長崎大学教育学部社会科学論叢 第61号 17‑31(2002)
1990 年代ネパールの代議政治 ( ?)
谷 川 昌 幸
Ne p a l e s eRe p r e s e n t a t i veGo ve mme n ti nt h e1 99 0S( 2 )
MasayukiTANIGAWA
目 次 は じめ に
1 民主主義革命 と代議制 2 多民族国家 と小選挙区制 3 下院選挙 と政権の不安定化
(1)1991年選挙 (以上第60号) (2)1994年選挙 (3)1999年選挙 4 代議制の危機 とマオイス ト問題
おわ りに (以上本号)
3 下院選拳 と政権の不安定化
(2) 1994年選 挙
1991年 選 挙 で コ ング レス党 (NC)は単 独過 半 数 を えたが 、暫 定 内 閣首 相 のK・P ・
バ タライが カ トマ ンズ第 1区 で統 一共 産党 (UML)書 記長 マ ダ ン ・クマ ール ・バ ンダ リに 敗 れ落選 したため、
G・
P ・コイララが首相 に選 ばれ た29。コ イ ラ ラ内閣 は、下 院 で過 半 数 を刺 して い た し、翌 1992年 5月末 の統 一地 方 選 挙 で も政権 党 の強 み を生 か し大勝 した。UML は惨 敗 し、急進左 派5党 派 との連合 を組 んだ統 一 人民 戦線 (UPF)も、 ご くわず かの議 席 しか とれ なか った (表9参照)。 この よ うに中央 で も地 方 で もNCが優勢 で あ ったの で、 コイ ララ内閣 は安定 す るか と思 われ たが、 この期 待 は裏切 られ た。
コ ング レス党 内で は、 コ イラ ラ派 、バ タライ派 、ガネ ッシュマ ン ・シ ン派の三凍 みの争 い が絶 えなか った し、新政府 の 自由化政 策 は物価 高騰 や失業 を招 き、抗 議 デモや ゼ ネス ト
表 9 1992年 統 一 地 方 選 挙
政 党 36都 市 村 開 発委 員 会 (VDC) 市 長 副 市 長 市 会 議 員 議 長 副 議 長 委 員 NC
2 2 2 1 3 3 1 22 2 7 20 7 9 2 23 4 7
…̲ ̲ R G̲ P
P戸̲ M̲ U ̲ 姓t )
̲"̲̲̲" "I 2
6 52 1
51
59
7873081 3 0 8 1 8 6. 43 1 1 5 2 7 8 2 NS P 1
31 8 1 8 5 2 2 1 2
267 UP
F連 合★ 01
81 1
91 1 7 1 3 0
9 Independent 54
62 203 190 2.640(注)投票 日‑5月28日,31日。UPF連合‑UPF,CPN(Maoist),NWPP,CPN(M‑IlM),CPN(15Sep.
1949),NeplCoa mmunistLeague.
(出所)Hoftunetat.【1999】,pp.190‑191,伊 藤 ゆ き【19921,p.11よ り作成
18 1990年代 ネパ ールの代議政治 (2)
が頻 発 した。一方 、マハ カ リ河水利 問題 に関す る1991年 11月の ネパ ール ・イン ド合意 は、
イン ドの領土的野心 に屈 した もの だ と して、野党ばか りか与党内か らも政府攻撃の具 と し て利 用 され た。1993年 5月には、UMLのバ ンダ リ書記長 が ジープ転落事故で死亡す ると、
UMLは これ を暗殺 だ と主張 し、激 しい反政府 街頭行動 を繰 り広 げ、急進左派諸党派 もこ れ を支持 、警察 との衝突で6人 (政府 発表)ない し24人 (アムネステ ィ発表)の死者 を 出 した。
バ ンダ リ書記長の死亡で欠員 とな ったカ トマ ンズ第1区の補欠選挙 は、1994年 2月 7 日に実施 され た。NC か らはバ タライ、UMLか らはバ ンダ リ夫人の ヴ ァイジャ ・バ ンダ リが立候補 し争 ったが、バ タライはまた して もUMLに敗北 、屈辱 を味 わ った。 これ をコ イララ派の選挙 サボ タージュのせ いだ と考 えたバ タライ派 は、NC党内 に強硬 な反 コイラ ラ派 (36議 員) を形成 、反 コイララ活動 を強 め、7月10 日の国王演説へ の 「感謝投票」
(内閣信任投票 に相 当)に欠席 して しまった。投票 で信任 が得 られなか ったコイララ首相 は、
国王へ辞表 を出 し、議会解散、11月選挙 を進言 した。辞任 と解散 を同時 に行 うことは憲 法上疑 問が あるが、9月12日最高裁 が解散 を合憲 と判定 したので、辞任 後直 ちに選挙管 理 内閣の首相 に任命 され たコイララの下で、11月 15日下院選挙が行われ ることにな った。
1994年選挙 は、マハ カ リ (タナ クプール)問題 や経済 自由化問題 もあったが、最大の 解散原 因はNCの内紛 で あ り、 したがって争点 はコイララ首相 を信任す るか否か、あるい はNCに統治能 力があるか否 か とい うことになった。
NCは、 ガネ ッシュマ ン ・シンらの反 コイララ派 が コイララ派候補 に対 し無所属候補 を 立 て るな ど、事実上 分裂選挙 となった。UMLは、バ ンダ リ前書 記長の跡 を継 ぎ 「複数政 党制人民民主主義」 をとるM ・K ・ネパ ール書記長派 と、伝統 的な 「新人民民主主義」路 線 を とるC・P ・マ イナ リ派 との対立 はあ ったが、野党 とい うこともあって統 一 して選 挙 に臨 んだ。UMLは NC と対抗 す るため、6選挙区の立候補 を とりやめ、CPN(Masal)、 UPF(Vaidya)、ネパール人民戦線 (NepalJanatndiMocha)な どの急進左 派候補者 を 応援 した。 これ に対 し急進左派諸政党の側 は分裂 していた。UPF は 1994年 5月、ニ ラ ンジ ャン・G ・ヴ ァイジャの第 4会議派 と、バ ブラム ・バ タライ派 に分裂 、UPFの主要 メ ンバ ーで ある統 一 セ ンター もニル マル ・ラマ派 とプ ラチ ャンダ派 に分裂 した。 そ して、
