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佐久間象山における「理」と「格物窮理」

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佐久間象山における「理」と「格物窮理」

その他のタイトル A Study of Sakuma Shozan's Ideas : "Ri" and

"Kakubutsukyuri"

著者 齋藤 尚志

雑誌名 教育科学セミナリー

巻 29

ページ 1‑16

発行年 1997‑12‑15

URL http://hdl.handle.net/10112/00019430

(2)

論題:佐久間象山における「理」と「格物窮理」

《 目 次 》 はじめに

第 一 章 問 題 の 所 在

齋 藤 尚 志

第二章佐久間象山の思想展開

第三章象山における「理」の特質・転回 おわりに

はじめに

本研究は、ある価値観をもったものが異質の 価値観をもったものに接した際に、他者をどの ように理解しようとするのか、また、その過程 において生じてくる差異をどのようにみずから の価値観のなかに位置づけるか、もしくはそれ までの価値観のなかのなにをどのように解釈・

再解釈していくのか、そのような新たな価値観 の構築の過程を明らかにすることに問題意識の 発端をもつ。このことを佐久間象山 (1811 1864、文化 11 元治元、)に当てはめて述べ るとすれば、彼の生きた時代は日本近世の幕末 期・明治維新の前夜にあたる。彼は朱子学思想 に依拠しながら、だれよりも早く西洋(自然科 学)を受け入れるために葛藤し、それを具体的 に実践のうちに取り入れようとした人物であっ た。その意味で「西洋近代」に思想的に立ち向 かった人物の一人といえる。

象山の生きた時代は、それまで徳川幕藩体制 が表面的には「平和」と「安定」、ときに「豪 華奢汰」を謳歌してきたのに対し、その社会的

経済的基盤がまさに動揺しはじめた時期である。

幕府と藩の財政的窮乏や武士層個々の経済的窮 乏などはもちろんのこと、階層の分化が進んだ 農民層、また、それにともない経済力の増大し た商人層など、幕藩体制的秩序がその内面にお いて変容しはじめ、次第に崩壊の危機にさらさ れつつあった。そして、幕藩体制後期になると、

国内においては矛盾をしわ寄せされる農村で飢 饉や一揆が頻発するとともに、国外においては 西洋列強がその植民地を拡大するため、東洋へ の進出を漸次活発化し、孤立化した島国日本の 周辺を脅かすようになる。

このようななかで幕府・諸藩いずれにおいて も、現実を直視し、西洋列強の外圧や財政的窮 乏などに対応しようとして、祖法墨守の伝統と のあいだで葛藤し、改革にもがき苦しんでいた。

そのような過程を経て、徳川幕藩体制は崩壊し、

天皇制国家形成および資本主義発展の起点とし て政治的・経済的・社会的な変革がおこなわれ、

明冶維新を迎えるのであった。また、体制的な 変革にとどまることなく、同時に人々の意識の

(3)

レベル(思想)においても西洋の受容により、

伝統的な諸々の思想がなにがしかの変革を余儀 なくされるのであった。とくに当時の日本の知 識人たちは、西洋と真っ正面から向き合い、そ れを受け入れるうえで、さまざまな葛藤を経、

自らの思想を意識的・無意識的にも変容・転回 させていくのであった。

このような「近世から近代へ」という時代の 過渡期のなかで、思想または認識の変遷に焦点 をあてるとき、佐久間象山は特徴的な性格を示 してくれるのである。つまり、本研究は「近世 から近代へ」という時代の過渡期において、朱 子学者佐久間象山がどのように西洋と向き合っ たのか、また、その過程において象山の思想は どのような変容を辿っていったのか、その特質 を明らかにする。

第一章問題の所在

佐久間象山は、朱子学をもとに西洋思想と向 き合い、それを摂取していった人物として幕末 思想史に名を残している。一般に理解されてい る象山の歴史的評価を述べるとすれば、次のよ うになる。朱子学信奉者である象山は、朱子学 の格物窮理(1)を最大限に「解釈・再解釈」し ていくことで、現実の政治的実践の場で直面し た西洋自然科学による知(知識)を絶対的なも の(実理)として位置づけ、摂取していった。

そして、彼はその過程において、朱子学で説く 理(宇宙論、人性論、実践哲学のすべてを一貫

して説明しようとする理論。そのため、自然・

物に内在する理(=物理)と人間に内在する理

(=道理)とが連続的に捉えられる。)を物理 と道理とに分け、物理を重視することによって 朱子学の格物窮理と西洋自然科学との同一性を 主張するようになった。

しかしながら、象山が物理と道理とを分けた からといって、それがすなわち近代思想におけ

る精神と自然、主観と客観というような確固と した二元論的立場を取ったというわけではない。

彼は現実に即した合理的な思考を有していたと はいえ、国内の社会政治構造に対してはまった くといっていいほど疑問をもたず、逆に幕藩体 制的秩序を「天地自然・礼の大経」 (2)として 容認している。象山においては、自然科学の領 域では西洋(自然科学)を受容し、社会政治構 造の領域では朱子学思想に支えられた伝統的な 幕藩体制的秩序を容認することが、決して矛盾 するものとして捉えられることなく、逆に彼の 内面において合理的に併存しているのであった。

その場合、象山のこの特徴をよく表しているも のとして「東洋道徳、西洋芸術」という発想が 指摘される。この発想をもとに本研究の問題点 を明らかにしていくことにする。

丸山奨男は、象山の思想が伝統的「精神」と ヨーロッパ「技術」の折衷的結合という明治の 有力な思想的パターンを打ち出したという通説 に若干の修正を要するとして、 「価値判断の上 で、はっきり伝統に与しながら、認識の点では かなり彼の合理的実証的精神が生かされてい る」 (3)と主張し、 「価値判断」と「認識」と に分けて理解する。これは、象山が幕末期の国 際社会に対処していく過程でナショナリズムの 論理を形成していき、それとともに「認識主体 としての個人」を自覚化・自負化していったと いう評価をもとになされている。この「認識主 体としての個人」という自覚化・自負化が、象 山に日本・東洋・西洋などという「そとの世 界」 (象山個人以外)をすべて認識の客体とし て位置づけることを可能にし、それによって朱 子学思想と西洋(西洋近代思想)を比較検討し、

朱子学のカテゴリーを新しい状況のなかで最大 限に「読みかえ」ていくことができたとする。

丸山は、ここに象山が「認識用具の再検討」を おこなったとして、彼の思想史的意義を見出し ている。

(4)

