• 検索結果がありません。

―第二回大東亜文学者大会にある対重慶ディスクール―

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "―第二回大東亜文学者大会にある対重慶ディスクール― "

Copied!
20
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

「大東亜」の時間、ネイティヴの時間

―第二回大東亜文学者大会にある対重慶ディスクール―

橋本 雄一

はじめに ―「自分」のなかの<両者>―

1.

「大東亜にまつろわぬ」他者、「重慶」

2.

非対称の権力言語 ―日本人のディスクール―

3.

呼びかけ、彷徨、ネイティヴ ―中国人のディスクール―

4.

中国近代文学史の語り変え ―「大東亜」による時間制御―

5.

竹内好の「重慶」あるいは近代中国 ―その時間意識―

6.

「方法」としての「中国文化」

くくり ―無化される時間、記憶される時間―

はじめに ―「自分」のなかの<両者>―

大東亜文学者大会は全三回(1942、

43

年東京で開催、

44

年南京で開催)を通して、定着した 各地の「代表者」に参加を求めた。すなわち「大東亜戦争遂行」のスローガンのもと、帝国日 本の傀儡政権や軍政下政府であった、「満洲」「蒙古」「中華」である。「台湾」「朝鮮」は帝国日 本の「領土」にあるとして「日本」の代表者のなかに組み込まれた。この五つのゾーンの認識 のされ方のすべてが帝国日本の都合によるものだった。

それがゆえに、それらのゾーンから参加した各人はみな、「参加した人間」と「参加させら れた人間」という自分の内部の両面どうしで衝突対立するという問題を抱えこんだ。参加者一 人一人のなかに格納されたこの問題の性質は、個人内部の苦しみということだけではなかった。

一人の作家が取り込まれ囲い込まれる社会環境という、戦争と植民地の場における極めて外部 的な問題としての性質を有していた。戦争=後、植民地=後、あるいは「大東亜」=後の環境 において、大東亜文学者大会に参加した一人の作家が、「参加した人間」という性質からのみ 振り返られ、「参加させられた人間」でもあったことを顧みられることが難しかったことは容 易に想像がつく。

植民地=後、「大東亜」=後にこれらの作家にたいして向けられた「参加した人間」という 事実と価値判断の視線は、大会に出席したという事実現象をのみ扱い、大きな意味で「大東亜

(2)

文学者大会」なる形骸を前提としている。そこでは「参加した人間」という主体の責任をのみ 視野に入れるので、大会という権力システムを問う作業はいったん欠落する。他方、「参加さ せられた人間」という視線は、大会を生み出した「大東亜」思考あるいは「アジア主義」が歩 を進めた時間の中で、植民地の時間・権力組織・人間関係・表象制度・言語・メディアらが作 家たちをどのように囲い取り込んでいったか、を問うことから始まる。作家の言と生の生存環 境に力を及ぼしつづけたヴィジブル・インヴィジブルな権力制度を問うこと、とも言いかえら れる。しかしまた、「参加させられた」と言ってしまえば、作家という主体による選択行為の 布置が除外される。

作家を操ろうとした外部的な権力制度を問う意味での「参加させられた人間」という 地平 を重視しつつ、事実として「参加し(てしまっ)た人間」の内部に起こった〈両者〉の引き裂 かれが、大切にされねばならない。

一方、大会に参加した日本人作家たちは、「大東亜」というシステムと思考様式に対して衝突 対立することは稀であった。「帝国日本」の完全な主人公として、大会の場に安全に立脚してい たからだ。もちろん、陸軍の報道部、報道関係者の手前という問題、またそもそも戦時におけ る思想言論と文化の統制という問題もあったが、どうあっても自分自身が大東亜文学者大会の 主人公=主語であり、「参加した」自己と「参加させられた」自己とに分裂するような、大会が 隠蔽した何か別の影響を大会参加によって被る客体=目的語である局面は少なかったと思われ る。そのような局面はやはり、先の五つのゾーンからの参加者が多く担った。帝国末期のこの 文学者大会という文法には、主語と目的語が明確に分かたれている1)

また大会のあり方として、とくに第一回(1942年

11

月)は日本人の発言は、それら外部ゾ ーンからの参加者に対して通訳なしの、日本語による声高なモノローグであった。反対に外部 ゾーンの作家の発言は日本語による通訳があり、日本人側による特権性あるいは検閲性が顕著 だった。第二回(1943年

8

月)は日本人の発言も中国語に訳されたという。

以上のことを、「アジア・太平洋戦争」末期の帝国日本による勢力版図、戦争局面の悪化、そ れがゆえの新たな「物語」の提示(「ビルマ独立」など)に並行して開催された「大東亜文学者 大会」を今日扱うための大前提としたい。

1. 「大東亜にまつろわぬ」他者、「重慶」

「大東亜」を口にするにあたって、事実と論理における一つの困難が大会にはあった。帝国 日本の「台湾」「朝鮮」への支配については不可視化したが、不可視化しきれない問題。それは、

1937

年を一つの大きな起点として始まり依然として継続している日本軍の中国大陸侵攻(日中 戦争)と、それに対抗して内陸の重慶に移転しながら本来の中華民国政府(国民党政府)が堅

(3)

持する抗日戦線、また延安を根拠地とする共産党が進める抗日戦線である。そのうち情報も多 く、大会でもとくに頻繁に言及されていく重慶政府は、「大東亜」の思考様式にとって、文字ど おり、まつろわぬ者とみなされた。

今回とくに扱う第二回大東亜文学者大会は、

1943

8

25

日から

27

日まで東京の帝国劇場 にて開会式・本会議・三分科会が、

9

3

日に大阪で「大講演会」が行われた。

8

25

日の「宣 誓」は吉川英治朗読で「大東亜戦争いまやまさに決戦の日(中略)、米英文化殲滅の最後の鉄槌 を下さざるべからず(中略)。生死を一にし相たすけて大東亜新生のための本大会を完うせん(後 略)」とした。その議場には、帝国日本の政治的スタンスと当然ながら合致して「中華民国政府」

を南京所在の親日の汪精衛政権とし、その地域の作家たちを招聘している。抗日戦争を戦う重 慶では、蒋介石政権の中華民国下の作家たち――中国の近代文学を造りかつ代表する作家たち

――が集い、抗日文化戦線を担っていた。大東亜文学者大会の第二回では、この重慶の作家た ちへの言及が非常に多く見られる。前節で述べたような性格を持ったこの文学者大会が「大東 亜」なる地理概念を扱うとき、やはり無視できなかったのがこの「重慶側」なのである2)

「大東亜」という地政学が中国大陸を含む以上、日本軍が「点」をもって制圧したいくつかの 都市を除いた大陸の圧倒的な「面」が問題に上らないわけにはいかない。まずはこの地理の意 味から、文学者大会が中華民国重慶政府下の文学者に言及する必要があった3)