今度 はバ プラム ・バ タライとプ ラチ ャンダが選挙 ボイコ ッ トに回 った。他方 、右派の国民 民主党 (RPP)は、1992年 2月チ ャン ド派 とタパ派の合意 がな り、94年の選挙 は統 一
して闘 うことになった。
表10か らわ か るよ うに、1994年選 挙 で は立候 補 者 を出 した政 党 は 24に増 えたが、
獲 得 議 席 はUML と NCの 二 大政 党 と今 回 は統 一 して闘 った RPPにほ ぼ独 占 され た。
NC は内紛 が響 いて僅差 の次 点落選者 を大 量 に出 し、UML に第一党 の座 を明 け渡 した。
UMLは 30.85%の得票 で 88議席 (42.93%)、NC は UML よ りも多い 33.38%の得票 で 83議席 (40.49%) を得 たの に対 し、RPPは 17.93%の票 を得 なが ら議席 は 20(9.76叫 に
とどまった。
UPFは内紛 に禍 された。UPFはバ プ ラム ・バ タライ議長 、 リラマ二 ・ポ カレル書記長、
ニ ランジャン ・ゴ ビンダ ・ヴ ァイジャ中央委員の三人 が指導 していたが、1993年バ タラ イが解任 され 、 ヴ ァイジャが党首 とな った。有力者のバ プラム・バ タライを排除 したため、
UpFは弱 体 とな り、立候補者 は 49人 に とどまった。得 票率 1.32%、 当選者 な し、次 点
谷川 昌幸
1 9
者3人 となり、UPFは議会闘争の足場 を完全に失 って しまった (表 11参照)。 また、他 の小政党は、特定地域に強い地盤 を持つ労農党 (NWPP)とサ ドバ ーバナ党 を除 けば、I
議席 も獲得できず、小選挙区制が彼 らに不利 なことがます ますはっきりして きた。
表10 1994年選挙
政 党 立候
数( 人
補) 者
数 (当選音人) 得(票 率%) 次点者次 点
者 (人)数 得未票満差(人)
10 %
CPN(U
M L ) 1 9
6 883
0.85 56 38NC
2 0
5 83 33.38 95 55R
P
P2 0
2 20 17.93 34 22NWPP 27 4 0.98 1 1
SadbhaVanaP 86 3 3.49 4 4
UPF 49 0 1.32 3 2
JanataDal(Sa.Pra.) 1 0 0.01 0 0 JanabadiMocha(Ne
a l )
3 0 0.05 0 0C
PN( S
anyukta) 34 0 0.38 0 0 NepalJanabadiMocha
41 0 0.43 1 0 NepalJanahi t
Party 2 00 .
00 0 0 NepalPrajaP
arishad 7 00
.0
2 0 0.RastriyaJan
a t
aParty 7 0 0.02 0 0 LiberalDemocta岱cPa
rty 1 0 0.(X) 0 0‑SaParⅠltyyukuta Prajatantra 1 0 0.(X) 0 0
NepaliCohgress(Bisweswor) 10 0 0.16 1 0
UnitedPeopleーsPa巾 9 0
0
.0
2 0 0Nepa
l i
Comgress(ち.P.) 2 0 0.01 0 0RastriyaJanataParishad 28 0 0.12 0 0
RastriyaJanamukdParty 82 0 1.05 0 0
R
a d
ical NepaliCongress 1 0 0.(刀 ‑0 0CPN(Marxist) 49 0 0.39 0 0
Nepal
i
Cdngress(Subam a) 4 0 0.01 0 0Prajatan tdkⅠj)kDal 10 0 0.04 0 0
Ⅰndependent 385 7 6.18 10 7
(注 ) 投 票率63.25%、無 効票3.16%。 (
出
所 )Elec
tionCommission【n.d」,pp .63‑188よ り作 成 。義ll 1994年選挙 UPF次点者選挙区
開発区 次点者選挙区
中西部 Ⅰbmechap‑2★
Sarlahi‑5*
(注) *は当選者 との得票差10%未満。
(出典)ElectionCommission【n.d.I,pp.63‑188よ り作成。
20 1990年代 ネパ ‑ルの代議政治 (2) (3) 1999年選挙
1994年選挙で88議席 を獲得 し過半数 (103議席) には達 しなか ったが議会第一党 に なった統一共産党(UML)が、94年 11月29日アデ ィカ リを首班 とす る統一共産党内閣 を樹立、王制下の共産党政権 とい うことで世界的に注 目された。 しか し、少数与党であり、
ネパ ールの経済的 ・政治的現実 を考 えると、アデ ィカ リ内閣にで きることは限 られていた。
統一共産党内閣は、民営化凍結や土地改革 などを唱 えた ものの、実際 にはコング レス党内 閣の経済 自由化政策 を継承 し、以前は強硬 に反対 していたアル ンⅢ ダム計画に も賛成 に転
じた。
政治 手 法の点 で も、統 一共産党 は コ ング レス党 と大差 なか った。 中央 と地方 の役 人 や公営 企業 の管理職 をUML系 の人物 に入 れ替 え、村 自立運動 (BuildYourVillage Yourself)で4000あま りの村 に30万ル ピーずつ配分 し、地方行政へUMLの影響力を 浸透 させ た。
