 庄川建設所 雇員

1939年12月

庄川水力第一発電所(中野発電所)の建

設,運転(1939年運転開始)

1940年10月

技術員に昇格

1942年10月

庄川発電事務所中野発電所 技手 社員名簿にあり

日本発送電への統一

1943年10月

日本発送電中野発電所 主任

1944年 4

月 技術補昇格

1944年 8

1

日 手取川系・吉野谷発電所へ転勤 主任

1945年 8

月15日 終戦を迎える

1945年11月 1

日 北陸支店加越地区事務所電力課

1946年 4

5

日 北陸支店敦賀製塩所 所長

1947年 7

月16日 北陸支店尾口発電所 主任

1948年 4

1

日 尾口発電所安全管理者 技師

1951年 7

1

日 手取川系上流方面発電所,及び尾口発

電所 所長 社員名簿にあり

1951年10月31日

尾口発電所 所長兼務解く

日本発送電の分割,北陸電力へ

1951年11月 1

日 吉野谷発電所,鳥越発電所,白峰発電所 所長

1952年 8

月31日 鳥越発電所 所長兼務解く

1954年

定年退職

(16)

川の電源開発が進むに伴い,移動していった57

その後,黒部第二発電所(鐘釣)建設のプロジェクトが始まり,NM氏は黒部第二建設所に 1934年11月から勤務してこの建設に最初から最後まで参加した。NM氏の息子のnm氏によれば,

発電所建設の時期には,作業員が良く怪我をした。宇奈月の藤田病院は病室が相当あったがいつも 満員のようであり,nm氏が夏の夕方,父を迎えにトロッコ電車の駅の上で待っていると,土砂崩 れや,高所より落下したと思われ包帯をした作業員が付添われて運ばれて来るのに数回会った,と いう。

また1936年に黒部川第二発電所が完成し,運用を開始した(1936年10月30日)。当時は東洋 一の発電所であったが,NM氏は運転の三交代にも加わった。この発電所は﨔平に取入口があり,

猫又に発電所があり,現在のトロッコ電車の観光コースの中にある。

nm氏によれば,「冬は,積雪のため通勤用のトロッコ電車が止るので,奥山の発電所の近くの 宿舎に数ヶ月冬籠りするため留守になった。月に1回位はトロッコ電車のトンネル伝いに徒歩で,

写真

11 鐘釣・猫又工事中 昭和11年

写真

12 黒部第二

写真

9 森石変電所

写真

10 森石変電所

(17)

下山して来た」。また「NM氏は建設中に事故にはあわなかったが,運転に入ってから,感電事故 と思われる眼と体の火傷のため,10日程家で静養していたことがあった。公傷のため,見舞に来 てくれた同じ職場の人に情況等を説明していた」という58

このようにNM氏は,黒部第二などの水力発電所の建設に関わったが,その後になると,事業 所数がそれほど増えない時期を迎えた。また,昭和恐慌は電力産業の経営を圧迫し,電力統制の動 きが開始された59。その意味では,NM氏は電気事業の技術者が必要とされる実に幸運なタイミン グで,電気事業主任技術者の資格を取得し,黒部川流域の電源開発業に関与できたと言えよう。ま さに,nm氏が語るように「(父は)黒部川開発の最も良き時代を体験できて,幸福な人生だった」

のである。

9.日本拓業から日本発送電,北陸電力へ

このようにNM氏は黒部川水系で電力開発の事業に関わっていたが,持病が悪化して,1938年 5月に日本電力を退社することになった。しかし手術を経て無事に完治し,自宅で半年程静養した 後,1938年11月に日本拓業に入社した。そして,庄川発電事務所中野発電所に勤務し,その建設 から運転(1939年12月運用開始)までを担当した(中野発電所 『社員名簿』(日本発送電株式会 社),1942年11月1日現在に「技手」とある)60。この勤務先は,富山県の庄川系の小牧発電所の 下流で庄川の大水流を堰防でせき止め,落差は少ないものの豊富な水量で発電するという発電所で ある。

NM氏は午前中の勤務を終えて昼食を取ると昼寝をし,1時過ぎてから起きて,午後の勤務に行 くようだった。この時代は「大東亜戦争」開始前後で,NM氏は三交代の技術員(技手)であった

写真

13  鐘釣発電所(黒二) 発

電機取り付け作業

写真

14  発電所の関係者。1936

年,猫又合宿。右

から三人目が

NM

氏。立っている人が手渡 している雑誌は電機学校発行の『OHM』。

(18)