大会が「重慶」にこだわるもう一つの要因は、近代中国(文学)という時間の意味であった。

1915

年ごろから始まる『新青年』誌といった新しい文化メディアから発信されていく「文学革 命」(伝統的な書きコトバ文学の打破、近代口語文学の主張、、、、、、)、それに連なる五四新文化 運動の展開(国語の文学、女性作家の登場、、、、、、)、そして日中戦争の前からの長い時間上にあ り続ける旺盛な創作、をかつて担った作家や評論家の大半が、いまや重慶にいた。そのような 文学者たちとともにあった中国近代文学という歴史空間を、帝国日本の「大東亜」は無視でき なかったのである。

第二回大会での発言において、「大東亜戦争」開始いらい明確な「敵国」であるイギリスとア メリカ(の「文化」・「思想」)を否定するのはもちろん再三であるが、「大東亜共栄圏」内で敵 視されている場所はこの重慶政府だけである。しかもそこの文学者たちを「こちら側」へ取り 込む「工作」が一定の緊張感をもって提起されていく。「大東亜」にまつろわぬが、それゆえに まつろわせるべきという、帝国日本が想定した「大東亜」内部における境界、かくて「大東亜」

の限界を指し示す問題スペース。それが重慶だった。

2. 非対称の権力言語 ―日本人のディスクール―

重慶の文学者にかんする日本人側の発言は、第二回大東亜文学者大会において、二種類に分

(4)

かたれる。一つは、あくまで相手を「大東亜」なる精神文化 4)に取り込もうとする主張。もう 一つは、重慶在住の作家たちはもはや中国作家の「旧世代」であるから、それよりも今後を担 う新たな世代である「和平地区」(つまり、親日の汪精衛政権ゾーン)の作家のみを相手にすれ ばいい、という主張である。

前者には小田嶽夫(作家)、高田真治(中国思想研究、東京帝大教授)、一戸務(作家)らの 発言が目立ち、後者には藤田徳太郎(日本文学研究)、草野心平(詩人)などの発言がある。以 下、それらの該当部分を列挙してみる。

2.1. 「重慶側を我々のほうへ取り込むべき」という主張

まず「重慶側」を「大東亜」なる精神文化に取り込もうとする主張を見てみよう。(以下、

小論におけるすべての引用文は、発言・執筆された時代と社会の言語感覚をも考察していくた めに、当時の文化政治的な用語もそのまま引用した。また現代の仮名遣いへの変更、文中の省 略表記、一部ルビはすべて引用者による。)

「決戦下の最大急務 国内知識層獲得運動」 小田嶽夫

(前略)痛嘆に堪えませぬのは、今日東亜の一角になお我々に矛を向けて居る一部人士 を見ることであります。(中略)この重慶政権者の愚についてはここに何もいうべきこと はありませぬ。(中略)重慶地区の知識階級の獲得問題があります。(中略)何らかの方法 によってこの知識階級を早く我々の方へ引き戻すことは、東亜の文化、文運のためにも 大切なことであり、また蒋政権を名実ともに地方軍閥に墜落させることに大いに必要で あり、その大任は懸かって中国文学者の方々の双肩にあると思います。

重慶政権下の知識階級が和平地区(汪精衛政権下――引用者)に戻り、一般の民衆の心が 重慶政府より離れれば、重慶に幾百万の大軍があろうとも、これはただ幽霊のようなも のに他なりませぬ。(後略)5)

「東洋の古典復興 永遠の生命把握と活現」 高田真治

(前略)重慶政権が抗日の迷夢より醒めず、兄弟墻に鬩ぐ(兄弟、カキにセメぐ=兄弟どう しが垣根を隔てて戦う――引用者)の愚を演じ、米英の走狗となって東洋を攪乱し(ている―

―引用者)(中略)日本が中心となりまして、(中略)彼の米英思想と共産思想に禍されまし て、米英の傀儡となり、我執と偏見と欺瞞と詐謀とに捉われて、抗日に踊らされている 重慶政権下の文化人を覚醒せしめて、日満華共同の敵たる米、英、重慶に対しては武力 的撃滅とともに、これに対する文化的建設を促すことが最も緊要事であると思います。

(5)

(後略)6)

「アジア文化の擁護 重慶地区工作のために」 一戸務

(前略)重慶の方に行っている作家のなかでも、必ずしも英米文化のしみこんだ人ばか りでなく、英米文化を排撃して、中国伝統の作品に帰りたい、立派な作品を残した人が あります。(中略)個人個人の作家を見ると、まだまだばらばらのように思いました。こ れが、政治的なことと文学のことが合致するところまで行かなければ、本当の新しいア ジアの文学は生まれないだろうと思います。

もう一つ私の言いたいのは、重慶にいます英米派の作家は致し方ありませんが、真に 中国伝統の文化に目覚めている作家にも拘わらず、私共の呼びかけが向こうへ通ぜずに、

恐らく向こうで陰忍している作家がいるのではないかということを非常に考えます。そ ういう方に何等かの方法をもって書かせるならば、政治とか何か大きな問題でない、文 学の心になって、同感される作家があると思います。(中略)何とかして、そういう作家 を持ち帰りますならば、何と言っても力があるのでありますから、指導するにもよいと 思います。そういう点何とかして書かせたいと考えております。7)

ほかにも、片岡鉄兵「高らかなるものへ 東洋の古典精神に就いて」(「大阪・大講演会」8) で、中国大陸から大会に参加した多くの「代表作家」が重慶の蒋介石政権を脅かすことになろ う、などと述べている。

2.2. 「重慶に期待せず、大会参加の和平地区に期待すべき」との主張

次に、重慶在住の作家たちはもはや中国作家の「旧世代」であるから、それに期待せず、新 たな世代である「和平地区」の作家のみを相手にしようという主張を挙げてみよう。

「論説 第二回大会の成果」 藤田徳太郎

(前略)むしろ、中国側の意見であったが、その方にみるべきものがあった。即ち、重 慶側の作家たちは、すぐれた実力を持っているかも知れないが、それはもう過去の人々 であるから、たとえまだ未完成であっても、大東亜共栄圏の建設に熱意を持つ新しい青 年作家の間から、新時代の文学の燃え上がるものを見出すべきであるという論は、重慶 に走っている人々に恋々たる態度をもって、それらに呼びかけようとした今までの考え 方より、もっと進歩しているのである。重慶についている従来の中国作家とか、相も変 わらぬ客観批判的な態度で自己反省を説いたりする論者などは、もう既に今日の時代の

(6)

感覚を失っている脱落した人物であるから、相手にしない方がいい。(後略)9)

発言 草野心平

(前略)重慶派の作家を呼びかえすという運動の気持は、日本の作家に随分多いと思う のですが、むしろ私はそれよりも、新しい二十代の本当に新しい大東亜の理念を持った、

理念だけでなく感情として持っている若い青年たちから、本当の意味の大東亜的の文学 を発展させることが、最も重大ではないかと思います。(拍手)(中略)たとえばいわゆる 重慶派であって、現在上海にいるそうとう有名な作家がおりますけれども、その人たち は重慶派にも和平派にも筆を執らない。また恐らくそういう風な発表機関があるにして ももう殆ど執らないだろうというような人が沢山おります。それはすでに文学的感情を 持っていない人に、いくら呼びかけてもしようがないと思います。(後略)10)