腐敗 は、 これ まで権 力中枢 に遠かった分だけコング レス党 よ りは清潔 だと一般 には見 ら れていたが、議員特権 を求め る点では変わ りな く、95年5月にはC・P・マイナ リ地方開発 ・ 供給大臣が砂糖汚職の嫌疑で査問 され、7月解任 された。
党内派閥間の争 い も絶 えず、M ・K ・ネパ ール書記長の主流派 に対 しB ・D ・ゴータム、
C・P ・マイナ リらの反主流派が、政権獲得後 、対決姿勢 を強め、離党の動 きも出て きた。
これに乗 じて コングレス党 は95年6月、サ ドバ ーバナ党 (NSP)と連携 して内閣不信任案 提出 を表明 した。 アデ ィカ リ首相 は議会解散で対抗 しよ うとしたが、8月に最高裁 によ り 解散無効判決 が出 されたので、9月10日議会での不信任決議 を受 け、辞任 した。統一共 産党内閣は10ヶ月 しか もたなかった。
1995年9月11日、統 一共産党 に替 わ って コング レス党のデ ウバ を首相 とす る
NC・
RPP・NSP三党連立政権 が成立 した。 しか し、デ ウバ内閣は連立政権 であることに加 え、
NCとRPPの党内派閥争いの ため不安定であり、95年秋の3600万 ドル に もおよぶ信用 状不正、96年8月のマハ ト蔵相の外為法違反 による辞任 、議員の歓心 を買 うための大臣 ポス ト乱発 (48大臣)、自動車無税輸入特権 (「パ ジェロ利権」)承認、96年末 か らの大 臣大量辞任 などのため、97年 3月崩壊 した。デウバ首相の在任期間は1年半であった。
デウバ政権 を引 き継 いだのは、国民民主党のチ ャン ドを首相 とす るRPP・UML・NSP 連立 内閣 (1997年 3月10日発足 ) で あ る。 よ り正確 にい えば、RPPの チ ャ ン ド派、
UMLの ゴー タム派 そ してNSPの3派連立で あるが、大臣の大半 は大政党UML が握 っ てお り、事実上、UML主導 とい える。UMLは1年半ぶ りに取 り戻 した与党特権 を最大 限利 用 し、97年5月の統 一地 方選挙 で は、 これ までの劣勢 を一挙 に挽 回 し、総議席の 51%を獲得、30%に とど まったNCに圧勝 した (表 12参 照 )。 しか し、UML内 で は、
地方選大勝 はこの選挙 を指導 したゴータ ム派の台頭 を意味 し、 これ を警戒す るネ パール書記長派 との申し樺 が高 まり、他方、
UML と右 派 のRPPとの連立 は不 自然 で もあ り、 はや くも6月か ら大 臣辞任 が出始 め、10月4日には不信任決議案 が可決 されチ ャン ド内閣は崩壊 した。政
表12 1997年統一地方選挙
政 党 議員数一人) 議員比率一%) CPN
ML )
93,3965 1
.33 NC 54,317 29.85R P 戸 2 2 , 8 0 9 1 2 . 5 3 NS P
222812 2
諸派、無所属 9,219 5.07 (出所)ElectionCommission(1999)より作成。
谷川 昌幸 21 権発足か らわずか7ケ月である。
チ ャン ド首相の次 は、RPPの タパ を首班 とす るRPP・NC・NSP連立政権 となった(1997 年10月6日発足)。これはRPPの タパ派、NCの コイララ派、そ してNSPの3派連立だが、
実際 はNC主導 である。政権 を失 ったUMい ま主流派 と反主流派の対立が激化 し、1998 年3月5日、M・K・ネパ ‑ル派 (56議員) とゴータム派 (46議員)に真 っ二つに分裂 、 ゴータム派 は 「共産党 (ML)」を結成 して分離独立 したため、UMLは院内第二党 に後退 して しまった。 この党派関係の激変 により、タパ内閣は4月10日崩壊 した。政権発足後、
わずか6ヶ月である。
次 の政権 は、NCの コイララを首相 とす るNC・UML (閣外協 力)・RPP(チ ャン ド 派)連立 として1998年4月に発足 した。 これは露骨な党利党略政権である。NCの コイ
ララ派 が、CPN(ML)と対立す るM ・K・ネパ ールのUML、タパ と対立す るチ ャン ドの RP戸(C)と手 を結んで、政権 をとった派閥連立内閣 といって もよい。
8月になると、コイララ首相 は、付加価値税やカラバニ問題で対立を深めたUMLに換 えてCPN(ML)と連立 を組み直 し、MLに13閣僚 を割 り当てた。今度 は、NC・CPN(ML)・ RP戸(C)連立で ある。 ところが、 この連立政権 も4ヶ月 しか もたず、12月21日コイラ
ラ首相 は辞任 し、早期解散 、総選挙 を唱 えるUMLの支持 を得 て再び首相 に任命 され、
1999年5月3日の選挙実施 を決めたので ある。
この ように1994年選挙か ら1999年選挙 までの4年半の首相交代 は6回 (再任 を含 む)に も及び、とくに97年か らはどの政権 も半年 しか もたなかった。 これ らの政権交代 に明確 な理念 は見 られず、庶民 には、政治家たちは私利私欲で争い、政党は党利党略に明 け暮れているとしか思われなかった。一方 、議会外では、庶民の生活は一向に改善 されず、
1996年2月に開始 されたマオイス ト(CPN‑Maoist)の 「人民戦争」はます ます激 しくなっ ていった。
1999年選挙 は、 この よ うな状況下 で行 われ ることにな った。選挙の争点 と しては、
1994年選挙で生 じた 「宙づ り議会 (hangparliament)」の不安定 を解消 し、安定政権 を生み出す ことによって議会政治への信頼 を回復す ること以外 には特 に大 きな もの はな かった。とい うより、個 々の具体的政治問題 よりも議会政治 その ものの存立が問われてお
り、選挙は議会制への信任投票 といって もよかった。