さらに、象山はこの「認識用具の再検討」を おこなうことによって、 「歴史的な欧米文化の 中にある普遍的な価値」 (=「ヨーロッパ文明 に内在する普遍的な価値」)と同様のものを抽 出し、西洋に学ぶことができたとする。

つまり、象山は、朱子学のなかに内在する普 遍性(「合理的実証的認識方法の普遍性」)を固 く信じていたがために、それをもとにみずから の思想を現実状況のなかで最大限「読みかえ」

ることによってそこでの問題に対処していった とする。そして、象山においては、理=「真 理」として、 「漢学」 「洋学」を問わず、それ らのなかのなにが「真理」であったかが問題で あったとし、そこでの「真理」を追究すること

=格物窮理に対しても、 「格物窮理がその歴史 的な実体よりもむしろ方法的な一その限りで普 遍的な一真理としてとらえられていた」 (4)と 述べるのである。

本研究においても、丸山の立場を原則的には 認めるが、この丸山の見解には、丸山の「近 代」=「近代的思淮」と理解されるという問題 が内在している。ここでそのことにまで触れる 余裕はないが、ただ、このように究極目標とし てなにか(丸山においては「歴史的な欧米文化 の中にある普遍的な価値」 「近代」 「近代的思 惟」)を位置づけて歴史を捉えることは、歴史 がすべてそこへ向かっていくもの、いくべきも のとして捉えられ、近代以前のなかから「近代 的なるもの」を安易に抽出しかねない傾向を指 摘することができる。のちに述べるが、象山が 朱子学本来の理の立場で西洋と向き合った場合、

必然的に矛盾が生じてくる。矛盾が生じたこと で、象山においては、朱子学本来の理から象山 特有の「理」への転回があった。丸山は、象山 が「真理」を追究したと強調するあまり、そこ での転回過程を、 「読みかえ」という言葉だけ で論じている。

本研究では、この象山の理解する「理」が西

洋を受容することによって、どのような特徴を 示し、その特徴がどのような過程を経て形成さ れたのかを明らかにする。とりわけ、象山の

「理」と「格物窮理」とがどのように転回して いったのかを明らかにするために、象山の

「理」と「格物窮理」に対する、植手通有(5)、

源了園(6)、本郷隆盛(7)の三者の先行研究を 簡単に紹介しておく。

まず、植手においては、象山の理の理解が朱 子学本来の道徳性を核心とする理ではなく、物 理性の優位によって捉えられていたとし、それ によって格物窮理も「近代科学の実験的・実証 的方法に向って解釈しなお」 (8)されていった とする。そのため、象山の思考を主知的・概念 的・論理的とし、もっぱら自然科学の領域に限 定されたとし、象山は自然科学の領域でのみ

「近代」を準備したにすぎないとしている。こ のような評価から、象山が幕藩体制的秩序の変 革に目を向けず、積極的に容認したことを、た んに「社会観の弱さ」からくる「既成事実尊重 の相対主義」であるとし、象山には、 「自然」

から「社会」の解放、社会秩序は「人為の産 物」であるという認識がなく、 「社会秩序にた いする人間の主体的能動性の意識が成立J(9)  していなかったと指摘する。その一方で、象山 が西洋(自然科学)の受容に実践的積極的な態 度を示したことを、そこにおいては、武士道の 流れをひく「能動的忠誠の観念」が働いたから であるとする。象山が、かりに植手の説くよう に格物窮理を文字通り「近代科学の実験的・実 証的方法に向って解釈しなお」していったとす れば、おのずと朱子学の物理と道理との連続性、

朱子学そのものの否定へと導かれ、それこそ

「自然」から「社会」の解放、社会秩序は「人 為の産物」であるという認識のもと、幕藩体制 的秩序の変革が意識されたはずである。

次に、源においては、徳川思想史全体を「合 理主義と実証主義」の発展・展開の諸相という

(5)

視点で捉えようとし、象山もそのような視点か ら幕末期において位置づけられている。とりわ け朱子学の理が徳川思想史全体をみた場合に、

思弁的なそれと幕藩体制的秩序を基礎づけるイ デオロギーとしてのそれとのみ解釈されるばか りでなく、 「経験的合理主義」へと転化して いったことを強調する。象山の朱子学理解を明 らかにするうえでも、そこでの理の特質に焦点 をあて、象山が物理の側面を重視し、物の理を 追究する「窮理の精神」によって、象山の理が 経験合理主義的に解釈しなおされていったとし ている。

ただし、象山が物理の側面を重視したことに よって、おのずから生じる朱子学体系そのもの への疑義に関しては、実践を重んじる象山に とってはどうでもいいことであったとし、 「彼 が哲学者であれば、宇宙の実理は一つなのか、

果して朱子学は思想体系として有効なのか、首 尾一貫しているのかを問うてみなければならな かったはずである」 (10)と結論づけている。源 においては「合理主義と実証主義」の発展・展 開の諸相という視点で研究を進めているため、

その論証は「近代合理思想」への位置づけが重 視されてしまい、 「近代合理思想」では理解・

了解できないことに対しては、論評を避けてい るようにおもわれる。

最後に、象山の「理」と「格物窮理」につい て最も妥当な見解とおもえる本郷のそれについ て紹介する。本郷は、象山の理を「道徳的な意 味での正しさといった価値理念をまったく含ま ないむしろ計量的・実測的・実験的といった自 然科学的な概念、あるいはまた国際事実といっ た経験的現実であった」とし、また、 「朱子学 における仁義礼智を内容とする実体的な道徳規 範ではなく、むしろ自然科学的な実験によって 検証されるものあるいは経験的現実から機能さ れる個別の経験法則に近いものとして理解され た」 (11)としている。そして、象山が朱子学に

おける「心の理」 (道理)と「物の理」のうち 前者を否定したと捉え、格物窮理までも自然科 学の領域でのみ有効な方法概念として理解され たとしている。しかしながら、象山が「心の 理」 (道理)を否定したからといって、 「心の 理」の内容とされる仁義礼智の道徳までも否定 したということではないともいう。この点は、

本郷の「東洋道徳、西洋芸術」の解釈(12)を見 れば明らかである。

本郷は、その解釈を「思想の構造」という点 から次のように指摘する。 「道徳」は「政治・

経済・文学・宗教などあらゆる分野を内に含む それ自体自足的なー大思想体系」であるとし、

「西洋芸術」は「思想の構造からみれば『東洋 道徳』の論理のうちに包摂されるもの」、いい かえれば、 「『東洋道徳』は体すなわち本質で あり、 『西洋芸術』は用すなわちその作用なの である」と定義している。その意味で、本郷は、