2.3. 他者に対する非対称の権力言語

上に紹介したように、重慶政府の抗日態勢とそのもとの文学者たちについて形容する言葉に は、まず一つの特徴がある。「愚」(小田)、「抗日の迷夢」、「米英の走狗」、「抗日に踊らされて いる」(いずれも高田)、「重慶に走っている人々」(藤田)との言葉は、例えば大会開会式の谷 萩那華雄陸軍報道部長の次のような言葉の継承である。

(前略)重慶が米英の走狗となり、東亜唯一の反逆者として、未だに兄弟牆に相鬩ぐ の愚を 悛あらためないことは、実に大義が不明であり人心が不正である結果であります。同 胞としまして洵に遺憾に堪えない所であります。(後略)

矢萩那華雄「国体と歴史に大東亜必勝の栄光あり」11)

戦争を直接推し進めている軍関係者のこうした帝国文法と用語を踏襲したのが、この大会の 日本人文学者であり、「大東亜文学者大会」の正体は、その政治的な大枠のみならず、このよう な細部にも露呈している。いや、それを本気で踏襲していたかどうかよりも、日本の文学者た ちはこのような枯渇した決まり文句をどうやら苦も恥じらいも無く口に上らせているようだ。

本来自分だけの言語を扱うはずの人間たちによるこうした一律無変の話法には、大会をめぐる

「文学者」の悲しさが見えてくる。

重慶の他者を表現するさいの固定した文法の例はこのほかにもあり、「和平地区に」「引き戻 す」(小田)、「覚醒させる」(高田)、(「和平地区に」)「持ち帰って」「書かせる」(一戸)などで ある。これらの語法は、「重慶の作家を相手にしなくてもよい」と発言する者も使用しており、

(7)

「今日の時代の感覚を失っている脱落した人物」(藤田)、「呼びかえす」(草野)がそうであろ う。いずれも「大東亜」の「聖戦」を盾に、日本人を主語とし操作すべき目的語を重慶在住の 中国人作家とする非対称の権力言語であり、「同じアジア」のまつろわぬ者に対して発揮された、

「文学者」版の帝国日本語文法と言えよう。

背景には、「大東亜共栄圏」における「帝国日本」の「権威」が前提されているのは言うまで もない。この帝国日本語文法はそもそも、「大東亜文学者」の側である汪精衛政権下の若い作家 にも向けられているからだ。草野心平は前掲の発言を次のように締めくくっているのだ。

現在はまだ若い連中を誘導する上に、雑誌にはいろんな有名な人の作品を載せてお りますが、そういうものをがらっと変えるようにしていくのが、それが大東亜文学の 最初の出発ではないかと思います。

また、三日目・第三分科会で吉川幸次郎(中国文学研究)は「決戦文化交流の地盤 作家、

留学生の派遣常駐」12)と題する発言のなかでこう言っている。

ただ今の日本の文学と中国の文学との関係は、それは提携という形よりもむしろ積 極的に日本の文学が中国の文学を指導すべき状態にあるのではないかと私は考えるの であります。(中略)これは失礼な話と存じますが、私はただ今の中国の文学がたいへ ん貧困な状態にあると考えるのであります。(中略)少なくとも人類の希望というもの を朗らかに語る文学というものはこれは大変少ないと思うのであります。

「人類の希望というものを朗らかに語る文学」とは、吉川自身によって「大東亜戦争を完遂 する希望に燃えた作品」と言い換えられている。そのような作品を書くために「大東亜」運 命共同体内の異民族作家は、日本人に「誘導」され(草野)、「指導」されるべき(吉川)立 場だという感覚と意識が、日本人側には染みついていた。すでにこの運命共同体に参加した 運命共有者(帝国日本からそう認知された者)である親日地区側に対してさえ、この優越し た意識構造である。運命を共有しないばかりか抗日戦線を堅持する重慶ゾーンの他者に対し ては、先に見たように、より強い権力言語による非対称的アプローチがあったのは当然であ ろう。

3. 呼びかけ、彷徨、ネイティヴ ―中国人のディスクール―

では、大会に参加した中国人文学者の側はどのような視線と言語を、重慶ゾーンに送ったの

(8)

だろうか。以下に主なものを紹介する。

3.1. 「大東亜」文学に取りこむべきとする主張

発言 柳龍光(華北日本軍政下に活動した作家――引用者)

(前略)この会議において議決されたすべての議題は決して密密の問題でなく、総て 公開された問題であります。これはわれわれ大東亜の文学者だけでなく、あらゆる東 亜――また敵国人である米英人にも、また一面中国の一部、重慶の方面におきまして もこの影響はあり、この決議の結果が注目されているものと思います。私はこの決議 をただ決議に終わらせないで、実行に移すよう極力努力されんことをお願い申します。

(拍手)13)

3.2. 迷いの言語、あるいは彷徨の言語

「中国文学の北方に於ける発展と今後の動向 華北」 沈啓旡

(前略)今年中華民国が米英に戦いを宣し、その後中国の文学者が、文学者である以 上今起ち上がらなければならんとして、初めて中国の文壇が活発になってきた訳であ ります。

現在、中国の文学界を大きく分けてみますと、上海、北京、重慶、延安、この四つ に分けることが出来ると思うのであります。重慶と延安は英米並びにソ連の影響を比 較的重く受けておりますから、どうなりますかまだ我々には解りませんが、上海、北 京にはいずれも東方文学を中心といたしまして、中国の新しい認識、再発展の文芸復 興を目指す人々がいるのであります。(後略)14)

「日本文学界に告ぐ 中華代表」 柳雨生 (魚返善雄 訳)

(前略)一方に英米に呼応して日本に刃向かうところの重慶政府もあり、その配下に 附いている人間も決して少数ではないのであります。こういった点は皆様日本人の眼か ら見られまして必ずや理解に苦しむ点ではないかと存じます。こうした矛盾をいったい どう解釈したものでありましょうか。これについて私はこう思います、ある場合には大 多数の人間の主張が正しいこともございますが、しかし正しいことは必ずしも大多数の 人の支持を要しません。(中略)

現在中国人の中には日本人に対して必ずしも日本人を善良であると思っている人ば かりいるとは限りません。中には日本人は善良でないと考えている者もあります。そう いうわけで過去においても日支間に戦争がございました。しかし中国人の中にも少数の

(9)

人達は、日本人の大多数は決して不善良ではないということを十分見抜いております。

こう申したからとて、私は決して政治的の立場から申し上げるのではございません。私 は唯一個の文学者としての立場から申し上げるのでございます。(中略)