選挙 は1999年5月に行われ ることになったが、マオ イス トの嫉害 が激 しく、投票 は 全国 を第1回 (5月3日) と第2回 (5月17日)の2地域 に分けて行われ た。投票率 は前回よりやや高い65.79%であった。
この選挙には、過去最高の39もの政党が候補者 をたてた。 これ らの うち小政党 につい ては情報 が少な く正確 なことは分か りにくいが、カ ドガ・KCの調査によれば、それ らは 表 13のように整理で きる。当然なが ら、左右の急進派や民族主義政党 が多い。その反面、
指導者の大半 はブラーマ ン、チ ェッ トリ、ネワールの高 カース トで占め られ、この点では 大政党 と変わ りはない。多党分立であ りなが ら、最後の ところで国家統一 を維持で きてい る大 きな要因の一つであろう。
ともあれ、 これ ら39政党の うち、1999年選挙で当選者 を出 したのは7政党 だけだっ た (表 14参 照 )。小 選 挙区制 の 二大政 党 化作 絹 は明 らかで、NCが37.17%の得票 で 111議席 (51.15%)、UMLが31.61%の得票で71議席 (34.67%)を獲得 したのに対 し、
22 1990年代 ネパ ールの代議政治 (2) RP戸(T)ば lo.43%の得票で11議席 (5.37%)しか とれなかった。
今回、NCは過半数 を超 える111議席 を得 たが、これはUMLが分裂 し、ゴータム、C・P・
マイナ リ、S・プラダンらがCPN(ML)を結成 し、197人 もの対立候補 を出 したか らである。
一方、UML は分裂 とい う不利 な状況下で71人の当選者 と91人の次 点者 を出 し、地方 におけるUMLの支持基盤の厚 さをみせつ けた。NCとUMLの勢力は、UML分裂後 も、
ほぼ括抗 してい た と見 て よい。 これ に対 し、分離 して相 対的 に小 さくな ったCPN(ML) とRPP(C)は、 それぞれ 197人、184人 もの候補 をたて、6.56%、3.42%の得票 を得 な が ら、1人の当選者 も出せ なかった。他の大部分の小政党 も同 じことである0
統一人民戦線 (UPF)は、バ ブ ラム ・バ タライ派 を1993年 に排除 して しまったため 弱体で、39人の候補者 をたてたが、当選は1人だった。 これに対 し、毛沢東主義者新党 「全 国人民戦線」(RastriyaJanaMocha,NationalPeople'sFmnt)は、UMLの支援(UML は対立候補 を出 さない)を受 け、「中部」、「西部
」
で 5人 を当選 させ た。 これ を見て も、人民戦争路線 をとるマオ イス ト(CPN‑M)以外 に も、硬軟様 々な毛沢東主義 グル ープが西 部 を中心 に勢 力を拡大 していることがわかる (表 15参照)0
1999年選挙で過半数 を制 したコング レス党 は、5月27日K ・P・バ タライを首班 と す るNC内閣 を発足 させ た。今度 はNC単独内閣で あ り安定す るか と期待 され たが、 ま た して も1999年秋か らNC内の派閥争いが表面化 し、2000年2月には大臣が次 々に辞 任、3月16日バ タライ内閣は1年 ももたず崩壊 した。
2000年3月20日、G ・P・コイララが また もや首相 に任命 され たが、 この新内閣 も 安定 とはほ ど遠 く、2000年末 には早 くも解散 が取 り沙汰 され、結局 、王族殺害事件後の 2001年7月辞任 し、NC内反対派のデ ウバ が首相 に就任 した。
このよ うに、ネパ ールは、1990年民主主義命以後10年間で3回総選挙 を経験 したが、
政治家 と政党の行動パ ターンは、この間、驚 くほど変化 していない。確かなことは、その 間に も社会 ・経済の自由化 ・グローバル化が加速度的に進行 し、代議制政府の統治能力へ の懐疑 が ます ます深 まる一万、1990年憲法の正統性 を根本か ら否定す るマオイス トの人 民戦争が急拡大 し過激化 して きたことである。
谷川 昌幸 表13 小政党の概要 (1999年選挙)
2 3
政党ー英 訳 1 イデオロギー′政策 指導者 (カース ト)
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(出所)KhadgaK.C.,"SurveyReport,=200 より 作 成 O
24
表14 199
9
年 選 挙 1990年代 ネパ ールの代議政治 (2)政 党 立候補数 (人者) 数 (当 選人音)
撃1 ' ( 局
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(出所)Elec也onCommission【1999Iよ り作成。
谷川 昌幸 3 代議制の危機 とマオイス ト問題
25
ネパ ールの代議制 は、前節 で詳 しく分析 したよ うに、1990年以降 10年間の迷走 と混 乱 で、20世紀末 には国民の信頼 をあ らかた失 って しまった。庶民 の 多 くは、社会 ・経済 の 自由化 に伴 う諸矛盾 の急拡大の犠牲 にな り、 ます ます代議政治へ の不満 をつの らせ て いった。 とくに、開発の遅れた西部や山地 、 あるいは議会 に十分代表 され ない少数派諸集 団 は、問題解決能 力の ない代議政治 にい らだち、つ いにはそ うした地域 や集団の 中か ら、
代議制 その もの を否定 し、実 力 を もって要求 を実現 しよ うとす る人 々が出て きた。
そ う した反 体 制 派 集 団 の 中で も、最 も急 進 的 で 有 力 な もの が、1996年 に人民 戦 争 (people'swar)を開始 し、ゲ リラ戦の拡大 によ り、20世紀 末 には代議制 を存亡の危機 にまで追 いつ め るに至 った 「マオ イス ト」 (ネパ ール共産党毛沢東主義派)で ある。