「象山において東洋道徳の具体的内容をなす封 建的な政治制度やそのもとにおける封建道徳は

『窮理』を超越した普遍的価値なのである」と 位置づけるのである。しかしながら、本郷の説 では象山が「心の理」を否定した根拠として、

陽明学批判を取り上げ、 「象山は心とは知覚で あり、それは用であるとの理由」 (13)から否定 したと解釈している。だが、象山が「心とは知 覚であり、それは用である」と語っている引用 があげられておらず、象山の陽明学批判の引用 からの推測であろうと考えられる。

また、本郷の「東洋道徳、西洋芸術」の解釈 には本研究も同様の見解を示すが、本郷におい ては「心の理」が否定されたにもかかわらず、

なにゆえ「東洋道徳」が普遍的な価値として位 置づけられるのかという象山の「理」と「東洋 道徳」との論理的な関係性が必ずしも明らかに

されていない。

以上、丸山、植手、源、本郷らの先行研究を 紹介した。そこから本研究で取り上げる問題点

(6)

は、次の二点である。象山が西洋を受容する際、

朱子学の理を物理と道理とに分け、物理のみを 重視したという見解は正しいのであろうか、物 理と道理との関係性を明らかにしなければなら ない。また、 「東洋道徳、西洋芸術」の解釈と して、 「東洋道徳」が普遍的な価値として位置 づけられていったとするならば、 「東洋道徳」

と象山の思想の根本原理である「理」との関係 性はどのようなものであったのか、象山特有の

「理」を明らかにするとともに、朱子学本来の 理からの転回過程を明確にしなければならない。

第二章佐久間象山の思想展開

本章では、実践の場に焦点をあて象山の思想 展開を明らかにし、そこにおいて獲得された経 験(知)が、いかにして彼のなかで位置づけら れ、再び実践の場で作用するか、またそこにい かなる特質があったのかを考察していく。

幼時より易学・朱子学の薫陶をうけ、純粋な 朱子学者として積極的に活動していた象山がは じめて思想的に衝撃を受けたのは、天保13(1842)のアヘン戦争の報である。この事件はそ れまで象山にとって世界観の根底をなしていた 朱子学、その母国といえる清(中国)が「夷 秋」として蔑視されていたイギリスに敗れたと いう報である。前年6月、藩主真田幸貫は水戸 藩主徳川斉昭の推挙により幕府の老中、 3年 には海防掛となり、象山を顧問に抜擢して海外 の事情を研究させていた。ちょうどその頃、象 山が政治的現実の場に出るやいなやその衝撃に 襲われ、直祓的に対外的危機意識を抱くので あった。

この対外的危機意識は幕末期の国際社会を理 解するうえで、象山に限らず、知識人ならばだ れもが直面する意識であった。この意識それ自 体が直接新しい政治意識を生み出すわけではな いが、それを徹底的につきつめていけば、その

根底にある伝統的な対外観(華夷思想)を揺さ ぶることになり、新たな政治意識の前提となる。

対外的危機意識は、幕末当初においては儒教 的な華夷思想の枠のなかで論じられる。儒教的 な華夷思想とは、国と国との関係を儒教的な道 徳や礼楽が備わっているか否かという基準に よって捉え、それらが備わった国を「中華」、

備わらない国を「夷秋」として判別するもので ある。そして、前者を道徳的に優れた国、後者 を劣った国として質的差別を設け、上下の関係 により認識するものであった。象山においても 当初の対外認識は、儒教的な華夷思想の枠内で 捉えられるものであった。たとえば、天保13 (1842)1 1月の「海防に関する藩主宛上書」

において次のように述べる。 「元来道徳仁義を 弁へぬ夷秋の事にて、唯利にのみかしこく候へ ば、一旦兵乱を構へ候方、始終己れの利潤に相 成可申と見込候はゞ、柳か我に怨みなくとも、

如何様の暴虐をも可仕候へば、此方にては其怨 のなき所を持みには出来かね候義と奉存候」 (1 4)

これをみると、明らかに儒教的な道徳的基準 をもってイギリスなどの西洋諸国を認識し、利 益追求の精神のみを有するものとして「夷秋」

と呼び、侮蔑観をもって理解している。そして、

西洋諸国は利益によって行動するものであるか ら、日本に対して怨みはなくても攻め込んでく るであろうと注意を喚起している。さらに同じ 上書において、 「外寇之義は国内の争乱とも相 違仕、事勢に依り候ては、世界万国比類無之百 代聯綿とおはしまし候皇統の御安危にも預り候 事にて、独り徳川家の御栄辱にのみ係り候義に 無御座候へば、神州閾国の休戚を共に仕候事に て、生を此国に受け候ものは、貴賤尊卑を限ら ず、如何様とも憂念仕べき義と奉存候」 (15)と 述べている。このことは象山が対外的危機を日 本全体のこととして捉え、藩的規模の政治的関 心から挙国的規模のそれへの視野の拡大を示し、

(7)

幕府を相対化し、その担い手として「貴賤尊卑 を限ら」ない日本人全体に求めたことを示して いる。とくに、こうした象山の視野の拡大は現 実の場において形成されたものであるため、よ り現実主義的な色彩を帯びることになり、幕府 の祖法までも現実問題に即して改革していくべ きであると主張する。 「天下之為に立てさせら れ候御法を、天下の為めに改めさせられ候に、

何の御憚か御座候べき。平常の事は平常の法に 従ひ、非常の際は非常之制を用ひ候事、和漢古 今之通義と奉存候」 (16)

一般に、社会的・政治的危機が深刻に意識さ れてくると、朱子学のいわゆる「修身・斉家・

治国・平天下」、つまり、個人(為政者)の修 養がそのまま天下国家の安泰につながると連続

.的に考えるような論理はもはや通用しなくなり、

為政者個人の問題としてではなく、国家的(国 民的)規模で現実問題に対処しようと意識され るようになってくる。つまり、 「修身・斉家」

と「治国・平天下」との非連続性が顕著になっ てくる(17)。幕府を相対化し、当時の祖法を改 革するといった発想はなにも象山特有のもので はなく、たとえば幕末随一の名君といわれた徳 川斉昭も同様の見解を示している(18)。しかし ながら、斉昭と象山との相違は一方が一大名と して、他方が海防係顧問として対外問題に対処 したことによる。斉昭は国内のイデオロギー的 統一として、朝廷・天皇への尊崇を媒介とした 幕藩体制的秩序の安泰をはかるとともに、西洋 との通交を一切遮断し、国家的危機意識のもと に支配階級の結集をはかろうとした。象山は後 述するように幕藩体制的秩序を容認するが、日 本の国力増強、日本の国際社会における確固と した独立を保持するために、西洋諸国と積極的 な通交をおこなうことを主張するようになる。