もしも日本の思想家、文学家の皆様が中国を本当に理解して下さらないとするならば、

日支両国間の問題は到底解決できないと考えられます。又もし中国人が日本の誠意を素 直に受け入れて協力することが出来ないと致しましたならば、それこそ我々の東亜を救 うべき道はないと考えられます。(後略)15)

3.3. 「重慶」という同胞への呼びかけ

柳龍光は前掲発言の延長で、「重慶の友に告げる」という重慶への呼びかけ声明を別におこな っている(重要な文章だと思うので、小論の末尾に【資料】として全文を訳出した)。この文は、

帝国日本の植民地ゾーン「関東州」の中国語新聞『泰東日報』8月

29

日付、「満洲国」の首都

「新京」の中国語新聞『康徳新聞』

8

29

日付、ハルビンの中国語新聞『黒龍江日報』8月

31

日付に掲載されていたことが今回判った(小論末尾の訳載は、『黒龍江日報』に依拠した)。植 民地「満洲」の中国語新聞にあって、文学者大会をめぐって重慶側に言及する記事、あるいは 大会でおこなわれた対重慶発言にかんする記事は極少であり、柳龍光の声明は突出している。

この声明文はどのような意味を持っていたのだろうか。

日本人発言は、先に見たように、重慶政府下の中国人文学者にたいして「帝国日本」「大東亜」

「聖戦」の意識構造のもとに、帝国日本の文法による一方的な価値判断をほどこし、その裏返 しに彼・彼女らを「覚醒させ」こちらの側に「引き入れる」という滑稽で暴力的な欲望も持っ ていた。これに比べて、柳龍光の文章は中国語ネイティヴ話者が直接、重慶の中国語ネイティ ヴ話者に呼びかける形式を取っており、一対一の関係が色濃い。このように相手に直接訴える 形式であるため、重慶側は“友”・“文友”・“諸氏”と呼びかけられている。相手は同胞の近代 文学の先輩たちであるゆえ、慎重な言語をも使用し、内容においても相手側の環境・思想・行 為を日本人のように激しく指弾することはない。

しかしまた、この声明の以下のようなパートは、やはり「大東亜文学者大会」の思考をその まま代弁している部分である。

こんにち諸氏が愛惜すべきと考える対象は、われらが排斥すべき対象なのである。

東亜は今や再建のときが始まり、今回挙行された文学者大会も、英米文化の徹底的な 粉砕を主要な目標として、英米思想を東亜地域から一切駆逐せんとするのである。

(10)

このような発言を現在読む場合に注意すべきは、小論冒頭にも述べたように、異民族参加者 としての柳龍光の内部にある、大会に「参加した」面と「参加させられた」面という両面がど こまでも痕を残す困難の境位を捨象しないことである。大切なのは、「参加した」(作家)か「参 加しなかった」(作家)かという、「大東亜」や文学者大会を成り立たせたシステムの問題(歴 史性)を度外視した無の弁証法ではない。参加してしまった場所という実現世界のフィールド に、弁証法では解消しえない傷痕のように刻まれかつ残されつづける矛盾と困難の境位、を見 つめることである。中国人作家を日本の「大東亜」という思考様式と人事のシステムによって 取り囲み、その上で作家にものを言わせるような、眼に見えない「大東亜」(文学者大会)の力 が、そこには必ずあるからだ。あることについて沈黙させ、あることについて発言させるよう な力が。大会において発せられた日本人作家以外の異民族作家の発言を分析するとは、その力 じたいとその力の様式(成り立ち)について考えることでもある。

3.4. 記憶の主体としての中国ネイティヴ ―帝国日本の近代戦争について―

中国側参加者として複雑な感慨を比較的詳しく留めているのが、先に挙げた柳雨生の発言で ある。

現在中国人の中には(中略)日本人は善良でないと考えている者もあります。そうい うわけで過去においても日支間に戦争がございました。

ここで言われる「戦争」が「日清戦争」まで遡って想定しているのか、「満洲事変」あるいは 日中戦争といった近い起点から言っているのか、は分からない。しかし、日本が中国大陸で展 開した戦争の歴史を一般の中国人はどのように記憶しているか、この事実と時間をめぐる記憶 の主体にかんする問題に少しでもふれようとしている。東アジアの均一の時間と均一の地理空 間を志向した「大東亜」思考をもっぱらとした大会のなかで、これは勇気を必要とする言語の 一瞬ではないだろうか。柳雨生は関連して次のようにも言っている。

もしも日本の思想家、文学家の皆様が中国を本当に理解して下さらないとするならば、

日支両国間の問題は到底解決できないと考えられます。

これも、「過去において」「日支間に戦争が」あったという中国人の消えがたい記憶を守ろう=

少なくとも言及しよう、とする言語の一瞬である。このように、彼の発言は、「大東亜戦争」よ り前の段階の帝国日本による「戦争」との連続性にかんして沈黙しない。近代中国というネイ

(11)

ティヴィティーは、日本をめぐる「戦争」の歴史性に言及せざるを得ないのだ。そのネイティ ヴィティーとしての記憶の責任を果たそうとする言語の一瞬を、日本人側は果たして受け止め ることができただろうか。もし受け止め得たとしたら、どのように受け止めたのだろうか。

3.5. 二つのディスクールのあいだの彷徨 ―「中国人」←→「大東亜」―

しかし大会で柳雨生はまた何か別のことも語っている。上記の「日本の思想家、文学家」に 対する中国への「理解」を求めた文章の直後は次のように続くのだ。

又もし中国人が日本の誠意を素直に受け入れて協力することが出来ないと致しまし たならば、それこそ我々の東亜を救うべき道はないと考えられます。

「我々の東亜を救うべき道はない」との言葉は、先の日本人側に対する中国理解の要求と対立 する。「参加した人間」と「参加させられた人間」という自分の内部の〈両者〉が衝突し、「参 加させられた」顔が言わせた/言わされたもう一つの言語である。先に見た中国人としてのや むにやまれぬ対日本言説の後には、このようにすぐに大会文法=「大東亜」言説を併用しなけ ればならない中国人作家。このことは柳雨生による同じ「講演」の別のパートからも観察でき る。

私共は必ずしも米英の文化を殊更に排撃しようというのではございません。

しかし、それがもし傲慢な他人を欺き、自らは懶惰なそういうものであるならば極力 これを排除し、そうしてこれに打ち克たなければならないと考えるのでございます。

この両種のディスクールのあいだ(最初の単文と次の複合文とのあいだにある矛盾)を行き交 い、常に大会の言語の波間をさまよっていた中国人作家がいたということだ。ひとりの中国人 作家にとって(おそらく他地域の例えば「満洲国」下の中国人作家にとっても)大会に「参加 する」+「参加させられる」という行為は、「参加した」という現象の視界あるいは現象への価 値判断を以て完結するような単純な行為ではない。そこに「参加する」+「参加させられる」

とは、複雑で困難な舞台へと登壇させられ、時間の限りなくその舞台の暗がりのさらに奥深く をさまようことに他ならなかった。それは自分自身にはね返ってくるいくつものアポリアが新 たに始まり、増殖していく地平のことだったのだ。彼・彼女らの発言を丹念に追っていけば、