が,国策として,発電は重要資源であったのである。

1942年になると,電力会社は国策会社である日本発送電に統一された。NM氏は,庄川系の大 牧発電所(大牧温泉の入口にある,1944年5月運用開始)等,日本発送電の発電所を転々として いたが,小牧発電所で,社内技術者教育の講師をした事もあった(1943年)。

「大東亜戦争」の烈しい時に,石川県の手取川系の発電所(吉野谷や尾口)に移った。吉野谷発 電所(現在もあり)は水路の大鉄管が,国道の下をくぐって二本斜に降っているが,下に発電所,

上に少し上がった土地に社宅があった。この社宅にNM氏は,所長用の社宅の一戸を専有し,終 戦はここで迎えたのである。

終戦直後は一時食塩が不足し,工業は未だ起っていなかったので,電力が過剰であった。その ため余剰電力で製塩をするという時代があり,NM氏は福井県の敦賀の近くの海岸で行われたプロ ジェクトのリーダー(敦賀製塩所長)として務めたこともあった。製塩の見学に行ったnm氏によ れば,「装置は四角い電槽に,電極を二本挿入して通電するという簡単な物であった……海はきれ いで,今までの山菜ばかりより,雲丹(ウニ)や海鼠(ナマコ)の美味しさを堪能した。しかし,

座礁した廃船がその姿をさらしていた」という。戦後直後は,そういう時代であったが,しばらく して,電力需要も回復して,1年稼動するかしない内に直ぐ中止になった。

戦後は,尾口発電所などで勤務した(昭和26年社員名簿 尾口発電所所長)61。NM氏が尾口発 電所長の時代に,国営に近い形の日本発送電は,関東電力,関西電力,北陸電力等に分割され,黒 部川系及び庄川系は関西電力に,手取川系は北陸電力に管轄される事になった。NM氏は北陸電力 に所属することになる。この時,尾口発電所長の他,吉野谷発電所,鳥越発電所(吉野谷発電所の 対岸),白峰発電所の三つの発電所を統括するポストにNM氏は着いた。これは近づく定年を待つ ポストであった。そしてNM氏は,55才で定年退職を迎える(1954年)。「発電所勤務という花形 産業の中に於いて,眼に見えぬ電気というものを相手に,一生を捧げた思いは,忘れられないもの であろう」と息子のnm氏は述べている。

写真

15  小牧発電所 技術講習会 1943

年。前列左か

ら二人目

写真

16  庄川第一発電所 1939

年。前列右から四

人目

(19)

おわりに

日露戦争以後,日本では工業化が進展し,基幹産業である電気産業が興隆発展を遂げようとして いた。しかしながら,その基層となる技術者の養成はようやく端緒についたばかりであった。

一方明治末期には,小学校6年制の義務教育制度が確立し,旧制中学から,旧制高校,帝国大学 への進学ルートも整備されたが,一方で,上級学校に進学できない有意不遇の大量の青年層を生み 出していた。こうした青年層の中には,向学心に富み社会的上昇の道を模索してする者も存在して いた。

そうした中で,電機学校が1907年に設立され,中・下層の電気技術者の養成に大きな役割を果 たした。電機学校の校外生制度の特徴は,質疑用紙を添付し,教授陣が,校外生の質問に懇切丁寧 に答えることにあった。いわば,郵便を使った双方向性の個人教授が実現していたと言えよう。

本稿で取りあげたNM氏は,富山県の農家出身であり,8人兄弟の四男として生まれた。尋常小 学校での成績は良かったが,長男が農家の家督を継ぎ,四男であるNM氏は身を立てる方策を考 えなければいけなかった。京都における工場でのボイラー工としての仕事で体を壊し,金沢に出て いた兄の所に身を寄せていた時に,たまたま電機学校の校外生制度を知り,通信教育を受けること になった。当時,第一次世界大戦に伴う好況の中で,電気事業は活況をていしていた時代であった。

そして,そして,予科,さらに本科での学びを経て,電気技術者としての道を歩み始め,ついには 電気技術主任資格検定試験(逓試)に合格した。そしてこの過程で,見習いから電工,電工から技 師へと社会的地位を着実に向上させていく。

そして,水力発電所の建設ブームの中で,黒部第一,黒部第二発電所の建設といった黒部川の電 源開発に関与し,完成後には運転にも関わり,電気事業を底辺で支えたのである。