(1)マオ イス トの人民戦争
マオ イス トは1995年、Masalのバ プ ラム・バ タライ派 と、Masalか ら分離 したプ ラチ ャ ンダのMashalが合流 して結成 され た O党 イデオ ロギーは、当初 、「マル クス ・レーニ ン 主義 、毛沢東思想」 だ ったが、人民戦争開始 に先立つ路線論争の 中で 「毛沢東思想 (Mao Tought)」が 「毛沢東主義 (Maoism)」と改 め られ、以後 、「マル クス ・レーニ ン ・毛 沢 東主義」 が公式の党是 と されてい る。具体的には、ネパ ール において1990年憲法の立憲 君主制や議会制民主主義 を原理的 に否定 し、革命 を継続 し、共和制の人民民主主義国 を樹 立す ることが、彼 らの闘争 目標で ある。党員数 、組織系統 など党の実態 は、地下組織 の た め正確 にはわか らないが、実権 は党創立以来 、プ ラチ ャンダ書記長 (2001年2月以降 は 議長) が握 って お り、人民戦争への動 員 力は2000年末頃 には5千〜 1万 人に達 した と 見 られてい る31。
マオ イス トは、派 閥連合 的性格 の強 い ネパ ール諸政党 の 中に あっては珍 しくイデオ ロ ギー性の強 い政党で あ り、 自 らの闘争 につ いて もい くつ かの文書でかな り詳 しく理論化 し てい る。 そ うした文書の うち、90年代 で特 に注 目すべ きは、人民戦争の理論 と実炭削こつ いて語 ったプ ラチ ャンダ書記長の長大 なインタビュー「世界の屋根の上 にひ るが える赤旗」
(2000年2月)32で ある。
(丑革命の客観 的条件 : この インタビューにおいて、プ ラチ ャンダ書記長 は、1990年 代の ネパ ール を 「半封建的 ・半植民地 的国家」 と位置づ け、そ こには 「革命の寄観 的条件
(revolutionaryobjectivesituation)」が存在す る、 と主張 した 。
彼 によれば、ネパ ール は r小 さな貧 しい国」 で、国民 の85%が地方 に住 み、封建 的搾 取 の下で72%の住民 は貧困線以下の生活 を強 い られてい る。一方 、産業 は未発達 な上 に、
わずかばか りの産業 は外国 (主 にイン ド)資本や買弁 ネパ ール資本 に握 られい る。 これ は 明 らかに半封建 的 ・半植民地的状況 で あ り、 したがって この現実 をよ く見れば、そこには 革命 に必要 な3つの条件 が揃 ってい ることが分か る33。
まず第一 に、被抑圧 人民の存在. ネパ ‑ル政府 は18世紀末の国家統一以来 、一貫 して 中央集権化 を進 め、 カ トマ ンズか ら強権 的 に全土 を支配 しよ うと して きた。 これ に対 し、
人民 は各地 で屈す ることな く抵抗 し、農民運動 や工場 ス トを闘 って きた。だか ら、ネバ ー
26 1990年代 ネパ ールの代議政治 (2)
ル には長 く苦 しい闘争 を続 け、呼びかければ応 えることので きる被抑圧人昼が存在す るの で ある。
第二 に、ネパ ールの特異 な 「大国」性 34。 ネパ ールの領土面積 は小 さいが、地形的に険 しく、地方の村 々は交通困難で、カ トマ ンズか らだと時間距離的にはアメ リカよりも遠 い ところが少な くない。その意味でネパ ールは広 く、ゲ リラ戦 に向いてい る。 ま・た、民族的 にみて も、ネパ ールは多数の被抑圧民族 を抱 える民族 「大国」である0
第三 に、発展の地域的不均等性。 カ トマ ンズの よ うな都市部は急速 に発展 してい るのに 対 し、地方 、 とくに中央か ら遠 く、勇猛果敢 なモ ンゴル系諸民族 がいて中央政府 に容易に 屈 しなかった西部は、中央政府の文化的 ・政治的抑圧 が続 き、発展が著 しく遅れてい る35。
この よ うに、プ ラチ ャンダは、ネパ 「ルには革命の 「寄蔵 的条件
」
が揃 ってお り、 とく に西部 は毛沢東のい うよ うな革命の揺藍地 になる可能性 が高いと考 えた。彼 は、 もし革命 が西部か ら始 まれば、やがてそれは多かれ少なかれ同 じよ うな条件の もとにあるライ民族 、リンプ一民族の東部、 タル ー民族の タライ、そ して決定的な重要性 をもつ ネワ‑ル民族の カ トマ ンズ盆地 に さえも広 が り、革命 はいずれ全国化す る、 と期待 したのである。
②革命の主体的条件 : しか し、革命 においては もう「つ、だれが革命 を遂行す るかが 問題 になる.2000年2月のプラチ ャンダ ・インタビューによれば、ネパ ールには二大政 党の一つ統一共産党 を筆頭 にい くつかの左翼政党があるが、 これ らの既成左翼政党は修正 主義に傾 き、支配階級 と妥協 し、人民 を裏切 り続 けて きたので、 もはや革命の主体 とはな り得 ない。革命のためには、新 しい真の人民のための政党 を設立 し、革命のための 「主体 的条件 (revolutionarysubjectivesituation)
」
を整 えなければな らない。プ ラチ ャン ダが他の同志 と協力 し、1995年に 「ネパ ール共産党毛沢東主義派」 を設立 したのは、 こ の新政党 を革命の担い手 にす るために他 な らなかった。むろん、マオイス ト設立の過程 において も、同志の中には修正主義 に影響 された分子が いて 「改良、改良、改良
」
と唱 え、なお も継続的改良に望み をつ な ご うと した。 しか し、これに対 し、プラチ ャンダらは1990年憲法体制がなに も解決 しなかったことを示 し、い ま必要なのは改良ではな く、「継続 を切 り断絶 (mpture)す ること」、つ まり革命的 「跳 描 (leap)