そのことが分かる。

大会におけるこのような異民族作家の境遇をめぐって、朝鮮人作家や台湾人作家の方面にも、

(12)

研究シーンが今日連帯する必要があるだろう。

4. 中国近代文学史の語り変え ―「大東亜」による時間制御―

高田や一戸など日本人の発言に多いのだが、重慶の中国近代作家たちについて、ことさら「米 英思想」「英米文化」の「影響」を言い立てる。枢軸国側の帝国日本と連合国側の代表国との対 立式を、「文学」・「文化」の場にも適用するのだ。こうして、「大東亜聖戦」が宣伝する世界構 図に倣って、「大東亜文学」と重慶側の抗日文学との対立を再構成する。そのような欲望が大会 に渦巻いている。大会のこうした欲望は、谷萩陸軍報道部長など軍人出席者の直接認識「重慶 は米英の走狗」に影響を受けていることは、先にも指摘した。

しかし、重慶の中国作家、すなわち長いあいだ中国近代文学の担い手であった、またあり続 けている作家たちは、イギリスとアメリカの文学・文化からのみ影響を受けてきたわけではな い。ドイツ、イタリア、フランス、ロシア(ソ連)など他地域の近代文学史・近代国語史も大 いに参考にされ、学ばれてきたのである。当時において目下の戦争の「敵国」であるイギリス とアメリカを、「文学」・「文化」の場においても前景化するために、帝国日本の文学者たちは中 国近代文学の質を語り変えようとしたと言えるだろう。近代中国のより長いタイム・スパンが いつの時にも見えていた中国近代文学研究者、竹内好の「弄ばれる支那文学が痛ましい」16)と いう言葉をここにおいて想起するのは、間違いではないだろう。

さらに別角度から見たい。中国近代文学は確かにイギリスとアメリカの文学からも大きな影 響を受けて来た。これは事実である(文学評論家胡適のアメリカや、作家老舎や詩人徐志摩の イギリスなどを始め、留学や訪問の場所としての両地はよく知られている)。しかし、それを末 期の帝国日本の側によって都合よく批判される前にあるいはそれと同時に、中国近代人と作家 は、帝国日本が大陸に及ぼしたそれまでの行為の時間をまず想起し再確認するだろう。文学革 命から五四新文化運動、とくに後者の文化運動は、第一次世界大戦終結の

1919

年パリ講和会議 で中国における日本の利権が認められてしまったことが発端となった社会運動と、手を携えて 興っている。それは「日貨排斥」などを含んで中国の各都市で沸き起こった帝国日本とそれに 追従する中国軍閥政府に反対する運動だった。中国近代文学・文化の始まり、つまり文学・文 化による「国民・国家」形成の営みの始まりには、そのように当初から帝国日本といういわば

「敵国」がいたのも事実なのである。

近代文学の担い手となった魯迅など作家の多くが若い時期に日本に留学し、当時の日本近代 文学にも接して影響を受けた、という日中文化交流史が確かにある。しかしそのような時間の 質とパラレルに、日本は彼らの所属する「民族」「国家」にとって、早くは日清戦争から一貫し て敵対する相手でもあったことが否定できない。中国近代という時間が保存し記憶したこの意

(13)

味の質を軽視することはできない。先に取りあげた柳雨生の言うにやまれぬ言語の一瞬も、こ の質を持つ時間をめぐってであった。

大東亜文学者大会の日本側は、当たり前のように重慶に対して帝国日本の新たな「敵国」(イ ギリス・アメリカ)を叫び、自分たちと同じ時間感覚を迫り、そのことで課題としての「大東 亜」を盛り上げようとした。しかしそれは日本側のモノローグの盛り上がりに過ぎなかった。

衝突と交流の日中近代関係史という厳正な事実の土台からして、またそこから被害を受けてき た近代中国側の記憶の地平からして、都合のよいモノローグがダイアローグになる可能性は無 かったと言うほかない。

5. 竹内好の「重慶」あるいは近代中国 ―その時間意識―

文化政治的な意味での「大東亜」とは、日本帝国主義が東アジアの近隣に及ぼした支配の時 間を排除したうえで、とくにイギリス・アメリカだけの近代文化・帝国主義による東アジアの 支配という意味の政治的時間を対象化し、その限定された政治的時間が緩やかな基準で共通す る「地理」を一括する(空間への偏重)ようなビジョン=装置だった17)。1941年の「大東亜戦 争」勃発以後に顕著なように、それ以前の時間上における中国大陸への帝国日本の軍事行為と 自己像を「大東亜」ビジョンが隠すのは、当然だった。しかしさらに早くは

1931

年「満洲事変」

1937

年「支那事変」の時点にすでに、それら「事変」という名づけに明らかなように、「戦 争」の名を回避することで実態として戦争を発動・維持している自己像を迂回する「大東亜」

的なプロセスが帝国日本にはあった。このように時間をかけて、日本人の側によってトータル な実態としての時間への拒否あるいは薄めがなされ、「大東亜」なる時間感覚は醸成されていっ たと言える。

こうした「大東亜(文学)」という思考と表象のモノローグ様式に当時気づいて発言したのは、

やはり竹内好である。彼はこの文学者大会にかかわることを拒否した(例えば注

16

など)。し かしこの時期の彼について注目したいのは、大会に「参加しなかった」というその現象的視界 ではなく、中国近代文学にたいする視線を介して保たれた彼の時間意識というプロセスの地平 である。

支那事変から大東亜戦争へ、更にそれを貫いて流れる大東亜共栄圏の理念といったも のは、私たちが暗黙の中に頷きあうのと同じ形のものを、支那人に要求するのは無理で ある。(中略)

大東亜戦争によって、支那人もまた衝動を受けたことは事実である。しかし、その衝 動の受け方は、私たちの場合とは、かなり違った色彩と方向において受けたのである。

(14)

この衝動の受け方の食いちがい、東亜共栄圏の理念に対する相手の無理からぬ分らなさ、

その分らなさから逆に、私たちは、私たちの(中略)国民的感動が、特殊的であるがため に、そのままの形では相手に通用しないことの意味も覚えるのである。

一口に云えば、支那人は、大東亜戦争を支那事変の延長と考えている。

(中略)彼らは、彼らの民族運動の延長であると考える支那事変の、更に延長が大東亜 戦争であるという風に考えるようである。

竹内好「新しい支那文化」18)

日中戦争(さらにはそれ以前)から「大東亜戦争」まで帝国日本の動きを一貫してつなげて 認識する近代中国の側の時間意識を尊重する態度がここにはある。中国人という他者の行為と 時間、つまり他者の記憶を介して、竹内自身も東アジアのより連続した時間の地平へと出るこ とができた。日本人側が「大東亜(文学)」という装置を用いて限定する時間を脱し、中国人側 が「大東亜戦争を支那事変の延長」と受け取らざるを得ない事実と意識の連鎖(文字どおり「延 長」された時間)を、竹内はここで自己像(近代日本像)を映し出す鏡にしようとしている。