まさに,尋常小学校卒業しか学歴の無かった青年が,電機学校の通信教育のおかげで,資格を取 得し,発電所の技師として働き,発電所の所長をしながら定年を迎えた。こうした社会的上昇は,

校外生制度のおかげといっても過言ではなく,電機学校の校外生制度は,社会階層の流動性を促進 する効果を果たしていたと言えるのではないか。

さらに,付言すればNM氏の息子であるnm氏は,小学校卒業後に旧制中学から,旧制高校,

帝国大学へと進学している。nm氏はいわば学歴エリートの道を歩みことになるが,これは,NM 氏が発電所の技術者として現金収入があり,子どもを上級学校に進学させることができたために他 ならない。

NM氏の事例は,電機学校の校外教育が,地方の農家出身で上級学校進学の夢が絶たれた青年に,

電気技師として生きる糧と大きな社会上昇のチャンスを与えたことを,具体的に示している。その 裏には,電機学校の教授陣の強い使命感に裏打ちされた粘り強い指導があったことを,記してお く。また,NM氏が電機学校との間でやりとりをした質疑用紙については,稿を改めて考察してい きたい。

(20)

[注]

1 日本電気事業史編纂会『日本電気事業史』,電気之友社,1941年,51頁。

2 「早稲田の通信講義録とその時代 1886-1956」展に寄せて

https://yab.yomiuri.co.jp/adv/wol/culture/160309.html 最終閲覧日20201224

3 天野郁夫「大学講義録の世界」『放送教育開発センター研究報告』67,1994年,8-37頁。菅原亮芳「中学講義録の世 界」『放送教育開発センター研究報告』67,1994年,38-97頁。

4 中村清「学歴と職業移動」『教育社会学研究』第26集,1971年,168-182頁。

5 新谷康浩「近代日本における資格制度と工業化―電 気事業主任技術者検定制度の導入過程に着目 して―」『教育社会 学研究』第58集,1996年,65-85頁。

6 NM氏が保存していた資料(電機学校・質疑用紙,発電所関係資料,職務に関わる委嘱状)。本稿は,石川県のN の蔵に保存され,2019年のN家の解体にあたっての整理の際に発見された第一次資料を基に執筆されている。

7 「電機学校設立趣意書」『東京電機大学五十年史』,1958年,2頁,5頁。

8 前掲『東京電機大学五十年史』,6頁。http://www.kandagakkai.org/archives/article.php?id=000207&theme=060 最 終閲覧日20201224日 参照。

9 前掲『東京電機大学五十年史』,19頁。

10 前掲『東京電機大学五十年史』,19-20頁。

11 広田精一「校外生に御断り」(19146月『同窓会誌』)。前掲『東京電機大学五十年史』,35-36頁。

12 編集者・発行者 佐久間正太郎『(財団法人)電機学校一覧』(昭和2年度),電気学校,73頁。

13 前掲『東京電機大学五十年史』,25頁。

14 前掲『東京電機大学五十年史』,29頁,35頁。

15 前掲『東京電機大学五十年史』,64頁。

16 前掲『東京電機大学五十年史』,65頁。編集者・発行者 電機学校『電機学校二十五年史』(国会図書館デジタルコ レクション),1933年,参照。

17 和久田薫『『女工哀史』の誕生―細井和喜蔵の生涯』,かもがわ出版,2015年,48頁。

18 『同窓会誌』からの引用,前掲『東京電機大学五十年史』,37頁。

19 逓信省『発電水力調査書』(1914年)など,一連の水力調査が実施されている。

20 前掲『東京電機大学五十年史』,21-22頁。

21 『電気技術者資格検定試験 問題並びに解答』(大正元年度,192312月刊行,電機学校),(5級・配電(3)4-5頁)