象山は、かねてより「談兵も講学家の一端に て、本より儒術中の事に御座候。辿も入て相と なり、出て将となるの規模、無之候ては、正学

も畢覚無用に属し申候」(天保1010

月9

日付加 藤氷谷宛書簡)(19)と、兵学をも儒学の一部と して位置づけ、儒学の実用化を強調していた。

そのため軍事面のみとはいえ、西洋諸国の優位 性をはっきりと認め、いち早く同等の軍事力を 備えるよう積極的に西洋(自然科学の領域)の 受容を主張する(「海防八策」 (20))。象山の西 洋受容の結果、明らかになった日本を含む「周 公・孔子の国」と西洋諸国との根本的な違いは、

「畢覚彼の学ぶ所は其要を得、是の学ぶ所は其 要を得ず、高遠空疎の談に溺れ、訓詰・考証の 末に流れ候て、其間一、二有用の学に志し候も のありといへども、一体万物の窮理其実を失ひ 候国風にて、其論じ候事と行ひ候事と相背馳し 候風誼に候」(嘉永2年2月「I¥ルマ出版に関する藩 主宛上書」) (21)と述べるように、学術・学風 の違いにあるということであった。

東洋の学問、つまり儒学(朱子学)それ自体 は間違っていない、それを実践に生かす場合に 差が出てくると考えたのであった。理論と実践 のズレということである。そのため、 「兵法に 申所の彼を知り己を知るの義」という兵学の基 本的な教訓からの西洋受容を主張し、 「期する 所は五大洲の学術を兼備し、五大洲の所長を集 め、本邦をして永く全世界独立の国とならしむ る基礎を世に弘めむ」 (22)という後々までの彼 の国際社会における日本の歩むべき理想像(永 遠なる「全世界独立の国」)を示すようになる。

それとともに、より現実的に国際社会を捉える ようになり、海外事情探索のための留学生の派 遣や西洋知識の普及・拡大のための辞書の出版 など現実に即した合理的な主張を積極的におこ なようになる。

さらに、象山の西洋認識が深まるのは、安政 元年(1854)から文久2年(1862)までの時期、弟 子の吉田松陰に海外渡航(密航)を示唆したと して牢獄・蟄居生活を命ぜられた時期である。

たとえば、 「省魯録」において、さきの西洋受

(8)

容の態度とさほど変化することのない「攘夷的 開国論」を主張してはいるが、この時期これま での主張とは根本的に異なる特徴を示すように なる。 「『力を同じくすれば徳を度り、徳を同 じくすれば義を量る』。文王の美を称すといヘ ども、また、 『大国はその力を畏れ、小国はそ の徳に懐く』といふに過ぎず。その力なくして 能くその国を保つものは、古より今に至るまで、

吾いまだこれを見ざるなり。誰か王者は力を尚 ばずといふか」 (23)

これまでの象山は、すでに述べたように伝統 的な対外観をもとに儒教的な道徳の有無により 国際社会を認識していた。しかし、ここにおい て「徳」 「義」 (道徳)よりも「力」 (国力)

を明確に優先することになった。この国際社会 を認識するための「徳」 「義」から「力」への 基準の転回は、儒教の徳治主義的政治論のみで は「小国」にすぎず、 「大国」になるためには

「力」 (国力)が必要とされるというものであ り、その意味で幕末期の日本がもっとも必要と するのは「力」 (国力)であるということが主 張されているのである。これにより、従来の儒 教的な華夷思想の枠内では、侮蔑の対象として 認識されていた西洋の利益追求的な精神が、も し、仮にそれが国力増強となるならば容認する という転換をも促すことになる。

こうして、象山の「国力第一」主義(24)はこ の時期から次第に軍事面のみに限らず、自然科 学全般に広げられるようになる。そして、彼は

「詳証術(数学一報告者注)は万学の基本な り」(安政元年「省魯録」)(25)と学問(科学)の 根本を見きわめ、それによって獲得したものは、

「全世界の形勢、コロンビュスが究理の力を以 て新世界を見出し、コペルニキュスが地動の説 を発明し、ネウトンが重力引力の実理を究知し、

三大発明以来、万般の学術皆根抵を得、柳かも 虚誕の筋なく、悉皆著実に相成、是に由て欧羅 巴・弥利堅諸州次第に面目を改め、蒸汽船、マ

グネチセ・テレガラフ等創製し候に至り候て、

実に造化の工を奪ひ候義にて、可愕可怖模様に 相成申候」(安政536日付梁川星巌宛書簡)

(26)と著しく正確なものであった。

ここまでくると、国際関係に対する象山の理 解も、ある面において「近代」性を帯びること になる。文久2年(1862)9月の「時政に関する 幕府宛上書稿」では、象山は西洋諸国の「学行

・技巧・制度・文物」という社会・政治制度の 優秀さを認め、幕府が西洋諸国を「戎秋・夷 秋」と侮蔑観をもって呼称していたことに異議 を唱え、 「外蕃」と呼び改めるようにし、 「賓 礼を以て」接しなければならないと主張するよ うになる(27)。このような国際関係を主張する 象山を、結果として、 「実質的に近代国家の外 交原則と同じことを主張」しているとし、 「思 想史の発展段階論」に則していえば、 「儒教的 な『中華』対『夷秋』観からの近代的な国家平 等論への過渡」 (28)として位置づける評価もあ

る。

また、象山は、同年12月の「攘夷の策略に 関する藩主宛答申書」において、 「積極的開国 論」を唱えるようになる。その理由としては、

開国は冷静な国際社会の分析により「天運」で あるとされ、鎖国を持続するにしてもその手段 としては充分な「御国力」と「御伎価」がなけ ればならないとし、それらの基本前提である

「学術智巧」は国際社会のなかで切磋して長ず るものであるから、結局は手段どころか目的の 鎖国を持続することさえ不可能となると結論づ けるのであった(29)。ここには文明の発達史観

=「天運」であるという認識が成立している。

ここまで見てきたように、象山の思想展開は、

ある意味で確かに文明の発達史観にそった発展 の諸相として捉えることができる。象山自らも 自己の思想展開を振り返り、 「予、年二十以後 は、すなはち匹夫も一国に繋ることあるを知る。

三十以後は、すなはち天下に繋ることあるを知

(9)