清沢洌の「世界を横にした文化層」(1942 年)というイメージにも通ずる、海の向こうの他地 域に生きる他者との「対話」あるいは「共有」への志向である。この竹内の姿勢は、「(相手への

――引用者)思いやりなくして何の文学ぞ」と、彼自身によって文学的に言いかえられてもいる

(「現代の支那文学」19))。

さらにこの時間意識を、竹内は大東亜文学者大会(第一回)にそくしても端的に述べる。

(日本側が――引用者)見かけの現実を真実の支那と勘違いしたために起こされたこれま でのさまざまな歴史的過誤の事例をこの際思い合わせてみることも必要ではないかと 思う。(中略)民衆の支持のない、ハッタリ文学者を担ぎ上げることによって真の文学者 を葬り去っている例は、文学者大会以外にも少なくないのである。

竹内「現代の支那文学」

小論の論者は例えば先に見た柳雨生の困難な発言の瞬間を、決して「ハッタリ文学者」のそれ とはしないものだが、竹内はここで「歴史的」という言葉を正しく使っているように思われる。

中国近代文学の軌跡と質という歴史をつかんで放さない語り手が、「大東亜」の文化的祝祭に対 峙した言語であろう。

ところで、竹内は自分が考える「大東亜」を「日本文学の栄誉のために、また支那文学の栄 誉のために」常に担保してもいた(注

16

に同じ)。例えば次のような語りである。

(15)

大東亜戦争が、支那事変を世界史的構想の中に生かしてくれたことは、私たちにとっ て、何とも云いようのない、ありがたいことである。(中略)私たちにとっては、歴史の 書き換えにも等しかった。(中略)私たちは誇り高く、自信に満ちている。ただありがた いと思うだけである。

竹内「新しい支那文化」

だがすぐに、彼はこう続ける。

私たちにとって明確極まりないこの同じ事実が、しかし、支那人一般にとっても、私 たちと同じような明確さに意識されていると考えるのは、恐らく間違いである。

(同前)

こうした「大東亜」担保と近代中国への寄り添い、という逆説は多々見られる。

重慶から見れば私たちは文化の破壊者かもしれないが、私たちがまた重慶を同じ言葉 で攻める必要はないほど、私たちの把握する文化理念は今日高次にあるのである。

(同前)

自身が理想とする「大東亜」概念への竹内の言及は、言論が統制された時代に生きた者の用 心深い前置きであったと捉えることも可能に見える。しかし恐らくそう捉えることは間違いで ある。戦後の彼による「近代の超克」論や「日本ロマン派」への言及のなかに、「腑分け」とい う彼の用語を通して、戦中から彼が理念的に担保した「大東亜」の概念は生かされているから だ。

またその「腑分け」作業は戦時中にあっては、「大東亜共栄圏を規範とする日本文化が、その 全身を支那文化に没入することによって、自らを鍛えられた輝きあるものとしてそこから引き 出す過程において、対象的に支那文化をそれ自体に新しい支那文化たらしめるようなものでな ければならぬ」(「新しい支那文化」)と難解に統合されようとしていた。つまり「大東亜」の担 保と近代中国の時間への寄り添いとを、弁証法的に解決し捩り合せようとした竹内だったのだ が、そもそもこの二つの行為は捩り合わせることが不可能なものだったのではないか。自分が 企図した理念的着地点とは裏腹に、竹内はこの二つに引き裂かれたまま、それを傷痕のように 残し続けるしかないのではないだろうか。

ここにおいて、「参加した」自分と「参加させられた」自分という数量化も解消も不可能な痕

(16)

跡を社会と自分の内部にどこまでも残し続ける文学者大会の中国人作家に、竹内好は近づいて くる。「世界を横にした文化層」とは、参加させられた中国人文学者と参加を拒否した竹内好と いう双方のプロセスのあいだにこそ、実は成立しうる可能性そのものではないだろうか。

「大東亜」をキーワードにした文学者大会という祝祭の舞台における現象的視界の問題以前に、

他者に寄り添う時間意識という竹内のトータルな地平を確認しておきたい。それはひるがえっ て、当時の「大東亜」にあった、他者の近代という時間を制限した装置性をいっそう浮き上が らせるのである。

6. 「方法」としての「中国文化」

柳龍光による重慶あて声明(小論末尾の【資料】を参照のこと)も、帝国日本の軍人・日本 人文学者のモノローグに倣っていた/倣わざるを得なかった。

私はいつも思うのだが、五四運動以来の中国文学は欧米の強い影響を受け、自由主義、

個人主義、功利主義および唯物主義などが根深く我が国の文化を侵し、結果、中国文化 は排斥に遭ったのだ。このような事情は実に痛ましいではないか。つまり、こんにち諸 氏が愛惜すべきと考える対象は、われらが排斥すべき対象なのである。

ここで、中国人作家としての彼は、「中国文化」に言及する。「欧米」「英米思想」が「我が国 の文化」=「中国文化」を侵し排斥してきた、と。ここに、中国の文化(伝統文化)を愛惜す る意識を見るのは、短絡的だろうか。中国大陸の同胞として、とにかく「中国」という一点で 大事な何かを守ろうとする感情が見えると考えるのは、間違いだろうか。さらに調査してみる 必要がある。

ただし難しいのは、いわゆる「伝統文化」という対象を否定することで形成されたのが、中 国近代文学であるという事実である。文学革命・五四新文化運動がそうであった。そのために こそ、国内の「伝統」を離れ、ヨーロッパやアメリカそして日本の近代文化形成のメソッドが 研究され、大いに参考とされた。となると、柳龍光の言う伝統的「中国文化」の危機とは、ま さに近代中国の文学者たちがその実現を求めてきたものなのである。伝統文化を危機に瀕せし めるとは中国近代化の一つの手段だった。呼びかけ声明にある反近代的時間感覚が、重慶側の 作家たちが体験してきた近代文学の時間とリンクする余地はなかっただろう。

そうなると更に考えてみたい事実がある。植民地宗主国の日本側は自分が統治する植民地現 地に対して、往々にして現地の近代以前の伝統文化を教育の場などで強調・推進した、という 事実である。「満洲国」もそうであった。現地の人間が宗主国あるいはそれに準ずる優位の支配

(17)

体による近代化の「恩恵」に浴することなしに、自分で独自に近代化してはいけないのである。

ゆえに現地独自の近代化を抑制するために、現地伝統文化が強調される。

「大東亜」という思考様式にもこの観念があった。例えばビルマも独自に独立してはいけない、

日本の「援助の下に」「独立」しなければならない。第二回大東亜文学者大会でも、高田真治は

「儒学思想」と「老荘思想」を始めとする「東洋の古典復活」をこの大会で繰り返し発言して いる(前掲「東洋の古典復興 永遠の生命把握と活現」のほかに、三日目の第三分科会におけ る発言「支那思想の新方向 偏狭を超える力と精神」)。また作家の片岡鉄兵も前掲「高らかな るものへ 東洋の古典精神に就いて」において、「東洋の古典精神」なる多分に曖昧な言葉を異 様なほどに強調している。