」
であると訴 えつづけた。結局、 この プラチ ャンダらの訴 えが認 め られた。マオ イス トは人民集会で 「人民戦争開 始」を公式 に宣言 し、そ して1996年2月13日、宣言通 り人民戦争は開始 されたのである。
(診人民戦争の展 開 : こうして開始 された人民戦争は、西部の ロルパ郡 、ル クム郡 か ら またた くまに粧大 し、1年後の1997年には全国に何千 ものマオ イス ト組織 がで きたb戦 線 に加わったの は、農民、被抑圧諸民族 、都市労働者、学生 らである。彼 らは、警察署 を 攻撃 し、封建的反動分子 を追放 し、搾取 ・抑圧構造の打破 を進め、そ して解放地域の文化 革命 を促進 していった。
プラチ ャンダ ・インタビューによれば、この人民戦争では 「まず破壊せ よ、建設はその 後 だ」 と考 えるべ きだが、実際 には人民戦争 は敵 を破壊す る一方で、「われわれ 自身の悪 しき習慣のすべて を浄化 し」、「われわれ を造 り替 え」、 こうして人民 を目覚 ま しく生長 さ せ ることになった。
たとえば、西部では人民戦争開始後 、1年 もす ると村開発委員会議長 (村長)は逃亡 し、
村行政 は機能 しな くなった。そこで人民 自身が自らを組織 し、結婚、教育 、土地管理等 々
谷川 昌幸 27 の行政 を始めた。2年半後 には、警察 も逃亡 したので、マオ イス トの分隊長が地域 リーダー の役 を務め るよ うになった。 また、地方では女性 も大量蜂起 した。マオ イス ト軍では女性 も同 じ分隊や小隊 に所属 し、男性 と任務 を分担 し、その中で女性 リーダーに育 ってい った。
こうして、 ロルパやル クムは実質的にはマオイス ト支配下 に入 ったが、 しか しプ ラチ ャン ダによれば、 この段階ではまだマオ イス トは 「人民解放軍」 に相 当す る軍隊 をもたず 、 こ れ らの地域 もまだ不安定 な 「ゲ リラ ・ゾー ン」 に とどまっていた。 そこで、マオ イス トは 1998年末 、党大会 を開 き 「第4次計画」 を採択 、次 の 目標 を、人民軍 を建設 し、敵 を軍 事的に撃退 で きる 「根拠地 (basearea)」を確保す ることと定めた36。
以後 、人民戦争 は この第4次計画 に沿 って拡大 して行 き、プラチ ャンダの インタビュー が行われ た2000年 には国土の半分近 くにまで及ぶ事態 になった (図1参照)。
そ うした中、戦闘の本格化 を決定づ けたのが、プ ラチ ャンダ ・インタビューの半年後 、 2000年9月25日の大攻 撃で あった。 その夜 、小銃 や小型 ロケ ッ ト砲 で武装 した1000 人以上の マオ イス ト軍 が ドル ポ郡 ドナ イの郡役所 を襲撃 、警官隊 と6時間 にわ た って交 戦 し、郡 の役所 、警察所 、刑務所 を破壊 し、ネパ ール銀行支店 か ら3千5百万ル ピーを奪 っ た。警官 の死者 14名 、負傷者41名、行方不 明者 12名。 この段階 で、人民戦争の開戦以 降の犠牲者 は、1400人 に達 した37。
この戦果 を背 景 に、マ オ イス トは2000年12月20日、ル クム郡 バ ンビコ ッ ト村 の 小 学 校 校 庭 に満 員 の 支 持 者 を集 め て党 集 会 を開 き、「郡 人民 政 府 (DistrictPeople'S Govemment)
」
の設立 を宣言 した380そ して、翌2001年2月にな ると、党大会 で人民戦争 を都市部 に も拡 大 し中央 での人 民政府樹立 を目指す とい う新方針 「プ ラチ ャンダの道」 を採択 し、4月第1週 にはル クム コ ッ ト攻撃 を含 む一連の大攻勢 で70人以上の警官 を殺害 した。 この時点で、人民戦争の 犠牲者 は、政府発表 では1627人 とされ たが、実際 にはは るかに多 く、3000人以上 に上 るともいわれてい る39。平均 して1日1人か2人がネパ ールの どこかで殺 され 、 これが毎 日の よ うにマスコ ミで報道 され る。ゲ リラ戦 だか ら一度 に大量の死者 は出ないが、 これ は
図1 人民戦争 多発地帯 (2000年) (出所 :INSEC【2000】,P.279)
28 1990年代 ネパ ールの代議政治 (2) もはや内戦 に近 い状態であった 。
(2)代議制の未成熟
この人民戦争の拡大 、内戦の危機 に対 し、歴代の代議制政府 は場 当た り的対処 に終始 し、
ほ とん ど当事者能 力を持 たなかった。政府 は人民戦争 をテロとみな していたか ら、まず警 察力で鎖圧 しよ うとした。 これは当然 といえようが、警察 は武器の点で も戦闘訓練の点で もマオイス トに劣 ってお り、 しか も先 に見た とお り極端 な政権不安定で支援体制がなお ざ りに され、警官の士気 は低 く、鏡圧 はで きなかった41。
警察力で対応 しきれない場合、当然、軍の出動 とな るはず だが、これに もまた様 々な抵 抗 があった.一つ は指揮系統の違いで、警察 は内務大臣、軍 は国防大臣 (そ して国王)の 指揮下にある。軍 は、内務大臣の指揮 を何 らかの形で受 けるような作戦への参加 は拒否 し た。 また軍 は、実質的には国王の影響下 にあるといわれてお り、軍の出動 には国王 自身の 同意 も必要 で あった。 もう一つ は、憲法上の制約で ある。憲法第 118条 によれば、王国 軍 は国防会議 (首相 、国防大臣、軍最高司令官)の勧告 に基づ き、国王 が指揮す る。 この 正式手続 きを経 ることは不安定 きわまりない90年代後半の どの政権の下で も難 しく、一 度 コイララ首相 が王国軍 によるマオ イス ト鎮圧の方針 を宣言 したが、強い抵抗 にあい、結 局 は断念せ ざるを得 なかった42。政党政府 にで きることは、せいぜ い、軍の駐留増強 を要 請す ることくらいであった。軍は、 この要請 には応 え、2001年春頃 か らジャジャル コ ッ