る。四十以後は、すなはち五世界に繋ることあ るを知る」 (30)と述べている。このような象山 の国際社会における姿勢およびそこでの視野の 拡大は、先の評価のように、 「儒教的な『中 華』対『夷秋』観から近代的な国家平等論への 過渡」と解されるであろう。しかし、それはあ くまでも「体制的には」という限定が付けられ るべきである。なぜならば、象山の国家観はま ずなによりも「徳」 「義」という儒教的な徳治 主義的国家観が前提とされており、国際社会を 生き抜くために「道徳の有無」という基準から

「国力の有無」というそれへ転化したにすぎず、

当時の日本国の欠点である国力の貧弱さ、とく に学術・学風の違い、理論と実践のズレにのみ 集中されていた。逆にいえば、国の成立の大前 提として、なによりもまず「徳」 「義」が位置 づけられているため、すでに国として成立して いる日本に対して、日本の「徳」 「義」自体に は批判の目は向けられないのであった。つまり、

幕藩体制的秩序の変革への関心は、まったくと いっていいほど払われず、逆にその秩序は積極 的に容認されるのである。

その意味で象山にとって、西洋とは技術面に おいてのみ摂取されるべき対象であり、西洋の 政治形態を歴史的背景をおさえながら認識して いたにもかかわらず(31)、西洋における個人主 義、民主主義などの社会制度や思想などはその 対象とはならなかったのである。 「洋学に資し 候所は、もと政教の論に無之、唯技術器械の智 巧を極め候所を採用し、彼の侮を受け候はぬ為 の備を成し候迄に候へば、其益する所ありて損 する所なき事、益々明なる事と奉存候」 (32)。 そして、彼はその理由を、 「皇国と外蕃とは御 国体本より同じからず、夫故に又御政体も異な らざる事を得ざる義と奉存候」 (33)として、日 本と西洋の国体の相違から、政治形態をも異な

るからであると断言するのであった。

それでは、このような象山の認識はどのよう

な過程を経て、形成されたのであろうか。

すでに述べたように、象山にとって国の成立 の大前提となっていたのは、あくまでも儒教的 な徳治主義的国家観であった。彼は日本と中国 との比較によって徳治国家日本の正統性を自覚 することになる。 「既に漢土の学は、応神帝以 来御取用に相成候へ共、君臣の大義よりして、

漢土の風には流れ不申、漢土にては、諸姓替ゞ 帝王と成り候風習にて御座候所、本邦にては皇 統終古、天地と共に御長久に御座候て、人民の 欽戴奉り候事、甚深き様奉存候…」 (34)。ここ での主題は西洋受容にともなう悪影響を危惧す る声に対して反論するもので、要はかつて「漢 土の学」が輸入されてから、 「君臣の大義」を 考えた場合でも、中国では同じ儒教的徳治国家 でありながら、非連続的に「帝王」が何度も変 わってきた。しかし、日本では「皇統終古」、

天地が変わらないように連続的に天皇制が続い ている。そのため、今回西洋が受容されようと もなにも変わるはずがない、というものである。

そこには、日本の方が徳治国家としての正統性 をもつという確信が潜んでいる。象山にとって、

この徳治国家としての正統性を保つことが日本 の国体とされる。このような国体理解は、たと えば弟子の吉田松陰を取り上げることでより明 らかにされる。 「道は天下公共の道にして所謂 同なり。国体は一国の体にして所謂独なり、君 臣父子夫婦長幼朋友、五者天下の同なり。皇朝 君臣の義万国に卓越する如きは、一国の独なり。

…皇国の君臣を漢土の君臣と同一に論ずるは、

余が万々服せざる所なり」 (35)。松陰も国体の 個別性を尊重し、これを普遍的な道と混合する ことを厳しく戒め、日本と中国との確固とした 区別を主張し、日本の国体の正統性・絶対性を 主張するのであった。

また、象山は「皇国当今の御形勢は、全く漢 土三代封建の制と同様にて、大朝の御大政を被 為執候は、即ち諸侯様に御座候」 (36)とも述べ、

(10)

幕末期の日本を徳治国家として最もよく機能し た中国古代封建制と同一視して、徳治国家とし ての日本の正統性・絶対性を裏づけている。こ のように「皇統終古」という連続性を徳治国家 の正統性の根拠とした象山は、日本においては

「君臣の大義」、その内容である「四書六経の 教」を普遍的に保たなければならないとする。

「既に四書六経の教を以て其道徳を育ひ、其道 既に広く、其徳既に崇<候時は、何等のもの有 之候て圧倒し申すべき。他の圧倒を受け候と申 ものは、畢覚其修むる所の道徳、未だ至らざる 故の事に候へば、自然も其懸念有之候はゞ、ま すヽヽ其徳を脩め、其道を弘め候様有之度、身 みづから其道徳を修めずして、他の学術技芸を 娼嫉候は、抑陪劣の限りと被存候」 (37)

こうして正統性・絶対性の論理により、国体 の相違は政体の相違とされ、西洋は科学技術面 のみの受容とされるのである。そのことを言い 表したのが「東洋道徳、西洋芸術」という言葉 であり、ここでは「東洋道徳」の具体的内容を なす封建的な政治制度および封建道徳は、普遍 的な価値として位置づけられるのであった。

第三章象山における「理」の特質・転回 本章では、象山特有の「理」の理解について 考察する。そして、その象山特有の「理」が、

一方で国際認識の面において現実に即して合理 的に対処し、西洋(自然科学)を受容していき、

他方で国内認識において幕藩体制的秩序を強固 に容認したことの背後にあって、その発想を規 定する一つの原理であったことを指摘する。

まずはじめに、象山において「理」とはどの ように位置づけられていたのであろうか。 「天 地の間のことは、理・法・情の三字に外ならず。

しかれども、情と法と、不幸にして兼ぬるを得 ざれば、すなはち情を棄てて法に従ふものなり。

法と理と、不幸にして兼ぬるを得ざれば、すな

はち法を棄てて理に従ふものなり」(年代不詳

「象山文稿」より) (38)。 「理」を「情」 「法」 より上位のものとして最上位に位置づけている ことから、象山における「理」とは彼の思想の 中核をなすものであり、普遍的絶対的なもので あったことが見て取れる。

それでは、 「理」が普遍的絶対的なものにい たる過程、それによって明らかになる象山の

「理」の特質を検討していくことにする。象山 の「理」の特質・転回を解明するために、ここ では二つの点にしぼり検討を進めていく。第一 に象山の朱子学理解当初からの特徴であり、の ちの「理」の特質・転回の契機となった郡康節 (10111077、北宋の思想家)の影響、第二に そのような朱子学理解当初からの特徴と西洋受 容によって生じてくる象山の朱子学理解の特質、