柳龍光による重慶側への声明文はそのような意味でも、大会の帝国日本ディスクールにとっ て、歓迎されるものだったのではないだろうか。「大東亜」というビジョンとは、帝国日本が提 供しかつ共有されるべき唯一の時間を各国・各地域現地に生きさせるとともに、それら現地が それぞれの固有の時間を生きることをも表象させるものだった。柳龍光の「中国文化」言説と は、この目的からも「大東亜」ビジョンが、中国人に現地の固有で純粋な時間と文化とされる 対象を語らせたものであった。その語りは、文学者大会の日本人たちが繰り返す「大東亜精神 に反発し、欧米近代文化に毒された重慶」に向けられている。ここには近代植民地支配の文化 構造の縮図を見る思いがする。

くくり ―無化される時間、記憶される時間―

大東亜文学者大会とは、東アジアの時間をどのように扱う場であったのか。東アジアと近代 日本の時間を制御するように働いたその時間感覚は、帝国日本とそのもとの日本人文学者・作 家によるアジア近代史の解釈の仕方あるいは解釈の無さと大いに係わっている。

しかし、そこに巻きこまれた周辺地域の異民族文学者・作家たちは、ひとりひとりが「参加 し」「参加させられ」ながら、自分の地域・国家(帝国領土内に組み込まれてしまったゾーンも 含む)が経験してきた事実と時間からやってくる記憶の波動を、現地ネイティヴとしていつも 自分の内部で格納し再生していた。

他方、衝突と交流の長いタイム・スパンを持った東アジアにいながらにして、東アジアが持 つ繊細な時間を含んだ近代の時間を無化しようとしたのが、帝国日本の装置「大東亜(文学)」 だった。そこに関わりを持つこととなった中国人作家は、現地ネイティヴとしての責任と「大 東亜」ディスクールとイベントによる暗い困難とのあいだに横たわる言語空間をさまよい続け る。その行程を考えたい。大東亜文学者大会という一色の権力の場にあっても、他者ネイティ ヴの各発言は詳細に検討していくに値することを、彼・彼女らは教えてくれる。またそれは意

(18)

識の場所を変えて、重慶や延安にあった文学者たちが大切にした東アジアの時間とはどうであ ったのかを想起するきっかけともなるだろう。

1) 第二回大会の本会議の議長は菊池寛、司会は戸川貞雄である。第一分科会の委員長は高嶋米峰、第二分科会 は白井喬二、第三分科会は川田順。三日目の本会議における第一分科会の報告者は今日出海、第二分科会は 中島健蔵、第三分科会は川田順である。すべて日本人側が占めた。

日本人参加者は、文学者・作家・軍人を問わず、憚ることなく大会の思考法をリニアに表述し、際限のない

「アジアは一つ」スローガン、また「大東亜」ディスクールを繰りかえしていく。

また、他の五つのゾーンからの異民族作家たちはそれぞれに、「日本を盟主として」などの大会用語が多い が、比較的長い発言や大会にちなんだ講演を細密に読んでいくと、自身内部の「参加させられた人間」と「参 加した人間」という<両者>の衝突対立や複雑な迷いなども観察できる。

2) 大会で日本人側は「重慶側」あるいは「重慶派」と呼んでいる。

3) 共産党根拠地の延安に行った作家たちのことは、大会の中国人参加者は稀に触れている。日本人参加者はほ とんど無視している。

4) 本会議最終日の827日に火野葦平によって「宣言」が朗読された。そこには「(前略)大東亜圏内文学者 代表再びここに参集して、大東亜精神の樹立と、その文学的創造建設を議す、東洋の伝統と矜持とを回復し、

全アジアを一とするの雄渾なる構想は既に今日茲に成るといわずして何ぞや(後略)」とある。

5) 『文学報国』第3号、1943910日、第5面(二日目の本会議にて)

6) 『文学報国』第3号、第5面(二日目の本会議にて)

7) 『文学報国』第3号、第7面(三日目の第二分科会にて)

8) 『文学報国』第4号、43920日、第4

9) 『文学報国』第2号、4391日、第1

10) 『文学報国』第3号、第7面(三日目の第二分科会にて)

11) 『文学報国』第3号、第1

12) 『文学報国』第3号、第8

13) 『文学報国』第3号、第10面(三日目の本会議)

14) 『文学報国』第3号、第3面、「東京・大講演会」

15) 『文学報国』第4号、第2面、「東京・大講演会」

16) 「大東亜文学者大会について」『中国文学』第89号、194211

17) 橋本雄一 2012 「大東亜」の中の/「大東亜」に対する“他者”――第一回大東亜文学賞と爵青「黄金的

窄門」、石軍「沃土」『中国東北文化研究の広場』第3号(「満洲国」文学研究会)

18) 竹内好 1942 「新しい支那文化」『国民新聞』東京版1942924、26、27、29日。『竹内好全集』第14

巻に所収。

19) 竹内好 1943「現代の支那文学」『月刊文章』19433月号、厚生閣

参考文献

文学報国会 1995 『文学報国』(不二出版からの復刻版)

清沢洌 2002 『暗黒日記』全3巻(ちくま学芸文庫、筑摩書房)

尾崎秀樹 1991 「大東亜文学者大会について」『近代文学の傷痕-旧植民地文学論-』(同時代ライブラリー、岩 波書店)

竹内好 1981 『竹内好全集』第14巻(「戦前戦中集」。筑摩書房)

(19)

【資料】(原文は中国語。引用者が訳出)

「重慶方面の文人に速やかなる覚醒を勧める ―中華代表発表「重慶の友に告げる」―」

柳龍光 『黒龍江日報』831

第二回大東亜文学者大会に出席した中国代表、柳龍光氏は最近の『毎日新聞』において特に「重慶の友 に告げる」とのタイトルにて一文を発表した。そこでは重慶方面の人士が火急的に英米に依存する思想を脱 却し、東亜に復帰するよう勧告している。その文章の大意は以下の如くである。

重慶の諸友よ、あなたがたはあるいは知っているかも知れない、私がいますでに大東亜各国文学界人士 の一同と東京に来たり、第二回大東亜文学者大会に出席していることを。大会は今月、正式開催され、中日 満各地代表の百余名が一堂に会して、真摯熱烈なる討議を始めている。

諸君はわれらの大会参加にきっと疑念を抱いているに違いない、あるいはわれらが中国文学を売り渡し、

五四運動以来の栄光の文学革命を侮辱することに係わっていると言うかも知れない。ここで私はそれらに対 して個人の見解を大まかに述べるにとどめよう。

私がいつも思い出すのは、かつて親密だった諸氏、たとえば蕭軍、沈従文、蕭乾といった青年作家の面 影である。今日これらの諸氏がどこに居住して抗日運動に従事しておられるか、もはや知るすべもない。し かしどうか諸氏に私の話すところを聴いて頂きたいと願うのである。