トなどのマオ イス ト地域の駐留軍 を徐 々に増強 したが、マオ イス ト鎖圧 には動 けなかった。
一方、議会政党側の態度 も一貫 していなか った。 当初 か らマオ イス トの攻撃対象 に さ れていたコング レス党 は、人民戦争 を非合法テロと断定 し、で きれば武 力鋲圧 、 これが難 しければ交渉 (デ ウバ委員会 など)による解決 を目指 したが、党内派閥抗争のため方針 は 二転三転 した。 これに対 し、統 一共産党 (UML)は、当初 はテ ロと決 めつ けず、NCと 対決す るためマオ イス トと暗黙の選挙協力 をや っていたが、1999年3月7日ル クム第2 選挙区のUML候補 ヤ ドゥ ・ゴータムが殺害 され、3月13日ロルパで集会 中に放火 され 支持者8人が死亡す ると (マオイス トは攻撃 を否定 してい るが)、マオ イス トとの対決姿 勢 を強めた。
NC、UML以外の小政党 とな ると、駆 け引 きは もっと霜骨 であ り、党利党略 でマオ イ ス ト支持 に回 る場合 が少 な くなかった。たとえばCPN(ML)は、分離 したUMLに対抗す るためマオイス トに接近 、ゴータム書記長は、1999年4月9日カ トマ ンズで開かれ たマ オイス ト派集会 に出席 し、「飢 えてい る人々のために戦 ってい る反乱者 たち」 を称 えた43。
MLは、議会政党であるに もかかわ らず、実力で代議制 を覆そ うと してt、1るマオ イス トに、
一定の留保 を しつつ も、支持 を与 えたのである。
MLだけでな く、 この頃 は、国王 に近いマダン ・レグ ミ、 リシケシ ・シャハ、 ドルバ ・ ビクラム ・シャハの よ うな有 力者 たちで さえ」議会 よ りもむ しろマオ イス トに好意的な態 度 をとったとい う44。
こうした動 きを見て、一時マオイス トとの対決姿勢 を強 めた統一共産党 も、2000年秋 以降、憲法改正 を取引材料 に して再びマオイス トに接近 し、マオイ云 トを利用 してNCと の闘いを有利 に進めよ うとしは じめた45。 まさに右か ら左 まで、時の政権党です ら党内反 主流派は、多かれ少 なかれマオ イス トの人民戦争 を政争の具 と して利用 しよ うとした。
結局、ネパ ールの議会政党 には、1990年代 にはまだ、代議制 を断固守 り抜 くとい う共
谷川 昌幸 29 通理解 はなかったので ある。
すでに1990年代の冒頭 、民主主義革命直後の ネパ ール政治学会 セ ミナー(1990年8月) において、チ トラ・K・チ ワ リが、ネパ ール政治の特質 を次の よ うに まとめていた.
(i) 政治 と社会 的人格的諸関係 とが明確 に区別 され ていない。社会的身分や個 人的関 係 が政治的態度 と政治的影響力 を基本的に決定 して しま う。
(ii) 政党 は制度化 されてい ない。政治の領域 と社会的個 人的領域 が区別 されず、政党 はコ ミュナル とな り、特定社会 か有 力者個 人の利害の代弁者 とな る。
(iii)ネパ ‑ル は個 人 と集 団 を機能 的 に分 けない社会構 造 を もち、個 人的決定 がその ま ま政治的決定 とな りやすい。
(iv)指導者 は戦略決定の大 きな自由 を もち、支持者 は党の イデオ ロギーや政策 よ りも 自己の集 団に対 し忠誠 を尽 くす。指導者 には、その コ ミュナルな集 団の利益 を計 るこ とが期待 され る。
(Ⅴ)政治活動の正 当な 目的 と手段 についての合意 はない。経済発展の不均等、貧富の差 、 民族対立 などのため、基本的な問題 についての社会的合意 がない。
(vi)依存心理 が強 く、党 は政治的経済 的利益 を分配 しなければな らない。利益 が得 ら れない人 は、暴 力 をもって反抗す る。
bii) 制度 と人の区別 がつ いていない。政府への反対 が、現 行制度 その もの に対す る攻 撃 となって しまう46。
これはネパ ール人 自身による的確 なネパ ‑ル政治の分析 である。チ ワ リは、アメ リカの フ ォー ド元大統領 が次 の大統領選挙 に負 けた ら大学教師 にで もな るだろ う、 と答 えた逸話 と対比 しなが ら、ネパ ール政治家の態度 を次の よ うに批判 した。
「もしわれわれが同 じ質問 をここで した ら、 きっと次 の よ うな答 えが返 って くるだろう。
『私 が負 け るはずがない。 それ がで きるの は票強盗 だけだ。 もし私 が負 けた ら、支持者 た ち と街頭 デモ を し、不法 な当選者 を権 力か ら追放 してや る.』 こん な態度では、民主主義 はネパ ールでは生存 で きない 47
。 」
この革命直後のチ ワ リの批判 は、右派 に も左派 に も共通す る1990年代の ネパ ール政治 の本質 を鋭 くつ いてい る。 ネパ ールで は、政治家 も政党 も、選挙や議会採決で負 けた ら、
街頭 に出て民衆 を煽 り、実力で決定 を覆 そ うとす る。彼 らには、代議制の手続 きへの信頼 、 嘘で も建前で もまず代議制 を信 じなければ自分たち自身存立 し得 ないの だ とい う覚悟が希 薄 だ。選挙 は往 々に して頭数 を数 えるよ りも頭 を叩 き割 ること(暴 力選挙)にな りがちだ し、