その一つのカテゴリーとして格物窮理の方法概 念としての普遍化・理念化という二点である。

まず第一の点から、郡康節の象山への影響に ついては、象山自身が天保11(1840)9月に

「召隅康節先生文集」を編纂し、次のように述べ ている。 「かの宇宙を包括し、古今を終始し、

事物の変を尽して、天人の蘊を究むるに至りて は、すなはち秦漢以来、一人なるのみ。ゆゑに、

余嘗て謂へらく、物理を窮めんと欲するものは、

必ずまさに郡子より入るべし」 (39)。つまり、

物理を窮めること、朱子学の格物窮理について 郡康節の意義を取り上げている。すでに先行研 究においても、 「物の理を窮めることに非常な 関心をもち、しかも朱子学的人倫の維持につと めた邪康節は、象山に、朱子学の体系を壊すこ となく、物の理を窮める論拠を与えたと言うべ きであろう」 (40)という指摘はある。本研究に おいては原則的にはこの説に異存はないのであ るが、この説の論拠として実際に召闘康節の物理 がいかなるものであって、どのように「朱子学 的人倫の維持」につとめたのか、また、実際に どのような影響を象山に与えたのかについては

(11)

必ずしも明らかにされていない。ここで召隅康節 の思想全体をみることは不可能であるため、と りわけ象山との関連において重要とされる召随康 節の物理を中心に、彼の理解する理について、

さらにそれが朱子学における物理および理とど のような違いがあったのか、簡単に見ておくこ

とにする。

邪康節の物理・道理理解(41)を知るために、

まず「物をもって物を観る」ことを意味する

「観物」という観念にふれてみる。それは天地 万物の生成展開や事物の有様を考察することに よって、人間の存在とその意味を体系的に把握 し、世界を経綸する道を明らかにするというこ とである。そこでの天・地・人・万物の位置づ け、 「天人地参合の体系」は、まず人を天と地 の中間に存在するものとして位置づける(「天 地の 中 」)。つぎに、そこでの人は世界、ま た世界の諸々のものを把握する主体として考え られており、それによって宇宙万物に内在する 理(「物の理」)が人のなか=「心」で生起され るとする。人に内在する理は、認識主体として の人が物に内在する理を窮めることで、はじめ て明らかにされる。

ただし、ここでいう郡康節の「心」は決して 自律的主体的な心、もしくは陸王学の「心即 理」のように認識されるものではない。ここで の「心」は物・人に内在する理が顕現する「場 所」という程度に理解されるべきである。それ ゆえ、邪康節にとって「物の理」を窮めること はすなわち「人(心)の理」を窮めることであ り(物理=道理)、本来「物」と「人」とを分 別せず、従って物理の把握それ自体が人に内在 する理を顕現させるという立場であった。これ が彼のいう「先天心学」の立場であり、認識の うえで物と我とが統一的に把握され、物は我の 外なる他在ではないとされることで、 「物を もって物を観る」という発想が生まれてくる。

この「物をもって物を観る」という発想には朱

子も大いに敬意をはらっており、朱子学の格物 窮理に継承されることになる(42)

つぎに召随康節の理についてふれてみる。郡康 節の理は朱子により大成される理以前のもので あるため、実践的道徳的な当為を強いるような 理としては理解されていない(43)。楠本正継は このような邪康節の理を「自然必然の理」とい い、 「康節の立場は理の立場であることは間違 いないとしても、此人に於ては理は必ずしもそ の超越的絶対性を現実の場に強制せず、寧ろ人 間の現実生活、その個々のものに、調和を図り つつ理を伸ばしていかうとするやうな風が見え て来る」 (44)と指摘している。つまり、郡康節 の理は、朱子学のように「当に然るべき所の 則」 (法則・規範)として現実の人間社会にお いて追究される倫理的な概念としての理ではな く、ただなにが正しくなにが間違っているのか という、存在論的な概念をもって理が把握され ている。このように理を追究するということは、

物理の把握がすなわち道理の把握であり、つね に人間の内面ではなく外なる物理を追究するこ とになるため、おのずと積極的動的な思想的傾 向をともなうことになる。

このような召隅康節の物理・心理(道理) ・理 をふまえたうえで、象山における郡康節の影響 を考えてみる。先の引用のつづきから、 「今の 人は、試みにこれと物理を言へば、すなはち日 く、 『吾まさに人倫日用を窮むるにこれ暇あら ず。しかるに何ぞ物の理を窮むるに暇あらん や』と。ああ、あに人倫日用にして、物理に外 なるものあらんや。余いまだ、物理に昧くして 人倫日用に周ねきものを見ざるなり」(天保119月「召随康節先生文集序」)。象山は、当時の 儒者が往々にして経書のみに学び、 「高遠空疎 の談」に溺れていることを批判し、 「物」と

「人」を分別せずに、 「物理」が日々の道徳的 生活実践によって明らかになる「人倫日用」の 理=「道理」と結びついており、 「物理」を窮

(12)

めることが「道理」をも明らかにすることだと 主張するのである。これは郡康節の「先天心 学」の立場であり、このような意味をふまえて 象山は、 「物理を窮めんと欲するものは、必ず まさに郡子より入るべし」というのであった。

こうして象山は、こののち西洋と出会い、そ の認識を深めるにつれて、道徳的倫理的に捉え られがちであった朱子学における物理に修正を 加え、自然科学によって得られた知識を「実 理」として定義し、理を存在論的な概念として 再確認していく。それは、他方で「理」の普遍 性(絶対性)を再確認することでもあった。そ の過程において郡康節の物理および理の理解が 大きく影響を及ぼし、また西洋認識の一助とし てはたらいたことは間違いのないところであろ う。安政元年(1854)に著した「省縫録」におい て、君子の「五の楽」の一つとして「西人が理 窟を啓くの後に生れて、古の聖賢のいまだ嘗て 識らざるところの理を知るは、四の楽なり」 (4 5)と述べている。これは「古の聖賢」が理を強 度に倫理的に把握していたがために、 「格物窮 理」の対象を限定していたのに対し、 「西人が 理窟」、つまり自然科学により明らかにされた 実測的・計測的・経験的な知識までも「格物窮 理」の対象であるとされ、それを認識していく ことで「古の聖人」よりも多くの「理」を窮め ることができることへの喜びの表れであると理 解される。また、召隕康節も「古の聖賢」のうち に含まれていることを指摘しておく。それは、

象山にとって「理」の定義としては召随康節に依 拠したが、それを実践において「真」の定義と して確立したのは自分自身であるという「認識 の主体者」としての自負をもっているからであ る。その自負があったからこそ、実践的積極的 な西洋受容をおこなえたのである。