諸氏による五四運動後からの中国における文学活動は、早くから日本文学者が十分理解し、かつたいへ ん尊重するところである。たとえば魯迅先生たち中国文学界の先輩は、みな日本文学者もひとかたならず敬 仰し、日本の作家、小田嶽夫の著作である『魯迅伝』は、日本作家の中国作家に対する理解の心情があふれ ている一例である。こうした例はほかのどんな国にも見られないというのが本当のところである。

さらに言えば、中国がこのような輝かしい文学の歴史を持ってきたのは、常に日本の支援があったから である。日本は中国の文学を減退させようと願ってはいない。それとは反対に、中国文学の発展を真剣に手 助けしようと願っているのである。諸氏はなぜ日本の真意を誤解し、隣どうしの垣をめぐって争うのか。

私はいつも思うのだが、五四運動以来の中国文学は欧米の強い影響を受け、自由主義、個人主義、功利 主義および唯物主義などが根深く我が国の文化を侵し、結果、中国文化は排斥に遭った。このような事情は 実に痛ましいではないか。つまり、こんにち諸氏が愛惜すべきと考える対象は、われらが排斥すべき対象な のである。東亜は今や再建のときが始まり、今回挙行された文学者大会も、英米文化の徹底的な粉砕を主要 な目標として、英米思想を東亜地域から一切駆逐せんとするのである。

重慶の友人たちよ、いま私は東京にあって、諸氏がかつて交流された武者小路実篤や佐藤春夫といった 日本作家と同席して語り合っている。彼らは昔とは異なっているが(「年を召されたが」の意味か――訳者) 郭沫若夫人は今なお子供たちとこちらに生活しているが、日本の作家はこれまで郭氏に対して批判したこと はない。これは小さなことではあるが、このことからしても日本作家ないし日本人がいかに諸氏のことを理 解しているか、また諸氏への敬愛の念が深いか、を想像できよう。

諸氏よ、今回の文学者による大会は、外交官や政治家たちの会議と違って、純然と公開し、いささかの 秘密性もない。みな誠実に相まみえること、「同生共死」の精神と「協議共同」の使命を以てするのである。

私はここに敢えて確言する、大東亜における将来の文化・文学の理念と基礎は、すべてこの大会のなか から生まれるのだと。

諸氏よ、速やかに英米文化思想を脱却し、こちらの陣営に参加されんことをお願いする。諸氏が必ずや 我らと同行されるであろうと、われらは確信するものである。ここに諸氏が来たるのを静かにお待ちする次 第である。

(20)

“大东亚”的时间与当地人的时间

―第二届大东亚文学者大会中关于“重庆”的话语―

HASHIMOTO Yuichi

一九四三年八月二五日到二七日这三天间,在日本东京举行了第二届大东亚文学者大会。其 目的是,如何利用“文学”这样的工具去支援帝国日本于一九四一年发动的“大东亚战争”――

这一紧要问题的共同分析和共同把握。参加这次大会的作家和文学研究者不仅限于日本人,还有 来自“满洲国”、亲日内蒙古政权、华北日军政府、亲日南京政府等历史环境下的中国作家和蒙古 族作家。台湾作家和朝鲜作家虽也有参加,但是日本帝国主义机构和日本文学家都认为他们是“日 本人”。所以现在可以明确断定这场大东亚文学者大会(统共有三届)是在帝国日本的“大东亚”

这样的政治机构、思考和话语制度的暴力之下实现的一种文化政治性的会议。

本论文在上述认识之下关注的是:第二届大东亚文学者大会上由出席的一批日本和中国的文 化界人士对于在中国重庆政府之下进行抗日文化战线的作家们的发言。

通过有关“重庆”的历史发言,首先分析于“大东亚”意识之下日本作家和学者对异民族作 家所形成的“优越”语言。他们故意无视或忽视从甲午战争以来日本帝国主义对现代中国所采取 的一系列军事行动和战争,以此意欲控制甚至取消东亚此种意义上的时间,只着眼目前的“大东 亚战争”时间,也就是一味地只强调英美“敌国”所带给亚洲的某种巨大影响。本论文主张这就 是当时的日本人所拥有的“大东亚”的时间感觉。

接下来本论文试图去分析参加大会的每个中国作家所不能放弃的时间意识。中国作家都持有

「自己参加大会」和「被逼参加大会」这双面的自我肖像。他们·她们在大会上无论何时都保持 着这双面的自我肖像,忽而有一瞬间是表达某些顺从“大东亚”话语的言说,忽而有一瞬间是表 达一种作为“当地人”对于在历史的苦难所产生的责任感。对于中国作家来说,参加大东亚文学 者大会的行为不是可以用价值判断去责怪的最终性的行为,而是开始漂泊于帝国日本“大东亚”

的话语空间和作为现代中国人的历史记忆之间的行为。在那样的历史时代,与“大东亚”话语空 间有关的中国作家,本论者认为,无论程度如何,他们·她们永远都把这种“漂泊”的痕迹留在 自己的内部、留在当时的社会、以及一直留到今日的历史之中。

当时参加大会的日本作家和学者没有一人曾预想到中国作家所面临的自我内部的冲突和困 境。原因就是帝国日本以“大东亚”的时间感觉去控制东亚的时间,把所谓的“大东亚”思考强 加给“大东亚”中的各个地域,最后使其忘却现代中国人对于“现代”这个时间程序里的记忆。

但是本论从有关资料中证明了参加大会的中国作家在记忆里是不会忘记那样的历史困境的,也就 是说与帝国日本之间所产生的真实关系。更何况身在重庆的中华民国政府之下坚持抗日文化战线 的作家们呢? 他们·她们早在文学革命时期和五四新文学时期就开始进行改革文学语言和文学 内容,以此来反对中国传统文化上的规矩,也以此来反对外来的帝国主义。

参照

関連したドキュメント

る、関与していることに伴う、または関与することとなる重大なリスクがある、と合理的に 判断される者を特定したリストを指します 51 。Entity

731 部隊とはということで,簡単にお話しします。そこに載せてありますのは,

「他の条文における骨折・脱臼の回復についてもこれに準ずる」とある

(注 3):必修上位 17 単位の成績上位から数えて 17 単位目が 2 単位の授業科目だった場合は,1 単位と

これはつまり十進法ではなく、一進法を用いて自然数を表記するということである。とは いえ数が大きくなると見にくくなるので、.. 0, 1,

点から見たときに、 債務者に、 複数債権者の有する債権額を考慮することなく弁済することを可能にしているものとしては、

はい、あります。 ほとんど (ESL 以外) の授業は、カナダ人の生徒と一緒に受けることになりま

この大会は、我が国の大切な文化財である民俗芸能の保存振興と後継者育成の一助となることを目的として開催してまい