22 前掲『電機学校一覧』(昭和2年度),235頁。

23 前掲『電機学校二十五年史』,175-180頁。前掲『東京電機大学五十年史』,63-64頁。

24 「標準テレゴグ発刊の辞」『標準テレゴグ』1,(国会図書館デジタルコレクション),1926年,1-2頁。東京電機大学

百年史編纂委員会『東京電機大学100年史 図録編』,2008年,標準テレゴグの写真あり(37頁)。

25 前掲『電機学校二十五年史』,64-65頁。

26 『初等電気通論』(電機学校編,電機学校予科叢書第6巻,1919年)。

27 前掲『初等電気通論』,1頁。

28 前掲『初等電気通論』,13頁。

29 前掲『初等電気通論』,52頁。

30 『予科用叢書 電気用化学』(斉藤正平述),シリーズ電機学校予科叢書 第5巻,電機学校,1917年,279頁。

31 前掲『東京電機大学五十年史』,13頁。

32 前掲『東京電機大学五十年史』,65頁。

33 前掲『電機学校二十五年史』,179頁。

34 質疑用紙参照。

35 前掲『電機学校一覧』(昭和2年度),24-32頁,63-70頁。

36 前掲『電機学校二十五年史』,180頁。

37 卒業生名簿にNM氏の名前の記載あり(昭和24月,発行の『電機学校一覧』(昭和2年度)第6版,巻末付録の 卒業生名簿,174頁)。NM氏は19264月,第35回卒業生750人のうちの一人として卒業。『電機学校一覧』は,

大正63月から出版開始。創立25周年記念として第7版(1933年)が出版されたが,卒業者名簿は膨大になる

(21)

ため巻末付録としては,ついていない。

38 N家の蔵に保存されていた表彰状による。

39 亀井大樹「京都の経済危機と機械捺染業の勃興」(特集 歴史に学ぶ危機への処方箋)『彦根論叢』(423),滋賀大学  経済学会,2020年,40-55頁。

40 『各種学校入学案内』,安蒜商店出版部 編,(国会図書館デジタルコレクション),1914年。

41 √の意味についての質問がある(予科質疑用紙から)。基本的な数学の知識も,この段階では無かった。

42 逓信省検定試験用・届け出履歴書。

43 中田善次郎「石川のすばらしき先覚者たち④ 豆腐製造機を発明し,世界に広めた人 高井亀次郎」『石川自治と教 育』,627号,20091月,34-41頁。

44 『チャールス・スミス氏大代数学』(下),長沢亀之助訳,明法堂,(国会図書館デジタルコレクション),1895年。『代

数学教科書』,藤沢利喜太郎・飯島正之助訳,三省堂,(国会図書館デジタルコレクション),1897年。

45 http://www.takaitofu.com/hinmory/ 最終閲覧日20201224

46 辞令。金沢ガス株式会社から北陸電力まで(日本発送電時代の辞令は,戦時下のためか無い)。

47 「市史年表 金沢の100年」(大正編),HP。19201213日:電気ガス事業市営のため,金沢市が金沢電気瓦斯株

式会社を買収する交渉がほぼまとまった。1921101日:市が金沢市電気局を設置。市営電気・ガス事業が正 式に発足。

48 前掲『日本電気事業史』,54頁。

49 長距離教授の特徴として,「通学せずして卒業し得」とともに,「転任転居を妨げず」を挙げている。また,生徒に対 して個別に指導し,自分の状況に応じて学ぶことができるので,「理想的教育」であるとしている(前掲『電機学 校一覧』,100-103頁)。

50 http://www.suiryoku.com/gallery/ishikawa/fukuoka1/fukuoka1.html 最終閲覧日20201224 51 前掲『電機学校一覧』(昭和2年度),233-235頁。

52 ①前掲『電機学校一覧』(昭和2年度),233-235頁。②前掲新谷「近代日本における資格制度と工業化」,71頁。

53 前掲「市史年表 金沢の100年」

54 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%B8%82%E5%96%B6%E9%9B%BB%E6%B0%97%E4%BE%9B%E7%

B5%A6%E4%BA%8B%E6%A5%AD 最終閲覧日20201224 55 前掲新谷論文,67頁。

56 前掲『日本電気事業史』,51-52頁。

57 日本発送電提出,履歴書による 58 nm氏,回想録原稿。

59 前掲新谷論文,69頁。

60 『社員名簿』(日本発送電株式会社),昭和17111日現在,258頁。

61 『社員名簿』(日本発送電株式会社),昭和2651日現在,168頁。

表 2 日本電力株式会社での勤務状況 年 月 日 会社・勤務先 身 分 給 与 その他(教育歴など) 1925年 4 月12日 日本電力株式会社・黒部 土木建設所 電気工手 日給 2 円(ただし所定の在勤手当を支給) 1925年 黒部柳河原建設所(黒部 第一) 1926年 1 月21日 電気工手 日給 2 円 56 銭 同年 4 月電機学校卒業 1926年12月21日 電気工手 日給 2 円 63 銭 1928年 4 月 鐘釣建設所 1929年 4 月 黒 部 建 設 所( 愛 本, 出平,森石,鐘釣各変電

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