第二に、以上のような「理」の特質・転回に よって生じる象山の朱子学理解、とくに格物窮 理の方法概念としての普遍化・理念化について

である。すでにみたように象山の自然科学に対 する認識は、安政5年(1858)を迎える頃にはか なり確かなものとなっていた。しかしながら、

自然科学的認識を深めるということは、逆に朱 子学的世界観そのものの欠陥にも気づくことで

もある。

その一つの例は、すでに弘化4年(1847)1  月に友人に宛てた手紙に次のように述べられて いる。 「集註・或問にも有之候、五行より人を も生じ、人之五性も五行の道理と申事などは、

西説明かに相成り、五行之事精しく分り候て見 候へば、程朱も漢儒の菓窟を免れずして、此謬 見を成され候へども、程朱の学に随ひ、西人説 迄をも広く用ひ、斯理を講明し候時、程朱之誤 迄を弁じ候に到り申候」 (46)。人間および万物 の生成はすべて五行(気)の凝集・組合せに よって成されるもので、それと同時にその存在 のそもそもの始めにおいて、性(理)というも のを天より与えられている。気と理はあらゆる ものに同時に付与されるものであり、気はもの の形体を作り、理はものの性質・内容を決定す る。性とは個物もしくは特殊に内在する理をい ぃ、人間における性(理)は、内容的にいえば、

仁義礼智信の五常で総括されるものである。

ところで、上述の象山の発言は、一般に宇宙 生成から万物の生成へという朱子学の根本原理 および五行の働きにより人間の性が連続的に決 定されること、 「天人相関の論理」を否定した とされる。しかしながら、このことは、目的論 的追究における目的一手段(方法)の、手段

(方法)における過ちを否定したとも取れない であろうか。つまり、程朱の追究した目的であ る「天人相関の論理」、その追究の結果はもち ろんのこと、それを明らかにする方法である

「格物窮理」までも道徳的倫理的にもちいられ たために、 「人之五性」と「五行の道理」とが 同一視されるという誤ちを犯したことを指摘し ている。その意味で、あくまでも「程朱の学」

(13)

(「格物窮理」)に基づいて、 「理」を窮めるこ とは否定の対象とならないのである。また、目 的そのものである「天人相関の論理」も否定さ れていないことは、 「省魯録」において「天人 合応の理は、必ずこれなしとは謂ふべからず」

(47)と断言しているように、象山においては何 がしかの因果関係があると考えられているよう である。

象山は、 「当今の世に於て、五世界に渉り、

其あらゆる学芸・物理を窮め可申事、本より朱 子の本意たるべく候」 (48)と述べるが、このこ とは一般に朱子学における格物窮理と西洋自然 科学とを同一視し、それをもとに朱子学に依拠 しながら西洋(自然科学)を受け入れたとして 理解されている。しかし、すでに述べたことを ふまえて格物窮理と西洋自然科学について考え てみると、より厳密には、朱子学の格物窮理を 学問の「方法」 (方法概念)として普遍化・理 念化したのであって、それに則った実際の学問 として、方法概念の応用として西洋自然科学を 認めたということになる。 「学をなすの方は一 に程朱をもつて準となし、まさにもつて敬に居 りて理を窮め、序に循ひて精を致し、精粗遺さ ず、内外こもごも養ひ、もつて明体達用の学に 庶幾からんとす」(年代不詳 「象山の説」) (4  9)、また、 「学の要は、その方を得るにあり。

…今の世の学者は、口に格致の説を誦ふれども、

ややもすればすなはち、自から泰西物理の学を 外にす。これ学びてその方を得ざるなり」 (50)

と述べていることは、明らかにそのことを示し ているといえよう。

ここから象山において、朱子学の格物窮理が 学問の方法概念として普遍化・理念化されて いったことは明らかである。そして、学問の方 法概念である「格物窮理」が普遍化・理念化さ れるということは、それによって得られるもの

=「理」も普遍化・絶対化されることになる。

「宇宙に実理は二つなし。この理のあるところ

は、天地もこれに異なること能はず、鬼神もこ れに異なること能はず、百世の聖人もこれに異 なること能はず。近来西洋の発明するところの 許多の学術は、要するにみな実理にして、まさ にもつて吾が聖学を資くるに足る。…大丈夫は、

まさに大塊にあるところの学を集め、もつて大 塊になきところの言を立つべし」(年代不詳

「小林柄文に贈る」)(51)。普遍的・絶対的な 理を窮めていくことは、自らを「認識の主体 者」として自覚化していくことにつながる。そ れによって、 「天地」、 「鬼神」、 「百世の聖 人」は当然相対化されることになる。ここでの 理は、倫理的道徳的に捉えられる朱子学の理で はなく、実践の場において存在論的な追究に よって洗練され普遍化・絶対化された象山特有 の「理」である。

本章のはじめに掲げた引用もさることながら、

「天下之事に雨是雨非とては無之必ず一是のみ にて候此一是を明かに致し候為の學問に御座候 大學の格物中庸の明善易の窮理洪範の皇極皆其 事に御座候」 (52)という言葉においては、 「格 物窮理」によって追究されるべきものがより抽 象的に普遍的に表現されている。この「一是」

を明らかにするということは、具体的な現実の 場、たとえば「日本」 「東洋」 「西洋」それぞ れを認識していくうえでは、それぞれの特殊性 を認め、相対的に把握していくことを意味する。

つまり、事物の「一是」=「理」を認識すると いうことは、すべての事物に「一是」=「理」

があるという抽象的な意味では普遍的絶対的な ものとして、一つ一つの事物ごとに「一是」=

「理」があるという具体的な意味では特殊的相 対的なものとして考えられている。この発想原 理は、まさしく朱子学における理(理一分殊)

の発想(53)であり、朱子学それ自体の正統性を 観念的に定式化したのであった。その意味で、

象山にとって朱子学とは永遠に残る思想体系で あった。

(14)

おわりに

象山の思想を見る場合、そこには当初より当 時の儒者とは異なる特徴があった。召随康節の位 置づけである。郡康節の理は、朱子学本来の道 徳的倫理的傾向をもって捉えられるものではな く、むしろ、ただなにが正しくなにが間違って い る の か と い う 存 在 論 的 な 概 念 と し て の 理

(「自然必然の理」)であった。象山が西洋(自 然科学)に接することにより、朱子学の万物の 生成の論理を否定したにもかかわらず、彼の朱 子学思想が崩壊しなかったのもこのような事物 の正しい存在根拠を明らかにする郡康節の理の 理解が作用したからである。