決定的な政治闘争 は議会内 よ りもむ しろ街頭で行われ る (街頭政治)。 そ して、そ うした 議会外の実 力闘争 を背景 に、政官軍の有力者 たちが舞台裏で取引 をす る。結局、1990年 憲 法 によ り議会制民主主義の制度 はで きたが、それ を運用す る代議政治の精神 は、10年 を経 た20世紀末 にな って も、 ネパ ールでは まだ以前 と同 じく未成熟の ままで あったので ある。
おわ りに
20世紀の終蔦 は、ネパ ール代議制 に とって も大 きな転機 とな った0
ネパ ールの代議制 は、実質的には、1990年憲法 とともに始 まったが、ネパ ールの新聞 ・
30 1990年代 ネパ ールの代議政治 (2)
雑誌 が口 をそ ろえて批判す るよ うに、90年代 の 10年間、期待 とはほ ど遠 い働 き しか し なか った。た しかにネパ ール には、極端 な低 開発、庶民 とくに地方住民の政治意識の低 さ、
D ・B・ビス タが r運命論 と開発』 48で鋭 く批判 した根深 い非民主的政治文化 、 イン ドと 中国 に挟 まれ た内陸の小国 とい う地政学上の制約 な ど、代議制 に とって不利 な条件 は多い。
しか し、それ に して も、ネパ ールの政党 や政治家の行動 には、代議制の観点 か らみれば、
問題 が多か った。彼 らは、せ っか く民主主義革命 を成功 させ 、代議制 を生み出 してお きな が ら、それ を育 て るに必要 なだけの政治的努力 を して こなか った といわ ざるをえない。
20世紀末 の ネパ ール代議制の危機 は、90年革命 に始 まる経済の資本主義化 と社会の 自 由化 に、政治の民主化 が対応 しきれていない ところに起 因す る構造的危機 で あ り、一過性 の もの とみ ると、その本質 を見誤 るO た しかにネパ ール代議制 は、21世紀 に入 って もま だか ろ うじて生 き延 びてい る。 しか し、20世紀末 に顕在化 した根本 的 な構造的矛盾 を取 り除 かない限 り、2001年6月1日の王族殺害事件49、11月下旬 の マオ イス トによる国 軍攻撃50の よ うな大事件 が今後 も発生 し、事態 は さらに悪化 し、代議制 は命脈 を断 たれて
しまうで あろう。
注
29以下、Hoftunetal.[1999],cb.4参照。
30 プ ラチ ャンダ (Prachanda)の実名 はPuspaKamalDahal。 ブラーマ ン。1954年 にポ カラの貧農の家 に生 まれ、家族 と共 にチ トワ ンに移住 。高校生の頃 、学生運動や農民 運動 を通 して共産主義 を知 り、17歳 で共産党貝にな った。 その後 、第4会議派 、モハ ン・
ビクラム ・シンのMasal、そ してMashalと、つ ねに急進左派の立場 をとって きた。
プ ラチ ャンダに次 ぐ実 力者 がBaburam Bhattarai。1954年 ゴル カ生 まれの ブ ラーマ ン。90年代 における党内の地位 はは っきりしないが、序列上第2位 で あった ことは間違 いな く、2001年 11月に人民評議会議長就任。90年代の マオ イス トは、プ ラチ ャンダと B・バ タライの二人が指導 していた。
Masal,Mashalについては、注28参照。
31Thapa,Deepakl2001],p.18.
32Prachamda[2000].以下 、特 に断 らない限 り、この インタビューを使用す るが、インター ネ ッ ト版 (RW Online)のため、ペ ージ付 けはない。
33Cf.Prachanda[n.d.],p.1.この主張 と毛沢東の 中国革命論 との関係 につ いては、毛沢 東[1968],Ⅰ,pp.4,138,155‑158,274;ⅠⅠ,p.293参照0
34毛沢東 によれば、「大国」は遊撃戦の必須の地理的条件。毛沢東 [19681Ⅱ,pp.121‑122.
35た とえば、パルパ郡 とロルパ郡 の人 口の半数弱 はマ ガール、マナ ング郡 とムス タン郡 の過半数 はグル ン。Grung[1998],p.58.
36毛沢 東 の革 命根拠地 論 につ いて は、1936年 の論 文 「中国革 命の戦略 問題 」 (毛沢東 [1968]Ⅰ所収)参照。
37Cf.Ned l'Tlhes,Sep.27lu t.30,2000;地 t.Sep.29lu t.19,2000;
r
朝 日新 聞」2000年 10月28日。谷川 昌幸 31
38Sham a[2000].
39Nem h'Tlhes,6‑12April2001;Cf.Khand[2000],p.1.
40 これ以後 、事態 は さらに悪化 し、2001年 11月21日マオ イス トは政府 との和平 交渉 を断 念 し、 中央 レベル の 人民政府 設 立 を宣 言、23日には 「人民 解 放軍
」
が初 めて国軍 を 攻撃 し、約 70名 を殺害 した。 この危機 に対 し、政府 は国家非常 事態 を宣言 、 ネパ ール はさらに全 面的 内戦 に一歩 近づ い た。谷川 [2002]参 照。
41Khand[2000],p.2.
42Ibid,p.2.
43 B・ヨギに よれ ば、 「コ ング レス覚 と統 一共産党 が選挙直前の暴 力的 マオ イス ト運動 を 非難 してい るの に対 し、分派MLは この地下政 党 の協 力 を得 よ うと してい る」(Yogi[2001], p.12).Cf.Keelinged[2000],pp.199,211.
44 Keelinged[2000],p.147.
45 谷川 [2001]参照。
46 Tiwari[1992],pp.21‑22.
47 Ibidりp.22.
48 Bista[1991] 49 谷川【2001b】
50 谷川 【20021
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