また、西洋に接することで朱子学の欠陥に気 づき、召随康節の理の定義をより確信したことは、

学問の対象が拡大されることをともなった。象 山の「格物窮理」は、客観的な認識を得ようと する「ものの理」 (54)の追究へと向かった。そ の意味で、象山は、 「格物窮理」を方法概念と して普遍化・絶対化し、その応用として西洋自 然科学を受容したのである。それにより、象山 は洋の東西を問わず、 「理」を窮めることに努 めたのであった。そこにおける「理」は、すべ ての事物にそれらを存在させている根拠として 普遍性・絶対性を帯びる一方、すべての事物ご とにそれぞれを存在させている根拠として特殊 性・相対性を帯びるのであった。

象山が国際社会における優劣を「力」 (国 カ)の強弱で捉えたことは、国家成立の前提に

「徳」 「義」 (道徳)を置いていたとはいえ、

対等な自他認識をともなっていた。この自他認 識を深めることにより、象山は西洋諸国の国柄

・政治形態をも容認したうえで、日本には日本 の、西洋には西洋の独自の国柄・政治形態が存 在することを認めたのである。つまり、国柄・

・政治形態がととの国にも存在するという意味で

は普遍性・絶対性が認められ、それぞれの国柄

・政治形態が独自に成立し亡きたという意味で は特殊性・相対性が認められるのであった。こ の発想と同じ原理を示し、その背後にあったの はいうまでもなく、象山特有の「理」である。

ただし、日本の国体は、どこの国よりも歴史的 にその特殊性を保っているという確信のもと、

普遍的絶対的に位置づけられるのであった。

こ の よ う に 象 山 は 、 み ず か ら の 理 解 す る

「理」の変容・転回の契機として郡康節の理に 依拠し、朱子学の理を部分修正していった。朱 子学の理を部分修正したというのは、象山が理 を、形式においては朱子学の理一分殊を型とし てもちい、内容においては朱子学の理のように 倫理的道徳的に捉えることを否定し、存在論的 なものとしてより広い意味で理解したというこ とである。象山の「理」は、決して自然科学的 な概念(法則や理論)でのみ捉えられ、その意 味範囲を縮小されたのではなく、自然科学では 説明のつかないもの、たとえば日常の生活経験 によって得られる知識や「天人合応の理」など をも含んだ包括的な概念へと転回されていった のである。象山における学問の意義がただ「一 是」を明らかにすることにあったことは、その ことをまさに示している。これをもって、本研 究の主旨である幕末期における佐久間象山の思 想の特質、とくに「理」と「格物窮理」の特質 は、明らかになったとおもわれる。

《 注 》

(1)  朱子学については、島田虔次『朱子学と 陽明学』 (岩波書店 1967)、同『中国古 典選6 大学・中庸く上・下〉』 (朝日新 聞社 1978)、楠本正継『宋明時代儒学思 想の研究』 (広池学園出版部 1962)、丸 山箕男『日本政治思想史研究』 (東京大学 出版会 1952初版 1983新 装 ) 、 大 濱 皓

(15)

『朱子の哲学』 (東京大学出版会 1983)、 高橋進『宋学における理』 (金子武蔵編

動」、 「佐久間象山における儒学・武士精 神・洋学」 (『日本近代思想の形成』所収

『日本における理法の問題』所収理想社 岩波書店 4) 

1970)より多くを学んだ。朱子学の理は、 (6)  源了園『徳川合理思想の系譜』 中央公 すべての存在物が存在する限りにおいての

「根拠」 (「然る所以の故」)を与えられて いると同時に、存在したことに対して「当 為」 (「当に然るべき所の則」)を課せられ ているという二つの意味を持つ。格物致知

(窮理)は、その一つ一つの存在物に格

(=至)ってその理を把握し(格物)、正 しい認識を得ようとするもの(致知)で、

最終的には「至善の所在」 (止まるべき 所)を認識しようとする学問的方法(姿勢

・努力)とされる。 「至善の所在」とは、

事理当然の極、つまり、ものごとの理の極 致ということであり、天理が完全に実現さ れて、人欲という私的なものが全く存在し ないような人格の極致のことである。格物 致知(窮理)は、その「至善の所在」、い いかえれば、倫理的道徳的な極致を窮める ことであって、単なる博覧多聞の学でも、

自然科学的研究をも意味しない。一般に、

「居敬」が主観的学問方法といわれるのに 対し、格物致知(窮理)は客観的学問方法

といわれる。

(2)  文久29月「時政に関する幕府宛上書 稿」 日本思想大系55『渡辺単山・高野 長英•佐久間象山・横井小楠・橋本左内』

岩波書店 1  3 8頁 以 後 、

『大系』と表記する。

(3)  丸山箕男「幕末における視座の変革ー佐 久間象山の場合ー」 (『展望』 筑摩書房 5• 5月号/『丸山箕男集』第9 巻 所 収 岩 波 書 店 9 6)  引用は

『丸山箕男集』第9巻による 9(4)  同書 7

(5)  植手通有「幕末における近代思想の胎

論社

(7)  本郷隆盛「佐久間象山ー西洋受容の論理 とパターン一」 (『近代日本の思想(1)

有斐閣 9)  (8)  植手前掲書 3(9)  同書 3 1 2

(10)  源前掲書 2 7  8 頁 (11)  本郷前掲論文 I(12)  同論文 4

(13)  「象山によれば朱子学と陽明学との違い は、前者が『凡天下のものに即て其理を窮 めて智識の量を尽す』ものであるのに対し、

後者は『吾心は即ち理にて、天下之万物尽

<我に備はり候へば、吾心の理をだに窮め 候へば夫にて事済』 (1  8 〔弘化4〕 年1022日、川路聖誤宛)むと考える ところにある。」 本郷は、ここから象山 が「心とは知覚であり、それは用である」

と解釈する。 同論文 904)  『大系』 5

(15)  『大系』 6(16)  『大系』 0

(17)  「大学の一書は治国平天下を主とす。而 るに後儒のその義を術ぶる者、僅かに斉家 に至つて止み、謂へらく、治国而下、特に 挙げて之を措くのみと。夫れ治平〔治国平 天下〕の修斉〔修身斉家〕を以て本と為す は固よりなり。然れども、治平の略、談何 ぞ容易ならんや」 (寛政九年藤田幽谷封 書) 植手前掲書  0

(18)  本郷前掲論文 5(19)  『大系』 8

(20)  「其ー、諸国海岸要害之所、厳重に抱台 を築き、平常大抱を備へ置き、緩急の事に

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